俺がお上りさん状態だったヒロの信頼を得るのに、どれだけ努力してきたか。
(飯で釣っただけじゃないぞ)
 ヒロに愚痴や本音を言える様になるまで、どれだけ時間が掛かったか。
(あの頃はたまたま間が悪かっただけだ。……と思いたい)
 意地っ張りの俺がヒロに素直に甘えられる様になるまで、どれだけ恥ずかしい思いと(気色悪いと殴られて)痛い思いをしてきたか。
(どれが1番ヒロの地雷なのか、思い当たる節が多すぎて判らない)
 これまで俺とヒロがどう付き合ってきたか、何も知らない奴らにどうこう言われたくない。
 だけど、今なら解る。このままじゃ駄目なんだ。

「酒井くんと松永くん」 =第2期= 『友情の境界線』(11)

36.

 急な団体さんが数件入ったと、相当疲れた顔でヒロは予定よりかなり遅く帰ってきた。空腹で晩飯を前に箸を持っても、半分目を瞑ってうとうとしている。
 事前に連絡は入れなかったが、晩飯当番を代わって良かった。こんな状態じゃ危なくて火や包丁を使わせられない。
 時間帯や休日で忙しさが変わる俺と違って、ヒロのバイト先の外食系は、その日にならないと解らない事が多い。
 同居前のヒロが時々玄関先で潰れて寝ていたのは、性格のせいだけじゃなくてこれも原因の1つだったんだな。スタミナゼロになるまで働き続けるなんて無茶しすぎだろ。
 こういうヒロをただののんびり屋だと思ってたなんて、俺の目は相当の節穴だ。
 苦しい事も辛い事も、誰にも何も言わずに黙って耐えて、逆に人に気を遣わせない様な優しい気配りを忘れない。俺がやさぐれてた間も、ヒロは嫌な顔1つせずにずっと側に居てくれた。
 ヒロが真面目で努力家なのは始めから知っていた。だけど、ヒロの笑顔も努力の賜だなんて、俺はずっと気付けなかった。あの笑顔を手に入れるまで、ヒロはどれだけ努力してきたんだろう。
 俺はヒロから何度止めろと言われても、「俺の天子」と呼んで崇めて、ヒロに頼り続けてきた。自分が情けなさ過ぎて失笑しか出てこない。
「まつながー、ご飯作ってくれてホンマにおおきにー。それと今日は俺の当番なのに帰りが遅うなって堪忍してなぁ」
 寝ぼけ眼でヒロが俺に謝ってくる。疲れ切ってるくせに、俺にまでそんなに気を遣うなよ。
 ああもう。くそう。優しくされ過ぎて涙が出そうだ。誰に何て言われたって、立場が変わったって、やっぱりヒロは俺の、俺だけの天子なんだよ。それ以外の言葉が見つからないんだから仕方無いだろ。悪いか。
 こんなに綺麗で純粋な好意を向けられ続けている。俺はもうそれを当然の事だとは思えない。いつまでも守られるばかりじゃなくて、俺もヒロ天子を守りたい。
 ゆらゆら揺れていたヒロの頭が俺の方を向いてくる。
「まつながー」
「何だ」
「さっきからなんを悩んでるんか知らんけど、考えすぎで顔がメッチャキモうなっとるで。なんが有ったん? 今は頭が回らんくて、まともに話を聞けるか判らんけど」
 …………。
 この馬鹿天子はあああああっ! 本当の事でも人の顔を見てキモイって言うな。
 人が決意表明する気になってる時に、狙いすましたみたいに、頭から水をぶっかける様な毒舌はやめてくれよ。水を差すなんてレベルじゃないぞ。とりあえず話題を変えよう。
「ヒロの方がずっと疲れて辛そうだ。俺の事は気にしなくて良いから、飯を食い終わったなら早く風呂に入れよ。明日も夕方からバイトだろ。汗臭い身体で接客は出来ないだろ。片付けは俺がやっておくから、汗を流してすぐに寝ろよ」
「そやな。おおきにぃ」
 俺が声を掛けると、ヒロはゆっくり身体を起こして風呂に入っていった。着替えのパンツとバスタオルを出し忘れてるぞと、先に言うべきだったかな。
 また風呂上がりに変態扱い(時々ヒロは俺に対してだけ凄く失礼な奴になる)されるのは嫌だから、俺が用意しておくか。今のヒロのボケ具合なら、そうそう気付かないだろう。
 風呂場のドア前に着替えを用意して、テーブルの上を綺麗に片付けた。ついでにヒロの布団も敷いておく。これでヒロは風呂から上がったらすぐに寝られるはずだ。
 俺が狭い部屋でもベッド派なのはガキの頃からの習慣と、疲れて眠い時に布団の上げ下ろしをするのが面倒だからだ。ヒロは元々布団派らしいから苦にならないんだろう。
 ヒロの部屋にコタツを導入したら、俺も布団派に転向しなきゃな。6畳間にベッドと布団とコタツを平行して置くのはかなり無理が有る。秋になったら底冷えしない様に断熱材も調達しよう。
 俺が茶碗を洗い終わったすぐ後に、ヒロは風呂から出てきた。ふらふら揺れながら布団の上にしゃがむとそのままコロリと横になる。
「まつながーはホンマにオカンやなぁ。堪忍。おおきに。おやすみー」
 立て板に水みたいな言い方だが、しっかり言いたい事は言い切ったな。
 オカンと余計な一言も有ったが、朦朧状態でも自分が何を忘れて、俺が何をしたか気付いたのか。相変わらず凄い精神力だ。
「いくら夏でも腹を出して寝ると寝冷えするぞ」
「……うん」
 俺がタオルケットと夏布団を掛けると、ヒロはそのまま丸くなった。ヒロが時々寝ながらやる胎児のポーズだ。無意識でこうなるのは相当精神的に疲れてる証拠だ。今日は接客担当だったのか。それとも昼に安東達と飯を食っいている間、緊張し続けていたのかもしれない。

