朝、普通に目が覚めて(ヒロに言わせると俺の普通は色々な意味ではた迷惑らしい。俺はまだ寝ぼけて何かをやってるのか?)、時間が合う日はヒロと一緒に朝飯を食って一緒に登校する。
 校門を通りすぎた所で「また昼に」と声を掛け合ってお互いの教室に行く。
 こんな当たり前の日常が、たった2日無かっただけでもとてもありがたい事だと思える。
 それに気付けただけでも俺は凄く幸せ者なんだろう。
 ヒロが耳が腐るから止めろと言う(時々ヒロは正直過ぎる口で酷い事を言う。音痴で悪かったな)鼻歌を歌いたい気分で、1コマ目の教室に入る寸前に、後ろから大声が聞こえた。
「おい。そこの納豆星人!」
 は!?

「酒井くんと松永くん」 =第2期= 『友情の境界線』(6)


14.

 一瞬足が止まってしまったが、何かの聞き間違いだろうと教室に足を入れようとしたらまた大声が聞こえた。
「おい。聞こえてんだろ。無視してんじゃねえよ。納豆松永」
 今度はしっかり名前付で呼ばれた。本当に俺の事だったのか。相当失礼な奴だな。人を呼ぶのに一々納豆を付けるなっての。
 振り返ると、俺より10センチくらい背が低くて肉付きも中程度、短い黒髪、服装はTシャツにジーンズというごく普通だけど、目付きだけは悪い男が立っていた。
 知ってる顔の様な気がするが思い出せない。こういうのにはあまり関わりたくないな。俺が無言で見返すと、そいつは俺に近寄ってきた。
「一応、初めましてだから自己紹介しとく。俺、情報学部の酒井のクラスメイトで最上光(もがみみつる)ってんだ。毎日昼に顔を見てっから、俺はお前の事を知ってる」
「ああ」
 どこかで見た気がすると思ったら食堂か。ヒロのクラスメイトだったのか。礼儀正しいのか失礼なのか判らない奴だな。少なくともこの睨み付けてくる目や口調からは、俺に対して好意の一欠片も感じられない。
 俺が黙ったままでいると、最上はしびれを切らした様に口を開いた。
「俺の事、まだ酒井から何も聞いてねえの?」
「ヒロから? ひょっとして昼飯面子が増えるって話か。それなら昨夜聞いた。お前がそうなのか」
 最上は一瞬だけ口を開いたまま固まって、すぐに顔を赤らめて大声を上げた。
「はあっ? たったそんだけ? 酒井のアホ、どんだけ人が良いんだよ」
 入り口前で最上が大声を出し続けるから、教室に居る奴らが何事かと俺達の方を見ている。教室に入りたい奴らもさっきから廊下で立ち往生状態だ。少しは回りを見ろよ。こいつは空気も読めないのか。
「ここだと邪魔になる。場所を変えよう」
 そう言って俺が廊下の反対側の壁寄りに立つと、最上も慌てて周囲を見渡しながら「通行の邪魔してわりぃ」と謝りながら俺の横に移動してきた。何だ。本当に周囲の状況に気付いて無かったのか。悪い奴では無さそうだがかなり微妙だ。
 まさかと思うが、昨夜ヒロが言っていた俺と気が合いそうなってのがこいつじゃ無いだろうな。どこをどう見ればそう思えるんだ。真田といいこいつといい、ヒロの基準は俺には解らない。
「それで、俺に何の用だ? 講師が来る前に終わらせてくれ。お前も1コマ目が有るなら、教室移動時間込みで手短に話せ」
 しまった。ついうっかり最上の雰囲気に圧されて、俺もぞんざいな口の利き方になった。途端に最上の目付きが更に険しくなる。正に人の振り見て我が振り直せだな。……と、目の前のこいつにも言ってやりたい。
「やっぱ、俺。酒井がお前んコト、すげえ良いヤツてメタ誉めすんの理解できねぇわ。まあ、酒井はちょっと度が外れたお人好しだからだろうけど。お前、俺が顔と名前知ってるからって、初対面なのに自己紹介もしねえじゃん。言い方も何様って感じだよな」
 ヒロがお人好しの部分だけは同意だが、その言葉を全部返してやる。お前に「何様」なんて言われたくねえ。
 怒鳴り返してやりたいが我慢だ。こいつはヒロの友達。多分友達。一緒に昼飯を食いたいと、俺に紹介したいと思うくらいの友達。俺には理解出来なくても、きっと良い奴なんだ。……と、自分で自分に言い聞かせる。でないと血管の2、3本は切れそうだ。
「時間があまり無いからさっさと用件を言えよ。お前も遅刻したく無いだろ」
 俺がとりあえず妥当な突っ込みを入れると、最上は思い出したという顔をして口を開いた。おいおい。まさか何を話すかまで忘れてたんじゃないだろな。
「と・に・か・く!」
「聞こえてるから、無駄にでかい声を出すなっての!」
 また最上が大声を出してきたから、俺も速攻で言い返す。目の前の教室はうちの学部の連中だらけなんだぞ。自爆するのは勝手だが俺まで変に目立たすなよ。
「お前も相当大声だろ。良いか。酒井は優しい奴だから俺がお前に言ってやる。あんまし酒井に迷惑掛けんな。昼飯くらい自分の学部近くの食堂で食え。同じアパートに住んでて、学部棟も遠いのに昼飯まで一緒って、お前、どんだけ酒井独占すりゃ気が済むんだよ」
 またか。知らない奴にまで言われてしまった。余程俺の行動は目に付きやすいんだな。
 そんな事を考えていたら、最上はまだ言い足りないのか大きく息を吸った。
「はっきり言うぞ。俺はずっと毎日うちの学部に来るお前が目障りだった。しかも昨日酒井に理由を聞いたら、お前が納豆食いたいからだけだって? 信じられねえつーか、酒井の好意に甘えんのもいい加減にしろよ。酒井はああいう奴だから、お前と一緒に居るのを全然気にしてねえって感じだけど、酒井にだって付き合いや都合があんだぞ。身に覚えがねぇなんて言うなよ。俺の学部じゃお前は相当有名なんだかんな!」
「……っ」
 最上に言い返したいけど、図星で正論なだけに何も言い返せない。
「俺が言いたいのはこんだけ。これからはもっと自重しろよ。納豆星人!」
 最上はそう言って踵を返すと、学部棟から走って出て行った。あの野郎、言い逃げしやがった。

