7.

「裕貴のくそったれ。馬鹿野郎。ど変態め。ちくしょう」
 ……。毎度のコトやけど裕貴さんの悪口やと、声がでかい上に凄い寝言やなぁ。寝相はええのに思いっきり歯ぎしりまでしとるし、勝手に自分を通り越して俺に話を振られたんがよっぽどむかつくんやな。まつながーがこない調子やから、裕貴さんに寝言のコトは言えんかった。
 まぁ、まつながーの気持ちも少しは解る。俺かて自分のコトやのにはぶられたらむかつくもんなぁ。裕貴さんが「変態」ってどういう意味やろ? 鳥肌モンのアホ言動しまくりーのまつながーが言うくらいやからよっぽどなんかな。ちゅーか、やっぱし類友?
 げっ。裕貴さんのコトを思い出したら、またいきなり寒気がしてきた。まつながーは自覚無しの甘えんぼやから、妄想としか言えんコトを平気で言うんと、時 場所おかまい無しでべたべた触られるんがメッチャ恥ずかしいんよな。ほんで、裕貴さんは声を聞いとるだけでマジで身の危険を感じるちゅーか……上手く言葉 にならんけど、本能的にヤバイ人て気がする。
 うーん。これってどういうコトなんやろ。まつながーに聞いたら、しつこく何を話したか問い質されるに決まっとるからとても聞けん。

 美由紀さんがまつながーに会いたがっとる。

 これがどういう意味か解るまで、まつながーには何も言えん。
 美由紀さんは今になってまつながーとヨリを戻したがっとるんやろうか。ほやったら何で直接まつながーに電話やメールしたらんの? まつながーは今でも美由紀さんからの連絡を待っとるっちゅーのに。
 一方的に振ってしもうたから言いにくいんかもしれんけど、1番仲のええ親友の裕貴さんを使うなんてメッチャ卑怯やんか。
 ホンマにそないな理由なら、俺は会ったコトも無い美由紀さんを嫌いになってしまいそうや。まつながーかてどれだけ好きでも美由紀さんを許せんやろう。
 ……ちょい待てや。裕貴さんはそないなコト一言も俺に言わんかった。あの真面目な声からすると絶対まつながーにとって為にならんコトとちゃう気がする。これも俺の勘やけど……。
 アカン。やっぱ憶測ばっかになって思考が泥沼になりそうや。裕貴さんの次の連絡を待とう。そしたら俺も情報不足で不安がっとるまつながーに何か話せるやろう。


 頭の上で凄い音がしたんでビックリして目が覚めたら、俺の目覚まし時計がおでこの上に乗っとった。急いで音を止めるとベッドの上から俺の顔を覗き込んどるまつながーと目が合う。ホンマに何を考えとるんや。
 ちゅーか、俺が寝てる間に何をしたん? 昨夜、俺はまつながーを起こさんようにて枕の下に時計を置いて寝たんやで。とても2度寝する気になれんから身体を起こして布団の上に座り直す。
「まつ……」
「昨夜、ヒロはいかにも「悩んでます」って顔をしてただろ。俺の寝てる間に裕貴と連絡とろうしたら嫌だからな」
 昨夜は待つと言うといてコレかい。ホンマに気が短いなぁ。いや、ツッコむトコはそことちゃう。
「そうやのうて、何で俺のおでこに目覚まし時計が乗ってるのかて聞こうとしたんや」
「夏休みなのに俺に変に気を使って時計を隠すからだ。ヒロが全然目を覚ます気配が無かったから移動させといた。というか、普通ならそこで目が覚めるだろ。本当に熟睡してる時は何をされても起きない奴だな」
「熟睡できるんはええコトやん。それはともかく、当然って顔して言うなやー。人が寝てる間にアホなコトすなって何度も言うとるやろぉ」
 はぁ。朝っぱらからなんちゅー虚しい会話や。メッチャ疲れる。
 一昨日は顔に水性ペンで落書きされとったよな(油性やのうてホンマに良かった)。裕貴さんで溜まったストレスを俺で解消すんのはマジで堪忍してやぁ。俺が先に起きて寝ぼけとる時はもっとアレやし。ホンマに手の掛かるやっちゃなぁ。
「まつながー、堪忍やてぇ。「おはよう」くらい普通に言わせてぇ」
