39.

 想像していたよりずっと豪華で美味い飯に、俺は嬉しさ半分、ヒロの財布の中が心配半分って感じで複雑な気分になった。途中ヒロがトイレで席を離れたので、バレバレな場所に隠していたメニュー表をこっそり見て納得する。
 この(超お人好し)ヤロウと思いつつ、ヒロがそう来るならこっちもやるぞ。って気持ちが自然と沸き上がってくる。さてどうしてやろうか。相手は純正お子ちゃま天子、今夜はからかうネタが尽きそうもないな。
「まつながー、変な顔やで」
「変な顔ってどういう意味だよ」
 トイレから戻ってきたヒロがすかさず突っ込みを入れてくる。相変わらず勘が良い奴だな。でも「変な顔」は無いだろ。
「あ、堪忍なぁ。言い方間違えてしもた。変な顔しとるでやった」
 おい、言い直しても全然フォローになってねぇぞ。たまにはその正直すぎる口を何とかしろ。

 舌と腹を満足させて俺達は店を出た。おーい。ヒロ、こそこそ隠れて支払いしてももう全部バレてるっての。後ろから見てる方が恥ずかしいぞ。あれで本人は隠してるつもりなんだからつい笑ってしまうじゃないか。
 リストアップした中でサイトで極力マシっぽいホテルに向かってるけど、こればっかりは本当に運だから、どこのホテルのどの部屋が空いてるのか、行ってみ ないと解らないんだよな。寝られりゃ良いだろうとも思うが、あそこまでヒロにやられたら、俺も何かヒロが驚く様なネタを投下しないと気が済まない。豪華に いくか笑いを取るかは出たとこ勝負だ。
「ヒロ」
「何? 今道捜しとるから難しい話なら後にしてくれん」
 ヒロの運転は(ひいき目に見ても)ほとんど上手くならない。運転し始めは暴走気味だったけど、ヒロ本来の慎重な性格が運転にも出てくると、逆に周囲の流 れと合わずに危なっかしくなってしまうみたいだ。免許だけ取ったペーパードライバーが半年もブランク有ると、感覚を取り戻すのにかなりの時間が掛かるんだ な。俺も免許を取ったら気をつけよう。
「簡単な話だからそのまま聞けよ」
「うん」
「ホテルに着いたら部屋に入るまでは一言も話すなよ」
「何で?」
「普通はそういうモンなんだよ。フロント従業員とは最低限しか話さないし、他の客とうっかり出くわしても絶対目は合わせない。まぁ、後者は一種のマナーだな」
「へー。そうなんや。まつながーってホンマに詳しいなぁ。さすがどすけべや」
 ……こいつ。運転してなかったらとっくに頭を殴ってるぞ。「俺は男として普通。お前が異常」と言ってやりたいが今は我慢だ。ホテルに着いたら2、3発は喰らわしてやるから覚えてろ。
 ヒロに一言も話すなと言ったのは、いくら地声が高めのヒロでも普通に話すと男だとバレちまう可能性が高いから。……とは言わない。言ったらこのお子ちゃ まは「何で俺が女のふりせなアカンのや」とか駄々をこねるに決まっている。お前が黙ってればそれで通るんだからそうしとけ。色々面倒だろうが。……とも絶 対言ってやらねー。
 フロントとのトラブルは一切無しで、俺はゆっくりベッドで身体を伸ばして休みたい。

