始めは思考の柔軟さに感心した。次に心の強さに惹かれた。そして、優しさに甘え続けた。
 俺が自分に正直でいる事で、どれだけヒロに負担を掛けていたか漸く知った。
 馬鹿な事をした。馬鹿な事を言った。馬鹿な事を聞いた。
 だけど、俺は後悔は出来ない。
 時間を巻き戻して、もう1度出会いから始めたとしても、きっと俺は同じ事を繰り返すだろう。
 どれだけヒロが自分を否定しても、俺はヒロが好きなんだ。

「酒井くんと松永くん」 =第2期= 『友情の境界線』(14)

48.

 ヒロが走り去ってから、俺は1時間くらい公園に立っていたと思う。遠くから聞こえてくる酔っぱらいの大声と犬の鳴き声で我に返った。
 どうしよう。どんな顔をして俺は部屋に帰れば良いんだ? 
 待て待て。弱気は禁物だ。ヒロに2度と顔を見せるなとか、声を掛けるなとは言われなかった。友達を止めるとも、部屋を出て行くとも言われなかった。俺が帰る場所はヒロが居るアパートで良いんだ。まだ、俺達は大丈夫だ。
 ヒロは当分放っておいてくれと言った。そう望むのなら出来るだけそうしよう。だけど、俺はヒロ自身が嫌いな部分も、絶対に否定なんかしない。どんな時でもヒロが俺の天子なのは変わりない。
 だからヒロ。頼むからもっと肩の力を抜いてくれよ。そして、どうしようも無いくらい辛くなったら、俺にも少しくらいは甘えてくれよ。愚痴の1つや2つこぼしても……。
 ちょっとどころかかなり虚しくなってきた。裕貴は時々大馬鹿になるから論外だが、石川の冷静さが羨ましいを通り越して恨めしい。
 もしかしたら、ヒロがずっと俺に対して感じていたのは、こんな気分なのかもしれない。お互いに隣の芝生なら良かったのに。
 あれだけ凄い事をやっているのに、どうしてヒロは自分に自信が持てないんだろう。最上も石川も同じ事を疑問に思っていた。
 これもあの馬鹿姉が原因なら、今度会った時に首根っこを押さえて、絶対にヒロに土下座をさせてやる。女でも遠慮なんかしないぞ。

 俺が勇気を振り絞ってアパートに戻ると、ヒロは何事も無かったみたいに顔を上げて、いつもの笑顔で「おかえり」と言ってくれた。
 ほら、大丈夫だった。やっぱりヒロは優しい。役者じゃあるまいし、演技でこんなに優しい笑顔と空気を作れないだろ。
 ヒロはすでに風呂を済ませたらしい。テレビを見ながら布団の上に転がってる姿は子犬みたいだ。ひょいっとヒロを抱き上げて、思いっきりあの丸い頭をなで回したい。
 ……。ちょっと待て俺。もっと自重しろ。それじゃヒロには逆効果だ。ついさっき体格差を見せつけられるのは嫌だと言われたばかりじゃないか。これ以上ヒロに嫌な思いをさせてどうする。
 けど、あんな風にころころした姿を見てると、あっさり誘惑に負けそうで怖い。
 俺の動作が挙動不審だったからか、ヒロは俺を見上げて眉間に縦皺を寄せると、無言で俺との間にテーブルでバリケードを作った。こりゃ何を考えていたかバレバレだな。
「安心しろ。何もしないから」
 俺が首を横に振っても、ヒロは疑いの目を向けたままだ。
「ホンマに?」
「今はしない。あっ」
「……」
 しまった。つい本音が出てしまった。ヒロが口をぽかんと開けて絶句する。せめて話題を変えよう。
「風呂に入ってくる」
「うん。しっかり汗を流して。……頭もきっちり冷やしてこいや」
 当たり前だが天子様は静かにお怒り中。正直過ぎるのも考え物だ。俺の口に頑丈なガムテープを貼りたい。
 俺が風呂から出た時には、ヒロは安らかな顔ですぴすぴ寝息を立てていた。
 ああ、そうか。あんなに怒りを爆発させて、ヒロは精神的に疲れていたのに、俺の無事な姿を見るまで待っていてくれたのか。心配してくれてたんだ。
 ヒロは自然体でも強くて、優しくて、どんな辛い時でも笑う事が出来るんだ。憧れずにはいられない。
 電気を消して俺がベッドに横になると、ヒロがボソリと「まつながーのへんぁ……」と、珍しく寝言を言った。最後の方は聞き取れなかったが、「変態」だとは思いたくない。


49.