 本当の事だけに尚更腹が立つ。俺が教室に入ると、ほぼ全員が爆笑していた。これだからこっちで目立つのは嫌なんだ。
「あはははは。遂に言われちゃったねー」
 相馬が嬉しそうに俺の肩を叩いてきた。
 「今の誰?」と、安東が涙目で聞いてくる。人の不幸を見て楽しそうにしやがって。泣き笑いする程のモンかよ。
「多分、情報学部のイノシシ最上だろ」
 岩城がむせながら答えると、「ああ、ずっと前に酒井ちゃんに思いっきりボコられた奴か」と、安東が手を打つ。
 はあ? その噂はねつ造じゃ無かったのか。
「だからあたしも散々言ったでしょ。松永は酒井君に甘え過ぎだって」
 何故か真田まで背後から参戦して来たので、俺はこっそり真田だけに聞こえる声量で聞いてみた。
「おい真田、ヒロの喧嘩の噂って嘘じゃなかったのか?」
 真田はばつが悪そうな顔をして、少しだけ頭を下げた。
「ごめん。ちょっと調べてみたら全くの嘘じゃ無かったみたい。とはいえ口喧嘩レベルらしいけど」
「ああ、それなら解る」
 余程の地雷でも踏まない限り、ヒロが学内で誰かに怪我をさせるなんて想像出来ない。
「わざわざここまで来て松永に宣戦布告してきたって事は、最上君は酒井君と仲直り出来たんじゃないかな」
「宣戦布告?」
 俺が何の事だと首を傾げると、安東まで俺の肩に手を置いてくる。
「だから言っただろ。これからは出来るだけ俺達と飯食おうって。あ、俺の前で納豆ラーメンは禁止だからな」
「あたしは納豆味噌汁禁止で宜しく」
 真田が嬉しそうに笑うと、どこから聞いていたのか服部が「あたしは納豆カレー」と手を挙げた。
「んじゃ俺は納豆掛けオムライス」
 相馬が他にも有ったかなと指折り数え始めると、岩城が「俺は今挙がったの全部駄目だ。頼むから納豆は普通に食ってくれ」と愚痴る様に言った。
「ちょっと待て。お前ら全員水戸市民を敵に回す気か?」
 俺がわざと怒った様な声を出すと、逆に全員が一斉に抗議をしてきた。
「松永のせいで茨城県民以外の納豆嫌いが増えると思う」
「おいおい。悪いのは全部俺か?」
「当然!」
 ……。何でこいつらこういう時だけはしっかり結束するんだよ。改めて小さな事にはこだわらないヒロの偉大さを知る。
 俺が不満そうな顔をしていると、安東がトドメとばかりに突っ込んできた。
「松永、俺らは納豆自体を否定してんじゃないんだから、もう毎日酒井ちゃんとこに逃げるなよ。最低でも週半分はこっちで食えよ」
 冗談じゃない。納豆を食えてもこれじゃ縛りが多すぎるだろ。何だか無性にヒロ天子に会いたくなった。