 ほんの少しだけ注意してヒロを見ていると、これまで気にもとめなかった事に沢山気付く。
 おだやかな寝顔と寝息、たまに器用に寝ながら百面相をする。天子としか言い様の無い綺麗な顔をしている時も有る。爆睡型で一旦寝ると余程の事が無いと起きない。その分朝に強い。逆に言えば、起きている間はそれだけ気を張っているんだろう。
 酒に弱いヒロは少し飲んだだけですぐに顔が赤くなってろれつも怪しくなる。性格も微妙に変わる。普段より更に間延びしたのんびりした口調。男だと解ってても、一瞬ドキリとする甘えた小首を傾げる上目遣い。と思えば、大口を開けてケタケタ笑いながらぶん殴りたくなる毒舌を披露する。言われる方が恥ずかしくなるくらい人をベタ誉めした直後に、突然ぱたりと転がって寝る。
 アルコールがヒロの心の枷を外すのなら、あっちが本来のヒロじゃないのか。
 俺はどれだけ本当のヒロを知っているんだろう。情けない事に食い意地が張っていて、夏バテ体質で、腹が弱くて、すぐ寝る以外はすぐに思いつかない。後は滅多に見せないけど、苛立ちに近い怒りの感情だ。
 名古屋で人混みに押されてはぐれそうになった時、俺が咄嗟にヒロを抱え上げたら露骨に嫌そうな顔をしていた。知らない人から女に間違われた時はもっとはっきり怒っていた。
 小柄だけど丈夫で鍛えているのに柔軟性も高い身体。見事なお母さん似でそこらの女より優しい印象を受ける可愛い顔立ち、男にしちゃ高い声。全部ひっくるめて俺はヒロの良い個性だと思ってる。
 俺なんか黙っていると見た目が怖いらしくて、何もしていないのに時々ビビられたり、怒ってるのかと聞かれる。顔の半分近くを隠していた髪を切ってからはかなり増えた。だから、誰からも警戒されずに癒し系と言われるヒロが羨ましいくらいだ。
 とはいえ、ヒロも自分の外見にコンプレックスを持ってるから、お互いに隣の芝なんだろう。
 ヒロの眉間に少しだけ皺が寄る。おっと、眩しかったか。照明を落として俺もベッドに横になる。明日は俺も1コマ目からだ。ヒロが目覚まし時計のセットを忘れていても俺が起こせばいい。
 ……と、思っていたのに、翌朝俺はヒロの「寝ぼけんな。アホ!」という怒鳴り声とビンタで目を覚ました。どうやらまた寝ぼけて何かをやってしまったしい。怖いから俺が何をしたのかヒロに聞くのは止めておこう。


37.

