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飛鳥と難波を結んだ、大坂街道ともよばれる「竹内街道」を歩いてみたかった。 |
竹内街道は、長尾神社からスタートした。![]() 車を市役所に置き、長尾神社まで歩きスタートした。 神社の周囲は木が生い茂り、いかにも歴史がありそうな神社である。 長尾神社は、近鉄・御所線磐城駅、南へすぐのところにある。かなり広い神域で、竹内街道は玉垣に沿った道である。 民家の向うに、二上山の雄岳・雌岳が見えている。 長尾神社はそんな太古からの伝説に登場する古社であり、かつて飛鳥京と難波を結ぶ日本最古の官道だった竹内街道と、伊勢・長谷街道が吉野・壺阪から下田・王寺を経て堺に至る長尾街道と交差する長尾の森に鎮座している。 杜は、木が生い茂っており遠くからでもよく分かる。 祭神は水光姫命という。 鳥居の下にはカエルの石像がある。 神社の説明書によれば、むかし、大和に大きな蛇が住み、三輪山を三重にとりまき、その尾は長尾までとどいた。ということで、三輪明神が頭で、長尾神社はその尾にあたると言われている。 だから長尾というのかも知れない。 それに対してのカエルだろうか? |
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(おばあさんが休んでいる) |
(昔ながらの佇まいを見せる) |
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(何となく由緒ありげな地蔵堂) |
さて、竹内街道は二上山に向けて北に進む。 きれいに整備されていて歩きやすい。 ![]() このあたりの家屋の特徴として屋根の真ん中に藁葺きの部分を配していることで、独特な趣を醸し出している。 途中の道はまだ新しい感じできれいに舗装されている。 新しくする時、せっかくだから無電柱化にしてほしかった。 雰囲気がまるで違ってくるはずである。 そうすればこの道の価値もより高くなっていただろう。これからの日本を考えるとき、そうした景観へのこだわりが必要になってくる。 単に舗装をすればいいという時代は終わった。 途中に真新しい地蔵堂があった。 手押し車に座って休んでいるご老人に、 「これは何という地蔵さんですか?」と聞いた。 「名前もいわれもはっきりは知らないけれど由緒ある地蔵さんです」との答えが返った。ここは坂道がずっと上まであるため、お年寄りには少しきついかもしれない。それで手押し車に腰掛け休んでいた。竹内街道は「日本書紀」の推古天皇二十一年(613年)の条に、難波より京に至るまでに大道(おおじ)を置くと記されている。丹比道(たじひみち)と言われ、難波津から金岡、松原市、羽曳野市、太子町を経て竹内峠を越え、そして飛鳥へいたる官道である。 遣隋使もこの道を往来している。 司馬遼太郎さんは、この街道を国宝に値すると書いておられた。 周辺の町並みはやはり古い街道の姿を残し、往事を彷彿とさせる。違うのは当時は舗装されていなかったことである。 この道が舗装されてなく家も昔のままなら、世界遺産ものの情景であったろう。 司馬さんの時代も舗装されてなかった。 竹内集落はかつて宿場としても栄えており、現在はほとんどが普通の民家になっているが、往事は宿屋以外にも鍛冶屋・紙屋など、様々な商いがこの街道筋で行なわれていたようである。 ![]() 道はまもなく県道30号線と交差する。そこから数分で、綿弓塚がある。ここは芭蕉が訪れたということで、芭蕉自らが「野ざらし紀行」に収めている。さらに「笈の古小文」の旅の途中でも立ち寄っている。 旧家をここに移築し、休憩所としているが、なかなか感じのいい休憩スペースとなっている。建物の天井が高く、よく風が通り涼しいので、坂を上ってかいた汗が引いた。 中には司馬遼太郎さんの歌を書いた色紙や、小学校の生徒や近所の人のものらしい色紙が、いくつか飾られていた。そのどれもが、この古風な建物によくマッチしたものばかりであった。 30分ばかり休憩し外に出て少し行くと、先ほどの地蔵さんで休んでいたお年寄りが、地蔵さんのところで出会ったときと、全く同じスタイルで休んでいた。お年寄りのおうちはまだ上の方か。 綿弓塚からの町並みが、旧街道らしい風情をとどめている。 なお、綿弓とは弓形の棒に牛や鯨の髭(ひげ)の弦を張り、木綿の実を綿繰車にかけ、核を取り去っただけの綿を、弦で打って柔らかくする道具のことをいうらしい。 |