15.

「へ? 今なんて言うたん?」
 俺が聞き返すと、最上は自慢げに自分の胸を叩いた。
「だから。ついさっき、あの納豆星人にあんまし酒井に甘えんなって言ってきたんだって」
「なして最上がまつながーにそないな事言うん?」
「俺がそうしたかったから。これからあいつと一緒に昼飯食うんなら、ここ3ヶ月分の恨みも込めて、先に一発ガツンと言っておきたかったんだよ。いきなり仲良く飯食いましょうて言われても、「はい」なんて言えないっつーの」
 ……。なんちゅーこっちゃ。マジで頭が痛いで。昨日最上がメッチャ怒ってたんは解っとったけど、まさかの行動力や。
「最上、お願いやからそういうコトするなら、先に俺に相談してからにして」
 まつながーは水戸出身やからだけやのうて、昔納豆を作っとったじーちゃんが大好きやから、余計に納豆好きになったんや。学部では好きに食えんからていつも言うてたのに。
 これはまつながーの家庭の事情やから、俺が勝手にしゃべる訳にはいかん。ほやから直に会うて話して欲しかったのに台無しや。
 いきなり見ず知らずの最上に一方的に文句言われて、途方に暮れとるまつながーの顔が目に浮かぶ。このままじゃアカン。すぐにまつながーのトコに行かな。
 俺が鞄を置いたまま走りだそうとしたら、石川に強い力で腕を掴まれた。
「落ち着け、酒井。もう1コマ目の講義が始まる。今外に出たら欠席扱いになるし、行った先で松永の邪魔にもなるぞ」
 言われて時計を見たら開始2分前やった。たしかに走っても間に合わんし、行けばホンマにまつながーに迷惑掛ける。こない時でも冷静な石川に感謝や。俺が黙って頷くと、石川は笑って手を離してくれて、横に立っていた最上を睨み付けた。
「最上、お前には後で話がある。俺はお前の直線思考は好きだけど、やって良い事と悪い事が有るだろ。大体、お前の短気が原因で酒井とも疎遠になってたんだろ。少しは学習しろよ」
 石川の鋭い視線を受けて、最上は口を尖らせながら席に着いた。
 俺には最上を責める事は出来ん。これは昨日最上を誤解させたままにしとった俺の責任や。会ってまつながーと直接しゃべれば、最上ともすぐに理解しあえるて簡単に考えとった。
 今更やけど、昨日怒鳴りながら自販機を殴り付けた最上の顔が頭に浮かんでくる。あの怒りの矛先が直接まつながーに行くて想像出来んかったんは、完全に俺のミスや。
 まつながー、ホンマに堪忍して。

