5.

 しまったぁ。うっかりまつながーに近よりすぎとった。手の届かんトコまで逃げる寸前に、首根っこを押さえられてしもうた。
 八つ当たりで叩かれるんは我慢するから、鳥肌モンのコトだけはされませんように。最近はどういう行動に出るかで、まつながーのストレスゲージになってしもうとるんよなぁ。
「俺に電話しておいて、俺じゃ話にならないってどういう意味だよ! は? ああ!? 裕貴。てめえ、どういうつもりだ!?」
 うひゃぁ。まつながーが青筋立てて怒鳴りまくっとる。度初っぱなから怒りゲージマックスやん。さっきの続きをやっとるんかなぁ。うーっ。裕貴さんもまつながーの性格解ってるんならあんまり刺激せんといて欲しいなぁ。被害は全部俺に来るんやでぇ。
「冗談じゃねえっての。何で今すぐヒロに替わらないといけないんだよ。紹介は何度も断ってただろ。大体な、お前が1度も会った事も無いヒロに何の用だ?」
 ほえ? 俺? 裕貴さんが俺を指名って何やろ。ちゅーか、何で裕貴さんが俺のコト知っとるん?
「まつながぁ?」
「あ、馬鹿。今、声を出すな」
 まつながーが慌てて俺の口を手で塞いでくる。何でー?
『今、凄く可愛い声が聞こえた! 彼が側に居るんだろ。健、とぼけてんじゃねぇぞ。とっとと替われ。お前に用じゃねぇんだから』
 至近距離やから全部聞こえてしもうた。「凄く可愛い声」ってもしかして俺のコト? うぞぞぞっ。まつながーの妄想勘違い褒めちぎりより気色の悪いコト言うなやー。裕貴さんてまつながーの類友なん?
「絶対嫌だ。切るぞ」
 まつながーが携帯のボタンを押そうとすると、受話器の向こう側からもっと大きな声が聞こえる。
『切ったら今すぐに東京のアパートまで押しかけて、直接交渉をするぞ』
「止めろっての! 俺の事情にヒロを巻き込むなって何度も言ってるだろ。ヒロは関係無いじゃないか」
『とっくに巻き込んでるくせにばっくれてんじゃねーっ! 甘えて伊勢まで逃げた奴が言うな』
「うるさい!」
 何やてぇ? ずっと黙っとったけど我慢の限界や。俺は後ろから口を押さえとるまつながーの手を払いのけて、体勢を変えると手を出した。
「まつながー、電話替われ。俺が直接話す」
「ヒロ?」
 滅多に無い俺の命令口調にまつながーが驚いた顔をしとる。今の俺はメッチャ目付きが悪うなっとるんやろう。ホンマはこないなコト絶対しとうない。ほやけど裕貴さんの今の一言はどうしても許せん。
 電話から『やった』なんて声が聞こえた。こっちの気も知らんと勝手な人やな。メッチャむかつくでぇ。
 俺が珍しく引かなかったんで、まつながーが溜息をついて俺に携帯を渡してくれた。「おおきに」と言って受け取ったけどホンマは堪忍なぁ。裕貴さんに聞かれとう無いから声には出せん。
 俺の感情を読むのが上手いまつながーが、あっという顔をして少しだけ笑ってくれた。良かった。解ってくれたんや。こういう時はまつながーの特技って便利やなぁ。小さく深呼吸をして気持ちを切り替える。いくらまつながーの大事な親友さんかて容赦せんで。

