みんながいきり立って大声を張り上げだした。
 このままじゃアカン。今すぐみんなを止めな。
 そう思った途端、頭と心臓が痛うなって立っとるのが辛うなった。
 子供の頃からたまになる症状で、色々な問題が一度に起こっても、誰にも頼れずに自分1人で解決せなならんくなった時や、先にみんながパニックを起こしてて、たまたま冷静で当事者でもある俺にしか解決できそうも無い問題が起こった時に出る。
 小学校のスクールカウンセラーもやってた医者が言うには、俺は考えなアカン事が頭の許容量を超えると、理性がぶち切れて怒り出したり、パニックを起こす前に身体が拒否反応を起こすらしい。これってただの現実逃避やし、男としてメッチャ情けない。
 医者は「子供なんだから無理に1人で解決しようとせずに、友達でも親兄弟でも良いから身近に居る誰かに相談しなさい。1人では無理でも、人に頼って協力すれば解決できると、もっと周囲を信じる事を覚えれば自然に治ります」と言った。
 けど、今回のこれも俺が解決せなアカン問題とちゃうか。
 だってこれ、誰も悪う無い。みんなが俺の事を好きやて、もっと仲良うなりたいて、思ってくれとるだけ。
 肝心の俺が思ってる事をあまり言わんから、無理してるんやないかて心配してくれとるだけや。今この場では俺だけがそれに気付いとる。
 俺はここに居るみんながメチャ良い人やて知っとる。ちゃんと順を追って話せば解ってくれる人らやて信じとる。

「酒井くんと松永くん」 =第2期= 『友情の境界線』(24)

83.

 裕貴さんは、うっかりかあえてか、人から誤解を受けやすい表現を選んでまう所に多少問題が有るだけで本質は悪い人や無い。それはまつながーも俺も良う知っとる。
 裕貴さんは強くて優しい。3年間、親に甘えや愚痴を言えずに辛かったまつながーを、ずっと側に居て支え続けた人や。そして、違う大学に行った今も正直で不器用なまつながーに気を配っとる。
 けど、そんな裕貴さんかて俺らと同じ18か19歳なんや。
 中学、もしかしたら小学生の頃からかも。何年間も色々と我慢しながら勉強をして、大学受験て大きな課題が片づいて、ふと、自分を振り返った時に、それまで誰にも言えんかった苦しい気持ちを理解して受け止めてくれそうな存在が目の前に現れたら、少しくらいは甘てみたい。話を聞いて欲しいて俺かて思う。
 その相手がよりによってヘタレの俺ってのは、マジで役者不足やないかなて思うけど。
 真剣になればなる程、おちゃらけて笑って冗談にしてしまう裕貴さんは、弱みや本音を出すのがメチャ下手な人なんやろう。器用そうに見えて、実は裕貴さんもまつながーとは方向性が違う不器用者なんかもしれん。
 そんな裕貴さんを責めた最上も石川も真田さんも間違っとらん。ただ、出会ったばかりで裕貴さんの事を知らんから、裕貴さんの言動が理解できんだけや。
 裕貴さんの事を1番良う知っとるまつながーは、裕貴さんを庇いたいんやろうけど、真田さん達が何で怒っとるかも分かるから上手く口を挟めずに困っとる。
 どないしよう。
 1番の当事者は俺やのに、俺は未だに手も足も口すら動かせずに居た。……はずやった。

