つくづく自分が嫌になる。
 ヒロの死んだ様なあの目も、今目の前で必死に俺を睨み付けている真田も、俺が原因なのか。
 放っておけばいつかこうなる時が来るのを分かってて、ヒロを止められなかった俺が全部悪いのか。

「酒井くんと松永くん」 =第2期= 『友情の境界線』(3)


4.

 始めは何でだろうと疑問に思っていた事が、徐々にもしかしたらという予想に変わって、実際にその原因らしいものに突き当たった時、やっぱりそうかと思った。
 気付いた当初は、言えば俺はヒロに嫌わてしまうんじゃないかと、凄く情けない事を考えた。
 だけどそんな事より、事実を知ったヒロがショックから立ち直れなくなるんじゃないかとか、あの綺麗な笑顔が一生消えてしまうんじゃないかとか、想像するだけで胸が痛くなった。
 今は確信に変わっているヒロ自身も気付いていない問題から、俺はずっと目を逸らして逃げ続けている。
 真田。お前が俺の立場ならどうした? 真田ならヒロに言えたのか。迷う俺が弱いだけなのか。
 思考がぐるぐる同じ所を回って、無限ループに陥りそうだ。このままじゃ嫌だ。俺は小さく溜息を吐いて立ち上がった。
「真田、怒鳴って悪かった。ちょっとタイムだ。これを片付ける」
 俺が畳を指さすと真田は黙って頷いた。
 台所から雑巾と布巾を持ってくる。まずは畳と思ってテーブルの上に布巾を置いたら、真田が黙って布巾でテーブルの上を拭き始めた。どうやら真田も何もせずにはいられないって感じだ。
 俺がサーバーとコップを流しに片付けて畳を丁寧に拭き終わると、真田は濡れた布巾を俺に差し出してきた。
 なるほど、許可無しで人の家の台所には立ちたくないってか。真田も一応女だったんだな。しかもかなり古くさいタイプの。これが男同士なら遠慮無く上がり込んでくるだろうに。
 雑巾と布巾を洗うついでに真田を横目で振り返る。お互いに少しは落ち着いたみたいで、張り詰めていた空気が和らいでいる。あのまま怒鳴りあいにならなくて良かった。
 麦茶はまだ冷蔵庫に1本有るが、ヒロが帰ってきた時に困るだろうし不思議に思うだろう。俺は食器棚から新しいコップを出して別の飲み物を用意した。
 少しだけ色が付いた水を見て、真田がなんだろうと首を傾げる。
「はちみつリンゴ酢の水割りだ。俺も疲れた時に飲むけどヒロの好物なんだ。多分、真田の口にも合うと思う」
「リンゴ酢か。健康的で良いね。あ、美味しい」
 一口飲むと真田は嬉しそうに笑う。
「普通に貧乏なだけだ。水もミネラルウォーターじゃなくて、煮沸でカルキ抜きした普通の水道水だ。この暑い時期に毎回コーラやジュースを飲んでいたら金が続かないだろ」
「そうだね」
 俺もさっきまでの激情が収まっている。このままじゃヒロを困らせるだけだと気付いただけで冷静になれるなんて、さすがに自分でもどうかと思うが、そう思わせてくれるのがヒロの天子たる所以なんだろう。
「真田」
「何?」
「どういう経緯で真田がヒロに対してそういう結論に至ったのか、差し支えの無い範囲で教えてくれないか」
 真田の目付きが途端に険しくなる。どうにかしたくてこんな所まで来たのに、それでも自分からはまだ言いたくないんだな。余程真田にとって辛い経験だったんだ。
「真田がそれを教えてくれたら、俺が思っている事も真田が理解出来る様に話せると思う。それでも嫌か?」
 真田はぐっと両手を握りしめて、決心したと顔を上げるとぽつりぽつり話をし始めた。
