「約束しただろ」
「約束ぅ?」
 俺が食い下がるとヒロは上目遣いで睨み付けてきた。
「まつながー、グダグダ言っとらんでさっさと帰れ。アホ!」
 反論する間も無しに、俺は持っていたバッグごとヒロにアパートの玄関から蹴り出された。


『ポジション』


 9月に入って大学の休み明けまで残り僅か。俺は毎晩半徹夜状態でレポートを仕上げた。後は誤字脱字やうっかりミスが無いかを再確認して教授にメールを送れば良い。
 やれやれという気分で肩を叩きながらノートパソコンを閉じて横になると、まだレポートと格闘しているヒロが速攻で声を掛けてきた。
「やっぱ、まつながーの方が早かったかぁ。おめでとー。その感じからしてレポートは終わったんやろ。まつながーのバイトは、明日休みで明後日夜間担当やったよな。ギリギリやけど間に合うで。明日の朝にでも実家に帰ってや」
「は?」
 いきなり何を言い出すんだ? 冗談だろ。嫌そうに身体を起こすと、ヒロは綺麗な表情で俺を真っ直ぐに見返してきた。あ、これはマジだ。天子モードのヒロに言い訳や誤魔化しは効かない。
「お願いやから嫌って言わんといて。親友の裕貴さんにあれだけ後押ししてもろうて、お母さんらが待ってくれてるて分かっとるのに、いつまで逃げる回る気や。まつながーも早う会いたいんやろぉ」
 時々ヒロは俺の1番痛い所を正確に突いてくる。それでも天子様の慈悲か、こういう時に限って「お願い」と言うんだよな。
「逃げてたんじゃなくて、今まで全く予定が立てられなかったんだから仕方ないだろ」
 「うん」とヒロはそこだけは認めてやるという顔で頷いた。
 美由紀とは直接話して決着がついた。バイトが忙しい盆に行きそびれたじいさんの墓参りはヒロが気を利かして付き合ってくれた。休み明け提出期限のレポートも全部終わった。
 たしかに家に帰らない理由は無い。でも、何でいきなり明日なんだ。夏休みが終わるまで後数日しか残って無いけど、俺にも心の準備ってモンがあるだろ。
 出来ればもう少し待って欲しい。そんな俺の気持ちが伝わったのか、ヒロの笑顔が険しくなっていく。
「まつながー、いい加減に自分の心に正直にならんと俺でも切れるでー」
 我慢強いヒロが切れるなんて、伊勢でお姉さんに怒った時しか見た事が無い。見た目の可愛さを裏切って、本気のヒロは喧嘩が強い。男の俺相手じゃ一切手加減をしてくれないだろう。怖くて想像したくねぇ。
 それにさっきからヒロは俺の都合ばかりを口にしているが、大事な事を忘れてないか。
「ヒロは明日明後日は朝から1日バイト入れてただろ。休むのか? というか、病気でも無いのに急に予定を変えたら後でマネージャーに怒られないか?」
 真面目が取り得のヒロらしくない言い草に俺が首をひねると、ヒロは呆れたという顔をして大声を上げた。
「アホかぁ。何で俺がまつながーと一緒に里帰りせなアカンの」
「何でって、そりゃ……」
 天子のくせにそんなに冷たい事を言うなよ。前に家に帰る時は付いて来てくれるって言ったじゃないか。
 じいさんが長期入院中だった時は誰も悪くない。けど、その後は俺の都合でタイミングを逃していた。俺1人でお袋達に会う? この状態でいきなり帰る勇気なんて全く無いっての。精神安定剤のヒロが側に居てくれないと心細い。
 さすがのヒロも我慢が出来なくなったらしい。テーブルに置いて有った辞書を投げつけてきた。
「少しは親御さんの気持ちも考えてやれや。まともに話すの久しぶりなんやろ。こういう時は始めにまつながー1人で帰るんが筋とちゃうの。ちゃんと親子水入らずで話しして、俺が遊びに行ってもええのはその後やろ。こんな簡単な順番を間違えるなや」
 ヒロは充電中の俺の携帯を取ると俺に投げてきた。
「後回しにすればするだけ辛くなるだけやろ。今のまつながーはちょっと寝不足で疲れとるけどええ顔をしとる。元気な顔を見せて親御さんらを安心させてやって」
 珍しくヒロがきつい口調で言い切ると俺に背を向けた。あの様子じゃ俺のレポートが終わるまで「帰れ」と言うのを待っていたな。レポートに集中していたとはいえ、ポーカーフェイスが苦手なヒロの本音が読めなかったなんて久しぶりだ。
 手の中に有る携帯を見ていると溜息が出てくる。
 寮生活だった高校を卒業して実家に帰ったものの、東京に行く準備で毎日バタバタしていてじっくり親父達と話す機会が無かった。東京に来てからはじいさんの1回忌以外でお袋達と顔を会わしていない。唯一の機会も親戚中が集まっていたし、日帰りだったからまともに話せたのはほんの2、3言だった。今更親父やお袋に何て言えば良いんだろう。
 後ろを向いたままでヒロがボソリと呟いた。
「まつながぁ。お願いやからチョコっと落ち着いて考えてみて。自分の実家に帰るのに気張る必要なんてホンマは要らんやろぉ。普通に「明日休みがとれたから帰る」でええやん。まつながーに饒舌さなんて、きっと親御さんらも求めとらんから安心してええんとちゃうの。無理は禁物っていつも言っとるやろ。こんなん普段のまつながーやったらすぐに答え出せるコトや。普段どおりのまつながーが1番喜んで貰えるて俺は思うでぇ」
 ヒロは完全天子モードのままだ。19歳の男にしては少しだけ高くて穏やかな声が、俺の耳と心に優しく響く。
 ああ、そうだな。いくら会わない日が続いたからって、自分の家に帰るのに構えるなんて変だ。
 何気ないヒロの気配りが俺の緊張を溶かしていく。今直接お袋達と話す勇気はまだ無い。でも今はメールでも気持ちだけは伝えられる。俺は携帯を開いて数ヶ月ぶりにお袋にメールを送った。