「うぎゃーっ!? そういうのヤメレっていつも言ってるやろ。まつながー!!」

 いきなりごつくて重い身体が背中に貼り付ついてきて全身に鳥肌が立った。
 叫び声と同事に呪縛が解けて全身に血が巡り出す。強ばっとった身体も動きした。
 振り返ったらやっぱりまつながーやった。
 ちゅーか、この面子で俺に無言でこないな事すんのはまつながーしか居らんよな。裕貴さんなら何か一言要らん茶茶が入るもんな。意外とアレで予告しとるんかもしれん。
 まつながーの手を振り払って俺は立ち上がった。
 ポケットに手を突っ込んで、以前まつながーがくれた懐中時計を見る。
 うひゃあっ!? やっぱり洒落にならん時間やないか。グダグダ悩んだり喧嘩したりしとる場合とちゃう。
「時間切れや。みんな、こないな事やっとる場合とちゃう。時計見て!」
 俺は「ホンマにおおきに」て言いながら最上にジャケットを投げ返すと、全員の顔を見渡した。
「全員今すぐ荷物を持って忘れ物が無いか確認して。裕貴さん、まつながー、真田さんは全速で走らんと講義に間に合わんで。最上、石川、俺らも次の講義は違う棟の4階やろ。階段はこっちからは反対側やし全力でダッシュや。まだ話したい事が有るなら、明日の昼休みにご飯食べてからこの場所で続きしよ。まつながー、真田さんに俺の携帯番号とメルアド教えてやって欲しい。裕貴さん、今日は俺もまつながーもバイトで遅うなるから、晩ご飯の事は後でメル入れる。アパートの鍵は俺より帰りが遅いまつながーに借りて。他にも何か有ったら俺宛にメールで連絡してや。すぐは無理やけど、絶対に今日中に返事するから。全員、即刻移動開始。ほな解散!」
 俺が一気に言い切ると、時計や携帯で時間を確認した全員が、言葉にならない変な叫び声を上げながら慌ててバッグを抱えて走り出した。
 そらそうや。俺らの本分は学生や。
 学生の俺らに取って1番大事なのは勉強。それより優先せなアカン事は今は無い。
 裕貴さんの事も、俺の事も、全部が些細な誤解が誤解を呼んで変な風に積み上がってしもうた結果や。誰かの命に関わるとか、精神的に追い込まれて何も手が付けられん様な状況でも無い。みんなには後でちゃんと説明して納得して貰えばええ。
 俺の横を走りながら2人が苦笑する。
「復活の酒井」と、石川。……なんやねんそのフレーズ。
「フェニックス酒井」と、最上。マジでやめーや人に中二病みたいな二つ名付けるの。
 俺が無言でむすったれると更に最上が笑った。
「やっぱ、酒井はすげーわ。俺、惚れ直しちゃう」
「そうだな」と石川も声を立てて笑う。もー。この2人はタッグ組むと毎度毎度。
「なにがやねん。次は遅刻したら教室入れて貰えん講義やろ。それで無うてもレポート採点もテストも厳しいんで有名な助教授やんか。俺は遅刻欠席で減点されとう無いだけや」
 俺がぶつぶつ愚痴をこぼすと、今期の成績があまり良くなかったらしい最上は「うげっ。そうだった」と、嫌そうな顔で足を速め、ほぼ全科目上位でも、こないアホな事で成績を落とすのは嫌やと思ったのか石川もスピードを上げた。
 俺らはなんとか講師が来る1分前に教室に辿り着き、1番後ろに着席してノートを開いた。
 あー、疲れたぁ。
 おっと、講義に集中せな態度にも厳しい助教授に怒られる。
 講義が全部終わってバイトに行く前にスマホを見たら、全員からメールが入っとった。みんな律儀やなあ。
「真田にメルアドは渡した。今夜は俺もできるだけ早くバイトを上がらせて貰う」と、まつながー。やっぱこれはかなり心配させてもうたみたいやなぁ。
「健に晩飯の弁当を買ってくるように頼まれた。予算内で好きに買って良いと言われたけど、苦手な物や嫌いな物が有れば教えて。話は変わるけど、俺は大切な事は直接顔を見て話したい。もちろん今日会った彼らとも」と、裕貴さん。そうやな。誤解を増やしたくないって気持ちは俺もよく解る。
「迷惑を掛けてごめんなさい。今はまだ頭が混乱しているのでまた後でメールします」と、真田さん。ホンマに真面目で律儀な人やなあ。真田さんのこういう所は大好きやけど、真面目過ぎて疲れてどこかで折れてしまうんやないかて少し心配になってくる。
「きゃーっ☆ 酒井君ステキー♪ 抱いてー♡」と、最上。隣の席に座ってたのに何やっとんねん? 明日叩いておこ。
「さっき最上が余計な事しか書いてないメールを出していたけど、奴なりに酒井の気持ちを明るくしたいって事らしいから許してやってくれ。俺も今日は上手く立ち回れなくて悪かった。何はともあれ、頼むから酒井も泣き出す前に俺達を少しは頼ってくれ。頼りないかもしれないけど、庇われたり守られてばかりじゃ寂しい。俺達友達だろ」と、石川。
 ……うん。ごめん。「助けて」て言えんかった俺が悪かったんよな。
 ホンマにみんな優しくて良い人ばかりや。お互いを知れば絶対仲良くなれるて思う。
 タイミングが悪かったんかなあ。上手くいかんモンやなあ。


84.

