小走りでバイト先に向かいながら、俺は昨夜の夢を思い出していた。
 理由は判らないが、俺は誰かに向かって怒鳴ってた。
 ぼんやりとしか見えなくて、相手は男なのか女なのかも解らない。
 あんなのが予知夢になったらどうしよう。ヒロ。

「酒井くんと松永くん」 =第2期= 『友情の境界線』(21)

75.

 予定では今日は裏方仕事のはずやったのに、接客の女の子が熱を出して俺も表にかり出された。平日でも、夕飯時にヘルプ無しで人数少ないから厨房も忙しくなりそうや。
 先輩や正社員の人らは、俺の接客は喜ばれるからておだててくるけど、直接客から無茶や苦情を言われる事も多いから、単に自分らがやりたくないからとちゃうんかて思う時もある。
 俺は童顔チビやから、小さな子供に警戒されんてのは否定せん。それに、社会勉強やて思うたら、お客様に頭を下げるのも、細かい要望を聞くのも、ええ経験やからな。
 カップルが入って来たんでメニューを持って出迎えに行ったら、まさかの裕貴さんと真田さんのコンビやった。
 なしてえ?
「…………」
 俺が固まっとると、気付いた裕貴さんが安心した顔をして近づいてきた。
「……いらっしゃいませ。2名様ですか。おタバコは吸われますか?」
 ああ、良かったぁ。ちゃんとお客様対応で言えた。うっかりメニューを落とすかと思うた。
「吸う?」と、裕貴さんが簡潔に聞く。
「吸わない」と、真田さんも短く返す。
「じゃあ禁煙で」
 裕貴さんの微妙な笑顔に俺も営業スマイルで返す。
「ご案内いたします。2名様、禁煙です」
 俺が居らんくなってからどういう展開になったか、大体想像付いてしもうた。あれは絶対に喧嘩続行中や。常連の真田さんが一緒なら、地理不案内の裕貴さんが俺のバイト先に来れたのも解る。
 今頃まつながーは、なんも出来んかったとか自分を責めて胃が痛い思いしとるやろうな。時間が無いからというて、無理矢理押しつけてしもうて堪忍や。後は俺がやらなアカン。裕貴さんの行きすぎた悪のりをその場で止められんかったんは俺のミスや。
 マニュアル通りの説明を終えて、空いたテーブルを片付けながら、こっそり聞き耳を立てたりして。
「有希ちゃん、俺の事誤解してるでしょ」
「何をよ? 変態」
「心配しなくてもこんな場所で酒ちゃんにセクハラなんかしないよ。絶対に彼に嫌われたくないんだ。むしろもっと好かれたい」
 アホな事言うとらんと、さっさとメニューを決めてくれや。一応、お客様やのに頭どつきたくなってくる。
「あんたもうちの学校……ごめん。今の無し」
 真田さんはなんかを言い掛けて、メニューに視線を落とした。「も」ってなんやろ。おっと、ちゃんと仕事せな。ボソボソ話し続ける2人の会話を何とか聞きながら、いくつかのテーブルを片付け終えた頃に、裕貴さん達のテーブルの呼び出しボタンを押された。
「はい」
「豆づくし定食を2つ。追加オーダーは後で。酒ちゃん、悪いけどバイトが終わったらアパートに連れてって。健には俺がメールを入れておくから」
「豆づくし定食をお2つですね。他のご希望も承りました。ありがとうございます。当店では水とおしぼりはセルフサービスで、フリードリンクコーナーにございます」
 店のルールから逸脱しない程度に笑顔で返事をすると、裕貴さんと真田さんが同時に「さすが」と言うた。なんがやねん。お客様相手に私語は出来んだけやで。
 まつながーが来てからも、裕貴さんはいつもの調子でおちゃらけたんやろう。ほやから、正義感の強い真田さんは俺を心配して来てくれたんや。ちゃんと説明せんかったから悪い事をしてしもうた。