 昨日帰ろうとしていたら偶然会ったヒロに一緒にお茶にしようと誘われた事、遊び心を起こしてケーキ屋に連れて行った事、必死な顔をしたヒロから告白をされた事、先に俺の気持を聞いてからと知って、自分はヒロにとってその程度なのかと落胆した事、会話と雰囲気からヒロが恋愛感情で好きと言ってるんじゃないと気付いた事。
 そこまで話すと真田は口を閉ざした。
 それで俺に対してトゲを出しまくっているのか。真田の方が男の俺相手にやきもちを焼いてるみたいに思えるのは気のせいか。
「真田。言いたくない気持は解るが、ヒロが真田に恋愛感情を持ってないと確信した部分を話してくれないか。俺はそこが1番重要だと思っている」
 真田は下を向いたまま耳まで真っ赤になって、聞き取れるかどうかギリギリの声量で言った。
「その……酒井君は今すぐあたしとセックス出来ないでしょって」
「ぶはっ! あ、悪い」
 思いっきりドリンクを噴いてしまった。それがケーキ屋でする会話か。というか、いくら何でもストレート過ぎるだろ。
「真田、お前ももう少しつつしみってモンを持てよ。女が言う台詞じゃないぞ」
 痛い所を突かれたからか、真田が真っ赤な顔を上げて反論してくる。
「仕方ないでしょ。遠回しに言っても酒井君は気付いてくれなかったんだから。あたしだって凄く恥ずかしかったよ。酒井君はあたしが何度聞いてもその意図を解ってくれなくて。それで、そこまで言ったら、やっと酒井君は自分が違うって気付いてくれたんだ」
 真田に何を言われているのか、全く解らずに首を傾げるヒロの姿が簡単に想像付いちまった。ヒロにとってセックスネタは、視界に入らないかでかい地雷なんだが、それを真田に言うのはヒロが可哀想すぎて出来ない。
 真田はまた下を向くと肩を振るわせ始めた。
「松永、はっきり言うよ。あたしが酒井君を振ったんじゃなくて、あたしが酒井君に振られたの」
「はあ?」
「言葉のままだよ」
 真田がヒロを振ったんじゃなくて、ヒロが真田を振っただって。それってつまり……。
「真田、お前がヒロを好きなんだな」
 真田は益々顔を真っ赤にして黙って頷いた。

 何てこった。真田がヒロを気に入ってるのは解ってたが、まさか恋愛感情まで行ってるとは思わなかった。
 ヒロにとって真田は大好きな友達止まりで、真田は異性としてヒロが好きで、結果的に告白されたはずの真田がヒロに振られた形になったのか。ややこしいな。
 俺が返事に困っていると、真田は俺を睨み付けてきた。
「松永が憎い」
「はあ? いきなり何だ」
「だって、松永は偶然酒井君の隣に住み始めて、今は一緒に住んでるじゃない。お昼休も酒井君は同じ情報学部のクラスメイト達より、松永を優先してるでしょ。いつも松永は酒井君に凄く大切にされてるよね。見てたら分かるよ。だから悔しい」
 おいおいおい。俺内ヒロの天子様兼お兄ちゃんポジションはともかく、俺達は普通に親友に分類される類だぞ。どういう理屈だよ。
「松永は男じゃん。あたしは女なんだよ」
 中身はともかく、それくらいヒロじゃなくても分かってると思うぞ。と、言ったら真田に殴られそうなので黙っておく。
「こんな頭と顔と身長以外取り柄の無い、ヘタレで口が悪くて可愛くない男より、あたしの方が酒井君基準で下ってどういう事ー?」
「俺に言うなーっ! ついでにどさくさに紛れて、さっきから俺に対してかなり酷い事を言ってるぞ」
「八つ当たりもしたくなるよ。当然でしょ。何で酒井君はこんな男が良いのよ」
「こんな男って言うな。俺でも傷付く」
「ごめん。……じゃあ、松永に訂正」