 いつもの様にまつながーが起きる前にアパートを出て、のんびり大学へ歩く。今朝くらいは出掛けに声を掛けた方が良かったやろか。
 昨夜のあれが夢で無いなら、風呂から上がってきたまつながーは、叱られた犬みたいにしょんぼりしとって、蚊の鳴く様な声で「おやすみ」て言うとすぐに横になった。俺もおやすみて言おうとしたけど、眠気に負けてそこから先は覚えとらん。
 そないに俺は怖いんやろうか。公園であんな酷い会話になっても、まつながーはアホスイッチが入ったまんまやから、呆れただけなんやけどなぁ。
 どこをどうしたらあそこまで勘違い出来るんか、俺なんかを天子と呼ぶまつながーには、俺の本性がどんだけ醜いか今も見えとらんのやろう。
 まつながーの好意はいつも真っ直ぐで、眩しくて、綺麗や。それだけに俺には重過ぎて、抱えきれんくなって、昨夜は我慢の限界やった。
 ほやから、俺の方が恥ずかしゅうなるくらい、好意を示してくれるまつながーに対して、メッチャ酷い事を言うた。まつながーはなんも悪う無い事でまで責め立てて、八つ当たりをしてしもた。その上、最後の最後でまつながーに甘えてしもた。

「放っておいて」

 最上と最初に喧嘩した時と同じ事を繰り返しとる。やっぱり俺は、自分からも周囲からも逃げてばかりのどヘタレや。
 教室1番乗りと思うてたら、顔中湿布と包帯だらけで、事情を知らんかったらコスプレにしか見えん笑える顔の最上と、少し疲れた顔をした石川がすでに居った。
「うーす」
 口を動かすのも辛いやろうに、最上は声を掛けてくれる。
「おはよう、酒井。昨夜はしっかり寝られた?」
 不安気な目で石川が俺を見る。勘のええ石川の事やから、俺が何も言わんくてもある程度の事は予想が付くかも。
「おはよー。2人共今朝は早いなぁ。最上、メッチャ愉快な顔やで。記念に写メ撮ってもええ?」
「酒井。お前何気にひでー」
「あはは」
 俺の気持ちを察してくれたんか、最上と石川が乗ってくれた。やっぱ、2人共ええ奴らや。
 それに比べて、これが今の俺の精一杯。


50.

 時計の電子音で目を覚ますと、ヒロはとっくに出掛けていた。急な用も無いのに、ヒロが俺を起こすはずは無いか。
 コマ割りの違う日は、お互いに起きる時間が違うのは仕方が無い。贅沢な要求だと分かってるけど、今朝はヒロの顔を見て声も聞きたかったな。
 今日の昼はうちの学部で飯を食う日で少し不安だったが、ヒロはちゃんと工学部に来てくれた。
 小さな身体の何処に、それだけ大量の食料が入るんだと聞きたくなる食欲、いつも通りのたわいない会話。俺達と一緒に居る間、ヒロはずっと笑顔に徹していた。どれだけ強靱な精神力なんだよ。やっぱりヒロは凄い。
 それに比べて俺は、朝一で相馬に「葬式帰りみたいな顔」と言われてしまった。1人だけ置いてきぼりを喰らった気分だ。
 少しだけ事情を知っているからか、講義が終わると同時に真田が俺に話し掛けてきた。
「ねえ、今日の酒井君、無理して笑ってなかった?」
 うおっ。真田にはそう見えていたのか。俺にはヒロの笑顔はいつも通りで、ヒロらしい気配りをしているのかと思っていた。
 本当に俺はヒロをちゃんと見て、理解していないんだな。これじゃ親友失格だ。
 真田の心配は解るが今は何も話したくない。
「ごめん」
 俺が小さく頭を下げると、真田はすぐに気付いて軽く俺の肩を叩いた。
「良いよ。松永の顔が変形してなかったしね。だけど、月曜日までにその暗い顔はなんとかしなよ」
 一応、ライバル? の俺を慰めてくれる気は有るらしい。男女を問わず、ヒロの人を見る目はたしかだ。そうなら俺も……と、思っても良いよな。
 色々有ってすっかり忘れていたが今日は金曜だ。今夜から月曜の朝まで、バイト以外はずっとヒロと一緒になる。今のところ2人でスーパーに買い出し以外の予定は入れて無い。ヒロはどうする気なんだろう。
 まさか、俺に何も言わずに何処かに行ったりしないよな。
 いや、ヒロはそんな奴じゃない。俺はヒロを信じてる。これだけは今も自信を持って言える。