 裕貴に「後でメールする」と言いながらアパートの鍵を投げて、俺と真田は中庭を走り抜けて工学棟に戻ると教室に滑り込んだ。
 真田の席を確保していて待っていてくれたらしい服部はほっとした顔で手を振り、俺の席を確保してくれていた安東達は「お前馬鹿だろ」と、言いたそうな呆れ顔を一斉に向けた。
 いや、実際に小声で言ってるぞ。どういう訳かどれだけ小さくても自分の悪口は聞こえるもんだ。馬鹿で悪かったな。俺だって今日の事は本当に自分に呆れて腹が立ってるんだ。
 講義中に緊急以外でスマホを触ると教室から追い出されるからか、安東も岩城も相馬も小さく折り畳んだメモを回してくる。大体中身は同じで要約するとこんな感じだ。

「お疲れ。報告はこのゴタゴタ全部の決着が着いてからで良いから。けど、詳細は酒井ちゃんの解説希望」
「お前ら悪目立ちし過ぎ。全員馬鹿だろ。説明下手の松永より酒井様に聞いた方が話が早いだろうけど、こんな状況じゃあっちも今は無理か」
「松永に空気読めとか、周囲に目を配って上手く立ち回れとか、そういう器用さは全く期待してないから。HAHAHA」

 思わず全員拳骨で殴ってやろうかと思ったが、揃って最後に「酒井(様、ちゃん)にも言えない愚痴が有るならいつでも聞くぞ。お前も一度に色々有りすぎて精神的にギリギリだろ」と書いて有ったので止めた。
 お前達良い歳したむさ苦しい男のくせに、気持ちの悪い変なツンデレは止めろと突っ込みたくなった。
 だが、俺の不器用さも、言葉にするのも下手な所も、人間関係において自分から率先して動けない所も、全部解ってくれた上で、こうして優しく言ってくれるからありがたくて泣ける。
 最初に納豆の食い方で躓いたけど、お前達、やっぱり良い奴らだな。
 3つ前の席に座っている真田は、女子らしく服部と肩を引っ付け合って机の下で手を握り合っている。どうやら真田も慰めて貰っているらしい。
 お互いを思いやれる友達は本当に大切な宝だな。
 高校時代の一緒に部活をしたり、遊んだり、笑いあったりしつつも、テストの成績結果が公表される度にギスギスして、お互いに牽制しあっていた関係とは全然違う。
 高校時代も部活でも寮でもクラスにも仲の良い「仲間」は大勢居た。
 でも、仲間と友達は違う。高校を卒業して半年経った今も、心の底から友達だと言い切れるのは親友の裕貴しか残って居ない。
 成績順月別クラス分けシステムは、一目で順位判るから尚更頑張れたし、同じ学力レベルが集まるから授業も解りやすくて成績は上がった。
 だけどその分、周囲も切羽詰まっていたから精神的にはいつもきつかった。何度勉強を投げ出したくなったか判らない。意地と目標が有ったからプレッシャーに負けずに頑張れた。そのせいで、入院闘病中のじいさんはともとかく、親父や母さんの気持ちにまで気を回す余裕が全く無くなってたんだよな。
 あの無茶なシステムが有ったから、俺や裕貴はこうして希望大学に受かったんだが、脱落する奴はどんどん落ちて行くのが周囲にも丸分かりだった。成績不振で激やせした美由紀や、授業に付いていけずに学校を辞めて行った連中の事を考えると、全面的にあの高校を支持する気にはなれない。
 そういえば、裕貴の妹の綾香ちゃんは今度高校受験だけど、進路はどうするんだろう? あの子は裕貴に似て可愛いし、成績もかなり良かったはずだ。
 俺達と同じ高校は、進学校として優秀とは言え、3年間苦しんだ裕貴も、にこにこ笑いながら度々とんでもない事をやらかしていた(俺には未だに理解不能だが、あの無茶苦茶さでストレス解消をしていたのかもしれない)裕貴の奔放ぶりに苦笑いをしていたご両親も、絶対にあの高校への進学は許さない気がする。
 俺に進路を相談される事は無いと思うが、苦労する事が判ってるだけにやっぱり反対すると思う。
 講義が終わって携帯を見たら真田からメールが来ていた。いつの間に打ったんだ? 前の席に居たのに全く気づかなかった。
「今日は色々と迷惑を掛けてごめんなさい。明日のお昼は奈留さん達と摂る。その後に1人であそこに行く。迷惑を掛けた事を謝りたいから酒井君のメルアドを教えて」
 おおう。あの真田が、あの真田が俺に謝った。……なんて事を考えいたら顔に出ていたのか真田に凄い目で睨まれた。仕方無いだろ。これも日頃の行いだ。
 あ、今自分に巨大なブーメランが突き刺さった。取り合えず真田には「お互い様だから気にするな」レスしてヒロのメルアドをコピーして返信する。
 真田は自分が間違ったと、悪い事をしたと思ったら、こうしてすぐに謝罪する。
 ヒロが真田を気に入っている理由を再確認した気分だ。本当に、気持ちが良いくらいさっぱりぱっきりした性格だな。女としてどうかと言われたら色々思う所が有り過ぎるが。……主に俺に対する言動で。


