34.

 俺は全身から怒りのオーラを振りまき、何度も怒鳴り、人を悪し様に言うヒロを初めて見た。大学で全く知らない奴から酷い事を言われても、俺がどんな悪戯をやっても笑って許してくれるヒロが、今目の前で本気で怒っている。
 お姉さんからとんでも無い事を言われたみたいだけど、ヒロの怒鳴り声しか聞こえなかったから内容がいまいち把握できねぇ。
 聞き取れない怒号を上げながら、ヒロが携帯電話を地面に叩き付けようとしているのを見て、やっと俺は事態の深刻さだけは理解して、咄嗟にヒロを後ろから押さえ込んだ。
「止めろ。馬鹿!」
「離せーぇ。アホーっ!」
 駄目だ。完全に頭に血が上ってやがる。今だけはヒロの華奢な身体に感謝だ。これで俺と同じくらいの体格だったら俺1人じゃとても抑えきれない。どんだけ 可愛くてもやっぱり男だな。小さいくせに力が強い。殴って正気に戻るならやるけど、俺にはヒロを殴るなんてとてもできねえっての。くそっ。

「携帯壊したら最新型買い直すのに最低でも1万円!」

 俺が怒鳴るとピタリとヒロが暴れるのを止めた。……冗談だろ。と言いたいけど、言ってみるもんだな。身に染みついた貧乏性がヒロの怒りを散らしたらしい。でもまだ油断はできねーよな。
「ヒロ、俺の声が聞こえてるか?」
 固まっていたヒロが少しずつ力を緩めて、俺の腕の中で小さく頷いた。よし。少しは落ち着いてきたみたいだな。
「ゆっくり深呼吸してとにかく落ち着けよ。ヒロがもう大丈夫だって言ってくれたら離すから」
「……まつながー。止めてくれてメチャ感謝してるんやけど……」
「ん?」
「1万円で正気に返った。お願いやから今すぐ俺を離してくれん? もう携帯投げんし、暴れないって約束するから。深呼吸する前にこのメッチャ恥ずかしい状態から開放してー」
「はぁ?」
 それだけ言うとヒロが自分の顔を両手で隠した。見たら耳まで真っ赤になってやがる。これって怒ってたからじゃなくて、もしかして恥ずかしいからだったのか?
 嫌な予感がして俺が顔を上げたら、俺達を遠巻きに人だかりができていた。
「うわっ!」
 俺も慌ててヒロを離す。ヒロはよほどいたたまれなかったのか、その場にしゃがみ込んだ。
 夏休み(しかも土曜日)の観光地駐車場はほぼ満車。ひっきりなしに大勢の人が通っている。時間帯からして皆参拝帰りらしい。そんな中で俺達は大声でわめ きちらして、ついさっきまで暴れるヒロを俺が後ろから抱きしめてたんだ。目立って当然だ。恥ずかしいなんてもんじゃねえっての。ヒロじゃないけど俺もどこ かに隠れてぇ。
 俺もヒロの横に膝をついて車の間に隠れる。何とか運転手(ヒロ)を立ち直らせて、早々にこの場から逃げ出したい。
 ヒロは真っ赤になった顔を隠したまま、溜息に近い深呼吸を繰り返していた。俺の気配に気付いて、顔を隠したままボソリと洩らす。
「まつながー、巻き込んでしもうて堪忍なぁ。俺ら姉貴のどアホに嵌められてもうたんや。ホンマまつながーには悪いコトしてもうた。俺、どないしたらええのか判らん……」
 だんだんヒロの声がか細くなっていく。こりゃ本当に深刻な状況らしいな。こんな精神状態でヒロは慣れない車の運転なんてできるのか。かといって、このまましゃがんでいても埒が明かない。言うだけ言ってみるか。
「ヒロ、話は後でじっくり聞くから取り合えずここから出よう。車の運転できそうか?」
「うん。そうやなぁ。ここでこうしてても何もならんよな。どっか車停められるトコまで行こかー」
 ヒロの声に落ち着きが戻ってきてる。これなら行けそうだな。俺は先に立ち上がって砂埃を祓った。
「運転席で待っててくれ。何か飲む物買ってくるから」
 俺はそう言って自動販売機まで走った。どういう内容か知らないが、喫茶店でゆっくり聞ける話じゃ無さそうだよな。癒し系のヒロをあそこまで怒らせるなんて、あのおん……お姉さんは一体何を言ったんだ。
 精神安定剤代わりに少し甘めの缶コーヒーと、話が長引いた時用にペットボトルの日本茶を2本ずつ買って急いで車に戻る。ヒロはよほど精神的に参っているのか、運転する前からハンドルに頭を預けていた。
「大丈夫か?」
 (足がつかえる)助手席に座ると、クーラーをがんがんに効かせた状態で、俯いて頭を冷やしているヒロの顔に缶コーヒーを押し付ける。ヒロ落ち込み具合を見るとこれくらいの方が丁度良いだろ。下手に頭撫でたりしたらまたぶち切れかねない。
「おおきにぃ」
 ヒロは1口コーヒーを飲むと、ほっと息をついた。ホルダーに飲みかけの缶を入れてハンドルを握り直すと「車出してもええ?」と聞いてきた。
 「ヒロの好きな時に出して良い」と言ったら、ヒロはすぐにギヤをバックにいれて、車を通りに出すと青信号と同時にアクセルをベタ踏みした。……おい。ダッシュボードとシートに挟まれてる足が痛いぞ。