 たまたま始めに入ったホテルのロビーは綺麗な造りで、土曜の夜なのに部屋もいくつか空いていた。値段を見たらこの手のホテルにしてはかなり高いから納得する。高校時代に絶対避けていた部類の所だ。
 ヒロは初めてみる風景に大きな目を更に大きく開いて、ぽかんと小さく口も開けて(よし。そのボケ面ナイスだぞ)周囲を見渡している。その隙にさっさと俺 1人で部屋を決めると、フロントに金を払ってカードキーを渡して貰った。1番高い部屋を選んだから、かなりゆったりできるだろう。
 部屋のドアを開けるとヒロは「わーっ」と言って中に走って行った。おい、そこの「19」歳。この数字の響きが凄く虚しいと思うのは俺だけか?
 部屋は予想通りかなり広めでベッドも豪華だし、大きなソファーやテーブルも有る。高い金出した甲斐が有ったな。やっと足を伸ばして椅子に座れそうだ。俺が車を買う時は軽だけは避けよう。
「まつながー、この部屋ってまるでテレビや映画によく出てくるスイートみたいやなぁ。アパートよりメッチャ広いし、照明も何か知らんけどキラキラしとるでー」
 嬉しそうに一気に脱力する事を言うなー! 明らかにあちこち違うだろーが。気付けよ。
 初めてのラブホにヒロは絶対混乱するだろうから、色々からかって遊んでやろうと思ってたのに、逆に俺の方がヒロの反応に驚かされてるじゃねーかよ。このお子ちゃまめ。
「あれ? 窓がほどんど無い。小さなすりガラスやし、これじゃ外見えんやん。換気しにくい部屋やなぁ。防災上危ないんとちゃう?」
「馬鹿か。お前は」
 外が普通に見えたら逆も有りだから困るだろ。お前、ラブホの部屋窓開けてどうする気だ? 俺が後ろから頭を叩くと、ヒロが不満そうな顔をして振り返える。
「何すんねん」
「ヒロが馬鹿な事ばっかり言うからだ。だいたいお前だってあれだけビデオ観……」
 観て無かった。5分で寝る男に何を言っても無駄だ。あっさり泊まれたし、お子ちゃまヒロはもう好きに部屋で遊べ。俺は一々説明するのも疲れた。

 荷物を置いて靴をスリッパの履き替えるとソファーに深く腰掛ける。物珍しさにあちこち見て回っているヒロを横目に、エアコンを空気清浄モードにしてポケットから出した煙草に火を付けた。
 あー、うめぇ。
 イライラしながら吸う煙草とは全然味が違う。今日は朝から何だかんだと色々有りすぎた。ヒロの天然ボケに突っ込めないなんて俺も相当疲れが出てるな。
 携帯灰皿の吸い殻は部屋置きの灰皿に捨てて、ポケットに入れていたメモ代わりの紙ナプキンはティシュにくるんでゴミ箱に放り込む。こうしておけばわざわざ見る馬鹿は居ないだろう。
 別のポケットからヒロから貰った伊勢神宮のお守りが出てきた。これはどうしたら良いんだろ。天子様からの賜り物をそこら辺に放りだすのは気が引ける。とりあえずヒロを真似して財布に入れておくか。
「わっ!」
 「わっ」じゃねーだろ。ヒロの馬鹿、照明を全部消しやがった。手当たり次第に目に付いたボタンを押してるな。さっきからラジオや音楽がコロコロ変わりながら流れたり、テレビも点いたり消えたりしている。
 お。照明が点いた。……しかもピンク色かよ。
「げーっ。何やこれ」
 ヒロが露骨に嫌そうな声を上げる。そりゃ俺の台詞だっての。段々イライラしてきたぞ。お子ちゃまも少しはじっとしてろ。……と、言って聞く奴じゃねーよな。覚えないしすぐ寝るくせに好奇心だけは強いんだ。
「ヒロ」
「何?」
「先に風呂に入れよ」
「えー。まつながーが先で良いで。かなり歩いたし、狭い車内で足がメチャ疲れとるやろぉ」
 「そのとおりだよ。だからゆっくり俺を休ませろ」という言葉は飲み込んで、ベッドの上で遊んでいたヒロを風呂場に引っ張っていく。
「俺は今ゆっくり煙草吸いたい気分なんだ。ヒロこそ慣れない運転で疲れてるだろ。多分中にバスタオルと着替えが有るから適当に使えよ。風呂は衛生上入らない方が安全だ。シャワーだけにしとけ」
 詳しい説明は全部パス。今の疲れきってる俺に「何で?」と聞くなよ。
「分かったー。まつながーがそうしたいなら先に入らせて貰うなぁ」
 ヒロが着替えを持ってシャワールームに入っていく。素直な性格で助かった。もう俺にはヒロの頭を叩く気力も残ってねぇ。幼稚園児の引率をやってる気分だ。照明や布団を元に戻して、音楽は静かなバラードを流しておく。今はうるさい曲や歌は聴きたくない。

