「今日真田さんに会うたから、告ったけどあっさりふられたー」
 ヒロは笑ってそう言った。
 オマケみたいにそっとしとけなんて言われたけど、俺にはあんな顔をしたヒロに何て言えば良いのか判らない。

「酒井くんと松永くん」 =第2期= 『友情の境界線』(2)


2.

 風呂を済ませたヒロは「明日も早いからおやすみー」と、俺の顔も見ずに布団を敷いて横になった。
 「歯を磨かなくて良いのか?」と聞いた俺に、「風呂の中で済ませた。あ、まつながーも俺の事は気にせんとちゃんと風呂入ってから寝てな」と、背中を向けたまま声だけは普段の調子で返してくる。「本当は何が有ったんだ?」なんてとても聞けない。
 俺が風呂から出た時には、ヒロはいつもの様にすぴすぴ寝息を立てていた。
 なあ、ヒロ。
 今どんな夢を見てるんだ?
 本当に眠れているのか?
 何で俺に何も言ってくれないんだ?
 浅い眠りから何度も目を覚ましては、ヒロの顔を覗き込んだ。ヒロは穏やかな顔で眠っていて、初めて失恋をしたばかりにはとても見えない。
 何をどうしたら良いのか途方に暮れていたはずなのに、疲労した俺の身体はしっかり睡眠を要求していて、枕元の目覚まし時計が鳴るまで熟睡していた。

 目を覚した時にはヒロはとっくにアパートを出た後で、ヒロが使っている布団も朝食を食べた後の流し台も綺麗に片付けられていた。
 ヒロが支度している間が丁度俺の熟睡時間なのか、ヒロの身軽さが忍者レベルなのかは判らないが、寝起きは悪いくせに一旦起きると全く大きな音を立てずに家を出るなんてよくやれる。
 そして今朝の俺はというと、二日酔いみたいに頭が痛くて気分が悪い。
 ヒロは見た目の穏やかさに似合わず、こうと決めたら本当にやる奴だけど、今回ばかりはいくら何でも早過ぎだろ。あれだけ止めろと言ったのに、休み明け初日に真田に告白するなんて完全に予想外だ。こういう時も後悔先に立たずと言うのか。
 ヒロをあまり知らない奴なら、へこんでるなんて嘘だろうと思うくらいに昨夜のヒロはずっと笑っていた。逆に俺はあの無理に作った笑顔が怖くて辛くて、情けない事に胃がキリキリ悲鳴を上げ続けていた。
 いつもの天然お子ちゃまモードとも、全てを見通してるじゃないかと思う天子様モードとも違う。
 あんな顔をしたヒロは初めてだ。声も仕草も顔全体も笑っているのに、目だけが死んでいた。真田にどんな振られ方をしたらあんな顔になるんだ。初告白が実らないなんて珍しい話じゃないが、ヒロの場合はかなり特殊で、俺達とは全く事情が違う。
 たった一言でも良い。ヒロが自分から俺に泣き言や愚痴を言ってくれたら、俺も少しは安心出来たのに。

 つくづくパニック状態で酒は呑むもんじゃないな。朝メシはどうしよう? 何でも良いから腹に入れないと昼まで持たないが、気分的に食欲はゼロだ。適当に何かつまんでから出るか。
 自然と溜息が多くなる。誰も見ていないってのに自分で自分を誤魔化し続けるのはかなり疲れるな。俺は今日どんな顔をして真田と顔を合わせれば良いんだろう。今日の講義は2コマめからずっと真田と同じだ。
 どういう訳かすっかり俺の天敵と化したあの真田相手に、ヒロ絡みの問題を抱えたまま、何も知らない事にして俺にポーカーフェイスが出来るだろうか。
 逃げたしたい気分だけど大学に通っているかぎり、毎日同じ学部の真田から逃げ回る事は無理だ。それに自分が原因で俺が大学を休んだと知ったら、ヒロは自分を酷く責めるに決まってる。
 俺がヒロの為に出来る事なんて有るのか。昨夜のヒロの態度は俺に何も聞くなって事だろ。
 俺は何度もヒロに救われているのに、ヒロはこういう時すら俺を頼ってはくれない。俺はヒロに頼ってくれなんてとても言える立場じゃない。ヒロの優しさと強さに甘え続けたツケが今になって回ってきたんだ。
 俺にとってヒロは家族みたいな存在だからって「お兄ちゃん」なんて呼ばなきゃ良かった。マジで情けねーな。
 俺が今のヒロに出来る事。……ヒロにこれ以上心労を掛けさせないくらいしか思いつかない。つまり、ちゃんと飯を食って大学にも行って、真面目に講義を受ける事か。