「初めましてなんて言わんで。アンタさんがどういう人で、俺に何の用が有るんか知らん。ちゅーか、知りとうも無い。伊勢へは俺がまつながーに頼んで遊びに 来て貰ろうたんや。逃げたなんて2度と言うなや。まつながーがホンマに嫌がっとるのに、まつながーの携帯で俺とアンタさんが話すのってメッチャ変やろ。こ れで切るで」
 文句は言わさん。ちゅーか、聞きとうない。俺が一気に言い切ると、裕貴さんの慌てた声が聞こえてきた。
『ちょっと待ったーっ! 悪かった。もう2度と言わない。健にも後で謝る。健の携帯を使うのが嫌なら、掛け直すから君の携帯番号教えてくれよ。頼むよ。俺はどうしても君と話したい事が有るんだ』
 あれ? この声、さっきまでのわざとまつながーを煽る口調やトーンとちゃうで。ちゅーコトは、裕貴さんは何かホンマに大事な用が有って、俺と話したいて思うとるんやな。
 俺を知らん裕貴さんが俺にどうしても話したいコト。……当然、まつながーのコトよなぁ。まつながーといくら話してもらちがあかんから、俺にて言うてるんかな。そないに切羽詰まっとるってコトって何やろう。とにかく聞いてみな判らんよな。
「手元に書く物有る? うん。なら言うで。×××××××××××や」
『メモった。ありがとう。じゃあ、また』
「おい、ヒロ!」
 まつながーが慌てて俺を止めようとするけど後の祭りや。もう裕貴さんに言うてしもうたもん。電話を切ってまつながーに携帯を返す。あ、その顔はメッチャ怒っとるな。
「ヒロ、お前なぁ。俺がどれだけ努力して裕貴をヒロから遠ざけてきたと思ってるんだ。ずっと言わなかったけど、ここ数日、裕貴の電話の内容はヒロの携帯番号教えろばかりだったんだ。お袋にも電話して、絶対裕貴には教えるなって頼みこんでおいたんだ」
「へ?」
 ほやったら、ここ最近まつながーが電話が掛かってくる度にすぐマジ切れしてたんは……。
「ああぁ。そういやさっき、まつながーは「何度も」って言うてたなぁ」
 俺がやっと気付いて間の抜けた声を上げると、まつながーは大きな溜息をついて俺の頭を抱えてきた。心配してくれとる気持ちは嬉しいけど、こういうのはマ ジで止めれー。全身に鳥肌が立つー。まつながーの手を離さそうとするけど、馬鹿力で首を固められる。この手の技は教えなよかった。
「この無自覚お子ちゃま天子め。俺だけの問題ならとっくに裕貴を着信拒否にしてたっての。怒った裕貴がここまで来ても、外でタイマンすりゃ済む事だろ」
「そやなぁ」
 よくよく考えんでも気の短いまつながーの性格やったら、とっくにそうしとるよな。俺はてっきり何だかんだと言うても、ずっと仲の良かった親友さんを、まつながーは切りきれんのかと思っとった。
 あ。俺の携帯が鳴った。すぐに掛け直してこんかったから、裕貴さんは俺の番号を登録してたっぽいな。