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![]() (記念碑) |
![]() (一部かやぶき屋根。いい) |
(側道脇の趣のある民家) |
![]() (休憩所) |
![]() (建物から庭を。いい感じである) |
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(倉そして柿。いかにも大和) |
道は国道166号線に突き当たるが、幹線道路らしく車の往来 ![]() 道向かいに小さな神社があり、そこでコーヒーブレイクしようと思うのだが、車がひっきりなしにくるので横断に時間がかかった。 やっとのことで渡り終えコーヒーブレイクした。 神社の階段に腰をかけ大和平野を見渡せる。 今歩いてきた竹内の道もよく見える。 瓦の甍が続いているのを見ると懐かしい気分におそわれる。コーヒーを飲みながら、昔の人も眺めたであろう大和の景色を眺めるのは、なかなかのものである。 階段に座っていると、ハイカーらしき一団がやってきた。 どうやらjかいたくさんの人を連れてここを歩く下見に来たらしい。口々に道路の危険さを言っていた。 それほどここは交通量が多い。 せめて片側だけにも歩道がほしい。 途中にお地蔵さんがあったが、交通量が多く反対側から眺めるだけにした。 車に気を付けながら、国道166号線をしばらく歩くと、灌漑用のため池がある。 見れば国道から左に折れ、その池を回る感じで道が付いていた。どうしたものかと迷っていると、通りかかった競技用自転車に乗る人が、「この道を降りていけば、旧の竹内街道です」と教えてくれた。 車の往来の激しい国道を、そのまま行かねばならないのかと思っていたので、教えてもらいありがたかった。 本来の竹内街道である。 司馬さんが子供の頃、このカミノ池で泳いだらしい。 私はこうした池をみるとバスがいるのかいないのか確かめたくなる。池からしばらく行くと南阪奈道路が見える。 ここは2回歩いているが、初めての時はまだ工事中であった。 すでに供用を開始していてたくさんの車が走っていた。これと京奈和道路がアクセスすれば、便利になるだろう。おかげで景色は台無しになってしまっている。コストがかかるだろうが、可能な限り自然を生かして、うまく両立した形での道路建設をしてほしいと思う。たとえば、せせらぎを、U字溝で囲うのではなく、河床を生かした形で流れをつくってほしい。本来の竹内街道では人に全く出会わなかった。 |
(歩道もない道が続く。国道166号線である) |
(途中にある地蔵さん) |
(街道は杉木立の中を行く) |
道は緩やかな坂道が続いている。 街道は、国道から少し落ち込んで並行しているため、頭上で車の通る音がうるさく聞こえる。緩いアップダウンの道を歩いて行くと道が行き止まりになり、階段がある。 そこからなだらかな坂を登り、国道と交わる竹内峠の頂上には、休憩所があり公園になっている。 公園としてのメンテナンスは、ぺんぺん草がブロックの間からたくさん生えていたりして、あまりいいとはいえない。 山からの湧き水を受けている水盤があったが、そこに流れ込む水は飲める感じではなかった。その昔には貴重な飲み水であったはずである。濁った原因を調べて飲める水にしてほしい。 峠は大阪と奈良の県境である。県境には碑がある。 ここできわめて日本的なものをみた。 観光案内板があるのだが、奈良県側までしか地図がないのである。ここから大阪へどう行けばいいのか。行政縦割りの現状をまざまざと見せつけられた感じがする。外国の人にどう説明していいかわからない。 どの県も観光を盛んにしたいと言いながら、こうした肝心の所での連携がない。道はすべてつながっているのである。 ここは二上山麓の竹内峠で、標高は289mである。 有名なダイヤモンドトレールの通過地点である。ガードレールの下、約10mの所をR166号が通る。景色は峠らしいロマンチックなものは皆無である。小公園になっており、あずま屋風の休憩所などがある。そこで昼食を食べた。 |