 バイトを終えてアパートの階段を上がったら、ヒロの部屋の前に黒くて大きい何かが転がっているのが見えた。
  一体何なんだ。ちょっと気持ちが悪いぞ。部屋の電気が点いていないから、ヒロはまだバイトから帰ってきていない。あんな場所にでかい不審物が有ったら、ヒロはびっくりするだろう。俺が先で良かった。
 それより、いつからこんな物が置いてあるんだ? ヒロの隣と更に隣の住人も学生だが、俺達とは大学が違うし、時間帯が合わないのかほとんど会わない。
 不法投棄にしたってわざわざアパートの2階、しかも3番目の部屋の前には置かないだろ。このアパートは古くてぼろいけど、周辺の大学や専門学校と契約していて、全室埋まって管理もしっかりしている。廊下に電灯が付いているから、夜間も暗闇にはならない。意図的にあれは置かれたんだ。
 俺は深呼吸をして、ゆっくりと階段を上がるとそれに近付いた。
 ……。
 前言撤回。物じゃなくて人間だ。
 性別はどう見ても男で、年齢は俺と同じくらいか。筋肉質で立ったら身長は俺と大して変わらなそうだ。短い黒髪でポロシャツにジーンズの軽装。枕にしている腕の側には、ビールの空き缶が10本ばかり転がっている。
 何だ。ただの酔っぱらいかよ。よりによってヒロの部屋の前で、何で酒を呑んで寝てるんだ。 こいつを叩き起こすか、どかすか、強引にまたがないと、俺の部屋にはたどり着けない。小柄なヒロならハードル飛びだ。後々面倒になりそうだからとりあえず起こすか。
 あれ?
 伸ばし掛けた手が止まる。えーと、この顔は何処かで見た覚えが有るぞ。何処でだっけ?
 よく行くコインランドリーや、コンビニかスーパー? バイト先の客か? 大学は違うな。
 俺がしゃがんで顔を覗き込んでいると、そいつは少しだけ身体の向きを変えた。
「さかあ」
 は? サッカーって言ったか? こんな所で寝ているだけでも充分不審なのに、寝言まで意味不明だ。下手に手を出すより警察を呼んだ方が良いか。
 そんな事を考えていたら、背後から足音と声が聞こえてきた。
「あ。まつながー、ただいまー。そんなトコでなんをしとるん?」
 ぐずぐずしてたからヒロまで帰ってきちまった。仕方無いからとりあえず立ち上がる。
「お帰り、ヒロ。俺も訳が解らないんだが、玄関先に人が……」
 俺がそう言い掛けた時に、そいつはいきなり立ち上がり、ヒロに飛び掛かって抱き付いた。
「うおーっ! 酒(さか)ぁああああっ!!」
「うっひゃあっ!?」
 反射的にヒロが叫び声を上げる。
「まつながー、これってなにぃ!?」
 この野郎、ヒロに何をする。俺が手を伸ばすと、ヒロは「あ、まつながー、ちょい待って」と俺の手を遮った。
「あー。なんやぁ。毛(もう)やんかあ」
 どうやら、ヒロはすぐに誰だか解ったみたいで、笑顔になるとそいつを抱き返した。
「ヒロ。今、もうやんって言ったのか? ……。あっ!」
 毛(もう)やん、毛利兼人(かねひと)。ヒロの高校時代からの親友だ。伊勢に行った時に偶然水族館で会ったんだ。どうりでなかなか思い出せないと……って、毛利は三重県に住んでるんだろ。いきなり東京までやって来て、その泥酔ぶりはどういう事だ。
 ヒロは支える様に毛利を抱きかかええると、苦労しながら俺に視線を向けた。
「まつながー、堪忍や。非常事態やから毛やんをそっちの部屋に上げたってもええ? それともう1つお願い。両手が塞がっとるから鍵とドア開けてぇ」
「分かった」
 たしかにこれは非常事態だ。少なくとも俺がブチ切れた真田を、ヒロに黙って部屋に上げた事に比べたしっかりした理由が有る。ジーンズのポケットから鍵を出していると、背後からヒロの悲鳴に近い声が聞こえてくる。
「ぎゃーっ。マジで重いっちゅーねん。潰れてまうー。毛やん、お願いやから目を覚まして自力で立ってぇ」
 ヒロが悲鳴に近い泣き言を言う。俺は急いで俺の部屋の鍵とドアを開けた。すぐに振り返って毛利の襟首を掴み上げて、潰れ掛けていたヒロを救出した。力が尽きたのか、ヒロは溜息を吐きながらその場にしゃがみこむ。
 うおっ。本当に重い。持ってみると毛利の身体は見た目以上に筋肉の塊だ。俺の握力でも片手じゃとても支えきれない。何か特別なスポーツや肉体労働をやってる身体だ。ほんの数分とはいえ、よくヒロはこいつを支えられていたな。
