46.

「まつながー、怒りの感情を持ってへん奴なんか居らん。おめでたいて言われとる俺かて怒る時は怒るんやで」
 手首が痛い。強引にねじられて関節が完全にしびれてやがる。こいつは誰だ? 俺の知ってるヒロじゃねぇ。
「現に俺は姉貴の我が儘に切れたやろ。暴れる俺を止めてくれたんはまつながーやったのに、たった1日でもう忘れてしもたん?」
 さっきは俺のリーチが届かない所まで逃げたヒロが、今度は挑むみたいに俺に近づいてくる。普段は笑っている大きな目が今は怒りでつり上がってる。こういう顔もするヤツだったんだ。
「俺は何度もまつながーに言ってきたよな。外見だけで俺を知らん人らが勝手に勘違いしとるだけやって。俺はガキの頃からチビで童顔やったから、姉貴とか学 校でもそれをネタにからかわれ続けてきたんやで。今更そんなんに一々反応して腹立てとったら俺の神経の方がもたんわい。アホらしい」
「アホらしいって、普通は……」
「人の話は最後まで聞かんかい!」
 ヒロが俺の言葉を途中で遮った。反論どころか俺が反応する事すら許さないって感じだ。これがヒロの怒りなのか? ヒロの本当の顔なのか? 判らねーよ。ヒロ、俺にはお前が解らない。
「でもな、俺をよう知っとる人らからヘタレ言われるんはしゃーないて思うん。俺ってホンマにヘタレやもん」
 はあ? どういう事だ。話の流れが全然読めねえぞ。ヒロがヘタレってどこがだよ。いつも俺よりずっと高い所に居るくせに何を馬鹿な事言ってるんだ。
「なあ、まつながー。俺ってメッチャ弱いやろ。まつながーが1番知っとるよな。まつながーみたいに背も高くなきゃ力も無いやん。いつもぼけーとしとるから か反射神経も鈍くて、殴り合いの喧嘩で勝てたコトなんか無い。親父に教えて貰った技は、ホンマの非常時以外使用厳禁てキツク言われとるしな。あれはハッタ リ技やから1度しか使えんもん」
 あ、ヒロの親父さんは警備会社勤務だったな。そうか。あのキツイ踵踏みも重心を上手く利用した押し出しもさっきの関節技も全部親父さんの仕込みだったのか。昨日の意味がよく解らなかった会話は「ちゃんと訓練を続けている」って意味だったんだ。
「始めっから負けるて解っとる力任せの喧嘩なんかしとうない。腕力じゃどうしたって勝てんのやし、切れて両方が手を出してもうたら和解なんかできんやろ。 ほやったら頭使えばええんとちゃうの? 行き違いやましてや勘違いなら、腹が立っても感情的にならんと話し合って相手に解って貰えばええコトやろ。まつな がーはすぐ手を出すけど、腕力で相手は絶対理解してくれへんで。たまに1発は殴ってやらんと頭が冷えん奴も居るけどな。まつながー、さっきのお前のコトや で。自覚有るんか」
 一々嫌みったらしい奴だな。ああ、たしかに俺はすぐに手が出るよ。腕力で相手に言うこと聞かせようとしちまうよ。さっきもヒロを……あっ。
「1つだけ、聞いても良いか?」
「何?」
 今度は聞いてくれる気が有るらしい。凄みも無いのに怒らせると本気で怖い奴だな。冷や汗が出てくる。
「俺がヒロを締め上げた時、全く抵抗しなかったのは力じゃ俺に勝てないからだけか?」
 ヒロは今更って顔をして、少し赤くなっている自分の首を撫でた。
「俺がまつながーをメッチャ怒らせて、殴られるだけのコトしたからに決まってるやろ。理由も無いのにあないなコトされたら、俺かて玉砕覚悟で殴り返しとるわい」
 は?
「誰にも知られたないって思っとるコトを、勢いでバラされて怒らんヤツなんか居らんやろ。俺はそれをやってもうたんやから、まつながーに報復されて当然やん。たしかに身体は痛かったけど、まつながーの心の傷と比べようが無いやん」
「どういう意味だよ。ヒロ、さっきからお前が言ってる事が俺には全然解らねーよ。もっと解りやすく言ってくれ」
 俺がそう言うと、ヒロは笑ってるんだか泣いてるんだか怒ってるんだか判らない顔になった。ヒロってこんなに複雑な顔をする奴だったか?


47.