85.

「裕貴さんただいまー。遅うなって堪忍や」
「酒ちゃん、お帰り。健に教えて貰った駅前の弁当屋で鮭弁を買ってきたよ。レタスをちぎって冷やしてあるから塩を振って食べよう。マヨネーズの方が良い? この家ドレッシングが無いんだね。ポン酢で代用? それとも醤油?」 
 バイトを終えてアパートに帰ると、裕貴さんは隣の俺の部屋に干しておいた3人分の洗濯物を畳んでくれとった。
「俺らの分まで洗濯物を回収してくれておおきに。俺は今日はマヨの気分やけど、まつながーはどやろ? 裕貴さんも好みが有るやろうし、レタスは小分けして各自好きににしとく?」
「そうだね。健は割と塩を使う派だけどバイト先が冷房効き過ぎだから違うのを欲しがるかも」
 手を洗った俺が戸棚の取り皿を指すと、裕貴さんは立ち上がって冷蔵庫からレタスを入れたボールを出した。
 洗濯物を片付けて、折り畳みテーブルに弁当を並べると、予定より早くまつながーが帰ってきた。普段はこんな我が儘通すのは無理やから、今日はたまたまお客さんが少なかったんやろな。
「お疲れ様。おかえりー」
 俺と裕貴さんの声が綺麗にハモると、まつながーは数回瞬きをすると、やや苦笑気味に「ただいま」と言って流しで手を洗った。
 さて、昼間バタバタした分晩ご飯はゆっくり食べよ。
 定番の納豆パックとワカメを足したインスタント味噌汁も用意する。メニューを見た裕貴さんは小声で「ですよねー」と言って笑った。やっぱり、まつながー=納豆なんやろな。俺もそう思う。昼間は珍しく食べなかったから違和感が凄くて笑うのを堪えるのが辛かった。
 結局、ボールに入れたまま出された大量のレタスは、各自が取り皿で塩を振ったり、マヨネースを付けたり、ポン酢を垂らしたり、そのまま食べたりと、外食やないから3人共見た目を気にせず好き勝手して腹に収めた。
 食後に麦茶を飲みながらスナック菓子を摘まんで一服する。単純かもしれんけど、楽しく笑いながら美味しくご飯を食べられるのは幸せやなあ。
 他にやりようも無いし人目を気にするのも面倒だしって事で、明日の昼は3人で教養学部の食堂で食べて、その後情報学部の隠れ場所に行く事にした。あそこはいつも他に人が来なくて静かやし、最上と石川もいつでも3人で来いって言ってくれとるしな。すぐにその2人にはメールを入れる。裕貴さんの事を知って貰うにはできるだけ会話するしか無いて俺は思う。

「あ、忘れる所だった」
 と、裕貴さんがバッグから携帯を出す。どうやら乾電池式充電器で充電しとったらしい。アパートのコンセントに充電器を繋いでくれても良かったのに律儀な人や。
「綾香が健に伝言してくれって、さっきメールが来た」
「お?」
 と、レシート片手に家計簿を付けていたまつながーがノートパソコンから顔を上げる。
「あやか?」
 俺が首を傾げると裕貴さんが笑って答えてくれた。
「ああ、俺の妹。今中3だよ」
「裕貴に似て頭は良いし顔も可愛いぞ。性格も色々と、……うん。凄く似てる」
「だよねー。うちの綾香は可愛いよねー」
 と、裕貴さんが満面の笑顔になる。
「あー」
 まつながーの微妙な笑顔に俺も微妙な笑顔で返してまう。……うん、あまり深く考えるの止めておこ。
「転送せずに改変無しでそのまま読めって注意書きして有るから読むぞ」
「おー」
 裕貴さんが顔を上げるとまつながーはPC画面に顔を戻しながら気の抜けた返事をする。

