本気で怒ったり、落ち込んだり、悔しそうな顔は何度か見た事が有る。
 だけど、俺のよく知っているヒロは基本笑顔で、何かを興味深そうに見ていたり、気持好さそうに眠っている顔ばかりだ。
 ヒロがこんな風にボロボロと涙を流す姿は見た事が無い。
 と言うか、ヒロの泣き顔自体俺は初めて見るんだ。

「酒井くんと松永くん」 =第2期= 『友情の境界線』(8)

22.

 言葉が出てこない。いや、何て言えば良いのか解らない。
 こんな風に弱気丸出しのヒロに対して、俺はどう接したら良いんだ?
『今夜、酒井の様子がおかしくなっても松永は……』
 石川の言葉が頭に浮かぶ。今ひとつ掴み所が無い奴だったが、かなり頭は切れそうだった。昼休みのヒロの異変から、こういう事態になる事まで予想していたのか。だとしたら、石川も優しい顔に似合わず怖い奴だ。
 いや待てって。こんな事をのんびり考えてる場合じゃないだろ。ヒントだけとはいえ、心の準備をさせて貰えたんだ。今は石川の機転に感謝しよう。
 ヒロは責任感が強くて、困ってる奴にはとても優しい。最上が俺に喧嘩腰になったのも、俺が一方的に責められたのも、全部自分のせいだと思ってるんだ。
 ヒロのせいじゃない。ヒロは何も悪く無い。今すぐそう言わなくちゃ駄目だろ。俺。

 意を決して俺が口を開こうとした時、ヒロも自分の異常状態に気付いた。ぱっと自分の頬に両手を当てて涙を確認すると「うはああ」と変な声を上げながら、ゴシゴシと自分の顔を手で拭い始めた。
「おい、ヒロ。止めろって。そんな乱暴に拭いたら目を傷付ける」
 手を伸ばすと、ヒロは俺の手を乱暴に払って急いで背を向けた。
「堪忍や。まつながー、お願いやからこっち見んといて。こない情けのうてみっともない俺を見んといて」
「見るなって……俺にヒロに背を向けてろって事か?」
「うん。お願いやからこれが収まるまでそうしといてくれん。なして俺は泣いとるんやろ。涙腺壊れたんかなぁ。……うん。きっとそうや。ほやったらすぐに戻るて思うから。俺の為に早う帰って来てくれたのに。まつながー、ホンマに堪忍な」
 何でヒロは俺に謝ってばかりなんだよ。ヒロが一体何をしたっていうんだ。段々腹が立ってきたぞ。
「放っとけって言われれも、そんな事出来る訳無いだろ!」
 俺はマナー違反を承知でテーブルをまたぐと、俺に背を向けて小さくなって震えているヒロを抱え上げた。そのままヒロの向きを強引に変えて正面から抱きしめる。気持ち悪い事をするなと殴りたかったら殴れ。
「うひゃ?」
 びっくりしたヒロが小さな悲鳴を上げる。普段のヒロなら怒って俺の顔面に蹴りくらい入れそうな状態なのに、今のヒロの全身が冷えて強ばって全く動けずにいる。
 こんなになるまで緊張しきってたんだ。そりゃそうだよな。自分が泣いている事にもなかなか気づけ無かったくらいなんだから。
「これなら俺はヒロの顔が見えないだろ」
「……うん。ほやけど、こういう体勢は気色悪いから嫌やていつも言うとるやろ」
 身体は動けないのにショックで理性が戻って来やがったな。ヒロは本当に強い。いや、単に反射的に言ってるか、強情を張っているだけなのかもしれない。
「伊勢で俺が訳も解らず泣いた時に、ヒロは黙って胸と膝を貸してくれた。水戸でもこうしてくれた。ヒロはいつも俺に優しくしてくれる。俺もヒロにそうしたいと思うのはいけない事か?」
 ヒロはピクリと身体を動かすと、すぐに俺の胸に顔を押しつけてきた。少なくとも今だけは俺がこうしているのを本気で嫌がってるんじゃない。
「後で鼻水垂らしたから俺にTシャツ弁償しろて言うなや」
 ……。しっかり憎まれ口を叩くことも忘れないな。俺に抱きしめられて大人しくしているだけでも、ヒロにとってはかなりの譲歩なんだ。
 それでも少しずつヒロの全身から力が抜けて、俺の肩にヒロの体重が掛かってくる。体温も徐々に戻ってきている。Tシャツはかなり濡れているけど、ヒロの涙なら全然気にならない。
 ヒロの身体は細い筋肉質の割に柔軟性も高い。身長162センチまであとわずか(これはヒロの強い自己申告。本当かよ)、体重50キロ弱(こっちは俺の感覚)の巨大な猫だと思えば、このぐんにゃりした姿勢も気にならない。というか、胡座の上で正座に近い体勢のままなんだからヒロは器用だ。
 後ろから抱きしめた方がヒロも楽だったろうかと考えて、さすがにあれをまたやったら、どんなに弱気な時でもその場で蹴り倒されるのが目に見えていたから避けた。

