山の辺の道 大神神社
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山の辺の道1 (金屋の石仏〜平等寺) 
<金屋の石仏>

山の辺の道に数ある石仏で、この金屋の石仏が一番見たかったものである。山の辺の道 金屋の石仏
以前に山辺の道を歩いた折りにはここによれず歩き残していたのである。
三輪山の南にある金屋という集落にあり、釈迦如来と弥勒菩薩が、高さ約2メートル、幅約80センチの泥板岩に浮き彫りされている。
平安後期から鎌倉時代の作とされ、国の重要文化財に指定されている。
噂に違わず立派なもので見応えがある。
以前は三輪山の中腹に安置されていたが、明治初年の神仏分離令によって、現在の場所に移された。金屋の石仏は耳の悪い人に霊験があるとのことである。
山の辺の道 金屋の石仏石仏の前に、「喜多美術館」がある。
昭和63年シルクロード博を記念して開館され、西洋近代美術を中心に収蔵し、ゴッホ、ルノアール、ピカソ、須田国太郎、佐伯祐三、安井曾太郎、梅原龍三郎、藤田嗣治、熊谷守一らの作品を展示していると言うが何となくたたずまいが中途半端な感じがして入らなかった。
今度来た折りには入ろう。
山辺の道はくねくねとカーブしながら平等寺へ続いている。
八一はここで詠っている。

   みみ しふ と ぬかづく ひと も みわやま の 
              この あきかぜ を きか ざらめ や も


八一が訪れた時、石仏は路傍の木立にただ立てかけられていただけだったので、耳が悪い老女の祈る姿が寂しかったのであろう。現在の石仏は頑丈なコンクリートの堂の中にある。

ちょうど昼時だったので、途中にある日向神社で昼食にした。小さいがしっとりしたいい神社であった。「もえないゴミ」の看板が少し寂しい。ここに掲示しなければいけなかったのだろうか。

山の辺の道 金屋の石仏
山の辺の道 金屋の石仏
(平等寺へ続く石畳の山辺の道)
山の辺の道 金屋の石仏
(案内碑)
山の辺の道 金屋の石仏
(右に行けば長谷寺に行ける)
 山の辺の道 金屋の石仏
(日向神社)
山の辺の道 金屋の石仏

<平等寺>
山の辺の道 平等寺
山辺の道筋にある平等寺は、聖徳太子の開基とと伝えられている。
大三輪寺として創建されたという。
鎌倉時代の初期、慶円上人(三輪上人1140〜1223)を迎え、東西500m、南北330mの境内に、本堂、護摩堂、御影堂、一切経堂、開山堂、赤門、鐘楼堂のほか、12坊舎の大伽藍を有し三輪社奥の院として、大いに栄えたという。
室町、江戸時代には醍醐寺三宝院、南部興福寺とも深く関係し、80石の朱印地を持ち修験道の霊地でもあった。
また、慶長5年(1600年)9月15日関ヶ原の合戦で敗れた薩摩の領主、島津義弘主従がこの寺に逃げ込み11月28日まで70日間滞在し無事帰国されたという。
山の辺の道 平等寺残念なことに、明治維新になって、政府の廃仏毀釈により、大神神社を統括してきた平等寺は、金屋の石仏をはじめ61体にのぼる仏像が他所に運び出され、全ての堂塔の整理を迫られたが、現境内地の寄進を受け再興の道が開かれ、本尊秘仏十一面観世音菩薩、三輪不動尊、慶円上人像、仏足石等が守られたという。
ここでも廃仏毀釈の影響が強く出ている。政治により人も心まで荒んでくる。
これは今も昔も同じかな?
本堂は昭和62年に再建され、聖徳太子作と伝えられる本尊十一面観世音菩薩はじめ薬師如来、阿弥陀如来、地蔵菩薩、聖徳太子像等がまつられている。 
山の辺の道 平等寺
(本尊前立十一面観世音菩薩像(復元))
山の辺の道 平等寺
(山門)
山の辺の道 平等寺
(不動堂)
山の辺の道 平等寺
(本堂)
山の辺の道 平等寺 山の辺の道 平等寺 山の辺の道 平等寺
山の辺の道 平等寺
(ビンヅル様)
山の辺の道 平等寺
(二重の塔・釈迦堂)
山の辺の道 平等寺
(聖徳太子立像)
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山の辺の道2 (大神神社・若宮社・久延彦神社・狭井神社) 
<大神神社>