 ヒロは15分くらい車を走らせると「ここならええかな」と言って高速道路横の路地に車を停めた。
窓を閉めていれば静かだし、人も車の通りもほどんど無くて緑が多い言えば聞こえが良いが、草っぱらしか視界に入らない。
「ここ、どこだ?」
 少しだけ不安になって聞いてみたら、「外宮と内宮からそれほど離れてへん」と返ってきた。乱暴な運転だったが、ヒロはまだ冷静らしくてほっとした。初めてあんなに怒ったところを見ただけに、俺の心臓はキリキリ痛みを訴えている。
「横の高速って鳥羽に行くんよ。ホンマやったら明日はまつながーと一緒に遊びに行こうって思っとったんよなぁ」
 ぼそぼそとヒロが俺を視線を合わせずに話す。お互い横に座ってるんだから仕方無いけど、ヒロの顔が見えないのは嫌だな。この狭い軽自動車のシートがどうにも居心地が悪い。
 俺は狭い中で靴を脱ぐと、シートを倒して胡座でヒロの方に向き直った。よし。少しケツは痛いが、これならまだヒロの表情が解る。
「まつながー、何やっとん?」
 ヒロが呆れた様な声を出して俺の方を向いた。狭いと言っても小柄なヒロは俺と違って座席に余裕が有る(足が短いと言ってるんじゃ無いぞ)。
「今の状況でヒロの顔が見えないのが嫌だったんだよ。俺に何か大事な話が有るんだろ」
 正直に思っている事を答えたら、ヒロも「んじゃ俺もそうするー」と言って靴を脱ぐとシートを倒して座り直した。
 両手でコーヒー缶を転がしながら、ヒロは何から話せばいいのやらって困惑した顔をしている。こういう時は言葉以上に表情が豊かなのは助かるな。

 ヒロは何口かコーヒーを飲むと、缶をホルダーに戻して俺の顔を真っ直ぐに見た。何か決意したって感じだ。
「始めに、このままやと俺がメッチャ嫌やからまつながーに謝っとく。いきなりあんな所で怒鳴り声上げて暴れて、一杯迷掛けてしもうてホンマに堪忍なぁ」
 そう言って深々と頭を下げた。これがヒロの強さの1つだ。冷静に自分の非を認め、ちゃんと相手に正面から頭を下げられる。俺は自分が間違った時に謝る事はできても、到底ヒロみたいにはできねぇ。
「俺が切れたらあんなモンじゃねーから気にすんな」
「それ聞くと話続けるの怖くなったなぁ」
 頭を掻きながらヒロが苦笑する。よっぽど俺にとっても嫌な話らしい。
 ヒロは少し首を傾げて口元に手を当てると(何で男がそういうポーズが似合うんだよ)、眉をひそめた後に「うん」と言って顔を上げた。
「まずな。俺ら今夜家に帰れん」
「は?」
 駐車場でヒロがそんな事を怒鳴っていたけどどういう意味だ。
「姉貴に完全に嵌められてもうたんや」