 「こんな」イコール「俺」は変える気は無いんだな。ヒロの優しさに甘えているのがそんなに悪いのか。
 ヒロが優しいのは俺限定じゃないんだぞ。天性の勘なのか、ヒロの天子様モードは本当に救いを必要としている相手には誰に対しても発揮されるんだ。未だに何が有ったか口を閉ざしているけど、たった数時間でヒロに惚れ込んだ裕貴が良い例だ。
「真田は何か誤解をしているみたいだが、ゴールデンウィーク以降のヒロが、他の何より俺を優先してくれたのは、ちゃんと理由が有るんだぞ」
「松永が失恋したから?」
 東京に出てきて早々振られて悪かったな。段々減らず口にガムテープ貼ってやりたくなってきた。
「それも有るけど他にも理由は有る。真田の立場には同情するが、全部は話したくない」
 美由紀の事も大きかったが、間が空きすぎて今更どんな顔をして親と顔を合わせたら良いのか、何を話したら良いのか判らなくて逃げ回ってたなんて、恥ずかしすぎて言いたくない。
「じゃあこれだけ教えて。松永がバッサリ髪を切った理由に酒井君は関係有り?」
「ああ、本当はずっと前に切りたかったんだが勇気が無かった。全部と言えなくても、全てのきっかけはヒロだ。凄く感謝してる」
 多分俺はノロケ話を聞かせる痛い奴と同じ様な顔をしていたんだろう。真田がボソリと「キモ」と言った。これに関しては誰に何て言われても痛くないから好きに言え。
「ヒロは俺が何も言わなくても俺の荒んでた気持ちに気付いて、俺が立ち直るまでずっと側に居て応援してくれた。今もそれが続いている。それだけだ。だから真田が俺に対抗心を燃やす必要は無い。第1、(一応)女のお前と男の俺じゃ上がる土俵が違うだろ」
 絶対に天子モードのヒロだけは例え女でも誰かに譲る気なんて無いぞ。とは口に出さない。たしかに俺は独占欲が強くて大人気も無いんだろう。
 真田は自嘲気味に笑うと、溜息混じりに呟いた。
「たしかにそうなんだけどさ。酒井君て優しすぎて残酷だよね」
 ヒロは優しいから残酷か。そこまで言うくらい真田はヒロに好意を持っているのか。
 大体解ってきたぞ。要するに真田はヒロに前々から少なからず好意を抱いていて、そこにヒロから告白されたモンだから有頂天になったんだ。まあ、普通はそうなるな。
 ところが、詳しく話を聞いてみたらヒロの気持は「お友達として凄く好き」で、真田にしてみればヒロ内お友達ランクでまで、自分が俺以下なのが気に入らないんだな。
 両想いだと期待した直後に酷い振られ方をしたんだ。真田の憤りも悲しさも解る。
 真田はヒロが居る情報学部にも顔が広い。ヒロを本気で恨んでいるなら、女共に声を掛けて大学でヒロの悪口を広めれば、1日でヒロは大学に居づらくなったはずだ。だけど、真田はその選択をしなかった。
 普段の真田なら俺にあんな事を言うまでもなく、ヒロの性格を考えて自分の気持ちに自力で折り合いを付けたはずだ。
 真田はヒロの心の傷を知らない。だからデータ不足で消化不良を起こしているんだろう。
 そりゃ、到底納得は出来ないだろうな。ヒロ本人も知らない事なんだから。
 だからこそ真田は回答が欲しくて、わざわざ俺の所まで来たんだ。今度は俺が話す番だ。

「ヒロが告白したのが真田で良かった」
 心底から俺が言うと、視線を落とし気味だった真田は真っ直ぐに俺を見返してきた。
「何で?」
「真田は漢らしいからな」
「それって誉めてるの?」
「俺の感覚じゃ最大限に誉めてる。真田には女独特のいやらしい面がほとんど無い。ヒロもそういう所を好きになったんだろう」
「友達としてね」