 ここまで来てくれた真田さんに安心してて言わな。千葉のどこに住んどるか知らんけど、女の人を遅くまで付き合わしたらアカン。
 出来上がった料理を持って行く時に、俺は余分の紙ナプキンにメモを書いて真田さんの膳の上に置いた。
『真田さん、俺の事を心配してくれておおきに。けど、大丈夫やから安心してや。バイトは9時までなん。ほやから、食べたら早う帰ってや。遅くなったら親御さんが心配するで。詳しい事は明日』
 小さい紙に用件無理矢書き込んだら、ごちゃごちゃした殴り書きになってしもうた。
「ご注文の品は以上ですか?」
 俺が聞くと真田さんは複雑な顔になったけど黙って頷いてくれた。裕貴さんは逆さでもメモが読めたらしくてにやりと笑う。
「それでは、ごゆっくりお過ごしください」
 一礼して2人の側から離れる。裕貴さんはあの頃のまつながーとはちゃうし、お互いに情報不足で誤解しとると思うんよな。
 なんや色々と話し込んでるっぽいけど、他の接客をしながら2人の会話まで聞いとれん。今俺がせなアカンのは、来てくださったお客様全員に気持ち良うご飯を食べて貰う事や。
 ボタンが押されて裕貴さんのテーブルに行ってみたら、真田さんがバッグを持って立ち上がった所やった。テーブルの上に1円単位で真田さんが食べた物の金額が置いてある。
「お客様?」
 俺が聞くと真田さんは少しだけ疲れた顔で笑った。
「あたしは帰るよ。酒井君、また明日ね」
 続けて裕貴さんが手を挙げる。
「奢ると言ったんだけど、有希ちゃんが引いてくれなくてここは俺の負け。ドリンクバーを1つ追加」
「ありがとうございます。ドリンクバーをお1つですね。かしこまりました」
 俺はハンディターミナルに注文を入力して、真田さんを入り口まで見送った。
 バイト終了まで後1時間半弱。裕貴さんは食べたけど、俺とまつながーの晩ご飯はどないしよう。それに、あの言い方と椅子に置いてあるでかいバッグからして、裕貴さんはしばらく東京に居るみたいやもんな。もしかしてアパートに泊まる気とか。
 いや、バイト中に余所事を考えとったらアカン。裕貴さんの事はバイトが終わってから聞いてもなんとかなるやろ。

 俺がバイトを終えて店を出ると、会計を済ませた裕貴さんが店の駐車場で待っとった。
「酒ちゃん、お疲れ様。この手のファミレスにしては味が当たりだね。うちの近所に無いのが残念」
「おおきに。ここで立ち話すると目立つから歩きながらにしよ」
 俺が歩きながら言うと、裕貴さんも頷いて俺の隣を歩き始めた。
 アパートに帰り着くまでの約20分の間に、裕貴さんはあの後なんが有ったのか、なして裕貴さんが東京に居るのか、良く言えば丁寧に解りやすく、悪く言えば想像しとうない事まで説明してくれた。
 2人に挟まれて四苦八苦するまつながーの姿が簡単に想像付いてまう。いきなり話振られて、裕貴さんにも真田さんにも頭が上がらんかったやろう。可哀想な事をしてしもうたなあ。
 時々裕貴さんの口から出てくる「ゆっきーっ」は真田さんの事よな。初対面であんな出会い方しても、裕貴さんは真田さんをニックネームで呼べるんや。なんや、もやもやして変な気分。
 アパートに着くと、裕貴さんはゆっくり全体を見渡して、俺の方を向いてにっこり笑う。
「予想より綺麗だ」
「どんなんを想像しとったん?」
「家賃からして取り壊し寸前かなって」
「……」
