9.

 まつながーが「ビールでも呑むか」と聞いてきたけど断った。バイトで疲れとるのにお酒呑んだらすぐに寝てしまうやん。それに、これからメッチャシリアスな話すんのに酔っぱらいながらなんて俺にはとてもできん。まつながーが呑むのは止めんけど。
 俺は冷蔵庫からコーラを出して、まつながーはビールとツマミを出す。こういう時、未成年うんぬんより、酒を呑んでも普通に話せて眠らずにおられる体質が羨ましいなぁ。テーブルを挟んで2人して胡座を組む。
 接客しながら別のコト考えるのは到底無理やけど、今日はたまたま片付けや掃除の当番が多かったから、手を動かしながら裕貴さんが言うた内容についてじっくり考えるコトができた。
 どうしても裕貴さんの言い方が引っかかる。恋愛経験ゼロで鈍い俺の勘でも、裕貴さんはまつながーを美由紀さんと直接会わして振られ直させたいんやと思う。ほやけど、1度振られたモンを何でわざわざやり直さなアカンの? まつながーがまた辛い思いするだけやん。
 美由紀さんが会いたがっとるのも訳判らん。昨日はまつながーに「しつこい」てトドメ刺さな気が済まんのかとも思ったけど、今日の話やとどうやら違うっぽ い。「今更だけど謝りたい」て言うてたもんなぁ。直感で「今のままやと前に進めん」て言うてみたら、裕貴さんは「ビンゴ」て言うた。
 失恋って時間が解決してくれるモンとちゃうの? まつながーが立ち直るきっかけを作るにしてはあまりに酷いんとちゃうの。
 俺には裕貴さんが何を考えとるんか未だによう解らん。

 どう言えばええんやろう? 俺が話すのをまつながーは黙って待ってくれとる。昼間は「自分で言うなや」ってツッコミ入れとうなったけど、ホンマにこの短期間で我慢強うなったし成長したなぁ。俺は相変わらずやからメチャ羨ましいで。


10.

 ヒロは出したコーラに手も付けずに俺の顔をじっと見て、ゆっくり息を吐きながら目を閉じた。
 あ。あの時と同じ空気を感じる。
 伊勢の外宮で巨木を前に手を合わせたヒロは、自然の風景の中に綺麗に溶け込んで、そのまま消えてしまうんじゃないかなんて錯覚を俺に感じさせた。本人は毎回否定するけど、俺がヒロを「天子」と確信した時の表情だ。
 真珠の柔らかい光みたいに綺麗な表情、だけど受ける印象はどこまでも青く透明な水か緑の空気。ヒロは俺の妄想って言うけど、写真を撮って自分の顔をじっくり見せてやりたい。
 だけど、カメラなんかじゃ今のヒロを正確に写す事はできないだろう。実際にこの姿を見た奴だけが今のヒロの凄さが解るんだ。思わず手を合わせて拝んじまいそうになったけど、そんな事をしたら絶対に怒鳴られる。
 なあ、ヒロ。お前はいつも自分をただの19歳のヘタレな男って言う。それじゃ俺が今見てるモンは何なんだよ。精一杯妥協してもその顔は完全に悟りを開いた坊さんだぞ。
 何でヒロは自分で気付かないんだ? 俺がヒロを「天子」と呼ぶのは、ヒロには普通の奴が当たり前に持ってる欲がほとんど無いからでも有るって。
 誰でも表面上はともかく、本音じゃ自分がやった事分だけの見返りが欲しいと無意識に思っちまうモンだ。俺がどれだけヒロに救われてきたかなんて多すぎてとても数えきれないし、俺にとってヒロがどれだけ大きな存在か「天子」以外で言い尽くせない。
 ヒロは俺に何の見返りも期待してないとしか思えない。強いて言えば「ずっと今のまま仲の良い友達ポジションで居て欲しい」くらいか。
 「俺ら親友やろぉ」
 にぱっと笑うヒロの顔が頭に浮かぶ。将来はともかくヒロの今の望みは、俺やみんなと楽しく普通に学生生活を送る事だ。本当に普通でささやかだよな。
 あ、そういえば「彼女が欲しい」ってもの一応有ったか。うっかり忘れちまいそうになるのは、ヒロが口で言う割りに女に積極的じゃ無いからだ。あの我が儘 女(ヒロの姉さんだ)の影響だとしても、俺の努力も虚しく相変わらすエロビデオを観ては5分で寝て、エロ漫画を見せても本によだれを垂らしながら寝てしま うという特技(?)をヒロは発揮してくれる。
 脳みそクラッシュを喰らうに決まってるから未だに聞かずにいるけど、ヒロの事だから「女の子と付き合ったコト無いから彼女欲しい」なんてお子ちゃまな事を思っているんだろう。男としてそれはどこかおかしいだろと突っ込みたくなる。