 まつながーが着信音を聞いて、俺のポケットに手を突っ込んできた。気色悪いから人のケツに手を入れるなって前にも言うたやろ。しかも狙いが俺の携帯やと判っとるだけにもっと嫌や。
 親父、堪忍。
 俺は仰向けでまつながーの下にもぐり込むと、両足でまつながーの首を挟んだ。まつながーごと身体を半回転させて、両膝でまつながーの頭を畳に押さえ込んだ上に踵で踏む。
 頭を強く打ったまつながーが体勢を立て直す前に、ダッシュで部屋の外に飛び出して、俺の部屋に逃げ込むとチェーンロックを掛ける。これでまつながーは鍵が有ってもこの部屋には入れん。
 いくらまつながーでも隣から窓をぶち破るまではせんやろう。閉めきった部屋は暑くてかなわんけど、窓を開けたら落ちるとか全然考えもせんで、絶対まつながーが物干しから乗り込んで来ようとするよなぁ。想像するだけでメッチャ怖い。
 俺は今は荷物置き場になっとる部屋の隅に座ると携帯を出した。
「出るの遅うなってしもうて堪忍なぁ」
『謝らなくて良いよ。どうせ健に邪魔されたんだろう。あいつは往生際が悪いからな。それはともかく、改めて初めまして。斉藤裕貴だ。電話を受けてくれてありがとう』
「初めまして。酒井博俊や。裕貴さんが俺と何を話したいんか大体想像は付くから気にせんといて。まつながーのコトやろ?」
『……』
 この沈黙は何やろう。やっぱ、まつながーの友達だけにアホ仲間かもしれんなぁ。
『可愛い! 健の事を抜きにしても酒井君に会いたいな』
 げーっ。この人、いきなり何を言い出すん。
「メッチャ気色の悪いコト言わんといてやぁ。電話切るでー」
 これって何やろう。まつながーとは全然違う種類の気色の悪さや。こんなん初めてや。声を聞いとるだけで背中が寒気でゾクゾクしてくる。そう思っとったら裕貴さんは声を立てて笑いだした。
『酒井くんは健の好きなタイプだなぁ。気に入られるはずだよ。気性が素直で真っ直ぐだ。さっきの啖呵も気持ち良かったぞ』
 およ。声のトーンが少し変わった。裕貴さんて掴みどころの無い人やなぁ。
「そうなん? いくら腹が立ってたからて初対面の人にメッチャ嫌な態度とったなぁと思っとるんやけど。ほやけど悪いコトしたとは思わんから謝る気は無いで」
 俺が答えると裕貴さんは更に爆笑した。
『あははっ。あ、ごめん。笑って悪かった。さて、本題に入る前に酒井くんに3つ聞きたい事が有る。いいかな?』
 裕貴さんは急に凄く真面目な声になった。こっちが本性やな。毎日まつながーにわざと喧嘩を売っとったんは、裕貴さんが本気で何かに怒っとるからって気がする。ちゅーても、俺なんかの勘やから全然当てにならんけど。
「ええで」
『その1、健はブツブツ独り言を言ったり、でかい寝言を言ってないか』
 うおっ。いきなりどんぴしゃできたー。やっぱし3年間同室って伊達や無いんやなぁ。
「寝言はあまり言わんくなっとるけど(……というコトにしとこ。とてもやないけど裕貴さんには言えん)、ブツブツ独り言は言うとるで。内容は堪忍してなぁ。まつながーの許可無しで言いとうない」
 ホンマは俺が恥ずかしゅーて言いとうないからやけど、嘘やないからええやろ。
『なるほど。伊勢で健と何か有ったんだな』
「えーっ。何でそないなコトまで判るん?」
 まつながーは顔を見んでも俺の考えとるコト判るけど、ただ電話で話しとるだけなのに、裕貴さんてもっと凄い人なんとちゃう?
『滅茶苦茶素直で可愛いー。……あ、ごめん。気を悪くして切らないでくれよ。質問その2、健は触り癖って言うか、抱きつき癖が出てないか。特に無意識の時』
 ……。この質問にはマジで答えとうない。思い出しただけで鳥肌が立ってくる。
『さっかいくーん。沈黙は肯定だと受け取るけど良いかなー?』
 口調までいきなり変わるし。絶対この人は俺の反応で遊んどるな。
「その癖、出とるで。相手は……限定されとるけど」
『そうか。酒井くんが今の犠牲者か。俺も3年間やられ続けてたから、恥ずかしがらなくて良いよ。特に朝寝ぼけてる時なんか、健に何をされるか判ったもんじゃない』
 ぴんぽん。ぴんぽん。ぴんぽーん。
 手元にこの手のボタンが有ったら最低でも20回くらいは押しとるトコや。
 寝ぼけるとマジで堪忍してぇなコトをまつながーがやらかしてくれるんで、暑さで寝不足になってもええから、自分の部屋で寝ようかて何度思ったコトか。……なんて、とてもやないけどよう言わん。
『そういう状態なら本題に入れそうかな。健が君の事を意地でも俺に話したがらないんで、健の中の酒井くんポジションが正確に判らなかったんだよ。よほど信 頼されてるんだな。それと……伊勢まで健を連れて帰った君なら判ってるだろう。その癖がかなり前から出ていて、今も継続中なら健は自分でどうにもできずに そうとう煮詰まってる。健の事だから機嫌が悪いと態度にはちゃっかり出すくせに、酒井くんに何も言わないだろ』
「うん。そのとおりや。時間が経てば経つほど家に帰りづろうなるから、早う帰ったれて俺も遠回しに言うとるんやけど」
 ああ、何やぁ。俺1人が苦しんどるまつながーを、ハラハラしながら見とるんや無かったんや。何で今まで気付かんかったんやろ。裕貴さんもまつながーのコ トを、本気で心配しとるから毎日電話攻撃仕掛けてたんやん。はは。俺ってホンマにアホやなぁ。何1人で気張っとったんやろう。
 安心したんだか、気が抜けたんだかよう判らんくなってきた。何か携帯が重たく感じるなぁ。まあ、何にせよええコトや。