 スーパーの袋からドライアイス漬けにしておいた缶ビールを出して開ける。酒でも呑まないとやってられるかと思って買っておいて良かった。俺が初めてラブホに入った時は、(女連れで緊張していたとはいえ)ここまで馬鹿をやらなかったぞ。
「わー。まつながー」
 おいおい、ヒロ。いくら防音が効いてるからって風呂場で大声上げるなよ。面倒だけど話を聞くか。
「何だ?」
「ここってふとんみたいに大きなバスマットが有るでー。変なのー」
「ぶっ!」
 思いっきりビール噴いちまったじゃねーか。
「ヒロ、それには絶対触るなよ。そのまま放っておけ」
「分かったー」
 ここはあんなモンまで有ったのか。どうせ使い方なんか知らないだろうヒロを風呂に追い出す前に俺が全部点検しときゃ良かった。ヒロ、頼む。本気で頼むから今だけは大人しくして、俺にゆっくりビールを呑ませてくれ。
「ぎゃーっ!」
 叫ぶなーっ! 俺はズキズキ痛む頭を押さえながら、ソファーから立ち上がると風呂の扉を開けた。
「今度はどうした?」
「まつながぁ、シャンプーだと思ってポンプ押したら、何かぬるぬるしたのが一杯出てきたー。メッチャ気持ち悪いー」
 ばっ……俺の方が頭の血管が切れて死にそうだ。
「シャワーで洗い流せよ。それは身体に毒なモンじゃねーから心配するな。今度はよく見て間違うなよ」
「うん。気をつけるー。大声上げてもうて堪忍なぁ。あ、目に入ってしもた。痛いし何かキツイ臭いついてて嫌や」
 ヒロが目を擦りながらシャワーの蛇口を回すのを見て、俺は黙って扉を閉めるとその場にしゃがみ込んだ。
 えーっと、とにかく落ち着け。俺。
 ヒロはたしかヌードグラビアは持ってたよな。エロ系の漫画も数冊見た気がする。そういうのを読んでるくせに何でああも無知なんだ? 一応持ってるだけでつまらないとか言って読んでない可能性大だな。
 それ以外のモンは……全く記憶にねぇぞ。男のみだしなみすら持ってるのかどうか不安になってくる。いや待てそんなはずは……。うーん。記憶を辿ってもあの隠すのが下手なヒロの部屋で1度も見た記憶がマジでねぇ。
 ヒロ。お前、男としてそれはどこかおかしいぞ。枕元に有ったアレをヒロの財布に入れてやろうか。いや、変にコンプレックスを持ってるから、余計な事をしたと絶対に怒るから止めだな。
 どうやら純粋培養の伊勢の天子様は、自分と縁の無いモンには興味すら持たないらしい。女と付き合いたいって願望は有るんだから、必要最低限の知識くらい持ってろよ。その場で恥をかくのはお前だそ。というかこの段階で絶対に女に呆れられて振られてる。
 俺は目眩を覚えながら部屋に戻った。

 虚しいと思いつつ、ヒロの目につきそうな目立つ場所にアレを置いておく。これで気付かなかったり興味を持たなかったら俺も諦める。とはいえ「まつな がー、これの正しい使い方教えてー」とかあの無邪気な顔で聞かれたらどうしよう。ヒロも学校で使い方を習ったはずだから、そこまで無知じゃ無い……と思い たい。ソファーに座り直してビールを呑んだけど温くなっていて不味かった。
 東京に戻ったら意地でもヒロにその手の本を読ましてやる。寝たら叩き起こすくらいのつもりでやらなきゃマジでヒロの将来が心配だ。


40.