 支度を終えて玄関の扉を開いたら、目の前に仁王立ちの若い女が立っていた。反射的に扉を閉めて鍵もかける。
 今のは……。
 あれは……。
 絶対に真田だーっ!!
 俺が混乱した頭で玄関に立っていると、背後からドンドンと強く扉を叩かれた。
「ちょっと松永! 何であたしの顔を見た瞬間に引っ込むのよ? 亀じゃあるまいし出てきなさいよ。2限目に間に合わないよ」
 いきなり呼び捨てかよ!
 たった1回ヒロに連れられて来ただけなのに、よくこのアパートの場所を覚えていたな。さすが工学部と言うかやっぱりこいつも理系脳か。
 怖い。はっきり言って凄く怖いぞ。いきなりで、しかも俺の部屋まで押しかけてくるなんて、普段の真田からは考えられない。何が有ったんだと聞くまでもない。原因は絶対にヒロだ。
「松永! 聞いてるの?」
「怒鳴るなよ。それと扉を殴るのも止めろ。近所迷惑だし扉が壊れる」
「だったら松永が出てくれば良いだけの話でしょ。「おはよう」とでも言えば良いの」
 駄目だ。これは人の話を聞く気が無いな。仕方無い。俺も腹を括るか。運が良いのか悪いのか、情報源が向こうから飛び込んで来たんだ。ヒロに聞けなかった事を真田から聞けるかもしれない。
「真田」
「何?」
「まさかと思うが、迎えに来ました。一緒に大学に行きましょうじゃないだろうな」
「何であたしがそんな事をしなきゃいけないの。大学やその近くの人目の有る所で、松永に声を掛けたくなかったからここまで来たんだよ。悪い?」
 なるほど。やってる事は無茶苦茶だが真田の判断は正しい。
 教室で真田が俺に声を掛けたら当然誰かの目に入る。大学近辺も学生だらけで誰が見てるか判らない。どこをどう経由してヒロの耳に入るかも判らない。それだけは避けたいと思ってるんだな。
 どうにも波長が合わなくて好きにはなれないが、真田は肝は据わってるし頭も良いし理性的な女だ。というか漢らし過ぎて「本当に女か?」と時々聞きたくなる。
「ちょっとそのまま待ってろ。長い話になりそうなんだろ。俺は今からヒロに急用が出来て大学を休むとメールを入れる。真田も連絡を取りたい相手が居るなら、今の内にやっておけよ」
「分かった。ありがとう」
 自分の要求が通った途端に凄く聞き分けが良いな。真田、俺はその理性をドアを殴る前か、玄関前に居座る前に発揮して欲しかった。

