やっと捕まえた!

「酒井くんと松永くん」 =第2期= 『友情の境界線』(19)

65.

 人が、動物が、自然が大好きなヒロ。
 いつも人の良い所を見つけて、素直に賞賛が出来るヒロ。
 誰だって持っているのに、自分の負の感情を本気で醜いと思ってしまうヒロ。
 なんて綺麗な心なんだろう。
 ヒロは意地っ張りでも意固地でも無い。ヘタレなんて論外だ。
 自分の目標を高くしすぎて、自信が持てないだけなんだ。
 だから、周囲から自分に向けられる好意にも、「うっかり」鈍くなってしまうんだ。
 理想に近づく為の努力は、きっと誰よりもしているのに、天然にも程があるだろ。
 俺は気付いた。
 毛利も気付いた。
 今なら毛利が俺の天子にしがみついていても許せる気分だ。
 ヒロは俺達の事が大好きだから、ツンデレ状態になってるんだ。ちょっと前までヒロの憎まれ口に腹が立ったが、自信の無さから無意識でやってると解れば凄く可愛いぞ。
「松永、キショイちゅーねん。思うても口には出すな。お前は酒が絡むといきなり言動がキモうなるな」
「まつながーの独り言もどきは毎度の事やけど、全身に鳥肌が立ってきた」
 は?
 目を開けると、毛利とヒロが嫌そうな顔をして俺を見ていた。まさか、また俺はやったのか?
 ちゃっかりヒロの頭を抱えたままで、毛利がボリボリと首筋を掻く。
「松永、余計な時だけ饒舌になるんはホンマになんとかせい。俺は酒と変態の同居は認めんで」
 俺と毛利に挟まれて、苦しそうなヒロが露骨に軽蔑の目で俺を見る。
「まつながー、1回石川に日本語教育して貰えや。どういう思考回路と言語中枢しとったら、そないキモくて恥ずかしい言葉ばかり出るん。とてもやないけど俺には理解出来ん」
「全くや」
 石川を知らないくせに毛利がうんうんと頷く。この野郎、俺を変態呼ばわりするなら、お前はヒロから手を離せよ。
 とはいえ、ヒロを離せない毛利の気持ちは凄く解るんだ。ここ最近の俺がそうだった様に、毛利もヒロが黙ってしまった事で、嫌われてしまったんじゃないかと不安で仕方が無かったんだ。
 それが「自分の事が大好きだから」なんて理由と知ったら嬉しいに決まっている。付き合いの長さなんて関係無い。俺達がどれだけヒロが好きかが問題なんだ。
 毛利の腕の強さは安心感と正比例なんだろう。俺は本気で力を出すと、ヒロが痛いだろうから遠慮してるってのに。
 ヒロは少しだけ身震いすると、ふっと視界から消えた。俺と毛利に捕まれた状態で何処に行けるんだ?

「痛えっ!」
「……っう」
 向こうずねに激痛が走った。俺も毛利も耐えきれずに地面に膝を付く。
 視界一杯ににヒロが履いてるジーンズの色が見えると思ったら、脳天にもピンポイントで激痛が来る。目がチカチカするくらい痛いぞ。毛利も自分の頭を抱えている。
「お前らなあ、気色の悪い真似をすなって何度も言うとるやろうが。それでのうても暑いのに、ごつくてむさ苦しい男2人に挟まれて、圧死しそうになった俺の身にもなれや」
 痛みで涙目になりながら顔を上げると、ヒロ天子様が本気でお怒りになっていた。背が低いヒロの顔を見上げるなんて、滅多にないだけにマジで怖い。
 下を見るとヒロの足下の砂にくっきりと小さな円が描かれている。その場で回転しながら俺と毛利を交互に蹴ったんだ。足払いで転がされなかったのは、体重差とスペースの問題か。右手は人差し指と中指の第2関節を突き出す形で握られている。あれで叩かれたのか。手加減無しかよ。どうりで痛い。
「あのな、酒」
 頭をさすりながら毛利が立ち上がる。勇者だな。俺にはとても真似出来ない。
「なん?」
 高いヒロの声が、普段より反オクターブは低い。
「今やからホンマの事を言う。俺は酒が他の奴らより俺に優しくしてくれるんは、香さんの事で俺に対して罪悪感を感じとるんやないかてずっと思うとった」
「なっ……」
 珍しくヒロが言葉に詰まっている。そうか、自分でも解らないから否定も出来なきゃ肯定も出来ないんだ。焦ってるのかヒロは気付いてない。今、毛利はしっかり過去形を使ったぞ。
 くそっ。先を越された。毛利に負けてられない。俺も立ち上がって言いたい事を言うぞ。
「俺もだ。ヒロが俺にずっと優しくしてくれているのは、俺が女に振られて以降腐ってて、その上家にも帰れない状態だったから、ヒロは俺を放っておけなかったんだと思ってた。親と和解出来てからもヒロが俺に優しくしてくれたのは、俺がずっとヒロに甘え続けてたからだって」
「へ?」
 大きなヒロの目が更に大きく見開かれる。俺の為に天子で居るのが辛いと言ったばかりなのに、そんなに意外なのか。


66.