 件名:明日
 本文:1泊だけ家に帰る。明後日は夕方からバイトだから昼には家を出る。

 ヒロが見たら突っ込みが来そうな文面だな。だけど、今の俺にはこれが精一杯だ。
 5分もしない内にお袋からメールが返ってきた。

 件名:承知
 本文:ごちそうを作って楽しみに待っています。お父さんも休みをとってくれるそうです。無精をせずに首を綺麗に洗ってから帰ってきなさいね。
 (意訳:大食らいの健用にご飯は沢山用意しておく。久しぶりにきっついロックをお見舞いしてやるから覚悟しておけ。親の有給休暇を使わせておいて、この期に及んで逃げるなよ。この親不孝者め)

 うわぁっ! 一気に血の気が引いた。
 怖いっ。お袋、我慢の限界で完全に切れてやがる。親父の援護はとてもじゃ無いがあてに出来ない。何だかんだ言っても、親父が怒ったお袋に本気で逆らったところなんて見た事が無い。俺が悪いと分かっちゃいるが、マジで1人で帰りたくねぇ。
「ヒロ、頼む。やっぱり一緒に来てくれーっ!」
「アホかーーーーっ!!」
 それから俺は何度も土下座をして頼んだが、ヒロは絶対に首を縦に振ってはくれなかった。

 俺のヘタレっぷりに怒ったヒロは駅に見送りにも来てくれないから、1人で切符を買って1人で電車に乗る。足が重いのは気のせいじゃねーよな。裕貴に話すと「お前はどこの幼稚園児だ」と馬鹿にされるのが目に見えてるから連絡しなかった。
 何時の間に用意したのか、ヒロはお土産と言って出掛けに紙袋を手渡してきた。三重特産品と思いきや、最近流行の東京名物の干菓子だ。俺がうっかり親父達に土産を買い忘れない様にって事なんだろうか。
 何気に最近のヒロは用意周到というか、性格が悪くなってきた気がする。全く誰の影響だ? 俺じゃ無いと思いたい。裕貴なら殴ってやる。
 水戸駅で降りてバス停に向かう。ここで美由紀とさよならしてまだ2週間も経って無いんだよな。あの時はヒロと裕貴が協力して俺の背中を押してくれた。今度は俺1人だ。こればかりは俺が自分で解決しなきゃならない。……けどどんな顔をして親父やお袋と話せば良いのか判らないから気が重い。
 あれだけ怒られても、未だに癒し系のヒロが側に居てくれたらと思ってしまうのは、俺に勇気が足りないからだ。ヒロが「アホ」と呆れる気持ちも分かる。自分でも痛いほど分かっちゃいるんだ。
 ポケットに手を突っ込むと携帯ストラップの真珠とイルカがカチンと音を立てた。金属製のイルカに削られて、真珠が傷だらけにならなきゃ良いんだが。
 まるで俺がヒロが言うところのアホスイッチオン状態……ってどういう意味だろう? で、無意識馬鹿発言をする度に、ヒロが精神的ダメージ大で畳の上に突っ伏しているのを側から見ている気分になる。

 バスを降りてヒロの実家に負けじ劣らない田舎の住宅街を歩く。髪を切ってさっぱりしたけど、まだ10時前なのにやっぱり暑い。近所の小学校は授業が始まっていて、運動場から子供達の歓声が聞こえてくる。
 生活道路に面している2階建ての普通の家、駐車場には親父の車が有った。本当に俺が帰るのを楽しみにしてくれていたんだな。つくづく俺は意気地無しの親不孝者だと思い知らされる。ヒロや裕貴が本気で怒るはずだ。
 苦手だけど笑わなくちゃな。そして親父達と話しをしないと。強引な手を使ってでも俺を実家に帰してくれたヒロに合わせる顔が無い。
 意を決してインターフォンを押したらすぐに玄関の扉が開いた。久しぶりに会ったお袋は相変わらず元気そうだ。良かったと思っているとお袋は俺の顔を見て意外そうな顔をした。
「おかえり。あら、健1人なの?」
「は?」
 何の事だろうと俺が首を傾げると、お袋はいかにも残念と視線を逸らす。
「裕貴君から凄く可愛いと聞いていたヒロちゃんに会うのを楽しみにしていたのに。何で連れて帰って来なかったの。健が毎日お世話になってるからお礼の1つも言いたいでしょ。あんたって子は本当に気が利かないね」
 おい待て。お袋、数ヶ月ぶりに会った息子への第1声がそれかよ。
 しかも可愛いヒロって……裕貴の野郎、お袋にどういう説明をしやがった。
 俺が呆然と玄関先に立っていると、お袋が背伸びをして俺の首に腕を回してぐいぐいと締め上げてきた。
「健、家に帰ってきて「ただいま」すら言えないの? 図体ばかりでかく育って頭はクソガキのままかーっ!」
「ぃ、痛てぇーっ! 恥ずかしいから玄関先ではやめろーっ!」