 ヒロはうんざりした顔で……「お姉さん」と呼ぶのも止めだ。あの女との会話を全部俺に話した。
 あの超ハイテンション自己中女の我が儘と嘘の為に、俺達は今夜の行き場が無いって事らしい。おいおいおい。何でヒロはそんな我が儘許してるんだよ。俺なら絶対に言う事なんか聞かねーぞ。
「完全に馬鹿にされて騙されたのに、そこまで庇ってやる事無いだろ。堂々と俺達は家に帰れば良いじゃないか」
「あんな姉貴でも一応姉弟やもん。姉貴は昔っから男絡むとメッチャ視野狭くなるんよな。名前忘れてもうたけど今はあの男の人のコト好きやから、俺やまつな がーを利用してでも一緒に居たいって思うんやろ。これまでの経験やとたいがい自分の方が「気にいらん。許せん」て言い出して振るんやけど、夢中になっとる 間は誰が何言っても聞かんのや」
 ヒロは「毎度のコト」とうんざりした顔で足を組み直した。何か引っかかりを感じるぞ。
「もしかしてヒロが彼女できないのって……」
「俺、ずっとあの姉貴を見て育ったんやでー。女の子に夢も希望も持てせんて。姉貴みたいな女ばっかや無いて解ってるけど、……いざ付き合うと思ったらどうしても構えてしまうんよな。んで、告白するのを悩んでいる内に他の奴と付き合いだして振られるパターンなん」
 ビンゴ。恋愛経験無いくせに変なところで女の心理に詳しいのはあの女の影響か。
『俺、どっちかっつーと綺麗な人より可愛い子の方がええねん。小さくて俺が守ってやらんとって思うタイプの子が好きなん』
 ヒロが酒を呑みながら洩らした言葉が頭の中でリフレインする。自己中女毎日見てたら当然そうなるよな。
「オカンも姉貴のそういう悪い癖知っとるだけに結構うるさく言うんよな。ほんで姉貴もオカンには内緒で今の彼氏さんと付き合ってるんやと思う」
 そりゃそうだろ。俺が親だったらぶん殴ってでも娘が馬鹿やるのを止めるぞ。理性がぶち切れそうだからあの女の事を考えるのは止める。問題はこれから俺達がどうするかだ。
「で、ヒロはこれからどうするつもりだ」
 俺が聞くとヒロはがっくりと肩を落として溜息をついた。
「うん。どないしてええか全然判らんから困っとるんや。姉貴にはメッチャ腹立つし許せんけど、あれでもそん時そん時は本気で相手のコト好きなんやで。嫌がらせはしとうないんや……」
 そう言ってヒロは話し疲れたのか、お茶のペットボトルに手を伸ばした。
 この、超お人好しめーっ!


 35.

 当然やけどまつながーが俺のヘタレっぷりにメッチャ怒っとる。ヘッドロックくらいで済めば御の字やな。何発か殴られるのは覚悟しとこ。俺かて人ん家の訳判らん事情に巻き込まれて、振り回されたら腹立つもん。
 俺は姉貴の我が儘なトコは好きやないし、いつもからかわれて遊ばれるだけやから顔を合わせるのも嫌や。けど、姉貴かて度が過ぎとるだけで本音のトコはそれほど性悪や無いと思う。
 何だかんだと言うても姉貴は俺らがホンマに困らん様にて、オカンがくれた金を全部置いてった。封が開いて無かったからそれだけは確かや。デート代にとネ コババせんかった。変なトコで生真面目で素直やからどうしても姉貴を嫌いきれん。良い意味でも悪い意味でも、正直すぎなだけかもしれんけど。問題は金だけ や無いんやけどなぁ。
 あ、まつながーが窓開けてついに煙草吸い出した。どこに隠しとったんやろ。眉間に皺寄せとるし、目つきも相当悪い。うー、この沈黙が嫌やなぁ。俺のコト怒ってて殴るならさっさと殴ってくれんかな。
 まつながーはジーンズのポケットから携帯灰皿まで出して灰を落とす。そのポケットの中、どういう構造になっとるん? ……いや、そういうコト考えとる場合とちゃうよな。アカン。俺はいつの間にか現実逃避モードになってるっぽい。