 毛やんもまつながーも真顔でなんを言うとるん。俺が罪悪感や同情で2人と親友やっとるて思うてたんか。俺がヘタレを無理に隠そうとして、演技しとる時が多いからか。
 毛やんは勘がええ。まつながーは俺の表情を読むんが上手い。そんな2人から俺はそこまで嫌な性格やと思われてたんか。ヘタレの自覚が有っても情けない。
 アカン、また泣いてしまいそうや。これ以上、2人に情けない顔を見られとうない。また要らん心配をさせてまう。自然と頭が下がる。
「ヒロ、誤解だ!」
「酒、ちゃうで!」
「へ?」
 俺が顔を上げると、すぐ側に強ばった顔をしたまつながーと毛やんの顔が有った。
 うひゃあ。2人共顔がメチャ近いちゅーねん。
 俺が後ずさろうとすると、両側から同時に毛やんとまつながーの手が伸びてきて、しっかり俺の肩を掴んだ。これはちょっと怖いかも……。
 あれ? 2人の顔は真剣やけど、さっきの必死な雰囲気とはちゃう。肩に触れる手は強引さは無くて温かくて力強い。気色悪い感じもせん。2人の中でなんかが変わった気がする。
「えーと、もしかせんでも2人とも自重しとる?」
 俺が聞いてみたら、2人は同時に苦笑した。
「酒の本気蹴りやパンチを何度も喰らいとうないからな」
「俺はマゾじゃないぞ」
 毛やんはともかく、まつながーにはツッコミたいけど今は止めとこ。
「松永、表現がキモイ」
 毛やんがうんざりした顔で言うんで、俺は声を立てずに笑う。ホンマにまつながーは日本語が不自由なんよなあ。
 ほやけど、なしてかまつながーのアホ発言を聞いとると、行き場の無かった気持ちが軽うなってくる。ぐだぐだ悩んでるんがアホらしゅうなって、涙なんて一瞬で飛んでしもうた。
「ぷっ」
 あれ? まつながーが吹いた。
「わはは。酒、メチャ面白い顔になっとるで。なんやその泣き笑いを通り越して、にらめっこみたいな顔は」
 毛やんまで俺を指をさして大声で笑い出す。
「俺の顔がなんやてぇ?」
 2人してなんなんや。俺の顔がどないしたっちゅーねん。そら、ずっと気を張っとったし、2人に嫌われるのを覚悟上であんな事を言うたのに、逆に誤解やて言うて貰えた。
 嬉しいやら訳解らんわで、俺の気持ちは上がったり下がったり激しく動き過ぎた。顔かて変になっとるかもしれんけど、それを2人して笑う事無いやろ。
 俺と目が合ったまつながーがにこりと笑う。
「ヒロ、可愛い」
「げーっ」
 まつながーの爆弾発言に、毛やんが俺から手を離して3歩くらい下がった。俺も今すぐ逃げ出したいけど、まつながーの手はしっかり俺の肩を掴んで離そうとせん。アホスイッチオン状態のくせに、要らん頭は回っとるな。
「気色悪いからマジでやめれー」
 俺が本気で嫌そうに言うと、まつながーは困惑した顔になる。
 ああもう、ホンマに面倒なやっちゃな。こういう時のまつながーは、こっちが言葉で説明せんと全然理解してくれん。
「まつながー、男が男に可愛いなんて言うなて何度も言うとるやろ。普通に気色悪いやないか」
「あれ? 俺、今そんな事を言ったか?」
 またか。毎度毎度、自覚無しの変態めえ。まつながーは益々訳が解らないという顔になる。思いっきり殴りたいけど、こんな調子やとなんの事か解らんのやろうなあ。
「さっきから全部自覚無しで言うとるんか!」
 我慢が出来んくなったんか、眉間にちょっとだけ縦皺状態の毛やんが、まつながーの後頭部を叩く。こっちが普通の反応よな。アホスイッチ付のまつながーに慣れた自分が嫌や。別の意味で泣きそう。
 ほやけど、このままスルーしてもなんも解決せん。まつながーにちゃんと聞いてみよ。
「えーと。まつながー、ややこしくなるから1個ずつな。なして俺を可愛いって思うたん?」
 まつながーは本当になんを言われとるんか、解らないという顔をしながら、はっきりした口調で爆弾発言をした。
「ヒロは可愛いというより綺麗だと思う」
 このアホ、真顔でまだそんな寝言を言うか。毛やんがまた露骨に嫌そうな顔になってまつながーから離れた。俺もまつながーの手を叩き落としてやりたいけど今は我慢や。
「さっき、まつながーが俺を可愛いて言うたんやで。なして?」
「本当に言ったのか。えーと……」
 俺がしつこく追及すると、まつながーは視線をあっち行ったりこっち行ったりさせながら、ゆっくり記憶を反芻する様に呟いた。
「俺は……ヒロは俺の天子で、俺なんかがどれだけ頑張っても、絶対に追いつけないくらい、凄い相手だと思ってた」
 あ。天子発言はともかく、過去形を使うた。まつながーの中でホンマになんかが変わったんや。これは嬉しい変化や。
「出会って間もない頃から、ヒロは俺に優しくしてくれて、本当の家族みたいに温かくて、もしも、俺に兄が居たら、ヒロみたいな感じなのかなとか、思った事も有った。けど、やっぱり、それとも、少し違うんだ」
 いつもとは違うたどたどしい口調やけど、まつながーが丁寧に言葉を使う。きっと、自分の気持ちを正しく俺に伝たえようて頑張ってくれとるんやろう。そうなら、俺も最後まで聞かなアカン。
「俺にとってヒロは憧れで目標だ。だから、俺はヒロの優しさに甘え続けてる自分が情けなくて、段々ヒロに好かれてる自信が持てなくなって」
 まつながー、なんを勘違いして言うとるんや。それはまんま俺の台詞なんやで。今はまつながーが必死にしゃべってくれとるから口を挟めんけど、後できっちり修正せな。
「ヒロは本当に優しいから、本当はとっくに呆れているのに、俺の事を見捨てずに居てくれるんじゃないかって。俺なんかヒロに信用も信頼もされてないんじゃないかと、ずっと不安で」
 余程自信がないんか、まつながーの声がどんどん小さくなっていく。そうやないやろ。アカン。最後まで黙って聞いてられん。
「なして? 俺がまつながーを信用も信頼もしてないなんて、そんな事有るはずないやろ」
 俺がそう聞いたら、まつながーは少しだけ怒った顔になる。
「だって、ヒロは俺には何も言ってくれないだろ」
 あっ、それは……。
 アカン。返す言葉が出ん。俺が黙っとると、まつながーは数回深呼吸をした。
「ヒロはいつも、俺が知らない所で色々辛い目に遭ったり、嫌な思いもしているのに、俺には愚痴の1つも言わない。東京に出てきてから、俺達は1番長く側に居るだろ。一緒に暮らしだしてからは寝る部屋も一緒だ。それでも、ヒロは俺に何も言ってくれない。嫌われてないだけで、それほど信頼されてないんじゃないかと思うようになってた」
 途中で俺に口を挟まれたく無いんか、さっきまでたどだとしい口調やったまつながーは、まくし立てる様に一気に言い切った。
 ああ、そうか。毛やんの指摘した通りや。
 俺が下らん意地を張り続けたから、まつながーは俺に信用されてないなんて真逆の勘違いをして、自信まで無くしてしもうたんや。それは誤解やて言わな。ちゃんとまつながーに解って貰わなアカン。
「だけど!」
「へ?」
 急にまつながーの顔つきが変わる。さっきまでの不安と怒りが入り混じった顔は何処へ行ったんやて、聞きとうなるくらいにはっきりした強い顔になる。
「それもこれも全部、ヒロが俺を大好きだからだと解ったからもう良いんだ。ヒロは器用そうに見えて、本当は俺と同じくらい、感情表現が不器用なんだと解ったから」
 視界の隅で毛やんが頷くのが見える。まさか、毛やんもまつながーと同じ様に不安やったんか。
「ヒロは俺の天子だけど、俺よりたった数ヶ月早く生まれただけだ。色々な事に迷ったり悩んだりする、普通の19歳の男だとやっと解った。はるか上空の遠い場所に居るんじゃない。手を伸ばしたらすぐ手が届く場所に、ヒロは普通に地に足を付けてるんだ。ついさっき、初めて等身大のヒロが見えた。もう俺は勘違いしない。だから、もうヒロは無理をしなくて良い。泣きたくなれば泣けば良いし、怒りたい時に怒れば良いし、笑いたければ笑えば良いんだ。ヒロがずっと俺にしてくれている様に、俺もありのままのヒロを受け止められると思う。……いや、受け止めたいんだ」
 ああ、そうか。まつながーが言いたかったんはそういう意味やったんか。けどな、色々間違っとるで。
 普段はあまり長くしゃべらんからか、ちょっとだけ息切れ気味のまつながーを、俺は正面から見返す。これだけはちゃんと聞かな気が済まん。
「もしかして、今のをまつながーの脳内で全部一言に凝縮したら、「可愛い」になったんか?」
「多分、そうだと思う」
 あっさり真顔で答えんな。聞かされる俺の方がかなわんちゅーねん。
「どこをどうしたらそういう変換になるんや。全然意味がちゃうやろ。言葉を使うのをさぼるなて、いつも言うとるやろうが。アホ!」
 俺が怒鳴り付けると、まつながーが慌てて俺から手を離して数歩下がった。まつながーのアホ発言は毎度の事やから、これくらいで殴ったり蹴ったりせんわい。
 まつながーがキモい原因を理解したっぽい毛やんが、笑いながら俺の頭を小突いてくる。
「ほら、俺が言うた通りやろ。酒は松永を大事にしすぎてハブっとるて」
 やっぱりそこをツッコまれたか。俺は軽く肩をすくめて苦笑すると毛やんを見た。
「これに関しては反論はせん」
 毛やんは急に真面目な顔になると、俺を真っ直ぐに見つめてきた。
「松永に先を越されてしもたけど俺もなんやで。俺が女に振られる度に、酒は苦手な香さんの演技までまでして慰めてくれた。高校3年間、ずっと酒は俺の1番近くに居ってくれた。俺は酒の強さと優しさに何度も助けられたけど、酒は辛い事はなんも言わんと1人で頑張ってきた。酒はホンマに凄い奴やから、俺なんかが酒の親友でもええんかて思うとった。酒は褒め言葉や好意を口に出すのを惜しまん奴やけど、それは俺を安心させる為で、本心から言うとるんか不安やった」
 昼間聞かれた時はすっとぼけたけど、毛やんまでそないに弱気な事を思うてたんや。俺はずっと毛やんの明るさに救われてきたんやで。
「ほやけどな」
 またや。俺が反論しようとすると、先に言われてまう。
「さっき、酒は俺の事も大好きやて言うてくれたやろ。こんな俺に憧れとるとまで言うてくれたやろ。メチャ嬉しかった。俺も酒の事が大好きで尊敬しとる。俺らはホンマの親友や。俺はそれが解って満足や」
 余程安心したんか、まつながーと毛やんはお互いに顔を見合わせてにやりと笑った。
 ああ、そうや。これなんや。
 俺はずっと毛やんやまつながーや、色々な人に助けられ続けとる。みんな良い人ばかりやから憧れて、いつか俺もそうなりたいて思うとる。
 まつながーや毛やんも俺と同じなんや。最上や石川もそうや。みんな、俺の良い所をちゃんと見つけてくれて、ほんで俺を好きやて言うてくれてたんや。それをアホな俺は否定してしもうた。石川から傲慢て言われるはずや。
 最上の時と一緒や。ほんの少しだけ、まつながー達と自分を置き換えてみたらすぐに解る事やないか。
 俺はまつながーや毛やんの気持ちを理解出来る。それに、毛やんもまつながーも嘘を嫌うのを知っとっるのに、2人の言葉を全部信じる事が出来んかった。俺はなんちゅーアホや。
 これだけ優しい言葉を2人から言うて貰えたんや。今度は俺がしっかりせな。
 俺はしっかり両手を握りしめから足にも力を入れると、まつながーと毛やんを真っ直ぐに見た。


67.

「毛やん、まつながー、かんに……今のは間違いや。堪忍して。やりなおしする」
 ヒロは一旦目を閉じて深呼吸をすると、ゆっくり顔を上げた。
「毛やん、まつながー、俺の事を心配してくれてホンマにおおきに。俺は2人と出会えて、親友になれて幸せや」
 本音を知られて恥ずかしいのか、はにかんだ笑顔でヒロは俺達にそう言った。普段の天真爛漫な笑顔とは違う。だけど、何かが吹っ切れたみたいな顔だ。
 何でだろう。こんなにはっきりヒロが好意を口に出してくれたのに、返す言葉が出てこない。こんな時はありがとうで良いのか。それもちょっと違う気がする。
 ちらりと横を見ると、毛利も今にも嬉し泣きしそうな顔をしていて、言葉が出ないみたいだ。
 俺達が無言で棒立ちになっているからか、ヒロの方から近づいてきた。
「なあ。まつながー、毛やん、酒は買わんくても充分有るやろ。俺の冷蔵庫にも数本有るし、冷えてなくても缶を短時間冷凍庫に入れる手も有るやろ。つまみかて買い置きの缶詰やお菓子が有るやろ。一緒に3人でアパートに帰ろ」
「けど、酒。俺は2人に迷惑を掛けた詫びも含めて、飲み代くらいはおごりたいんや。アカンか?」
 生真面目な毛利がいかにもな事を言う。外に出る口実だけじゃ無かったんだ。やっぱりヒロの親友だ。
 ヒロは全てを見通す天子様の笑顔になって、ゆっくりポケットから俺が鳥羽であげた金色の懐中時計を出すと、俺達の前に突き出してきた。
「ほら、毛やん、時間見てみ。こない時間にコンビニに行ったら、居るのは大抵店長さんかバイトでもリーダークラスさんや。いくら老け顔の毛やんやまつながーかて、酒をレジに持って行ったら年齢を聞かれるで。身分証も出せて言われるで。警察を呼ばれたいん?」
 言われて俺も慌てて再確認で腕時計を見る。うわっ。本当にとっくに12時過ぎてる。これはとても行けない。
 毛利が困った顔で俺を見る。俺も首を横に振って「無理だ」と答えた。親や大学に通報されたら全員洒落にならない。
「そういう事やからさっさと帰るで。夜中にこない所でアホをやり続けるんは堪忍してや。俺はいつ町内巡回パトロールが来るかとヒヤヒヤしとったんやからな」
 そう言ってヒロは俺達に背を向けて歩き出した。何だかんだ言ってやっぱり怒ってたのか。納得の天子様モードだから困る。
 俺の横を歩きながら、毛利がボソリと呟いた。
「やっぱり、怒った酒は伊勢の荒御魂様やなあ。怖くてとてもやないけど逆らえん」
 ……やっぱり毛利もヒロを天子だと思ってるじゃないか。この野郎、昼間は散々俺を笑ったくせに。
 俺と毛利はヒロの小さな背中を見ながら、お互いに肘で肩を突き合った。