「健、おかえ……わっはっはっはっはっはっ!」
「……親父、だたいま」
 居間のソファーに座っていた親父が俺の顔を見るなり指をさして爆笑する。親父もお袋には勝てないくせに、息子の不幸はしっかり喜ぶ酷い奴だ。俺も時々親父がお袋にやられているのを笑って見ていたからお互い様か。
 俺の首にはしっかりお袋の手形が付いている。お袋も体育系出身だけに相変わらず馬鹿力だ。何せうっかりリサイクルに出し忘れた漫画雑誌満載の大判紙袋数個を、瞬時に2階の窓から投げ捨てる女だからな。さっきの情け無い姿をヒロに見られずに済んだのは幸いだった。絶対に引かれるか呆れられる。
 とはいえ、ヒロが一緒に帰ってきてくれていたら、俺がこんな目に遭わずに済んだはずなんだけどな。天子様は優しいけど甘やかしてはくれない。

 お袋が台所から麦茶とヒロが渡してくれた菓子を入れた器を持って来た。
「健」
 盆をテーブルに乗せたお袋は不機嫌な顔で俺の耳を思いっきり引っ張った。
「痛てぇって。さっきから何だよ」
「このお菓子はヒロちゃんが持たせてくれたのね。どうしてこういう大事な事も言えないの?」
「は? あ、そうか。今朝ヒロが持っていけと渡してくれたんだ。言い忘れて悪い」
 ぶすったれた顔でお袋がポケットから封筒を出して親父に手渡した。
「ヒロちゃんからの手紙が入っていたよ。電話で話したのは1度しか無いけど本当に良い子ね。健に爪の垢でも飲ましてやりたいね」
 どこかで聞いた様な台詞を言いながらお袋は親父の横に座った。そういえばヒロのお袋さんが似たような事を言っていたな。どこの家でも「隣の芝は」らしい。
 ……待てよ。ヒロからの手紙? 一体何て書いてあるんだ。
 親父は手紙を読んで吹き出した。お袋も横から覗き込んでケタケタ笑っている。何かすげー気になるぞ。
「親父、俺にも見せてくれよ」
「私信でしょ」
 伸ばした俺の手をお袋が叩き落とす。ハエ扱いかよ。
「まあ、良いんじゃないか」
 何がそんなに可笑しいのか涙目になりながら親父が手紙を渡してくれた。やっぱりこういう時は男同士だな。……お袋に絶対頭が上がらないコンビとは、思っていても言いたくない。
 ヒロからのメッセージ。裕貴みたいにネタに走るとはとても思えない。俺は緊張して手紙を開いた。

 拝啓、松永君のご両親様

 ぷっ。
 1行目で吹いちまった。松永君って。ヒロ、お前は小学生かよ。さて続きっと。

 初めまして、酒井博俊です。
 いつも息子さんにはお世話になっています。
 松永君は大変しっかりしているので、いつも助けてくれます。
 お盆前には松永くんを我が儘に付き合わせて、松永君の帰省が遅くなって本当に済みませんでした。
 少しだけ松永君と斉藤さんからご家庭の事情を聞きました。
 何も具体的には言わないけど、松永君はずっと実家に帰りたがっていました。
 感情表現が不器用なだけで、親思いの良い息子さんだと思います。
 バイトスケジュールの都合で東京から離れられないので、またの機会にそちらにご挨拶に伺おうと思います。
 大したものではありませんが、辛党の松永君でも食べられるあまり甘くない東京のお菓子を持っていって貰います。
 ご両親のお口にも合えば幸いです。
 まだまだ暑い日が続くと思います。
 お身体を大切になさってください。
 敬具

 ヒロの気真面目さがにじみ出ている文面だ。俺の方が赤面しそうだ。およ? もう1枚有るぞ。

 追伸、きっとこの手紙を強奪して読んどるやろうまつながーへ。
 アホなコトしとらんで、ちゃんとご両親と話ししろや。
 ちゅーか、出来んかった4年分思いっきりご両親に甘えてこい。
 アパートに帰って来てから、後悔して落ち込むんはまつながーやからな。
 そこまでは俺も責任持たんで。
 あのネタ(わざわざ書かんくても判るやろ)は厳禁やからな。