 たしかにちょっと中心部から外れとるけど、駅から歩いて10分で大学も近い。スーパーや公園に小中学校も近所にある良い土地や。大学から補助が出とる分、俺やまつながーの負担額は少ない。
 駅の反対側で親が借りたアパートに住んどる最上に聞いたら、俺らの3倍の家賃でびっくりしたもんな。
 鉄の階段を上がって1番奥の部屋に裕貴さんを中に通す。
 靴4足で一杯になる玄関、和室の6畳間に流しとコンロが1つしか無い1間の台所スペース、両脇に改装したっぽいシャワー付のお風呂とトイレ、押し入れの下側はまつながーのベッドで塞がっとる。
 ベッドの上には俺の布団。窓際にテレビとHDDDVDプレーヤー、小さなちゃぶ台と2枚の座布団、テレビ下の共用カラーボックスには2台のノートパソコンと本。
 こうして見ると3人寝るには厳しい気がする。俺も前に毛やんを泊めさせて貰ったから、裕貴さんを泊めるのに異論は無いんやけど、この狭い部屋のどこに寝て貰うんやろ。台所兼廊下じゃ申し訳無い。
 あ、裕貴さんを玄関先に立たせたままや。俺は先に部屋に入ると、電気を点けて部屋の隅を指さした。
「裕貴さん、遠慮せんと上がって。そんで荷物を置いて適当に好きなトコに座って。これからお湯を溜めるし、バスタオルも貸すから先にお風呂に入ってくれん。その荷物量からして4日分の着替えしか無いやろ。俺は今から晩ご飯の準備をせなアカンのや」
 俺が部屋をバタバタ動きながら声を掛けると、裕貴さんはにっこり笑う。
「正解。さすがよく見てる。ありがとう。酒ちゃんはいつも可愛いね」
 げー。なしてここで可愛いが出てくるんや。ホンマに裕貴さんは嫌な言葉を選ぶよなあ。
 手短にトイレと風呂と洗面所兼流し台の説明をして、俺は衣装ケースから出したバスタオルを押しつけると、裕貴さんを風呂に押しやった。
 まつながーが帰ってくるまで後30分くらい。ご飯を解凍して、作り置きの小松菜のおひたし、豚肉と野菜の炒め物に納豆の簡単メニューでええかな。あ、明日から裕貴さんも食べるんなら、明日は米も炊いておかな。

「あー、さっぱりした」
 フライパンを火に掛けたところで裕貴さんが風呂から上がってきた。
「酒ちゃん、お風呂ありがとう。借りたバスタオルは中に有るバケツに入れたけど良かった?」
「うん。よう判ったなあ」
「寮でははみんながやってたよ。袋じゃ臭いが籠もるし、時々カビが生えるから大変なんだ」
「うげっ」
 俺が露骨に嫌そうな顔をすると、裕貴さんは少しだけ声を立てて笑うた。裕貴さんはもっと風呂に時間が掛かるて思うたけどまつながー並に早いなあ。
「俺や健は寮生時代に早飯早風呂の癖も付いてるんだ。集団生活は朝も夜も戦場だからね」
 なんも言うとらんのに返事が返ってきた。相変わらず勘がええ人や。
「風呂でTシャツとパンツを洗ったから、どこかに干したいんだけど良い?」
 よう見たら裕貴さんの手にはビニール袋が有った。こら放置しとくと臭くなるな。
「そない遠慮せんでも、バケツに入れておいてくれたら、俺らのと一緒に洗ったのに。そんなら、外の物干しロープに掛けてや。洗濯ばさみはテレビの横に有る」
「ありがとう」
 裕貴さんは慣れた手つきで洗濯物を干す。多分、まつながーと同じ様に寮生活で鍛えられとるんやろうな。
「裕貴さん、なんか飲む? 麦茶と水、後はビールかチューハイくらいしか無いけど」
 俺が手を動かしながら視線だけ向けて聞くと、裕貴さんは麦茶を貰うと言うて、食器棚に手を掛ける。
「酒ちゃんは今手が離せないだろうから自分でやるよ。カップは有るのを適当に使って良い?」
「うん、そうしてー」