 ヒロには「バイト先でトラブル発生。今日は大学を休む」てな感じのメールを入れて、俺は部屋の中を簡単に片付けた。女に見られたくない物は全部隠さないとな。
 お互いに断りもなく誰も部屋には上げないという、ヒロとの約束を破る事になるが、今は緊急事態だ。
 玄関前に戻ると俺は念のために真田に確認した。
「外で話せたら楽だが、真田の指摘通りこの近くの喫茶店も公園もうちの学生だらけだ。移動しようにも俺達2人で駅前に行くのは問題外だ。ここなら誰にも見られないだろ。真田がこれから見る物、聞いた事を一切誰にも口外しないと約束出来るならこの部屋に入れてやる。その代わり、俺も真田から聞いた事を、真田の許可無しに誰にも話さないと約束する。当然ヒロにもだ。どうする?」
「約束する。お願い。入れて」
 即答でしかも「お願い」ときた。どうやら真田は怒っているというより、悩んで他に誰にも言えなくてせっぱ詰まったというところか。昨夜のヒロも今日の真田も変すぎる。
 俺が玄関を開けると真田は礼を言って部屋に入ってきた。マナー違反は承知の上で玄関の鍵を掛ける。窓も閉め切っているがエアコンを付けているから暑さは大丈夫だろう。
 真田は初めて見る部屋に好奇心半分、困惑半分という表情で目をきょろきょろさせている。
「ベッドは俺が使ってるし椅子代わりにもしている。適当に座布団にでも座ってくれ。大した物は無いが麦茶くらいなら出す」
「うん。ありがとう」
 俺がお茶を用意している間、真田は部屋を見回すと、普段ヒロが使っている座布団に座った。
 テレビが見れるベッドから遠くて壁を背に出来る位置で、俺が座ると宣言した位置からは1番遠くて玄関にも近い。真田は俺が自分に手を出すなんて考えてないだろうが、男の部屋に上がるなら賢明な選択だ。
 まさかヒロも同じ様に考えてるんだろうか。だとしたらちょっとどころかかなりへこむぞ。
 俺がテーブルに麦茶入りのサーバーと氷入りのコップを置いてベッドに腰掛けると、正面に座っている真田が真っ直ぐに俺の顔を見た。
「松永、突然押しかけておいて更に悪いんだけど聞いてもいい?」
「何だ?」
「噂とか全然入って来ないけど、松永は誰かと一緒に暮らしてるの? この部屋はどう見ても1人で使ってるって雰囲気じゃないね。食器とか家具とか……うーん、そうだな。この部屋が持ってる温かい雰囲気が1番しっくりくるかな」
 本当に勘の良い女だな。変に誤魔化してばれた時が後々面倒だ。
「それなら6月終わり頃からヒロと住んでる」
「はあ!?」
「でかい声を出すなって。変な誤解はするなよ。東京の暑さに耐えられなくて共同でエアコンを買ったんだ。今は期間限定で俺の部屋に同居している。冬場はヒロの部屋にコタツを買う予定だ。俺達の経済状態考えたら妥当だろ」
「そういう事なら納得だよ。たしかに1人暮らしより2人の方が経済的に楽だって聞くね」
 真田が変な妄想女じゃなくて助かるな。相変わらず飲み込みも理解も早い。俺は真田のこういう所だけは認めてるんだが、うちの学部の連中が言うには、真田は完璧過ぎて近寄れないらしい。
「酒井君の部屋は今どうしてるの?」
 ヒロは君付け呼びかよ。無意識で言ってるんだろうが一々差を付ける奴だ。
「共同物置兼洗濯部屋になってる。今のままじゃあっちに住むのは不便だから、秋にどうするか今から考えておかないとは思ってる。何がとか聞くなよ。俺だけじゃなくてヒロのプライベートだ」
「言いたく無い事までは聞かないよ。酒井君の部屋もこの部屋ほどじゃないけど、すっきりしてて綺麗だったのに勿体ないね」
「仕方ないだろ。俺の物を部屋から出さないとヒロがこっちに引っ越してこれなかったんだから」
「ふーん。2年後の参考にしとくよ」
「やっぱり真田も3年からはこっちに住むのか?」
「実習や研究メインになったらとことんやりたいし、毎日終電逃して大学に泊まるのは嫌だよ。競争倍率が高いから、今から学生課に寮と女子専用アパートの予約申請を出してる」
「そうだな。俺とヒロも抽選あぶれ組でこのアパートだし、信用出来る所経由じゃないと真田の親も心配するだろうしな」
 さっきまでの鼻息の荒さからは考えられないくらい普通に会話が進むな。だけど真田がおかしいのはたしかなんだよな。こういう時、聞き上手なヒロや裕貴ならどうするだろう。
「真田が此処に来た理由は……」
 核心に触れると真田の顔が強ばった。ストレート過ぎたか。これは無理だな。俺に2人の真似はできない。ヒロと裕貴は全くタイプが違うけど俺とは器が違う。
「今のは無しだ。えーと、まず俺が真田を部屋に上げた理由から話すぞ」
「うん」
 真田の顔が露骨にほっとしたという顔になる。来たは良いが俺に何を聞かれるのかとビクビクしてたんだな。なんとなくだが何故か真田の心理はすんなり理解が出来る。
「昨夜、ヒロからお前に振られたと、そしてそっとしといてくれと言われた。俺が聞いたのはこれだけだ。真田がここに来た理由と関係が有ると思ったから受け入れた。他に何か聞きたい事は有るか?」
「え? 酒井君は松永に、あたしに振られたって言ったの?」
「言った」
 視線を落とした真田は腑に落ちないという顔になる。おいおい。何でそこで黙り込んで眉間に皺まで寄せてるんだ? それに自分でヒロを振っておいて何でそれを聞くんだよ。