「今日は俺も飲むー」
 素早く3人交代でシャワーを浴びた後、布団を敷いたヒロは隣の部屋からもあるだけの酒を出してきた。
 俺も冷蔵庫から買い置きのチーズを出して、菓子や焼き鳥の缶詰を皿に開ける。分量は結構有る。けど、これだけ一気に消費したら次の買い出し時が怖い。
 乾杯をする前に毛利が聞いてきた。
「酒、松永、明日の予定はどうなっとる?」
 缶ビールを片手に聞く事かと思うが、毛利は細かい所に気が付く奴だ。
 俺とヒロはお互いに顔を見合わせて毛利の方を向くと、「明日はバイトは休み」と同時に答えた。俺はさっきバイト先で休みを頼んだ。きっとヒロもそうしたんだろう。
 何となくだけど今ヒロが考えている事が判る。俺達は明日、毛利を無事に三重に帰さなきゃいけない。月曜日は毛利も大学だろう。俺とヒロも授業が有る。色々な事を話したり、一緒に遊べる時間は限られる。こんな事が出来るのは今夜だけ。まるで祭みたいだな。
 俺と毛利はビールを、ヒロはチューハイを開けて乾杯をした。

「つぎはあ。びーるにちょうせんとお、あー、そーやー、このさいやかあらぁ、いっきのみもやってみるー」
「ヒロ、止めろ」
「酒、待てえっ」
 俺と毛利の制止を振り切って、ヒロが(安い発泡酒だけど)ビールをぐいぐい呑んでいく。普段ならチューハイ1缶呑み切らないうちに寝てしまうくせに、今夜に限ってすでに2本は空けていた。
 俺がつまみの追加でちょっと目を離した隙に何をする。ヒロの顔はゆるみきっていて、ゆでだこみたいに真っ赤だ。毛利もこうなる前に止めろよ。
「あーっ」
 毛利が何とかヒロからビール缶を取り上げる。身長差がかなり有るから、立つと高く上げた毛利の腕にヒロの手は届かない。
 ヒロはしばらくの間ふらふらしながら、缶を取り戻そうと足掻いていたが、ぶくっと頬を膨らませて畳に座り直した。
「もうやんのけちいー。ええもーん。ほかにもあるからあ」
 そう言ってヒロは俺がキープしていた未開封のビールに手を伸ばそうとする。
「ヒロ、もう止めとけ」
 俺がヒロの手の届かない所にビールを避難させると、ヒロは今にも泣きそうな顔になって俺を見上げてきた。
 ええ? 何でだよ。もうヒロの限界はとっくに超えてるだろ。
「まつながーのあほー。おれかて おれかて お れ か てぇ」
「何だよ」
「おさけをのみたいときあるんやからああ。もうやんもまつながーもいじょーにいかほごやー。うみのおやにがいにおかんはふたりもいらんわあい。どっちもおおれよりうまれおそいくせにい。すきなだあけのーまーせーてー」
 ヒロ必殺のお願い視線が俺を突き刺す。普段の俺なら一発で折れている。だけど、駄目なもんは駄目だっての。それでなくても普段呑みなれて無い奴が度を超したら、最悪救急車だ。
 あがいてもたつくヒロを何とか布団の上に座らせる。
「痛てっ」
 ヒロ、恨みがましく猫みたいに人の太股を両手でひっかくな。爪が伸びて無くても痛い。
「まーつーなーがああおーねーがーいー」
 要求が通らないのが余程悔しいのか、ヒロは俺の腰に手を回して、頭をぐりぐり押しつけてくる。まるで犬だ。こんなの普段のヒロだったら有り得ないだろ。
「げっ。うわっ。ちょっと待て。こら。ヒロ、止めろって」
 鳥肌が立った。ヒロの奴、嫌がらせのつもりか俺のケツを撫で回しやがった。マジで今夜のヒロはおかしいって。
 一部始終を見ていた毛利は、頭を軽く抑えながら溜息を吐くとゆっくり顔を上げた。
「松永、料理用でええから日本酒かワイン無いか。なんも無いならみりんでもええ」
「ああ、それなら肉魚料理用の白ワインが冷蔵庫に有る」
「ちょっと貰うで」
 立ち上がった毛利は冷蔵庫からワインを出すと、コップに1センチくらい入れて、湯冷まし水をそれに入れて持ってきた。どれだけ薄めるんだよ。
「酒、これなら呑んでええで」
「わあい。もうやんおおきにい」
 許可を貰ったヒロは俺から手を離すと、すぐに毛利の隣に座ってコップを受け取った。そして嬉しそうにチビチビ呑み始める。
 どう考えても不味そうなんだが、ヒロは気にならないらしい。コップ1/3くらいを空けると、何もない壁を指さしてケタケタ笑い始めた。絡みの上に笑い上戸まで有るのか。こんな凄い酒癖だなんて知らなかった。
「やっぱりや」
「何が?」
 俺が聞くと毛利は何とも言えない苦笑をして数回手を振った。
「今の酒は酒を呑んどる雰囲気を楽しみたいだけなんやろ。あんなんを呑めるんやから、酔いで味覚がおかしゅうなっとるで。ちゅーか、普段の酒ならチューハイ1缶で寝てしまうやろ」
「うん」
「今まで余程心に溜め込ん……」
 そこまで言い掛けて、毛利は黙ってしまった。
 俺にも解る。酒に弱くてすぐに酔ってしまうヒロは、自分で自分をコントロール出来る内に眠ってしまうんだ。寝れば醜態を晒さずに済むし、自力で布団に入れば誰にも迷惑が掛からない。
 酔ったヒロがそこらで寝てしまうのは、俺が無理矢理誘った時くらいだ。
 壁と呪文みたいな会話をしていたヒロがふいに俺達を振り返る。
「まつながー」
「何だ?」
 とりあえず返事をしておこう。暴れ癖まで有ったら怖い。酔ったヒロはそれこそ手加減なんか出来なさそうだ。
「もうやんー」
「なんや」
 毛利も短く返す。こいつもしっかり警戒してるな。
「ふたりともー、めっちゃだいすきやでー。おれらはあ、いっしょーの、しんゆーよなあー」
「……」
 俺達が一瞬絶句して返事が出来ずにいると、ヒロは天子の笑顔になって、空になったコップを握りしめたま、ぱたりと布団の上に寝てしまった。限界点を突破したらしい。

 祭は終わりだ。俺と毛利は無言で目配せすると、布団とテーブルの上を片付け始めた。
 音を立てない様に俺が流しにコップや皿を置いていると、缶の入ったビニール袋を持って、毛利が俺の横に立った。
「松永、2度目やけど酒の事ホンマに頼むわ。お前にしか頼めん」
「気持ちは嬉しいが、あまり俺を買いかぶられても困る。東京で俺がヒロに対してどれだけ情けない状態だったか毛利にも解っただろ」
 俺がヒロをサポートする自信なんてとても持てない。言いたい事を察したのか、毛利は笑って俺の肩を軽く叩いた。
「買いかぶりとちゃうで。ついさっきまで、俺は酒は全然変わっとらんて思うてたけど、やっぱり変わった。伊勢に居った頃の酒は俺の前で涙を見せたり、あんな風に自分が判らんくなるまで酒を呑むなんて考えられんかった。なんのかんの言うもて、こんな形でも酒が自分に正直になれたんは松永の力やて思う」
 うわあ。凄く嬉しいけどてれくさい。3年来のヒロの親友から褒められたんだ。素直に受け取っておこう。
「あ……あ、りが、とう」
 俺の言い方が余程おかしいのか、毛利は腹を抱えて無言で笑い出した。
「松永は今まで酒の周囲に居らんタイプやからかもしれん。普段はどんな無茶やアホをやられてもどこか余裕の酒を、他になんも考えられんくなるくらいに振り回せられるんは松永くらいや。そんで酒がもっと正直になれるんなら、それはええ事やろ。これなら香さんも安心や」
「なんでそこであの女の名前が出るんだよ」
 俺が不満気に言うと毛利は苦笑しながら袋の口を閉じる。
「松永が香さんを誤解されたまんまなんは腹が立つけど今は内緒や。香さんから酒にも絶対言うなて厳しゅう口止めされとるからな」
 そう言って毛利は俺にビニール袋を渡すと軽く口をゆすぐ。布団に戻るとヒロの上にタオルケットを掛けて、自分もヒロの隣に横になった。
 ヒロがあれだけ自分に正直になってくれたのは俺も嬉しい。だけど、また謎が増えた。馬鹿姉と毛利とヒロと、一体どういう関係になってるんだ?
 ヒロも知らない事であれこれ考えても仕方無いか。俺も歯を磨いてさっさと寝てしまおう。


68.

 味噌汁の臭いがする。それと話し声?
「どないする?」
「ゆで卵が冷めたから起こしてくれ。布団を敷いたままじゃ飯が食いづらい」
「分かった」
 あれ? 部屋がゆがんで見える。それに、なんや自分が変や。
「酒、いい加減に起きろや!」
「ふえっ? …………。いたあ」
 毛やんに叩かれた頭がメチャ痛い上に視界がぐるぐるする。耳の中で音がメチャ反響する。自分の声も振動で苦痛に感じる。口と喉がカラカラや。
 あ、毛やんが困った顔で俺を見とる。服装も自分の服に着替えとるからかなり前に起きたっぽいな。さっきの会話からして起きなアカンよなあ。風邪とはちゃうし、なんなんこれ。
 俺が布団の上で座り込んどると、まつながーが苦笑しながら冷たい水が入ったコップを持ってきた。
「ヒロ、喉が渇いてるだろ。水を沢山飲めよ。二日酔いは初めてなんだろ」
 渡された水を一気に飲んで、俺はまつながーを見上げた。
「まつながー、おおきに。2人ともおはよー。頭がガンガン痛い。こない辛いのが二日酔いなん?」
 俺が泣きそうな声を出すと、すぐ側に座っとった毛やんが吹きだした。
「おはよーさん。酒は今までほとんど呑んだ事が無いんやからしゃーない。ほやけど堪忍や。朝飯にするからそこを退いてくれ」
「ぎゃっ」
 毛やんは俺を荷物みたいに抱えると、ベッドの上に放り投げた。病気や無いけどもうちょい丁寧に扱ってやあ。振動で頭がくらくらする。
 俺が朦朧とする頭を抱えとると、毛やんは素早く布団をたたんでテーブルを用意して、流しに置いてあった料理を運び始めた。
「おはよう。ヒロ、さっぱりするからこれで顔を拭けよ。顔を洗うのは落ち着いた後で良いだろ。吐き気は無いか?」
 視界に居らんと思ったら、まつながーはお湯で温めて固くしぼったタオルを俺に差し出してくれた。ホンマに細かい所まで気が回る世話好きオカンやなあ。
「おおきに。頭は痛いけど吐き気はせんで」
 タオルを広げて顔に当てると、ちょっと熱いくらいなのに気持ちええ。そういや俺は昨夜どうしたんやったけ。チューハイ2本目を呑みながらチーズをつついた辺りから記憶が無い。
「せっかくの出来たてや。酒も食えんるなら一緒に飯にしようや」
 料理を並べ終わった毛やんが声を掛けてきたんで、俺もベッドから降りてテーブルの前に座った。