「おはよう」
 ……真顔で言うし。この感じやと激怒モードからいじけモードに移行中やな。しゃーないなぁ。
「おはよー。俺も少ない情報で考えるのは止めて、裕貴さんからの連絡を待つコトにしたん。いきなり話振られたんやでぇ。俺から連絡するのも変やろ。まつながー、俺が約束破ると思っとるん?」
 俺が上目遣いで恨みがましい目を向けると、まつながーは両手を顎の下で組んだ恰好で少しだけ上を向く。
「ヒロを信じない理由は無い。けど、裕貴は何するか判らねーから嫌だ」
「大事な親友さんやろぉ」
「奴の性格をよく知ってるから余計だっての。何かと変な理由を付けてヒロに会いたがるに決まってる」
「およっ。まつながー、凄いなぁ。ビンゴやで。裕貴さんからまつながー抜きで会いたいて言われたってよう解ったなぁ。……あっ。しもた」
 俺がうっかり正直に答えてしまうと、まつながーは慌ててベッドから飛び起きた。
「ヒロ。お前なぁ、そういう大事な事はちゃんと俺に言えよ。裕貴に関わるなって何度も言っただろ」
「そないなコト言うても、もう関わってしもうたんやからしゃーないやん」
「駄目って言ったら駄目だっての。ヒロ、俺の目の届かない所で奴と接触するな。マジで止めてくれ。頼むから」
 まつながーは俺の両肩を掴んで凄い勢いで俺を揺さぶる。この馬鹿力ー。痛いし視界がぐるぐる回るから止めれー。この反応ってもしかして俺の勘は当たりなん?
「お願いやから待ってぇ。目が回るぅ。まつながぁ、裕貴さんてもしかしてちょっとヤバイ人?」
 手を止めたまつながーは益々怖い顔になって俺を見返してきた。あー、こらマジになっとる。
「裕貴に何を言われた?」
「何も言われとらんてぇ。けど、電話で話してて背中がゾクゾクとしたから、何やろってずっと気になっただけや」
 まつながーはほっと息をつくと俺の肩を掴んどる手を緩めてくれた。
「その天子の勘は大事にしとけ。これは俺の我が儘じゃ無いぞ。ヒロの為に言ってるんだからな」
 ……どういうこっちゃ。訳判らん。

 今日の俺のバイトシフトは昼から夜間まで。裕貴さんが電話してきても出られん可能性大やなぁ。なんて思いながら朝ご飯を食べ終わったトコで俺の携帯が鳴った。コーヒーを飲んどったまつながーが小さく肩を揺する。
 手だけで黙っとってと合図をすると、まつながーも分かったと頷いてくれた。携帯を開くとやっぱり裕貴さんからやった。この人もなにげに凄く勘のええ人やなぁ。
「はい?」
『おはよう。酒井ちゃん。朝早くから悪いね』
「おは……酒井ちゃんー?」
 俺が思わず声を上げると、まつながーがコーヒーを噴き出して、慌てて雑巾で畳を拭き始めた。まつながーも裕貴さんも、使う言葉に嫌な破壊力の有る人やなぁ。
『あはは。君に似合うと思ったんだけど嫌だったかな。それじゃ、健に対抗して「ヒロちゃん」、「さーちゃん」あ、「さーたん」の方が良いかな。待て待て「ひーたん」も捨てがたいぞ』
 この電話、今すぐに切りたいなぁ。背中に鳥肌が立ってくる。て、思ってもしゃーないよなぁ。
「装飾要らんから普通に酒井でええて」
『可愛い声してるのに結構キツイな。それじゃ親しみを込めて「酒ちゃん」て事で』
 マジで切ったろうか。けど、そないなコトしたら昨夜から疑問だらけのコトが全然解決せん。ここは我慢や。
「何の用なん? 昨夜の続きやったら部屋移るで」
『あ、近くに健が居るんだ』
「うん。今、期間限定で同居しとるん。まつながーの部屋に共同でエアコン買うたから」
「うわっ! 馬鹿ヒロ」
 それまで大人しくしとってくれたまつながーが大きな声を出した。
「へ?」
『へええー。酒ちゃーん。少しだけ健と替わって貰っても良いかな』
「へ? あ、うん」
 俺が携帯を向けると、まつながーは露骨に嫌そうな顔で受け取って携帯を耳に当てた。