 1コマ目の授業が終わると、俺は荷物を石川に預けて工学部棟に走って行った。
 携帯が使えん場合の非常時連絡用にて、チョット前にまつまがーの取ってる講義と教室の場所を教えて貰っといて良かった。電話やメールなんかで済ませられん。直接まつながーに会うて謝りたい。
 一般教養期間でも、専門が違いすぎて情報学部と工学部では講義が一緒になる事が無い。それに教室も結構遠いんよな。
 日差しがきつうて全力疾走は辛いけどそんなんどうでもええ。何とか間に合うてくれて気持で、俺はまつながーが居るやろう教室に飛び込んだ。
「ヒロ!?」
 まつながーの声がする。良かったぁ。ここで合うとったんや。すぐに俺を見つけてくれたんや。声も出せずに扉にもたれてぜいぜい息をしとると、まつながーが走って側まで来てくれる。俺は気合いで顔を上げた。
「ま……つながぁ。か……堪忍してぇ。俺、最上に……順番間違えて……失敗……」
 まだ息が整わんで声がしっかり出せん。ちゃんと謝らなアカンのに。まつながーには最上の事をなんも話しとらん。いきなり知らんヤツから喧嘩を売られて、絶対にまつながーは困っとる。
 俺が見上げると、まつながーは俺の肩を引いてちゅーか、ほとんど持ち上げて(恥ずかしいからこれはヤメレ)、廊下に連れ出した。
 俺が何とか口を開けようとすると、まつながーの強い口調に止められた。
「ヒロが何を言いたいか解ってる。あいつは何か誤解してるだけなんだろ。詳しい話は夜にアパートで聞く。今日の昼はお互い別行動にしよう。ヒロは自分のやりたい事をしてくれ」
 やっぱり困ったんやろ。なしてそないに優しい事を俺に言うてくれるん?
「ほ……ほやけど、まつながぁ。俺は……」
 早うまつながーと最上に和解して貰いたいんや。まつながーかて訳解らんくてホンマは困惑しとるんやろ。
「安心しろ。俺はヒロを信じる。だからヒロも俺を信じてくれよ。ちゃんと夜まで待てるから」
 あっ、そうなんや。まつながーが言いたい事が分かった。
 昼休みの間に最上ときっちり話を付けろて。最上を誤解させたままやとアカンて。まつながーに話をするんはその後でええて言うてくれとるんや。
「うん。分かった。まつながー、ホンマにおおきに」
 俺が頷くとまつながーは笑顔で俺の背中を押してくれた。
「礼は良いから今すぐ自分の教室に戻れよ。ヒロの足なら間に合うだろ」
「うん」
 まつながーに軽く手を振って俺は走り出した。良かったぁ。まつながーは普段どおりやった。無条件に自分を信じて貰えとるて、こないに嬉しいもんなんや。
 昼休みになったら、俺の言葉足らずのせいで勘違いさせてしもた最上とも、ちゃんと話しせなアカンな。


16.