 ご両親様。乱文、失礼しました。


 ……。
 手紙を読んでいる間、俺はよほど間抜けな顔をしていたんだろう。親父もお袋も爆笑し続けてやがる。
 ヒロの奴、段々策士の裕貴に似て……いや、ヒロは根は素直だけど、元々目的の為なら手段は選ばないタイプだった。
 散々笑った親父は麦茶を飲むと、菓子を1口摘んで俺を見る。
「この手紙だけでも健が東京でどういう生活をしていたか大体想像がつく」
 身長以外成長が無くて悪かったな。お袋も麦茶を飲んですっきりしたと顔を上げた。
「前に裕貴君が「酒ちゃんは魔法使いだから、近い内に健を帰すと思いますよ。安心してください」と言っていた理由が解ったわ。本当に健があっさり帰ってくるんだから、ヒロちゃんは凄い子ね」
 そう言ってお袋はまた笑い出した。そういや裕貴はお袋と連絡を取ってたんだよな。裕貴は俺がヒロを「俺の天子」と呼んでいてその理由も知っている。魔法使いってのは天子と呼ばれるのを嫌うヒロに裕貴が配慮した結果なんだろう。……大して変わらない気もするけど。
『人を神さん扱いすると罰が当たるでー!』
 ヒロの口癖が頭に浮かぶ。「天子」発言厳禁か。でも親父やお袋にヒロをどう説明すりゃ良いんだ?
 俺がどうしたものかと思いながら、もそもそと封筒に便箋を収めると、お袋はすぐに手紙を回収した。俺宛の部分だけでもくれと言って聞く相手じゃない。
 俺の視線を感じたらしくお袋はわざとらしく溜息をついた。
「裕貴君もだけど、どうして健はしっかりした子に「かまわれちゃう」タイプなのかねー。お父さん」
 嫌み半分のお袋の言い草に親父が曖昧に相づちをうつ。
「1人っ子だからだろうが……。何処に行っても良い友人に恵まれるのは健の資質だろうし、とても幸せな事だろう」
 助けられつつ守られているのか、それともお互い様なのか、家族みたいに感じる程自然に近しい存在。同じ男の親父には俺とヒロの微妙なバランスがニュアンスで解るらしい。
「まあ、そういう意味では健は素直に育ってくれたわね」
 余計な一言も混ざっているが、「漢前」なお袋にも伝わったみたいだ。
『無理せんでええんやでぇ。普段どおりのまつながーが1番喜んで貰えるんとちゃう』
 またヒロの言葉がリフレインする。普段どおり。普段どおり。
「あ。親父、お袋。俺、東京で毎日元気で楽しくやってるから、心配しなくて……」
「「そんな事は健の顔を見れば解る」」
 全部を言い終わらない内に親父とお袋が同時に言い返してきて、俺達は同時に爆笑した。
 きっかけはヒロが渡してくれた菓子とこっそり入れていた手紙だった。4年のブランクを全く感じさせずに、俺も親父達も自然と言葉が出てくる。ヒロ天子様様だ。
 それから俺達はお袋が大量に作ってくれていた料理を食べながら、途中でビールも加わって時間が経つのも忘れて夜まで話し続けた。

 久しぶりに足が伸ばせる家の風呂に入って2階の俺の部屋に入ると、家を出た時のまま綺麗に掃除がされていた。
「物置にされてるとばかり思ってた」
 ボソリと本音を呟いたらお袋に向こうずねを蹴られた。
「いつでも帰ってこられる様にしてるに決まってるでしょう。全く健はどうしてこうも頭が固くて鈍いのかしらね。親の心子知らずって健の為に有る言葉だわ」
 俺が痛む足を押さえて蹲っていると、お袋はぽんぽんと俺の頭を軽く叩いて階段を降りて振り返りざまにあっかんべーをする。
「ばーか」
 ちくしょー。返す言葉がねぇ。マジで痛ぇぞ。俺の口より手が先に出る性格は絶対にお袋似だ。

 横になると気持ちが良いお日様の臭いがした。お袋が朝のまだ涼しい間に干しておいてくれたんだな。空気が悪い東京じゃいくら天気の良い日に布団を干してもこうはいかない。
 無意識に俺はベッドの横に手を伸ばしてスカる。ああ、ここは俺の家でヒロは居ないんだ。何か物足りないぞ。
 今日有った事を早くヒロに話したい。時間を確認して携帯のボタンを押す。
『何をアホなコトしとるん。明日まで着信拒否にするでー』
 いきなりそれかよ。でも凄くヒロらしい。俺が声を立てて笑うとヒロも笑ってくれた。
『まつながー、気持ち楽になったん?』
「うん」
 有り難い事に何も言わなくてもヒロは俺が電話した理由を解ってくれる。
『良かったなぁ。ほな、おやすみー』
 って。おい待てよ。
 返事をする前に切られちまった。目を閉じると直接は言って貰えなかったヒロの声が聞こえてくる。
『話なら帰ってきてからゆっくり聞くでぇ。俺と話す暇が有るならそっちに居る間は、親御さんと一杯話してやぁ』
 ヒロならきっとこう思っているだろう。俺に気を使って何かを隠す時は、いつも言葉数が少なくなる。
 とはいえ、すでに夜の10時半。俺が家に居られるのは遅くても明日の昼までだし、さすがに急に2日も休めなくて親父は朝から仕事だ。
 ヒロが俺の立場ならどうするだろう? 時間が許すかぎり親父達と過ごす時間を増やそうと努力するかな。って俺がそれをやるのかよ。
 ……。
 自己突っ込みをしている間に時間はどんどん過ぎていく。恥ずかしいけどやってみるか。