 そのヒロが天子の顔で瞑想している。辛い思いをするのは俺だと言った。「話す」と言ったくせに、今になって俺にどう話そうかなんて考えてんだろう。どん なに綺麗な表情をしてても、当たるを幸い、行き当たりばったりでお子ちゃまな所は変わらない。まぁ、こういう奴だからヒロは信頼できるんだけどな。
 俺がぷっと吹き出すと、ヒロが「いきなり何やねん? 不気味なやっちゃな」と大きな目を開けて言った。
 ヒロ。出会って以来、加速度的に進んでいるその口の悪さは一体誰の影響だ? ……って、もしかしなくても俺か。

「んーっとなぁ」
 ヒロが軽く首を傾げて右手を口元に当てる。これこそマジで写真撮ってヒロに突き付けてやりたい。何でそういうポーズが違和感無く似合うんだよ。
「あ、ちょこっとタイムー」
 と言ってヒロがテーブルに置いたままだったコーラに口を付けた。目を閉じて黙っていた間の緊張感が台無しだ。力が抜けるっての。だけど、俺もいつもどおりのヒロの暢気な口調を聞いてどこかほっとしている。
 お子ちゃま天子様は側に居る人の心を軽くするのが上手い。計算してやってんじゃないから尚更だ。俺もヒロの真似をして1口ビールを呑む。凄く長く感じたけど、ビールの冷え具合からするとほとんど時間が経ってないんだな。
 ヒロはコーラのペットボトルをテーブルに置くと真っ直ぐに俺を見た。あ、話す気になったな。
「まつながー。俺、恋愛経験無いからどうしても解らんコトが有るんなぁ。まつながーにとってメッチャ嫌なコトやけど聞いてもええ?」
「覚悟済みだから何でも聞けよ。……あ、待った。セックス、下ネタ関連の「この意味判らんから教えてー」なら禁止だ。自分で勉強しろ」
 裕貴と話した後に半日も引っ張ったヒロがこんなネタを振ってくる訳ないとは思うけど、何を言い出すか全然判らないのもヒロなんだよな。
「まつながぁ、今は力が抜けるコトを言わんといてぇ。そんなんやないてぇ」
 ヒロが少しだけ顔を赤くして頬を膨らます。力が抜けるのは俺の方だっての。度々、馬鹿質問をしている自覚が一応は有るんだな。これで完全無自覚だったら俺が泣くぞ。