 自分がメチャ悪いコトしたって自覚が有るのに、何で俺は何も悪くないまつながーをこないにずっと責め続けとるん? 責める権利なんか始めから無いやん。アカン。怒りすぎて頭ん中がグチャクチャで判らんくなってきた。
 まつながー、いっそのコト俺を「卑怯モン」って言って殴ってや。そしたら俺の頭も冷えるかもしれん。
 自分で感情のコントロールが上手くできん。俺は何でまつながーを怒ったんやったっけ?
 ああ、そうやった。まつながーが俺のコト「天子様」って呼んで人間じゃ無いモンを見る目で見たからや。神さんでもできんコトを俺なんかにやれって言ったからやった。あないなコト言われたら我慢なんか到底できん。
 何でこうなってしもうたんや。まつながーから見た俺ってそないに人間離れしとんの? こんな意気地が無くて、弱くて、怖がりで、ホンマなら言わなアカンコトもよう言わんと笑って誤魔化すコトしかできん天子様って何や? 疫病神って言われるならまだ解るで。
 俺はただずっと問題の本質から逃げ回っとっただけ。今度こそ逃げずにちゃんとまつながーにホンマのコト言わな、俺が俺を絶対に許せん。もう逃げんて決めたんやから。

「まつながーって俺のコト、お人好しとか、人間できとるとか、メッチャ勘違いしとるやろ。ほやから天子様なんて的外れなコト言うんやろ? それな、ホンマに凄い勘違いやで」
「はあ?」
 ほら、やっぱし勘違いしとった。まつながーが何のコトだって顔しとる。お人好しはお前の方や。会ってからずっとヘタレでどうしようもない俺のコトを、他の奴らから庇ってくれて色々細かいコトまで面倒見てくれとる。
 まつながーが居ってくれんかったら、俺は東京で途方に暮れとった。いつかまつながーみたいにええ男になりたいて思って、ずっとまつながーの側に居った。
 まつながーはこんな俺に軽い口調で「ばーか」て言いながらでも親友やってくれとった。
 でもそれもこれで終わりや。
 まつながーは大切なコトを隠しとった俺を絶対許してくれん。
 「俺に解る様に」か。ほら解る訳無いよな。まつながーに何も嘘なんかついてへんけど、結果的にはずっと騙しとったコトになるんやもん。


48.

 ヒロはふっと息をつくと、真っ直ぐに俺を見上げてきた。さっきみたいな怖さは無い。ヒロ、お前一体どうしちまったんだよ。
「まつながー、きっちり話付けよ。さっきも言うたけど俺は只のヘタレや」
「んな事有るかよ。ヒロはいつだって俺の……」
 むっとした顔をしてヒロが俺の口を手の平で押さえてきた。黙って最後まで聞けって言いたいらしい。
 どうでも良いけど正面から顔面平手打ちは止めろよ。ヒロの小さい手でやられたら、状況も忘れてつい笑っちまいそうになるだろ。
 ついさっきまで殴り合いの喧嘩をしそうな雰囲気だったのに、がらりと空気が変わっちまった。今、この場の支配権はヒロのものになっちまってる。
 あんなに腹が立ってヒロを絶対に許せないと思ってたのに、今はヒロの話を聞きたいと思う。ヒロ、お前が鍵で答えだ。俺を納得させてくれよ。
「俺がまつながーの気持ちに気付いたんは、同居始めるずっと前や。だってまつながーは、美由紀さんからの電話やメールをいつも待っとるやろ。毎日顔合わして一緒にご飯食べてたり遊んどるのに気付かんハズ無いやん」
 くそっ。ずっと前からバレバレだったのかよ。ヒロは勘が良いからな。この分だと一部の学部の連中にもバレてたな。どうりで真田達に俺がヒロに甘えてるとからかわれる訳だ。
「恋愛経験が無い俺なんかでも解るコトは有る。誰かを好きやって気持ちは頭で解ってても、人に何か言われたからって、自分でどうにかできるモンとちゃう。 電気のスイッチやコンピュータのデータや無いんやもん。強引に消そうとしても消えんやろ。ほやから俺は黙ってまつながーを見とった」
 そうだ。ヒロの言うとおりだ。美由紀に「バイバイ」と言われたからって、簡単に忘れられるなら俺もこんなに引きずっていない。忘れようとあがけばあがくほど、イライラが溜まってついヒロや周囲の連中に当たってしまっていた。
「けど……。同居する様になってまつながーが何度も寝言で美由紀さんの名前を呼んで、ほんで「会いたい」て言うのを聞く度に、何で俺はまつながーの役に少しも立てんのやろってずっと悔しかったん」
 おい。それって……。
「夏休みに電話で実家に帰らないって話してるのを聞いた時も、ホンマなら横に居った俺が「そんなコト言っちゃアカン。ちゃんと親御さんに元気な顔見せたら なアカン」ってまつながーに言うのが筋やった。「四の五の言わずに言う事聞け。アホ」て、嫌がるまつながーを強引に引っ張ってでも水戸に連れて帰らなアカ ンかった。俺らが親友やって言うなら「失恋が辛いからって親に無用の心配掛けるな」って俺がちゃんとまつながーを怒らなアカンかった」
 ヒロ、お前……。
「ほやけど、俺はまつながーに本気でウザがられたり、嫌われたり、見捨てられるのが怖くて、たったそれだけの理由で本音1つも言えずにずるずると日にちだ けが過ぎていったん。俺が実家に帰るとまつながーがたった1人、あの寂しいアパートで心の奥底で泣いてるんやないかって想像するのもメッチャ嫌やった。ほ やから俺は自分の勝手な都合で、まつながーを伊勢まで連れて来てしもうた」
 俺を本気で心配してくれたからだろ。何でお前が今にも泣きそうな顔してんだよ。
「親友やのにちゃんと怒るコトもできんで。騙し続けて。こんなヘタレでどうしようも無い俺なのに、まつながーから「慈悲深い天子様」なんて言われてどうし ても我慢できんかった。まつながー、呆れたやろ。嫌いになったやろ。真面目で素直なんて只の誤魔化しやと解って俺のコト許せんやろ? 堪忍してなんてとて もやないけどよう言わん。もうまつながーは俺のコト庇わんでええ。俺の顔を見るのも嫌なら、俺がアパート別に捜して出てくから。まつながーが今すぐ東京に 帰りたいって言うなら駅まで送るから……」
 この馬鹿が。
「頼むからもう止めてくれ!」