 水戸に日帰りして以降、まつながーは寝言や寝ぼけて美由紀さんの名前を呼ぶ事はのうなった。直に会うてきちんと話した事で、まつながーも心底から納得出来たんやろう。それはメッチャええ事やと思う。
 ほやけど、その代わりに俺の名前がちょくちょく出る様になったんはどういうこっちゃねん。起きとる時ならええけど、無意識下でまつながーが思うとる事なんて聞きとうなから、ついつい叩き起こしてしまう。こんなんまつながー自身にも誰にも知られとうないなぁ。
 ご飯とインスタント味噌汁と納豆の簡単メニューで朝食を済ませて、俺とまつながーは一緒にアパートを出た。行きがけに今日の昼ご飯をどうするかまつながーにも聞いてみた。
「そうか。ヒロは今日は最上達と食う予定なのか」
「うん」
 大型犬と化した最上に乗っかられて脅迫まがいのお願いをされたのは黙っとこ。石川もホンマに写メを撮っとらんやろな。もし撮ってたらまつながーに見られる前に絶対に消さしたる。
「だったら今日は俺がそっちに行く。暑いから食堂入口前の木陰で待ち合わせでどうだ? 学部棟だと待ち合わせに時間が掛かるし、男4人の定食路線で固定なら、その方が早いだろ」
「そやな。予定が変わったらメールする」
 やっぱりや。今までは俺が食堂前で待つと、すれ違うかもしれんと言うて、まつながーはいつも教室まで迎えに来てくれとった。ホンマは俺に学部内で一緒にご飯食べる友達が1人も居らんと誤解されるやないかて心配してくれたんや。
 これまでもまつながーが用事で居らん時は何度か有ったし、そういう時は適当に近くの席に座っとる奴らと食べとる。ほぼ毎日顔を合わしとるけど、たしかに親しい友達とは言いづらい。
 ほやけど、今は最上と石川が居ってくれる。もう要らん心配をせんでもええ。俺が昨日までまつながーが学部でどうしとるか心配やった様に、まつながーもずっと俺の事を心配してくれとる。何気ない優しさが嬉しいなぁ。
「どうせだから1日交替も良いかもしれない」
「へ?」
 今なんて言うたんやろう。考え事しとる時に唐突にまつながーが言い出したんで、すぐに対応が出来んかった。
「これから昼飯は俺とヒロが交替で、情報学部と工学部を行き来したらどうかと思ったんだ。安東達はヒロともっと話したがってたし、俺も最上や石川に興味が有る」
「興味?」
 なんや微妙な言い回しやなぁ。俺がじっと顔を見るとまつながーは苦笑した。
「最上も石川も相当性格に癖が有る感じだろ。うちの連中もだけど、ヒロと仲良くしたがる奴はみんな個性が強いから、話すと面白いんだ」
「まつながーがそれを言うん?」
 俺が少しだけ大きな声を出すと、まつながーは何の事か判らないという顔をする。
「何だよ?」
「えーと」
 ここが人通りの多い通学路やのうて、俺らの身長差が20センチ以上も無かったら、今すぐまつながーの襟首を締め上げて「どの口が言うんか。口を開けば恥ずかしい事ばかり言う、自重出来んこの口か?」て、ツッコミたい。
 今のを聞いたらまつながーを知っとる人全員が同じツッコミをするて思う。自覚が無いってホンマに怖いなぁ。
「あ、話しとる間にもう校門や。ほな学部棟に行くからまた後で」
「うん。また昼に」
 まつながーと俺はお互いに軽く手を振って背を向けた。普段は不便やと思う学部の遠さに今は感謝や。あと1分まつながーと話しとったら、脳天気な後頭部にゲンコツくらい飛ばしとったかもしれん。
 こういう思考回路はアカンなぁ。俺も最近沸点低うなった。カルシウム不足やろか。昨日の疲れが取れとらんのかも。