「まつながー、出たでー」
「んじゃ俺も入る」
 寝間着に着替えて(やっぱしこういうホテルにも有るんやな)洗面所から出ると、まつながーが暗い顔をして風呂に入って行った。部屋に着いた途端にまつながーが一気に疲れた顔になったのは俺の気のせいとちゃうよな。
 やっぱ姉貴のせいでずっと気を使っててくれたんやろな。ホンマまつながーには悪いコトしたなぁ。
 あ、まつながーが俺が風呂入ってる間に1人だけでビール呑んどる。ほんで俺に先に入れって言ったんやな。狡いやっちゃな。ビールは苦手やけど1口くらい分けて貰いたかったのに。俺も買っておいたコーラ飲もうかな。
 あれ? 俺が初めて見るモンが面白くてくしゃくしゃにしてもうた部屋の中が綺麗に片付いとる。あれだけ疲れとるのに、まつながーってマメなやっちゃなぁ。
 暑いと思ったらエアコンが空気清浄モードのままやし、少しくらいの煙草の臭いやったら俺かて平気なんやけどなぁ。まつながーこそ俺に気を使いすぎやて。冷房に戻しておこっと。
 あっ。
 ……。
 綺麗に片付いとるベッドの真ん中に枕が1個。んでもってその上にアレが置いてある。これってどういうコト? まつながー、これするコトに何か意味あるん?
 俺はベッドに上がるとそれを手にとって考えてみた。まつながーが「気付け」と言わんばかりにこないなコトしとって何の意図も無いハズは無いよな。
 いくら遅れとる俺かてコレの存在くらい知っとるで。中学時代に友達らと水入れて膨らましたり、ボール代わりにして遊んだコト有るし、学校でも全然縁も無いのに先生から使い方説明されたもんな。
 こういうホテルにはコレが常備されている。……多分ちゃうな。
 どうせ持って無いだろうから持って帰れ。……何でまつながーが俺のそういうコトまで知っとるん?
 後でこれ使って遊ぼう。……コレで何すんの? まつながーが俺らが中学時代にやったみたいなコト今更考える訳無いよなぁ。
 マジで判らん。けど、これって絶対まつながーから俺へ無言のメッセージなんよな。コレの正しい使い方って言ったらえっちよな。うーん。
 俺が視線を動かすとベッドサイドに番組表とテレビのリモコンが置いて有った。これってここに有ったっけ? 全然覚えとらん。これもまつながーからのメッセージなんかな? あ、エロ系のチャンネルが有る。こういうトコってどんなんが観れるんやろ。ためしに見てみるか。
 テレビの電源を入れて番号を押すとエロビデオが流れとった。内容はよう解らんけどSM系? ……アカン。一気に眠くなってきた。ちゃんと考えないとアカンやろ。まつながーが俺に何を言おうとしてくれとるのか考えな……。


41.

 汗を流したら気分もさっぱりした。湯船もかなりでかかったし、俺でも楽に足が伸ばせそうだった。普通のホテルだったら入りたかったな。部屋に戻るとテレ ビはエロビデオを流していて、ヒロがベッドの真ん中でアレを握りしめたまま熟睡していた。やれやれ。一応俺が言いたい事の100分の1くらいは解ったらし い。
 努力は認めるけど、どうせ寝ちまうんだから端で見ろよ。ついでにそれも手から離せ。持っててどうする気だったんだ? やっぱり俺に聞く気だったんだろうか。19の男にんな事されたらいくら俺でもマジ泣きするぞ。
 くそつまらない(こういうトコで面白いモン観れると思うなよ)テレビは消して、掛け布団を引っ張るとヒロがベッドの端まで転がって行った。体重が軽いか ら楽だな。冷房温度は……まあ適温だからこのままにしておくか。どこに行くか判らないからヒロの手からアレを取って(俺、さっきから何をやってんだ?)、 寝冷えしない様に布団を掛けてやる。
 実家の事や色々な昔話とか、風呂から出たらヒロと話したい事は沢山有ったけど俺も疲れた。どうせヒロは朝まで起きないだろうし俺もさっさと寝てしまおう。
 電気と音楽を消したらいつもと何も変わらない。違うといえば、布団が俺が持っているのより高そうなやつで1枚しか無くて、段違いじゃないすぐ隣でヒロが寝ている事くらいだ。
 時間は沢山有るんだ。ヒロと話すのは目が覚めてからで良いよな。