 顔を近づけなくても凄く酒臭い。鳥羽で会った時の毛利からはこういう印象を受けなかった。ヒロの親友らしく、口は悪いが気の良いしっかり者だった。何がどうすりゃここまで崩れるんだよ。
 ヒロはすぐに部屋に入ると、自分が使っている座布団を2つ折りにして畳を指さした。
「まつながー、助けてくれておおきに。ほんで、追加でお願いして悪いんやけど、毛やんをここまで運んでくれん?」
「分かった」
 ぐったりした身体を抱え上げて、俺は毛利を座布団の上に寝かせた。
 ヒロは手早く毛利の靴を脱がして玄関に置く。廊下のビール缶も回収して玄関先のゴミ箱に捨てると、扉と鍵を閉めて毛利の枕元に座った。
「毛やん。大丈夫?」
「酒ぁ? やっぱ酒やぁ。メッチャ会いたかったでぇ」
 ヒロが顔を覗き込むと、毛利はまたヒロに抱き付きやがった。
 この酔っぱらい野郎。いくら付き合いが長いからって、同じ事をしたら毎回ヒロに蹴られたり叩かれる俺の前で良い度胸だ。
 酔い覚ましにと氷と水を入れたコップヒロに差し出した。本当は毛利の頭にぶっかけてやりたいところだが、そんな事をしたらヒロが悲しむよな。くそー。なんだか悔しい。
「まつながー、ホンマおおきに」
 コップを受け取ったヒロは、片手で苦労しながら毛利の身体を抱き起こす。言ってくれたら俺が姿勢くらい変えるのに。
「毛やん、気分は悪うなっとらんな。水やで。飲める?」
 ヒロにしがみついたまま寝ていた毛利は、薄く目を開けると口元に寄せられたコップに口を付けた。まともな判断が出来る程度には意識は有るな。良かった。未成年の飲酒で救急車騒ぎになれば色々と面倒だ。
 それにしても、いくら地元の親友でも事前連絡無しにやってきて、人の家の玄関先で大酒を呑んだあげくそのまま寝るなんて非常識だろ。何でヒロは優しく毛利をいたわってるんだ? 少しは怒れよ。親友なら尚更だろ。
 ヒロは数回毛利の頭を撫でて、俺の方を向くと口元で人差し指を立てる。
 しばらく声を出すなってか。俺が黙って頷くとヒロは嬉しそうに軽く俺に頭を下げた。俺にはそんな遠慮をしなくても良いと何度も言ってるのに。ヒロは本当に強情だ。
 小さな子供をあやす様に、ヒロは毛利の頭をなで続ける。
「兼人くん、こうして「アタシ」に会いに来たって事は、また女の子に振らてしもたん?」
 はあ!?
 おっと。うっかり大声を出すところだった。慌てて自分の口を両手で塞ぐ。
「困った子やねぇ。なしてか、兼人くんはアタシと同じタイプの子ばかり好きになるんよね。アタシは前々から、兼人くんにはもっと違うタイプの子が合うて言うとるやないの」
 優しく諭す様に声を掛けられた毛利は、ヒロにしがみついたまま何度も首を横に振る。
「しゃーないやろ。頭では解っとっても、いつの間にか好きになってしまうんやから。俺かてこれ以上振られ回数を伸ばしとうない。ほやけど、俺は今も香(かおり)さんが好きで理想なん」
 何だってっ!?
「ベタ誉めされとる気になるねえ。耳がくすぐったいわ。けど、ホンマにおおきに。アタシも兼人くんの正直で真っ直ぐなとこ、今も大好きなんよ。今回もな、きっと兼人くんの運命の人や無かっただけや。その内、絶対に兼人くんにピッタリな女が見つかるわ。ほやから安心してや。兼人くんはアタシが選んだ男の中でも、とびきりええ男なんやからね。歳の差さえ無かったら、アタシの方からお嫁にしてて頼んだかもや。好きやで。兼人くん、今はゆっくりお休みぃ」
「うん。香さん、ホンマおおきに」
 毛利はうっすら涙を浮かべると、ヒロの腕の中でそのまま眠ってしまった。
 おい! これってどういう事だ? 何であの馬鹿姉の名前が出て来るんだ。というか、どうして毛利はヒロを香さんと呼ぶんだ? しかも、ヒロも自分の事を「アタシ」なんて言ってるし。
 会話の内容から大体の事情は判ったが、何でヒロが何であの女の振りなんかしてるんだ? 第1、ヒロはあの馬鹿姉が苦手だろ。女に間違われるだけで凄く怒るくせに。
 毛利が眠って安心したのか、ヒロはそっと毛利を畳の上に寝かせた。俺が沢山言いたい事を堪えて憤っていると、ヒロは無言で俺の方を向いて玄関を指さした。