 昼休みに食堂前でまつながーと待ち合わせて、最上と石川と4人で席を確保したら、たまたま南部さんらと近うなった。
 小西さんらはターゲットロックオンて感じで、ずっと俺とまつながーを見とる。視線が強過ぎて段々箸を持つ手が強ばってくる。
 最上と石川は露骨に完全無視状態。事情を知らんまつながーは俺の顔を見て、なんか有るて気付いてしもた。こういう時は勘が良うなんらくてええのに。
 無言で周囲を見渡したまつながーは、たまたま水谷さんと目が合ったっぽい。数メートル離れたトコから黄色い歓声が聞こえた。
 まつながーは一瞬顔を引きつらせて、すぐに視線を正面に戻した。箸を持ち直して俺らだけに聞こえる小声でボソリと呟く。
「何なんだ。ありゃ」
 うーん。なんて説明しよう。無難に同じクラスの人らでええかなぁ。
 多分俺は困った顔をしてたんやろう。石川がすぐに笑って代わりに答えてくれた。
「ああ、あれね。うちのクラスの女子達だよ。近寄らなきゃ無害だから、松永は気にしなくて良いからね」
 こら待てや。全然フォローになっとらんやろが。石川なら上手く言うてくれると思うた俺が甘かった。石川らは小野寺さんらとは休み前から色々因縁あるっぽいしなぁ。
 でかいハンバーグを胃に収めた最上もうんうんと頷く。
「そうそう。良い事なんて1個もねえから、松永はあいつらに絶対関わんな。声掛けられそうになっても、俺らと話してて聞こえねえふりしてれば良いぞ」
 最上はホンマに正直過ぎる。まつながーは小西さんらの事なんも知らんのやで。もうちょい言い様が有るやろ。
 ちゅーても、俺もまつながーは南部さんらとソリが合うとは全然思えん。トラブルの元やから近付かん方がええのはたしかよな。
 唐突に石川が真面目な顔でまつながーの顔を見た。それに対してまつながーも急に真面目な顔になる。
「松永、解っただろ」
「うん。解った」
 なんがやねん。


38.

 最上の嫌そうな言い方と、石川の意味あり気な視線で気付いた。あの女達はちょっと前に最上達に絡んで、ヒロが体調を崩す原因になった連中なんだ。
 見た目はともかくこっちを見ている全員が、ヒロの馬鹿姉を彷彿させる。ぶしつけで遠慮の欠片も感じない、人を物色する様な強い視線。久しぶりに馬鹿姉と会って、固まってしまったヒロの顔を思い出す。
 あ、そうか。石川が言っていたヒロ自身も原因を解っていないだろうというのは、こういう意味だったんだ。だけど、今此処で俺と石川が事前に会ってた事は話せない。こういう事情なら俺が打てる手はこれだ。
「ヒロ」
「ん?」
 声を掛けるとヒロは箸を止めて俺を見返してきた。笑顔だけど顔が強ばってる。余程注意してなきゃ気付けないくらいの変化だ。多分、石川達もずっとヒロを見てきたから気付いただろう。
「ヒロはあの手の女達は苦手だろ」
 俺が核心を突くとびっくりしたヒロが顔を赤く染めて箸を落とす。
「まつながー、なして解ったん? あっ」
 自己嫌悪と罪悪感にまみれた顔でヒロは下を向く。言っちゃいけない事を言ってしまったと後悔しているんだ。少しだけ最上と石川と俺の視線が交差する。
 箸を置いた最上が手を伸ばして笑いながらヒロの頭を撫でる。おい、それは止めとけ。その内ヒロに殴られるぞ。
「おー。今日の酒井は正直じゃん。やっぱし松永効果? なあ、酒井。もっと感情を表に出して良いんだぞー。俺は嫌な事を我慢ばっかする酒井より、今の酒井の方が好きだ」
 あっさりヒロに「好き」と言った。恐ろしい程ストレートな奴だな。俺がその手の事を言おうものなら、ヒロに全力で拒否される。
 最上の手をさらりと払いのけて、石川が嬉しそうにヒロの肩を叩く。
「そうそう。教室の笑顔魔神の酒井よりずっと良いよ。普段からもっと色々な顔を見せてくれると嬉しいね」
 え? ああ、思い出した。石川が言ってたんだ。ヒロは学部では笑顔の演技をしてるって。俺の前でだけヒロの表情が豊かになると。
 俺が知っているヒロと石川達が知っているヒロは全然違うんだ。それを解ってるから、最上は俺に喧嘩を売りに来た。俺もヒロが学部で演技をしてると知ってかなりショックを受けた。
 うっかり思ったままの事を言って、ヒロを怒らせる俺が悪いんだが、アパートじゃ俺を叩いたり、蹴ったり、わざと虐めてきたりと、結構悪い顔も見せてるだろ。どうしてヒロはクラスじゃ演技をしてるんだ?
 いや、待てよ。ヒロはあの馬鹿姉ですら身内だからと庇った。自分より力の弱い女を叩けないとも言っていた。
 精神面でもそうだとしたら? 余程の地雷を踏まない限り、ヒロは自分が引いてその場が丸く収まるなら最後まで我慢する。
 ヒロのクラスがどんな雰囲気かは知らないが大体想像は付く。あの手の女達と喧嘩をしたら、後々ロクな事は無い。普通男はあの手の女は流すし、無駄な喧嘩はしない。
 最上は正直な分、男女問わず嫌な相手とぶつかるタイプで、線の細い石川はあの手の女達に何かと絡まれそうなタイプだ。本当なら話題の中心だろうヒロは、本能的に雰囲気を察して目立たず騒がず、波風を立てない方向を選んだんだ。
 女から騒がれたり、あからさまな好意を持たれる事にヒロは慣れていない。最もヒロの場合は、トラウマフィルターで好意に気付いていない可能性の方が大なんだが。
 傍でそれをずっと見ていた最上達にしてみれば、我慢ばかりしているヒロを見て、いたたまれない気持だったんだろう。明るい口調の中にヒロに対する気遣いと好意が見える。
 普通なら八方美人と嫌われそうなものなのに、そう思わせないヒロ天子はどこでも愛されるんだな。