 オクラとえのきの味噌汁に納豆(やっぱり出た)と、ゆで卵と海苔に漬け物の、土日のまつながーにしては簡単メニューの朝食を食べ終える。
 まつながーが翌日まで身体に残った酒は、大量の水かカフェインで流してしまえば楽になると言うて、素早く3人分インスタントの濃いブラックホットコーヒーを用意してくれた。
 テーブルを囲んでコーヒーを飲みながら、俺は不気味な含み笑いをしとるまつながーと毛やんに聞いてみた。
「なあ、教えて欲しいんやけど。昨夜の俺、変な事せんかった?」
 まつながーと毛やんはお互いの顔を見合わせると、数回瞬きをして俺の方を向いた。あ、メチャ嫌な予感。
「お前、急に笑い出したり、壁に話し掛けたり、松永に抱きついて泣きべそかいとったで」
 毛やんが笑いながら言うと、まつながーは憮然とした顔になる。
「ヒロは絡んできたあげく、俺のケツを何度も撫でやがった。気持ち悪くて鳥肌が立った」
「へ?」
 今、俺はメッチャ凄い聞き間違いをした。……と思う。
「堪忍。頭がまだはっきりしとらんみたいや。もう1回言うてくれん」
 俺が頭を下げて頼むと、毛やんとまつながーは同じ事を繰り返し言うた。
 えーっ。俺が泣きながらまつながーに抱きついて、しかもケツまで撫でたあ?
「う……そやろ。俺が記憶が無いからって、からかっとるんやろ」
 俺がボソリと呟くと、毛やんが溜息混じりに言うた。
「俺らは酒に嘘は言わんで」
「面白い物は見れたけど、セクハラされるのは2度とごめんだ」
 まつながーも苦笑しながらそう言うた。
 うひゃあ。まあじぃ? 無自覚変態のまつながーから、セクハラなんて言われたら、俺は立ち直れん。
 反論出来ずに俺が涙目になっとると、まつながーが小さく笑う。
「けど、嬉しかった」
「へ?」
 どういう意味やろう。まつながーは俺が聞き返す前に、「先に洗濯してくる」と言うて、洗濯物が入ったバケツを持って俺の部屋に行ってしもうた。

 まつながーに置いてきぼりを喰らったみたいで複雑な気分や。
 朝ご飯をまつながーが作ったんで、片付け担当の俺が茶碗を洗い始めると、毛やんが俺の隣に立った。
「酒」
「なん?」
「酒の側に松永が居ってくれてホンマに安心した。これからはもっと気楽に頼ってやれや。ちゅーか、鼻水拭きやろうが、よだれ拭きやろうが、とことんこき使い倒したれ。その方が松永も嬉しいやろう」
 ……。昨夜俺はまつながーになんをやらかしたんやろう。もしかして、迷惑一杯掛けてしもうたんかな。記憶が無いだけに不安や。
 俺が返事出来ずにおると、毛やんはくしゃりと俺の頭を撫でて、そのまま抱え込む。手はなんとか動かせるけど、皿を洗いながらこの姿勢はキツイ。
「毛やん、首が痛いんやけど」
「当分会えんのやから、少しくらい我慢せい」
「分かった」
 俺が手を止めて身体の向きを変えると、俺の頭を抱える毛やんの力が強うなった。
 7月に会った時はあまり感じんかったけど、やっぱ毛やんはごつうなっとる。工学部やから実習に備えて身体を鍛え続けとるんやろう。将来現場に出たいて言うとったもんなあ。身長は少し低いけど、まつながーと大して変わらんくらい太くて丈夫そうな腕や。
「酒」
「なん?」
「お願いやから、幸せになってくれ」
「はあ? なんやねんそれは。俺は充分……いたた」
 俺が反論しようとすると、毛やんが凄く強い力で俺を抱きしめてきた。
「松永のおかげで酒が人に甘える事を覚えてくれたんは嬉しい。ほやから、せめて東京に居る間くらいは、酒に自由でおって欲しいんや。ここなら誰にも気兼ねは要らんやろ。余程の事をせんかぎり、親や香さんに迷惑は掛からん。もう人の目を気にして怖がる必要は無いんやで。今まで背伸びしてきた分、酒も子供らしい我が儘を言う時が有ってもええやろ」
 朝から毛やんの態度が微妙やと思うたら、そんな事を考えとったんか。どうやら、俺は酔っぱらった勢いで、ガキみたいにまつながーや毛やんに駄々をこねたっぽい。
「松永に甘えてやれ。松永は俺と同じくらいお前を頼りにしとる。酒も同じだけ甘えてやればええ。せっかくあんなにええ親友が出来たんや。持ちつ持たれつやろ」
 毛やんも相変わらず心配性やなあ。少しでも安心して欲しくて、俺は軽く毛やんの背中を叩く。
「あのな、俺は今も充分甘えとるんやで。まつながーが気付いとらんだけや」
「どこが?」
「バイト先でえっちDVD借りてきて貰ったり、コンビニで酒買って来て貰ったり、背が高いから目印になって貰ったり、高い所にあるもん取って貰ったり……」
「あのなあ」
 腕の力を抜いた毛やんが、呆れた様な声を出す。
「暑さに弱い俺が割り勘でエアコン買って、一緒に住みたいなんて凄い我が儘言うたら、まつながーは最初は彼女が出来た時に困るからて嫌がったん。けど、その日の内に折れてくれて、こうして俺と住んでくれとる。これって普通に考えたら凄いやろ。こんな我が儘はまつながーにしか言えん。俺はずっと前からまつながーに甘えきっとるんやで。まつながーは優しいから、自分がどれだけ頼りになるんか知らんのや」
 毛やんは俺の背中に回してた手を肩に置き直すと、俺の顔をまじまじと見た。
「嘘やないで。俺はまつながーに甘えとる」
 俺がきっぱり言うと、毛やんはにっこり笑ってくれた。
「そうならええ。松永がええ男やからて、変な道へ走んなや」
「アホかい。その手の鳥肌モンの気色の悪い事は言うなちゅーねん!」
 顎に俺の軽いパンチを喰らって、毛やんは尻餅をついたけど、そのまま大声を上げて笑い出した。俺も声を立てて笑う。
 そらそうよな。有り得ないと解っとるから、キモイ冗談かて言えるんよなあ。……ネタでも断固拒否やけど。
 馬鹿笑いが収まったんか、毛やんが真面目な顔になる。
「酒、ホンマに世話になった。俺はそろそろ伊勢に帰る。今回は親になんも言わずに出てきたから、夕方までに家に帰らんと後々面倒や」
「うおっ。心配するから無断はアカンやろ。そうなら東京駅まで送ってく。毛やんの親と兄さんにお土産も渡して貰いたいから」
 立ち上がった毛やんが笑いながら俺の頭を小突く。
「2日酔いで頭が痛いんやろ。今は平気かて電車に乗ったら吐くで」
「ほやかて、俺の気がすま……」
 俺が反論しようとすると、毛やんはまた頭を小突いてきた。
「家族には俺が東京駅で買うから心配すな。ちゃんと酒からやて言うから。それに」
 毛やんが言葉を切るんで俺も聞き返す。
「それに?」
「東京駅まで来られたら、そのまま酒も三重に連れて帰りとうなる。俺の気持ちの問題や。分かってくれ」
「……うん。分かった。なら、1番近い駅まで。これ以上は俺も引けんで」
「そこまでならええ」
 俺は茶碗を洗い終わると、毛やんと一緒に俺の部屋に居るまつながーに声を掛けに行った。


69.

 なんとなくヒロと毛利を2人きりにした方が良い気がして、洗濯を言い訳にして出てきてしまった。
 昨夜の記憶が無くて不安そうなヒロの目が気になったけど、毛利なら上手くフォローしてくれるだろう。
 たった2日で思い知った。毛利はヒロの扱いが凄く上手い。それに比べて、俺は7月にヒロ天子に完敗して以降、ヒロの顔色を見てしまう事が多い。
 毛利はヒロに遠慮無く言いたい事を言ってやっていた。あれが普通の親友だよな。俺も裕貴相手なら遠慮はしない。だったら、俺とヒロは何なんだろう。
 ヒロは何度も俺を大好きだと、一生の親友とまで言ってくれた。凄く嬉しいのに、どこかもどかしい。俺の方こそヒロに対しては、俺「なんか」なんだよな。
 昨夜、毛利は俺にヒロの事を頼むと言ってくれた。
 甘え下手で意地っ張りのヒロが甘えられる(あの絡み駄々こねセクハラもどきが甘えと言えるならだが)様になれた原因は俺だからって。けど、本当にそうなのか。
 俺がヒロにしてきた事と言えば、買い物と料理のコツを教えたくらいしか思いつかない。
 ヒロは時々凄いうっかり者になるから、財布は持ったかだの、鍵は閉めたかだの、冷蔵庫に食い物は有るかだの、寝冷えするなだの、毛利やヒロに指摘されるまでもなく、口うるさい母親みたいな事ばかりヒロに言っている。
 ヒロは俺が1番辛い時に、黙って側に居てくれた。やっぱり、俺が一方的に甘え続けてるんじゃないのか。とてもじゃないけど自信なんて持てないっての。