「健君へ。お久しぶりです。いつも兄から健君の話を聞いています。
 高校卒業後も色々有った様ですが、今はお元気そうで何よりです。
 兄以外にもとても愛らしい(と兄が全力で言っています)親友ができた事も、健君にとって何よりの僥倖と心から喜んでいます。
 さてさて、現在私は受験を控えて猛勉強ですが、特に恋愛面において不器用な健君が、今後大学で勉強以外の要らぬ苦労をしないよう、事前予約をしたいと思います。
 晴れて私が大学を卒業したらお婿に貰ってあげるので、安心して8年(あ、もしかしたら10年後になるかも。ひえー!?)まで待っていてください。
 絶対に私が健君を幸せにします(ドヤ顔)。
 高校受験が終わったら一度そちらに遊びに行きますね。
 その時に正式に求婚します。
 それまでお元気で。またね」

「ブーーーーッ!!!」

 ほとんど同時に俺とまつながーが麦茶を噴き出した。
「うわっ。2人共きったない。畳にカビが生えるぞ。雑巾雑巾」
 裕貴さんが慌てて台所に置いて有る雑巾で畳を拭く。
「あ。裕貴さん、堪忍な。おおきに」
 俺も布巾で濡れたテーブルを拭く。予想してたよりあちこちに飛んどるなぁ。本やノートやPCに掛からんくて良かった。
「今のは何だ?」
 まつながーが消えそうな声で裕貴さんに聞く。
「え?」と、裕貴さん。
「今のは何だ?」と、まつながーがもう一度聞く。
「うちの綾香から健ちゃんへのラブレター」
 裕貴さんが答えた直後、まつながーはテーブルを強く両手の平で打った。おっと、またお茶が……カップはなんとか無事やな。またやらかしそうやから全員のカップをトレーに避難させとこうかな。
「何で綾香ちゃんが裕貴経由でそんな事を俺に言うんだ?」
「そうだよね。健のメルアド知ってるんだから本人に直接言えば良いのにね。さすがの綾香も恥ずかしくなったのかな?」
 恥ずかしい? そうやろか。
「いやいや、そういう問題じゃないだろ。俺が綾香ちゃんと会ったのは文化祭と合わせてもせいぜい5、6回位だろ? それなのにいきなり結婚? いくら未来に夢見がちな中学生だからって視野が狭いと言うか、思考がぶっ飛び過ぎだろ。何で裕貴も普通にメールを読んでるんだ。そりゃ、今は受験勉強で精神的に参ってたり、煮詰まっているだろうから、強く否定して綾香ちゃんにダメージを与えたくないかもしれない。だからと言ってプロポーズは無いだろ。まだ15歳の娘が何を言ってるんだって、兄として妹の暴走を窘めつつ止める所だろ」
「えー、そう言う健ちゃんだってまだ18歳じゃん。3月生まれだから大抵クラスで1番最後」
 裕貴さんはにこにこ笑いながら、青筋を立てて常識論を展開するまつながーを煽りだした。
 あ、これは俺はしばらく傍観しとこ。綾香ちゃん? の事全然知らんし、余計な事言うて変に拗らせたら大変や。
「この際俺の歳は良いんだ。大体後8年から10年待てって何だよ。裕貴と同じで医者でも目指すのか? それとも院まで行く気か?」
「まだはっきりとは決めてないらしいけどね。看護師とどっちにするか迷いつつ志望大学に医学部も入れてたよ。高校2年までに決めるってさ。将来何をやりたくなっても困らない学力を付けたいと言ってる。だから、俺も毎日綾香の家庭教師だ。余所に頼むよりはと、うちの親がちゃんと平均的価格でバイト代を出してくれているし、綾香もめきめき成績を上げてて教え甲斐も有るよ」
 あ、裕貴さんって医学部なんや。そういや今朝話が出た時に途中で話が逸れて聞き忘れとった。お医者さんかぁ。裕貴さんに似合うかも。
 あれ? それならなして今わざわざ他校の教養学部に聴講しに来とるんやろ? これも後で聞いてみよ。忘れない様に脳内にメモ残しておかな。