「まつながー」
「ん?」
「我慢せんと俺のコト殴ってええで。殴られるだけのコトしたもん」
 まつながーは益々嫌そうな顔になって、灰皿で煙草をもみ消すと俺の胸ぐらを掴んできた。ぎゅっと目を閉じて歯をくいしばったら、思いっきり痛いデコピンを5発も打たれた。えーっ。何でー?
 俺が涙目になりながらずきずき痛むおでこを押さえて目を開けると、まつながーは手を離して「ばーか」と言った。
「俺はヒロを殴る気なんか全くねえっての」
 んじゃ今の連続デコピンは何やねん。絶対真っ赤になっとるで。
「今のはヒロが馬鹿な事を言った分だ。ヒロが俺にどんな悪い事をしたんだよ? あの女に良い様にやられただけだろ。俺が怒ってるのはヒロがあの女を甘やかしてるからだ。もっと以前にはっきり利用されるのは嫌だと言ってやれば、あの女だってこんな真似しなかったろ」
 うっ。そう来たか。痛いトコモロに突いてくるなぁ。
「まつながー、姉貴は昔っからあのとおりの性格やし、俺かてガキの頃から姉貴と散々喧嘩してきたでぇ。けど、ホンマに1度も口で勝てた事無いん。いくら腹が立ってて姉弟でも男が女殴っちゃアカンやろ」
 まつながーがもう1本煙草を出して火を付けた。だからそのポケットは……。
「ヒロの場合、たいがいの女に口じゃ勝てそうも無いけどな」
 ますます返す言葉が無い。たしかに俺は女の人に強く出られん。だって口は達者でも女の子は女の子やん。特別なスポーツしとる子ならともかく、いくらチビでも力は俺の方が強いやん。よほど理不尽なコトでもされんかぎり喧嘩しちゃアカンと思うんよな。
「けど……」
「けど、何?」
 煙草の火を消してポケットに灰皿を入れると(熱くないんかな)、まつながーは笑って言った。
「俺はヒロのそういうところは嫌いじゃない。いや好きって言った方が合ってるな」
 うわぁ。まつながー、今日はどないしたん? 普段なら出てこん俺ヨイショ発言連発やん。俺がぽかんと口を開けとるとまつながーがにやりと笑った。
「とりあえずどっかの大型スーパーで着替え買って、今夜の寝床確保しよう。金は有るんだろ?」
「うん。2万円も入っとったー。オカン、俺らにも1万ずつくれたのにえらい張り込んでくれとるなぁ。でも、まつながぁ」
「何だ?」
 俺は悩んどる1番の原因を言うコトにした。ずるずる後回しにしたかて何の解決にならんもん。
「ここって観光地なんやから夏休みの土曜日に旅館やホテルなんてそうそう見つからんのやで。もう5時やし、こんな時間に予約無しで泊まれるトコなんて俺知らん」
「はあ? 何だそりゃ」
 漸く事態の深刻さを知ったまつながーが大声を上げた。東京やったらビジネスホテルが沢山有るから何とかなるやろうけど、観光ホテルや旅館が多い伊勢周辺やと飛び込みはかなりキツイと思う。料理は外で食べて少しでも安く泊まろうって人らで一杯やもんなぁ。

 まつながーが腕を組んで真面目な顔になった。泊まれる場所見付ける方法を考えてくれとるんやな。こうして黙っとると腹立つくらいええ男やなぁ。普段は見 た目の違いなんか全然気にせんかったけど、観光地での俺らって周囲からどう見えとったんやろ。やっぱ、スーパーのおばちゃんみたいにしっかりしたお兄さん と頼りない弟かなぁ。目が悪いとしか思えんバカップル説だけは完全無視しちゃる。いくらチビやからってどこをどうしたら俺が女に見えるっちゅーねん。
 そないなコト考えとったらまつながーが顔を上げた。
「ネットカフェ」
「へ?」
 ネットカフェってもしかして24時間営業トコ? まあ、泊まるトコ無いんやしそれもええかも。昨日から歩き疲れとるからうっかり寝てまうかもしれんけど。
「ヒロ。ネットでホテル捜すぞ」
「捜すって今から?」
「検索しながらホテルに直に電話すりゃ俺達2人くらい何とかなるだろ」
 まつながーの言うとおりかも。急なキャンセルも有るやろし。
「そういうコトなら時間との勝負やなぁ。遅いからちゃんとしたトコやと断られる可能性大やもん」
「よし。決まりだ」
 俺らは同時にシートを戻すと座席に座り直した。俺は完全に途方に暮れとったのに、やっぱ、まつながーっていざって時の決断力が凄いなぁ。


36.