「まつながーが電話で美由紀さんに振られた後、1度も自分から連絡しようとせんかったのは何で?」
 何を今更な事を聞くんだよ。このお子ちゃまは。
「俺の携帯番号は美由紀に着信拒否喰らってたんだよ。ヒロには話しただろ」
「うん。ほやけど公衆電話って手も有るやろ。まつながーは美由紀さんのコトが今でも好きで、美由紀さんからの連絡をずっと待ってるやん。ほやったら1度く らい玉砕覚悟で、自分から連絡しようて全然思わんかったん? そら……家まで会いに行ってみろなんて、いくらアホな俺でも、もっと険悪になるて判るから言 わんけど」
 くそっ。思いっきりストレートに1番痛い所を突いてきたな。裕貴の入れ知恵か。……いや、違う。裕貴だったらもっと巧みに搦め手で攻めてくる。あれだけ悩んでたんだから、ヒントだけ貰ってヒロが自分で考えた結果だな。
 本当の理由を言えばこの3ヶ月間、ずっと自分の中で否定してきた事を認める事になっちまう。
 これはキツイな。俺は今にも貧乏ゆすりをしそうになる足を両手で押さえてヒロの顔を見た。
「ヒロ、悪い。その答えは……もう少しだけ待ってくれ」
「分かった」
 ヒロの大きくて綺麗な目が俺を射る。
 今更……こんな情けねえ事を、はっきり口に出して認めなきゃいけないのか。

 お互いに強く相手に依存していた俺と美由紀の関係は、毎日顔を合わせてなきゃ続かないようなモンだったって。


11.

 額を片手で押さえたまつながーが下を向いて顔を歪める。
 こんな時、俺はホンマに言葉の選び方がメッチャ下手やて思う。伊勢でも俺のうっかり発言でまつながーを泣かしてしもうた。俺はもう19や。未熟だからなんて言い訳じゃ済まん。自分の言ったコトくらい責任取れんでどうするん。
「まつながー、言いとう無かったら無理に言わんといて。ホンマに悪いコト聞いてしもて堪忍なぁ」
 俺が頭を下げると、上げる前にまつながーの手が俺の頭を押さえてきた。ほえ?
「違う。ヒロは何も悪くないから」
 少しだけ震える声が聞こえる。まつながー、泣いてへんよな。顔見られたくのうて俺の頭押さえてるんとちゃうよな。
 まつながーは俺の頭を押さえたまま何度も撫でてくる。うー、さすがに首が痛うなってきた。
「まつながぁ?」
「もう少しこのままでいさせてくれ。テーブルが邪魔で手を伸ばしてもヒロに届かないんだよ」
 ……。まつながーの精神状態は俺が想像しとったんとかなり違うっぽい。テーブルが無かったら俺はまつながーに何をされとったんやろう。
 うげーっ。嫌なモン想像してもうた。向かい合って座っといて良かったぁ。へこんどる時のまつながーってベタベタ人に触りたがるもんなぁ。俺の部屋のより大きいテーブルにマジで感謝や。

 なんて、アホなコト考えとる場合とちゃうよな。こういう時、美由紀さんや裕貴さんは何て言うてまつながーを慰めとったんやろう。脳みその足らん俺にはどうしても上手い言葉が見つけられん。自分でも嫌になるなぁ。
「そう思ってくれるだけで充分だっての」
「へ?」
 今、まつながーは何て言うたん?
「俺がつい甘えすぎて怒っても、ヒロはすぐに許してくれるだろ。嫌だと言いつつ俺から逃げたりしないだろ。ヒロが側に居てくれる事が俺にとっちゃ救いになってるんだよ。だから自分を責めるのは止めてくれ」
 俺の髪が鳥の巣になりそうなくらいくしゃくしゃに撫で回しながら、まつながーが淡々と話し続ける。口調は落ち着いとるのに、言うとる内容はメチャ地雷だらけや。まつながーのコトやから気付いてへんな。
 「それってほとんどを通り越してマジで変態や」と、ツッコミとうなるんは今は我慢する。まつながーは本音を言うとるだけなんやもんなぁ。それが判るだけに逆にタチが悪いんよな。
 まつながーの口調が微妙にズレた感じがするんは、元々裕貴さんの口調なのに、長い付き合いでまつながーに移っとるからやろうか。裕貴さんは背筋が寒うなるコトを、わざと言ってるんが判るから、俺もマジ逃げしとうなる。
 まつながーのは「アホか。日本語の使い方間違っとるで」としか言いようがない。親愛の情の表し方もでかい図体しとるくせに、親に甘える小さい子供みたいやもん。
 不器用なだけやて解っとるから、蹴りは入れても逃げる気にならんだけや。こらまた「天子様だから」なんて勘違い妄想を考えとるんやろうなぁ。なして毎回そうなるんやろう。