「ガラスコップコップがあまり無い辺りは寮生活と大して変わらないな。青いマグカップを借りるけど良い?」
「うん」
 野菜と肉を炒めながら俺が返事をすると、裕貴さんは冷蔵庫から麦茶を選んでその場で一気飲みした。風呂上がりに喉が渇くんは解っとるんやから、先に用意しとけば良かったなぁ。
 まつながーはどれだけ疲れてても、いつも俺にそうしてくれる。やっぱ、俺の気配りは足りんっぽい。
 焼き肉のたれを少し入れて箸でかき混ぜとると、カップに麦茶を足した裕貴さんが俺の隣に立つ。
「そういう顔をしない。俺が風呂上がりに何を飲みたがるか、酒ちゃんは知らなかっただけ。俺に選択肢を残してくれたんだろ。健はああいう性格だからあれこれ人の世話をやきたがるけど、慣れでやってるから自分と比べても意味が無いよ。酒ちゃんしか出来ない事はいくらでも有るんだから気にしない。酒ちゃんが元気無いと裕貴くんも寂しくなっちゃうでしょ」
「……おおきに」
「解ってくれてありがとう」
 そう言うて裕貴さんはテーブルの前に腰掛けた。俺も料理の続きに戻る。
 なして裕貴さんはいつも俺の心を見透かして、ちゃんとフォローまで入れてくれるんやろう。
「酒ちゃんは本当に表情が豊かだからね。それに比べたら健の可愛く無いこと。元々の性格は可愛いのにねえ。残念」
 ……。背中越しにも言われるからメチャ怖いちゅーねん。


76.

「ただい……」
「おかえりー」
 バイトを終えた俺が急いでアパートに戻ると、ヒロが2人分の晩ご飯をちゃぶ台に用意して、待ってくれていた。嬉しそうな顔に見えるのは気のせいじゃないぞ。
 座る場所の無い裕貴はいかにも湯上がりという姿で、俺のベッドの上にでテレビを見ている。
 そういえば、毛利が来た時は俺がベッドに座って、飯を食う時だけ狭いちゃぶ台を3人で囲んだんだった。
 手と口をゆすいでヒロが待ってる席に着く。嬉しい事に出来たてだ。さすがファミレスバイト。ヒロはこういう時間配分は凄く上手い。
「手抜きで堪忍してな」
 ご飯を飲み込んでからヒロが俺を上目遣いで見る。
「ありがとう。ヒロも疲れてるだろ。今日みたいな日は缶詰やインスタントだけでも良かったぞ」
 今日のヒロと俺のバイト時間は1時間しか変わらない。その上、ヒロのバイト先の方が少しだけどアパートから遠い。不案内の裕貴を連れて帰って、一応客の裕貴の世話をしつつ俺が帰って来る前に晩ご飯まで作ってくれたんだ。感謝の言葉しか出てこない。
「2人はまるで新婚さんみたいだね」
 裕貴の脳天気な声に、ヒロが表情を変えずに無言で激怒した。
 今下手な事を言ったら確実に切れる。気配り上手なくせに、どうして裕貴は余計な事を言うんだ。
「だって、全然入り込めない世界作られて、裕貴君寂しかったんだもん」
 いい加減にうぜえ。一言言ってやろうかと思ったら、ガシャンと茶碗と皿が大きな音を立てた。
「やかましい! 疲れて帰って来た人がご飯食べとる時くらい、わざと気色悪い冗談を言うのは止めてや。ご飯が不味うなる。勿体ないやろ」
 俺より先にホモネタ大嫌いなヒロの怒りが爆発した。俺の視界からはヒロの斜め後ろ姿しか見えないが、白くなった指先や、肩の力の入り方でどれだけ怒ってるか解る。
 裕貴もヒロの本気を感じたのか、ベッドから下りてヒロの前に正座をする。
「調子に乗って言い過ぎました。本当にすみませんでした。2度と言いません」
 頭を下げた裕貴を前にヒロはゆっくり息を吐く。