42.

 少しだけ重いけど肩がとても温かい。人の体温って安心できて心地良いんだよな。何だよ。あれは夢だったのか。凄く長くて嫌な夢を見ちまった。でも本当に久しぶりだって気がする。ずっと会いたかったんだ。
「美由紀」
 抱きしめると腕の中で叫び声が聞こえた。何だ?
「ぎゃーーーっ!! まつながーっ! 目ぇ覚ませぇーっ!」
 はあ?
「うわああああっ!?」
 目を開けると至近距離にヒロの顔が有った。こっちが現実かよ。すぐに手を離すとヒロが必死な顔で俺から離れて行った。


43.

 ビックリした。ビックリした。ビックリした。
 全身に鳥肌立っとるし心臓がバクバク音たてとる。今の俺、多分マジで泣いとるで。
 目が覚めて何か温ったかいなぁて思っとったらいきなり圧迫感感じて、何やろって思って目を開けたらまつながーのどアップが有った。いつもの寝言言っとる し、寝ぼけとるまつながーに危うくキスされるトコやった。心臓がわしづかみされたみたいに痛いし、メッチャ怖いなんてモンやない。
 初ラブホの相手がまつながーやってだけでもかなり落ち込んだのに、この上ファーストキスの相手までまつながーになってもうたら俺一生立ち直れん。
 まつながーも完全に目を覚ましたみたいで驚いて肩で息しとる。そら元彼女さんと思っとったら相手が俺やもん。まつながーかてショック大のハズや。
 この分やと昨夜はまた俺はビデオ観ながら寝てしもたんや。まつながーに迷惑掛けてもうたんやな。そやけど……。
「まつながー、ちゃんとベッドに寝かしてくれたんは嬉しいし有り難いんやけど、うっかりでも俺を美由紀さんと間違えるんだけは堪忍してやー」
「ああ!? 何だと!」
 あっ。しもたーっ。
 俺のアホー! 最大級の失敗や。思わず両手で口を押さえたけど、言ってしもうたんは取り消せん。まつながーの耳にもしっかり聞こえたハズや。
 どないしよう。まつながーはずっと寝言で自分が美由紀さんの名前を呼んでたコトを知らん。もし少しでも自覚が有ったら、プライドの高いまつながーやもん。絶対俺と同居なんかオッケーせんかった。
 まつながーが美由紀さんに一方的に振られてから3ヶ月近い。それでもまつながーは美由紀さんのコトが今も凄く好きで、けど、振られてしもたんはどうしよ うも無いから、いつもは平気な顔をして笑っとる。だからきっと無意識になる夢の中だけで美由紀さんの名前を呼んでしまうやろうてずっと思っとった。
 俺はそんな風に本気で誰かを本気で好きになったコトが無いから、まつながーの気持ちは理解しきれん。ほやけど、まつながーの寝言を聞く度に切なくなって辛かった。
 メッチャ良い奴なのにまつながーはずっと1人でキツイ思いしてて、振られたその日以降は愚痴を一言も言わん。俺はすぐ側に居るのに全然まつながーの役に立てなくて、どないしてええのかホンマに判らんまま伊勢まで連れて来てもうた。
 当然やけどまつながーが凄い怒った顔をして俺を睨んどる。怖い。手足がガタガタ震えてきた。


44.