「親父、お袋、もう寝てるか?」
 軽くドアをノックしたら元気な声で返事が返ってきた。間に合った。俺は1度深呼吸をしてドアを開けた。
「親父、お袋、今夜は一緒に寝ても良いか?」
 枕片手に俺なりに精一杯の笑顔で言ってみた。
 畳に布団を並べて寝酒をしていた親父とお袋は、俺を見上げてしばらく固まると、同時に大爆笑し始めた。
「嫌だよ。もう、この子は。小さな子じゃあるまいし、自分は幾つだと思ってるのかね。可笑しいったらありゃしない」
 お袋がバンバン音を立てて畳を叩く。
「わはははははっ! 健、お前たった数ヶ月ですいぶん馬鹿……じゃない。愉快で楽しい性格になったな。父さんは博俊君に感謝す……ぎゃはははははっ!!」
 親父は耐えきれないと両手で腹を押さえて泣き笑いをしている。親父「似」の馬鹿で悪かったな。
 やっぱり似合わない事は止めておけば良かった。多分今の俺の顔は恥ずかしさと、間抜けな台詞を言ってしまった自分の馬鹿さに、首まで真っ赤になっているだろう。
「寝る前に邪魔して悪かった。おやすみ」
 ドアを閉めるとすぐにお袋が追いかけてきて、俺の腕をしっかり掴んだ。
「待ちなさい。健。今お父さんがお布団を敷いてくれているの。ヒロちゃん用に客用布団を用意しておいたからそれを使いなさい。家で3人一緒に寝るなんて十何年ぶりかね。懐かしいわ。たまには親子川の字になって寝るのも良いでしょ」
 お袋はまだ笑いが収まらないという顔だが、本当に嬉しそうに言ってくれた。
 なあ、ヒロ。自分でも馬鹿っぽいとは思ったが、結果良しだよな。
『俺でもそないアホなコトようせんわい。ホンマに恥ずかしいやっちゃな』
 脳裏にヒロらしい突っ込みが入る。素直なヒロの真似をしたつもりだったけど、所詮は偽物、付け焼き刃で、俺はやり過ぎてしまったらしい。
 自分の心に正直に生きるって本当に……。
「難しいな」
「何が?」
 俺が溜息混じりに言うとお袋が不思議そうな顔で見上げてきた。
「何でもねーよ」
「せっかく十年ぶりくらいに可愛いと思ったのにやっぱり可愛くない!」
 お袋が思いっきり背中を蹴り付けてきたもんだから、油断していた俺はまともに布団の上に突っ伏した。
 ああ、やっぱりこれはお袋流の照れ隠しだったんだな。本当に悪い所も俺とそっくりだ。
 親父とお袋は俺を挟んで「川の字って真ん中が1番長かったか?」と笑う。俺もつられて笑った。
 なあ、ヒロ。俺はとてもお前みたいにはなれないけど、ほんの少しだけ近付けた気がする。

「あひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ……」
 翌日の昼前、裕貴のクソ馬鹿がわざわざ家までやって来た。
 俺が東京に行って半音信不通だった間、さすがに心配したお袋と連絡を取っていた裕貴は、何度も家に遊びに来て相談に乗っていたらしい。それは有り難いんだが、お袋とタッグを組んで俺をいじめようとするのは止めろ。
「だって、酒ちゃんが迎えに行ってあげてって言うんだもん。酒ちゃんに可愛くお願いされたらとても断れ無いっしょ」
 嬉しそうにヒロの名前を何度も呼ぶな。お袋が居なかったらとっくに殴っている。
 昨夜遅くにヒロからメールが来て、里心がついた俺がうっかりバイトに遅れるといけないから、頃合いを見て連れ出して欲しいと頼まれたらしい。
「……あひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ」
「いい加減にその気色の悪い笑い方は止めろ。置いていくぞ」
 お袋から昨夜の一件を聞いた裕貴は、バス停までの道のりを延々笑い続けていた。さすがにバスの中では一応我慢していたらしいが、駅前に着いてもまだ笑っている。
 横に居て恥ずかしい上にうるさいんでさっさと東京に戻ろうとしたら、「迎えに行ってやったんだからコーヒーくらい付き合え」と裕貴に喫茶店に引っ張られた。