「分かってくれたらええ。裕貴さん、頭を上げて休憩してや。俺らはご飯食べて片付けしたら風呂に入って寝るから」
 顔を上げた裕貴はにっこり笑ってヒロの手を取った。
「分かった。ところで、夏に宣言したとおり、健との同居をあれこれ言わなきゃ、俺が酒ちゃんに迫るのは有りなんだよね?」
 と、言いつつヒロに顔を寄せる。
「ぎゃー!?」
 俺が殴るまでもなく、裕貴は顔面にヒロの蹴りをまともに食らってベッドに倒れた。
 声も出せずに相当痛そうだ。さすがにまだ俺もあれはやられてない。
 ヒロはいかにも仕方ないという顔で溜息を吐くと、テーブルに向き直って座った。
「まつながー、騒いで堪忍な。冷めんうちに食べてしまお。暑い時でも温かいモン食べた方が疲れがとれるから」
「うん」
 裕貴のは自業自得だ。俺は切れたヒロ天子様に逆らう勇気は無いし、せっかくヒロが作ってくれた料理を駄目にする気も無い。
 裕貴は5分くらい起き上がれずにいたが、赤い顔を押さえながら押し入れを背にベッドに座り直した。
 俺とヒロは無言で晩ご飯を食べ終わると、茶碗を片付けてから交互に風呂に入った。

「で、裕貴さんはどこに寝るん?」
 布団を敷き終えたヒロに指摘されるまですっかり忘れていた。どうする気だ?
 裕貴は心外だと言わんばかりの顔で、ヒロに向かってしなを作った。
「えー。酒ちゃん、俺と一緒に寝てくれないの? 健ちゃんベッドだし、寝相悪いから嫌なんだけど」
 おい!
「絶対嫌や」
 そりゃそうだ。警戒心丸出しのヒロは、自分の肌掛け布団と枕を持って部屋の隅に移動する。
「仕方ないなあ。じゃあ、健ちゃん」
「嫌だっての。シングルベッドにでかい俺達2人がどうやって寝るんだ? 寝返りもうてないし絶対にヒロの上に落ちるだろ」
 俺が反論すると、裕貴はポンと自分の手を打った。
「その手が有ったか。偶然なら酒ちゃんも怒らないよね」
「ヤメレ!」
 うおっ。ヒロの本気拒否言い回しが出た。
「ヒロ」
「なん?」
 普段はトゲの無い大きな目の視線が今は怖い。
「えーと、嫌だろうけど俺と一緒にベッドで寝るか。俺とヒロのサイズなら何とか3日くらい寝られるだろ」
「げっ」
 ヒロが露骨に嫌そうな顔になる。気持ちは解るけど、そりゃ無いだろ。
「俺もそういう意味で酒ちゃんにお願いしたんだよ。健と俺じゃサイズ的に無理だろ」
「うげえ」
 俺の時よりももっと嫌そうにヒロが顔をしかめる。
 ヒロは俺と裕貴の顔を見て、布団を持ったまま溜息をついた。
「俺、裕貴さんが居る間は自分の部屋で寝る。10月に入って少しは部屋も涼しくなっとるし、きつい思いするより多少暑い方がマシや」
 有言実行ですぐにヒロが布団を抱えて部屋を出ようとする。待て待て。換気は洗濯時だけ、掃除も多くて2週に1回の埃部屋で寝る気か。その上、窓を閉めていると西向きのアパートは未だに暑い。ヒロは夏バテ体質のくせに、何で裕貴の為に不便な思いをするんだ。
 慌てた裕貴がヒロの腕を掴む。
「それなら俺が酒ちゃんの部屋で寝るよ。いきなり押し掛けて無茶を頼んでるのに、家主が出て行くなんて本末転倒だ。泊めて貰えるだけでもありがたいんだから」
 自覚が有るのかってそうじゃない。ヒロは裕貴の腕を軽く叩いて外させる。
「お客様を掃除もしとらん場所に寝させる訳にいかんやろ。ここは元々まつながーの部屋やもん。俺が部屋に戻るのが筋や」
 やっぱりこうなるか。ヒロは常に人が優先だ。それは美徳で有り、欠点でも有る事をヒロは時々忘れてしまう。そこまでされたら裕貴も居づらくなる事に気付かない。
「裕貴」