 ヒロはさっき何て言った。
 『うっかりでも俺を美由紀さんと間違えるん「だけ」は堪忍してやー』だと?
 「だけ」って何だよ。ヒロは俺の何を知っているんだ? 一切嘘もつけないような純粋無垢な顔をして、この俺に何を隠してやがった。
 うっかり寝ぼけて間違えて抱きしめちまったのは俺のポカだけど、何でヒロの口から美由紀の名前が出てくるんだよ。
 ヒロ。事と次第によっては絶対にお前を許さないぞ。
 ヒロが真っ青な顔をしてベッドの端で震えてやがる。思ってる事が全部顔や態度にでてしまうってのはこういう時も便利だな。ビビッて今にもチビりそうな顔だぞ。自分が俺に対して言えない事をしていたって白状している様なモンだからな。
「どうした。何か言えよ」
 俺が低く押し殺した声で脅すと、ヒロはビクリと肩を震わせて布団を握りしめた。
「ま……まつながー、マジで堪忍なぁ。俺、ビックリして絶対に言っちゃアカンコトを言うてしもうた」
 絶対に言っちゃアカンコトだと? 一々カンに障る言い方をしやがる。どういうつもりだ。このヤロウ。
「俺に言っちゃいけないってどんな事だよ? 俺に解る様に説明しろよ。ヒロ」
「そ、それ。言っちゃアカンからもう2度と言いとうないん。全部俺が悪かったから、お願いやから堪忍してぇ」
 ヒロ、後ずさるな! 何も言わずにこのまま逃げる気かよ? 謝って黙れば俺が許してやるなんて甘い事考えてんじゃねぇぞ。
 俺はヒロの胸ぐらを掴むと、そのままベッドにヒロの身体を押し付けた。さあ、もう逃げられないぞ。お前が知ってる事を全部吐きやがれ。
「逃げるなよ。と言うか、ヒロを逃がす気なんか俺にはさらさらねぇけどな。俺に何を隠してるんだ? 遠慮なんざいらねーから正直に言えよ」
 首から胸にかけて強く押さえられて、ヒロが苦しそうに顔をしかめる。痛くなきゃ仕置きにならねーだろ。早く楽になりたかったら正直に言えっての。
「い……たら、絶対、に、まつ、ながーが、怒る、か、ら、嫌、や」
「馬鹿か。もうとっくに俺はヒロに怒ってるんだよ。もっと痛い目をみたいのか? 俺がまだ大人しく聞いてる内に吐けよ。これでもお前をぶん殴りたいのを我慢してるんだ」
 まともに話せないくらい苦しいくせに強情な奴だ。それだけ俺には聞かせたくない話って事か。俺自身の事なのにどうして隠すんだよ。ヒロ、いつもなら俺に何でも話してくれるだろ。
 ヒロがすごく迷った様な顔をした後に、今にも泣き出しそうな目をして俺を見上げてくる。何だよその顔は? 脅されて痛くて苦しい思いをしてる奴がする顔か。俺が少しだけ手を緩めると、ヒロは短く数回息をした。
「まつながー、ホンマ堪忍。俺、同居始めてからずっとまつながーの寝言聞いてたのに黙っとった」
「俺の寝言? 俺が何て言ってたんだよ。言えよ」
 ヒロの顔がほとんど泣き顔に近くなっていく。どうしてお前はそんな哀れむみたいな顔で俺を見るんだ。
「『美由紀』って言っとるのを何度も聞いたん。だから俺は……」

