23.

「健が綺麗好きの理由? 何だ。酒ちゃん、健に納豆を食わせられ続けているのに、聞いてなかったのか」
「うん」
 事情を抱えたまつながーが話そうとせんコトを聞くのは嫌やったし、あの優しそうな声のお母さんが、怒ってまつながーの部屋の窓から荷物を外に放り出す姿が、どうしても想像つかんのよなぁ。
「酒ちゃんは本当に優しいなぁ。健がなつくはずだ。ああ、話がずれちゃったね。健のおばさんの実家、つまり同居していたじいさんの家は元は納豆農家だった んだよ。綺麗にしておかないと埃やカビで納豆の味が変わると、おばさんはかなり厳しくしつけられたそうだ。健が生まれる頃には工場化が進んで引退しちゃっ たそうだけど、長年の習慣は変わらなかったらしい。少しでも部屋が汚れると健が掃除を始めるんで、俺も掃除がサボれて助かったな」
 裕貴さんは「これは健には内緒だぞ」とぺろりと舌を出す。
「へー。そんでまつながーは納豆命なんや」
「一応言っておくけど水戸市民だからって、誰もが健みたいに納豆ばかり食べるんじゃないからな」
「堪忍なぁ。茨城県民全員そうやと思っとった」
 「ひでえ」と裕貴さんが笑う。自分で言うのも何やけど、思い込みって怖いなぁ。
「天子様がそんなんでどうするんだよ」
「俺、神さんとちゃうもん。勘違いくらいなんぼでも有るて」
 せっかく裕貴さんを質問攻めにして話を逸らしたのにいきなり戻すんやもんなぁ。
「それになあ。まつながーが隣に居ってくれたから俺は餓死せんですんだんやもん。まつながー様々で信者なんは俺の方やでぇ」

 俺は「天子」ネタを避けつつ、できるだけ明るくまつながーと出会ってからの出来事を裕貴さんに話してみた。どうせ笑いネタにしかならんコトばかりやからええやろ。裕貴さんならお母さんに上手く伝えてくれるやろうし。
「だけど健は酒ちゃんを「俺の天子」と呼ぶんだよな。俺が3年掛かってもできなかった事をあっさりやってくれた」
 うーっ。また話がそこに戻ってしもうた。
「まつながーが今でも頼りにしとるのは裕貴さんやでぇ。俺じゃ全然頼りにならんもん」
 裕貴さんはテーブルに片手をつくと顎を乗せた。
「俺にはとてもそうは見えないよ。健は酒ちゃんに頼りきってる。ついネタや笑いに走る俺じゃ、意地っ張りの健は心を完全に開ききってくれなかったんだ。君が本当に羨ましいよ」
「まつながーにとって俺は「家族みたいなモン」なんやて。俺からしたらまつながーは「親友」や。なあ、裕貴さん。本音を言えん時は誰でもそうするんとちゃうの? 俺にはとてもやないけど裕貴さんの真似はできん。3年間、浮気って言うんかなぁ? みたいなコトしとったらしいけど、今でも裕貴さんにとってまつながーが1番なんやろ」
「酒ちゃん?」
 びっくりした裕貴さんが顔を上げる。
「俺なんかでも解る。裕貴さん。……ずっとまつながーに気付かれんようするの辛かった……ううん、今でも辛いんやろ。そんでも、まつながーには自分の気持ちを絶対知られた無いんやろ。俺も大事な友情壊すようなコト、全然言う気は無いから安心してや」
 俺がまっすぐに顔を見て言うと、裕貴さんは何かを堪えるような顔になって口の端だけで笑った。
「はは……参ったなぁ。健の天子様は全部お見通しだったのか。誰にもばれない自信が有ったんだけどな。絶対に報われないと分かってたから、健の事はとっくに諦めていたんだ」
 裕貴さんはソファーに頭を預けると両手で顔を覆った。
 これを言うてもええんかずっと悩んどった。けど、話しとる間に裕貴さんにとってはまつながーは特別なんやから、俺もちゃんと本音で答えなアカンて思うた。俺にとってまつながーは親友やけど、裕貴さんにとってまつながーはどんな手段を使うても1番守りたい相手や。
 俺には裕貴さんの気持ちを理解しきるコトは到底できん。俺がまつながーを好きやて思う気持ちと、裕貴さんが好きやて思う気持ちは全然別モンなんやもん。
 まつながーを大事に想っとる人からライバル扱いされ続けるのは嫌や。これで変な誤解は解けたやろう。