 気が済んだんかまつながーの手が離れる。
 「そろそろ風呂に入って寝るか」とまつながーが聞いてきたんで俺も頷く。立ち上がろうとしたら、先に立ったまつながーから軽く頭を叩かれた。何でー?
「誰が変態でガキで妄想勘違い大王だ」
 また考えとるコト全部読まれとるし。どうやら俺のわずかな仕草からまつながーには解ってしまうっぽい。マジで天子様なんはまつながーの方やないのって聞いてみたいなぁ。
 俺がテーブルを避けて布団を敷き始めると、着替えを持って風呂に入ろうとしとったまつながーが振り返った。
「ヒロ、風呂から出たらい……」
 あ。メッチャ嫌な予感。ちゅーか、絶対嫌や。まつながーが最後まで言う前に意地でも止める。
「まつながー。俺と友達続けたかったらその先言うな。いくらエアコンが効いてる部屋でも、あんな経験2回もすれば充分や。段違いでもすぐ隣に居るんやからええやろ」
 まつながーは少しだけ驚いた顔になって数回瞬きした後、ボソリと「ケチ」と言って風呂に入った。
 はぁぁー。止めれて良かった。ホンマに「一緒に寝てくれ」て言う気やったんやな。シングルのベッドと布団でどうやって一緒に寝るちゅーねん。自分の身体 のサイズ考えて言えや。想像しとうも無い。それとも、ゴキブリに顔の上通られるの覚悟で台所にベッドの布団降ろして2枚並べるんか? どれにしても俺は嫌 や。
 悪意も無い。俺が質問したコトを冗談で誤魔化そうとしとるんでも無い。正直にその時思っとるコトを口にするだけで、なしてあないに寒くて恥ずかしい男に なるん? 俺の方が泣きたいで。まつながーが口下手になったのって前に誰かに指摘されたからかもしれんなぁ。裕貴さんに聞いてみよかな。……止めとこ。逆 ツッコミを喰らうだけや。

 アカン、アカン。ぼーっとしとる時間は無い。まつながーが風呂に入っとる間にちょこっとでも考えを纏めな。
 俺が「何で美由紀さんに自分から連絡を取らなかったん?」と聞いた時のまつながーの苦悩した顔。俺の鈍い勘でも判る。まつながーはもう自分でも理由が判っとる。
 もしかして、ホンマはそれが原因でまつながーは水戸に帰れずにおるんとちゃうの? ほやったら俺は裕貴さんから言われたコトを、まつながーにどう話したらええの?
 (綺麗にしとるくせに)烏の行水のごとく素早く風呂を済ませたまつながーが風呂から出てきた。アカン、考えとるコトばれる前に俺も風呂に逃げよっと。
 「入れ替わりー」と言ってまつながーと目を合わせずに風呂に飛び込む。
 げっ。気色わるー。
 何でこういう日に限って俺は靴下履いとるん? マジでアホや。


12.

