57.

 極地の海ゾーンのイルカやアザラシ、ラッコのブースに行くと「あ、またアホが来たー」って顔で、嬉しそうにガラス越しに声を掛けられる。お前ら完全に俺のコト舐めとるやろ。まあ、好かれとるって解るからええけど。
 ジュゴンのマイペースさはホンマにええよなぁ。あれだけ堂々と「観覧者? んなモン知らんわ。自分はご飯の方がええ」って顔される方が俺も気楽や。
 メッチャ愛想のええスナメリ水槽の前でちらっとまつながーの顔を見たら「もう慣れたから驚かねぇ」とあっさり言われてもうた。ペンギンに絡まれようが、 柵から逃げ出したペリカンに飛びかかれても(飼育係さん、マジですぐに止めてや)「ヒロだから」で済まされてまう。何か言い方が嫌やなぁ。俺がむすっとし た顔をしとったら、まつながーに痛くないデコピンをされた。
「言っただろ。自覚が無くてもお前は「天子」だって。動物達もヒロに自分をアピールしたいって気持ちが強いんだろ」
「動物達もって?」
 俺が聞くとまつながーは少しだけ照れくさそうに笑って自分を指さした。
「まつながーが今以上アホさやどすけべなトコをアピールしてどないするん?」
「誰がどすけべでアホだ」
 今度は速攻でメッチャ痛いデコピンが飛んできた。
 あー……。
 何となく解ってきた。まつながーの痛いデコピンは東京のアパートやったらモロにヘッドロックを掛けられとるトコ。さすがに人の多いトコでやったらアカンて思っとるんや。切れた時と俺の部屋ではきっちりやられたもんなぁ。
 ほんで痛くないデコピンは、感情を言葉や態度に出すのが苦手なまつながーなりの友情っつーか、親愛の情の表し方や。
 ははっ。なんやぁ。解ってしもたらメッチャ簡単なコトやん。まつながーってホンマに無駄に恰好付けやなぁ。自分の好意をアピールしたいんやったらもっと解りやす……。
 うげっ。一瞬で背筋が寒くなってもうた。まつながーが恰好付けずに意識しとらん時に出るのがアホスイッチモードってコトなんか。しかも表現方法完全間 違っとるし。まつながー、アピールなんかせんでもええ。マジですんな。んなコトわざわざせんでも、まつながーが俺のコトを親友やて思ってくれてるコトは 解っとるからもう止めれ。
 ……なんてコトを口で言っても、きっとまつながーには何のコトか解らんやろう。面倒なやっちゃなぁ。

 そろそろ全体を見終わるなぁってトコで俺の携帯が鳴った。姉貴やろか。それにしては時間が早い。
 あ、毛やんやんか。他の人らの邪魔にならん様に通路の端に寄って受話ボタンを押す。
「毛やん、どないしたん?」
『俺これから昼休憩やねん。もし酒らがまだ水族館に居るんなら、一緒に飯でも食おうと思ったんや。松永やったっけ。さっきは酒の友達に変な態度とってもうたしな』
 ああ、毛やんも緊張して変な口調しとったコトに気付いたんやな。ちゃんと俺がフォローしたんやけど、毛やんの性格やったら自分で話付けたがるよな。
「ちょい待ってー」
 携帯の通話口を押さえて、横に立って待ってくれとるまつながーに声を掛ける。
「まつながー、毛やんが良かったら一緒に昼ご飯食べよって」
「さっきの奴か」
 まつながーは両腕を組んで視線を海の方に向けた。ゆっくり瞬きをして俺に痛くないデコピンをする。
「ヒロ1人で行ってこいよ。俺はてきとーにするから。久しぶりに友達に会って気兼ね無しで話したい事も有るだろ。俺に気を使うなって」
 やっぱり断ってきたか。ここで無理に誘ってもまつながーは絶対にうんと言わん。俺も止めるて言ったら、またさっきみたいに自己嫌悪で一杯になってまうやろう。
「毛やん、待たして堪忍な。声掛けてくれておおきに。さっきのトコでええ?」
『うん。ほな待っとる』
 俺が携帯をポケットに入れると、まつながーは何も言わずに俺の頭を軽く押して、自分はさっさと背を向けて歩いて行った。ホンマに不器用なやっちゃなぁ。今はまつながーの好意に甘えさせて貰お。


58.

 振り返るとヒロの小さな背中がフードショップに入っていくのがかすかに見える。ヒロは俺に一緒に行って欲しそうな顔をしていた。だからってヒロの好意に甘えて一緒に行ったら、俺は本当にヒロのお荷物になってしまいそうで嫌だった。
 初対面の俺にまで気を使ってくれた毛利って奴も、本音じゃ俺が居ない方が気楽にヒロと話せると思っているだろう。フードショップでの奴の視線はかなり痛 かったんだよな。よほど高校時時代はヒロと仲が良かったんだろう。お前みたいに柄が悪そうな奴がヒロと友達なんてとても信じられないって顔だったもんな。
 俺の顔が薄くガラスに映る。高校卒業と同時に1度やってみたくて染めた髪は、黒に戻すのが面倒で茶色に染めっぱなしだ。床屋に行く金が勿体無くて伸ば しっぱなしのボサボサの髪が更にだらしなく見せている。飲食店でバイトをしているからと、安い所とはいえこまめに髪を切って清潔にしているヒロとは大違い だ。……いや、本当は未練がましく未だに付けているピアスを鏡で見るのが嫌だからだ。ピアスさえ外しちまえばばっさり髪も切れるのに、それすらできないで ずるずると先延ばしにしている。本当に俺って男は情けねぇな。
 全く本人は気にしていないのかと思いきや、しっかり人並みにコンプレックスを持ってるし、怒って切れたり怒鳴ったりもするのに、どうしてヒロはあんなに強く綺麗でいられるんだろう。俺の天子はどこまで高い所に昇って行けるんだろう。
 今のままじゃ離されるばかりで、一生ヒロに追い付けられないんじゃねぇかと思うくらいだ。こんな俺が堂々とヒロと親友だなんて言っても良いのか? 裕貴が今の俺を見たら「馬鹿か!」と言って2、3発はマジ蹴りを入れてくるだろうな。