『この寂しがり屋の超甘えっ子め。俺の事をどうこう言える立場か。お前もやってる事は充分変態だ』
 声がメッチャでかいから全部聞こえたで。「ぴんぽん」かける50って感じや。今度この手のボタンが100円ショップに有ったら買うてみよかな。
 昨夜も思ったけど裕貴さんてホンマにまつながーの事解っとるなぁ。変態としか言えんコト平気でやるもん。昨夜のあの言葉も絶対に深い意味があるんやろう。
「うるせー。同居は夏バテを起こしたヒロから言い出したんだっての。布団は別々だからな」
 当たり前や。堪忍して。真顔で気色の悪いコト言うなや。ちゅーか、この2人が話し出すと何で毎回そういう内容になるんか、そっちの方が俺は不思議やで。
『しっかり喜んでるくせに素直じゃねー。たまたま隣に住んでた酒ちゃんが理解ある奴で良かったな』
「変態のお前と一緒にするなっての」
 裕貴さんもわざと俺にも聞こえるようにでかい声で、まつながーを煽って遊んどるし。うーっ。切れたまつながーが俺の携帯を投げて壊しませんように。
『健で遊ぶのは楽しすぎるから後にする。酒ちゃんに携帯を返してやってくれ。先に言っておくけど間違えたふりして切るなよ』
 怒ったまつながーがオフボタンを押そうとした時に、裕貴さんのツッコミが入った。ええ漫才コンビやなぁ。タイミングはぴったしやし、まつながーが面白い くらい裕貴さんの良いように遊ばれとる。大学でのまつながーしか知らん人が、今のまつながーを見たらびっくりするやろなぁ。
 まつながーが携帯を返してくれたんで俺は立ち上がった。外で話すと合図を送ったら、まつながーはノートの切れ端に殴り書きをして回してきた。
『裕貴の軽いノリに乗せられるな。あくまで自分のペースでいけよ。でないと痛くもない腹を探られたり、気付かない内に裕貴に操られるぞ』
 親友さん相手に凄い評価やなぁ。けど、まつながーの言うコトも当たっとる気がする。うっかり期間限定同居のコトまで話してしもうたもんな。こら、俺もそうとう気を引き締めんと、知りたいコトを教えて貰わんまま、こっちのコトだけべらべら話してまいそうや。
 俺が黙って頷くと、まつながーは頑張れと親指を立ててきた。信じてくれておおきに。

 自分の部屋に戻ってまつながーの部屋とは反対側の壁にもたれて座る。まだ午前中やし窓は開けん方がええやろ。中途半端に声が聞こえたら、心配性のまつながーが聞き耳立てようとして物干し台から落ちる。
「待たせてしもうて堪忍な。部屋移ったで。まつながーに聞かれる心配は無いから安心してや」
『良かった。今、時間は大丈夫?』
 いきなり口調が変わりおったな。裕貴さんを要注意人物とマークしとる俺に懐柔策は効かんで。
「今日は午前中なら大丈夫や。昨夜言うたコト、ちゃんと俺にも解るように話してくれるんやろうな? まつながーにはまだ何も話しとらん。下手なコト言ってこれ以上混乱させとうないんや」
 携帯の向こう側で小さく笑う声が聞こえる。
『なるほど。君はストレートで良いな。裏も無いみたいだし、人見知りと恰好付けの激しい健が酒ちゃんには甘えてしまう訳だ』
「おだてても何も出んで」
『酒ちゃん、お互いに腹の探り合いや喧嘩腰は止めよう。健がとても信頼してるし、話していて俺もそう思うから酒ちゃんを信じる。本当に時間が無いんだ。俺は夏休みが終わる前に決着を付けたい。その為にも君に協力して欲しいんだ』
「協力?」
 俺は体育座りから胡座に足を組み直すと背を伸ばした。
『俺は今の健を動かせるのはお世辞ぬきで酒ちゃんだけと踏んでるよ。健があの調子じゃあ、この件に関しちゃ俺が出ると逆効果にしかならない』
 裕貴さんが何を言いたいんか薄々判ってきたで。ほやけどあえてとぼけてみる。
「裕貴さんは俺に何をさせたいん? できればその理由も教えて欲しいんやけど」