 お互いに無言のまま時間がゆっくり流れていく。口下手の俺にはありがたいが、ヒロにとってはどうなんだろう。
 ボロボロ涙を流して、それでも高いプライドからか、泣き顔を見るなと俺に背を向けた。こうして猫みたいに俺に体重を預けてくれているのも、余程泣き顔を見られるのが恥ずかしいか、俺を気遣っているからかもしれない。
「俺は猫とちゃうで」
 げっ。やっちまった。どうしてこう俺は頭で思っている事が口に出ちゃうんだろうな。顔は見えないがヒロは呆れているのかもしれない。
「そうとちゃう。まつながーはいつも俺に対して正直でおってくれるから、俺も甘えてみよかなんて、図々しいコトを思えたん。ホンマおおきにな」
 うわあ。マジかよ。ヒロが食い物以外で、俺に素直に甘える言葉を言ってくれるなんて初めてじゃないか。自分でも顔がほてってくるのが解る。
「痛えっ!」
 いきなりヒロが俺の脇腹を思いっきりつねってきた。
「食い意地ばかり張っとって悪かったなぁ」
 ……。また全部口に出てたのか。本当に自重しよう。このチャンスを逃したらヒロは2度と俺に甘えようなんて思ってくれないかもしれない。ずっと俺はヒロに頼られたいと思っていたんだ。

 しばらくしてヒロの身体がブルブル震え出した。何だろうと少しだけ手を弛めたら、ヒロは顔を上げるとぷはっと大きく息を吸った。
「まつながー、少しは力を加減してや。窒息するかと思うたで」
「あ、ごめん」
 顔を上げたヒロの目にはもう涙の跡は無くて、当然鼻水なんて全く付いていない。本当に静かに、声も一切漏らさずに涙だけを流し続けていた。自分でも訳が判らない状態だっただろうに、どれだけ強い自制心なんだ。
 ヒロは恥ずかしそうに下を向くと、「もう平気や」と俺の胸に手を当てて離れようとした。負けずと俺もヒロの肩を抱いた手に力を込める。
「まつながー?」
「嫌だ」
「あのな。俺はもう泣いとらんやろ」
「たしかに涙は止まったみたいだけど、心の方はどうなんだ? ヒロが本当に大丈夫だと俺が思えるまでは離さない。何度もヒロが俺にしがみついてくるなんて思えないから」
 半分カマを掛けたつもりだったが、図星だったらしい。ヒロはまた少しだけ下を向くと「まつながーのアホー」と言って、俺の肩に頭を預けてくれた。
「なあ、まつながー」
「何だ?」
「弁当の中身なん? 放置して不味くなるんは堪忍やで」
 心配してたのはそっちかよ! ああ、もうこの食欲魔神め。泣いたと思ったら即飯の話が出来るなんてどんな精神構造だ。
「シュウマイ定食と餃子定食。どっちも電子レンジで温め直しても味はあまり変わらないから安心しろ」
「そなんや。おおきにぃ」
 食料の心配が無くなって安心したのか、ほっと息を付いてヒロはまた黙ってしまった。
 そういえば以前、ヒロは言っていたな。どうして良いか判らない時に、何も言わなくても信頼出来る相手が側に居て、体温に触れていると安心出来ると。つまり、今の俺はヒロにとってそういう存在なんだ。
 普段のヒロを正面抱きなんてしようもんなら、間違いなく俺は顔の形が変わるくらい殴られる。
 ヒロは俺に最上の事を説明したがっていたが、今はその気力も無いんだ。そうなら俺はヒロがいつもしてくれるみたいに、黙ってヒロが落ち着くまで肩を貸しておきたい。
 石川の言葉を信じるなら、大学内でヒロに1番信頼されているのは俺なんだ。俺にとってのヒロを無理に言葉にしようとすると、天子以外は陳腐な言葉しか思いつかない。