 考えるのが嫌になってふっと息を吐いたら、すぐ側でガラス風鈴の軽い音がした。ミュージアムショップ? こっちの通路側にも有ったのか。他の店はぬいぐるみやグッズばかりだったのにここは雰囲気が違う。
 テナントかな。1人きりで居るとどんどん暗い考えになっちまうから、気晴らしに良いかもしれない。
 藍染めの布をくぐると若者向けのアクセサリーやグッズを売っている店だった。そう広くない店にカップルばかりが目立つ。
 ここにヒロと来ていたらかなり笑える事になっていたな。「誰が女やっちゅーねん。ちゃんと目付いとるんか」と顔を真っ赤にして怒るヒロの顔が目に浮かぶ。可愛い顔をしてんだから仕方ねぇだろって言ってもどうせ聞きやしないだろう。
 俺も毎日顔を合わせていたのに気付いたのは昨日の朝だ。自分は根っから男だって自覚も度胸も有るヒロは、自分が童顔って事以外は気付いていない。というか、あのヒロに自分が可愛いなんて自覚が有ったら逆に怖い。
 俺が肩を小さく震わせて笑っていると店員のお姉さんが「ケースからお出ししましょうか」と声を掛けてきた。ああ、俺はブレスウオッチの前で笑っていたのか。「いえ、いいです」と言い掛けて1つの時計が俺の目に入った。
 艶を消した金色の縁取りと太くて長めの鎖、白地にギリシア数字の文字盤、細い金の針の下にはアデリーペンギンの親子が黒と銀色のインクで小さく印刷され ていた。今時珍しいタイプのシンプルなデザインの懐中時計、他の時計みたいに強い配色で自己主張をしてもいないのに何故か目が離せない。
 何かに似ている。と思ったら、ヒロが大切に持っている伊勢神宮のお守りを思い出した。派手な色は全く使っていないのに、同じお守りの中でも1番気高く見えてヒロに相応しかった。
「これを……この時計を見せてください」
 い、言っちまったよ。
「はい。この懐中時計ですね」
 店員さんがにっこり笑ってガラスケースから時計を出して俺に差し出す。すっぽり手の平に収まってしまうサイズは大きすぎもせず小さすぎもせずって感じで、俺にヒロの小さな手を思い出させる。
『俺の手首は男モンの時計が似合わんのやもん。まつながーが付けてるのみたいなのやと時計で手首全部隠れてまうやん』
 ヒロは時計が嫌いじゃない。男物を手首に付けると自分の手の小ささが目立つのが嫌だと言っていた。そうならこれは有りじゃねぇのか。
「これをください」
 おいおいおい。何言ってるんだよ。俺。店員さんがにっこりと営業スマイルをする。
「はい。ご自分でお使いですか?」
「プレゼントでお願いします」
「承知しました」
 当たり前だけど渡したら持っていかれちまったよ。この貧乏性の俺が思いっきり衝動買い!?
 綺麗にラッピングをして店員さんが袋を差し出しながら「千円になります」と言った。
「は?」
「現在商品の入れ替えで時計は正札に関係無く全品千円均一なんです。このカラーは人気が有って最後の1つだったんですよ」
「はあ」
 言われるままに財布から千円札を出すと、店員さんは袋とレシートを渡してくれた。
 たった千円? この精巧な造りでか? 俺は狐につままれたみたいに紙袋を持って店を出た。
 買っちまった。マジかよ。これ、どうするんだよ。
 ヒロにあげたら喜んでくれるかな。それとも嫌な顔をされるかな。俺はガキの頃から人にあげるモンになると趣味が悪いんで有名なのに、こんなモンを買っちまってどうすんだよ。
 ぼんやりとエントランスの鯨を見ながら歩く。入る時は気付かなかったけど作り物の鯨が空を飛んでいるぞ。こんな歌詞の歌をどこかで聴いた気がする。
 手の中の紙袋をもう1度見る。どうしよう。俺が持っていても仕方がねぇ。ヒロに似合うと思って選んだんだ。ひっきりなしに目の前を行き交い流れていく人達が、まるで大水槽の魚に見えた。


59.

 俺が1人で2階のフードショップに行くと毛やんが「何や」って顔をした。まつながーも来ると思っとったんやから当然の反応やな。まつながーが言ったコト を説明したら、毛やんは我慢しきれずに「ぶはっ。顔に似合わず変な奴ー」と笑った。このメチャ正直モンめ。まつながーが居らんで良かった。
 お互いに入った大学はあーだこーだと話しながら、しっかりカレーを食べとる毛やんの隣で俺はコーラを飲む。
「ホンマに酒はそんだけでええんか?」
「うん。まつながーが待っとるから」
「そいつは自分はてきとーにするって言ったんやろ」
「まつながーのコトやからきっと何も食わずにおるやろなーって思うん。ほやったら俺もまつながーと一緒に食べようかなって」
 毛やんは切れ長の目を少しだけ大きく見開いて、ぶっとカレーを噴き出した。
「うげっ。毛やん、こっち見ながら噴くなやー」
「酒が笑わすからアカンのや」
「俺のせいとちゃうやろ」
 紙ナプキンで口元を拭いながら毛やんは苦笑する。スプーンを置いて水を飲むと少しだけ意地悪そうに笑った。あ、嫌な予感。
「何であないなコト言われたんかやっと解ってきたで。お前ら仲良すぎや。さっき職場の先輩呼ばれた時にな、レジ係なのに何で呼ばれたのかと思ってたら、「いくら元クラスメイトやからってデートの邪魔すな。野暮過ぎや」て先輩らから怒られたんや」
 今度は俺の方がコーラを噴いた。
「何やそれー?」
 毛やんもあれにはびっくりしたと笑う。かなわんなぁ。そないな風に厨房の人らから見られとったんか。うーっ。まつながーとの身長差が憎い。
「アイツが横に居たからか酒のコトを女やと思ったみたいやで。そのTシャツ、アイツんやろ。酒の好みとは思えん色と柄や」
 毛やんが俺の着てる黒いプリントTシャツをスプーンの先で指さす。毛やんとはよく遊んどったから誤魔化しきかんよなぁ。どう説明しよ。ホンマのコトは怖くてよう言えん。
「バレバレやな。今朝着替える時にまつながーと今日だけって交換してみたん。たまにはええかと思ったんやけど、やっぱ似合わんかぁ」
「ああ、アイツと交換しとったんか。どうりでや。あっちの方が酒の好みっぽかったもんな。職場の人らは酒がアイツんトコに泊まって服借りたと思っとったで」
「へ?」
 毛やんの言う意味が解らん。
「ほやから酒が昨夜アイツの家に泊まってそのままデートしとるって……ぶははははははははっ!」
 毛やん、何で馬鹿笑いしとるん? ……えーっと。まず俺が女に間違われとって、まつながーの家に泊まったと思われてて、今日もデートしとる? それってつまり……。
「うおっ! 酒、きったねー」
 脳みそが完全拒否反応起こしてもうた。あまりの気色悪さに俺は半開きになった口から、だらーっとコーラをテーブルの上に垂れ流しとった。