 真田は悔しそうにまた下を向いてしまった。どうにも上手く言えないな。もっとストレートに言うしかないのか。
「真田、俺はここまで来たお前の度胸と、酷い目に遭ってもヒロの悪口を言わないお前の理性と強さを信じる。恋愛音痴でも真田を選んだヒロの目も信じる。ヒロは人を見る目はたしかだからだ。これから俺が話す事は最重要機密のつもりで、真田の心の中だけに留めておいてくれ」
 真田は俺の顔を見て、覚悟を決めた様に真剣な顔で頷いた。
「3月末からずっとヒロと付き合ってきて、ある事をきっかけに気付いた。ヒロは……」
 言ってしまったら真実になりそうで言いたくない。だけど、それじゃいつまでも真田はヒロを理解出来ずに悩み続けて、ヒロも辛い思いをし続けるだろう。荒療治になるかもしれないが、今の俺にはこれしか出来ない。
「ヒロは自覚の無い恋愛中女恐怖症なんだよ」
「え?」
 真田が訳が判らないという顔になる。当然の反応だがちゃんと説明するのは難しいな。
「えーと、つまりだな。ヒロは男女問わず来る者拒まず、基本的に誰とでも仲良くしたいって姿勢だろ。俺の知る限り、ヒロの知人でヒロを悪し様に言う奴は1人しか居ない」
「あたしもそんな人知らないよ。あの酒井君を悪し様に言うって誰? 酒井君に対して一体何を言うの?」
 俺より女に顔が広い真田も知らないと確定した。こんな手を使うなんて、俺も相当狡くなったな。
「ヒロの馬鹿姉」
「は?」
 真田がぽかんと口を開けている。唐突すぎたか。仕方ない。乗りかかった船だ。ある程度の情報交換はするさ。
「夏休みにヒロが実家に帰省する時に、俺も誘われて伊勢に遊びに行ったんだ」
「遊びにって、酒井君は実家が遠いから、なかなか帰れないんでしょ。あんた、どこまで酒井君に甘えてるの」
 真田が呆れたように突っ込みを入れてくる。ヒロに甘えっぱなしで悪かったな。あの時の俺は1人になりたくなかったんだよ。
「一々話の腰を折るなよ。話が先に進まないだろ」
「ごめん。つい口が正直過ぎた」
 「つい」じゃねえだろ。真田の口に「自重」と書いたガムテープを貼ってやりたいが今は我慢する。
「話を戻すぞ。そこでヒロの姉さんに会ったんだが」
「うん」
 思い出すだけで腹が立ってきた。あんな女の事なんか、口に出すのも考えるのも嫌だっての。だけど、今のヒロを作ったのは、絶対にあの女としか思えないんだよな。
「歳はちょっと離れているが、顔はヒロによく似ている。というか、ヒロがお母さん似なんだ。知らない奴が見たら可愛い姉妹とだと思うんじゃないかな」
「松永、その言い方は気持ちが悪いって言ってるでしょ」
 しまった。また無意識に地雷を踏んでしまったか。真田の冷たい視線が痛い。でも仕方無いだろ。名古屋と伊勢で何回ヒロが女に間違われて、カップル扱いされたか……なんてとても言えない。マジでヒロに殺される。
「あー。とにかく、その姉ってのが口に出すのも嫌になるくらい最悪な性格で、俺がヒロの立場だったら、身内だろうが女だろうが、1発殴ってるか家出をしている。もっと解りやすく言うと、多分真田が1番嫌いなタイプの女だ」
 真田の目尻が吊り上がる。勘の良い女だからおおよその検討が付いたんだろう。
「あの酒井君をもっと女顔にした感じであたしの嫌いなタイプ? 可愛い顔を利用して男を引っかけては、遊んで貢がせて飽きたら捨てる女? 姉の権力を利用して、酒井君を下僕かゴミ扱いにしてたの?」
 そこまで言ってねえぞっ! 女って時々マジで怖いな。いや、今真田に反論するのはまずい。こういう時の女は下手に突くとマジギレする。