49.

 黒くて大きな影があっという間に消えて、俺の視界は一気に明るくなった。
 え? えっ? えーっ? まつながー、コレってどういうコト?
 まつながーが膝を付いて俺の胸にしがみついとる。つーか、俺のコト羽交い締めにしとる。
「まつながー?」
「頼む。今は黙っててくれ」
「……うん」
 えーっと。俺、さっきまで自分がまつながーを騙してたって言ったんよな。まつながーは俺のコト怒ってたんよな。んじゃ今のこの状況って何?
 あっ。
 胸のトコが濡れて冷たい。まつながーの両肩が小刻みに震えとる。声を押し殺して泣いとるんや。こんなコト初めてや。プライドがメッチャ高いまつながーが、こないに人前で泣くなんて信じられん。
 どないしよう。ホンマのコト全部正直に話して、最低1発は殴られたら少しはまつながーの気持ちがスッキリすると思っとったのに、逆にまた傷付けてしもたんや。
 俺ってホンマにヘタレや。言葉1つ上手く選ぶコトもできん。まつながー、今更遅いけど堪忍してな。

 げっ。マジ? ちょっと、まつながー? まつながーっ!
「うぎゃあーっ」
 さっきぶつけて痛めた背骨がまつながーの馬鹿力で今にも折れそうや。両腕もミシミシ音立ててかなりヤバイ。まつながー、ボコボコに殴られるんは覚悟しとったけど、鯖折りは堪忍してー。
 歯が折れて顔の形が変わったり、腕1本くらい折られてもしゃーないと思っとったけど、こんな風に報復されるなんて想像外や。
 痛いなんてモンやない。腕を外させようにも全然力入らんし、まつながーの力は緩みそうもない。冷や汗がどんどんで出てきだした。
 痛みに耐えかねて俺の膝が笑いだすと、叫び声にも反応せんかったまつながーがやっと気付いてくれて、少しだけ手を緩めてくれた。骨は今も軋み音を立てとるし、腰の筋も少しやられた気もするけど、何にせよ助かった。
「に……もう俺から逃げないよな?」
「あ、うん」
 逃げんて決めて俺はまつながーに正面から向き合った。どんだけ殴られてもしゃーないて思ってたんやから、これくらいの痛み我慢せな。泣かしてもうたまつながーに逆に気を使わせるなんて駄目やん。
 あ、ヤバ。足に力が入らんくなった。まつながー堪忍。とてもやないけどまつながーどころか自分の体重すら支えきれん。
 俺が腰砕けになってくると、まつながーは俺を鯖折り状態で抱えたままベッドの端に座らしてくれて、俺の膝の上に俯いたまま頭を置いた。逃げんて言うたのに手は離してくれん。もしかして俺に泣き顔見られとうないんかな。
 何か変やで。想像しとったんと全然ちゃう。まつながー、俺のコト嫌いになったんとちゃうの?
「ま……」
「黙ってろ」
「……うん」
 アカン。俺の脳みそ許容量完全オーバーや。俺が酷いコト言ってまつながーを泣かしてしもたんとちゃうの? まつながーは何で嫌いな俺のコトを、さっきから庇ってくれとんの?