 テーブルの上を綺麗に片付けて俺と毛やんは3階の海が見えるテラスに移動した。
「全部誤解やって何度も言うたっちゅーねん」
「ホンマに全部間違いやって話してくれたんやろな。毛やんのいつもの悪乗りをそこでやられたら俺でも切れるで」
 俺が珍しく腕を組んで眉間に縦皺を寄せとるせいか、毛やんも「無い無い」と手を振る。
「ちゃんと説明せな俺が酒に横恋慕しとるてみんなから思われるやろ。たしかに酒は小柄な方やけど、まさか女やと思われとるなんて思ってへんかったんや」
「俺かてまつながーと一緒に居るだけで性別間違われるなんて思ってへんわい。東京じゃ全然無かったんやもん」
 まつながーが車ん中で言った俺が後悔せんのやったらってこういう意味やったんか。先に言えっちゅーねん。ここでも観光地マジックが起こるんか。
 俺がぶくっと頬を膨らましとると毛やんが大声で笑いだした。
「酒、安心したで」
「何?」
「お前みたいに正直すぎる奴は、東京でイジメに遭ったり、アイツみたいなのに引っかかって悪いコト覚えたり、すれるんやないかってみんなで心配しとった。けど、酒は全然変わってへんもんな。相変わらずマイペースでええコトや」
「この俺が大人しくイジメられる訳無いやろ。アホは完全スルーしとるわい。それにかなり引っかかる言い方やで。あいつ「みたい」なのって何? 毛やん、まつながーのコト変に誤解しとらん?」
 俺が少しだけ怒った声になると毛やんはしまったって顔をした。
「松永ってガタイはでかいし、茶髪で長髪やし、左耳に目立つピアスをしてたやろ。未成年なのに堂々と胸ポケットには煙草を入れとるし、全体的に派手で酒と全然逆のタイプやから……」
 毛やんはそこまで言って、頭を数回掻きむしると俺に頭を下げてきた。
「酒、堪忍。言いすぎた。今のは半分以上俺のひがみでやきもちや。松永は見た目いかにも女にもてそうな男だけに、大事な友達まで取られた気がして悔しいて思った。酒が家に連れてくるくらい仲良くなれる奴に、悪い奴は居らんよな。謝るから気ぃ悪くせんといてくれや」
「うん。分かったー」
 俺も毛やんのそうやってすぐに反省して頭下げれるトコ大好きやで。でもな。毛やんちょこっと誤解しとる。俺はまつながーのおかげで少しは変われたんやで。
「毛やん。俺は料理とか家事全般オカン任せで何もできんかったやろ。まつながーが隣に住んでなかった東京で餓死しとったかもしれん」
「ほえ?」
 毛やんが何のこっちゃって顔しとる。毛やんから言われるまで全然気付かんかった。まつながーも俺とは全然逆の意味で見た目でかなり損しとるんやな。よう 知らん人にはあんな風に見えるコトも有るんや。納豆のイメージが強すぎて、俺はまつながーの外見は背が高くてええ男ってコト以外は全然見てへんかった。
 俺は東京に出てからどれだけまつながーが俺を助けてくれたか毛やんに正直に話した。まつながーがホンマはお人好しで不器用で感情を表に出すのがメチャ下手だけやってコトも。
 毛やんもまつながーも俺にとっては大事な友達や。変な誤解なんかされとうない。まつながーは俺と俺の友達やからと毛やんを信じて1人で来させてくれた。毛やんにもちゃんとまつながーのコト解って貰いたい。
 話終わると毛やんは「神さんは不公平やなぁ」って言って笑った。
「酒の話からすると松永って見た目がアレで勉強もできて家事までできる、彼氏や旦那にしたい男ってコトやろ。少しは欠点が有ればええのに」
 あはは。毛やんも俺と同じ様なコト考えとる。
「毛やん。まつながーってあの顔でメッチャアホでどすけべーなんやで。たまーにあの下品な口に嫌いな檄甘なモン詰めてやろかって思うくらいや。それに……」
「ん?」
 毛やんが「何だ?」って好奇心満々の顔をしてくる。しもた。ここまで持ち上げといて、とてもやないけど今更アホスイッチ入ったまつながーは変態としか思えんなんてよう言わん。理由を言えなんて聞かれたら俺の方がマジ泣きもんや。
「あ、やっぱ止めとく」
「そこで止められたら逆に気になるやろ」
 腕時計を見て毛やんが俺の手を引っ張った。
「酒。やっぱ、俺松永に挨拶しなおしたいで。話せば面白そうな奴みたいやしな。連れてってくれんか?」
「今すぐ? ちょい待ってや。どこに居るんかまつながーに連絡とってみるから」
 俺がポケットから携帯を出すと、毛やんは笑って携帯を閉じさせた。
「酒がアイツが居るって思うトコに連れてけ」
 えー? 毛やん、言ってるコトがムチャクチャやー。

 まつながーが居そうなトコ? 毛やんから電話が入って別行動になったんはやたら人懐っこいスナメリが居る日本の海ゾーンでほとんど出口前やった。まつながーはそのまま真っ直ぐ歩いて行って、俺はUターンしてフードショップに行った。
 まつながーは毛やんに会って、俺は全然気にしとらんのに自分が伊勢に一緒に来たコトを後悔しとった。
 あないな時のまつながーが館内をもう1周観覧して時間を潰すとは思えん。変に気ぃ使いのまつながーのコトやから、俺がフードショップに入ったのを確認してからちゃっかり戻ってきて……だとしたらずっと1人で立ってても誰も不審がらんエントランスや。
 俺と毛やんがエントランスに行くと、思ったとおり鯨のオブジェの下にまつながーがぼけーっと立っとった。毛やんが「すげぇ」と小声で言う。何がやねん。
「まつながー」
「ヒ……」
 声を掛けたらまつながーがこっちを向いて、毛やんに気付くと俺の名前を呼びかけて止めた。こらまだ人見知りしとるな。
「まつながー、毛やんがまつながーに会いたいって言うたんな。ほやから連れてきたー」
「俺に?」
「うん」
 俺とまつながーが振り返ると毛やんが床にしゃがみ込んどった。ええーっ?
「毛やん、急に走って腹が痛くなったんか」
 俺が膝を付いて顔を覗き込むと、毛やんは真っ赤な顔をして必死で口と腹を押さえとる。気分が悪くなったんやろか。でもそれにしては顔色が変や。
「さ……酒、もう何も言わんでええ。よう……解ったから……ぶはっ」
 あーっ。毛やん、笑うのを必死で堪えとるんや。何でやねん。まつながーの居るトコ連れて行けって言うたの毛やんやろ。まつながーも毛やんの態度にどうしてええのか判らんで困っとる。
 毛やんはしゃがんだまま無言で(不気味に)数分間笑い続けた後、涙を拭いて立ち上がった。マジで訳判らん。
「堪忍。我慢しきれんかった。松永やったな。酒から色々話を聞いた。んで挨拶し直しに来たんや」
「あ、……ああ。わざわざどうも」
 毛やんは相変わらずストレートやなぁ。人見知りモード中とはいえ、強気のまつながーが気後れしとる。
「酒は根っからこういう奴やから松永も色々苦労しとると思う。これからも色々面倒見たってや。酒はこのまんまでもええて俺は思う。変に変わると勿体無いやろ」
「その気持ちはよく解る」
「毛やん、それってどういう意味? それにまつながーまで何で笑って頷くん?」
 俺が文句を言うとまつながーと毛やんが同時に俺の顔を見て言い切った。
「「エロビデオ観て5分で寝て(し)まう「天然お子ちゃま(ガキンチョ)」の事だ(や)」」
「2人してんなコト言うなやー」
 ぶくっと俺が頬を膨らますと、まつながーと毛やんはお互いに肩をたたき合って「お前もか」って笑い出した。何やねん? さっきは険悪な雰囲気やったのに、何でいきなり2人して意気投合しとるん?
 毛やんが腕時計を見て「ああ、もう戻らなアカン」て言うた。そうや。バイトの昼休みやったんよな。
「松永。酒はホンマにアホやからマジで頼むで。酒、次会う時は女作っとれやー」
「そういうコトは自分が作ってから言えーっ」