23.

 長年頑張って守ってきた約束を破ってしもた。
 俺はもっとしっかりせなアカンのに、まつながーに甘えきっとる。ほやけど、今すぐ顔を上げたらまた涙が出てきそうや。俺はこないに弱かったやろうか。
 いや、そうとちゃう。
 俺はホンマはメッチャ弱い。ほやから一生懸命強くなれる様にて努力をしてきた。
 ほやけど、それももう限界に近いっぽい。俺がアホなせいで真田さんを酷く傷付けた。最上を苦しめ続けて、石川にも心配をかけ続けた。そして、まつながーにも迷惑を掛けた上に今もこうして心配を掛けとる。
 情け無いなあ。まつながーの素直さ、最上の正直さ、石川の気配り、真田さんの強さ。ほんの少しでもええから俺にも有ったら、こない情けない事態にならんかったのに。
 ああ、そやった。まつながーにちゃんと説明して謝らなアカン。
 顔を上げようとしたら、豪快に俺の腹の虫が鳴った。ううっ、メッチャ恥ずかしい。
 まつながーはぷっと笑うと、俺の頭を撫でて「先に飯にするか」て言うてくれた。今は羨ましいを通り越して、まつながーの柔軟さが恨めしい。


24.

 レンジで温め直した弁当と、納豆、インスタント味噌汁で晩飯を済ませると、ヒロは俺と自分用に少し甘めのホットミルクコーヒーを用意してくれた。
 カルシウムと糖分の補給か。脳に栄養を与えて落ち着こうという意図なんだろう。酒を選ばないのはヒロが酒は苦手だからじゃなくて、真面目に話をしたいという強い意志を感じる。
 俺の顔を真っ直ぐ見返して、ヒロはゆっくり話してくれた。
 文芸部のアホ共が出したコピー同人誌を読んで、ヒロを心配した最上と勘違いで喧嘩になってしまった事。
 ヒロ自身は覚えていないが、石川の説明によると一方的に最上を負かしてしまった事。
 そのせいで最上はヒロと仲直りしたくても、3ヶ月も声を掛けられなかった事。
 ため込んだ最上の怒りの矛先が、ヒロの説明不足で俺に向かってしまった事。
 予想通りヒロは誰の事も責めずに、自分が全部悪かったと謝罪の言葉で締めくくった。