『健を水戸に連れて帰ってきてくれないか。美由紀が健と会いたがってるって言っただろう。今のままじゃ健も美由紀も駄目になる。ああ、これは違うな』
 裕貴さんが自分の言うたコトを否定したんで、俺も昨夜から思ってたコトを言ってみる。
「今のままやとどっちも1歩も前に進めんてコト?」
 俺が台詞を先取りすると、裕貴さんは少しだけ息を飲んで『ビンゴ』と言うた。恋愛関係は全く経験無しやし、鈍い俺の勘もそう捨てたモンや無いらしい。けど、まつながーはともかく、振った美由紀さんまで前に進めんてどういうこっちゃ。
「裕貴さん、お願いやから要点だけ簡潔に纏めて話してや。まつながーの丸秘過去話は堪忍やで。どうしても聞かなアカンコトやったら自分でまつながーに聞く」
『勝手に話すのは健に対してアンフェアだと言いたいんだな。分かった。ここ数日健を突いてみてよく解った。よっぽど俺と直接顔を会わして美由紀の話題にな りたくないらしい。あのじいさんっ子が1回忌を日帰りするわ、夏休みはバイトが忙しいと言い訳して、実家に日帰りすらしないんだからな。で、ちゃっかり伊 勢には連休を取って遊びに行っちまったと。ずっと連絡を取っていたけど、おばさんは旅行から帰ってきた健から手紙と小包が届くまで半泣き状態だったよ』
 ソコをツッコまれると俺もキツイんよなぁ。俺がもうチョイ頑張ってまつながーを……うーっ。過ぎてしもうたコトを今更言うてもしゃーない。
 目の前に有る問題に正面からぶつからんと、何の説明無しにまつながーを連れて伊勢に逃げたんは俺や。あないな情けないコトはもう2度としとうない。
「それは俺の責任やて言うたやろ。責めるんならまつながーやのうて俺にしてや。何も言わんまつながーの精神状態を知ってて、ホンマの理由も教えずに伊勢まで連れて帰ってもうたんやから」
『そうなのか? 俺はてっきり健が酒ちゃんに「1人にしないでくれ」オーラを出しまくってたんだと思ってた』
「まつながーはそれほど俺には甘えてへんで」
 あの頃はというのは黙っとく。裕貴さんに煽られる度に「お前は幾つや?」て言いとうなるアホな悪戯かましてくれるけど、あれはあれでまつながーなりの 「一方的にいじめられて悔しい」って甘えの感情表現なんやもん。「普通に口で言えや」とツッコミとうなるけど、意地っ張りのまつながーが言うハズない。
『……自分をここまで知らないのも凄いな』
「へ?」
『いや、何でもない。独り言だよ。健が東京に出て以降、成績ががた落ちした美由紀が健に別れ話をして3ヶ月近くになるだろ。あの時は美由紀も健に甘えずに1人で頑張ろうって思ったらしい。けど……』
 裕貴さんは何かを言い掛けて深い溜息をついた。あ、嫌な予感。
『「違った」と今になって俺に泣き付いてきた。「今更だけど酷い事を言ってしまったから謝りたい」って』
 予感的中や。こういうのは当たって欲しゅうなかったでぇ。うっかり携帯落としそうになって慌てて持ち直す。
「ちょ、ちょっと待ってや。ほやったら何で美由紀さんは直接まつながーに言わんの? ホンマはまつながーのコトまだ好きなんとちゃうの?」
 俺が慌てまくった声で聞くと、裕貴さんは少しだけ溜息に近い息をついた。
『酒ちゃーん。男女の問題はそんなに単純じゃないんだな。君、恋愛経験無いだろ』
 ぐっさーっ。思いっきり何かが突き刺さってきたで。俺ってそないに判りやすいん? マジで泣きそうや。
『ありゃ。図星だったか。悪かったね。さて、そんな正直な酒ちゃんに優しい裕貴くんからのプレゼントだ。ヒントその1、健と美由紀が別れたのは健が東京に 出てからわずか1ヶ月しか経ってない。ヒントその2、実は美由紀も別れ話をした次の日から、頭を冷やして健が連絡してくるのをずっと待っていた。だけど結 果はどうだった? 健の過去は聞きたくないって言っただろ。そうなら君が知っている範囲で自分で考えるしかない。今日1日頑張ってみようね。また明日電話 するよ』