出発は少し遅かった。
国道を走り、大鳥居を車でくぐり、境内に車を駐車して大神神社についたときは、昼であった。山の辺の道 大神神社
大神神社に来るといつも寄る、三輪そうめんの食事どころで腹ごしらえをした。
ここのそうめんは、とびきりうまいというわけでもないが器や店の雰囲気が良く、いにしえを思い浮かべながら楽しく食事ができるのがいい。
食事のあと三輪明神の大神神社へ向かった。
たくさんの人出であった。途中に祓戸社、夫婦岩がある。そのいずれもに卵が供えられている。
ここの神様に蛇がいるから、好物の卵が供えられているのだという。
拝殿への階段の右に、衣掛杉がある。巨大な杉の木の、根本のである。奈良の神社のしめ縄は、鳥居にかかってなく面白い形をしている。これも面白い。
ここ大神神社は、広辞苑によれば、「奈良県桜井市三輪にある元官幣神社。祭神は、大物主大神(おおものぬしのおおかみ)・大己貴神(おおなむちのかみ)・少彦名神(すくなひこなのかみ)を配祀。我が国最古の神社で、三輪山が神体。本殿はない。酒の神として尊崇される。二十二社の一。大和国一の宮。すぎのみやしろ。三輪明神」
とある。
後ろの三輪山は、奈良盆地をめぐる青垣山の中でもひときわ形の整った円錐形の山で、古来から神のお山として、『古事記』や『日本書紀』には、御諸山(みもろやま)、美和山(みわやま)、三諸岳(みもろのおか)と記され、大物主神(おおものぬしのかみ)のいるお山、神体山として信仰されて、三諸の神奈備(みもろのかむなび)と称されている。

ところで、正面の大きな建物は、私は本殿だと思っていたのだが拝殿であった。
現在の拝殿は、寛文4年(1664)徳川4代将軍家綱の造営で、西向きに建っている。
江戸時代を代表する建物で、大正10年に国の重要文化財に指定されている。
拝殿に向かって右に勅使殿、左に勤番所がある。
参集殿で朱印帳に記帳してもらった。
この参集殿の中に、さざれ石が展示されている。このさざれ石は、いわれてみないと普通の砂岩の固まりみたいに思える。 君が代の「さざれ石」はこれであるが、火山地帯ではいくらもあるのではないだろうか。
山の辺の道 大神神社 山の辺の道 大神神社 山の辺の道 大神神社
山の辺の道 大神神社
山の辺の道 大神神社
(夫婦岩前の賽銭箱。卵が)
山の辺の道 大神神社
(夫婦岩)
山の辺の道 大神神社
(駄菓子屋さん)
山の辺の道 大神神社
(釜揚げそうめん)
山の辺の道 大神神社
(さざれ石)

<若宮社>
山の辺の道 大神神社
再び二の鳥居に出、看板に沿って山辺の道を歩き出した。
道の最初に若宮社に突き当たる。おだまき杉が鳥居の右手にある。
山の辺の道 大神神社
若宮社は、落ち着いた雰囲気で建っている。
若宮社からほどなく久延彦神社(くえひこじんじゃ)につく。
参道入り口には、白い大きな看板がある。

知恵の神様ということで、受験生らしい親子連れがたくさん来てお祓いを受けていた。
拝殿角に、弊がおいてあったので、頭をお祓いした。これで少しは頭が良くなるだろうか。
神社右手に小道があり、そこからは小高い丘に着く。

頂上は公園になっていて、大和平野が一望できる。
いにしえの人々もここに登って眺めただろう。
夕暮れ時はすばらしい景色となることは想像に難くない。 
山の辺の道 大神神社
(久延彦神社と参道)
山の辺の道 大神神社
(公園から、大神神社の鳥居と大和の山々が一望)
山の辺の道 大神神社