 くそっ。何だってこんなに見つからねーんだよ。
 持ち直したヒロと一緒にネットカフェに入って、検索しつつ紙ナプキンにホテル名と電話番号を書き込みながら外で電話をし始めてすでに1時間は経ってるぞ。
 料金がとんでもねー所は始めっからパス。できるだけ普通の旅館やホテル選んでるっていうのに、どこも「うちでは素泊まりは」だの「今からお部屋をご用意 するのは」だのと断りやがる。部屋空いてるなら泊めろよ。安い所は完全満室状態だったし、ヒロが「この時期は難しい」と言ってたとおりだ。
 リストアップした最後のホテルも満室で仕方なく店内に戻る。俺じゃ地名を見てもどこか判らないから、地元民のヒロがずっとパソコンに張り付いて検索を続けている。ヒロが俺に気付いて顔を上げた。
「あ、まつながー。どうやった?」
「全滅だ」
「そっかぁ。やっぱせめて昼頃に解ってたら何とかなったかもしれんのに、ホンマあのアホ姉貴にはむかつくでー」
 ヒロががっくりと肩を落としながら疲れた顔で愚痴を言う。観光地だけ有って事前予約のみの所も多いし、断られた件数を考えたら当然だよな。ヒロの手元には真っ白の紙ナプキンが有った。どうやら今から行ける範囲で泊まれそうなホテルはもう無いらしい。
「いっそのコト24時間のカラオケボックスや漫画喫茶で泊まるとか……」
 多分始めから諦めていたらしいヒロが、苦笑いをしながら申し訳無さそうに妥協案を出してくる。似合わねーからそういう顔は止めろっての。悪くも無いのに自分を責めるなって何回言っても聞かない奴だな。
 昨日から歩き詰めでかなり俺も足にきているし疲れも溜まってる。多分、ヒロも似たようなモンだろ。明日の朝になったらどこかでゆっくり休めるならともかく、喫茶店とかでの夜明かしはちょっと無理が有るよな。2人して寝てたら店から苦情を言われて追い出されかねない。
 しょうがねーな。最後の手段だ。
「ヒロ、ちょっと替われ」
「うん」

 俺がパソコンの前に座ってヒロが隣の席に座る。料金が安いゲーム専用席だから、ヒロの席からは検索できない。
「黙って見てろよ。大声も出すなよ。騒ぐなよ」
「へ? うん」
 俺が検索サイトで打ち込んだキーワードを見て、ヒロが「げっ!」と大声を上げた。黙ってろって言っただろーが。店員や他の客に見つかったら恥ずかしいなんてもんじゃ無いだろ。ヒロが俺の腕をぐいぐい引っ張ってくる。こら、キーを打つ邪魔をするな。
「ちょ……ちょっと、まつながー、本気?」
「静かにしてろ。馬鹿」
 視線を画面から離さずに小声で言ったら、ヒロがぶくっと頬を膨らまして、紙ナプキンに何か書いて俺の方に回してきた。
『何でラブホなんか検索してるん? まさか泊まる気や無いやろな? 俺は絶対嫌やで』
 やっぱりか。俺も紙ナプキンの裏に書き殴る。
『他に方法が有るなら別案出せよ。予約無しでまともに寝られる所って言ったら、こういう所しかねーだろ』
『んなトコ泊まるくらいならどこかに車停めて中で寝るわい。何が悲しゅーて男同士でそんなトコ行かなアカンのや』
『俺にあの車の中でどうやって寝ろって? シート倒したって俺は手足縮めないと横になれないんだぞ。それにオートキャンプ場ならまだしも、この治安の悪い時に外で寝るなんて馬鹿な事は考えない方が良いぞ。お前、危機管理意識低すぎだ』
 ヒロは備え付けの鉛筆を持ったまま呻っている。いくら同居してるからって、ヤロー同士でラブホなんて嫌なのは俺も同じだっての。それくらい分かれよ。
 むすったれていたヒロが新しい紙ナプキンに一言だけ書いて寄こした。
『男同士でも泊まれるん? 断られるんとちゃう?』
 ……。
 「その心配「だけ」はしなくて良いと思うぞ。経験上お前充分女で通じるから」とは言わずにおこう。こんな所で切れて暴れられたらかなわない。今はヒロを説得する方が先だよな。
 とりあえず伊勢市内のラブホ名と住所をメモしていく。地元のヒロならどこに有るのかくらい判るだろう。


37.