 バイト先が家族の家庭教師って今時珍しいけど、実績も人間性も判ってる身内って、たしかに教えを受ける方も1番気楽かも。
「東京の医学部に行きたがっていた裕貴が、突然進路を変えた後に言っていた最低後4年は家を出られない事情ってそれだったのか。俺が聞いた1年前に教えてくれたら良かったのに。まあ、うちの高校の実態や綾香ちゃんの将来を考えたらそうなるか。裕貴なら学力面でも安心だし」
「まあね」
 裕貴さんが少しだけ照れ臭そうに笑う。
「それにしても、今は少しでも勉強したい時期だろうに、よく1週間も裕貴が家を空ける事を許して貰えたな」
「綾香には俺手製のテキストを1週間分渡して有るよ。質問はメールで受け付けると言って有る。いくら家族でも無責任な事はできないからね。うちの大学の教授なのに、在校生は3年になるまで講義を受けられないから仕方無い。週1……せめて、2週に1回で良いから聴講を許してくれたら良いのに。1年は他に覚えなきゃいけない事が沢山有るだろうって門前払いされたよ。今回は他校で、教育者用の集中講義だから聴講を許して貰えた。但し、レポートは後で纏めて教授に提出しなきゃならない。それと、教授の講義を受けられない時間帯は、ここの大学の講師の講義を聴いてレポートを提出する課題も出ている。締め切りは来週朝一。きつくて泣けるけど、ずっと受けたかった教授の講義だから参加できて嬉しい」
「……という裕貴の事情も理解して、ご両親も綾香ちゃんも何も言わなかったんだろう。『病気、怪我入院治療後に復学した児童の心理とケア』か。教養学部のサイトを見たら有った。高校時代も勉強の傍ら心理学の本を読んでいたし、裕貴の子供のメンタルケアへの情熱は毎度感心させられる」
「心は手術で治せないからね。長期入院治療は大人でも大変なのに、子供にとって治療に長期掛かる病気や怪我、休学のストレスは後々響く。特に、自分の症状を上手く説明できない小さい子供の心理学は、いくら学んでも足りない。この考えは大学に入った今も変わってないよ」
「そうだろうな」
 目をきらきらさせながら熱弁する裕貴さんにまつながーも笑顔で返す。
 ああ。そういう事か。裕貴さんは高校時代に受験で大変な学友達の相談を受け続けた。それは全くのボランティアや無かったんや。
 裕貴さんは医者を目指していて、将来患者の気持ちを理解できる様に、親身に話し相手になって寄り添える練習をしとったんや。
 ほやから、それを知っとるまつながーも変態とかホモにしか見えないと文句を言いつつ裕貴さんのやる事を側で見てきたんや。
 普通に考えたらホモの修羅場に何度も巻き込まれたら、寮の部屋を変えて貰ってでも縁を切るよなぁ。
 けど、2人はずっと一緒で今も仲の良い親友や。
 ……まあ、裕貴さんが嬉々として変な趣味を押し通そうとしるんだけは、親友のまつながーでも庇いきれんみたいやけど。ホンマに同じ男の俺にわざと迫って来るのなんとかして欲しい。ホモとちゃうて言われても、ベタベタされると寒気がするんやもん。
「裕貴が東京に出てきた経緯事情は解ったが、綾香ちゃんの問題発言はしっかり裕貴の口からお断りしておけよ。お前が窓口なんだろ」
 あ、話が戻った。まつながーって話を逸らされたら釣られやすいけど、どうしても自分が譲れない点についてはちゃんと軌道修正もするから凄いなあ。俺かて数回会っただけの女子にいきなり結婚してて言われたら全力拒否する。やっぱ、綾香ちゃんは強引な所も裕貴さんに似とるっぽい。
 けど、まつながーに婚約者とか、面白過ぎるからまだしばらく黙って見ておこ。
「え、俺はやだー」
 と、裕貴さんが口元に両手を当てる。なしてあないキモイポーズが似合うんやろう?


86.