 ヒロが俺の横をすり抜けるように慌てて風呂に飛び込んで行った。
 ぶはっ。本当に滅茶苦茶解りやすい奴だな。さっきまでの天子姿はどこへやら。普段どおりにお子ちゃまのヒロだ。
 冷蔵庫で冷やしておいた水を飲んでほっと息をつく。
 裕貴と携帯で話した以降のヒロの奇行の数々。夏バテ体質のくせにクソ暑い部屋で芋虫みたいに転がるし、見え見えで無駄な作り笑いはするし、天子様としか言いようが無い姿になったかと思えば、お子ちゃまモードの上目遣いで俺を見て、凄い天然ボケをかます。
 自然体のままで俺にとって1番キツイ言葉を言うと思えば、聞いてる方が力が抜ける声で「ホンマに堪忍なぁ」と謝ってくる。日頃は俺に「もっと正直になれ」と言いつつ、「甘えさせてくれ」と態度に出せば、全身で「絶対嫌や」と返してくる。
 さっきのヒロの露骨に嫌そーな顔が頭に浮かぶ。
 わはははははっ。
 狙ってやったんじゃねーけど、やっぱりヒロの反応は一々新鮮で可愛いなぁ。
 ヒロ、お前って本当にすげえよ。俺はついさっきまで自己嫌悪でどん底に居たんだよな。それなのにヒロと顔を合わしたり、話しをするだけで、どんどん気持ちが軽くなって自然に笑えるんだ。どうしてなんだろう。
 裕貴は俺が美由紀に振られて漸く気付いたずっと前から、俺と美由紀のギリギリの関係に気付いていたと思う。「やっぱりな」と言われるのが嫌で俺は水戸に帰るのを避けていた。だけど裕貴はそれをヒロに話さなかった。というか、ヒロの方が聞きたがらなかったんだろう。
 気の許せる親友だからこそ「情けない」と俺を蹴り飛ばす裕貴。「無理をせんでもええよ」と笑ってくれるヒロ。2人共表現方法は全然違うけど、俺を応援してくれているのは判る。
 比べる事は到底できねえけど、あんなに可愛い顔をして「まつながぁ」と語尾を上げて呼ばれたら、ついふらふらとヒロに甘えちまうだろ。
 誤解されたあげくに変な突っ込みが入るのが怖くて、裕貴にだけはこの情けねー俺の姿を知られたくない。

「あ。パンツ忘れてしもうたー」
 ……一気に脱力する。
 こののんびりした雰囲気が心地良すぎて、俺は嫌な現実から逃げ回ってきた。裕貴がヒロに何を言ったのか、半分は簡単に想像できる。問題はその理由だ。あの困って迷ってる感じからしてヒロはそれも聞いているんだろう。
 ぶすったれた顔をして、ヒロが腰にバスタオルを巻いて押さえながら出てきた。狭いボロアパートだけに風呂場から台所に直結だからな。そして台所と部屋には仕切なんて上等なモンは無い。日頃パンツ1枚でうろうろしてるくせに何をやってるんだ?
 衣装ケースからパンツを出すと、ヒロが俺を睨みつけてくる。何だよ?
「まつながー、あっち向け」
「は?」
「ほやから、今からパンツ履くから向こう向いててって言ってるんや」
 おいおいおい。毎日同じ部屋に居てそれかよ。
「俺は男の裸なんか寮の集団風呂で見飽きてるっての」
「俺がまつながーに着替えるトコ見られるのが嫌なんや」
 勘弁してくれよ。バスタオルをしっかり押さえて、パンツを握りしめたまま言うなって。ヒロ、お前は日頃、俺をどういう目で見てるんだ。
「いや、だからわざわざ男の着替えなんか見ようと思わないっての」
「まつながーは微妙に変態やから何となく嫌や。さっさとあっち向けっちゅーに」
 ちょっと待て。
「誰が変態だ!? 裕貴じゃあるまいし」
「へ。裕貴さん? 何で変態ちゅーと裕貴さんが出てくるん?」
 突然裕貴の名前が出たから意味が判らないとヒロが固まる。言った俺も固まってしまった。ああ、うっかりヒロのボケにつられちまったよ。どう言い訳しよう。
 いや、言っちまったモンは仕方ねえよな。今の状態じゃ裕貴の性癖を知ってた方が、ヒロが安全かもしれない。
 俺はベッドの上で窓に向かって座り直した。とりあえず情け無い恰好をして、うるさいヒロにパンツを履かしてしまおう。後で俺への変態評価だけは絶対に撤回させてやるからな。