 毛やんは笑いながらバイト先に戻って行った。相変わらず突風みたいや。俺が毛やんの後ろ姿を見とったらまつながーが声を掛けてきた。
「ヒロ」
「何?」
「あいつ、口は悪いけど良い奴だな」
「うん。メッチャええ奴やで」
 あんまり話せんかったし何かよう判らんけど、まつながーと毛やんには通じるモンが有ったみたいや。誤解されたままやのうて良かった。
「で、何でヒロ達はいきなりエントランスに現れたんだ? てっきり携帯に連絡入れてくれると思ってた」
「ああ、それなら毛やんが俺がまつながーが居るて思うトコに連れてけって言うたから。1発でビンゴやったで」
 まつながーは少しだけ目を据わらせると「この馬鹿」とメッチャ痛いデコピンをしてきた。何でー?
「あいつがさっき馬鹿笑いした理由が判った。ヒロ、お前なぁ。少しは頭を使えよ」
「使ったから1発でまつながーが居るトコ当てられたんやろ」
「逆だ。「マジで頼む」って言われるはずだ。そういう時は1回くらいはわざと間違えるモンだろ。俺達、あいつに試されてたんだぞ」
 まつながーが何度も痛いデコピンをしてくる。何で俺がこないな目に遭わなアカンの? ……あれ。毛やんが俺らを試すってどういうコト?
 俺が涙目になりながら見上げると、まつながーは「ばーか」と言って今度は痛くないデコピンをしてきた。
「あいつは俺達が本当に仲が良いのか知りたかったんだよ。親友ならそれくらい判ってみせろって言われて本当にやるなよ。恥ずかしい奴だな」

 まつながーは少しだけ顔を赤くして、そっぽを向きながら俺に小さな紙袋を投げてきた。
「何これ?」
「ヒロにやる」
 何やろ? あっ。袋を開けると中に懐中時計が入っとった。まつながーはお土産選ぶのが苦手とか言ってたけど、メチャ綺麗な時計やん。どうしたんやろ。
「まつながー?」
「ヒロは腕時計は嫌なんだろ。時間を見るのに一々携帯出すのが面倒そうだったからたまたま見付けて買った。それならバッグにも付けられるだろ。……言って おくけど凄い安モンだぞ。掘り出しモンだと思ったからだけだからな。ここの入場料を奢って貰った礼も兼ねてんだっての。変に誤解するなよ」
 ホンマにまつながーって不器用なお人好しや。時間潰すのに俺へのプレゼントを捜してくれとったんや。でもその気持ちがメッチャ嬉しい。
「まつながー、おおきにー。気に入ったで。下手とか言ってたけど選ぶの上手いやん。大事に使わせて貰うな。……ぷっ」
「笑うな」
 まつながーが顔を真っ赤にして怒る。ここまで顔に出とったら俺かて解るで。「滅茶苦茶恥ずかしいからこれ以上この話を引っ張るな」って言いたいんやろ。
「なあ、まつながー。お昼まだやろ?」
「あ、……うん」
 話が変わってすぐにまつながーがほっとしたって顔をする。こないに思ってるコトが顔に出るのって珍しいなぁ。
「俺もなん。この近くに美味しい魚料理の店有るから食べに行こ」
「ヒロはあいつと食べたんじゃなかったのか?」
「まつながーが待ってくれてると思っとったし、俺も一緒に食べたかったからコーラだけにしといたー。ほなここを出よか」
 あははっ。まつながーが面食らって絶句しとる。なんか勝ったみたいで気分ええなぁ。なんて思っとったら、ゲートを出て階段を降りたトコで、後ろからまつながーに思いっきり蹴られた。
「くそ恥ずかしい事をあんな人の多い場所で大声で言うな。この馬鹿!」
 まつながーの理性が切れたんが、階段を降りきったトコでホンマに良かった。……と、時計を庇って歩道に顔面まで突っ伏した状態で俺は思った。歩道とはいえ道路やで。ここまでやるか?
 やっぱし俺の負けっぽい。


60.

 ヒロに連れて行かれた和食屋で腹が一杯になった。やっぱり海の側はネタが新鮮で良いな。やたらと並んでいる真珠の土産店の前を通りながらヒロがにぱっと笑う。
「まつながー、せっかくやから真珠買わんの?」
「はあ? 俺が真珠なんか買ってどうすんだよ。お袋達には伊勢でストラップを買ったからもういいぞ。それに滅茶苦茶高いだろ」
 ヒロは何が言いたいんだ? 真珠を男が持ってどうするんだよ。
「たしかに高いアコヤ貝がメインやけど、手軽で安いのが欲しかったら淡水も売っとるでぇ」
「いらねーよ」
「そうなん? 真田さんに買ってかんのー?」
 おいおいおい。勘弁してくれよ。
「何でそこでよりにもよってあの真田の名前が出るんだ?」
「俺、まつながーの学部の女の人って真田さんしか名前知らんもん。仲ええんやから何か買えばええのに」
「仲なんて全然良くねーよ。うちの口も性格も悪い学部の女共に土産を買う金なんか有るか」
「日頃そういうコトばっかし言うから、逆に真田さんらに遊ばれるんとちゃうの?」
 ぐっさりと突き刺さる事を言う奴だな。でもヒロがここまで食い下がってくるところをみると裏が有るみたいだ。
「本当は何が言いたいんだ?」
 ヒロは立ち止まって大きな目を更に大きく開くと2、3回瞬きしてにっこり笑った。
「ホンマはまつながーにとって何か記念になるモンが有るとええなって思ったん。俺には綺麗な時計買ってくれたやろ。けど、自分には何も買って無いんとちゃう?」
 そういうつもりだったのか。ヒロの気持ちは嬉しいけど、何でよりにもよって真珠なんだよ。俺が言いたい事を察したらしいヒロが鼻の頭を掻きながら言う。
「真珠はなぁ。健康と長寿のお守りなんやて。ほやから冠婚葬祭の時に身に着けるらしいで。それとな。常に持ってると感情表現が上手くなるって言われとるん よ。小さいんでええからまつながーが持つとええんやないかなーって思ったん。姉貴がアクセサリー系の店に勤めとって、やたら話すから俺まで詳しくなっても うた。まつながーが自分で買うのが嫌なら俺がプレゼントしてもええ? それとも真珠は嫌い?」
 健康に感情表現の豊さって……返す言葉がねぇ。神宮のお守りといい、俺の天子はどこまで俺に幸運を呼ぶ気なんだよ。ヒロ自身が俺の幸運のお守りみたいなモンなのに。
「男が持っても違和感がねぇアクセサリーじゃ無いなら」
 俺が何とかそれだけ答えると、ヒロは真珠みたいに綺麗な顔で笑った。