 俺が声を掛けると裕貴はすぐに俺の方を向く。
「何?」
「ゴキブリが出てもうろたえる性格じゃないだろ。俺の冬用掛け布団と予備のタオルケットと座布団を貸すから流しの板間で寝ろ。頭は風呂場に向けろよ。でないと、トイレに行く時に顔を踏むからな。そして、ヒロ。普通にいつもの場所で普通に寝れば良いから布団を戻せ」
 一気に俺がまくし立てると、ヒロは困った顔になって首を傾げた。
「ほやけどまつながー、廊下兼台所やで。裕貴さんに悪すぎる」
「エアコン、風呂、トイレ、食事付、その上、ガイド付きの無料宿泊施設なんて無い。ヒロは経験無いだろうけど、寮生だった俺達はこの部屋と大して変わらない寮の部屋1室に10人近く雑魚寝した時に比べたらはるかにましなんだ。そうだろ? 裕貴」
 話を振るとすぐに裕貴は頷いた。
「うん。ずっとマシだ。だから酒ちゃんは俺に遠慮して欲しく無い。遠慮して出て行かれる方が辛いよ」
 ヒロは裕貴の真摯な顔を見て、小さく溜息を吐いていつもの場所に布団を引き直す。普段なら台所に移動させるテーブルを、俺のベッドの足下で冷蔵庫の前に置く。
 夜中にトイレに行きたくなったらヒロの横を通る事になるな。まあ、今夜はビールを飲んで無いし大丈夫だろう。
 裕貴はスペースを確認しながら、俺が押し入れから出した冬用の掛け布団を板の間のに引く。あまり寝返りは出来そうも無いが、せまいコタツと毛布を分け合って男6人で寝た時を思えば随分楽なはずだ。
 俺は2人が横になったのを確認して、電気のスイッチを消した。


77.

 枕の下の目覚ましの振動で目を覚ます。そのまま音が漏れんように枕の下に手を突っ込み、ベルを止めてから起きて布団を畳む。
 食器棚の上に有る電子レンジとトースターの電源を入れて、チーズトーストと牛乳をセット。流しの水道口の下にプラスチックの皿を置いて、細く出した水で顔と口をゆすぐ。足下に裕貴さんが寝てるけど起こさずに済むやろう。
 終了ブザーが鳴る直前にトースターと電子レンジを止めるのも慣れたもんや。
 温まった牛乳入りカップにインスタントコーヒーを入れてカフェオレにする。厚切りチーズトーストとバナナ1本。朝一で食べ過ぎると講義中に眠くなるから、まつながーと時間が合わん日の俺の朝食はいつもこんな感じ。
 俺がトーストにかぶりついたところで背後から声が聞こえた。
「おはよう。酒ちゃんは忍者みたいだねえ。全然足音も気配もしないから、一瞬幽霊かと思っちゃった」
「おはよー、裕貴さん。起こして堪忍な。それと、小声でお願いや。今日はまつながーは1限目無い日なん」
 口元に人差し指を当てながら俺が言うと、心得たと言う顔で裕貴さんが頷く。
「俺も起きるよ。1限から聴講が入ってるんだ。酒ちゃんと一緒に出たら間に合うよね」
 そう言いながら器用に布団を畳むと、俺が止める前に裕貴さんは流しの蛇口をひねった。
「うわっ」
 皿に当たった水は勢いよくはねて裕貴さんの身体に降り注ぐ。慣れてないとああなるんよな。
「うるさい裕貴。寝起きの悪い俺でも目覚まし前に起きたぞ」
 普段なら、俺が出掛ける時までぐっすり寝とるまつながーが起きてしもうた。

「参った。酒ちゃんごめんね」
 俺の隣を歩きながら裕貴さんは苦笑する。
 目を覚ましたまつながーは、俺の朝ご飯を見るなり速攻で3人分のスープと納豆とトーストを用意した。
 3人でテーブルを囲みながら、まつながーは俺にとちくちく文句を言う。
「ずっと思ってたけど何でヒロは俺を起こさないんだ」