「黙れぇ!」
 頭の中が真っ白になりそうだ。「だから」の後なんか聞きたくもない。
 俺がずっと美由紀の名前を寝言で呼んでいたって? それをヒロは黙って聞いてただとぉ。
 畜生が! ヒロは俺が今も未練たらたらで、美由紀の事が忘れられずにいたのを知っていたのか。知ってて何食わぬ顔で黙って俺に接してきたのか。
 どうして今まで言ってくれなかったんだ。俺が嫌がるとか、恥をかかしたくないとか、勝手に思いこんで、ずっと俺に気を使っていたのかよ。馬鹿にしやがって。
 待てよ。どうしてヒロは俺を遠い自分の家に呼んだんだ? 夏休みはいつバイトの休みを取って実家に帰るのかとか、まだならすぐに申請しろとか、必要以上に干渉したがらないヒロが、あの時だけはやたらと俺の予定を知りたがった。
 いつもののんびりした口調にすっかり騙された。こいつはここまでやる奴だったのか。

 悔しい。滅茶苦茶悔しい! 何だって俺はいつもヒロには勝てないんだ。
 ヒロが調子の良いだけの偽善者なら、どれだけ俺は楽だっただろう。
 いつも平気だって顔をして、俺や他の奴らを全部受け止めて。自分がどんなに嫌でも笑い続けて。
 何でこんな奴が存在するんだよ!? ヒロとの差を見付けられる度に、俺がどれだけ惨めな気分になってると思うんだ。
 畜生。ここまで馬鹿にされても、まだ俺はヒロを好きだと、信じたいなんて甘い事を考えている。
 ヒロ。頼むから否定してくれ。お前は俺を騙してなんか無かったよな。
「それが俺を伊勢まで引っ張ってきた本当の理由なのか? 来た事無いだろうから遊びに来いっていうのはただの口実だったのか?」
 否定しろぉ!
「……だって、ずっと辛い思いしとるまつながーを、あのアパートで1人にしたく無かったんやもん。他に方法が思いつかんかったん。まつながー、堪忍な」
 ヒロは目を閉じて本気で辛そうに唇を噛んだ。
 馬っ鹿ヤロウが!!
 俺はヒロの襟首を掴み上げて持ち上げると、思いっきりヒロの身体を壁に叩き付けた。


45.

「がっ……はぅ」
 俺の肋骨と背骨が嫌な音を立てた。まつながーに片手で持ち上げられとるから、段々首も絞まってきて息ができんくなってきとる。
 でもこれは身体の痛みや。まつながーが本気で俺を殺す気ならあのまま両手で首絞めとったはず。痛いしメチャ苦しいけど、まつながーの心の痛みはこんなモンや無い。
 俺への怒り以上に今まつながーは傷ついとる。俺がずるずる長引かしてもうたから、まつながーをこないに傷付けてもうた。ほやからこれは仕方ないコト。いつかはバレるて解っとったのに、黙っとった俺への当然のバチや。

 意識が無くなり掛けたトコで、まつながーが俺を降ろして両手で襟首を持ち直した。手や足に力が入らんから、まつながーに持ち上げられとるんか、抱えられとるんかよう解らん恰好になっとる。
 息ができるようになって、目を開けてみたけど上手く焦点が合わん。ぼやけた視界一杯にまつながーの怒っとる顔が見えるだけや。
 なあ。まつながー、嘘ついた俺のコト嫌いになった? それとも呆れとる? ボロボロになるくらい気が済むまで殴りたい?
 いや。もうそんな気にもならんか。それも仕方無いよな。俺はまつながーにそれだけのコトしたもん。
「これだけ痛めつけて、首を絞められても抵抗すらしねーのか。ヒロにとって俺なんか真面目に相手するだけの価値は無いって事なんだな」
 ん、何? 耳鳴りがしてまつながーの声がよう聞こえん。
「そして心優しい伊勢の天子様におかれましては、たまたま隣に住んでいた寂しがりで情け無い男を哀れに思って、いつも側に居て優しく手を差し伸べ続けてくれましたってか? それだけじゃない。ヒロが俺の隣に住んだ事も神様からの神託か?」
 何それ? 訳解らんで。 てんし? ……昨日もまつながーは俺のコトをそう呼んでなかった? てんし、天使、まさかと思うけどあの「天子」なん?