 少しだけ戻ってじっくり店の外から店内を見る。ぱっと見女にも見えるヒロと一緒に居るだけに中に入ると高いアクセサリーを店員に勧められそうで滅茶苦茶怖い。そう大した知識が無い俺でも良質の真珠は1粒でも軽く万単位するくらいは知っている。
 ヒロは店員の目を全然気にせずにガラス越しに商品を見ている。思ったより度胸の良い奴だな。さっきから店員の視線がヒロに釘付けになってるっていうの に。げっ。うっかり店員と目が合っちまった。露骨に「彼女(ヒロ)が欲しがってるんだから買ってやれ」って顔をして俺を見る。「誤解だ」と言えたらどれだ け楽だろう。ヒロが顔を上げて俺を見る。
「まつながー、やっぱ携帯ストラップくらいしか無いでー。ここの店のはいかにも女の子向けしかない」
「真珠は普通ジュエリー扱いなんだから当然だろ」
「そやなぁ」
 自分が言い出しといてヒロが暢気な口調で言う。携帯ストラップか。そういえば俺もヒロも面倒がって何も付けて無かったよな。別の店に行くと店頭でキラキラと銀色に光って動くモンが目に入った。
「「あ」」
 ヒロと俺が同時にそれに目を向ける。飾り気の無い細いチェーンの先で小さなイルカが跳ねている。そのイルカに寄り添う様に小粒で真っ白な真珠が揺れてい た。まるでさっき水族館で見たヒロとイルカ達みたいだ。イルカが真珠に戯れているっていうより、真珠がイルカを守ってるみたいに見える。俺は似合いそうも 無いけど、天子のヒロにはピッタリだ。
「このイルカってまるでまつながーみたいやな。メチャ元気に跳ねとる。まつながー、これ買ったら貰ってくれる?」
 げっ。ヒロ。まさか俺の心を読んでるんじゃねぇだろうな。いつもの天然お子ちゃま発言か、それとも天子様の慈悲なのか。かなり悩むところだぞ。
「マジで言ってるのか?」
「うん」
 無邪気な天子様の一言で淡水パールの携帯ストラップ2個を購入決定。
 ヒロとペアになっちまった。絶対に大学の連中には知られたくねぇぞ。何を言われるか判らない。というか、何を言われるか簡単に想像できちまうから尚更怖い。
 ヒロは店を出ると袋から出したチェーンをジーンズのベルトに通して時計をポケットに押し込んだ。その上携帯ストラップもすぐに付けてご満悦って顔をしている。
 期待に満ちた目を向けられて、俺もしぶしぶストラップを携帯の穴に通す。小粒だけど良質の真珠が銀メッキのイルカより輝いて見えるのは俺の気のせいか。
 店内に有った表示だと真珠には「純粋な心」という意味も有るらしい。天子でお子ちゃまなヒロにはいらねーだろ。とツッコミを入れようとしたら「淡水パールは恋愛運上昇」とまで書いてあったんだよな。お前、絶対にそっちが目当てだろ。

 駐車場に戻って車に乗り込むと、ヒロは来た道をそのまま戻らずに真っ直ぐ車を走らせた。海岸があまり無い複雑な地形が真珠を養殖したり、あわびやあさり、海草の成育、魚を獲るのにも丁度良いのだとヒロが教えてくれる。
「養殖真珠の作り方を紹介しとる真珠島にも行こうかと思ったんやけど、まつながーが嫌がりそうやから止めたん」
「何でだ?」
「若くて可愛いお姉さんらも少しは居るけど、大勢のおばちゃんらが海に潜るの見て楽しい?」
「……んなモン見たくもねぇ」
「そう言うやろうて思った。まつながーは根っからすけべやもん」
 ヒロが「ぎゃはは」と声を立てて笑う。可愛くねーぞ。俺がヒロが可愛い顔してんのに全然気付かなかったのも、1度も「ヒロが女だったら」なんて馬鹿くせえ妄想なんか抱かないのも、全部ヒロのこの性格が原因だって気がしてきた。
 にっこりならともかく歯をむき出してガキみたいににぱっと笑うし、ヒロの叫び声は大抵「うがーっ」とか「うぎゃーっ」だ。お袋さん似の童顔を気にしてわざと振る舞っているのかな。
 ちらりとヒロを横目に見たら「うんこならもうちょっとしたら展望台やから我慢してー」と返って来た。人の事を散々下品だと言いながらお前はそれかよ。こりゃ元からの性格だ。
 2人乗ってエアコンまで動かしている軽自動車のエンジンはきつい上り坂で息切れを起こしている。ヒロも「ここまでが限界やろなぁ」と言って展望台駐車場で車を停めた。
 「うんこするならあっちやで」とヒロがトイレを指さす。「うんこ、うんこ」って天子のくせにその口で連呼するなよ。小便したくても行きにくいだろ。俺がぶすったれながらトイレに足を向けるとヒロも付いてきた。
「俺もおしっこするー。覗いたら変態て呼ぶで」
 お前は幼稚園児かよ!

 展望台からの眺めは絶景だ。真っ青な海と空が繋がって見える。ヒロも潮風にあたって気持ちがよさそうだ。風になびくヒロの真っ黒な髪が太陽の光を浴びて 真珠みたいに光ってる。森でも海でも自然の風景の中にあっさりと溶け込んじまっちゃうんだな。俺の黒いプリントTシャツだけが妙に浮いて見える。やっぱり ヒロには淡い無地の綿シャツが似合うな。俺が付けちまったあんな痣さえ無かったら、もっと綺麗なヒロを見られただろう。
「あ」
 ヒロが携帯を出して顔をしかめる。何だ?
「まつながー、姉貴からメールや。もうすぐ帰るから俺らも外宮駐車場に帰れって」
「へー、へー、へー」
 俺が露骨に嫌みったらしく言うと、ヒロも携帯を閉じて何かを決意したみたいに瞳を輝かせる。
「今回ばかりはタダじゃすましたらん」
 ヒロもやる気満々らしい。


61.