 次の教室に移動して、予習でもしようと教材を開きかけた時にヒロの姿が見えた。汗だくで真っ赤になった顔を見た時、俺はやっぱりヒロは天子だと思った。
 全く反論が出来ない最上の鋭い言葉を受けて、不安が無かったかと言えば嘘になる。直接ヒロの口から違うと言って欲しかった。最上から何か言われたんだろうが、俺の願いは聞き遂げられて、ヒロは本当に会いに来てくれた。
 ヒロにあんな必死な顔をされたら、何も言われなくても全部信じるしか無いだろ。
 脚の速いヒロの後ろ姿が見えなくなって、腹が立つ事に複数のでかい笑い声が響き渡っている教室に戻る。席に着こうとしたら、いきなり真田にルーズリーフの角で思いっきり後頭部を殴られた。
「いってぇ! いきなり何だ?」
 俺が怒鳴りながら振り返ると、真田は真っ赤な顔をして肩を震わせていた。
「聞かされる方が恥ずかしい事を大声で叫んでんじゃないよ。酒井君は必死で気付かなかったみたいだから、あたしが酒井君の代わりに叩いたんだよ。悪い?」
「「俺は信じる。だから俺の事も信じてくれ」か。……。ドラマみたいですげー笑える。俺も1回言ってみてえ。相手は女限定で」
 岩城が机をバンバン叩きながら笑っている。他にも机や椅子を叩いたり、うずくまって笑っている奴を多数発見。俺もヒロも真剣だったのに失礼な奴らだな。
「あたしは言われてみたい。腹筋が鍛えられて凄いダイエットになりそう」
 と、服部が真っ赤な顔をして腹を押さえている。お前は食後に甘いモンを食う回数を減らせ。そしたら絶対に痩せるぞ。
「博俊ちゃん、あんなに近くで初めて見た。声凄く高い。小さい。細い。メチャクチャ可愛いー」
 相馬、お前の頭には何か湧いてるのか。ヒロは男だぞ。……と突っ込んでやろうと思ったら、相馬は俺の方を指さしてきっぱり言った。
「それに比べて松永はキモイ!」
「そりゃどういう意味だ!?」
 俺が言い返すと、教室がシーンと静まりかえった。さっきから何なんだよ。
 立ち上がった安東が教室中を見渡して、溜息を吐きながら俺の横に立つと、馬をあやす様に俺の背中を撫でてきた。おい、こりゃどういうつもりだ。気持が悪い上に腹が立つ。
「いや、まあ。俺は自覚の無い変人に、ここまで好かれてる酒井ちゃんに心底同情するわ」
「安東、そこは「変人」じゃなくて「変態」に直してよ。毎回松永の馬鹿に巻き込まれる酒井君が可哀想だから」
 真田の突っ込みが入ると、なぜか教室に居たほとんどの奴らが頷いた。こら待て。俺は「変態」で確定かよ。
 真田は安東を押しのけると、俺のTシャツの胸ぐらを掴んで小声で言った。
「松永。あれだけ大学では自重しろって言ったよね。どれだけ恥ずかしい本音を駄々漏れさせれば気が済むの。これでまた酒井君に変な噂立ったら、あたしはあんたを許さないからね」
 2日前にも見たレーザービームが出そうな視線で、真田は俺を睨み付ける。
「真田、勘違いするな。俺はあんなに不安そうな顔をしたヒロを、安心させたかっただけなんだ」
 俺も小声で言い返すと真田は更にきつい視線になった。
「酒井君の必死な顔はあたしも見たよ。場所と言葉を選んでくれたら、あんたを誉めてあげたい気分なんだけどね。松永が無意識で使う言葉は普通に気色悪いの。本当に自覚しなよ」
 それだけ言って真田は俺から離れていった。あれ以来、ヒロが絡むと頭のネジが2、3本はぶっ飛ぶ様になっちまったな。真田もクールダウンする期間が必要なんだろう。こればかりは仕方無いか。
 程なく全員が着席した頃に講師が教室に入って来た。
 この炎天下を全力疾走してきただろうヒロは、言葉もおぼつかない状態だった。2コマ目の講義に間に合ったんだろうか。


17.