 今のヒロは、俺や最上や石川、多分真田に対しても罪悪感で一杯で、自己嫌悪の塊になっているんだろう。全部学校が始まってわずか4日間の出来事だ。俺だってこんなトラブルばかり続いたら完全にへこむ。
 いくら伊勢の神様に愛された天子でも、どれだけ普段は強くても、ヒロは俺と同い年の男だ。そうでなきゃ家族同然で兄弟扱いしている俺相手に、プライドの高いヒロが涙を見せるとは思えない。
 ヒロは俺が美由紀に振られてから、ずっと俺に気を遣ってくれていた。落ち込んで荒れていた俺をずっと支えてくれていた。
 俺は美由紀と話せるまで、自分の事しか考えられなかったけど、ヒロは自分の事は完全に放り出してでも、俺を護ってくれてたんじゃないのか。
 それにヒロは最後まで言わなかったが、俺には石川から貰った情報が有る。強気なクラスの女達に絡まれてヒロは調子を崩した。
 学部生の多い情報学部で、わざわざ女の少ない工学系を選ぶ女達だ。うちの真田や服部レベルに鋼の神経の持ち主達なんだろう。
 またその手の女なのか。あの馬鹿姉といい、完全にヒロの鬼門じゃないか。無自覚恋愛中女恐怖症のヒロが、トラウマ悪化で女嫌いにまでなったらどうしてくれる。
 裕貴みたいな器用さが無い俺なんかで、こんなに弱気になったヒロに何が出来るだろう。
 俺がずっと相づちを打っていたからか、ヒロが不安げな顔で俺を見上げて来た。
「まつながー、明日から俺や最上と石川と一緒にお昼ご飯食べてくれる? またうちの学部に遊びに来てくれる?」
 だあーっ! くそーっ! ヒロは自分が悪いと思ったらすぐに謝るけど、自分を怒ってないか? とか、自分を許してくれなんて可愛い事は絶対に言わないんだよな。俺に弱みを見せるのがそんなに嫌なのか。
 見た目に反して性格は可愛くないなんてもんじゃない。この超意地っ張りめ。
 段々俺の方が拗ねたい気分になってきたぞ。これくらいのささやかな反撃は許されると思う。
「なあ、ヒロ」
「なん?」
「今夜は添い寝しようか」
「へ?」
 何を言われたのか解らないという顔で、ヒロは大きな目を更に大きく見開いた。
「ほら、俺が伊勢で落ち込んでた時にヒロにして貰っただろ。急に泣きたくなった時に気持が落ち着くぞ」
 ヒロは一気に赤面すると、立ち上がって怒鳴った。
「アホ言うんもたいがいにせいや! たしかにまつながーには沢山迷惑掛けてしもたけど、俺はもう泣いとらんて言うとるやろが。俺はそないに弱く見えるんか」
 ヒロの両手が怒りと恥ずかしさでブルブル震えている。だけど今の俺は引くわけにいかないんだ。伊勢で俺が切れた時のヒロがそうだった様に。
「俺はヒロを弱いと思わない。だけど、誰だって弱気になる時は有るだろ」
 俺が真っ直ぐに見返すと、ヒロは益々顔を赤くして、衣装ケースから着替えを出して「風呂入ってくる」と言って、部屋から出て行った。
 取り付く島も無いか。今のヒロには気持を静める時間が必要なんだ。伊勢で逆上した俺に殴られても、首を絞められても、どれだけ罵られても、ヒロは逃げなかった。俺もヒロが俺の方を向いてくれるのを待てる。


25.

 自分で自分が嫌になる。まつながーはずっと俺に気を遣ってくれとるのに。俺はちゃんとそれに気付いて、まつながーに感謝しとるのに、素直に「おおきに」の一言が出てこん。
 夏休みの間にまつながーは変わった。抱えとった問題が解決して以降、本来のしっかり者で、無口やけど気配り上手な優しいまつながーに戻った気がする。
 悔しい! メッチャ悔しい!
 心の容量は持って生まれた才能なんか。俺は相変わらずヘタレのままや。どんどんまつながーと差が開いていく。頭では解っとるのに、俺は心の底でまつながーを僻んどる。
 出来る限り頑張るしか無いやろが。しっかりせい。俺。人と比べたってしゃーない事なんやから。
 俺が風呂から出ると、まつながーも続けて風呂に入った。
 テーブルの上は綺麗に片付けられて、氷り入りレモン水が置かれとる。
 俺があない嫌な態度をとっても、自然にこういう気配りが出来るんや。まつながーはホンマに優しい。一口だけ飲んでみたら、俺が好きなちょっと甘めの味になっとった。
 感傷の涙なんてとっくに捨てたて思うてたのに、今日は涙腺がおかしいんか、また視界がじわりとゆがんだ。


26.