51.

 やっぱ、まつながーはかなり不機嫌になっとる。そら、なんの説明も無しにいきなりあんなんを見たら、普通はびっくりするか、どん引きするか、姉貴の真似するなんて悪趣味やと怒るよなぁ。
 昨日は酷い八つ当たりをして、今日はメッチャ迷惑を掛けてしもうた。なんてまつながーに説明したらええんやろう。気まずさ倍増でどこからどう話してええんか判らん。
 姉貴とまつながーは初対面からして最悪やったからなぁ。俺は高校3年間で、振られた時の毛やんに慣れっこやけど、初めて見るまつながーは信じられん物を見たって気分やろな。
 玄関のドアは少しだけ開けたままにして、俺とまつながーは踊り場に出た。まずは謝らな。
 俺がまつながーと同居しとる事は誰にも教えとらん。ほやから、毛やんはアパートで1人暮らししとる俺に会いに来たんや。それやのに、まつながーをなし崩しで巻き込んでしもうた。
「まつながー。昨日、今日とホンマに迷……」
「待て。どれもヒロ1人が悪いんじゃないから絶対俺に謝るなよ。それよりちょっとだけ大人しくしてろ」
「へ? ぅひゃっ」
 変な前置きをしたまつながーは、いきなり俺を抱きしめてきた。
 いきなりなんをするんや。気色悪いから今すぐ離せ。
 と、大声を出したら、せっかく寝た毛やんが起きてまうし、ご近所にも聞かれてまう。こんな恥ずかしい格好は誰にも見られとうない。
 まつながー、お願いやからそ今すぐ正気に返って周囲に気付いてぇ。
 うげっ。なんを考えとるんか、まつながーは無言のまま俺の身体のあちこちを撫で回してきた。
 うぞぞぞっ。変態行為はマジでやめれー。全身に鳥肌が立つー。
 さすがに耐えきれんくなって、まつながーを突き飛ばそうとしたら、またまつながーは力を入れ直して俺をがっちり抱きしめてきた。
「俺が不用意にヒロに触ると速攻で殴られるのに、あいつはどれだけ抱き付いても、ヒロに優しくされてたから腹が立った」
「へ?」
 今、まつながーはなんて言うた? まさかと思うけど毛やんにやきもちやいとるんか。いや、いくらまつながーかてそれは無いよなぁ。
「ガキの独占欲的でやきもちだ。悪かったな」
 ……。絶対これだけは無いて思いたかった事を、まつながーはあっさり言いきった。自覚無しやと解っとるけど堪忍して。