 バイトがメッチャ忙しゅうて身動きがとれんかったお盆期間中、まつながーは毎日窓辺に灰皿を置くと、煙草に火を付けて吸いもせずに火が消えるまでじっと見とった。アレは煙草好きやと言うとった亡くなったじいちゃんへのお供えのつもりやったんやと思う。
 まつながー、ホンマにアホやで。そないに大好きな家族なら、変に意地張らんと会いに行けばええやん。日帰りできる距離やて自分でも言うてたやん。知り合いに会うかもって、ずっとビクビクしとるなんてまつながーらしゅうないで。
 裕貴さんは電話の向こう側でゆっくりと大きな溜息をついた。
『奴の性格はよく知ってる。伊達に3年間同室だったんじゃない。健1人の問題なら俺もここまで嫌がらせめいた事をしない。それこそだまし討ちを喰らわしてでも、とっくに健を実家に放り込んでる。荒療治だがそっちの方が早いからな』
「へ?」
『最後の質問だ。健は今も左耳に黒染めの飾り彫りをした銀のピアスをしてるか』
「あ、うん。たしかに左耳にピアスしとるで」
 何で片方だけなんやろって思ったコトは何度か有るけど、まつながーに似合っとるから全然気ならんかったなぁ。
 ちょい待てよ。片耳ピアスって意味が有るって姉貴が言うてた気がする。うーっ。すぐには思い出せん。
 裕貴さんはさっきより深い溜息をついて『酒井くん、落ち着いてよく聞いてくれ』と言った。メッチャシリアスな話っぽい。一体何やろう。緊張して手の平に汗が出てきた。
『美由紀が健に会いたがっている』
「えーっ!?」

 俺の大声に反応するように、大きな音がして玄関のドアがきしみ始めた。あー。ついにまつながーの我慢の限界がきおったな。チェーンロックどころかドアごと外れそうや。壊したら弁償すんのって部屋を借りとる俺なんやろうなぁ。
「大声出してしもうて堪忍なぁ。裕貴さん、悪いんやけど続きはまた今度でええ?」
『凄い破壊音がこっちまで聞こえてる。健が切れたな。悪かった。また連絡するよ』
 俺が携帯を閉じて立ち上がって「今すぐドア開けるから離れてぇ」と言うと、まつながーはドアを殴るのは止めて大人しく玄関の前に立った。開けるんが怖いなぁ。
 チェーンロックを外すと同時にまつながーが部屋に飛び込んで来て、凄く怒った顔で俺の胸ぐらを両手で掴んできた。うーっ。やっぱりこうなるんか。
「裕貴と何を話してた?」
「今は言えん」
「ヒロ、正直に言わないとぶん殴るぞ」
「まつながーの気が済むまで殴ればええ。言えんモンは言えん」
 俺が真っ直ぐにまつながーの顔を見上げると、まつながーは握り拳を作った手を振り上げて、ぐっと堪えてすぐに手を下ろした。ホンマに殴られると思っとったのに、短気なまつながーにしては凄い忍耐力や。
 ……って。うがーっ! こっちできたかぁ。男の俺を抱きしめるなって何度も言わすなやー。痛いのよりこっちの方が、俺が嫌がると知っててわざとやっとるな。
「ヒロ、頼む」
 あれっ? あー。これは嫌がらせとちゃう。まつながーの肩が小さく震えとる。ホンマに訳が判らんくて途方に暮れとるんや。顔は見えんけど今にも泣きそうな声やん。
 抱き返すんはさすがに嫌やから、泣いとる赤ちゃんにするみたいに、何度かまつながーの背中を軽く叩く。
「まつながぁ、堪忍してなぁ。まだ俺にもよう解らんから曖昧なコト言いとうないんや。もっと裕貴さんから詳しい話を聞いたらちゃんとまつながーにも話すから。約束する。お願いやから手を離してぇ」
「本当だな?」
「まつながーの天子は嘘をつかんのやろぉ」
 半ばヤケでわざと明るく言ってみた。天子なんて俺自身は認めとらんけど、心細くなっとる今のまつながーにはこっちの方がええ気がする。
「分かった」
 まつながーは俺から離れると先に自分の部屋に戻って行く。広い背中が気落ちして丸くなっとる。こないにまつながーの落ち込みっぷりが表に出るのって、鳥羽でたまたま俺の友達に会って自己嫌悪になった時以来よなぁ。
 美由紀さんがまつながーに会いたがっとるって?
 裕貴さん、どういうコトなん? いきなりこないな大事なコトを言われても、俺もどないしてええんか全然判らん。
 俺はまつながーの後ろ姿が部屋に消えるのを見て、ちょっとだけでも頭を整理しようと、自分の部屋に座り直した。


6.