 理由は解らないけど、ヒロはかなりのレベルでいつも自分の感情をセーブしていると思う。
 だけど、誰だってあんな事をずっと続けてたら、いつか心が折れてしまうんじゃないのか。
 俺がヒロに出来る事。というかヒロにしたい事。こっちの方が無理して考えずに済むから楽だ。殴られる覚悟でやってみるか。
 俺が風呂から出たら、ヒロがコップを片手に「おおきに」と笑ってくれた。俺が冷蔵庫からビールを出していると、ヒロはコップを流しに置いて布団を広げようとする。あれだけ言ったのにそりゃ無いだろ。
「添い寝するって言ったのに何で布団を敷くんだ?」
 ヒロの背中からどす黒い怒りのオーラが立ち上る。この手のネタを振ると絶対に瞬間沸騰だ。これでこそヒロだよな。
「俺が、いつ、まつながーと、一緒に、寝る。て言うた?」
「寝ないとも言ってないぞ。たしかにシングルベッドで一緒に寝るのはキツイけど、俺とヒロなら何とかなるだろ」
 ピシッと空気が凍り付いた音がした。……気がする。ひょっとしてやり過ぎたか?
 頬を引きつらせたヒロが、振り返ると同時にベッドに座っていた俺の顔めがけて枕を投げつけてきた。
「なしてそない狭いトコで寝なアカンのや。気色悪い上に俺がまつながーに潰されて窒息するわい!」
 手に持っていたビール缶が飛ばなくて良かった。やっぱり運動神経の良いヒロはコントロールも凄い。
 だけど自分の枕を投げてくるとはヒロも甘い。ベッドに置いてくださいって言ってる様なモンだ。
「理由は俺がヒロと一緒に寝たいからじゃ駄目か」
「へ?」
 他に武器が無かったんだろう。ヒロの手には例の掃除厳禁対ゴキブリ用ほうきが握られていた。頼むから切れた勢いでそれを投げてくれるなよ。避けたら後ろの窓ガラスが割れる。
「どういう意味や?」
 ヒロはほうきから手を離して、その場に座り込んだ。やれやれ。ヒロの理性に感謝だな。俺はずっと聞いてるばかりで、言わなかった事を正直に話すことにした。でなきゃ、ヒロはどうして俺がヒロに触りたがるのか納得しない。
「最上に喧嘩を売られた時、あまりに図星過ぎて俺は何も言い返せなかった」
「それは」
「頼むから俺の話も聞いてくれよ」
 否定の言葉を言おうとしたヒロを俺も言葉で止める。俺が懇願に近い口調で言うと、ヒロはすぐに気がついて頷いてくれた。
「分かった。話を止めてしもて堪忍してな。続けてや」
 どこまでも真っ直ぐで全てを見透かすような視線。いつものヒロが戻ってきている。
「最上の指摘通り、俺はヒロが文句を言わない事を良い事に甘え続けていた。これは否定できない。だけど、いきなり第三者からあんな風に言われるとは思わなかったんだ。正直、かなり落ち込んだ」
「……うん」
「そしたらすぐにヒロが会いに来てくれた。メールや電話でも良かったのに、一生懸命走って来てくれた。あの時、俺がどれだけ嬉しかったと思う?」
 ヒロは数回瞬きをして、また俺の顔をじっと見つめてきた。
「本当はヒロは我慢しているだけで、毎日俺と昼飯まで食うのは迷惑だったんじゃないかとも思った。だけど、俺の不安を全部吹き飛ばすみたいに、ヒロは俺の教室に飛び込んで来てくれた。許されていたと、ヒロに好かれていると思えて、俺は幸せな気分になった」
 自分でもこっ恥ずかしい事を言っているなと思っていたら、ヒロは「大げさやなぁ」と笑った。
「俺はまつながーと一緒に居るのを嫌やなんて思うたコト無いで。あ、観光地でカップルに間違われた時以外は」
 名古屋と伊勢と鳥羽の水族館のあれか。ぶはっと俺が笑うとヒロは「笑うなや」と怒ってきた。
「ごめん。で、話を戻すけど、俺はまたヒロに救われたと感じた。だからさ。今夜はヒロをだっこして寝たい」
 それまで普通だったヒロの目が一気に吊り上がる。
「なあ、まつながー」
「ん?」
「まつながーが俺が直に会いに行った事で、嬉しいて思うてくれたんは解った。俺かてまつながーに迷惑掛けてしもてメッチャ不安やったし、すぐ解って貰えて嬉しかったんやもん。ほやけどな」
「うん」
「それと添い寝の関連を20字以内に纏めて言えや。長々しゃべったらその場で叩くで。全身に立っとる鳥肌と、風呂に入ったばかりなのに、噴きだした嫌な汗をどないしてくれる」
 予想を全く裏切らないツッコミをありがとう。
「俺がヒロと一緒に寝たいから。お、15文字で収まった」
「こんのボケがー!」
 避ける間も無く、俺は横っ面をヒロに対ゴキブリ専用ほうきで思いっきり殴られた。完全にゴキブリ扱いかよ。勢いで手にしていた缶ビールも吹っ飛ぶ。
「あっ!」
 俺とヒロは同時に声を上げた。半分も飲んでないビールは、器用にヒロの敷き布団の上に着地して、布団をびしょ濡れにした。