50.

 言葉が出ねぇ。ちくしょう。ヒロに言いたい事が山ほどあるのに、口が開けられねぇ。今開けたら俺の口からは嗚咽しか出てこねえだろう。
 ヒロはヘタレじゃねぇだろ。俺なんかよりずっと堂々としてて男らしいじゃねーかよ。
 自分より強い相手にひるまず真っ直ぐ立ち向かえる強さが、ねたましいけど凄く嬉しい。俺のヘタレっぷりを呆れもせずにずっと黙って見ていてくれた。俺が 寂しくない様にといつも側に居てくれた。芯が強いから優しくもなれるんだろ。「俺なんか」なんて言うなよ。お前は本当にすげぇ奴なんだから。
 美由紀の名前を出されて、切れた勢いであれだけ酷い事を言って、どれだけ痛めつけても「当然だ」と言えるヒロの逞しさが、ほんの少しでも俺にも有れば良いのに。
 負けっぱなしで悔しいけど、それで良いと思えちまう。何でかなんて俺にも判らねーよ。
 だけどな。ヒロ、今になって勝ち逃げなんて絶対許さないんだからな。これからは俺がヒロにくっついて、いつかヒロよりずっと良い男になってみせるんだからな。それまで逃げるなよ。というかヒロが認めてくれるまで絶対逃がさないから覚悟しとけ。
 何度拭っても涙が溢れ出してくる。俺は何で泣いてんだろう。悔しいんだか嬉しいんだか本当に自分でも判らないんだよ。
 ヒロ。知ってるならこの涙の理由を教えてくれよ。俺はどうしちまったんだ?
 ヒロ。お前がどれだけ否定しても、やっぱり俺にとっちゃ天子なんだ。いつまでもそのままでいて、俺の目標でいてくれよ。

「まつながー。黙ってろって言われとるけど限界や。聞かされる俺が恥ずかしくて死にそうやから、さっきから言い続けとる変な独り言止めてくれん? マジで拷問やで」
「は?」
 まさか、冗談だろぉ!? 俺が顔を上げるとヒロが顔を真っ赤にして鼻の頭をポリポリと掻いていた。
「先に言ったやろ。まつながーは無意識になると寝言や独り言言うって」
「げっ!」
 俺は逃げる事もできずに(ワンルームの部屋でどこに逃げれば良いんだよ)、もう1度ヒロの膝の上に突っ伏した。恥ずかしいなんてモンじゃねーけど、この方がこれ以上ヒロにみっとも無い姿や顔を見られなくて済む。
「どこから声に出てた?」
「知らん」
 このヤロウ、とぼける気かよ。俺がたまたま手の当たっていたケツをつねるとヒロは「ぎゃっ」て小さい叫び声を上げた。ザマーミロだ。
「メッチャ恥ずかしいからとても言えん。俺は何も聞かんかったコトにするから、変な勘違いや妄想含めて、全部まつながーの脳内にしまっといて。つーか、もう2度とあんな恥ずかしいコト言わんといて。無意識でもまた言ったら、まつながーの口にガムテープ貼ったるからな」
 恥ずかしい奴で悪かったな。妄想ってどういう意味だよ。滅茶苦茶聞こえが悪いぞ。まさか口に出してるなんて、俺自身も気付かなかったんだから仕方ないだろ。
 あ。ずっと顔を伏せてたから鼻がむずむずしてきた。
「っぶぇっくしょん!」
 ……やっちまった。見えなくても雰囲気で判る。ヒロが思いっきり溜息をついて頭を抱えてる。
「まつながー、堪忍やで。つーか、マジでもう離してや。これ以上酷い状態になる前にシャワー浴びたいんやけど」
 悪かったな。寝間着を涙でびしょ濡れにした上に、大量のよだれと鼻水まで垂らしちまってよ。
 俺が顔を上げるとヒロの寝間着と俺の顔の間にねばねばした透明な鼻水が糸を引いていた。うげっ。我ながらきったねーな。ヒロが嫌がって当然だ。
 ヒロは立ち上がって俺に向かってべっと舌を出すと、昨日買った着替えを持ってシャワールームに入って行った。俺も今の内にこの情け無ぇ顔を綺麗に洗って着替えちまおう。
「ぎゃーっ! また間違えたーっ」
 ……一気に力が抜ける。
 ヒロ、さっき言った事を一部訂正だ。頼むから学習能力だけは持ってくれ。


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