「酒井君は事前に松永にあたしを好きか聞いたって本当?」
「休み明け前に聞かれた。だから正直に真田とは何でも無いって話しておいたぞ。というか俺達は飯を1回一緒に食っただけで、何も始まってもなかっただろうが」
「うん。あたし達はクラスが同じ以外は何も無いね。偶然とはいえあの店が酒井君のバイト先だと知らなかったから。でも……」
 言いかけて真田は再び視線を逸らした。まただんまりか。段々イライラしてきたぞ。俺はヒロ天子様や裕貴兄貴(と学内で呼ばれていた)じゃねえっての。話を聞く前に切れそうだ。
「松永、あんたが酒井君に言ったのってそれだけ? 他に何か言ったんじゃないの」
「真田はやめとけと言った。悪いか」
「本当にそれだけ?」
 質問攻めかよ。それにしてもこっちは聞きたい事を我慢してるってのに遠慮が無いな。
「真田だけじゃなくて、俺が良いと言った相手以外に告白するなとも言った」
「はあ? 何を気持ちの悪い事を言ってるの。松永、あんた酒井君の何のつもりなの?」
「普通に受け取れよ。気持の悪い想像はするなって言っただろ。元隣人で今は同居人。一緒に住んでりゃ色々気付く事が有るんだ」
「松永が酒井君にストーカー状態ていうのも有ると思うけど」
 ストーカーだと? この俺が珍しく我慢して下手に出てるってのにこの女は!
「今すぐ部屋から叩き出すぞ」
「半分冗談だよ。けど、言い過ぎたごめん。松永は酒井君に対して独占欲が強いから、てっきりやきもちかと思った」
 半分って言うな。全部と言い直せ。……と言って真田は聞く性格じゃ無い。
「そういう言い方はやめろっての。俺がヒロに蹴り殺されるだろ」
「蹴りって、何それ?」
 しまった。ヒロが本当は喧嘩が強いのは内緒だった。えーと、とにかくごまかせ。
「それについてはノーコメント。少しは俺に拒否権を認めろ」
 真田はまだ納得が出来ないという顔をしていたが「分かった」と言ってくれた。やれやれ真田は頭は良けど、自分なりに理解をしたがるから説明が面倒だな。
「松永がそう言うくらいだから酒井君のあの噂、本当だったのかな」
「何だって。おい真田、お前こそ俺に何を隠してる? ヒロの噂って何だ?」
「あ、松永はあれを知らないんだ。結構広く流れてたと思ったんだけどな。えーと、松永に文芸部が出したコピー本渡した後だから、ゴールデン・ウィーク明けた少し後だったかな。酒井君が同じ学部の男子と喧嘩して、一方的に負かしたって噂が有ったんだ。でも、誰か怪我をした事実は無かったし、学内で暴力沙汰なんて学生課が黙ってないでしょ。なんだかんだとうやむやになっちゃって、結局、酒井君を妬んだ誰かが流したデマだったんだろうって話になったよ」
 おいおいおいおいおい。あの頃のヒロと言えばお子ちゃま全開で、エロDVDを観てはよだれ垂らして爆睡してた頃だろ。何なんだそりゃ。
「マジで初耳だぞ。あのヒロが誰かに妬まれるなんて」
「おかしくないよ。酒井君は可愛くて性格も穏やかだから女子に人気が有るでしょ。噂を聞いた時、あたしは男のひがみは女よりみっともないと思ったよ」
「あ、……ああ。そういう事か」
 妙に納得してしまった。可愛いからを理由に男に妬まれるなんて、他の男じゃあり得なくてもヒロなら有りそうで怖い。あの当時のヒロが俺に何も言わなかったんだから、本当にデマなんだろう。
「あっさり引いたね。松永も酒井君が可愛いと思ってるだ」
「たしかに男にしては可愛い系の顔をしているけど、俺はヒロは綺麗だと思う」
「言い方がキモいよ。松永、あんた大丈夫? 誰にも言わないけど、今の台詞は普通にやばいと思う」
 無意識にでかい地雷を踏んでしまったらしい。ヒロに知られたらどうしよう。
「……ノーコメント」
 ごまかすのにこれしか出てこない俺ってマジで情けねえ。
「そっちは良いよ。松永の脳内なんか想像したくないから。さっきの質問の続き。どうして松永は酒井君にそんな事を言ったの?」
 なんかで悪かったな。しかも1番嫌な話に戻しやがった。
「それは拒否権を認めろって言っただろ」
 俺がわざと投げやりに言うと真田がテーブルに身を乗り出してきた。
「認められないよ! 多分それがあたしにとってとても重要な事だから」
「珍しく必死だな。真田は何でそれを知りたがるんだ? 理由を言わないなら俺も答えない」
 真田はぐっと口を食いしばると、下を向いて絞り出す様に言った。
「酒井君はあたしに振られてなんかないよ。だって、酒井君はあたしの事を好きじゃないんだから」
「やっぱりそうだったのか。それはヒロじゃなくて真田が先に気付いたんだな」
「やっぱりって何!?」
 真田が顔を上げて声を荒げた。しまった。やっちまった。地雷2個目なんてのんびり言ってる場合じゃねえ。
「松永、正直に言いなよ。あんたこそ何を隠してるの? その言い方からして松永は酒井君にも内緒にしてたんでしょ。でなきゃ昨日酒井君があたしに告白するはず無いよね。あんたはあたし達2人を馬鹿にしてこっそり笑ってたの?」
「ふざけるな。俺がヒロにそんな酷い事をするかあっ!」
 テーブルを力任せに殴ったら、コップもサーバーも跳ね上がって畳の上に転がり落ちていく。
 こぼれた麦茶が畳に染み込んでいく中、俺も真田も睨み合ったまま動けなかった。