![]() (地蔵様がビールを飲んだ? 持ち帰ってほしいね) |
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![]() 昔からウグイスの名所だったらしい。 峠を越えてしばらく行くと、大阪に入る。 途中にこぎれいなお堂があった。河内国山田郷役行者遺跡である。歴史をみると、ヤマトの歴史はこの葛城地方から始まっている。その昔、役行者が葛城に現れる。役行者は実在したと続日本紀にある。役行者は葛城や吉野の山々を縦横無尽に駆け巡り、修験道の開祖となったのはよく知られている。その遺跡である。役行者についてはまた調べてみたい。吉野や熊野をいくと、弘法大師とともにこの役行者の足跡がそこかしこにある。調べる価値はある。 道は下りになるが、危なさは変わらない。万葉の森案内所や、釣り堀を右に見ながら、国道をさらに下る。 危ない国道166号線の下り坂をしばらく行くと、二上山万葉の森に着く。国道を外れ、大きな地蔵さんのある入り口を右に曲がると、水が石畳の間を流れる小さな坂道があり、数組の家族連れが登っていた。 町の人々の、憩いの場となっているようである。 公園の中程の平坦なスペースに榊莫山先生書の碑があるが、周囲によくマッチした佇まいを見せていた。 小さなあずまやがあり、そこに万葉茶粥の会の参加呼びかけ掲示板があった。 そばに茶粥をたく手作りのかまどがあり、つい最近使った形跡があった。 茶粥が好きなので、家が近くであれば寄ってみたいところである。 この公園にはいろいろ遺跡もあるようだが、時間もないので、すべてを見ることはできなかった. |
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再び国道に戻り、しばらく行くと交差点がある。 その信号からすぐのところに、道の駅「近つ飛鳥の里太子」がある。そこで休憩をした。 どこの道の駅もそうであるが、店内で売っているものも、何となくアンバランスな雰囲気で、接客態度も必ずしもいいとは言えない。 竹内街道は、道の駅を過ぎると、きれいな舗装をした緩やかな下り坂となる。 沿道には、道標や所々に昔をしのばせる旧家がある。 しかし、期待したほどの雰囲気はもうない。 車社会で、駐車場スペースを確保しようと思えば新しく家を建て直さなければならず、昔のままの建築が難しいとなれば、新建材での建物となってくる 。いつかはこの街道も、平凡な町並みとなるのだろうか?道の駅「近つ飛鳥の里太子」を過ぎて、しばらく行くと、竹内街道歴史資料館がある。 小振りではあるが近代的な建物である。もう少し、古道にふさわしいデザインで作ってほしかったという気がする。 館内は、「竹内街道」の歴史を展示とパネルで解説している。 マジックビジョンがあり、竹内街道の歴史の幕開けから現代に至るまでをビジュアルで見せている。 私たちが世界リゾート博覧会で和歌山の歴史を紹介したのと同じ手法で見せていた。内容は悪くなかった。 それ以上に面白かったのは、館長さんから、いろいろ歴史を教えていただいたことで、この歴史資料館の裏山は、鏃などの原料にするサヌカイトの産地で、今でも出ると言うことであった。館長さんは熊野には、足繁く訪問しているという。 時間があればもっといろいろお聞きしたかった。 サヌカイトはなるほどナイフにできるくらいに鋭利な割れ方をする。紙も簡単に切れた。 最初にここ二上山のサヌカイトのすばらしさを感じたのは旧石器時代の人々である。 この石を見つけたことで生活が変わったであろう。まさに文明の利器である。 ちなみにこのサヌカイトという言葉、英語かラテン語かと思っていたら、日本語だった。 讃岐の石で、サヌカイトである。ヤマトに国が興ったのも、このサヌカイトで武器が作れたからではないかと、素人ながらに思う。サヌカイトは火山活動でできる石で、この二上山周辺は、2000万年前から700万年ほど火山活動があり、そのマグマが固まるとき生み出された。1300万年前の火山活動でできた石を手に取ったわけである。 道は、国道166号線とクロスする。 