 しばらくしてぱたぱたと台所と部屋を行き来するヒロの足音が聞こえた。そういえば今日は帰ってきてからテレビも付けて無かったんだよな。
 目を閉じて耳をすませると虫の鳴き声が聞こえる。さすがボロアパート。窓を閉め切っても意味がねぇ。エアコン室外機のモーター音に風の流れ込む音、扇風機の音も無機質だ。その中でヒロの足音だけが、たしかにそこに人が居るんだと自己主張している。
 2人部屋の寮では当たり前だったのに、アパートに住むようになってから壁越しの音しか聞こえなかった。ヒロが期間限定同居を言い出してくれなかったら、ここまで深い付き合いにならないまま、お互いに部屋を行き来するだけの日々が続いていたんだろう。
「もう良いか」
「うん。とっくに服着たでぇ。まつながー、起きとったんやなぁ。全然動かんから座ったまま寝たんかと思って声掛けんかったー」
 (妄想と言われようが)俺の中の綺麗なイメージを、毎回自分で全部台無しにするのはヒロの特技か? 歯も磨いたし、話は明日にして今夜は寝ちまおう。


13.

「昨夜言いそびれたけど、裕貴はバイなんだよ」
 朝ご飯を食べとる時にまつながーが嫌そうに言う。ばいって何? パチンコや麻雀とかの賭け事の用語かなぁ。そう思って聞いてみたら、まつながーは両手で頭を抱えてテーブルに突っ伏した。
「ヒロ、お前なぁ」
 まつながーはそのままの体勢で大きな溜息をつきながらぐぐもった声を出す。何かメッチャいやーな予感するなぁ。
「何?」
「バイセクシャルと言ったらヒロでも解るか?」
 ばいせくしゃる? えーっと、たしか……。
「えーっ! 裕貴さんてそういう趣味の人なん?」
 うーっ。どうりでまつながーや俺と話しとる時、内容の方向性がどんどん気色悪うなるハズや。あの背筋ゾクゾクもそれが原因やったんやな。
 あれ? まつながーってやっとるコトは変態もどきなのに、メッチャホモ嫌いよなぁ。俺がちらっとまつながーの顔を見ると、俺の考えとるコトを判ったっぽい。まつながーは眉間に皺を寄せながら言うた。
「俺は裕貴の好みから外れまくってるから安全圏なんだ。だけど、逃げ場の無い寮の部屋で、何回も男3人の修羅場に巻き込まれたらホモ嫌いにもなるっての。 それと、ヒロはモロに裕貴の好みのタイプなんだよ。ヒロを危ない目に遭わしたくなかったから、今までずっと裕貴の話題は避けてたんだ。ネタバレはこれで終 わりだ。これからヒロは裕貴と1対1で話す機会が多いだろ。先に警告しといたからな。後は自力で何とかしろよ」
「えーっ」
 そない大変なコトを今になって言われても、マジで困るっちゅーねん。美由紀さんのコトが有るから裕貴さんから逃げる訳にいかん。昨夜の雰囲気からすると、今のまつながーの前では到底話せる話題とちゃう。どないしよう。
 俺がよっぼど情け無い顔をしてたんか、まつながーが笑って俺に痛くないデコピンをしてきた。
「心配するなって。ヤバイ話になりそうになったら俺を呼べよ。すぐに飛んで行って裕貴を怒ってやるから。これは俺自身の問題だ。巻き込まれたヒロを盾にして裕貴から逃げ回る気は無い。ヒロがその気になったらいつでも話してくれよ」
 あれ? まつながー、ちょこっと、ううん。メッチャ変わった?
 「まつ……」と言い掛けたところで俺の携帯が鳴った。表示を見たら噂をすればの裕貴さんやー。