 まつながーが「ほれ」と言って俺にメモを渡してきた。殴り書きでくしゃくしゃになった紙ナプキンをポケットに押し込んで(どこに入るんやろ?)履歴を消してるトコ見ると、もうココには用は無いって感じや。
 マジ? 本気? つーか、正気? なんて聞く気も起こらん。元はと言えば俺の姉貴のやらかしたコトが原因やもん。まつながーが嫌々でも決めたコトに文句言える立場とちゃう。
 頑張って伊勢市周辺まで捜したけど、予想どおり普通のホテルや旅館はことごとく断られて取れんかった。かなり歩いて疲れとるやろうし、俺はともかくまつながーの身長で軽自動車やとキツイのも無理無いよな。車で寝るのは危ないって言うのも解る。解るけど……。
 初めてラブホ行くなら相手は絶対女の子が良かったちゅーのは俺の我が儘? 恋愛経験ゼロの俺は今までラブホなんて全然縁が無かったんよな。
 まつながーは俺を童貞君て笑うけど、ホンマはキスもしたコト無い。する相手が居らんのやから仕方無いやろ。
 うーっ。俺の夢と希望と願望が凄い音を立てて崩れていく気がする。
 まつながーの鈍感。少しは俺の気持ちに気付や。少しくらい夢見せてくれたってええやん。
 レジで支払いを済ませて車に乗る。メモを見たらいくつかの場所はすぐに判った。はぁ。大きな溜息が出そうや。
 うっ。まつながーが俺の顔をじと目で見とる。本気で嫌やと思っとるんが、完全に顔に出てるんや。アカン、まつながーにこれ以上迷惑掛けられんもん。
 俺は音が出るくらい自分のほっぺたを叩くとまつながーに向き直った。
「まつながー。どうせもっと遅くならんとホテル入れんのやから、どこかで着替え買って、美味しい物食べにいこかー」
 これが今の俺の精一杯。


38.

 ヒロが持ち前の強靱な忍耐力と精神力を発揮して俺に笑いかけてくる。さっきまで落ち込んでどん底に居ますって顔をしてたのに全く大した奴だよ。俺には絶対真似できねぇ。シートベルトを締めたらヒロが車を発進させた。
 エロビデオを観ながら5分で寝られるヒロが、ラブホテルに全く縁が無いのは気付いてた。いや、有ったら逆に怖いだろ。無粋とかプライバシーの侵害とか言 われようが、超純正お子ちゃまヒロが一体どこで誰とどういう状況で行く事になったのか、全部話すまで問い詰めたくなるじゃないか。

 全国展開の大型スーパーに行くと、どうせだから明日の朝飯分の食料や必要な物も買っていこうという話になった。日用品コンビニ禁止令がこういう時にも発 揮される。思わぬところから降ってきた軍資金が有っても、俺達の貧乏性……この言葉は何か虚しいから止めとこう。「節約精神」は変わらない。
 100円均一コーナーに直行しようとしたヒロの襟首を掴んで止めると、自信満々だったヒロが頬を膨らます。
「何でー?」
「こういう所はまず店オリジナルブランドのを捜すんだよ。均一コーナーより10円以上安いのが結構有るから」
 俺が手を離して説明するとヒロが感心した様な声を上げる。
「へー、そうなんや。まつながーってホンマオカンみたいやなぁ」
 おい。そりゃ誉めてるのか、けなしてるのかどっちだよ。ヒロは悪気もなく本気で言ってるから尚更情け無くなってくる。高校の寮生活で鍛えられたとはいえ、俺ってそんなに生活臭いのか。
「まつながーって、将来絶対ええ旦那さんになると思うんなぁ。どこに行っても何とかして生きていけそうやもん。奥さんも安心して付いていけるやろ。俺がまつながー教の信者やって知っとった?」
 ヒロがいつもの様ににぱっと笑う。
 いきなり何を言い出すんだよ。こっちが赤面するだろ。と思っている内に気が楽になっている。小さな事で悩むのが馬鹿馬鹿しくなってくる程、ヒロの笑顔と言葉には力が有る。
 ヒロは俺の信者だって言ってくれたけど、それはきっと嘘なんかじゃねーんだろうけど、本当に信者なのは俺の方なんだよな。
 どうしてヒロはどんな時でも笑えるんだろう。これが社交辞令や営業スマイルだったら俺もヒロを羨ましいなんて思わない。
 度々拗ねて俺を上目遣いで睨んでくるくせに、すぐに気持ちを切り替えて満面の笑顔を見せる。自分が少しでも悪いと思ったら謝る事を躊躇しない。頭を下げて「堪忍な」って言う時も、感謝の言葉を言う時もいつだってヒロは本気でやっている。
 伊勢からやってきた天子様は、都会の雑踏の中で毎日バイトや学生生活に追われて振り回されても、綺麗な心を持ち続けている。
 悔しいのか、羨ましいのか、ねたましいのか判らなくなるくらいなのに、ヒロが好きで1番癒されてる俺って何だ?