 そろそろ潮時よなぁ。
「裕貴さん、どうしても聞いて貰いたいお願いが有るんやけどええ?」
 俺の珍しく強い口調に裕貴さんも顔を上げる。これが俺が水戸まで付いてきた本当の理由や。裕貴さんに手伝うて貰わな実現できん。
「俺にできる事ならなんなりと。可愛い酒ちゃんのお願いだったら何でも聞いちゃうよん」
 裕貴さんはもう気持ちを切り替えたっぽい。ホンマに芯が強い人やなぁ。まつながーが高校時代に影響されたのがメチャ解るでぇ。俺かて裕貴さんの強さには 憧れるもん。変態なトコ以外限定で。これってかなり重要ポイントやで。まつながーみたいにアホスイッチが付くんは俺は嫌や。
「なあ、酒ちゃん」
「何?」
「最近健が親離れしてきてて凄く寂しいんだ。天子の酒ちゃんになら、俺の全部を受け入れて貰えるって気がする。惚れても良い?」
 この人はぁ。この手の冗談ばかり言うから、まつながーがホモ嫌いになったんとちゃうの。
「冗談でも本気でも嫌や」
「いやん。酒ちゃんってば冷たーい。少しくらい優しくしてくれても良いじゃない」
「お願いやからそういうのは裕貴さんがホンマに好きになった相手に言うてや。男女問わずなんやろぉ。俺は付き合うなら女の子がええもん。お試しでホモごっこをする勇気は無いて」
「冗談じゃ無いんだけどなぁ。仕方ない。俺も妥協するか。まずはお友達からならどうかな? 酒ちゃんにもっと俺を知って貰いたいんだ。俺も酒ちゃんをもっと知りたい」
「普通に友達ならええで」
 俺が頷くと裕貴さんは本当に嬉しそうに笑ってくれた。あれ? 今、ちょとやばっぽい言葉が混じっとらんかった? 俺の気のせいかなぁ。
「よし。酒ちゃんゲット」
 裕貴さんがにやりと笑って握り拳をつくる。あー、知らん内に釣られてやってしもうたっぽい。都合の悪いコトは全部聞こえんかったコトにしよ。まつながーやないけど、裕貴さんがバイなんは自由やけど、俺までホモになるんは嫌や。


24.

 公園で美由紀と別れた俺が駅北口まで戻ると、裕貴と大きな紙袋を持ったヒロが笑って俺を見つめていた。
「ほら、言うたとおりに来たでー」
「やっぱりな。こういうヤツだと思ってたんだよ。待ち合わせ場所になるだろう所に全く連絡無しで来ると。酒ちゃんと同じ予想だから賭けにならないのが残念だ」
「2人して外すよりええやん」
「ごもっとも」
 何だ? お前達俺が居ない間に何が有ったんだよ? 何でそんなに仲が良くなってるんだ。嫌な過去が蘇ってくるぞ。
「まさか、ヒロ。裕貴に……」
 俺が口ごもるとヒロが天子の笑顔を俺に向けて紙袋を指さした。
「うん。裕貴さんに2人っきりになれるトコに連れてって貰うて、美味しいもん食べさせて貰うて、ほんで、一杯買うて貰うたー」
「おい!?」
 滅茶苦茶意味深な言い方をするな。気になって仕方がないだろ。まさか、まさか俺の天子のヒロが?
 「同意の上だしね」と裕貴が笑うと「そやなぁ」とヒロが頷く。
 うわぁ! 勘弁してくれよ。
 俺が絶句していると、裕貴とヒロが同時に腹を抱えて爆笑しだした。
「ほら、健はムッツリスケベだったろ」
「ホンマやー。何を1人で勝手に妄想しとるん。やっぱりまつながーって思考が変態やん」
「芝居かよ!」
 俺が怒鳴るとヒロと裕貴が首を横にふる。
「ホンマのコトしか言ってへんでぇ。ここじゃ言いづらいから少しぼかしただけやん。このどスケベ変態」
「全くだ。思い込みの激しい所は全然直ってないな。保護者代理としては凄く心配だ」
「何だよ」
 イジメか? 裕貴はともかくヒロにまでやられたら俺は泣くぞ。俺の手が震え始めると、珍しくヒロが俺を無視して裕貴を見上げた。
「裕貴さん、今日はホンマおおきにー」
「こちらこそだよ。酒ちゃん、また会おう」
「うん」