『やあ、おはよー。酒ちゃん』
「おはよー。裕貴さん」
 夏休みの朝なのに毎日元気な人やなぁ。
『あれ? 声に元気が無いな。その口調からして健から何か吹き込まれたな。何を言ったかは酒ちゃんの反応からして想像付くぞ』
 俺がもそもそと返事したから1発でばれてしもうた。裕貴さんてホンマにメッチャ勘のええ人やなぁ。口下手のまつながーとずっと一緒に居ったからかも。
「今、朝ご飯の途中やったん。悪いんやけど後5分待って貰えん? 俺の方から掛け直すから」
『ああ、食事中だったのか。悪かった。15分後に俺から掛け直すよ』
 そう言って裕貴さんは電話を切った。5分て言うたのに15分て、片付けの時間も考慮してくれたんや。裕貴さんは気配りの上手い人やなぁ。これくらい普通 にできんと気の短いまつながーと上手く付き合っていけんのかも。俺はトロイからまつながーを怒らしてばっかりやもんなぁ。
 俺が携帯を見ながらぼーっと考えとったら、まつながーからメチャ痛いデコピンされた。
「自分なんかって思うのは止めろといつも言ってるだろ。少しは自信持てっての」
 まつながーにも考えとるコト完全に読まれとるし。俺ってホンマに単純すぎやな。
 って。あだだだだ。連続デコピンが飛んで来た。
「本当に分かってねえな。自分の美徳を卑下すんなっての。ヒロが裕貴みたいに策略家で腹黒になったら俺は嫌だぞ。正直で損をするのは麻雀やゲームする時だけだろ」
「そうかもしれんけど……痛っ!」
 うー、またメチャ痛いデコピンや。俺のおでこ真っ赤になっとる気がする。
「ヒロがそういう性格だから俺は安心して側に居られるんだって言ってるだろ。裕貴からも電話で少し話しただけで信用されただろ。いい加減に自覚しろよ。この馬鹿天子」
 まつながーはもう1回、今度は全然痛くないデコピンをして、空になった2人分の皿とカップを持って流し台に行った。今、まつながーに「正直で素直なところが好きだ」て言われた気がするんは俺の図々しい勘違い?
「まつながぁ」
「これ以上聞くなよ。俺の方が恥ずかしい。裕貴と話すんだろ。茶碗と洗濯物は俺に任せてさっさと隣に行け」
 妄想大王のまつながーが「恥ずかしい」て言葉使うなや。けど、メッチャ嬉しいなぁ。信頼して貰えるってこないに元気になれるんや。
「まつながー、おおきにぃ。俺もまつながーのコトメチャ好きやでぇ」
 俺が玄関先で声を掛けると、まつながーは顔を真っ赤にして、落とし掛けたカップを慌てて持ち直した。
「はあ? ば、馬っ鹿ヤロ。いきなり何だよ」
「思ったコトをまんま言うただけやてぇ」
「……」
 わははっ。まつながーが絶句しとる。面白いなぁ。
 ああ、裕貴さんがまつながーで遊ぶと楽しすぎるて言うたんはこういう意味かも。突発的に予想外のコト言われると弱いんやな。普段が恰好つけーなだけに、あないに動揺しとるてはっきり顔に出されると楽しいかも。
 裕貴さんみたいにわざとアホのフリするんは無理やけど、こうやってたまにまつながーを驚かせるのも手やなぁ。変態の真似だけは絶対にしとうないけどな。