 俺が同じ部屋に居らな後1時間はゆっくり寝れるのに、起こせる訳無いやろが。
 普段より時間が掛かったから、片付けもせずに出てきてしもうた。まつながーの事やから、茶碗を洗って、洗濯物も干してから出てくるやろうな。
 そういや、昨夜聞きそびれてもうたな。
「裕貴さんはどこの聴講生なん?」
 俺が聞くと裕貴さんは少し意外という顔をする。
「あれ、俺が何学部か健から聞いてない?」
「うん」
「ふっふっふ。健ちゃんってば、本気で俺と酒ちゃんが仲良くするのをとことん邪魔する気だな。この分だと俺の話は一切してないんだろうな。3年間も一緒に暮らしたのに、ほんの数ヶ月でずいぶん可愛くない方向に育ったな。どうしてくれよう」
 裕貴さんは底意地の悪い笑顔でぶつぶつ言い始めた。ちょっとどころかかなり失敗したっぽい。一応フォローしとこ。
「裕貴さんが俺に迫るとかキモイ事言うから、冗談の通じんまつながーが警戒するんやろ。ホンマは純愛系のくせに」
 暗にホンマに好きな相手には迫れないんやろて指摘すると、裕貴さんは少しだけ首を傾げて苦笑した。
「健みたいに本気の純愛なら良かったんだけどね。俺は意気地が無いだけ。嫌われたり怒られるのが怖いから楽な方に逃げちゃうんだ。特に気に入った相手が女だと、傷つけるのが怖くて、どう接して良いのか迷ったあげく、冗談ばかり言っていたよ」
「あ、うん。余計な事言うて堪忍や」
 裕貴さんの傷をえぐるつもりは無かったのに、えらい嫌みになってしもうた。
「だから」
「なん?」
「たった数ヶ月で健があれだけ懐いた酒ちゃんなら、こんな俺でも全部受け止めてくれるんじゃないかと思うんだ。俺が酒ちゃんを好きというのは冗談じゃないよ。甘えてるだけかもしれないけどちゃんとこれも本気だから」
 そう言って裕貴さんは普段の笑顔に戻った。うーっ。そない言い方されたら怒れんやんか。
「けど、酒ちゃんはもてるからね。昨日のゆっきーも」
「へ、真田さんがどないしたん? ああ、そういや昨日は迷惑掛けてしもうたから今日会えたら謝らんとなあ」
 裕貴さんは少しだけ驚いた顔になると、すぐに訳知り顔になる。
「あー、ああ。そういう事か」
「なんなん?」
「何でもないよ。酒ちゃんを好きになると色々大変だなって思っただけ」
「えー、俺は特別もてんで。嫌われて無いちゅーか、多分チビやから小型動物扱いやと……」
 俺がぼそぼそ答えると裕貴さんはまた訳知り顔になって「酒ちゃんの可愛さは特別だからね」なんて、メッチャ気色悪い事を言うた。
 そんな会話をしとる内に大学に着いてしもうた。
「裕貴さんが受講する教室何処?」
「うーん、あの棟かな」
 裕貴さんはポケットからメモを取り出して見ると工学部に近い方向を指した。
「ああ、それならまつながーの教室が近いなあ。お昼の予定とか決まっとる?」
「全然。良かったら一緒に食べてくれる?」
「ええで。ほな、まつながーにメールしとくから2限目が終わったら出口で待っとって。俺かまつながーのどっちかが迎えに行く」
「ありがとう。助かるよ。この大学で友達と言えるのは2人だけなんだ」
「ほな、またー」
 そう言うて俺らは別れた。出るのが遅くなった分、1限目の講義の時間まであまり時間が無い。裕貴さんは構内地図を持っとるし、事前に見に来てたから大丈夫やろ。
 教室に着いたら最上と石川に説明せんとアカンな。……なんて考えが甘い事を5分後に思い知った。


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