信号を渡ってから、左にルートを取り、叡福寺に向かった。 国道脇は、都市そのものであるが、路地にはいるといいたたずまいのおうちもたくさんあった。 やはり歴史の拠点としての古さがうかがい知れた。街道は、綺麗だが徐々に都会との差がわからなくなりながら、続いた。 町並みは、中心部が近づくにつれて、司馬遼太郎先生がこの道を国宝にしようといったイメージからは、さらにかけ離れて行く。この辺が日本のジレンマであろう。 しかし、やはり昔ながらのかやぶき屋根の立派なおうちが何軒か残っていたので、一安心した。 この辺の建築様式らしい、すべてを茅葺きにせず、瓦とうまくミックスして屋根を構成している。デザイン的にも面白い。 |
(道の駅にいたカマキリ) |
(道の駅からすぐにある道標) |
(街道側から見た道の駅) |
(竹内街道歴史資料館) |
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(資料館口近くにある民家の倉) |
(道そばにあるお地蔵さん) |
(赤いよだれかけがかわいい) |
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(立派な倉。倉持のおうちが多い) |
(泉。貴重な水であったろう) |
(クラシックな民家の屋根) |
(いい庭と落着いた雰囲気) |
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路地を少し歩き、叡福寺にむかった。叡福寺は「上ノ太子」と呼ばれる古刹で 伝統的な建て方で、金堂、多宝塔がある。 一段高いところに聖徳太子廟がある。聖徳太子の他に太子の妃と母が祀られている。境内には、松井塚古墳石棺があるが、かなり大きい。 古墳や古代の遺物を見ていつも思うのは、道具の少ない当時によくこんなものを作れたなと言う感じである。 飛鳥時代に、竹内街道は広く世界からの使節などが往来し、遣隋使、遣唐使らの外交団も、この街道を通り中国へ渡ったという。大陸からの様々な文化を伝えた道として、にぎわったことだろう。 異国の、顔も服装違う人々が通ると、みな沿道でそれを眺めたのではなかろうか。むろん行き交う回数が増えたらなれてきて、交流がさらに深まったであろう。そんな竹内街道も、都が奈良・平城京へ遷ってからは単なる連絡道路としての役割となったのだろうか? 推古天皇の時代に活躍した聖徳太子は、この叡福寺境内に当たるところに、母の墓所を建てた。太子と妃の死後は合葬され、3人が仲良く一緒に「三骨一廟」の墓となったということである。太子の死後、その徳を偲んでの、聖徳太子信仰が盛んになるにつれ、聖徳太子廟や太子の霊をまつる叡福寺が霊場となり、この竹内街道は太子廟へ参詣する人たちの道筋となった。そして叡福寺は、現在も太子信仰の中心となっている。 この叡福寺周辺は、“王陵の谷”と言われ、私は見なかったが、推古、敏達、用明、孝徳天皇陵などがある。 さらに、小野妹子の墓と伝えられている小さな塚もある。こうした陵墓をじっくりと巡るのも面白いかもしれない。この寺の近くには、いろんな陵墓や施設がある。日蓮宗があったり、何となくオムニバス的に、それぞれ歴史を抱えている。 石棺を説明する案内板。でも句読点が、丸しかないので読みづらい。こういうところの案内板は何故重々しく書いているのだろうか? 子供にもわかるように書いてくれたら理解しやすいと思うのだが。軽く書くと、値打ちが下がるのだろうか? 竹内街道は、太子町から大阪は堺の大小路に続く。 今回は、聖和台団地を抜け、近鉄上の太子駅手前で再び国道166号にでて、この駅から、磐城駅まで戻った。 磐城駅に着いた頃は日もかなり傾いていた。 太子町に入ってからは、古道というイメージから少しかけ離れた道となるが、歴史を感じさせるいい道である。 次には、堺まで歩いてみたい。 |
(ボケ封じ。いつかお世話になろう) |
(びんずる様) |
(綺麗な形の塔である) |
(叡福寺境内にある弘法大師像) |
(日蓮上人の参詣記念?) |
(叡福寺境内の聖徳太子廟) |
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