 俺とまつながーは車に乗り込むとすぐに伊勢に向かった。何も知らんまつながーまで巻き込んだ姉貴の我が儘を、全部許したるほど俺はお人好しとちゃう。ま つながーも戦闘モードに入ったっぽいけど、姉貴をやるのは弟の俺やからな。姉貴の要らんプライドを思いっきり叩いたるから黙って見とれ。

 俺にしてはかなり乱暴な運転で(後でまつながーは「運転し始めの方がもっと怖かった」て言った)急いで外宮駐車場に入る。
 おっ。姉貴が1人きりで立っとる。彼氏さんは帰ったんやな。メッチャ好都合や。
 俺らが車を降りると姉貴が「遅いわ。どこまで行ってたん」と怒鳴ってきた。
「どこでもええやろ。俺らの好きにしてええと言ったんは姉貴やん。そうそう姉貴の都合に合わせて動ける訳無いやろ」
 車のキーを投げると姉貴はむっとした顔でキーを受け取って「友達と一緒やと思って生意気やなぁ」て言った。好きに言えや。
「まつながー、電車で帰ろ」
「ああ、そうだな」
 目配せで合図すると、まつながーも解ってくれたみたいで軽く頷いて姉貴に背を向ける。
「ちょっと、アンタら。どういうつもりなん?」
「もう遅いから家に帰るだけや。車は返したんやからもう姉貴は用無いやろ」
 俺が駅に向かって歩きながら振り返りもせずに答えると、姉貴は走って俺らの前に立ち塞がった。
「家まで送っていくて言うてるんやないの。博俊、どういうつもりなん? アタシがオカンに怒られるやないの」
「どうもこうも無いわい。姉貴の顔見とったらいくら女でも殴りそうやから自分の足で帰るって言うとるんが全部説明せな解らんのか? 姉貴、俺だけならまだ 我慢できる。こないに遠くまで遊びに来てくれたまつながーまで犠牲にして、オカンに内緒で恋愛したいなら勝手にせい! 俺らも姉貴に気兼ねせんと勝手にす る。オカンには黙っとってやるから、当分俺の前に顔見せんな!」
「博俊。それがこのアタシに向かって言うコトか? いくら何でも生意気過ぎや。本気で叩くで!」
 姉貴が振り上げた手を俺が避けようとしたら、まつながーが動きかけた俺の肩を受け止めて、姉貴の腕を掴み上げた。
「お姉さん。それはあまりに野暮ですよ」
「へ?」
「何なんよ?」
 まつながーがにっこり笑って姉貴に話し掛けとる。 まつながー、どないしたん? 嫌いな相手に愛想がええまつながーなんてメッチャ気色悪いで。
 姉貴の手を放るみたいに離すと、まつながーは俺の肩にしっかり手を乗せた。自分にもやらせろって言いたいんや。いくら怒ってるからって暴力だけはアカンで。俺なら姉弟喧嘩で済むけど、まつながーがやったら警察沙汰になりかねんやん。

「お姉さんは彼氏さんと1晩楽しく過ごしてきたんですよね。俺達もそうだからお姉さんが居るとはっきり言って邪魔なんです。車を貸してくれた事には礼を言いますから、このまま俺達を2人っきりで帰して貰えませんか?」
 はあ? まつながー。何を言とるん?
「どういう意味なん?」
 姉貴が訳解らんて顔で俺を見る。俺かてまつながーが何を言ってるか判らんのやからこっち見るなや。まつながーの手は痛いくらいにしっかり俺の肩を握りしめとる。何も言うなって言いたいんやろうけど、こないな状況やと参戦したくてもできんて。
「俺達は昨夜泊まる所が無かったでしょう。この時期にはそうそうホテルなんて取れませんよね。だから仕方なく飛び込みで泊まれるホテルにしたんですが……」
 まつながー、まさかラブホに泊まったなんて姉貴に言う気や無いやろな?
「待てや。まつ……うぎゃあ!」
 まつながーが俺の着とったTシャツを一気に首までたくし上げる。いくら俺が男でもこないなトコでいきなり脱がすなや。つーか、何でTシャツ着る羽目になったんか忘れたんか?
 「げっ!」と言って姉貴が2、3歩後ずさる。痣を見られた! 俺は半分パニック起こしかけた状態で必死にTシャツを元に戻す。
「博俊、アンタら……」
 姉貴が気色悪いモンを見る目で俺らを見る。うがーっ! こら完全に何が有ったか誤解されとる。
 俺が姉貴にホンマのコトを言おうとしたら、まつながーに後ろから羽交い締めにされて口まで手で塞がれた。このどアホー! 離せぇ! マジで洒落にならんっちゅーねん。
「今更恥ずかしがるなよ。ヒロは本当に照れ屋だな。お姉さん、こういう事なんでお互い昨夜からの事は口外無用で良いですね」
 姉貴はしばらく硬直しとったけど、すぐに立ち直って俺らから走って離れて行った。
「変態なんかアタシの車には乗せたらんわ。松永。アンタ2度とアタシの前に顔出さんで。博俊、ソイツと別れんかったらアンタとも縁切りやからね。伊勢に戻ってこんでもええわ!」
 捨て台詞を残して姉貴は車に乗り込むとさっさと駐車場を出て行った。まつながーが俺から手を離して腹を抱えて爆笑しだす。俺は全然笑えんちゅーのに。
「あっはっはっはっはっ。あー、マジでスッキリしたぞ。ヒロ、あの女の馬鹿っ面見たか? これだけやったら2度と俺達相手にふざけた真似しないだろうぜ」
「馬鹿はお前や!」
 俺はこれまでずっと親父の言いつけを守って我慢しとったのを完全に忘れて、まつながーの腹に手加減無しの跳び蹴りを喰らわした。


62.