<狭井神社>

道は下りになり、降りきると狭井神社(さいじんじゃ)に着く。山の辺の道 狭井神社狭井神社は小降りだが格調がある。
狭井川のほとりにあり、大神神社の摂社の一つで、大神氏の祖神祀っている。
「狭井」とは、ヤマユリのことらしい。
境内には豊富な湧き水「御神水(ごこうすい)」があり、ペットボトルやポリ容器を持ちこんで汲んでいた。私たちはコップで飲んだ。湧き水らしくいい味である。
境内前の池のほとりには、市杵嶋姫神社(いちきしまひめじんじゃ)がある。
市杵嶋姫とは、スサノオとヒミコの三女らしい。水の守護神で七福神の弁財天になっている。 
しかし昔の神様の、名前の覚えにくいこと。
山の辺の道 狭井神社
道は狭井川を越え、ゆるい坂道を行く。
案内板に沿ってしばらく行くと、杉木立の中に玄賓庵(げんぴんあん)が見えてくる。庵は白い塀に囲われている。謡曲「三輪」のワキ、玄賓僧都の庵である。
僧都は、南都随一の碩徳であったが、当時、藤原氏の天下で、興福寺の横暴から逃れここに隠れ住んだとの説明がある。
入り口に拝観料がわりの志を入れる箱があり、私は100円入れた。
塀が少し崩れかかっているので、金額をもう少しはずんでも良いかなと思ったが、追加はしなかった。
少し心残り。 
山の辺の道 狭井神社
(そういえば赤松が多い。昔は松茸が採れただろう)
山の辺の道 狭井神社
(赤い鳥居が市杵嶋姫神社)
山の辺の道 狭井神社
山の辺の道 狭井神社
(湧き水を汲む)
山の辺の道 狭井神社
(玄賓庵は、まずこの塀が迎えてくれる
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山の辺の道3 (玄賓庵・桧原神社・相撲神社・景行天皇陵)  
<玄賓庵>

道は狭井川を越え、ゆるい坂道を行く。
案内板に沿ってしばらく行くと、杉木立の中に玄賓庵(げんぴんあん)が見えてくる。
庵は白い塀に囲われている。謡曲「三輪」のワキ、玄賓僧都の庵である。
僧都は、南都随一の碩徳であったが、当時、藤原氏の天下で、興福寺の横暴から逃れここに隠れ住んだとの説明がある。入り口に拝観料がわりの志を入れる箱があり、私は100円入れた。
塀が少し崩れかかっているので、金額をもう少しはずんでも良いかなと思ったが、追加はしなかった。
少し心残り。
山の辺の道 狭井神社 山の辺の道 狭井神社 山の辺の道 狭井神社 山の辺の道 狭井神社

<桧原神社>

玄賓庵をまわったところに、五輪の塔や地蔵様があり、その道を少し行った右手に湧き水があり行場となっている。
歩き始めて1時間くらいでやっと桧原神社についた。朱印帳記帳やあちこち見ていると時間がかかった。
桧原神社は、高い松が境内にそびえ立ち、いかにも古いたたずまいである。
祭神は、天照大神、伊弉諾尊、伊弉冉尊で三輪山にある盤座を御神体としているため、本殿はない。山の辺の道 檜原神社
「三輪鳥居」、「三つ鳥居」とか言われている鳥居があり、独特な雰囲気を醸し出している。この形はよそでは見たことがない。境内は綺麗に箒の目がたてられている。
檜原神社は天照大神を祀り、現社地は、崇神天皇の時代、宮中より初めて天照大神を豊鍬入姫命に託して遷し「磯城神籬(しきひもろぎ)」をたて、祀った「倭笠縫邑(やまとかさぬいのむら)」とされる。
大御神遷幸後もその後を崇敬し、檜原神社として引き続き祀り、「元伊勢」と今に伝えられている。
『万葉集』などに「三輪の檜原」と数多く読まれ、山の辺の道の歌枕ともなっている。西に続く台地は、大和国中を一望することができる。
朱印をもらうとき、宮司さんが、
「あ、大神神社でももらったのですか?」と聞いてきたので、
「はい、お寺も神社も一緒です。昔は一緒だったのでいいですよね」と答えた。
宮司さんは、
「そうですね。廃仏毀釈で分かれましたが、昔は一緒でしたね。あれでこの辺の文化財が散ってしまいました。あの若一宮も広大な建物群だったそうです。中のものも、今残っていれば国宝級のものばかりだったそうですよ」
「残念ですね」
「ほんとに残念です。あの当時の文物が残っていれば、もっといろんなことがわかってたと思います」
本当に残念で、当時、値打ちを理解した外国人が自国に持ち帰り残ったのがせめてものすくいである。
この廃仏毀釈で、日本人により風呂の燃料として焚かれ灰にされてしまった貴重品は数知れないという。なぜ、こんな無謀なことを行ったのか?
遡れば、江戸時代の国学者平田篤胤や富永仲基らが、明治維新後、神仏が混同されている矛盾を説き、宗教的な神道派で維新に功労のあった人に職を与えた。
その際、神道派は宗教色があまりに強いため、行政を任せるには不安があり、やむなく神社関係の職を与えたのである。彼らは、当然神仏が混同して祀られているのが気に入らず、神仏の混合をやめさせようとした。
そして、ついには全国的に廃仏毀釈の運動を展開したのである。こうして全国の寺社は、神道の神社になるか仏寺になるか決めざるを得なくなった。
当時の特徴的な例としては、奈良興福寺が売りに出され、5重の塔は250円だったという。
買った商人が解体しようとしたが、解体費用が高く付き断念し、火をつけて焼こうとしたが周辺の住民が火の粉で被害があるということで反対し、残った。今は国宝として、凛としてある。
もし廃仏毀釈がなければ、熊野古道の九十九王子社は残り、熊野古道の景色もずいぶんと違ったものになっているはずである。
途中の道端に大和の青垣の掲示板がある。