 言いたいコトだけ言うて裕貴さんはあっさり電話を切ってしもうた。この人、天性のいじめっ子やー。
 うーっ。無い頭でとにかく纏めてみるか。
 1つ、まつながーが美由紀さんに振られたんはゴールデンウィーク直前やった。
 2つ、まつながーは振られたその日に1回だけ美由紀さんに電話しだけど拒否設定にされたから、それ以降はずっと美由紀さんからの連絡を待っとった。
 3つ、裕貴さんの話やと、美由紀さんもまつながーからの連絡を待っとった。うーん。これは何でやろう。裕貴さんの言い方すると、まつながーとまた付き合いたいってコトや無いみたいや。ほやったら何で今更会いたいなんて言うん? どこか俺の想像が間違っとるんかなぁ。
 4つ、裕貴さんは俺を選んでこないな大事なコトを言うてきた。ホンマに早う決着付けたいなら、まつながーに直接知らせるんが筋とちゃうの? 何で俺なん?
 5つ、……さすがにもう何も出ん。
 考えな。ホンマにマジで考えなアカン。しかもいじめっ子な裕貴さんにタイムリミットまで付けられてもうたし、「うがーっ!」て喚いて暴れたい。ほやけど、ここで俺が投げ出してもうたら、俺を信用して隣で待ってくれとるまつながーに申し訳無いやん。
 俺が部屋の中でのたうち回っとったら、茶碗を洗い終わったまつながーがさすがに心配になったらしくて様子を見に来た。
 いつもなら普通に見返せるまつながーの視線が今は痛い。


8.

 電話はとっくに終わったみたいなのに、いつまで経ってもヒロは戻ってこない。部屋に行ってみたら、荷物置き場になってる狭い畳の上をヒロはごろごろと転がっていた。
 現在のヒロはダメージレベル強大、レベルダウン10、マジックポイント0、ヒットポイント0.1って感じだ。あれだけ注意しておいたのにまともに裕貴の イジメを喰らったな。裕貴に口で勝てる奴が居たら会ってみたいと俺が思うくらいだから、直球型のヒロじゃひとたまりもない。
 ヒロは俺と目が合ってすぐに身体を起こしてにぱっと笑う。ああ、もう、俺相手に遠慮したり無理をすんなっての。気持ちに反して笑おうとするから、顔が引きつりまくってるぞ。
 サンダルを脱いで部屋に上がる。座って俺を見上げているヒロに軽くデコピンをしてみたら「まつながーのこれって全然痛くないでぇ」と、本当の笑顔を見せてくれた。この切り替えと立ち直りの早さがヒロの強さなんだよな。羨ましいかぎりだ。
「なあ、まつながぁ」
「ん?」
 少しだけトーンが違うヒロの声に俺も畳の上に座る。のんびり屋のヒロがここまで弱ってるのって、伊勢であの女(ヒロ姉)に嵌められて、俺達2人共泊まる 所が無くて途方に暮れた時以来じゃないか。裕貴の奴、何をヒロに負わせたんだよ。「待つ」と言っちまった手前、俺の方から聞きにくいだろ。
「あ、ちょっとタイム」
 自分から声を掛けておいてとはとても言えねえ。
 一旦目を伏せて表情が引き締まったヒロの大きな目が真っ直ぐ俺に向けられる。心の中を全部見透かされてるんじゃないかと思えるほど綺麗な視線だ。いきな り天子様モードかよ。たまにヒロの精神構造を分析したくなってくる。気持ちの浮き沈みが激しいとかならまだ解るけど、アクティブな受け身ってどんなんだ よ。……って、ヒロがそうなんだけどな。
 数分間、黙って俺の顔を見続けたヒロが少しだけ笑って「まつながぁ、お願いが有るんやけどええ?」と言ってきた。珍しいな。
「何だ?」
「そのまま身体全体で後ろを向いてくれん?」
「は?」
「ええから」
 お願いと言いつつ「やれ」って感じでヒロが俺の肩を片手で押してくる。でも、強引さは全然感じない。
 俺が胡座をかいたまま後ろを向くと、背中にぽこっと堅いモンが当たってきた。
 あれ? ああ、ヒロの頭か……って、ヒロがぁ?