3.

 昨夜はほとんど寝てないせいか講義に身が入らん。背中にまつながーの無言の圧力を何度も感じたしなぁ。心配せんでもええて言うたし、バイトで疲れきっとるはずなのに、どこまでまつながーはお人好しなんやろう。
 サボリたいなんて思っとると、携帯のバイブがメールが来たて知らせてきた。普段はやらんけど、こっそり机の下で携帯を開いてみた。
 あれ? まつながーからや。講義中やのに珍しい。時間からしてまつながーはそろそろ起きて準備しとる頃よな。
『件名:ごめん 本文:バイト先でトラブル発生。今から行ってくる。昼は1人で食べてくれ』
 真面目なまつながーが体調悪い訳でも無いのに大学休むなんて珍しいなぁ。3日前くらいに急にバイトさんが1人辞めたとか言うとったよな。昨日もホンマは休みなのにかり出されとったし、あそこの店長さんはバイト学生にも優しい人やから、余程のコトが有ってまつながーも断れんかったんやろな。休み時間になったら「頑張れや」て返信しとこ。

「珍しいな。酒井が講義中に携帯いじってるなんて」
 うおっ。いきなり背後から声が降ってきた。見つかってしもたんか。メッチャ小さいけどこの声は同じクラスの石川やな。
「うん。チョイ気になるコトが有ったん。ほやけど違っとった。お願いやから見逃してや」
 俺が視線は前に向けたままで答えると、石川は軽く笑った。
「別に俺は誰が講義中に寝てようが、メールやってようが、俺の邪魔にならなきゃ気にしないよ。講義は真面目に受ける酒井にしては珍しいなって思っただけ。今のは松永からだろ」
 ちゃっかり見とったな。まあ、しゃーないか。この教室は後ろの席からは前の席が丸見えやもんな。
「うん。ほやけど見えても読むなや」
 一応釘だけは刺しておかんとな。石川はなしてか俺の後ろの席になる事が多いんよな。
「悪い。いつも一緒に飯食ってる松永が、酒井にメールしてくるのも珍しいからさ。つい」
「ついやないて。メールでも私信やで」
「ホントにごめん。で、今日の昼は酒井1人?」
「うん」
「じゃあ、昼は俺と一緒に食わない?」
 珍しい誘いやなぁ。石川はいつも他の奴らと一緒に食っとるのに。
「最上はどないしたん?」
「あいつも今日は休み。朝一でメールが来た」
 そういや朝から最上の顔を見とらんなぁ。いつも石川と一緒に並んで、つまり俺の斜め後ろに座っとるんよな。時々いびきもかくんで俺もよう知ってる。たしかに寝とるのを気にしとったら、最上の横では講義受けれんな。
「へー、最上が休むなんて珍しいなぁ」
「おっと、講師がこっち見た。続きはまた後で」
「うん」
 まつながーが居らんくて石川と一緒のお昼か。ちょっとだけ助かった気分や。今まつながーの顔を見るんは益々へこみそうでキツイ。普段と違う事をすると気が紛れるかも。
 あれ、最上と石川てなしていつも俺の後ろに居るんやったっけ? いつからやったかも覚えとらん。何か綺麗に忘れとる気がするけど、まあええか。