 裕貴が頭を撫でるとヒロは嬉しそうに笑う。俺が触ろうとするだけで、手を叩き落とすくせに。俺が裕貴の手を払おうとしたら、裕貴が俺を振り返った。
「健」
「何だ?」
「お前は1人でここに帰ってきた。それが答えだと思って良いんだな」
 いきなりそうくるのかよ。でも、今はゴチャゴチャ話したくないから助かるな。
「ああ。そうだ」
「分かった。やれやれ。やっと1個片付いたか。今日は俺もこれで帰るよ。酒ちゃんと一杯楽しく過ごせたからな。健、酒ちゃん、今度は俺が東京に遊びに行くよ」
 この野郎、殴ってやろうか。なんて考えていたら、横でヒロが「裕貴さん、またー」と笑って手を振った。裕貴も振り返って手を振りかえす。
 何が有ったのかは判らないけど、落ち着いたらヒロが話してくれるだろう。
「なあ、まつながー」
「ん?」
「もしかしてお昼ご飯まだー?」
「ああ、そういえば食いそびれてるな。ヒロは裕貴と食べたんだろ。あまり腹が減ってないから良いか」
「そういうのはアカンて」
 俺の手を引っ張ってヒロはファーストフード店に連れて行こうとする。ヒロの小さな手の温もりが、数ヶ月の停滞を漸く乗り越えて、本当に今ここに戻ってきたんだと俺に気付かせた。


 遅めの昼食を摂ると、ヒロは「お願いやから付き合って」と、俺を誘って一緒にタクシーに乗った。知らない土地なのに運転手さんに小さなメモを渡しているところを見ると、裕貴から何かを教えて貰ったな。
 タクシーは街中を離れて郊外に行く。どこへ行くんだろう。ヒロはまだ何も言ってくれない。そのくせあれはしっかり何にかを企んでる顔なんだよな。裕貴の悪戯癖がヒロに移ってなきゃ良いんだが。
 あ。この道はもしかしたら。
「ヒロ」
 振り返るとヒロは天子の笑顔で俺の顔を見返してきた。
「黙ってて堪忍なぁ。俺がどうしても挨拶に行きたかったん」
 タクシーは共同墓地の前で俺達を降ろすと走り去って行く。
「まつながぁ、お願いや。嫌や無かったら俺をそこまで案内してくれん?」
 あ、そうか。いくら裕貴でもここまで詳しくは知らない。俺は迷子にならないようにヒロの手を引いてゆっくりと細い坂を登って行った。
 丘の中腹に差し掛かった所で俺が足を止めると、ヒロが「ここなんや」と小声で呟く。
 松永家之墓。
 周囲の墓と比べてもごく普通の敷地、特別変わったところは無い。日が経って少しだけ傷んだ花が、親父達が盆にここに来た事を俺に教えてくれる。この分だと近いうちにまた掃除に来る気だな。
 ヒロが紙袋から出したのは、焼香セットと掃除道具と真っ白い花だった。どうやってと聞いたら、裕貴に相談したら喜んで一緒に探してくれたと教えてくれた。これを買いに行ってくれていたのか。
「ホンマに裕貴さんには感謝しっぱなしや」
 ヒロが2リットル入りペットボトルの水を墓石に掛けながら言う。
 ああ、だからあんなに裕貴と意気投合していたのか。ありがたい事にヒロと裕貴の共通の望みは俺が気兼ねなく実家に帰られる様になる事だ。
 俺が花を飾ると、ヒロは1歩下がって俺に線香とロウソクを渡してくれた。この花を見ればお袋達も俺がここに来たと気付いてくれるかもしれない。
 俺は頷いてポケットからライターを出して、ロウソクに火を付けてからそれを線香にも移す。墓石の正面に置いて俺は両目を閉じて手を合わせた。