「半分くらい合ってるが、あちこち違うと思う。聞いた話じゃ過去に大勢の男をとっかえひっかえ付き合っていたのはたしからしい。俺の印象だと飽きっぽいというより単に我が儘だな。それとヒロに対しては下僕やゴミというより、自分の思い通りの男に育たなかったのが気に入らないらしくて、ヒロの美点も欠点扱いで一方的に攻撃していた」
「何それ?」
 真田が露骨に嫌そうな顔になる。お前もアレを実際に見たら、あの女を殴りたくなるぞ。
「具体的な内容は伏せるぞ。ヒロのプライバシーだ。あの女に何を言われてもされても、ヒロは耐えるばかりだった。ヒロが必死で止めなきゃ、俺があの女と喧嘩していた。ヒロは身内だからか、どんな目に遭っても腹は立つけど姉を嫌いになれないと言って諦めていた。真田、俺は1人っ子だから解らないけど、姉弟てそういうものなのか? 一方が好き勝手にし続けて、もう一方が我慢し続けるなんて出来るのか?」
「それはかなり特殊な例じゃないかな。あたしにも中3の弟が居るけど、年齢らしくかなり生意気な口をあたしにもきくよ。でも、後2年もしたらあたしを無視して家では無口になるかもね。成長の証だし、そういうのは男ならよくある話だから何とも思わないよ。あたしの事は置いといて。一線は引くけど女にも公平な松永がそこまで言うなら、そうとう嫌な女みたいだね。でも、何でそれが酒井君の恋愛中女恐怖症に繋がるの?」
 さすがにエロDVDに拒否反応を起こして、すぐに寝てしまうからとは言えない。ヒロは普通に女に興味は持ってるんだ。2次元オタでも無いし誰とでも普通に話す。だとしたらアレしか考えられない。
「ヒロの姉は極度の恋愛馬鹿なんだよ。恋愛が絡むと自分の都合しか考えられないし、それしか頭に無いってやつ。ヒロも恋愛中の姉は手が付けられないと言っていた。そんな女をずっと間近で見ていて、しかもやりたい放題されたあげく、迷惑を掛け続けられたら、女に夢なんて見られないし、トラウマにもなるだろうよ。一応、ヒロの恋愛感覚は普通に女を選ぶんだ。さっきも言ったが、俺はヒロは無自覚の恋愛中女恐怖症なんだと思う。恋愛に夢中になっている女の行動への恐怖心がストッパーになって、ヒロは好きになった女とお友達以上になりたくてもなれないでいる。……と思う」
「と思う?」
「ヒロに自覚が無いから(セックスを含めて)恋愛絡みの情緒面がフラフラしている上に、俺があの女と話したのは少しだけだ。今話したのは俺の憶測でしか無い。だけど、100パーセント近い自信は有る。認めなくないが、ヒロが真田を振った段階で確定した。たしかにやった事は悪いが、自分のトラウマに自覚が無いヒロに罪が有ると思えない。当然真田も何も悪くない。俺には2人とも凄く運が悪かったとしか言い様が無いな」
 真田は無言で俺を見上げ続けている。視線で攻撃が出来るなら、俺が話している間に10発くらいはレーザービームかミサイルが飛んで来てたと思うくらいきつい視線だ。
「松永はそれを酒井君には言ってないんだよね」
「憶測に過ぎなかったのに言える訳ないだろ。それにこんな酷い事を言ったら、ヒロが傷付くだろうが」
「逆にそのせいで今酒井君は傷付いてるんじゃないの?」
 くそっ。そこを指摘されたら何も言い返せない。何だかんだ言い訳しても、俺はヒロが傷付く事より、ヒロに嫌われる方を1番恐れていたのかもしれない。
 俺が黙ると真田は「興奮して言い過ぎた。ごめん」とすぐに謝ってきた。俺も頷いて真田の謝罪を受け流す。言い訳出来ないのはたしかなんだ。