「いつもああなんか?」
「うん。最初はどないしよかて悩んだけど、まつながーはいつも自覚無いし、スルーしても実害無いから、余程キショイコト言わん限り、最近は放置する事にしとる」
 は?
 振り返ると、玄関先でヒロと毛利が呆れ顔で俺を見ていた。このパターンからして。
「ひょっとしなくても、また俺は独り言を声に出してたのか?」
「うん」
 否定して欲しかったのに2人で即答かよ。一体どこから聞いていたんだ。
 今回こそは聞こうと2人の側に行こうとしたら、洗濯終了のブザーが鳴った。くそっ。タイミングが悪いな。
 仕方なく洗濯物を干し始めると、ヒロと毛利も手伝い始めた。
「松永」
「何だ?」
 バスタオルの皺を伸ばしながら、毛利は複雑な笑顔になる。
「俺はこれを干し終わったら伊勢に帰る。色々世話になった。ホンマにおおきに。挨拶をしにこっちへ来たんやけど、松永が1人漫才をしとるんで、声を掛けそびれてしもうた」
「そうか」
 それで毛利は寂しいと諦めと開き直りが混じったみたいな顔になってるのか。
 俺が毛利の立場ならどうするだろう。やっとヒロの本音が解ったのに、こんな風にあっさり地元に帰れる自信は無いな。これが毛利の強さなんだろう。俺も見習わなきゃな。
「酒がそこの駅まで送ってくれるて。東京駅までて言うたけど、2日酔いを電車に乗せたらアカンやろ」
 先を越す様に毛利は笑顔で言った。俺の表情から何を考えてるか解ったんだろう。
「じゃあ、俺もそこまで送るよ」
「うん。おおきに」
 洗濯物の山と格闘しながら、背後でヒロが愚痴をこぼす。
「まつながーも毛やんも口と同時に手も動かせや。さっさと干さな皺になるやろ」
 ごもっとも。俺と毛利も急いで洗濯物を干し続けた。


70.

「松永、元気でな。酒、次は冬休みになー」
 そう言うて毛やんは笑顔で駅の改札口に入って行った。
 その前に駅前でまつながーとごちゃごちゃ言いながらなんかやっとったけど、どうやら、携帯番号とメルアドを交換してたっぽい。
 アパートに戻る道すがら、俺の視線に気付いたまつながーが、慌ててジーンズのポケットに携帯を突っ込む。
「べ、別に、ヒロに隠れて毛利にヒロレポとか……しゃ……写メを送るんじゃないからな」
 どもりながら正直な暴露をおおきに。今後はまつながーの変態隠し撮りには更に要注意やな。毛やんまで一緒になってアホをすなちゅーに。どこかに隠しとる写真データも、全部廃棄処分にしてやりたい。諦めと呆れ混じりの溜息が出る。
「俺も裕貴さんと時々連絡取っとるから、まつながーも毛やんと「仲良くする」分には気にせんでええで」
「えっ。ヒロが裕貴と何を話してるんだ?」
 裕貴さんの性格考えたら判りそうなもんやのに、なしてそこでびっくりするんや。
「時々メールで雑談しとる。まつながーは裕貴さんにほとんど連絡しとらんやろ。やっぱ、どうしとるか解らんから寂しいんとちゃう」
 俺がツッコムと、まつながーは真剣に悩み出した。
「相手が最上や石川なら俺も心配しないけど裕貴だけは」
 なんの心配か正直に言うてみい。暑さでアホになった頭を数発どついたるから。
 こっそり拳を握りしめたら、俺の携帯のベルが鳴った。毛やんかと思うて取ったら姉貴やった。メールやのうて電話なんて、東京に出てきてから初めてちゃうか。
「なん?」
『博敏、結論から聞くで。兼人君はもうこっちに帰ったん?』
「へ?」
 なして姉貴が毛やんの事を知っとるんや。声がメチャでかいから、隣を歩いとったまつながーが不思議そうな顔になる。
『へ? や無いわ。昨日の朝、兼人君の親から実家に電話が有ったんよ。兼人君が連絡無しに朝まで帰ってこんて。携帯も繋がらんから、アンタがなんか知らんかって。兼人君は高校時代に、ようアンタに相談しに来てたやろ』
「あー、そういや毛やんが家に連絡入れとらんて、今朝になって言うとった。毛やんの親は俺の携帯番号知らんからオカンに連絡したんやな」
 俺が間抜けな声を出すと、姉貴の声はもっとでかく激しくなった。
『やっぱり兼人君はアンタのトコに行っとるんやね。で、兼人君はどないしたん? 急いどるんやから早う言うて』
「堪忍。毛やんならさっき三重に帰る電車に乗ったで。遅うても夕方には家に帰るて言うとった」
 毛やんから聞いたままを話すと、姉貴は電話口の向こうで安堵の溜息を吐いた。これは毛やんとこから、オカンらになんやきつく言われたな。
 まつながーが小声で「姉さんか?」と、聞いてきたんで黙って頷く。まつながーが嫌そうな顔になったんはしゃーない。まつながーにとって姉貴はトラウマやもんな。
「毛やんは金曜の夜からうちに来とった。いつもの事やと思うて、毛やんの親御さんやオカンに連絡を入れんかったんは俺のミスや。俺のせいでオカンや姉貴にまで迷惑を掛けてしもうた」
 姉貴は少し黙ると、立て板に水どころじゃない勢いで話し始めた。
『なんをアホを言うとるの。アタシはアンタが悪いなんて一言も言うとらんでしょ。オカンもアタシも兼人君がアンタのトコに居るて思うたし、アンタなら兼人君が落ち着いたら、ちゃんと三重に帰らせるて解っとるから安心しとったわ。実は昨日、兼人君の親にアンタの携帯番号聞かれたんよ。けど、今はアンタの携帯は壊れとるて事にしといたん。兼人君が他の誰にも相談出来ん悩みを抱えた時に、アンタに相談するのは毎度の事やろ。たとえ親かてアンタの邪魔はさせとう無かったんよ。アンタなら兼人君を助けられたやろ』
「うん。俺の事、信じてくれておおきに。毛やんはいつも通り、元気に帰って行ったで」
『そない事やと思うたわ。ほやけど、2日も連絡無しやから、一応アンタに確認しておこう思うたんよ。嘘を言うて連絡させんかった責任は、オカンとアタシに有るんやもん』
 オカンと姉貴が結託して、俺を信じて毛やんを守ってくれたんか。ちょっと嬉しいかも。
 話しとる間にアパートの部屋の前に着いてしもうた。まつながーが気を利かして、無言でドアを開けてくれる。俺も靴を脱ぎながら軽く頭を下げてお礼の代わりにする。
「姉貴にもオカンにも色々面倒掛けてしもうたな」
『ええよ。友達は大事にせなアカンからね。お父さんも納得しとるから安心しや』
「うん。あ、ちょい待って」
 俺が定位置に座ると、ベッドに腰掛けたまつながーがジェスチャーでなんか言うてくる。
 へ? 携帯の手ぶら機能を使えて? なんでやねん。自分の携帯には付いとらんから?
 まつながーは口をぱくぱくさせながら、両手の人差し指を何度も交差させて、自分の胸を叩く動作を繰り返す。
(姉さんと喧嘩になりそうなら俺を頼ってくれ。それまでは黙ってるから)
 あ、そういう事か。相変わらず気遣いやなあ。喧嘩にはならんて俺は思うけど、まつながーからしたら心配なんや。別に聞かれて困る話やないからええか。
 俺は携帯から少し耳を離してボタンを押した。
「待たせて堪忍や。毛やんを送って、今アパートに戻ってきたん」
『外に居ったたんか。どうりで音が変やと思うた。そういえば、アンタ、あの松永とまだ友達なん?』
 いきなりピンポイントで来た。まつながーの顔つきがいきない険しうなる。俺もきっちり釘を刺しておかんと。
「一生物の親友やて言うたやろ。姉貴にまつながーの事をあれこれ言われとうないで」
『初対面の相手にあれだけはっきり物が言える子はそうそう居らんし、オカンらに気に入られてる子をアタシもあれこれ言わんわ。けどな、あない誰が見とるか判らん場所で、松永が冗談でも変態のふりした事だけはアタシは許さんで。松永はもう三重に来んやろうからあれっきりで済むけど、アンタはそうやないんやからね。痣の理由は後でお父さんから聞いたわ。喧嘩の跡をキスマーク宣言するなんて松永はなんを考えとんの。アタシはアンタが変な趣味を持っとらんのは解っとるけど、松永の事まではよう知らんし、通りすがりの人は完全に勘違いするかもしれんやろ。ほやから、アタシはあの時メチャクチャ怒ったんよ。ちゃんと解っとる? アンタはオカンと一緒で、色々忘れっぽいから目を離せんのやで』
 それであないに怒ったんか。そいや、俺も怒ってて周囲の目は気付かんかったなあ。その前にまつながーを本気で怒らせたんは姉貴やでってツッコんでも無駄やろうな。
 俺とまつながーは目を合わすと無言で苦笑した。まつながーも姉貴に言うても無駄やて思うたな。
「うっかりしとったんは俺のアホやけど姉貴に謝らんで」
『アタシらを知っとる人が居らんくてホンマに良かったって話をしとるの。済んだ事はもうええわ。松永に東京でも2度とあない悪趣味な事は、ネタでもせんといてと言うといて』
 姉貴の念押しにまつながーが微妙な笑顔になる。してやったりという顔に見えるんは俺の気のせい? ホンマに洒落にならん仕返しをするんやから。
 ちゅーても、姉貴が居らんくなってから、まつながーには胃液を吐かしてやったから俺ももうええ。
『まあ何にせよ、アンタが沢山の友達から頼りにされるんはええ事やもんね。男ばかり集まるんが難点やけど、同姓から嫌われる男にろくなのは居らんからね。アンタがホンマにええ男の証拠やわ』
「へ?」
 いきなりなんなんや。俺の聞き間違い? いや、まつながーも姉貴とは思えん台詞にびっくりした顔になっとる。聞き間違いとちゃうんや。
「姉貴、なんか有ったん?」
 姉貴がこないはっきり俺を褒めるなんて、青天の霹靂レベルやで。
『なんでも無いわ。アンタののんびりした声を聞いとったら、頭の固い男と別れたんを思い出しただけ』
「またあ?」
 もしかせんでも7月末に会うた人か。姉貴は3ヶ月から半年くらいで大抵彼氏が替わるけど、またオカンに怒られるで。気分ですぐに気持ちが変わるんやから。……とは言わずにおく。これに関しては言うても無駄や。まつながーも呆れた顔をしとる。
『しゃーないやろ。アンタより良い男はそうそう居らんのやから。出来すぎた弟を持つと姉は苦労するわ。社会に出てもちょっと見所が有る男はみんな、近うても名古屋か大阪に行きたがるんよ。故郷に骨を埋める気が無い男に、家や家族は任せられんから』
「ちょっと待ってや。さっきからなんのはなしー?」
 今、凄い事聞いたで。俺へのメチャ上げも凄いけど、なして姉貴が家や家族の話をするん? 姉貴は自由恋愛主義の人やろ。本気で惚れた相手さんと結婚して、幸せな人生送るんとちゃうんか。
『なんのって、うちを継ぐのはアタシなんやから当然やないの』
「はあ? なしてや。家を継ぐのは俺やで。親父がそう決めて親戚も納得してくれたやろ」
 俺が珍しくはっきり反論したからか姉貴が黙った。
『アンタはまだそんな事を本気で思うとるの? どんだけアホなんよっ!!』
 一段と高くてでかい声に耳がおかしくなりそう。黙ったんは溜めやったんか。
 俺が反論する前に姉貴がまくし立てるみたいに話し出した。
『博敏、アンタは何の為に東京へ行ったん? 自分が作ったプログラムで、ロケットを飛ばす夢を叶える為とちゃうの。アンタは小学生の頃からずっとそう嬉しそうに言うとったよね。中学に上がってからは、何度もロケットエンジンや飛行機を観に、愛知や岐阜に行ってたやないの。アンタの部屋は今も宇宙関係の漫画や資料本だらけやね。大学を卒業して、伊勢に帰ってきてアンタの夢は叶えられるん? そうやないやろ。アンタもそれが分かっとるから東京まで行ったんでしょ。そこまでしといて、なして未だにお父さんの言葉に縛られとるの』
 完全に姉貴に俺の本音を見透かされとる。そうや。俺は自分の夢を叶えたい。その為に東京に来た。伊勢に帰って就職しても、ロケットには遠い。せめて愛知やないと厳しい。1番夢に近いんはJAXAで茨城や。知識や学力も足りんけど、とてもやないけどそんな希望は口に出来ん。俺が我が儘を言うたら、オヤジらに迷惑を掛けてまう。
 携帯を持つ指先が震える。視線を上げたら、まつながーがどうするんだという目で俺を見とった。
 まつながーは知っとる。名古屋でLE−7エンジンを見た後にお互いの夢を話したんやから。
「なしてって、それが決まりやから……」
『アホか! アンタはアンタの夢を叶えなアカンのやで。家はアタシが継ぐ。お父さんが勝手に決めた事なんか知らんわ。アタシは三重で一生を暮らすと決めとる、親戚連中にも文句の付け所の無い、アンタよりずっと良い男と結婚するて決めとるんやからね。何の為にアタシはいつも綺麗になろうとしてるて思うん? 何の為にあんなに沢山の男と付き合ってきとると思うん? 全部アンタを自由にしたいからやないの』
 え? まさかやろ。そうなら、姉貴はずっと遊んどるふりして、俺の事を考えてくれてたって事なんか。なして今頃そない話するんや。なしてもっと早う言うてくれんかったん。俺は姉貴を……。
『オカンはアタシの気持ちを知ってて、アホは止めときて怒るけど、本気でアタシを止める気は無いんやで。アタシがこれだけ頑張っとるのに、肝心のアンタが頑張らんでどないするの。いつも言うとるやろ。もっと自己主張せなアカンて。自分がどう思うとるのかはっきり言わなアカンて。アタシに言われっぱなしで口答えも出来ん状態で、お父さんや口うるさい親戚筋に反抗出来るん? アタシは出来る限りの事をするけど、最終的にはアンタが頑張らなアカンのよ』
 そうや。姉貴はいつも俺にもっとはっきり意表時しろ、言いたい事は我慢するなて、こんな俺を見とると腹が立つて言うとった。あれもこれも全部俺の為やったんや。
 なんや。姉貴は俺の事を好きやったんか。姉貴がイライラするのは俺が我慢ばかりしとったからや。俺が姉貴の立場やったらやっぱり怒るて思う。無理ばかりしてたら心配やもん。
 俺は、ずっと姉貴に大事にされとったんや。それに俺は全然気付けんかった。姉貴は口うるさいて避けてたくらいや。それでも、姉貴は諦めんかった。ずっと俺を叱ってくれとった。
 アカン。涙で目の前がぼやけてきた。
「ほやかて、ねーちゃん。そないな事、今まで一言も言うてくれんかったやんか。俺は……ずっと……ねーちゃんの事……誤解……しとった」