 じいさん、長い間親不孝者で悪かった。これからはもっとしっかりする。親父やお袋にも心配掛けないようにする。だって……。
 俺は振り返って俺の後ろで手を合わせていたヒロに声を掛ける。
「並んで一緒に拝んでくれないか」
「ええの?」
 戸惑うヒロの手を引っ張って俺の隣に座らせる。ごちゃごちゃ話すよりこっちの方が早い。ヒロは「おおきに」と言ってまた目を閉じて両手を合わせた。礼を言いたいのは俺の方だっての。
 じいさん、東京でできた俺の親友のヒロだ。天国のじいさんなら何も言わなくても全部知ってるだろ。ヒロが俺をここまで連れてきてくれた。感謝してもしきれない。

 俺が立ち上がると、ヒロも立ち上がって満足げにぱっと笑う。
「やっとまつながーのじいちゃんに挨拶できたなぁ。まつながー、ホンマにおおきにぃ。ほな、行こかぁ」
 本当は俺の為だろ。ヒロ、お前はどうしていつも俺が本当にしたいと思っている事をさせてくれるんだ。
「うひゃっ。ま、まつながぁ?」
 力一杯ヒロを抱きしめる。誰に見られたってかまうもんか。
 もしも本当に運命の神様が居るなら、俺の側にヒロを連れてきてくれた事を感謝したい。
 ああ、まただ。ヒロにしがみついていると涙が自然と溢れ出してくる。嫌そうに身じろぎしていたヒロが、俺が泣いているのに気付いて動かなくなった。
 やっぱりヒロと一緒に居る時が、俺は1番自分に正直で居られるんだ。ヒロ、俺の天子。お前がどれだけ怒っても、俺はそう呼び続けるからな。
 ヒロは小さく溜息をついて「しゃーないなぁ。アパート内限定でたまーに言うなら許したる」と言った。その言い方からすると……。
「俺、また声に出してたか?」
「うん。メッチャ恥ずかしゅーて、もう笑うしかあらへんてぇ。裕貴さんが遠慮してくれてホンマに良かった。こないな姿見られた無いもん。ははははは……はぁぁ」
 滅茶苦茶やけくそっぽい笑い方だな。しかも最後に盛大な溜息かよ。悪かったな。相変わらず馬鹿のままで。ヒロが小さな子供をあやすように俺の背中を軽く叩く。
「俺に泣き顔を見られとう無いんやろ。まつながーの気が済んだら離してや。けど、今度は鼻水付けたらゆるさんでぇ。着替えは無いんやからなぁ」
 ヒロがわざと茶化すように言う。本当に天子様は優しいな。
「うん。気をつける……あ、やばっ」
 瞬間、俺はヒロに全力で突き飛ばされた。体格差や力の差なんて、こういう時は全く関係無いらしい。
 尻餅を付いた俺にヒロが顔を背けながらポケットティシュを差し出してきた。
「さっき駅前で貰ったん。どうせ要らんから全部まつながーにやる。顔は見てへんから安心せいや。とにかく鼻水を拭け。俺の服はまつながーのハンカチでも鼻紙でも無いんやからな」
 鼻をかみながらティシュの袋を見ると、女向けのネイルエステサロンの広告が入っていた。裕貴と一緒に居てもこうなるのか。これを貰った時のヒロの嫌そうな顔と、裕貴が笑いを堪えている姿が目に浮かぶ。
「なあ、ヒロ」
「何?」
「使った後のティシュはどうしたら良い?」
「そんなんゴミ箱が見つかるまで自分で管理しとけばええやろぉ。面倒やからとそこらに捨てるなや。アホ!」
 おー。これはかなり機嫌が悪いな。今更なのにまた女に間違われたのが恥ずかしくなったらしい。割りと美人系の美由紀に「綺麗な女の子?」と言わせた男はやっぱりどこか違う。
 俺は最後の1枚で顔を拭くと、使ったティシュを全部袋に押し込んで立った。
 「待たせた」と言うと、振り返ったヒロが笑って「まつながーのガキぃ」と言った。お子ちゃまに言われたく無いけど、たしかにヒロにすがって泣く俺はまだまだガキなんだろう。