 俺が教室に飛び込むと、石川が「酒井、余裕でセーフ。こっち」と手を振って呼んでくれた。ちゃんと俺が好きな黒板が見やすいトコに席取りもしてくれとる。メッチャ助かるなぁ。
「石川、ホンマにおおきにー。……最上はどないしたん?」
 いつもは俺の右斜め後ろに座る最上は、珍しく石川が俺用に取ってくれた席の左後ろに座って、左手で頬杖をついとった。俺とは目を合わせようともせん。
 なんや話しかけづらいなあ。最上とは昼にじっくり話して、まつながーへの誤解を解いて貰いたいのに。
 あれ? なんか変やで。
 俺は最上の腕を掴むと顔から手を離させた。最上は慌てて手を戻そうと、俺の手を振り切って顔を隠した。やっぱり思ったとおりや。それを確認した俺は、すぐに手を離して自分のバッグを開けた。
「最上、お願いやからこれ使うて」
 最上の机の上にそっと冷えピタシートを置く。初期の小さな打ち身や捻挫ならこれが1番早いんよな。最上は少しだけ驚いた顔になって俺を見上げると、すぐに目的を理解してくれたみたいで、引きつった笑顔を見せると、顎に冷えピタ張ってまた手で隠した。
 一安心して隣でじっと俺と最上のやりとりを見とる石川に向き直る。
「これ、石川がやったん?」
「うん。この馬鹿が強情だったんで1発だけね。それにしても、酒井はバッグに簡易メディカルキットまで入れて持ち歩いてるんだね。今のはちょっと驚いた」
 面白そうに笑う石川に、俺はしかめっ面で顔を近づけた。アレは洒落にならんやろ。いつも元気な最上が何も言わんはずや。左顎が真っ赤に腫れ上がっとる。しゃべりとうても痛うて口が開けられんのや。
「ただの用心や。そんな事より、最上を殴る事はないやろ」
 俺がボソボソと話すと石川もボソボソ声で返してきた。
「俺もやりたく無かったけど、いくら説明しても自分の言動が酒井と松永に痛い思いをさせたと気付かなかったから。こういう時の最上は意地っ張りの悪ガキと一緒。頭で理解出来ないなら、身体で解らせるしかないだろ。痛いのは身体も心も同じだから」
 石川に文句を言おうと俺が立ち上がった時に講師が教室に入ってきた。しゃーないんでそのまま前を向いて席に着く。続きは講義が終わってからや。
 俺が居らん間に冷静な石川が最上を殴るなんて思わんかった。なしてこうなってしまうん? 俺はこないな事全然望んどらんのに。目に見えんなんかが勢いよく坂を転がり落ちる気分や。
 俺が溜息を吐いとると、頭の上から小さな紙切れが振ってきた。
『先に酒井に相談しなかったんは俺が悪かった。石川は普段大人しいけど、本気で怒らせると手が出んだよ。凶暴な姉貴に殴られ慣れてっから気にすんな。冷えピタ差し入れあんがとな。すげー楽だ。 by M』
 このミミズがのたくったみたいな字は最上やな。最後にMて書いてあるし。しばらくして、後ろで足を蹴り合っとる音が聞こえてきた。小学生やあるまいし2人してなんをやっとるん。

「最上、石川、今日は3人でお昼ご飯食べよ」
 2コマ目が無事に終わったんで(……て、一応は思っておこ。あれから20分は足を蹴ったり踏み合う音が聞こえたで)、振り返って2人に声を掛けてみた。
「松永を待たなくても良いの?」
 心配してくれとるのか、石川が真面目な顔で聞いてくる。
「うん。今日の昼は別行動や」
 最上が少しだけばつが悪そうな顔をして、石川は最上を軽く睨み付けた。怒られた小学生と説教しとる先生みたいや。あー、もうええっちゅーねん。
「なんも心配せんでもええで。まつながーの方から今日は別行動にしよて言うてくれたん。時間無かったから詳しい話は後でて事になったけど、まつながーは俺が行く前から俺が言いたい事をちゃんと解ってくれとった。ほやから俺もこないに安心しとれるん。ホンマやで。信じてや」
 俺がはっきりした口調で言うと、最上はちょっと信じられんて顔に、石川は安心したて顔になった。対照的な反応やなぁ。
「そっか。じゃあ飯を食いに行こうか」
 石川がバッグを持って立ち上がったのに合わせて、俺と最上も荷物を持って教室を出た。