 マジで勘弁してくれよ。
 そりゃ綾香ちゃんは可愛い。可愛いと思うぞ。歳の割にしっかりしている所も、裕貴に似て頭も良くて、女子特有の我が儘を言わない所も、態とらしく媚びを売らない態度も好きだ。
 けど、それとこれは話が別だ。
 まだ15歳の中学生女子だぞ。俺はまだ18歳とは言え大学生だ。犯罪だろうが。同年代だった美由紀とは違う。真剣に付き合っていたとはいえ、お互いに高校生だったからやれた勢いも有ったんだ。今の俺には年長は小さい子を諭さなければならないくらいの分別は有る。
 そりゃ裕貴にしてみりゃ、可愛い妹に自分が知らない男が近づくより、親友でお互いの親とも付き合いの有る俺の方が安心できるかもしれない。
 けどな。お前は俺の兄貴になる気か? 綾香ちゃんが言ってる事はそういう事だぞ。俺はお前の弟になる気は無いからな。それと、この歳で一生を決める気も無いからな。
 そんな俺の考えを読んだのか、裕貴はにやりと笑って持っていた携帯を振った。
「そんなに心配しなくても、綾香は今の内に健の隣を仮予約しておきたいだけだって言ってたぞ。綾香は俺達が3年間にやった事はほぼ把握済みだ。その上で、都会に出た純朴な健が、押しの強い女に絡まれて傷付くよりも、側には居られないけど自分が守ってあげようって気になっているらしい。健はやたらと綾香を子供扱いするよな。たしかに綾香まだ法的に結婚すらできない歳だけど、俺達男と女子は身体の造りも考え方も全く違う。男は何歳になっても、父親にでもならないとそうそう変わらないけど、女子は将来母親になる事も若い時から冷静に見据えられるものらしい。もっとも、若い内は楽しく恋して遊べれば良いって女子も結構居るのは事実だけどね。けど、中学生だって俺達男の何倍も大人の考え方ができる子は居るし、うちの綾香も強いししっかりしてるよ」
 裕貴の静かだけど力強い言葉に、なぜかヒロが強く頷く。
 あ、そうだった。ヒロも5歳年上の強気で強引な姉に振り回されて続けて育った口だ。女の強さも怖さも、そして良い所も俺より遙かに知っているだろう。
 裕貴はくるりと視線を俺からヒロに回してにっこりと笑った。
「という事で、俺は医学部でーす。小児科医希望。患者との信頼が大事だから、できれば大学病院とかの専門より、経験積んだら外科も内科も診れる病院に行けたら良いなと思ってる」
「それ、メッチャええ夢やな」
 ヒロもにぱっと笑って裕貴を見つめ返す。
「ありがとー。ねえ、健ちゃんってば酷いでしょー。俺がずっと医者を目指していたのも、小児科医を希望していたのも知っていたのに、酒ちゃんには何も言ってくれて無かったよね。ホモくさいとか、セクハラするとか、ショタコンだとか、変な情報ばかり酒ちゃんに言っちゃってさー。裕貴君泣いちゃうー」
 ちょっと待て。ショタコンは言ってない。見た目可愛い系が好きだと言っただけだ。事実そうだったろ。
 そりゃ、ごつくてむさ苦しい男に甘えられたって全く嬉しくないと思う気持ちはよく解る。裕貴が自分から積極的に構っていたのはヒロみたいに童顔で身長もあまり……ああ、そうか。可愛い顔と言うより外見が子供に近い奴ばかりだった。あれも練習の一環か。
 とはいえ、裕貴がヒロに関わりたがるのは高校時代とは全く違う理由だから、俺としては、これまでの裕貴の苦労を考えて頑張れと応援したい気持ちが少し、静観したい気持ちが半分くらい。残りは全力で裕貴の邪魔してやりたいという、俺自身もどうかと突っ込みたくなる気持ちだ。ヒロは俺の天子だけど、全く残念な事に俺だけのじゃ無いんだよな。
 ヒロは俺と裕貴の顔を交互に見て、「そっか。まつながーも裕貴さんも、どっちも理系志望やからずっと同じクラスやったんやな」と、話の脈絡と全然関係無い感想を言った。
 あ、今ヒロは後々面倒だから突っ込むの止めておこうとか、藪蛇回避とか思ってるな。なんとなくだけど眠気食い気以外でも、黙ったヒロが考えている事が解ってきた気がする。


87.