 その後の俺とヒロの連携プレイは素早かった。
 ヒロは缶ビールを掴むと、振り見もせずに流しに投げ込んで、敷き布団のシーツをすぐに剥がした。俺はまだ使っていない雑巾用バスタオルを衣装ケースから取り出して、シミと水分を抜こうと布団を強く叩く。ヒロは扇風機とドライヤーを持ってきて、布団に熱風と強風を当て始めた。
「こういう時、布団乾燥機が有ればなあ」
「無駄口を叩く暇が有るなら、ヒロも空いた手で布団叩け」
 俺が予備のタオルを投げると、ヒロもドライヤーを当てつつ、布団をタオルで叩き始めた。
「出来るだけ早く完全に乾かさないと、布団にカビが生えるぞ」
「解っとる。今からでもコインランドリーの乾燥に持ってった方がええかな」
 俺は時計を見て「時間的に無理」と答えた。長話で気付かなかったがもう11時を回っていた。歩いて行けるコインランドリーは午前0時で閉まる。
「ヒロ、これ丸洗い出来るタイプの布団か?」
「堪忍。オカンが買うてくれたからそこまでは解らん」
 まだこの布団は新しいから買い換えるのは勿体ない。タグを見たら水洗い可能になっていた。
「ヒロ、今日は出来るだけシミを取って乾かしておいて、なるべく早くコインランドリーに持って行って丸洗いしてから乾燥機だ。金は掛かるが醤油や油系じゃないからそれ程目立つシミは残らないと思う」
「分かった。ホンマにおおきに。それとまた迷惑掛けてしもて堪忍な。明日はバイト時間が短いからその後にすぐ持ってってみる」
 エアコンも除湿モードに変えて、男2人でトントンと布団を叩き続ける。全く俺達は何をやってんだろうな。
 ばつが悪そうにヒロが俺の顔を見る。
「まつながー、顔を叩いてしもて堪忍な」
「叩かれるだけの事を言った自覚は有るから気にするな。それに」
「ん?」
「あれでヒロが全く怒らなかったら、逆に心配したかもしれない」
「……まつながー、もしかせんでも俺が怒るて解っててわざとあんなコト言うたんか」
「いや、10中8、9怒るだろうけど、しぶしぶでもヒロが良いと言ってくれたらラッキーだと思った」
「変態みたいな真似すなや!」
 正直さが災いして、今度はドライヤーでヒロに後頭部を叩かれた。