71.

 ヒロが涙をボロボロ流しながら、姉さんに文句を言っている。嬉し泣きだ。
 そりゃそうだ。俺も強引でどうしようも無い我が儘な馬鹿姉と蔑んでいた。あのきつい態度も、口の悪さも、全部ヒロの為だったんだ。腹が立つなら怒れと言ってたんだ。
 何度も毛利が俺に言った通りだ。凄く不器用だけど弟思いの良い姉さんだ。毛利が何年経っても忘れられないはずだ。
 ヒロもなんだかんだ愚痴は言うけど、姉さんを嫌いになれずにいた。本当の姉弟はこんなに絆が強いんだ。
 しゃくりあげながらヒロが口を開く。
「だって、ねーちゃん。本気で惚れた男やないと結婚するんは嫌やて言うてたやんか。本気で好きになった人が三重に居らんかったらどないするの?」
『アホか。そんなのは最初っから結婚条件に入っとるの。アタシはアタシが本気で好きになった男としか結婚せんよ。うちの家も大事にしてくれる良い男を見つける。そして、家を継いでお父さんらにも文句を言わせんわ。アタシはな、ずっとお父さんや親戚筋の目を気にして、小さくなっとるアンタを見るのが嫌やったんよ。アンタは伊勢で一生を終わる器とちゃうわ。もっと広い場所に、宇宙への夢を実現させる為に生まれて来た特別な子や。アンタが生まれて来た時から、アタシはアンタは凄い子やて解っとったで。誰からも愛されて愛し返せる子なんやから、きっと宇宙もアンタを好きや。子供の頃からアンタがずっと憧とる場所なんやから』
 うん、そうなんだ。ヒロは特別で天子なんだ。姉さんも解ってたんだ。
 ヒロは俯いたまま話す事も出来ずに黙って泣いている。姉さんの本心を知って、余程嬉しかったんだろう。
『それとな、博敏』
「なん?」
 やっとヒロが顔を上げる。目も鼻も顔中が真っ赤だ。俺は会話の邪魔にならない様に、ヒロに向かってティシュの箱を放る。
『本家の透(とおる)やけど、アンタの真似をして縁(ゆかり)を家から自由にする為に、名古屋の大学を選んだんやて? アンタら2人して、アホもたいがいにせなアカンよ。透は子供の頃から、無医村で医者になるのが夢やったやないの。それを本家に近い大学病院に勤めるなんて言い出して堪忍してや。それに、物心ついた時から家を継ぐ覚悟をしとる縁の気持ちはどうなるの?』
 ティシュで鼻水をぬぐいながら、ヒロは驚いた顔で何度も瞬きをする。
「なしてそない事まで知っとるん? ゆか姉が本家を継ぐのは生まれた時から決まっとる。ほやけど、透はそんなんゆか姉が可哀想やて。幸せになって欲しいて。ほやから自分が頑張って偉くなるて言うとったのに」
 そうだった。ヒロが特例なだけで、酒井家は男女問わず第1子が家を継ぐルールだ。あの言い方からして縁さんがお姉さんで透が弟か。弟の立場からしたら、女の姉さんに家を継がせるのに気が引けるんだろうな。分家のヒロでもこんな状態だから、本家はもっと厳しいだろう。
『アンタらなあ、お姉様ズを舐めすぎや。アンタと違って透は根性無いからね。夏休みにちょっと縁と2人で締めてやったら全部吐いたわ。アンタがお父さんのいいなりになっとる理由も、京都の大学に行きたがった透が、どうして名古屋に進路を変えたのかも』
「えーっ。ちょっと待ってや。ねーちゃんらなんをしたん?」
 ヒロが真っ赤になった大きな目を更に大きく開けて大声を出す。
『それは内緒。とにかくな。アタシらは弟の夢を犠牲にして、自分達だけ幸せになる気は全く無いんよ。アタシら2人の目標はみんなの幸せを勝ち取る事や。アタシらも家の犠牲にならん。博敏、アンタらもや。分かったな』
 どう返事するか迷っているんだろう。ヒロは困った顔で小さく口をぱくぱくさせている。
 電話の向こう側からバタバタした足音みたいな音と、女の人の声が聞こえた。
『あ、お母さんが怒っとる。久しぶりやから長う話しすぎたわ。博敏』
「なん?」
『アタシは大丈夫。ほやから、アンタも頑張って自分で幸せにならなアカンで。ほなまたね』
 唐突に電話が切れてしまった。ヒロは受話器を持ったままぼんやりしている。
 姉さんも今まで言えずにいた事を言ってすっきりしたのか。もしかしたら、てさくさかったのかもしれない。言動は正反対だけど、不器用さではヒロとどっこいだ。
 携帯のボタンを押すと、ヒロはゆっくり顔を上げて俺の顔を見た。
「……メッチャびっくりしたあ」
「俺も驚いた」
 また顔が真っ赤なヒロは、視線をあちこち漂わせながらボソリと言った。
「これからどないする?」
「昨日、食料を一気に減らしたから買い出し。……と言いたいところだけど、夕方の特売を狙うからヒロの好きにして良いぞ。掃除は俺の気分的にパス」
 ヒロは少しだけ考えると、ボソリと呟いた。
「近くで沢山木があって、座ってのんびり出来るとこに行きたいなあ。特別なトコじゃなくてええから落ち着けるトコ」
 近場でという辺りがいかにもヒロだな。それとも毛利と姉さんの事で俺に気を遣ってるんだろうか。
「それなら徒歩圏内に有るぞ」
「この近くに有るんや。どこー?」
「大学の芝生広場」
「…………」
 この時のヒロの凄く面白い顔を写真に残せなかったのは残念だった。