 日頃は自分を天子と呼ぶなとうるさいヒロが、初めて自分の事を天子と認めた。「嘘を言うな」と言い返そうとしたけど、ヒロの落ち着いた声を聞いている内に、どんな内容でもヒロが話してくれるなら信じられる気がした。
 根拠なんか全くねえのに自然とそう思えるんだから、本当にヒロって不思議な奴だよな。
 今夜のメニューは納豆オムライス。少しだけ焦げた醤油の臭いに釣られて、ヒロが少しだけ玄関のドアを開けると、俺の顔色を窺うように覗き込んできた。
 わははっ。ほんとーに解りやすい奴だな。俺を部屋に帰してから、もう30分近くは経ってるぞ。
 少しだけ首を傾げながら大きな目を潤ませてじっと俺の顔を見上げてくる。お子ちゃまおねだりモード全開だな。普通、19歳の男がやったら気持ち悪いだけの仕草なのに、ヒロがやると全く違和感が無くて似合っちまうのはすでに才能の領域だろう。
「まつながぁ、ご飯って俺の分も有るー?」
「有るぞ。納豆オムライスだ。後2、3分でできるから、スプーンとお茶の用意をして待っててくれよ」
 俺がわざと笑うとヒロは「……おおきに」と言いつつ露骨に嫌そうな顔をした。
 ほとんどの俺作納豆メニューをクリアしたヒロが未だに苦手なのが、納豆パスタと和風納豆トースト(何でだよ。美味いのに)、それと(チャーハンなら食うくせに)今俺が作っている納豆オムライス。これは見た目と味のギャップがどうしても駄目らしい。
 我ながら性格が悪いと思うけど、これくらいの反撃は許されるだろ。
 ヒロが俺の首を絞めた上に後頭部に蹴りを入れて、部屋に籠もってから裕貴との電話に10分。更に俺を言いくるめて部屋に籠もる事15分。
 俺はそれでなくても少ない忍耐力を使い果たして行動に移す事にした。
 つまり、そろそろ腹が減っていて、見た目に似合わずかなり食い意地の汚いヒロを「餌」で釣る。
 納豆は火を通す前に洗うから料理中は臭いでヒロにばれない。火を使う時だけ台所の窓を開けておいて、食い物の臭いでふらふらとヒロが出てくるのを料理しながら待てばいい。
 それに料理に集中している間は、裕貴とヒロが何を話してたかなんて、無駄な事を考えなくてすむ。せこいとか母親臭いとか好きに言え。
 裕貴はともかく、ヒロが俺に嘘を言うはずが無いって解ってるけど、俺自身の事なんだぞ。気になって仕方ないんだっての。
 ヒロは部屋に入って手を洗うと麦茶とコップを出して、テーブルの前に座って料理ができあがるのを待っている。多少苦手なモンでも空腹よりマシと考えたのか。
 ……いや違うな。あの顔は絶対に俺から逃げない。嘘も言わないって強い意思表示だ。ヒロはこういう奴だから、どうしても俺は「天子」と呼んでしまう。
 「できたぞ」と俺がテーブルに皿を置いて座ると、ヒロは両手を合わせて「いただきます」と言ってスプーンを手に取った。
「くっさーっ」
 薄い卵の膜から納豆の姿が見えると、ヒロが顔をしかめながら口に入れる。
「その手の文句を言うと、今度からお前の分だけケチャップ味納豆オムライスにしてやるぞ」
「げーっ。まだこの醤油味の方がええ。違和感はあるけどこれなら食えんコトはないんやもん」
 お。さすがに納豆にケチャップ(とマヨネーズ)は地雷だと気付いたらしい。好んで食う奴も居るが俺もこの2つは嫌だ。