 俺達が自力でヒロの家に帰るとお袋さんが「香から連絡貰ってたから晩ご飯の用意できとるよ。手を綺麗に洗ってからリビングにおいでなぁ」とマイペースな口調で迎えてくれた。
 ヒロは「うん。オカン、おおきにー。メッチャお腹空いたー」と言ってさっさと靴を脱いで廊下を進んでいく。
 あれからヒロは怒ったまま一言も話さないし俺の顔を見ようとしない。本気で怒ったヒロの強さは未だに痛む腹が証明している。
 さすがに女は殴れないから俺なりのやり方であの女の鼻っ柱を叩いてやったんだが、同時にヒロの逆鱗にまで触れてしまったらしい。ヒロ周辺の空気が静電気でビリビリ音を立てている。お袋さんとの会話を見てると俺限定だ。
 お袋さんが茶碗にご飯をよそいながらヒロと俺を見て苦笑する。
「博俊」
「んー?」
「アンタの服全然顔に似合ってへんわ。そういうのが着たかったら松永君みたいに恰好良くなってからにしい。アンタじゃ10年早いわ」
「童顔はオカン似なんやから仕方無いやろ。たまにはこういうのを着てもええやん」
「アンタの我が儘に付き合わされてキツイ服着て猫背になっとる松永君が可哀相やろ。食べたら早う風呂に入って楽になってもらい」
「分かったわい。悪かったなぁ」
 ヒロは何事も無かった様にお袋さんと会話している。この感じだとあの女も何も話してないな。俺が少し猫背になってるのはヒロに蹴られた腹が痛むからなん だけど、なにげにこのお袋さんも鋭いな。横で今日は日勤らしい親父さんも黙って俺を見ている。ヒロのフォローは期待できない状況だけに滅茶苦茶緊張する ぞ。

 風呂に入った時に見たら腹部が見事に痣になっていた。喧嘩が弱いって? 単にヒロのやる気が無いだけじゃねーのか。湯で温めるとしみて涙が出そうだ。そ ういやヒロは水族館で階段を軽く2段飛ばしで駆け上がって行ったな。長時間歩いてもあまり疲れたと言わないし、腕力は無くても脚力は有るみたいだ。
 俺が窓際で風に当たっていると風呂を済ませたヒロと目が合う。そこで露骨に俺から視線をそらすなよ。俺はヒロの向かって正座をすると両手を付いて頭を下げた。
「俺が悪かった。お願いだから許してください」
 必死の土下座だ。情け無いとか恰好悪いとかなんてどうでも良い。ヒロが俺に話し掛けてくれたり笑ってくれないのがこんなに堪えるなんて思わなかった。
「もうええ。まつながー、頭上げろや。俺も姉貴を怒鳴ってスッキリしたもん。まつながーかて1発殴りたいのを我慢してあんな反撃したんやろ。メッチャ恥ずかしかったけど、今更姉貴にどう思われてもかまわん」
 パジャマに着替えたヒロが俺の正面に座る。まだ薄く残る痣が襟元から見えて痛々しい。
「でもまだ怒ってるだろ?」
「うん」
 即答かよ。
「でもホンマにもうええん。まつながーが俺の顔色見てビクビクしとるトコを見てる方が嫌やぁ。お願いやから頭上げてぇ」
 怒ってる本人から「お願い」されてしまった。つくづく不思議な言葉を使う奴だな。俺がおそるおそる顔を上げると、ヒロはいつもの様ににぱっと笑った。

「博俊。松永君。ちょっとええか?」
 ヒロの親父さんの声だ。どうしたんだろう。ヒロが立ち上がって扉を開ける。
「親父、どないしたん? 今日も仕事で疲れとるやろ」
 親父さんは「ああ、ちょっとな」と言いながら小さな包みを持って部屋に入ってくる。俺の前に立ってぽんっと俺の肩を軽く叩いて俺を布団の上に転がした。
「うわっ!」
 ヒロに借りたパジャマの裾をたくし上げて俺の腹を見ると「ふーん」と親父さんは言った。心臓がバクバク大きな音を立てている。怖えぇ。さっきのヒロの気持ちが解っちまった。
「結構派手にやられとるな。一応、消炎剤と痛み止めは塗っとけや。明日は猫背にならんで済むやろ」
「「あっ」」
 ヒロと俺が同時に声を上げる。さすがプロ。俺の猫背の理由を一目で見抜いたのか。親父さんは俺に袋を渡すとヒロに向き直った。「げっ」と逃げだそうとするヒロの襟首を掴んで、軽々と片手で持ち上げる。俺より馬鹿力だ。
「お前の痣は大分時間が経っとるな。放っておいても明日には消えてるやろ。なぁ、松永君」
「あ、はい」
 俺が貰った薬を塗る手を止めて正座すると、親父さんはヒロを持ち上げたまま俺を見た。
「腕っ節にはかなり自信が有るみたいやけど、この手は上手くない。相手が博俊やから反撃されんかったやろうけど、正面から片手で胸ぐらを掴むと自分の腹や胸が無防備になる。相手の動きを完全に封じたい時はこうするとええ」
 そう言って親父さんはヒロの肩と二の腕を背後から掴むと同時にヒロを畳にねじ伏せて膝で背中を踏みつけた。
「うぎゃぎゃぎゃぎゃっ! 親父ー、痛い。痛い。マジ痛いっちゅーねん」
 腕を逆方向にひねられてヒロが叫び声を上げる。うわっ。あれは痛そうだ。
「何度も使うなと言ったハズよな。辛抱強く育てたつもりなのに、友達に怪我させたお前が悪い」
「ぐえーっ。親父ぃ、堪忍してぇ」
 膝で背中を押さえられたままもう一方の腕まで封じられて、ヒロが冷や汗を流しながらギブアップ宣言をする。凄い教育方針だな。俺の家のヘッドロックなんか全然目じゃない。
 親父さんはヒロを立たせると俺の方をにやっと笑って見た。
「相手が先に向かって来た時は素手でも武器を持っていても極力1回目は避けれ。まともに受けるのはアカン。相手の隙をついて自分の有利な体勢にもっていく。そうすれば自分も相手も無駄な怪我をせんで済む」
「はあ」
 ヒロが親父さんに綺麗に関節技を決められてもがいている。骨が軋む音がここまで聞こえてきそうだ。柔らかい口調に似合わずかなり厳しい親父さんだな。
 手を離して貰ったヒロは涙目になりながら、肩や腕をさすってる。痣が1つもできていないのは、やっぱりプロの技だからだろう。
「まあ、喧嘩するのも仲がええ証拠や。博俊、東京に戻ったらお前が松永くんに教えたり。蹴ったり殴ったりは洒落にならんから許さんで」
「分かった」
 ヒロが少しだけ唇を尖らせながら頷くと、親父さんは部屋から笑って出て行った。
 やっぱりヒロは自分で感情が爆発するのをセーブしていたのか。体重が軽い分、当たり負けや力負けをしても、あれだけ動けるなら相手がよほど喧嘩慣れしてる奴じゃなきゃ、本気になったヒロは1対1でそうそう負けないだろう。本当に本人に喧嘩をやる気が無いだけなんだよな。
 やろうと思えばいくらでも反撃できたはずなのに、俺の暴走を全部受け止めてくれた。ヒロ、本当にお前は強いよ。


63.