 あれ? なんか変やで。俺は昨夜まつながーにメッチャ酷い事を言うて、朝も顔も見ずに出てきた。昼休みは安東さんらに心配掛けとうなくて、出来るだけ普通にしとったつもりや。
 なあ、まつながー。昨夜から俺の事を怒っとるんやなかったの? タイミング悪く毛やんが来てしもたから、気を遣ってくれとるんとちゃうの?
 俺があれこれ考えとると、まつながーは小さな溜息を吐いた。
「ヒロにとっては、こういう事されるのは気色悪いだけだろ。だけど、これが俺の本音なんだ。昨夜からずっとヒロに触るのを我慢してた。今だけ譲歩をしてくれよ」
 うーん、そう来たか。想像しとったんと完全に逆か。どうやらまつながーは、昨夜からずっとアホスイッチオン状態継続中っぽい。どこをどう譲歩したら、今のこの状態を許容出来るちゅーねん。相変わらず言葉が足りん上に行動が無茶苦茶やなぁ。
 ほやけど。……うん。
 俺の事を嫌やと思っとらん事が、まつながーの大きな手から伝わってくる。嫌いな奴に抱き付く程、まつながーは酔狂でも変態ともちゃう。これはいつもの甘えやない。まつながーなりの好意の意思表示なんや。
 ……やっとる事は普段以上にアホで変態としか言えんけど。
 俺はゆっくり息を吐いて、まつながーの肩をポンポンと叩いてみた。
「まつながー」
「ん?」
「せめて部屋の中に戻ろ。こんなトコご近所さんに見られたら、俺らアパートに居られんくなるで」
「あっ、ごめん」
 まつながーは慌てて顔を真っ赤にして俺から離れた。ホンマに全然気付いとらんかったんか。ここまで1つの事だけに集中出来るんは一種の才能かも。
「晩ご飯はバイト先で済ましたんやろ。お風呂入ろ」
「ヒロ、その後で良いから……」
「うん。色々と堪忍な。後でちゃんと説明する」
 まつながーは両手を組んで少しだけ視線を上に向ける。すぐに俺の方を向き直すと「分かった」と言うてくれた。

 まつながーと俺は、2人掛かりで毛やんを俺の布団に寝かせると、交互に風呂に入った。麦茶入りのコップを持って、押し入れを背もたれに、まつながーのベッドの上に座る。
「まつながー、先にお願いや。毛やんが起きてしまうしご近居迷惑やから、絶対に大きな声や音を出さんでくれる?」
「分かった。気をつける」
 風呂に入って落ち着いたんか、俺にベタベタと触って安心したんか、まつながーの表情は穏やかになっとる。うん。これなら話してええな。
「毛やんと俺は高校以来の親友やて前に話したよな」
「うん」
「今でこそ親友て言えるけど、初対面の時は最悪やった」
「そうなのか。……えーと」
 まつながーは俺の方に向き直ると苦笑した。
「やっぱり、ヒロと違って俺の下手な相づちだと話の腰を折りそうだ。しばらく黙って話を聞くから、ヒロは好きに話してくれよ」
「うん。おおきに。そうさせて貰う」
 まつながーは口下手やけど気配りは上手い。困った俺に気を遣うてくれとる。やっぱ、こんな風に真っ直ぐな好意て嬉しいなぁ。その気持だけで充分や。俺は麦茶を一口飲むとゆっくり話を始めた。


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