 食料と必要最低限の日用品の底値チェック済ませると、買うのは後回しにして俺達は着替えを買いにメンズコーナーに行った。
「靴下とパンツだけは最低でも替えたいし、Tシャツも1枚欲しいな。自分でも汗臭せぇから嫌だ」
 俺がそう言うとヒロが「俺もー」と手を挙げる。お前、カラオケボックス泊まりだったらトイレで着替える気だったな。
 パンツや靴下は2枚組を買うとお得なんだが、ヒロと俺じゃ体格差が有りすぎて分ける事ができねーな。余分に持ってるとヒロのお袋さんに変に勘ぐられそうだ。ヒロが何だかんだと文句を言っても、姉弟の情かあの女をマジで庇う気でいるから俺も協力するか。
 本音はさっさとバレてしまえなんだが、お袋さんに俺達はどこに泊まったのかと聞かれた時に絶対答えられねーよな。

 選んだ下着と靴下を買い物カゴに入れて後はTシャツだな。
 俺が黒のプリントTシャツを見ていると、ヒロは綿シャツ売り場をうろうろしていた。Sサイズ体型なのにだぶだぶのMサイズに挑戦するのは、近々これがピッタリ合うまで成長してやるというヒロなりの決意なんだろう。
 いつも大きめのシャツを着ているから、俺の視点だと鎖骨どころか下手すりゃ薄い胸板通り越して腹まで見える。(これがスタイルの良い女だったら俺的に大歓迎だけど)お前、全然気付いて無いだろ。男で良かったな。ヒロ。
 俺が避けまくっているある特殊な趣味の奴らに喜ばれるだけだぞとも思うんだが、お子ちゃまヒロに言いにくい。俺の周辺であの手の話題が出る度に、鳥肌が立ってつい怒鳴っちまうんだよな。裕貴の馬鹿のせいで完全にトラウマになっている。
 そういやヒロはモロに裕貴のタ……うえっ。考える前に気分が悪くなってきた。東京と茨城は近くて遠い。裕貴がヒロに会う機会なんて、俺が会わせない限りねーよな。
 あ。ヒロの奴、激安だからって似合わない服を買おうとしてやがる。んなオヤジ服は止めとけって。今ヒロが手に持っているのはあんまりだから他の服を勧めるか。
「ヒロ」
「何?」
「それよりこっちの方が似合うと思う」
 ヒロが持っていたのは堅い生地で白地に細い紺色のストライプ。俺が指さしたのは薄地の淡いグリーンの無地。激安品に比べたらたしかに高いが、値段の割りに物は良い。
 人の趣味にあれこれ言うのはどうかと思うが、最近のヒロは本当に安けりゃ何でも良いって感じだ。せっかく女共から可愛いと言われてるのに勿体ないだろ。男もそれなりにお洒落しないともてないぞ。
 ヒロは自分が持っていたのと俺が勧めたのを見比べて、しばらく悩んだ後にこっと笑って言った。
「まつながーがそう言ってくれるならこれにするー」
 ……足から力が抜けそうだ。絶対、ヒロを裕貴にだけは会わせねー。


38.