 俺とヒロは駅前のコンビニでおにぎりとお茶を買うと、大学の公園の木陰で数時間はぼんやり過ごした。
 夏場の日曜日。わざわざ暑い屋外で休憩するのは俺達くらいで、芝生中央で数人でフットサルをしていた連中以外は、ほとんど貸し切り状態だ。冷房の効いた図書室にでも集中してるんだろう。
 時々通路を通る人も居るけど、先輩のゼミ生らしくてすぐに研究室に入っていく。俺達も来年か再来年にはああなるのかな。
 俺とヒロはぽつりぽつりと雑談もするけど、口から出てくるのは大抵「風が気持ちいい」とか、「やっぱり暑い」で、大半は寝転がってうとうとしていた。
 なんだかんだ色々有りすぎて、俺もヒロも疲れてたんだ。バイトを休みにしたのは正解だった。客の前であくびなんかしたらクビになる。
「まつながー」
 芝生にうつぶせになったまま、ヒロが顔だけ俺の方を向く。
「何だ?」
 ヒロははにかんだ様に笑うと小さな声で呟いた。
「ホンマおおきになあ」
「どういたしましてって、こういうのはお互い様だろ」
 俺が軽く返すとヒロは声を上げて笑い出した。
 本当にそうなんだ。
 毛利が来なかったら、俺は苦しんでいるヒロの本音に気づけなかったかもしれない。ずっとヒロの姉さんを誤解したままだったろう。感謝したいのは俺の方だ。
 ヒロが俺の天子なのは今も変わらないけど、空じゃなくてすぐ側に居る親友なんだ。
 その後、スーパーから両手一杯に抱えた買い物荷物の運搬と暑さで、ヒロがばてたのは言うまでもない。
 ヒロがシャワーを浴びている時に、俺宛に毛利からメールが来た。
『松永、ホンマに世話になった。お前に足らんのは自信や。あないに酒から好かれとるんやから安心せい』
 そんな事……今なら分かってる。だけど、それはこっちの台詞だっての。ちょっと悔しいから『お前もな』とだけ返信した。


72.

 今日も晴天で朝日がメチャ眩しいし暑い。
 たった3日、されど3日。ホンマに色々有ったなあ。
 昨夜、毛やんから無事に帰ったてメールが来たけど、親に怒られずに済んだんかいな。下手に聞くとやぶへびになりそうで出来ん。
 ねーちゃん……。うーん、やっぱしこの歳でこの呼び方はやめとこ。誰かに聞かれたら恥ずかしい。そういや、まつながーには聞かれてしもうたな。ツッコまれん限り忘れとこ。
 面食いで恋愛命の姉貴が、実はあないしっかりと、家の事も俺の将来も考えてくれとるなんてメッチャ反則やで。しかも、オカンは姉貴の考えを知っとったなんて。
 親父と俺を完全にはぶにして、女2人で画策するんやからずるいちゅーねん。
 やっぱ、超我が儘過保護姉貴には、一生頭が上がらんまんまなんかなあ。それも悔しい。
 姉貴やゆか姉が俺や透を想うてくれとるんは嬉しい。ほやけど、結婚に憧れる姉貴達に幸せになって欲しいて思うんは、弟の俺らもなんよな。
 人の気持ちの見極めって難しいなあ。みんな誰かを大切に思って、その人なりのやりかたで愛情表現をしとる。
 まつながーの変な不器用さは俺が困る事が多いから特別として、気持ちを上手く表現出来ん人の方が、断然多いと思うんは俺のきのせい?

 俺が教室に入ると、最初に目が合うた最上と石川が笑って手を振ってくれる。
 俺も手を振り返しながら2人の前の席に座ろうとしたら、背後から複数の高い声で呼ばれた。
「酒井君!」
「へ? あっ」
 振り返ると南部さん、小野寺さん、水谷さん、小西さん、クラスの女子4人が揃って入り口付近に立っとる。どないしたんやろ。しもた。挨拶だけはちゃんとせな。
「おはよー」
 俺が声を掛けると4人共一瞬だけ固まって、すぐに「おはよう」と返してくれた。挨拶したかっただけにしては様子が変や。用が有るっぽいのに会話に続かんなあ。
 朝から波風立てとうないからこのままにしとこ。南部さんらは根っから悪い人や無いんやろうけど、石川や最上の事を悪く言う。まつながーに対しても変な誤解をしとるんよな。
 人の価値観はそれぞれやから、気が合わん人が居るんは当たり前や。この前みたいに口喧嘩はしとうない。あない頭がくらくらして手足が震える様な状態は2度と嫌や。
 悪気がのうても人の悪口は極力聞きとうない。
 俺が歩き始めると、背後で「あっ」とか、「行っちゃう」とか聞こえてくる。やっぱり俺に用が有るんか。止まってちゃんと話を聞いた方がええんかな。
 前を向くと最上と石川の視線が厳しゅうなっとる。南部さんらと最上らの相性は最悪やもんなあ。水谷さんらには悪いけど、俺は石川らの気持ちを優先する。
 俺が最上と石川の前の席に座ると、2人が声を揃えて笑顔で「おはよう」と言ってくれた。俺も笑って挨拶を返す。
 最上と石川の視線が俺の背後に向いたと思ったら、一瞬で表情が強ばった。なんや?
 うひゃあ!
 振り返るとすぐ前の席に小西さんらが並んで座っとる。こんな事初めてやで。
 小野寺さんが最初に立ち上がって振り返ると、南部さん、水谷さん、小西さんも俺の方を向く。机越し、しかも真顔の上から目線やからちょっとどころじゃなく怖い。
 俺の内心を察してくれたんか、前の体調不調が有ったからか、石川と最上が立ち上がって俺の背中を支えてくれた。
 教室に居た他の奴らは何事かと俺らの方を遠巻きに見とる。内心はともかく普段は和気藹々としとる教室で、こないな事態になったんは初めてやもんなあ。
 緊迫した空気を打ち消したいんか、南部さんが最初に口を開いた。
「最上、石川。あたし達はあんた達と喧嘩をする気は無いよ。これ以上、酒井君に迷惑掛けたくないし」
 あれだけ酷い事を言うたのに俺だけにフォローするんか。
 あ、石川が穏和な顔して戦闘態勢に入ったっぽい。背中に当たる手が強うなった。毒舌吐く前にとめな。
「ほやったら、まず朝の挨拶をせん? 2回目やけどみんなおはよー」
 間で座っとる俺がそう言ってみたら、最上らも水谷さんらも顔はちょっと引きつり気味やけど、お互いに「おはよう」と言うた。うん、この感じからしてホンマに喧嘩をする気は無いんや。良かったぁ。けど、なんなんやろ。
 周囲の視線を気にしながら、水谷さんがボソリと呟いた。
「酒井君、先週……ううん。その少し前辺りから元気が無かったよね。松永君と日替わりで工学部に行く様になったみたいだし。その……」
 水谷さんの言葉を受ける様に小野寺さんが少しだけ前に身を乗り出す。
「それって、あたし達がせっかく酒井君と仲直り出来た最上や石川に、きつい事を言ったからじゃないかと思って」
 へ?
 俺と同じ様に動揺しとるのか、最上と石川の手が俺の肩から滑り落ちた。
「あたし達、酒井君のファンで、声は掛けなかったけどずっと酒井君を見てたよ。だから、最上……君の馬鹿行動が許せなかったんだけど」
 そこまで言うと、小野寺さんが救いを求めるみたいに南部さんを見た。
「あたし達が余計な茶々を入れたせいで、また、酒井君達に嫌な思いをさせちゃったんじゃないかって。それで、酒井君はこっちに居づらくなって、工学部にお昼を食べに行く様になって、段々元気も無くなったのかなって。……だから」
 南部さんがちらりと横を見ると、一斉に4人が頭を下げた。
「酒井君、最上君、石川君、酷い事を言ってごめんなさい!」
 余程驚いたんやろう。最上と石川がガタガタと音を立てながら、転がる様に椅子に座る。
 俺らが沈黙しとるんで、気まずくなったんか水谷さんが小声で言うた。
「すぐに許して貰えるとは思えないけど、あたし達は酒井君と最上君が仲直りした事を嬉しいと思ってるんだよ。けど、言い方はきつかったとは思う。反省してるよ」
 水谷さんが黙ると小西さんが両手をもじもじさせながら俯きながら言う。
「その……ちょっと、いきなりだったから悔しかったというか。あたし達が酒井君と松永君の間に入り込めないでいるのに、最上君達だけずるいと思ったというか」
「はあ? ちょい待ってや。そこは普通に入ってきてええやろ。俺とまつながーは一緒にご飯食べてただけやで。なして、そないな遠慮をするん?」
 俺が思わず反論すると、後ろで石川が「うん。その気持ちは解る」と言う。
 最上も「邪魔するなオーラ出てたもんな。……酒井はともかく松永から」と笑い出した。
「えー?」
「だーかーらー。俺も酒井に謝れるまでに、4ヶ月も掛かったんじゃん。度胸が無かったのも有るんだけどな」
 俺が振り返ると、目が合った最上はまた苦笑する。
 まつながーめ。無意識でなんちゅーはた迷惑なオーラを出すんや。
「邪魔するなは言い過ぎだけど、酒井と松永の仲が良すぎて、入り込む隙は無かったのはたしかだよ」
 と、石川が穏やかな笑顔で俺を見返す。やめれー。鳥肌が立つ。
「えっと、酒井君?」
 あ、しもた。忘れとった。前に向き直ると南部さんらが不安そうな顔で俺を見とる。
「なん?」
「あたし達がやった事で辛かったんじゃないの? あたし達が最上君達にきつい事を言って酒井君が怒って以来、ずっと酒井君の綺麗な笑顔を見てないから」
「へ? なんそれ」
 俺の綺麗な笑顔てなんやろう。俺が南部さんに聞き返すと、小西さんが答えてくれた。
「酒井君はうちのクラスの、ううん。学部の、癒し系アイドルだよ。だって、笑顔が素敵なんだもん。ここ最近、酒井君が無理して造り笑いしてるのを見るのは辛かった。だからちゃんと謝ろうと思って待ってたんだ」
 俺がアイドルとか変な言い回しは置いといて、俺が落ち込んでたんを小西さんらも気付いてくれてたんか。そうなら、俺もちゃんと答えなアカンよな。
「たしかに俺は最上と石川の事を悪く言われて嫌な気分になった。けど、こうして謝ってくれたらもう怒れんやろ。お願いやからもう気にせんといてな。何度も謝られたり変な遠慮をされるんはもっと嫌や。最上と石川もそうやろ」
 俺がそう言ってみたら、石川と最上はすぐに頷いてくれた。
 南部さんらも安心したのか、ホンマに嬉しそうに笑って「ありがとう」と言った。
 あー、なんや。そうやったんか。
 俺はどんだけ間抜けやったんやろう。
 南部さんらも姉貴と一緒で、好意の示し方が下手なだけや。クラスにたった4人の女子や。いつも男に囲まれとるから気を張ってただけやったんや。
 この人らを誤解したまま嫌いにならんくてホンマに良かった。
 ちょっと前まで、姉貴レベルに気が強い女の人はみんな苦手やと思うとったのに、こうして話してみたらちゃんと解り合える。
 思っとる事を言葉にするのは、こないに大切な事なんや。
 俺はいつも嫌な事が有ると黙っとった。その方が楽やからや。ほやけど、そのせいでまつながーにも毛やんにも辛い思いをさせてしもうた。しっかり反省して変わらなアカンなあ。