 石川と最上がどっちがヒロを撫でるかで喧嘩を始めたから(さっきから何をやってるんだ。こいつらは)、俺は軽く2人の手を叩いて、テーブル上のヒロの手を握った。
「あっ!」
 ヒロが大きな目を更に大きく見開いて、驚いた最上と石川は同時に声を上げる。
「ヒロは俺のだから、お前達は気易く触るな」
「はあ!? ちょい待てや。まつながーっ、アホ抜かすんもたいがいにせい!」
 俺の手を振り解いたヒロの甲高い怒鳴り声が食堂中に響き渡った。あの女達もビックリした顔でヒロを見ている。クラスでどんな顔してたのか知らないけど、これが本当のヒロなんだぞ。
 石川、最上、これで良いだろ。


39.

 うっかりでも南部さんらに捕まりとう無かったんで、ご飯を食べ終わった俺らは学部棟の過疎自販機コーナーに移動した。それに、ドリンクコーナーよりここの方が裏口経由でまつながーの学部棟に近いんよな。
 それにしても、まつながーのアホ発言に釣られて、あない広いトコで大声出してしまうなんて、俺も相当のアホや。
「お前って、どんだけ恥ずかしー奴なんだよ!」
「お前に言われたくない!」
 最上とまつながーがさっきのネタで口喧嘩を始めた。手は出んのやったら放置してええか。今は止める気力も無い。
 うちの学部面子だらけの場所で、思いっきり目立つ事をしてしもた。出来るだけ平和で楽しい生活を送りたいだけなんやけどなぁ。どこで躓いたんやろう。
 それでのうても目立つまつながーと一緒に居る事が多い分、俺は目立たん様にしとこうて思っとったのに。これまでの俺の努力も、さっきので全部帳消しになったんとちゃうか。メッチャ落ち込むなぁ。
「あはは。駄目だ。あれは本人達の気が済むまで放置するしかないね。酒井が口を出すと余計こじれそうだし」
 まつながーと最上の間に居った石川が、笑いながら俺の隣に座る。お願いやから堪忍して。俺は今の状態を全然笑えん。微妙に顔が引きつってまう。
「酒井はへこんでるんだ」
「うん。ちょっと。……その足りんかったなて」
 俺がボソボソと答えると石川は意味有りげに笑う。
「食事中の周囲への配慮とか、我慢力とか、理性……。うーん、つまるところ自制心?」
 石川の言葉がグサグサと胸に突き刺さってくる。図星やからこそなんよな。
「それも有る。けど、俺は本来目立たん方なんやから、アホをやらかして悪目立ちしとう無いん」
「はあ?」
 石川が露骨に何を言ってるんだという顔をする。俺、今変な事を言うた?
 手に持っていたアイスティーを口に含んで、石川は真面目な顔をしてゆっくり俺の方を向いた。
「まさかと思うけど、酒井って本当に自分が目立たないと思ってる?」
「まつながーと居らん時はそうやろ。まつながーは顔も体格もええから立っとるだけで人目を引く。一緒に居るとセットで俺も目立つんよな」
 石川は少しだけ眉をひそめて呟いた。
「ははあ、自分達に視線が集まるのはそういう理由だと思ってたんだ。本当に酒井は自分の事が解ってないよね」
「なあ、石川。前からちょいちょい引っかかる事を言うけど、石川から見た俺ってなんなん?」
 いつもメッチャ気になる言い方をするんよな。俺が真面目に聞くと、石川は益々眉間に皺を寄せて小さな溜息を吐いた。