 これ以上叩くと綿が駄目になると判断して、後は扇風機とエアコンの除湿に任せる事にした。ドライヤーも長く続けたら表布が傷む。
 雑巾代わりにしたタオルは洗濯物用バケツに放り込んで、俺とヒロはベッドの上に座り込んだ。
 換気を良くする為に立てたテーブルに布団を掛けたら、ヒロが寝るスペースが無くなってしまった。
「ヒロ。今夜は何処で寝る気だ?」
「台所の床かまつながーのベッドの足元。狭いけど俺やったら充分寝られるスペースや。夏やから風邪はひかんやろ」
 即答かよ。いつもは台所は暗くなるとゴキブリが通るから嫌だと言ってるくせに。
「却下。エアコン無しならともかく、一晩中扇風機動かして、エアコンを除湿モードにした状態で、床に直寝をしたら確実に風邪を引く」
 ヒロは露骨に嫌な顔をして、ボソリと言った。
「そんなら俺の部屋で、窓開けてタオルケット被って寝る」
 そこまで俺を拒否するな。夏バテ体質のくせに可愛くない。
「此処で寝たら良いだろ。非常事態だから狭い雑魚寝だと思えよ」
 目を座らせたヒロが俺を上目遣いで睨み付けてくる。
「これがダブルベッドでも、あの寝相のまつながーと一緒に寝るんは、色々な意味で自殺行為やから嫌や」
「風邪も引きたくなきゃ、夏バテも嫌だろ。少しは妥協して狭いくらい我慢しろって言ってんだ。俺はヒロが体調崩すと解ってて放置する気は無いぞ」
 俺がしつこく食い下がると、ヒロは眉間に青筋を浮かせながら言った。
「一晩中まつながーを簀巻きにしてええなら妥協する」
「それの何処が妥協だ!?」
 結局、ヒロと俺は間に布団を丸めて壁を作ろうとして失敗し、ヒロは蓑虫みたいに自分を夏布団で固める事で妥協した。
 俺はヒロがベッドから転がり落ちるじゃないかと不安だったが、当のヒロは丸まったまま俺に背を向けて普通に寝息を立てている。余程あのニアミスがトラウマになってるんだろう。俺だってさすがにあれの再現は嫌だ。
 息苦しいから頭のてっぺんまで布団を被るなと言いたいが、ヒロにとってこれが最大の譲歩なんだろう。伊勢では俺がしがみついても許してくれたのに、この意地の張り方は何なんだ。

 翌朝、目を覚ますとヒロはとっくに出かけていて、俺の顔には「昨日の事は最上と石川の事以外全部忘れろ」というメモが貼られていた。余程俺に泣き顔を見られたのが恥ずかしかったんだな。
 枕元を見ると、「ホンマに堪忍な」というヒロの書いたもう1枚のメモと、肌色の湿布が置かれていた。
 何だろうかと思いながら、洗面所兼用の流しに置いてある鏡を見て納得した。俺の頬にはヒロに殴られたほうきの跡が少しだけ残っていた。手足が凶器なヒロが手加減をしてほうきを使ったのに、運悪く枝の部分も当たったらしい。
 なあ、ヒロ。
 これでも号泣するヒロの顔や、初めて俺に甘えてくれた姿も忘れろって? 絶対無理に決まってる。
 ヒロは無駄な意地を張る方じゃない。何か理由が有ってあそこまで頑なになってるんだ。それが何なのか知りたい。俺に出来るものなら、ヒロの自由を縛る色々な問題から解放したい。
 それ以前に、ヒロが正直に話してくれるかだよな。あの意地の張り方を思い出すと溜息が出そうだ。
 俺は適当に朝食を済ませると、着替えてアパートを出た。


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