 しばらく沈黙が続いた後、真田は視線を逸らしたままポツリと呟いた。
「どうすれば」
「え?」
「松永はどうすれば酒井君の呪縛が解けると思う?」
 どういう意味だ? 長年蓄積されてきただろうトラウマを、すぐに克服出来る訳が無いだろ。俺が何かをして簡単に治せる程度なら、とっくにヒロが自分で何とかしている。
 いや待てよ。高校時代のヒロは誰かを好きになっても、いつも見てるだけで終わったと言っていた。
「可能性はとてつもなく低いが、全く無い訳じゃないと思う。でも、俺は精神面のプロじゃないから、あくまで俺から見た希望的予想だぞ」
 真田の表情がはっきりと変わった。
「それでも良いから言ってよ」
 雀の涙ほどの可能性に賭ける気か。恋する女の一念は凄いな。俺にはとても真似は出来ない。
「分かった。話す。勘違いとはいえ、ヒロは真田に告白しただろ」
「ちょっと松永、少しは言い方を遠慮しなよ。マジで怒るよ」
 しまった。今度は正直過ぎたか。真田にコップを投げつけられなかっただけでもめっけもんだな。本当に大した自制心だ。
「悪かった。これまでと大きく違うのは、今はヒロも自分が変わりたいと本気で思ってるんだ」
 「あ」と真田が声を上げる。何かを思い出したのか。
「そういえば酒井君はヘタレで情けない自分から逃げてばかりじゃ駄目だから、あたしに告白したって言ってた。そっか。昨日はよく解らなかったけど、酒井君が言ってたのはそういう意味だったんだ」
「それが正解だろ。何だ。始めから真田が全部の答えを持ってたんじゃないか」
 俺が力が抜けたと腕をベッドに投げ出すと、真田もそうだねと苦笑混じりに笑い出した。
「運が良ければ卒業までにヒロの恋愛中女恐怖症が治るかもしれない。というか、今のままじゃヒロが可哀想過ぎるから、絶対に治って欲しいと俺は思ってる」
「あたしは?」
「そこまでは知らん。真田は俺の管轄外だ」
 優しいんだか我が儘なんだかと真田が愚痴をこぼすが無視だ。俺にとって今のヒロが抱えている問題に比べられるものなんか無い。視線を逸らした俺を見て、真田が笑い出した。
「でも意外だね。それだけ独占欲が強いのに、松永は女に酒井君を取られても良いんだ」
 こら待て。散々キモイと言いながら真田まで俺をホモ扱いする気かよ。
「恋愛と友情は別モンだろ。真田、お前は俺を何だと思ってるんだ?」
「ホモじゃないけど変態の一種」
「……」
 女を殴ってやりたいと思ったのはこれが2度めだ。真田を女にカウントするならだが。
 本当に真田は女なんだろうか。見た目はともかく段々怪しくなってきた。疑問の理由がなぜかヒロは真田を怖がらないからだなんて言おうもんなら、真田に殴られるだけじゃ済まない気がする。

 また話が途切れてしまった。時計を見たらもう昼前になっていた。ずいぶん長い時間真田と話していたんだな。
「真田、腹減ってないか?」
「うん。朝が早いからどうしても減るね」
 千葉から自宅通学ならかなり早くに家を出ているんだろう。真田も真面目が取り柄のくせに、今日は大学はサボるわ、天敵の俺相手に感情を爆発させたり、いきなり普通の女みたいな事を言い出したりと、まるで真田らしくない行動ばかりで、真田自身も疲れているんだろう。
 それだけヒロの告白から一転、失恋決定が真田を動揺させたんだ。
「腹が減るとお互いにマイナス思考になりがちになる。これから昼飯作るから真田の分も作ってやる。テレビでも見て時間を潰してろよ。あ、本棚には絶対に触るなよ」
 立ち上がって流し台に向かった俺に、後ろから真田が声を掛けてきた。