「本当に酒ちゃんは天子様だな。健ちゃんってば頭はスッキリしたし、性格もずいぶん可愛くなっちゃって、裕貴君は嬉しくってよ」
 そのお子ちゃまヒロ天子を俺は少しだけ恨んでいる。俺を心配してくれる気持ちは嬉しいが、ネタを絶対見逃さない裕貴を召喚しなくても良いだろうに。
 とはいえ、ヒロは裕貴以外に水戸で知り合いは居ないし、昨夜俺がどんな馬鹿をやったかを知らないんだから仕方が無いか。
「裕貴がヒロを天子と呼ぶな。いつも神様の罰が当たると怒るけど、俺だけがこっそりアパートで呼ぶだけなら良いとヒロに許可を貰ってるんだ」
 周囲の人に聞かれない様に俺がボソボソ声で話すと、裕貴は少しだけ意外という顔をしてすぐに笑った。
「へえ。やっぱり優しいな。酒ちゃんが2人居れば良いのに」
 この野郎。今思いっきり地雷を踏みやがったな。
「顔の形を変えたくなきゃその理由は言うなよ。というか、考えるのも一切禁止だ」
 手元に有ったタオル地のおしぼりを千切れそうなくらい絞り上げると、意図を察した裕貴は軽く肩をすくめて自分の首を撫でた。
「健もあまり物騒な事を考えるなよ。地元で暴れたなんて聞いたらお袋さんは激怒するだろうし、せっかく送り出してくれた酒ちゃんが泣くぞ」
「裕貴がヒロに余計な手出しをしなきゃ俺も殴ろうと思わないっての」
「それは俺と酒ちゃんの問題で健は関係無いだろ」
「大有りだ。裕貴が誰と付き合おうと勝手にしろだが、ヒロだけは俺が許さない」
 ヒロが聞いていたら俺達2人共2、3発殴られる程度じゃ済まないだろうが、こればかりは絶対に引けない。バイの裕貴はどういう訳か男女を問わずもてるんだ。
 本気の怒気を感じ取ったらしく、裕貴は真面目な顔になって手に持っていたコップを置くと真っ直ぐに俺を見た。
「そこまで言わせる酒ちゃんは健にとって何なんだ?」
「俺の天子としか言い様が無い……じゃあ裕貴には解らないだろうから説明するけど、これをヒロにばらすなよ。恥ずかしいから羅列するなと何度も怒られているんだ」
 一旦言葉を切って俺も裕貴を見返した。ヒロの怒った顔が目に浮かぶ。
「俺にとって神様みたいに優しくて、超お人好しで、世俗の汚れとは全く無縁だからとても綺麗なままで、大切な親友で、家族みたいなヒロを略して俺の天子」
 裕貴は一瞬苦笑しかけた後、複雑な顔になってこめかみを掻くとボソリと言った。
「寒すぎ。……もとい。マジでそれを酒ちゃんに言ったのか? そりゃいくら心の広い酒ちゃんでも怒るって」
「仕方ないだろ。思ってる事を無理矢理全部言葉に直すとこうなるんだ」
「あー。うー。そのー」
 裕貴にしては歯切れの悪い言い方をして足組むと何度も顎を撫でた。
 何度も聞いているヒロが毎回地べたに突っ伏すくらいだから、すれまくっている裕貴でもかなりのダメージが有る言葉らしい。言動の破壊力では俺は裕貴の足元にも及ばないと思ってたんだけどな。
 しばらく視線を泳がせていた裕貴はアイスコーヒーを1口飲むと、ラフな姿勢で俺に視線を戻した。
「酒ちゃんのプライバシー侵害になりそうだから詳しくは聞かない。でも、最後の家族みたいって何なんだ?」
「何って?」
 俺が聞き返すと「だからさ」と裕貴は前に乗り出した。
「もしも酒ちゃんが健の家族なら、どっちがお兄ちゃんで弟なのかって聞いてるんだ」
「は?」
 いきなりこいつは何を言い出すんだよ。俺が本当に意味が解らないという顔をすると、裕貴はすぐに気付いて説明してくれた。
「酒ちゃんは7月生まれだっけ。健は早生まれの3月だろ。生まれた順番や健が酒ちゃんに甘えまくってる事を考えると、酒ちゃんの方がお兄ちゃんポジションだと思うけど、結局は他人だからね。健が本音では酒ちゃんをどう思ってるのかって事」
 そういう意味か。ヒロを家族みたいに感じているけど、そこまで考えた事が無かったな。正直どっちか解らないってのが本音だが、やっぱり何だかんだとヒロに頼っている俺の方が弟になるんだろうか。
「ふーん。その顔から察するに健も解らないが答えか。酒ちゃんを妹、姉と言わなかっただけでもマシだな。酒ちゃんは童顔だし可愛いけど根っこの部分でしっかり男だから」
「それは解ってる」
 やっぱり裕貴には俺の考えはお見通しらしい。口下手の俺と3年間同室だったんだから当然か。
「なるほど。そうか。諸々の事情で中途半端なままだから、健も自分の中で酒ちゃんのポジションが決まらずに言動が迷走するのか」
「ヒロのポジション? 迷走? 何だそりゃ。マジで解らねーぞ」
 にやりと笑って裕貴は立てた人差し指を軽く揺らした。
「いっその事どっちか決めて呼んじゃえよ。酒ちゃんの脳内家族ポジションが決まれば健もスッキリするだろうし、少なくともうっかり人前で「俺の天子」と呼んで、毎回酒ちゃんに怒られる事は無くなるだろ」
「う……ん」
 たしかについうっかりとアパート外でも天子と呼んで、何度もヒロの雷が落ちている。
 ヒロのポジションか。本音じゃヒロが俺の天子なのは不動だけど、対外的には考える余地は有るな。
「対外的位置を健がどう決めても、本当の健と酒ちゃんの関係が変わる訳じゃ無いから、ゆっくり時間を掛けて考えれば良いと思う」
 意味深に裕貴が笑う。俺もそのとおりだと思ったから「うん」とだけ答えた。
「今度は酒ちゃんを連れて帰って来いよ」
「絶対お前には会わせないからな」
「健ちゃんのけちーっ」
 駅前で裕貴と別れて電車に乗る。時計を見ると丁度俺がアパートに戻った頃にヒロもバイトが終わる時間だな。俺のバイトシフト時間までまで余裕が有るから一緒に飯くらいは食えるだろう。作るのは面倒だからスーパーで総菜でも買って帰るか。
 電車は思ったより空いていて座る事が出来た。俺にとってヒロはお兄ちゃん……兄貴と言わないところが裕貴らしい。なのか、弟なのか。考える余裕と時間はたっぷり有った。