「そう来たか。ここまで来ると天然も凶器だね。俺から見た酒井は、松永が居なくてもかなり目立つ部類だよ」
「へ?」
 益々訳解らん。俺の顔を見た石川は苦笑して肩をすくめた。
「仕方ないな。そっちはまた機会をみてじっくり説明するよ。とりあえずさっきの話だけどね。普段大人しい奴に限って怒らせると怖いって言うけど、酒井はこのタイプだろ。この期に及んで違うと言うなよ。俺と、特に最上は、身をもって切れた時の酒井のきつさを知ってるんだから」
「……うん」
 それを言われると何も言い返せん。たしかに最上は酷い目に遭わせてしもた。見とった石川かてびびったやろう。もう2度と俺に絡んで来て欲しゅうない時だけにあえてやる、かなりエグイ戦法やった。
 教室で出してしもた大声は、さっきの食堂に比べたらまだ抑えられとる。どうもまつながーが相手やと、アパートと同じ様に理性のタガが外れ易いなぁ。人目が有るんやからこれから気をつけな。
「またそういう顔をする。最上も言ってただろ。さっきの大声は全然気にしなくて良いと思う。酒井がやっと俺達の前でも本音を出してくれただけだからね。俺は気持ち良かったし嬉しかった。教室では猫を被ってるけど、松永と2人で話してる時はあんな感じなんだろ」
 俺が反論しようとすると、石川は笑って俺の口元を指先で押さえた。
「焦らない。話は最後まで聞きなよ。酒井は俺や最上を友達だと言ってくれたね。あの時も凄く嬉しかった。さっきも言ったけど、我慢して笑っている酒井じゃなくて、もっと感情豊かな酒井も見せてよ。多少切れやすくなっても、俺は酒井を今より嫌いになったりしない」
「今より?」
 つまり、仲良くしてくれとるけど、石川はホンマは俺の事を嫌っとるんか。俺に友達て言われて嬉しいとは思っても、一方で俺を嫌やて思うとるんや。本音の気持は自分でもどうにも出来んもんな。こればかりはしゃーない。
 俺の気持が伝わったんか、石川は穏やかな笑顔で俺の肩を軽く叩いた。
「人の全部を好きになるなんて普通に無理だろ。誰だって無くて七癖なんだから。俺は酒井を基本的に好きだけど、嫌いな部分も有る。だから、もっと本音の酒井を知りたいし、近付きたいと思ってる。解る?」
 ああ、そういう意味か。俺はあまり学部では本音を出さん。むかついても笑ってスルーしとる。最上は俺を見てて自分が辛いて言うたけど、石川は俺のそういう部分を好きになれんのや。
 ほやけど、厳しい言葉の裏に優しさが沢山入っとる。石川は俺をもっと好きになりたいて思うとるから、あえて厳しい事を言うてくれとるんや。それがちゃんと伝わってくるからメッチャ嬉しい。
 俺が笑うと石川も笑い返してくれた。うん、合うてたんやな。
「ところでさ。松永っていつもあんなキモイ事を酒井に言ってるの?」
「うげっ」
 やっぱりソコにツッコミが入るんか。聞かんかった事にして欲しかったのに。まつながーめ、後で覚えとれ。
「堪忍して。あんな事言われたの初めてやで。人目さえ無かったら、あの場でまつながーの顔の形を変えとるわい」
 俺が嫌そうに答えると、石川は「そうだろうねえ」と声を立てて笑った。解っとるなら聞かんといて欲しいなぁ。虚し過ぎて泣けてくる。