「なあ、まつながー」
「ん?」
 オムライスを3分の2くらい食べたところでヒロが顔を上げた。
「俺が踏んだ頭、もう痛まん?」
「今でも痛かったら料理なんて作れないだろ」
「それもそうやなぁ。良かった。堪忍なぁ。咄嗟に出てたんやけど、やっぱしやりすぎやし、アカンコトしてしもうたなぁって思う」
「気にするな。次から俺がモロに喰らわなければ良いだけだろ。ヒロの技を実践で受けるのは良い訓練だと思う事にしているから」
「うん。そう言うてくれてホンマおおきにー」
 少しだけ頭を下げてヒロはまた食事に戻った。どうも話すタイミングを捜してるって感じだな。俺の方から振ってみるか。
「裕貴が何を言ったのか、俺に話してくれるのか?」
 ヒロは数回瞬きをして、スプーンを置くとゆっくり麦茶を飲んで「約束したやろぉ」と笑った。
 天子様、どれほど綺麗な笑顔で恰好を付けていても、御身の口の端にご飯粒が付いてるから全て台無しです。ていうか、自分で気付っての。ヒロらしいと言え ばらしいんだが、俺の方が気になって仕方ねぇ。ティシュで乱暴に顔を拭いてやったら「あれー?」と暢気な声を上げた。このお子ちゃまめ。力が抜けるだろ。
「おおきにー。あのなぁ。さっき裕貴さんに3つ質問されたんなぁ」
 「質問?」俺もスプーンを置き直してヒロの顔を真っ直ぐ見返した。
「うん。裕貴さん、まつながーのコト、メッチャ心配しとったでぇ」
「裕貴に「さん」付けなんかしなくて良いっての。人の弱みにつけ込んだ上に、散々煽りやがってどこが心配だ。それらしい事を言ってからにしろと言い返したいぞ」
 俺がわざと投げやりに言うと「大事な友達をそないな言い方したらアカンやろぉ」とヒロお得意の天子様突っ込みが入る。
 俺には毎回滅茶苦茶な言いようだっだが、どうやら裕貴もヒロには真面目に話したんだな。第1声でいきなり我慢強くて癒し系のヒロから喧嘩を売られて、裕 貴も少しはヒロの凄さが解ったらしい。腹を括った時のヒロは、普段ののんびりモードとギャップが激しいから、実際に会ったらびっくりするぞ。……とは言っ ても、裕貴とヒロを会わせる気なんか全く無いけどな。
「1個目はまつながーが寝言や独り言を言い続けてないかやて」
 裕貴の野郎、やっぱり知ってて3年間黙ってたのか。裕貴といいヒロといい、気付いた時に教えてくれよ。俺が恥ずかしいだろ。
「ほやから1人で不気味に壁に向かってブツブツ言い続けとるて答えといたでー」
 スプーンをくるくる回しながら、ヒロがにぱっと笑う。
「おい!」
 変な方向に捏造するなよ。裕貴が本気に取ったらどうするんだ。
「冗談やて。でも、独り言言ってるコトはホンマやからそう答えといた。内容は何も言ってへんでぇ。あないに大勘違いの妄想発言、俺の方がメッチャ恥ずかしいやろ」
 心臓が痛い。ポーカーフェイスができないから普段は丸解りなのに、天子モードのヒロは表情が独特でどこまで本気で言っているのか判らないんだよな。
「2個目は……んーっと。まつながー、高校時代は裕貴さんにベタベタ抱きついてたんやってな」
「げっ」
 悔しいけど否定できねぇ。遅刻すると起こしてくれた裕貴を、美由紀と間違えた事が度々有った。裕貴は俺と大して体格が変わらなくて、美由紀には全然似てねえってのにだ。だからって寝ぼけた時にやった事まで責任持てるか。
「まつながーは普段は無駄に恰好付けーなくせに、ホンマは1人っ子独特の甘えんぼさんやもんなぁ。俺も伊勢に帰るまですっかり騙されとったぁ」
「……」
 無駄にかよ。ヒロの柔らかくて穏やかな言葉の選び方は、刺さっても痛くは無い。だけどしっかり棘だと解るくらいの自己主張をしてる。俺の方が間がもたねぇ。ちょっとだけ外してみるか。
「裕貴にやきもちをやいてるのか」
「アホか。そない下手で寒いだけのギャグ、ツッコミする気も起こらんから止めれや」
 と言いつつ、即突っ込みありがとう。言った俺も寒すぎて鳥肌が立った。俺に裕貴の真似はできねぇな。ホモっ気が全く無いんだから当たり前か。
「悪かった。で、3つめは何だよ?」
 ヒロはコップから手を離して頬杖をついた。あ、あの顔はどうして良いのか判らないって時のだ。裕貴の野郎、ヒロに何を聞いたんだ?
「裕貴さんと話しとって、姉貴が前に言ってたコト思いだしたん。昔、ピアスは恋人同士が1セットを片方づつ付けてお守りにしてたんやって。んで、男は剣を右手で持つから左にして、女は右に付けたって……」
 俺が咄嗟に左耳を隠すと、ヒロは「今更何をやっとるん?」って顔をした。当然だよな。諦めて手を離す。ピアスに触れるだけで今もあの時の美由紀の言葉を思い出す。