 アパートに帰るとテーブルの上にヒロのメモが置かれていた。
レポート終わったでー!
 良かった。ヒロも間に合ったんだな。俺がアパートを出てからメール1通も寄こさないんだからヒロのやる事は徹底している。きっとヒロもバイトと半徹夜続きでへろへろだろう。
 閉めきっていた部屋の換気をする。蒸し暑い風でも籠もった空気よりはマシだ。エアコンは空気を入れ換えてからだな。
 部屋を見渡すと朝飯を食った後は片付けているし、収集日のゴミも捨ててある。普段は忘れがちなのに、ヒロの事だから俺が先に帰って来た時を想定してしっかり掃除もしたな。自分のズボラさを棚に上げて俺がチェックを入れると「オカン」呼ばわりするのに、1人になったらどれだけ忙しくても全部やれるってどういう事だ。普段のあの状態はサボリかよ。
 晩飯はスーパー夕方特売の大盛り焼き肉弁当にした。スタミナ増強系にしたのは正解だったな。後はインスタント味噌汁でも飲むか。お椀3杯分の水を入れたヤカンをコンロにセットした時に玄関のドアが開いた。
「あ、まつながー。おかえりー。と、ただいまー」
 帰ってきたヒロが満面の笑顔になる。さすがは天子。昨夜の電話と良い、俺の顔を少し見ただけでお袋達と普通に会話出来た事が解ったのか。
 以前、ヒロは俺の事を俺以外の口から聞くのをきっぱり拒否しているから、裕貴やお袋がヒロに何が有ったかを言ったとは思えない。本当にヒロは勘が良くて感情表現が豊だ。
「おかえり。と、ただいま。面倒だから晩飯を買ってきた。お湯が沸いたから温めて食おう」
「うん。分かったー。おおきに」
 俺が納豆と味噌汁を用意して電子レンジに弁当を入れてテーブル前に移動すると、入れ替わりにヒロが流しで手を洗って口もゆすぐ。麦茶とカップを出してヒロも座布団の上に座った。
「なあ。まつながー、まつながぁ、お土産はー?」
 おいこら。待っていたのは俺の帰省報告じゃなくてそっちかよ。少しは「どうだった?」とか聞いてくれよ。こういう時だけ冷たい奴だな。期待で目をキラキラさせるヒロに犬耳と尻尾の幻が見える。
「特別買って無い。目の前に有る納豆を食え。それも水戸産だ」
「えー」
 恨みがましそうにヒロが俺を見上げてくる。本当に食い意地だけは人一倍汚い奴だ。当日まで内緒にしておきたかったのに仕方ねーな。
「またヒロが一緒に水戸に来てくれたら、今度こそ俺が良い店に案内して美味いモンを奢る。前は日帰りでお互いにまともなモンを食えなかっただろ」
 ヒロは大きな目を更に大きく見開いて口元に手を当てると、どうして男がそういう……一々突っ込むのが面倒になってきた。すぐに笑って俺を見た。
「うん。おおきにぃ。楽しみにしとるなぁ」
 1度決めた事と約束は絶対に守る。それがヒロだ。お互いのスケジュールが合えばきっとヒロは親父やお袋にも会ってくれるだろう。また1人で家に帰ろうモンなら、お袋が首絞めくらいじゃすましてくれないというのはヒロには内緒だ。
 実家に帰る前から緊張状態だった俺の気持ちが、ヒロと話している内に穏やかになっていく。これだから俺はヒロを天子と呼ぶのを止められない。

 弁当も食べたしそろそろ良いか。バイトの時間まではまだ時間は有る。
「あのな、ヒロ」
「ん、何?」
 ヒロが麦茶を飲みながら俺を見返す。
 何から話せば良いんだろう。たった1日だったけど沢山の事が有って、ヒロに言いたい事が多すぎて、上手く言葉にならない。
 せめて感謝の言葉くらいはちゃんと言いたいんだ。「ありがとう」だけじゃとても足りない。ヒロが居てくれなかったら、俺は当分家に帰れなかった。
 俺が言葉を探しているとヒロは天子の顔で微笑んだ。
「まつながぁ、何も言わんでもええて。まつながーの顔見てたら解る。とても楽しかったんやろ。凄く嬉しかったんやろ。お父さんとお母さんと沢山話せて、今のまつながーはメッチャ幸せなんやろ。俺はそれが分かっただけでも充分や」
 良かったとヒロも本当に嬉しそうに笑う。どうしてこんなに人に優しくなれるんだろう。笑顔1つで全てを許せてしまえるんだろう。
 俺の天子は本当に……あ、完全に忘れていたぞ。
「ヒロ」
「何?」
 言えよ。俺。今言わずにいつ言うんだ。たった一言だろ。