「あー。石川、何で酒井に迫ってんだよ!」
「ヒロ、何もされてないか」
「はあ!?」
 まつながーと最上の大勘違い台詞に、俺と石川は同時に声を上げた。
 最上はペットボトルをゴミ箱に放り込むと石川に詰め寄った。
「石川。お前、俺には散々釘刺しといて自分は何やってんだ」
「何もしてないよ。と言うか、お前こそどんな誤解をしてるんだよ。頭に松永菌でも移った?」
 まつながーはのアホは病原菌扱いなんや。およ。菌扱いされたまつながーも怒って石川に詰め寄った。
「菌って何だ? 菌ってのは。普通に失礼だろ」
 まつながーはああ言うけど、自覚無しアホスイッチがなんかの菌が原因やて言われたら、ごく普通に納得してまうよなぁ。
 そんな事をぼんやり考えとったら、石川が俺に視線を向けた。
「酒井はこの2人をどう思う?」
 ちょい待ってーっ。石川ぁ、ここで俺に振らんといてや。メッチャずるいやろ。
「ヒロ」
「酒井」
 まつながーと最上が俺を囲んでくる。その隙にちゃっかり石川は数メートル離れた。こういう状況で俺にどないせいちゅうの。
「なん?」
 諦めて俺が聞くと、2人は同時に言うた。
「俺らが言い合いしてる間に石川と何を話してたんだ?」
「へ?」
 えーと。最上とまつながーは、石川が俺に迫っとるなんて、絶対理解出来ん妄想をして、それを止めに来たんとちゃうの?
「石川と酒井って、ほとんど話した事ねえのに、何か仲いーんだよな」
 最上が面白くないと愚痴を漏らす。まつながーも拗ねた顔でボソリと言う。
「俺にはあんな顔を見せてくれないくせに」
「あんな顔ってどんな顔やねん?」
 俺が聞き返すと、まつながーは面白くなさそうな顔で視線を逸した。さっきからなんなんやホンマにぃ。
「おーい。今のは酒井が鈍過ぎ。2人共俺達の会話に入れなくて、拗ねて焼き餅をやいてんの」
 安全圏に逃げとる石川は、膝の力が抜ける様な事を真顔で言う。
「そうなん?」
 俺が聞いたらまつながーも最上も妙に子供臭い顔で視線を落とした。
 ホンマに拗ねとるんか。幾つやお前らは。ああ、もう、しゃーないなぁ。
「最上、取ってる講義はほとんど一緒なんやからいつでも話出来るやろ。今回は最上がまつながーと話ししとったからたまたまや。ほんで、まつながー」
 最上には出来るだけ明るく話して、俺は上目遣いでまつながーの方を向いた。
「さっきのアホ発言については後できっちり話付けよ。……逃げんなや」
 少しだけ低い声で言うと、まつながーは身の危険を察したのかビクリと肩を揺らした。ほやけど、すぐに持ち直して真面目な顔で言うた。
「うん。もう逃げない」
 あれ、まつながーもなんか普段とちゃう?

 時間ギリギリだと言うて、まつながーは走って自分の教室に戻って行った。
 俺らも教室に移動しよかと歩き始めたら、前を歩いとった石川が振り返って少しだけ怒った顔で言うた。
「酒井、お前は本当に自分が解って無さ過ぎ。松永が何でわざわざあんな場所で、あんな事をして言ったのかはちゃんと解っているくせに」
 驚いた最上も振り返って俺の顔を見て、石川とも目が合うと黙って前を向き直した。石川も言いたい事は言ったと前を向いて歩き出す。
 ああ、たしかに俺は人から言われんでも解っとるわい。
 まつながーは学内では大人しうしとる俺が、何をどう言えばどう反応するんか、俺が何に対して本気で怒るんか、みんなに教えようとわざとあんな道化じみた事した。全部まつながーが好意でしてくれた事やとちゃんと解っとる。
 ほやけどな。いくら好意でも、未だに1人でなんも出来んヘタレの俺には、ああいう事はありがた迷惑でしか無いんや。


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