 うー。マジで関節が悲鳴あげとる。やっぱ親父にはかなわんなぁ。まつながーに怪我させてもうたんはホンマにアカンコトやったらから怒られても仕方無いけど。
「まつながー、明日は東京に帰るんよなー。そろそろ寝よかぁ」
 布団を整えて電気のスイッチに手を掛けると、まつながーも疲れとるのか「うん」と頷いた。
 電気を消して横になると背中にコツンと堅いモンが当たる感触がした。どうも背中に当たってるのはまつながーの頭っぽい。
「まつながー?」
「頼む。このまま寝せてくれ」
「このままって……寝返りうったらまつながーの頭を潰してまうやん。いくら俺がチビかて重いやろ」
「それでも良いから」
 これはアホスイッチとちゃうな。ずっと俺が引っかかってたトコや。何でまつながーは無意識になると俺に触りたがるん?
 いや、多分ちゃうな。俺だけにやのうて……まつながーにとって安心できる「誰か」にや。
 まつながーは中学時代からおじいさんや親御さんらのコトを想ってずっと突っ張ってきた。その反動が時折こんな形で現れるんやろう。感情表現がメッチャ下 手やもんな。名古屋に着いてからまつながーの変さが増したのも、多分、実家に帰れんかった罪悪感からや。ああ、もう。これって半分以上俺の責任やんか。
 俺は半ばヤケで布団の中で身体を180度回転させた。まつながーの顔が至近距離に有る。かなりびっくりしとるな。ううっ。鳥肌立ってきそうや。我慢や。俺。
「ここはいつかできる俺の彼女の指定席なんやからな。今夜だけ特別にまつながーに貸したる」
 俺はそう言うとまつながーの頭を抱き込んだ。今朝もこんな感じになったからこれで2回目やな。身長差で俺の足の先がまつながーの膝に当たる。足先が布団からはみ出しとるみたいやけど、夏やからええやろ。
「ヒロ、サンキュ」
 まつながーがほっと息をついて俺の胸にしがみついてくる。お願いやから背中に手を回すんは止めれー。まつながーはどうか知らんけど、俺はこういうのに慣れてへんのやで。
「……何か違和感が有るな」
 そうやろ。普通は男同士でこんなコトせんて。ホモ嫌いのくせにやっとるコトは充分変態や。けど、伊勢に着いてからずっとバタバタして、まつながーもホンマに疲れとるから俺も我慢しとるんや。
 およ? まつながーが何でか知らんけど俺の頭を持った。何や?
 うぎゃーっ! まつながー、何で俺がお前に抱きしめられなアカンねん。
「お。やっぱりこっちのほうがしっくりくる。ヒロは小柄だから抱きやすい」
 しっくりやないやろ。離せやボケェ。文句を言いたいけど、俺の顔面はまつながーの胸筋で塞がれとるから声が出ん。俺が逃げようとじだばたと暴れとったらまつながーの声が耳元で聞こえた。
「ヒロ、甘えすぎだって俺も解ってる。けど、今夜だけ頼む。気分を落ち着けるのに人の体温が欲しいんだ。今は俺から離れないでくれ」
 うっ。そういう言い方されたら俺かて嫌て言えんやん。まつながーのアホー。


64.

 目が覚めたら今日も快晴。俺の腕の中じゃ俺の天子が口の端からよだれを1筋垂らして寝ている。ずっと横向きになってたのが悪かったかな。でもこっちのゆるみきった顔の方が見慣れてるんだよな。
 起きろよ。ヒロ、今日は東京に帰るんだろ。
 昨日みたいに冗談で耳元に息を吹き掛けてみたら、「このどアホ!」という怒鳴り声と同時に、俺の顎に強烈なパンチが飛んできた。教訓、天子の逆鱗に触れちゃいけない。

 朝食を食べ終わると荷物を持って俺は玄関先でヒロのお袋さんに頭を下げた。
「本当にお世話になりました。ありがとうございます」
 お袋さんがのんびりした口調で笑う。
「松永君はホンマに礼儀正しいなぁ。これからも博俊をしっかり鍛えてやってなぁ」
「オカン。ホンマに拗ねるで」
 大きなバッグを担いで靴を履いたヒロがぶくっと頬を膨らますと、お袋さんはにこにこ笑って応酬する。
「アンタが暮れまでにせめて松永君の半分はしっかりできたらアタシも誉めたるわ」
「やかましいわい。見とれ。まつながーよりずっとええ男になって帰ってくるからな。毛やんとも約束しとるんやから」
「へぇ。毛利君となぁ。そら楽しみに待っとるわ。松永君、暮れは実家に帰るから無理やろうけど、また伊勢に遊びに来て今度はウチでゆっくりしてってなぁ。せっかく納豆料理のレパートリーを増やしたのに、使う時が無うて寂しいんよ」
 お袋さんがにこにこ笑って俺に話し掛けてくれる。本当なら家族だけでゆっくり話したいだろうに本当にここの家は……ああ、よく考えなくても天子の家なんだよな。居心地が良くて当然じゃないか。
「また機会が有ったらお邪魔させていただきます。……ヒロに伊勢に連れて帰る彼女ができない事を祈っててください」
「まつながー、アホぬかせ。早々に作ったるわい」
 ヒロが顔を真っ赤にして怒って、俺とお袋さんが同時に笑う。
 1晩寝たらなんか色々とスッキリした。本当に来て良かったな。

 行きと同じく名古屋駅で私鉄から新幹線に乗り換える。月曜日の昼間だからか運良く自由席も続きで取れた。ヒロは干し納豆とお茶のペットボトルが入ったバッグごと俺に放ってあくびをする。
「まつながーのせいで俺はゆっくり寝られんかったんやからな。圧死するかと思ったで。どうせ終点までやろ。着くまで寝るなぁ」
「あ、うん」
 俺には自覚が無いんだがかなり長い間ヒロを拘束していたらしい。よだれもまともに息ができなかったからだと私鉄の電車内で文句を言われた。
 背を向けたヒロが「あっ」と言って振り返る。
「まつながー」
「何だ?」
「俺もまつながーが生まれ育ったトコを見てみたい。まつながーがいつか帰ろうかなって気になった時に、俺も連れてってくれる?」
「俺の帰省に付き合ってくれる気なのか?」
「うん。まつながーが良いて言ってくれるなら行きたいん。その言い方からして連れてってくれる気なんやろ。ホンマおおきにー」
 ……。
 ヒロ。お前はどうして何も言わなくても俺の気持ちを解ってくれるんだ? 
 いつもの様ににはっと笑うと、ヒロは横を向いてすぐにすぴすぴと寝息を立て始めた。天子様は熟睡中、俺も着くまで仮眠するかな。

 窓越しの光が眠っているヒロの真っ直ぐな髪を柔らかく輝かせる。
 誰が何て言おうが、お前は伊勢の神様が遣わしてくれた俺の天子だよ。この凄い幸運に感謝しよう。
 ああ、眠てぇ。俺はヒロのバッグを抱えたままゆっくりと目を閉じた。


おわり

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