 坂を下りながら、俺はまだピアスを付けたままでいる事に気が付いた。美由紀とはあれでもう完全に終わった。けじめは付けたから、これはもう要らない。
 俺はピアスを引き抜いて、どこにでもいけと空に向かって放り投げた。ヒロが小さく「あ」と声を上げる。放物線を描いて銀色のピアスは夕日の中に消えて行った。
 ヒロがしばらくの間それを黙って見続けて言った。
「メッチャ綺麗な夕日やなぁ。明日もきっと晴れやでぇ。まつながぁ、今日はできんかった洗濯物も纏めて洗えるなぁ」
 ピアスは見なかった事にするというヒロらしい気配りだ。ぼそりと「さっきの調子で他のゴミまで投げたら足を蹴るで」という突っ込み付きだ。墓所でそこまで罰当たりな事ができるか。お袋より掃除にうるさいじいさんに枕元で怒鳴られる。

 バスに乗って駅に戻ると、俺とヒロは東京に帰る電車に乗った。
 俺の携帯が鳴って開くと裕貴からメールが入っていた。
『お疲れさん。次の休みにはちゃんと実家に帰ってやれよ。つーか、さっさと帰れ。馬鹿』
 どうやら裕貴は俺とヒロが帰ってくるのを、どこかでしっかり見ていたらしい。最後まで見届けなきゃ気が済まない性格は変わってないな。ある意味恐ろしい男だ。裕貴が今もずっと俺の味方で居てくれて本当に良かった。
 ヒロにもメールが届いていたらしくて、携帯画面をみながら複雑な顔をしていた。
 「裕貴が何だって?」と聞くと、慌ててヒロは携帯を閉じて「なんも無いから気にせんといてぇ」と言った。嘘を言うな。「困った」としっかり顔に書いてあったぞ。帰りの電車の中で何度聞いても、ヒロは絶対に口を割らなかった。
 ヒロがそういう態度ならと、アパートに戻ってからすぐに裕貴にメールで聞いてみたら『酒ちゃんにもう1度告ってみたんだ。これから頑張ってアタックするから見てろよ』と返ってきた。
 ちょっと待て。この「もう1度」ってのはどういう意味だ。しかもヒロに告っただと。裕貴、お前良い度胸だな。東京に来たらあのにやけ顔を絶対にぶん殴ってやる。
「ヒロ。俺が居ない間、裕貴に何を言われてされた?」
 俺の不機嫌そのものの顔を見て、速攻でヒロが駆け出して隣の自分の部屋に逃げ込んだ。
 晩飯前だっていうのに本当に学習能力の無いヤツだな。
 俺が作る料理の臭いに釣られて、空腹のヒロが「えへへ。まつながぁ」と部屋に戻ってくるのに1時間も掛からなかった。
 だけどその間にちゃっかりメールは全部削除したらしくて、携帯を取り上げても無駄だった。おそろいで買ったヒロの携帯ストラップのイルカと真珠が、俺に向かって「ばーか」と言わんばかりに揺れていた。


25.