  大和は国のまほろば たたなずく青垣 山ごもれる大和し 美わし

と倭健命が古事記にうたっている、ここ奈良盆地は、生駒山地や矢田丘陵、三輪の山々などから垣根に囲まれたようになっているのでこの名が付いた。このあたりは大和青垣国定公園に指定されている。
山の辺の道 檜原神社
(湧き水のある行場)
山の辺の道 檜原神社
(玄賓庵近くの地蔵様
山の辺の道 檜原神社 山の辺の道 檜原神社 山の辺の道 檜原神社
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山の辺の道 ちょっと寄り道 (纏向遺跡発掘現場 現地説明会)
邪馬台国はどこか、という議論。若い頃調べた。
小説家では松本清張や黒岩重吾などをよく読んだが考古学的にも結論は出ていない。山の辺の道 纒向遺跡邪馬台国論争が盛り上がったのは1960年代であったと記憶している。いったん沈静化されていたが、佐賀の吉野ヶ里遺跡は発掘されてから、俄然おもしろくなってきた。
邪馬台国がどこにあったかを、新井白石が論じて、彼は近畿説をとった。本居宣長が九州説をとった。
邪馬台国論争は、ほぼ300年の歴史である。邪馬台国について記述されているのは、三国志の魏志倭人伝だけである。その位置については、方位、陸行水行、日数で表示されているが、位置的に問題があるということである。

九州説が有力とされるのは、九州は鉄製武器が多数発掘されていることで、近畿は、三角縁神獣鏡という銅鏡が近畿を中心に多数発掘されていることである。
吉野ヶ里遺跡がでたときは、ここかなとも思ったが、私はやはり畿内説をとりたい。山の辺の道 纒向遺跡魏志倭人伝に記述されている宮室(卑弥呼宮殿)、楼櫓(物見やぐら)、城柵(城壁)らしい遺構が発見されているのと、やはり日本の国家としての成り立ちからすると畿内にあったというのが順当な気がする。ここ纒向遺跡は、2世紀から4世紀の遺跡で、住居は遺構から高床式の掘立柱建物であることが分かっている。
それに幅5メートルの運河のような溝が見つかっている。このことから、各地から有力者が集まって連合国家を形成していたのではないかと推測されている。

発掘の技術の進歩により、次々と情報が蓄積されていくだろうが、決定的なものが発見されなければ定説にはならない。5世紀にヤマト王権が確立されるのであるが、3世紀に存在したと思われる邪馬台国との関係はどうなのだろう。
いまだ解き明かされていないミステリーであるだけによけい、興味をそそられる。
小難しい歴史論議は好きではないので、古代史を楽しみながら学習していきたいと思っている。
纒向遺跡の今回の発掘は、この周辺で170年〜350年に、一大集落があったことを今に伝える貴重なものである。
さっそく発掘現場での説明会に行った。(ユーチューブ動画)

昼過ぎであったがたくさんの歴男・歴女?がたくさん順番を待っていた。本などの資料とともに地元の特産品やお土産もたくさん販売していた。発掘現場では学芸員が熱心に説明をしてくれた。
学芸員は、断定は避けたが、卑弥呼の館、そして邪馬台国は、ここ奈良だということを語った。私もそう思う。

日本の古代史最大のミステリーでロマンがある現場なのである。私は、神武天皇は渡来人で鉄器を持ち込み、日本の風土にあった勢力の拡大をしたのではないかと考えている。
天皇としての神武は存在しなかったというのが、定説ではあるが、その物語を作り出すための下敷きとしてあるのは、渡来人があちこちを征服していった事実なのではないかと思っている。
纒向遺跡には出雲や東海の土器が集まっているという。葛城地方の4世紀初めの遺跡からも、ほぼ同時代の出雲の土器が出ている。これは出雲の勢力が強く、こちらに進出してきたか、貢ぎ物として出雲から持ってこさせたことになる。