 2コマ目が終わって鞄に資料とノートをしまうと、後ろから石川が「飯食おう」と声を掛けてきた。
「俺は何でも良いけど、酒井は何食いたい?」
「俺も何でもええけどしっかり食べたい気分やな。お願いやから石川は納豆以外を食うてな。今日くらいは納豆の悪食は見とうない」
 石川は声をあげて笑うと「お前、何気に酷い奴だね。それ松永の前で言ってみてよ」なんて言うてくる。それが出来たら苦労せんちゅーねん。
「しゃーないやろ。俺は三重出身やで。まつながーには慣れたけどたまにはちゃうモンを見たいんやもん。それに、まつながーは(学食では)俺にも納豆食えなんて強制はせん。誰かて好きなモンを止めろて言われたら嫌な気分になるやろ。ほやから俺もまつながーの趣味に口出しせんコトにしとるん」
「そうだったんだ。でも、やっぱり俺は酒井は本当に凄いと思うよ」
 石川はいつもの穏やかな声に戻って誉めてくれた。
「誉められるコトしとるんとちゃうけど、おおきにー」
 わりと騒がしい最上と聞き役っぽい石川もええコンビよな。俺は最上みたいなノリとちゃうし、今日は相方居らんくてつまらんやろな。
 そう思ってたら石川が意地悪そうなにやり笑顔になった。
「酒井と2人で飯を食うなんて、最上が知ったら悔しがるだろうな。まあ最上の場合はそれ以前の問題だけど」
「へ、なして?」
 俺が聞き返すと石川は露骨に意外という顔をして、すぐに笑い出した。なしてやねん。
「……やっぱり酒井は色々な意味で凄いよ」
 その「色々」の部分にツッコミとうなったけど我慢しよ。今日はツッコミする気力が出ん。
 「じゃあ」と石川が仕切り直してきた。
「関西系うどんなんてどう?」
 意外な提案や。石川って栃木出身やなかったけ? あっちも味付け濃いて聞いとるからもの足りんのやないかなぁ。
「ええの?」
「じいさんの実家が大阪でね。俺はだし味系も好きなんだ。最上は埼玉出身だろ。奴と飯を食うと醤油辛い物系ばかりなんだよ」
「へー。奇遇やなぁ。ほな俺はうどんにおにぎりも食べよ。お互いに普段は行けん関西系に行こかぁ」
 俺が笑うと石川も笑い返してくれた。
「そういう事。混む前に行こうよ」
 なんか石川からは口の割に柔らかい印象を受ける。ギスギスしとった俺の気持ちが静かになっていくんが解る。癒し系てやっぱええなぁ。
 
 眼鏡が曇ると愚痴を言いながら石川は関西風うどんをふーふー言わせながらすすっとる。俺はひさびさの出汁味にメッチャ満足しとる。伊勢うどんとは全然ちゃうけど、まだ醤油味が強い関東系よりこっちの方が舌になじむんよな。
「最上が寝冷え?」
「うん。そんな感じっぽいよ。風呂入った後エアコン付けっぱなしにして寝て、目が覚めたら朝だったって」
「アホやー」
「声が出ないってメールで愚痴ってたから、夕方にでも様子見に行くよ」
「ああ、そやったらホンマにキツイ風邪引いとるんやな」
「そうそう。馬鹿がひくアレ」
 本人居らんからって何気に石川も酷いコト言うとるな。そういや最上もアパート組やったっけ。
「これ、少ないけど最上に差し入れのカンパに入れてくれん? ポカリとか水分欲しいて思うん。俺は夕方はバイトやし、大勢で行くと最上も疲れるやろうから」
 俺が小銭入れから500円玉を出すと、石川が不思議そうに俺の顔を見た。
「なん?」
「いや、酒井が最上に差し入れするとは思わなかったからさ」
「なして? クラスメイトやん。1人暮らしの辛さは俺かて解るからこれくらい当然やろ」
 石川は受け取った500円玉を大事そうに財布にしまうと優しい顔で笑った。
「酒井、ありがとう。最上も聞いたら凄く喜ぶと思う」
「大げさやなぁ」
 俺が笑うと石川は苦笑しながら数回頭を振った。
「やっぱり酒井って本当に凄いよ」
 さっきからこればっかや。どういうこっちゃねん。
 てなコトを話とったら次の講義時間5分前になったんで、俺と石川は急いで次の教室に走った。


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