 だんだん目の焦点が合ってきた。まつながーの目つきは昨日ホンマに嫌やと思った目になっとる。神さんや仏さん、人が人じゃ無い物を見たり拝んだりする時の目や。何でそないな目で俺のコト見るん。
「天子様ってまさか神さんのコト? 俺なんかが? 何で? まつながー、冗談でもタチ悪すぎやで」
 口がメチャ渇いとる。無理矢理唾を飲み込んで何とかそれだけ言うと、まつながーが冷たい目で俺を見下ろしてきた。
「ヒロは純真無垢で心清らかな天子様だろ。普通の男なら女の裸に全く興味を持たずにいるかよ」
 聞き間違いやない。まつながーは俺のコト3回も天子様って言った。何でそうなるん。俺が天子様なんて錯覚がどっから出てくるんや。
「たまたまストーリーの無いえっちビデオ観ると寝てまうだけやん。俺かて女の子に興味持ってるわい。それなのに何で?」
「興味が無いから寝ちまうんだろーが。純白が似合って自然の風景に溶け込んでしまうなんて人間のできる事じゃねーよ」
「そんなんまつながーの錯覚や。俺はどこにも消えたりせんやろ」
 俺が言い返すとまつながーは鼻で笑った。
「そうか? 俺が止めなきゃあのまま外宮で消えてたんじゃないのか。それに、ヒロは誰に何を言われても怒らないだろ。俺はずっとヒロは懐の深い奴だと信じてた。でも違うんだな。俺達人間が普通に持ってる負の感情なんてお前にしてみたら些細な事だったんだろ」
 それは違うで。俺はただ……。
「慈悲深きヒロ天子様よぉ。伊勢まで連れてきて、今度は俺に何をする気だ? 親不孝者の改心か? それとも美由紀への想いを消してくれるのか? ああ、 いっその事綺麗に記憶も消してくれ。そしたら一生お前を拝み続けてやるよ。これまでも何度も俺がイライラした時に、ヒロが俺の気持ちを操作してたみたいだ もんな。でも、残念だったな。ちゃんと昨日お前が俺の記憶の一部を消した事だけは覚えてるぜ。あん時は楽にしてくれてありがとよ」
 はぁ? まつながー、何アホなコト言いだすんや。んなコトしとらんわい! ちゅーか、できるか!

「……いい加減に……せい」
「あん? 何でございますか。天子様、庶民に届く声で話していただけませんか」
 まつながーが俺の首を絞める手をまた強めてきた。こんな状態で普通に話せる奴が居ったら会ってみたいわい。
「いい加減にせいっちゅーたんや!」
 俺は両手でまつながーの左手首を握りしめると、雑巾を絞る要領で力一杯反対方向にねじった。
「うがっ!」
 痛みに耐えかねたまつながーが俺の襟首から手を離す。その隙に俺はまつながーのみぞうちに1発肘鉄を喰らわせて、手の届かん距離まで下がった。
 まつながーが手首を押さえながら、信じられん物を見たって顔で俺を見とる。
 そうやろな。まつながーが俺を叩いたり、ヘッドロック掛けてくるなんていつものコトやけど、俺が自分の意志でまつながーを攻撃したんは初めてやもん。
 これはガキの頃からチビで弱かった俺に親父が教えてくれた護身術の1つ。「危険な目に遭った時に逃げる時間を稼ぐ為」だけの技。喧嘩になったら身体が小さくて体力の無い俺は絶対負けてまう。こんな状況で出してええ技とちゃうのは解っとる。
 けど親父、俺は今絶対にまつながーから逃げる訳にいかんのや。
 まつながー、俺もマジで腹括ったで。喧嘩が弱い俺かて本気になったら絶対引かんトコを見せたる。ビビんなや。
「俺が悪いて解ってても我慢の限界や。嫌みったらしく俺を天子様って呼ぶんは今すぐ止めれ。特にその目だけは我慢できん。俺は仏様でも神さんでも無い。普通の人間で19歳の男で酒井博俊や。解っとるんか? 松永健!」


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