 必要物資を買い込んで俺はまつながーを美味しいと評判の洋風居酒屋っぽい外見の店に連れて行った。
 全部俺のおごりにするって約束して、予算は1人7000円前後の店長さんのお勧めコースを選んだ。予めこんなんが食べたいってリクエストをすると予算に 合わせて創作料理を出してくれる……と前に地元の友達が教えてくれた。こんな高いお店、普段は全然縁無んやもん。びっくりさせたいからまつながーにはメ ニュー見せんとこ。
 「彼女ができたら連れていけや。見直されるで」と、高校時代から付き合っとる彼女さんが居る奴は気楽に言うた。うっかり「嫌みか」と言い返したのは(ひがみ入ってもうたけど)俺だけのせいとちゃうよな。
 リクエストは少しでもええから「松坂牛」と「伊勢エビ」と「あわび」というメッチャ高級品のオンパレード。店長さんを困らしてもうたかな。でも、これくらいはせんと俺ら姉弟のトラブルに巻き込んでしもうたまつながーに申し訳無くてしゃーない。
 どうせやからとお酒を勧めてみたけど、まつながーは「運転手のヒロが呑めないのに1人で呑みたくない」と言ってくれた。酒好きなのに義理堅くて泣かせるなぁ。

 始めに出てきた伊勢エビのオードブル(やったけ?)を見て、まつながーが少しだけ眉間に縦皺を寄せた。どうしたん? 好き嫌い無いと思っとったけど、もしかしてこういうのは嫌いなんやろうか。
「ヒロ」
「何?」
「ここの支払い、おごり止めて割り勘にしろ」
 箸に手を出さんうちからいきなりそう来るんか。まつながーかて俺のおごりで食いたいって言うてたやんか。あの時は冗談で言ったんかもしれんけど、俺の気持ちも察してや。
「嫌やって言うたらアカン?」
 まつながーがこめかみをポリポリと掻いて目を据わらせる。
「お前の考えてる事なんかお見通しだっての。俺に変な気を使うな。客扱いも止めろって何度も言ってるだろ。こういう詫びなんかいらねーよ」
 そんなコト言われても俺かてここは引きとうない。何の為にまつながーを伊勢まで引っ張って来たんか解らんくなるやろ。それでのうても日頃からいつも助けて貰っとるのに、大迷惑まで掛けて「堪忍して」だけで済ましとうないもん。
 お金の問題なんかとちゃう。気持ちの問題や。一杯感謝しとるから、少しでもまつながーのリクエストに応えたいて思うのってアカンの?
 俺がどう言おうと迷っとったら、まつながーの目つきが更に悪くなって両腕を組んだ。あ、また思ってるコトが全部に顔に出て、完全に読まれてたっぽい。
「これから言う事に対して何も言うなよ。俺が切れる。ここはヒロのおごり。ホテル代は俺持ち。それで良いな」
 「何も言うな」で「それで良いな」かい。んなコト言われて俺が聞ける訳無いやろ。そう思っとったらまつながーが大きな溜息をついた。
「もう言うなって。気持ちよく飯食わせてくれって頼んでんだよ。気付よ。馬鹿」
「へ?」
 俺、何か勘違いか聞き違いしとる? ホテル代を全額まつながーに払わせるとご飯美味しく食べられるってどういうコト?
 まつながーが苦笑して俺にまた痛くないデコピンしてきた。これってどういうつもりでやっとるん? 訳判らんで。
「あのな。俺達2人共あの我が儘女の犠牲者なんだよ。ヒロは血が繋がってるってだけで、俺だけが被害者だと思ってるだろ。もう引きずるのは止めようぜ。俺 が伊勢に行くなら美味いモン食いたいって言ったからヒロが晩飯をおごってくれる。ヒロがそこら辺で適当に寝ると言ったのに、俺がゆっくり休みたいからホテ ル代は俺持ち。俺の言ってる事全然おかしくないだろ」
 ……えーっと。
「ヒロは俺のリクエストや我が儘を全部聞いてくれてるだろ。俺はそれが嬉しいからありがたく飯を美味しく食いたいんだ。そう思いたいんだよ」
 あーっ。何やそういうコトか。俺ってホンマにアホや。
 チョットだけ。ほんのチョットだけまつながーの立場になって考えてみたら全部解るコトやん。友達からずっと無言で謝り続けられるなんて俺かて絶対に耐え られん。まつながーは全部水に流して忘れて、俺らは俺らで楽しもうって言ってくれてるんや。ほやったら俺ができるコトはこれや。
「まつながー。地元民の俺かて滅多に食えんごちそうやで。冷たい方が美味しいから早く食べよー」
 俺が自分の箸を持ったらまつながーも笑って箸を持ってくれた。
 リセット完了やな。


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