日本海に面した出雲地方は、早くから海外との交流があり、様々な情報などと共に器物も持ち込んだと思う。そのとき、何割かの人が、外国人ではなかったかと思うのである。
シルクロードを旅し、中国や韓国に来、そして日本に渡った、とは容易に想像できる。
まだそのときは日本に文字がなかったので記録が出来ていないが、当時起こったことの口伝を後に脚色し、できあがったのが古事記であり日本書紀なのではなかろうか、というのが素人の私なりの考えである。
三本足のカラス、八咫烏はエジプトにもあり、シルクロードを伝ってその話が神武東征の中に組み入れられたとしても不思議はない。

当時、日本に文字があれば、各部族がそれぞれ記録を残し、邪馬台国論議も結論づけられるが、それが不可能な今はこうした発掘での物的証拠以外ないのである。
科学技術を組み合わせた検証と粘り強い発掘調査で、少しずつ謎が解き明かされていくのは楽しみである。 
巻向遺跡  巻向遺跡
(土産物売りも)
山の辺の道 纒向遺跡
(杭の位置を示している)
巻向遺跡
(熱心に説明してくれた)
山の辺の道 纒向遺跡
(側溝跡の石積み) 
山の辺の道 纒向遺跡
(俳優 苅谷 俊介さんも説明に躍起)
山の辺の道 纒向遺跡
(刈谷俊介さん)

纒向遺跡見学の帰りに箸墓古墳を見た。
箸墓古墳は、(墳倭迹迹日百襲姫尊命(やまとととひももそひめのみこと)陵で、三輪山の麓にある。前方後円墳で、全長282m、後円部径157m、高さ22m、 前方部幅125m、高さ13mという。箸墓古墳4世紀初めの築造であるとされている。
大きさでは全国で11番目で、奈良県下では3番目の規模の大きさである。
記紀によれば、倭迹迹日百襲姫命は第7代孝霊天皇の皇女で、大物主神(大神神社の祭神)の妻とされている。
箸墓古墳はその墓という。
日本書紀には「昼は人が造 り、夜は神が造った」との記述も残る。崇神天皇十年の条に、倭迹迹日百襲姫命が死んだので大市に葬り、この墓を箸墓 (はしのみはか)とよんだ。
またこの古墳は、邪馬台国の女王「卑弥呼」の墓であると言われている。もしそうであるなら、邪馬台国があったということになる。
この箸墓古墳は現在、宮内庁による「陵墓参考地」としての指定を受けており、発掘調査ができない。調査可能にして研究すれば歴史の謎も少しは解けるのではないだろうか。宮内庁も頭を柔らかくして歴史の真実の掘り起こしに協力してほしいものである。
さて箸墓の過去にまつわるお話。
箸墓古墳崇神天皇の祖父孝元天皇の妹、倭迹迹日百襲姫命は大物主命の妻となったが、この神は、夜だけやってきて本当の姿を見せな い。姫は、まだ姿を見たことがないので夜の明けるまで居て、姿を見せてほしいといった。
神は「明朝 お前の櫛箱の中に入っていよう」と答えた。姫は朝のくるのを待ちかねて櫛箱をあけると、中に美しい小蛇がいたので驚いて泣きだした。神は人の姿に戻り「よくも私に恥ずかしい思いをさせた」といって三輪山に帰ってしまった、
姫はたいへん後悔 し、箸で陰処を突いて死んでしまった。人々はその墓を「箸の墓」と呼んで、今の残っているのである。若干ストーリーに無理はあるが、面白い。
この頃はシャーマンがあらゆることを仕切っていたので、こういう話も普通だったのだろう。
それを編纂者は脚色して面白くしたのだろう。そのことは、テレビドラマなどで、作者の思い入れによる脚色をみてもわかる。そしてそれがあたかも歴史的事実のように語り継がれていく可能性もある。だから古事記や日本書紀はまるっきり嘘ではないが、本当でもないという世界なのだと思っている。その本当のところを探り当てていくのがまたロマン。  このあたりはまだまだたくさんの面白い遺物が残されている。徐々に解明はされているが、まだまだわからないことが多い。それがまた面白いのだ。新聞などで遺跡が発見されるとわくわくする。
この辺は出雲とのつながりも密接で、未だ謎の邪馬台国が九州かここ大和であったとしても、それらを出雲が仕切っていたのではないかとも思ったりするのである。
中国や朝鮮からの、海からの玄関口としても出雲は面白いところである。
機会があれば、ここ大和と出雲のつながりを調べてみたい。



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