「ねえ、健君。ピアスする気ない?」
「ピアス? 俺が?」
「だって健君、スポーツやってるからってアクセを嫌うでしょ。うちの学校は禁止されてないし、ピアスだったら邪魔にならないかなって」
「穴空けると手入れとかしなきゃなんねーんだろ。面倒臭い」
「あたしとペアでも嫌?」
「は?」
「右耳だけにピアスしてるクラスの子に理由を聞いたの。そしたら恋人同士の証だって。凄く良いなあって思ったの」

 美由紀の顔があまりに羨ましそうだったから、どうしても断りきれなかったんだよな。そのまま半ば強引にアクセサリーショップに連れて行かれた。
 もっと自分に似合う可愛いのを付けたかっただろうに、美由紀は気を使って、俺が恥ずかしくないようにと男でもおかしくないシンプルなやつを選んでくれたんだったよな。
 あ、すげー嫌な事まで思い出しちまった。

「だーっ。この根性無しめ。健、逃げるな!」
「んなぶっとい安全ピン向けられたら誰でも引くっての。裕貴、ちゃんと使い捨ての専用ツールも買ったからそっちで空けてくれよ」
「失敗した時が勿体無いだろ。消毒はしてあるから心配するなって。空けて治療した後にちゃんと樹脂のを入れてやるから」
「俺の身体だぞ。止めろっての」
 俺達の怒鳴り声に通りすがりの1年生達が部屋を覗き込んでくる。
「斉藤先輩、松永先輩どうしたんすか?」
「おー。丁度良いトコに来た。お前ら、こいつ押さえろ。安全ピンごときにビビって暴れるんだ」
「「はーい。松永先輩、失礼しまーす」」
「ぎゃーっ! 裕貴、止めろ。お前ら全員覚えてろー!」


 裕貴のアレは絶対に嫌がらせが入ってたな。寮の後輩共から人気が有るのを良い事に、俺の身体で遊びやがって。ピアッサーを買った意味がねーだろ。
 裕貴の大雑把な手当に耳が腐るんじゃねえかと内心ビクビクモンだったけど、ファーストピアスが良かったのか、1度も痛んだり膿もせずにあっさり俺の耳に穴は定着した。
 顔を上げるとヒロがじっと俺の顔を見ていた。裕貴の奴、余計な事をヒロに吹き込みやがったな。
「裕貴さんは俺に何も言っとらんで。まつながーが銀のピアスをしとるかって聞いてきただけや」
 俺の心を見透かすようにヒロがはっきり否定した。真珠を買った時もだけど、我が儘で苦手だと言いながらアクセサリーショップに勤めているあの女(ヒロの姉さんの事だ)から、色々知恵を付けられてるな。
「裕貴さんに聞かれたんはこれだけや。後はまつながーがドアを壊そうとしたから話せんかったん」
「本当にそれだけか? だったらあの叫び声みたいな大声は何だよ」
 俺が聞き返すとヒロは更に困ったという顔をして両手を組んだ。
「難しいんよなぁ。裕貴さんの言った言葉自体の意味は解る。けど……裕貴さんがなしてあないなコトを俺に言うたんか、どういう意図なんかがどうしても解らん。ほやからまつながーにどう言うてええんか判らんのや。お願いやからもうちょっとだけ待ってなぁ」
 あないなコト? 滅茶苦茶引っかかるぞ。
「裕貴はヒロに何て言ったんだ?」
「ほやからもうちょっと待ってって。今話したら俺の憶測ばかりになってまうんや。俺はまつながーに嘘や間違っとるコトを言いとうない。俺の勘違いで変に曲解したコトは言いとうないんや」
 嘘が下手なヒロの目が、言葉よりも雄弁に俺に真実だと伝えてくる。裕貴は俺の天子ヒロを交渉相手として選んだ。そして、ヒロもそれを受けたらしい。
「分かった。ヒロが話してくれるのを待つ」
 俺が何とか笑うとヒロも安心して笑ってくれた。


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