 どうまつながーの事を説明したら、ちゃんと最上は解ってくれるんやろう。元々は俺がメチャ甘い事考えとったんが悪いんよな。
 それに、俺は最上に残酷な事をした。
 最上と喧嘩した時にいつもの事やからと、自分に都合が悪い事は綺麗に忘れとった。ほやけど、最上は自分が言うた事、してしもた事を忘れられずに、ずっと俺と和解出来る時を待っとった。どんな気持で3ヶ月間も俺の後ろに座っとったんやろう。
 今ならコピー本を読んだ最上が怒った理由は解る。俺の事をホンマに心配してくれたからや。ヘラヘラ笑って流しとった俺に、嫌な事は嫌やてしっかり自己主張しろて言いたかったんやと思う。
 高校時代に同人活動しとる友達が居ったから、本を作りたい気持は解るなんて言い訳や。
 俺のよう知っとる奴らは純粋に好きやからて、ホンマに楽しそうにバイトをしながら同人活動しとった。一生懸命で眩しいくらいキラキラしとるから、俺はあいつらを応援した。
 そのせいか、あのコピー本やオフ本は、手間はメッチャ掛かっとるけど、友達らが作ってたんとは全然違うて解る。俺はただ嫌な事実から目を逸らして逃げとっただけや。
 ほやけど、今になって俺はあれに向き合わなアカンのやろうか。

 そんな事を考えとったら、最上と石川は食堂入り口で隠れるように中を覗きこんどる。なんをやっとるんやろう?
「出遅れたからうぜえのが中央に居るな。あそこじゃどこに座っても見っかりそうだ。今から購買行っても大したモン残って無いだろうし、混雑するだけだな。作戦立てっか?」
 最上が嫌そうに舌打ちすると、石川は眼鏡の縁を上げて目をこらした。
「うん。俺も5Mが良いと思うけど、慣れてない酒井も居るから10Mでいく?」
 2人してなんの話をしとるんねん。
「酒井もカレーライスなら5Mやれるんじゃね」
「そうだね。自分がやった事とはいえ、最上の顔の事まであれこれ言われたたくない。じゃあ5Mで行こう」
 なんや解らんけど話がついたっぽい。石川は俺を振り返ると早口で言うた。
「酒井、今日の昼は全員カレーライス。これなら酒井も食えるだろ。出口に近い席に着いたら5分以内に完食して速攻で外に出るよ。飯の間は会話無し。おっけ?」
 ああ、5Mて5分の事やったんか。
「分かった」
「んじゃ。ゴー」
 最上を先頭に俺らは急いで食券売り場に走った。

 「いただきます」も言わんと、俺らはカレー大盛りを口に放り込んだ。食うて言うより丸呑みに近い。お米の神さんに怒られそうや。最上は皿を持ち上げてカレーをかきこんどる。石川も水を口に含んで流し込みって感じや。俺もうかうかしとられん。5分で食堂から出なアカンのやから。
 昨日の事が頭に浮かぶ。多分最上らは南部さんらを警戒しとるんやろう。俺かてあない一方的に攻撃されたら飯が不味うなる。見つかる前に退散したいて思うんは当然や。
 これまで俺は昼はまつながーと一緒やったからか、俺のクラスや学部がどういう雰囲気なんか気付かんかった。休み時間はみんな仲良し面子か、適当に席が近いモン同士で雑談しとるもんな。俺も休み前まではそうやった。
 ずっとすぐ後ろに座っとる最上と石川に気付かんかったんは、何気にステルスしとったんやろうて思う。もっと最上らから早う声を掛けてきてくれとったら良かったのに。
 いや、そうとちゃうやろ。人のせいにしたらアカン。最上も石川も俺に遠慮しとっただけや。
 慣れん環境に初めてのアパートの自炊生活、授業とバイトとまつながーの事で俺の脳みその容量は一杯で、休み明けまで他の事に気を回す余裕が無かった。俺はなんちゅー器の小さい男なんやろう。