 関西風ギャグのノリでやるならともかく、ヒロが自分から俺に触ってくるなんて滅多に無いぞ。ここ最近は俺がストレスが溜まるとヒロに触りまくってるから、逆に避けられたり逃げられたりしているんだけど。
「伊勢でなぁ」
「ん?」
「何でまつながーは寝ようとした時に、俺の背中に張り付いてきたんやろうって凄く不思議やったんなぁ。それ以外にも時場所お構いなしで俺に触ってくるから、メッチャ恥ずかしゅーて、何回そのアホ面に蹴り入れたろうかって思ったか判らん」
「ははは。……顔面にかよ」
「うん」
 即答かよ。アホ面で悪かったな。天子様、返す言葉もございません。たしかに名古屋と伊勢と鳥羽では「ついうっかり」だの「切羽詰まって」で何回もやりました。今もクソ馬鹿裕貴のせいで続いてます。反論の余地がありませんっての。
「けどなぁ。今は少しだけまつながーの気持ち解る気がするん。言葉にならんモヤモヤした気持ちって自分ではどうしてええんかホンマに判らんのよなぁ」
「うん」
 本当に珍しいな。我慢強いヒロが俺にこんな形で弱音をはくなんて。
「ほんで。信頼できる誰かがいつも側に居ってくれて、こうして直接甘えられるのって凄く安心できるんよなぁ。親がだっこしてくれた小さい頃を思い出すっちゅーか、人の体温ってホンマに気持ちええんよなぁ」
「……うん」
 ヒロの言うとおりだから俺も正直に認める。「その歳で」と言われたって安心できるモンは仕方ねーだろ。俺も背中から伝わってくるヒロの体温が心地良い。
「俺は裕貴さんの代わりにも美由紀さんの代わりにもなれへんでぇ。俺は俺や」
 おいおいおい。いきなり何を言い出すんだよ。この馬鹿天子は。
「当たり前だろ。殴るぞ」
「うん。堪忍なぁ。今のは言い間違えや」
「どう言い間違えたらそうなるんだよ。ヒロを裕貴や美由紀の代わりだなんて思った事は無いぞ。第1抱き心地が違う。ヒロは胸もケツもねーし、片手で持ち上げられるくらい細くてちっせーから……痛ぇ!」
 今、思いっきり拳で側頭部を叩きやがったな。背中に頭付けたままでよくこんな力が出せるな。身体が柔らかい上に器用な奴だ。本気で何か武道かスポーツをやれば良いのに。
 だけど、今のでヒロが俺みたいに落ち込んだから、俺の背中に頭を着けてるんじゃないって事だけは判ったぞ。何か考えてやがるな。

「まつながぁ」
「ん?」
 ヒロがここ最近じゃ珍しく俺に甘えてくれているんだ。聞ける願いならいくらでも聞くぞ。
「メッチャ暑いー。うだるぅー。喉渇いたぁ」
 ……。このヤロウ。そう来たか。
「エアコンも扇風機もない閉めきった部屋で張り付いてりゃ当然だろ。隣に戻るぞ」
 俺が振り返って襟首を掴んで持ち上げると「猫やないんやから止めれー」とヒロが暴れる。こういう時はリーチの長いモン勝ちだな。後で腕がしびれそうだが 反撃されずに済む。親父さんから護身術を習ったヒロが本気を出せば俺の手くらい簡単に外せるだろうけど、今は蹴られたり関節技を掛けられたりしない気がす る。
「ヒロ」
「何?」
「下手な芝居は止めろよ。疲れるだけだぞ」
 ヒロはシャツ越しに俺を振り返って「芝居やないんやけどなぁ」と苦笑する。無理しやがって。段々腹が立ってきたぞ。