 俺と目が合った小野寺さんが、恥ずかしそうに笑う。
「前に最上君の事をストーカーみたいと言ったけど、本当はあたし達の方だから。こっそり酒井君の写メも沢山撮ってるし」
 勢いがついたのか水谷さんも携帯を取り出す。
「あたしは盗み録りした酒井君の声を着メロにしてるよ」
「あたしは家のPCのデスクトップ画面を酒井君にしてる!」と小西さん。
「あたしはお守り代わりに酒井君の写真を携帯の待ち受け画面にしてるんだ」と南部さん。
「えー。待ってや。なして俺なんかを……」
 そこまで言ったところで後ろから石川に頭を叩かれた。あ、あれだけ言われたのに、また「俺なんか」て言うてしもうた。思うのは俺の勝手やけど、口に出したらアカンよな。
 けど、この癖だけはなかなか直りそうもない。
「お前らだけじゃねーよ。俺も仲直り出来るまで酒井が待ち受けだったぞ。だってさ。いざ、本人目の前にしてしゃべれなかったら、もっと気まずくなっちゃうだろ」
「最上、お前までキモイ事言うなー。さぶいぼが出るやろが」
 俺が露骨に嫌そうな顔をすると、石川が意地悪そうな笑顔になった。あ、嫌な予感。
「話は聞こえてただろう。酒井の写メ持ってる奴は正直に挙手!」
 へ? いきなりなん……と思ったら、クラスにいる俺以外の全員が手を挙げた。南部さんらはともかくお前ら全員男やろが。やめれー。そういう事をするんは女子にせい。
 四方からクラスメイト達の声が聞こえてくる。
「酒井の脳天気な笑顔写真って、見ててなんかほのぼのするし、御利益ありそうじゃん」
「学部の他のクラスの女子も、結構隠し撮りして持ってるらしいぞ」
「レアな奴だと他のクラスで女に羨ましがれるし、話すきっかけになるから酒井の顔は便利だぞ」
「俺、夏休み前に酒井と松永のセット写メだとポイント高いって気持ちわりい噂をどっかで聞いた」
「げーーーーーーーーっ」
 最後だけ俺。他は普段一緒に教室移動をしたり、まつながーが居らん時にご飯を食べたりしとる奴らや。人の顔で遊ぶなっちゅーに。
 話が横滑りしまくったんが、気に入らんかったんやろう、南部さんが少しだけ機嫌が悪そうに言うた。
「だって、酒井君の笑顔を見てるだけで、安心するんだから仕方ないじゃん。だから、あたし達は酒井君達に凄く悪い事したって……」
 謝らんといててお願いしたからか、そこから先は言わんかった。
 水谷さん、小野寺さん、小西さんの顔を見ると思ってる事は同じっぽい。
 けど……。うん、やっぱり言うてみよ。
「勿体ないなあ。情報学部は割と女子も多い方やけど、うちのクラスはたった4人しか居らんのやで。南部さんも、小野寺さんも、小西さんも、水谷さんも、その気になったらよりどりみどりやろ。俺ばかり見てたら、ええ男を見逃すで。例えば、この最上や石川とかメッチャええ男やろ。俺の保障付きで推薦するで」
 最上らからも小西さんらからも、同時に「えー!」と抗議の声が上がる。
「ちょっと待ってくれよ。酒井」と石川。お前は人を笑いもんにした罰や。
「俺そういうの苦手だから」と最上。お前は怖い姉ちゃんが居るからやろ。
 こういう会話はみんな聞き耳立てとるっぽくて、気がついたら俺らの回りにクラス中が集まってた。
「最上、石川。ずりーぞ。お前らだけ酒井の推薦貰って」
「クラス女率低くて泣いてるのはここに居る全員なんだからさ」
「酒井、よく講義で隣に座るのに、俺は推薦無しかよ。つめてーぞ」
「つーか、こういう機会は平等にだろ」
「そーだ。酒井は松永と2人で女に顔を知られてるんだから、少しは俺達にも還元しろよ」
 ちょい待てい。気持ちは解らんでも無いけど、人を珍獣みたいに言うなや。
「お前ら、見た目からして目立つまつながーはともかく、こない普通な俺をなんやと思うとるん?」
 自分を指さしながら俺が引きつり笑顔で聞くと、最上がにやりと笑って爆弾を落とす。
「松永を抜きにしても、酒井は情報学部のアイドルだろ」
「はあ? さっきからなんそれ。ネタとちゃうんか」
 俺が聞き返すと、最上があっさりと言い返してくる。
「何でネタなんだよ。マジに決まってんじゃん」
 目眩がしそう。俺が机に突っ伏すと背後から石川の声が聞こえてきた。
「じゃあさ。せっかく誤解も解けたんだし、今日のお昼はみんなで一緒に食べようか。たしか今日は松永がこっちに来る日だろ。丁度良いんじゃない」
 女子の歓声と、男子の声でライバル増やすなという抗議が聞こえてくる。もうなんでも好きにして。
 こういう騒ぎ、高校時代に戻ったみたいや。ちゅーても、みんなほんの数ヶ月前まで高校生やったんよなあ。
 俺ってやっぱ、クラスのいじられ役ちゅーか、おもちゃポジションっぽい。

 いつもの待ち合わせ場所に来たまつながーは、俺の背後にいる十人くらいのクラスメイトを見て足を止めた。
「ちーす。松永、この人数に驚くなよ。今場所取りで半分以上食堂に残ってっから」
 最上の明るい声にまつながーの顔が引きつる。ほんで、どういう事だという顔をして俺を見た。
「まつながー、堪忍や。なしてか今日はみんなで食べようて話になってしもうて」
 俺が気まずそうに言うと、まつながーは俺の首根っこを押さえつけて「何で先に教えないんだよ」と小声で聞いてくる。
「そんな事をしたら、松永は口実を作って逃げるだろ。だから、メールで連絡を取ろうとした酒井を止めたんだよ」
 俺の首に巻き付いたまつながーの腕を、石川が自然な動作で外してにっこり笑う。
 その笑顔が癖もんなんや。午前中ずっと俺から携帯取り上げてたくせに。……と、今ここで文句は言いづらい。面白がったクラス全員がまつながー捕獲作戦に参加しとるんやもん。
「まつながー、お願いや。後でちゃんと説明するし謝るし埋め合わせもするから、今日だけみんなと一緒にごはん食べてくれん?」
 こんな風に頼んだら、お人好しで優しいまつながーは絶対に断れん。ほやからこの手は使いとうないのに。
 俺の心の声が聞こえたのか、まつながーは笑って俺の頭を軽く撫でるみたいに叩いた。
「良いよ。どうせこの馬鹿2人が、ヒロに無理を言ったんだろ」
「馬鹿とは何だ」
 最上がまつながーに食って掛かろうとする。それをまつながーは軽く避けた。誰とも言わんかったのに、最上は馬鹿の自覚は有るんやな。
「で、これは何の集まりなんだ。全員でこの倍以上ならヒロのクラス全員集合か?」
 まつながーの当然の疑問に俺が「うん」と答えようとしたら、横から最上と石川が乗り出してきた。
「情報学部工学クラス酒井様ファンクラブ発足会だよ」
「えー。石川、ファンクラブってなん? そない話は全然出んかったやろ」
 俺の抗議を無視して、最上がまつながーに話しかける。
「今朝出来て、そんで1回みんなで飯食おうって話になったんだ。松永も特別会員に登録しといた。お前は昼休みは半分うちの面子みたいなもんだからいいだろ」
 まつながーは一瞬だけ視線を上げて、ぽんと手を合わせると「分かった」と言うた。なしてこんなアホなノリが納得出来るん?
 食堂待機組からご飯の確保が出来たから早く来いと連絡が入ったんで、俺らはなしくずしに食堂の入り口に向かう。
 俺が隣を歩くまつながーを見上げると、まつながーはにやりと笑ってこう言うた。
「さすが、高校時代に男のファンクラブが有った奴は違う。ヒロなら有りそうだとは思ってたけど、大学でも出来るんだな」
 えー。えー。えー。それってどういう事? たしかに俺は友達多い方やったけど、ファンクラブなんて無かったで……。
 あー、毛やんかーっ。まつながーに変な事ばかり吹き込みおって。年末帰った時に絶対せっかんしたる。

 俺が立ち止まってぶつくさ小声で文句を言うとると、まつながーは俺だけに聞こえる小声で囁いた。
「よく考えなくてもヒロは誰にとっても天子様だからな。いつまでも俺がヒロを独占出来るはず無いし、元から俺だけの天子じゃ無かったんだ。毛利と会って話してみて、それがよく分かった。ヒロにどれだけ近いかだって、俺が決める事じゃない」
「へ?」
「何でもない。ヒロはいつもどおりのヒロで良いって意味だ」
 えー。どういうこっちゃねん。訳解らんで。
「うおーい。そこの2人、足とめんなって! 席を無理に占拠してんだから、食堂管理の人に怒られっぞ」
 最上が入り口のドアを開いて、手を振りながら俺らを呼ぶ。
「悪い」
「堪忍」

 最上達に軽く手を振り返して、俺とまつながーは同時に走り出した。

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