 水を一気飲みし終わって立ち上がった時に、うっかり小野寺さんと目が合うてしもた。
「あ、酒井君だ。今日も最上達と一緒だよ」
「え、どこ?」と、南部さんらが振り返る。
 しもたぁ。せっかく最上らが目立たん様にて、俺を背中で隠してくれとったのに、先に立ち上がってどないするん。それにしても凄い眼力やな。100人以上がごった返しになっとる中で、俺1人をそうそう見つけられんやろう。
 迷った俺が動けずにおると、石川が軽く肩を叩いて「気にせず行こ」と言ってくれた。最上も歩きながら俺の横に回って、水谷さんらのきつい視線から俺を守ってくれとる。
「酒井君、今日は松永君はどうしたの?」
「酒井君、時間かなり有るよね。今日こそあたし達とお茶しよーよ」
 どないしよう。今日は俺は最上とじっくり話したいんやけど。ほやけど、それを言うたら「どうして?」て、聞かれるやろうし。まつながーの事も事情を知らん人にはなんも言いとうない。
 足が止まり掛けた俺の背中を、軽く最上が押してくれた。
「わりぃけど、俺らこれから行くとこあっから」
「そうそう。また今度ね」
 俺が助かったて思うてたら、南部さんがきつい目付きになって大きな声を出した。
「最上や石川には聞いてないよ」
「ていうか、何で今日も酒井君と最上と石川が一緒なの? 松永君が今日も休みって事はさすがに無いでしょ」
 小西さんが不満そうな声で言う。やかましいなぁ。お願いやからもう放っておいてくれんかな。水谷さんが石川の方を向いて露骨に顔をしかめた。
「なんかあの2人が酒井君と居ると、ストーカーしたモン勝ちって感じでキモイ」
 なんやてえ。石川らがキモイってなんや!?
 俺は一気に脳みそに上がった血を強引に抑えこんで水谷さんを見た。
「も……最上も石川も俺の大事な友達や。誰かて友達の事悪う言われたら嫌やろ。ほやから、そない言い方……」
 2度とすんな。ボケ!!
 最後まで口に出して言えんかった。指先が冷とうなって震えとる。メチャ悔しい。最上も石川も俺を庇ってくれとるのに。なして俺はこないにヘタレなんや。
 俺が下を向いとると、最上が小さな声で聞いてきた。
「酒井、今のって本音で言ってくれてんの?」
 俺が黙って頷くと、最上は「サンキュ」て言うて俺の肩に手を置いた。
「俺らよりお前らの方がよっぽどキモイっての。酒井が可愛いからって勝手な妄想ばかりして。そういうの、酒井が喜ぶとでも思ってんの? はっ。笑っちまうって」
 俺がビックリして顔を上げると、石川も南部さんらの顔を見ながらハッキリ言うた。
「俺はお前達が酒井の噂話をしているのはよく見るけど、実際に酒井と話してるの見た事無いんだよね。酒井の何を解っててそういう事言ってるの? 俺達は酒井と話すきっかけを待ってたけど、お前達は何もしてないじゃん。何も知らないなら横から余計な口出しもせずにいなよ」
 「な、酒井」と、石川がにっこり笑うてくれた。最上も石川もメッチャ格好ええなあ。
 水谷さんらのブーイングを無視して、最上と石川は俺を両側から挟んで抱え上げるみたいに歩きだした。

 そうしてやっと気付いた。俺は手の指先だけやのうて、全身が冷えて震えて動けんくなっとる事に。


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