 うがーっ。このメッチャ暑いのに図書館に行かんとレポートの資料が足らんー!
 俺は大学の図書館でコピーを取ると、アパートの部屋に戻ってレポートの続きを纏めとった。
 まつながーも遊びすぎたと、バイトから帰ってくると毎日遅くまでレポートを仕上げとる。ツッコミは入れんけど、まつながーが裕貴さんの悪口講座を連日連夜続けんかったら、とっくにでき上がっとるんやからな。しかも全然役に立たんかったし。恨むで。ホンマにー。
 「ただいま」とまつながーが帰ってきた。
「おかえりー」
 バイトや本屋や図書館でも無いし、どこに行ってたんやろ。
 まつながーは冷蔵庫から麦茶を出すとコップに注いで一気のみをしたっぽい。ゲホゲホ言っとるから(ゆっくり飲めばええのに。マジでアホや)多分そうやろ。
 俺がパソコンの画面から目を離さずにおると、まつながーも正面に座って資料を片手にノートパソコンを開いた。あれ、何か違わん?
「あーーーーーーーーっ!」
 俺が顔を上げて大声を上げると、まつながーは「何だよ」と少しだけ眉間に皺を寄せた。
「まつながー、その髪」
 俺が何とかそれだけ言うと、まつながーは自分の前髪を少しだけ引っ張った。
「ああ、伸ばしていると暑くてうっとおしいからな。切ってさっぱりした。それに色も戻しておけばもう染めなくて良いし」
 肩まで届きそうなばらばらの長さの茶髪頭から一転、まつながーの髪は真っ黒で、スポーツ選手みたいに短うなっとった。
「もう隠す必要が無くなったからな」
 ああ、そういうコトか。ピアスホールは当分塞がりそうも無いけど、まつながーなりにこれで全部のカタを付けたんやと納得した。ちゅーか、ホンマに思い切ったなぁ。男前度が上がったで。何か悔しいから言わんけどな。裕貴さんが今のまつながーを見たら安心するやろなぁ。
「裕貴さんにまつながーの近況写真撮って送ってもええ?」
「断る」
 即答かい。まあ、ええけどな。近いうちに裕貴さんは俺をダシにしてまつながーに会いにくるやろう。
 水戸に行った日の俺へのメールはこうやった。
『健と酒ちゃん、どっちを本気で好きなのか段々判らなくなってきたよ。これは2人に会ってたしかめるしかないね。健なら今のまま。酒ちゃんならガンガンアタックするから宜しく』
 アホか。まつながーを大事にしたいて思っとる限り、裕貴さんの1番はまつながーのままやろ。安全圏で端から見物するにはええかもしれんけど、裕貴さんに俺が迫られるのはマジで堪忍やなぁ。
 俺も今までみたいに受け身のままやのうて思い切って告白してみよかな。もしかしたら俺が鈍くて気付いてへんだけで、もう好きになっとるかもしれんもん。