「ありがとう。触らないよ。うっかりでも松永のエロ本を見る気は無いから」
 ヒロは教えてやらなきゃ俺のエロ本の隠し場所が解らなかったのに、真田は一発で当てるのか。弟が居るとはいえ、とても女の台詞とは思えない。敵に回したら本当に怖い相手だな。
 納豆を避けて女が好きそうなメニューならパスタ辺りか。冷凍庫のご飯が減ってたらヒロにばれるし、やっぱり大量に減るとすぐにばれる生サラダ系は避けて、昨夜、ヒロが作り置きしておいた煮物を拝借しよう。
 冷蔵庫を開けるついでに真田に視線を向けたら、テレビの経済ニュースを真剣に見ていた。昼ドラ系やワイドショー系を選ばないところがいかにも真田だ。真田が男だったら俺やヒロとも良い友達になれたもしれない。

 ほうれん草と細切りハムのバター風味パスタと、白醤油とかつおだしベースの煮物を出すと、真田は露骨にビックリという顔をした。
「いくら俺でも必ず毎食納豆を食ってるんじゃないぞ」
 俺が水とフォークを持って座布団に座ると真田は「違うよ」と言って首を振った。
「これ松永が作ったんだよね」
「作ってるのを見てただろ」
「うん。そうなんだけど」
 真田はまだ何かを言いたそうにしながら先に煮物に手を付けた。
「美味しい。これも松永が作ったの?」
「そっちは昨夜ヒロが作った。20分で煮物は無理だろ。手間が掛かるのは前日に作ってる」
 真田はパスタを口に含むと今にも泣きそうな顔になる。さっきからなんだよ。
「これも凄く美味しい。何で松永も酒井君もあたしよりずっと料理上手いの。というか何このベテラン主婦レベルの技。1人暮らしの男に美味しい家庭料理を作るのって普通は女の専売特許でしょ」
「飯に性別は関係無いだろ。俺はガキの頃から母さんから男も料理しろってたたき込まれたし、ヒロも一人暮らしをしながら、冷凍モンをあまり出さない外食系でバイトをしてるんだから、慣れたら普通に上手くなるだろ」
 フォークを持つ手を震わせながら真田は顔を歪める。せっかくの美人が台無しだ。真田にとって俺は男の内に入ってないんだろう。まあ、俺も真田を女だと思ってないからお互い様か。
「あたし、家事で完全に2人に負けてる。悔しい」
 と言いつつ、ちゃっかり食う手は全然止まらない。やっぱり真田は真田だ。半べそ状態でも食欲が有るのは良い事だ。
 真田も少しは元気が出たか? ヒロが拗ねた時によく使う手だが、俺が作った飯で機嫌が良くなれるなら、今は落ちこんでいても真田は近い内に復活して、きっと前より強くなるだろう。頼もしいと言うべきか、後が怖いと言うべきか迷うな。
「真田」
「何?」
「俺はヒロを全面的に応援するから、真田は自力で何とかしろよ」
「え?」
 頭の良い真田でも無理か。俺が何を言ってるか解らないって顔だ。
「俺がヒロを応援するのは俺がそうしたいからで、俺が真田を応援しないのは、ヒロにとっても真田にとっても、良い方向には向かわないと思うからだ」
 ハンカチで口を拭うと真田は俺を正面から見返してきた。逆境でも挑戦的で、こういう目は嫌いじゃない。
「酒井君の秘密を知っているあたしに味方をするのは不公平って言いたいの?」
「それは違う。トラウマを克服したヒロが誰を好きになるか、今の段階じゃ全然解らないからだ。俺はヒロに自由に恋愛して欲しい。だから、真田に限らず特定の女には肩入れしない」
 真田は何かをかみしめる様に水を飲み干すと「分かった」と言った。
「松永、ご飯ご馳走様。美味しかった。あたしはこのまま大学に行かずに家に帰るよ。千葉の本屋辺りで時間を潰すね」