「だったら言い方を変える。俺に何か聞きたい事が有るなら遠慮せずに聞けよ。裕貴に難題ふっかけられて困って迷ってるんだろ。俺の事なのにヒロが1人で悩 むのって変だろ。というか、俺がヒロのそんな顔を見るのが嫌だ。先に言っておくが、部屋に籠もったり外に逃げたりして俺から顔を隠したって無駄だからな。 馬鹿が付くくらい正直な性格を曲げてまで、これ以上馬鹿な事をやり続けるなっての。たしかに俺は精神面でヒロに甘えきってるけど、少しは俺にも頼ってくれ よ。俺だって伊勢から帰って以来、成長してるつもりだぞ」
「ほええ」
 間抜けな声に一気に力が抜ける。俺の手が緩むとヒロは畳の上に降りて振り返った。
「まつながー、ホンマに思ってるコトを口に出すの上手うなったなぁ。その分アホ地雷踏む確率もメチャ上がっとるけど」
「誉めてるのか、けなしてるのか、どっちだよ」
「両方や」
「正直すぎるのもそこまでくると嫌みだぞ」
 俺が拗ねて言うとヒロはにぱっと笑う。
「わざとやってるんやてぇ」
「このヤロ!」
 俺が掴み掛かろうとしたら、ヒロは素早く俺の手を避けてサンダルを引っ掛けると「戸締まり頼むなぁ」と言って俺の部屋に走って戻って行った。くそっ。瞬発力とすばしっこさじゃ小柄なヒロに全く敵わねー。

 部屋に戻ると「バイトが有るから」と、ヒロは早めの昼飯を食って出て行った。俺の今日のシフトは夕方からだし、話の途中で放り出された気分だ。レポート の続きや家事をやる気も起こらねぇ。こういう時は諸悪の根源裕貴に怒りをぶつけるに限る。とはいえアイツも昼間だけ短期のバイトを入れてるって言ってたよ な。
 ヒロまで巻き込んでやられっぱなしは悔しいから、携帯をポケットから出して裕貴にメールを送る。
『ヒロをこれ以上虐めるな。クソったれ!』
 数分もしない内にメールが返ってきた。
『いやん。健ちゃんったらかーわいい(はぁと)。やきもち? でも俺と酒ちゃん、どっちにかなぁ? この、う・わ・き・も・の』
 だーっ。滅茶苦茶気持ち悪いモン送ってきやがって。即削除だ。はぐらかされると判ってるのに、裕貴にメールなんかしなきゃ良かった。
 ヒロがうっかりでも自分で禁句にしている美由紀の名前を出したって事は、裕貴の話は美由紀がらみに決まってる。真面目で恋愛未経験のヒロを困らせるなよ。そういう話は俺に直接言えっての。
 別れた当時ならともかく、今更美由紀の話を持ち出して、裕貴はどうしようっていうんだ?
 バイトが終わってアパートに帰ると、何も知らないヒロに無邪気な顔で聞かれた。
「まつながー、昼間裕貴さんから携帯に『酒ちゃんってばホントにモテモテ』て意味不明のメールが来たでぇ。どういう意味やと思う? 忙しかったし意味判らんから返事しそびれてもうたー」
 あの野郎、どこまでもふざけた真似をしやがって。裕貴が目の前に居たら最低10発は殴っているところだ。
 そんな事を考えてたらヒロから軽く頭を叩かれた。
「そういう悪いコトばっかり考えとると、絶対に後悔するで」
 ちゃっかりヒロはお子ちゃま天子モードを継続中。嘘を言っても簡単にバレちまう。
「半日気になって仕方が無かったんだ。昼間の話の続きをしても良いか?」
「辛い思いするのはまつながーやで。それでもええてホンマに思ってくれとるなら俺も話す」
 そう言って笑うヒロの顔は、鳥羽で買った真珠みたいに綺麗だった。


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