「まつながー」
「何だ?」
 まつながーは麦茶を1口飲んでテーブルに置くと、視線をモニターに戻した。
「俺が休み明けに真田さんに告るて言ってもまつながーは困らん?」
「はあ? 何だそりゃ」
 いきなり何を言い出すのかってまつながーは驚いて顔を上げた。
「うん。もしかしたらまつながーも少しは真田さんのコト好きかもって思ったん。親友と彼女の取り合いはしとうないもん」
 こめかみに手を当てて溜息をつくと、まつながーは「あのな」と言った。
「俺と真田は関係一切なしって言っただろ。それよりもヒロの方だ。何でいきなり真田なんだよ。しかも告るってマジかよ。お前、前に守ってあげたくなる可愛い女の子が良いって言ってただろ。真田じゃ逆タイプじゃないか」
「うん。そうなんよな。あん時はホンマにそう思ってたん。ほやけど、よう考えたら脳内であれこれ考えるより、実際に会うて話してみて、ああ、この人のコト好きやなぁって思える人やったら、付き合おうてみてもええかなって思えてきたんな」
 アホ姉貴のせいで強引な女の人は苦手になったけど、一見強そうに見えて、実は優しい人はなんぼでも居るやろう。そう思えるようになったんは、表向き意 地っ張りでメッチャ強がりやけど、中身は普通に悩んだり苦しんだり、一杯迷うて、たまに涙を流すまつながーを見てきたから、とはさすがによう言わん。
 まつながーは俺の視線を受けて軽く肩をすくめた。
「分かった。だけど真田は止めておけ」
「なしてー?」
「ヒロは俺がこれなら良いと認めた女以外と付き合うのは絶対駄目だ。ヒロは情にほだされやすい性格だから変な女に引っかかる率が高い」
 ……開いた口が塞がらん。いきなり小姑宣言かい。
「まつながーこそ俺のコトに構っとらんでさっさと彼女作れや」
「無理を言うな。男のヒロより良い女を探そうと思ったらかなりの時間と労力が要るぞ」
 今、なにげに巨大地雷を踏みおったな。
「お前のアホスイッチ、今すぐぶっ壊したるー!」
 俺が怒鳴って立ち上がると、まつながーもテーブルを除けて立ち上がった。
「仕方ねえだろ。事実なんだから」
「その気色の悪いコトばかり言う口をきけんくしたる」
 俺がパンチを繰り出すとまつながーは器用に避けて体勢を替えおった。やばっ。親父が教えたコト、完全にマスターしとる。まつながーが俺を掴まえようとす る手を全部手刀で叩き落とす。やっぱ手強くなったなぁ。1発でトドメ刺す気でやらんと俺がやられる。……と思ったらまつながーから闘気が全部消えた。ほ え。何で?
「俺の天子は何が有ってもそんな酷い事はしないだろ」
 本気で言うとるし。一気に力が抜けるて。俺もやる気がのうなってその場にしゃがみ込んだ。
 俺のアホー。何でアパート内ならまつながーに「天子」て呼んでもええなんて言うたんや。神さん扱いなんて罰当たりすぎるし、恥ずかしさでマジ泣きしそうや。

 俺がへたり込んどると、まつながーが膝を付いて俺の頭をぽんぽんと叩いた。
「ヒロ、朝から水分を充分に摂ってるか? エアコンの設定温度がぎりぎりだから、暑さで血が滞ってイライラするんだろ。早めに晩飯にするから納豆を沢山食べろよ。血が綺麗になって頭もすっきりするぞ」
 なんかまつながーの口から納豆て単語聞くの久しぶりやって気がする。まつながーが作った料理にはデフォルトで納豆が入っとるもんなぁ。
「もしかして、まつながー。俺のコトを餌付けしとる?」
 これ以上怒り続ける気力が無いもんやから、ほんの軽い冗談のつもりで聞いてみた。ほしたら、まつながーはにやりと笑う。ほえ?
「何だ。今頃やっと気付いたのか。始めからだっての。天子のくせに鈍いぞ。ヒロ」
 まつながーは俺に痛くないデコピンをすると、立ち上がって台所に行った。

 えーっと、それってつまり……。

 うがーっ! 聞かな良かったー!
 まつながーがやたらと俺に飯を作りたがるのって意図的にやっとったたんか? そうなんか?
 オカンが俺の口座にお金振り込み忘れて、空きっ腹を抱えた俺がまつながーの部屋の玄関をノックした時から、俺の運命って決まっとったってコトなん?
 オカン並に口うるそうて、小姑気取りで、そのくせホンマはメッチャ甘えっ子で、自覚全く無しの変態もどきが一生モン親友ってどういうコト?
 神さん、堪忍してやぁ。まつながーのコト、好きなだけに余計にタチが悪いでぇ。

 まつながぁ、お願いやから俺の精神衛生の為に、どれか1個だけでもホンマに直してぇ。

 俺の泣きそうな気持ちを解っとんのか、気付いてないんか、まつながーはメチャ下手くそな鼻歌を歌いながら、冷蔵庫から納豆を出した。

おわり

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