 俺が自分の部屋に戻って窓を開けると、裕貴さんから電話が掛かってきた。きっちり15分。律儀な人やな。窓を開けたんは暑いんも有るけど、まつながーに 隠すコトなんか無いて意思表示や。これから俺が裕貴さんと話すコトは、まつながーにとってメッチャ大事なコトや。腹を括ったっぽいまつながーがどうしても 聞きたいて言うならもう止めようとは思わん。
 俺が昨夜のまつながーとの会話をかいつまんで説明すると、裕貴さんは馬鹿受けをして大笑いをした。
『ずいぶんストレートにやったなぁ。俺は健に殴られるのが怖くてとてもできない』
 俺には裕貴さんみたいに腹芸なんてできんのやからしゃーないやん。
「そないに笑わんといてや。裕貴さんから時間制限つけられとったし、解らんコトだらけで、どないしてええんかホンマに判らんかったんやもん。まつながーには辛い思いさせてもうたけど、後悔はしとらんで」
『ふーん。その口調からして酒ちゃんは決心したみたいだな』
「うん。昨夜、まつながーと話してみて判った。まつながーが本音ではもう逃げとうないて思っとるから応援する。裕貴さんが言うたコトをまつながーに話すつもりや。話を聞いて最終的に決めるのはまつながー自身やから」
 裕貴さんは少しだけ笑う。
『大した情報も無しで俺が1週間掛けてもできなかった事を、たった1晩であっさりやっちゃうんだからなあ。参った。参りました。……酒ちゃん』
 急に裕貴さんの口調が変わった。
「へ?」
『健の事、本当に頼むよ』
「分かった」
 ホンマにまつながーって裕貴さんから大事にされとるなぁ。お互い口は悪いけどホンマに信頼しあってるんが解る。羨ましいで。
『酒ちゃん、俺が君に話せる最後の情報だ。本当は美由紀からの伝言はもう1つ有った。「もし、健君が今でもあのピアスをしてくれているのなら、やっぱり会わなきゃ駄目だと思ったの」だ。これを健に話すかどうかは、酒ちゃんに委せるよ』
「それって……」
 美由紀さんの本音は、早う謝ってまつながーとの関係を決着付けたがってたんとは違うってコト? なんて、とてもや無いけど聞けん。俺なんかじゃ想像も付かんもっと深い理由が有るんや。
 まつながーと美由紀さんをよう知っとる裕貴さんかて、「すぐに帰ってこい」としかまつながーに直接言えんかったのに俺に託してくれたんやもん。
『そういう状況なら何日掛かっても良いよ。俺も健の気持ちを大事にしたい。酒ちゃんが納得ができて、健の決心がついたなら俺に連絡をくれよ』
 裕貴さんの声が少し震えとる。顔は見えんけど泣いてるんかもしれん。裕貴さんはホンマはまつながーのコト……止めとこ。余計な詮索や。
「うん」
『で、酒ちゃん。美由紀に健を押し付けたら俺とデートしようね。絶対だぞ』
 ……。この人はぁぁ! アカン。手がぶるぶる震えてきた。
「まーつーなーがぁー!」
 俺の声と同時にまつながーが部屋に飛び込んで来て(廊下で待機しとったな)、俺の携帯をひったくると怒鳴りつけた。
「裕貴! ヒロをナンパすんじゃねえ!」
 ビンゴのツッコミや。さすが親友。良い意味でも(気色)悪い意味でも、お互いのコトよう解っとるなぁ。
 まつながーは怒鳴ってすっきりしたって顔で通話終了ボタンを押すと、俺に携帯を返してきた。
「まつながー、助けてくれておおきにー」
 マジで感謝や。ホンマに飛んで来てくれるんやもん。まつながーは俺に痛くないデコピンをしてきて「お前も男にナンパされてんじゃねーよ」と言ってきた。
「裕貴さんのノリに流されたんとちゃうでぇ。いきなり言われてビックリしたん」
 まつながーは数回瞬きをして両手を組む。
「へええ。あのナンパ成功率100パーセント野郎が失敗したのか。よっぽどヒロが隙を見せたか、裕貴に滅茶苦茶気に入られたか。それか……」
 まつながーは納得したって顔をして何度か頷く。何やねん。自分1人だけ狡いやろ。
「何でそこで止めるん?」
「裕貴の照れ隠しだ。よっぽど頼みづらい事をヒロに泣き付いたんだろ」
 ザマーミロとまつながーはにやりと笑った。
 やっぱし、まつながーと裕貴さんてホンマの親友さんよなぁ。3年間とたった4ヶ月と少し。裕貴さんがまつながーと一緒に居った時間と、俺が一緒に居る時間、とても比べられるモンとちゃう。それでも2人は俺に任せるて言うてくれた。
 この信頼を絶対に裏切ったらアカン。俺も頑張らな。これはつい人の顔色を窺って、逃げ癖が付いとるヘタレの俺自身との勝負や。


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