 まつながーは珍しく俺の顔を見ても言いたい事を飲み込んだような顔をした。
 成長したなあと思うべきか、にこにこ顔で反論を許さない裕貴さんの言葉の圧力は凄いて思うべきか迷うトコや。
 多分まつながーは、裕貴さんの話で高校時代を思い出しつつ、綾香ちゃんの求愛は全力で聞かなかった事にしようと考えてるんやて思う。
 俺は裕貴さん経由で熱烈なラブレターをまつながーに送った綾香ちゃんがどんな子か、顔も知らんし、一度もまつながーの話に出てこなかったから、これまでまつながーとどういう付き合い方をしてたのかも全く知らんから何も言えん。
 まつながーを茶化してる裕貴さんも、妹さんと親友をくっつけたいて思うとるか、2人の自主性に任せようと思っとるのかどっちやろうて判断に迷うから、やっぱり何も言えん。
 ほやから、何も知らん第3者の俺は黙ってるに限る。下手につつくと面倒な事にしかならん気がするし、人の恋事には口を挟まないのが1番や。裕貴さんが俺の前でわざわざ私信のメールを読んだ意図には気付かなかった事にする。後でまつながーから相談されたら、その時に一緒に考えよ。
 ノートPCに向かってたまつながーと裕貴さんが卓袱台の下で蹴り合いを始めた(俺が気づかんとでも思っとんやろか?)んで、俺はレポート用の資料を探すネット検索の旅に出るか。
 PCの電源を入れていたら俺の携帯からメール着信の通知音がした。
 あ、真田さんや。そやった。真田さんは大学で後でメールするて言うて短い謝罪メールを送ってきたんやった。
 まつながーと裕貴さんが興味有り気に俺を見たけど、「私信や」て言うて、携帯を持ったまま2人の側から少しだけ離れた。
 ボタンを押してメール画面を表示させる。

こんばんは。真田有希です。
 昨日と今日の昼休みは大変失礼しました。
 私の勘違いや思い込み、身勝手な行動で酒井君に多大なご迷惑を掛けてしまった事を心からお詫びします。
 また、メールが遅くなってしまいごめんなさい。
 家に帰ってきてからずっと考えていました。
 私のやった事は本当に正しかったのか?
 私の言動で誰かを傷付けてはいないか?
 怒らせてはいないか。
 困らせてはいないか。
 苦しめてはいないか。
 私は、これまでの私自身や私を信じて後押しをしてくれたり協力してくれた友人に、胸を張っていられるのか。
 今思えば昨日からかなり感情的な言動を取っていました。
 だけど、昨日、酒井君を痴漢と勘違いした斎藤から庇った事は間違っていないと思います。
 うちの女生徒達は、時折登下校中に痴漢被害に遭う事実からです。
 たまたま昨日は被害者が男性の酒井君で、加害者が知り合いで、ふざけていただけだったから幸運でした。
 ただ、私の行動であんな場所で大騒ぎになってしまったので(90パーセントくらいは斎藤に原因が有ると思いますが)、男性である酒井君に恥をかかせてしまったのは失敗だったと思います。
 先にしっかり状況を確認するべきでした。済みませんでした。
 また、今日の昼休みは、酒井君の同意無しで昼食に同行し、その後も酒井君達と一緒に居た為、必要以上に目立ってしまい、あまり目立つ事を嫌う酒井君や松永にも悪い事をしてしまったと今は反省しています。
 浅慮でした。本当に済みません。
 そして、石川君の忠告で情報学部に行った時も、酒井君や松永の話を一切聞かずに一方的に斎藤を責め立て、結果、本来の被害者たる酒井君の精神に大変な負荷を掛け、心にも傷を負わせてしまいました。
 今考えると、私の言動は恥ずかしい限りで、お詫びのしようも無い位です。
 本当にごめんなさい。
 すでに松永には話して有りますが、酒井君の許可が下りれば明日の昼食後に情報学部に行きたいと思います。
 私は私の未熟さ、思慮の足り無さ、短気な性格を反省し、斎藤とちゃんと正面から向き合って話し合いたいと思います。
 斎藤と解り合えるかはまだ不明ですが。
 それを、酒井君が望んでくれているのであればですが。
 この私の自分勝手な願いが、酒井君の負担にならなければ良いのですが。
 長々と済みません。
 酒井君、本当にごめんなさい。
 今回だけ、あなたの優しさに甘えても良いですか?
 昼食後の件だけで良いので、ご返事をお待ちしています。


 不器用な言葉選びの中に送り手の誠実さが滲む丁寧な文面。
 変な言い訳はせずに、だけど正直な気持ちと、謝罪だけが何度も繰り返されとる。
 ホンマに真田さんて、真田さんて…………。

 前に振られてしもうたけど、やっぱり俺は真田さんの事が好きや。



<<もどる||酒井くんと松永くんTOP||つづき>>