「お兄ちゃん!」

 呼び方からしてヒロの胸に抱きつきたいところだが、身長差の関係で思いっきりヒロを抱きしめる。この際体格差は関係ねぇか。弟の方が背が高い兄弟なんていくらでもいる。
 寝ぼけた俺がうっかり抱きしめる度に「ぎゃーっ!」と叫ぶヒロが微動だにしない。絶対に拒否する正面から抱きしめたのはやり過ぎだったか。
「……ぁがぁ。まつながぁ」
 ブルブルと小刻みにヒロが震えている。しまった。やっぱり怒らせたか。
 ヒロは精一杯我慢しているという笑顔で俺を見上げてくる。
「今の「お兄ちゃん」って俺のコト呼んだん? もしかしなくても迎えに行った裕貴さんと色々話ししたー? その時にああしろこうしろて裕貴さんに言われんかったぁ?」
 本当によく俺の事が解るな。
「うん」
 正直に俺が答えるとヒロはすぐに俺の手を振り払って、怒りの形相でジーンズのポケットから携帯を出して凄い勢いでボタンを押した。
「裕貴さん、昨夜まつながーを変な方向に洗脳すなって言ったやろが! まつながーは1人っ子で素直な性格しとる分、普通なら騙されんアホな冗談でも裕貴さんの言う事は全部信じるから、まつながーで遊ぶんは止めれてあれ程言うたやん。アホスイッチの被害を1人で被る身にもなってやぁ!!」
 一気に言い切ってヒロは肩で息をしながら携帯を閉じた。
 変な方向に洗脳? 普通なら信じないアホな冗談? で、アホスイッチ?
『いっその事どっちか決めて呼んじゃえよ』
 そう言った時の裕貴は微妙にほくそ笑んで無かったか。
 ……。ちくしょー。また騙されたのかーっ!
 ヒロは今も俺に背を向けたままだが、背中から怒りのオーラが噴き出している。
「ヒロ?」
 顔を蹴られるか殴られるのを覚悟して声を掛けてみた。ヒロは2、3回深呼吸をして振り返った。
「まつながー、今までどうしてええんか判らんかったから言わんかったけどキッチリ言うで。小さな頃ならともかく、どんだけ仲良うても普通はいい歳した兄弟で抱きしめたりはせん。ついでに俺はまつながーより先に生まれとるけど、兄貴面する気なんか全然無いで。まつながーは俺にとってホンマに大切な一生モンの親友や。それ以外に変な装飾や特別な名称は要らんて思っとる」
 それにな。と、ヒロは少しだけ照れくさそうに自分の頬を擦る。
「好きやから友達やて思う気持ちに理由なんか無いやろ。俺はまつながーをまつながーとしか思ってへんで」
 さすがに恥ずかしいのかヒロが赤面している。何の飾りも役割も無い。俺を俺と認めてくれた上で好きだから親友だとヒロは言ってくれた。
 ああ、そうか。こういうシンプルな思考だからヒロはいつもストレートに言葉が使えるんだ。
「ははははは……」
 自然に笑いがこみ上げてくる。裕貴のタチの悪い悪戯への怒りはヒロの言葉で全部吹っ飛んだ。ヒロ、やっぱりお前は凄いよ。
 これくらいなら良いだろう。俺はヒロの肩に額を預けた。
「俺もヒロ天子が好きだ」
「天子て呼ぶな。こんの罰当たりー」
 速攻で俺の頭はヒロに叩き落とされる。肩くらい貸してくれよ。
「仕方ねーだろ。俺にとっちゃヒロは天子なんだから」
 俺がぶすったれて答えるとヒロはやれやれって感じで苦笑した。
「まつながーが裕貴さんから親離れ出来たらその変な誤解も解けるんやろなぁ。当分はしゃーないか。まつながー、早う一般常識の範囲で感情表現覚えてや」
 そりゃどういう意味だっての。
 俺が言い返そうとしたらヒロは「それよりもなぁ」とポケットからペンギンの懐中時計を俺の前に突き付けた。
「うわっ!」
 いつの間にこんなに時間が経ってたんだ。バイトの時間まで30分しかねぇ。
「アホなコト言っとらんで早う口ゆすいでバイトに行けや。まつながーの足なら充分間に合うやろ」
「ヒロ、サンキュ」
 俺は流しで手と口だけ洗うとすぐにスニーカーを履いて玄関を出た。背中からヒロの「走ってこけるなやー」という声が聞こえてくる。

 3年間散々からかわれ続けて警戒していたのに、また裕貴に騙されて乗せられた。悔しいけどその代わりに嬉しいヒロの本音が聞けた。
 一般常識の範囲の感情表現ってどんなんだ? 出来るだけ正直になろうとして親父やお袋にも散々笑われたし、どうやら俺はちょっとばかり感覚が変らしい。
 どうしたら良いか判らない。口下手の俺にとって明るい裕貴の影響はでかいんだよな。
 なあ、ヒロ。俺の一体何処がどういう風におかしいんだ? ちゃんと教えてくれよ。
 バイトを終えて帰ったらまだヒロは起きていた。
 この際だからと聞いてみたら、布団を敷いてくつろいでヒロは一瞬「はあ?」という顔になった。
 数秒後、俺が言った事を理解したらしいヒロは「これ以上はマジで堪忍してー」とタオルケットを頭から被って泣き出した。
「おい、ヒロぉ!?」
 何が有っても、いじけて泣きそうになっても、くじける事を知らないヒロが本当に泣くなんて今まで見た事が無い。どうすりゃ良いんだ?
 嘘だろう。というか……マジで参った。
 「ちょっとばかり」どころかヒロの基準じゃ俺は「相当」変らしい。
 全身の力が抜けた俺はしばらくの間丸まっているヒロの側に座っていたが、声掛け断固拒否の姿勢を崩さないのでベッドに移動した。
 なあ、ヒロ。迷惑ばかり掛けてしまうが、天子の優しさで俺を更正させてくれよ。こんな恥ずかしい事、ヒロにしか頼めないんだぞ。

 俺は心の中でヒロを拝むと、灯りを消して布団に潜り込んだ。

おわり

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