「俺は台所を片づけて、晩飯の下ごしらえを終えたらバイトに行く。今は人手不足で店が忙しいんだ。ヒロにそうメールしておいたから嘘にはしたくない」
 俺が皿を持って立ち上がると、真田も立ち上がって玄関に向かった。サンダルを履くと俺の方を向いてにやりと笑う。
「松永って本当に酒井君が好きなんだね。変に誤解されない様に大学では少しは自重しときなよ。松永はこれだけ料理が上手いんだから良いお嫁さんになれるよ。あたしが保証する」
「誰が誰の嫁だって!?」
 俺がわざと怒ったふりをすると、真田は声を立てて笑って勢いよく玄関の扉を開けた。
「さーあ。誰のかな。じゃあまた明日ね」
「ああ。また明日な」
 真田の軽快な足跡が遠ざかっていく。本当にこれで良かったのか、何か間違って無いか俺には自信が無い。真田はともかくヒロが抱えている問題はどうしたら良いのか全く判らないんだ。
 ヒロの昨夜の笑顔を思い出すだけで今も胃が痛くなる。俺がヒロに貰った物を考えたら何もせずにはいられないし、黙って見てるだけなんて我慢が出来ない。ヒロはこんな俺を親友と言ってくれた。ヒロにあんな顔をさせたままじゃ本当に親友失格だ。
 とりあえず今は……。後でヒロに恨み言を言われない様に、薄味の煮物を作っておくか。
 見た目の細さや可愛さを裏切って、ヒロはすげー食い意地が張ってるんだよな。


 バイトを終えてアパートに帰ると、先に帰っていたヒロは俺が昼に作った煮物を全部平らげていた。
「まつながーも俺のを全部食うたんやから当然の権利やろ」
 ザマミロとヒロが笑う。このヤロと思ったがまあ良いか。元々ヒロに食わせる為に作ったんだから。
 ヒロは完全にへこんでいた昨日よりは少しだけ元気が良い。目は暗いままだから、精神的には立ち直ってはいないんだろう。
 それでも、このまま少しずつでもヒロが立ち直ってくれたらと、俺はヒロの強靱な精神力に期待する。
「ヒロ、それは良いが俺の晩飯は何だ?」
 ヒロはにっこり笑うと、どこに隠してたのか俺の手の平にレトルトシチューと納豆を乗せた。
 おい待て。バイト帰りにこれを食えってか? 今日もヒロが晩飯当番だろ。期待して帰ってきた俺に対してさすがにこれは無いだろ。
「まつながーは朝からかなり飯くうたみたいやから夜はそんでええやろ。煮物とパスタ2人分てなんなん。沢山食べ過ぎると太るで」
 うげっ。まさか人を部屋に上げたのがばれたのか?
「いくらバイトが忙しいからて、パスタは胃で膨張するんやから、一度にあない食べたら胃に負担が掛かるやろ。夜は少なめにして調整したらええと思う。これはレトルトでもカロリー控えめのやから」
 ああ、良かった。乾物入れからパスタ麺が大量に減っているのに気付いて、俺の身体を心配をしてくれてるのか。真田の事はばれて無かったらしい。
「俺も今夜はまつながーが作ってくれた煮物しか食うてないんな。明日はまつながーの夕飯当番やろ。メッチャ期待しとるでぇ」
 ……。やっぱりヒロはどんな時でも食欲が一番なのか。そうなのか。
 今日1日で俺に降りかかってきた災難と、俺の必死の努力はどうしてくれる。
 ああでも、これ以上何も望まないさ。へこみ一転、どS化したヒロが近い内に心から笑える様になれるのなら。

 俺の不満そうな顔を露骨に無視して、ヒロは鼻歌を歌いながら笑顔で風呂に入って行った。


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