まだ昼の3時過ぎやのにどよーんと空が真っ黒や。こらかなり降りそうやな。
 濡れる前に帰ろって走りだそうとしたら、講堂の玄関で後ろから声を掛けられた。
「酒井君、だよね」
「ん?」
 振り返ったら綺麗な女の人が立っとった。


『置き傘の行方』


 えーっと……。
 どっかで会うた気がするんやけど全然思い出せん。なんて言うたらこの人のコト傷付けてまうよなぁ。俺の名前知っとるってコトはどっかで繋がっとる人やろうし。
 そんなコトを思っとったら俺の反応があんまり鈍うて可笑しかったんか、女の人は笑いだした。
「ごめんね。酒井君があたしの事覚えてるはず無いよね。そうだな。何て言ったら良いかな。1回酒井君のバイト先にご飯食べに行った事が有るんだ。……松永君と一緒にって言ったら思い出して貰えるかな」
「あぁ〜」
 俺があんまり間抜けな声を上げたからか、セミロングの髪をかき上げてまた笑う。
「あんまり良い印象じゃ無いから恥ずかしいけど、思い出してくれてありがとう」
 あ、女の人にえらい恥かかしてもうた。そらそうよな。自分が喧嘩して泣いてるトコなんか思い出されても嬉しゅう無いに決まっとる。俺かてそんな覚えられ方は絶対嫌や。
「物覚え悪うてホンマに堪忍なぁ」
 俺が頭下げたらその人は軽く手を振った。
「良いって。どうして酒井君が謝っちゃうかな。酒井君は全然悪く無いでしょ」
「そうかもしれんけど、やっぱ嫌やろうなて思って……えっと、もっと悪いんやけど誰さんやったっけ?」
 女の人は思い出したって顔して手を合わせた。
「ああ、そうだった。1度も自己紹介して無かったよね。あたし、工学部の真田有希(さなだゆき)。宜しくね」
「俺は情報学部の酒井博俊や。宜しくって……あれぇ?」
 俺、なして今頃名前言うとるん? ちゅーか、この人も今自己紹介したってコトは、まつながーと一緒にご飯食べに来た時以外会ったコト無いっちゅーコトなんか。
 俺が考え込んどったら真田さんは「細かい事は気にしない」と、俺の肩を軽く叩いてきた。
 あ、近くで見るともっと美人さんや。ずいぶんサバサバした人やなぁ。綺麗な人やのに全然飾らないっちゅーか。自然体って言うたらええんかな。
「酒井君と松永君に渡したい物が有るんだけど学校じゃちょっとねと思って。酒井君達のアパートってこの学校の近くなんだよね。今から遊びに行っても良い?」
「今日のバイトは深夜シフトやからあんまり遅くまでや無いんやったら……ってホンマにぃ?」

 18年と11ヶ月、女の子からこないなコト言われたん生まれて初めてやで。俺、夢見とるんや無いよな? ほっぺたつねってみたら痛かったから現実や。
 いや、ちょっと待てや。真田さんて前にまつながーとデートしとったんよな。まつながーは「付き合って無い」て言うてたけど……。
 焦ったらアカン。こういう時は落ち着いてリプレイや。

『酒井君「と」松永君「に」渡したい物が有るんだけど』

 あ、別に俺だけに用が有るとかそういうコトや無いやん。なんや、1人で勝手に盛り上がってしもうた分がっくりくるなぁ。
 俺が百面相しとったせいか、真田さんはお腹を抱えて笑っとる。笑われてもおかしない事したんやからしゃーないけど、ホンマ開けっぴろげな人やな。嫌みにも感じんし。こういう人やからまつながーも気楽にデートしてみようって思ったのかもしれん。
「あ、えーと。来てもええけどホンマに古いボロアパートやし、掃除もあんまりしとらんから綺麗や無いけどええ?」
「酒井君が困らないんだったら行きたい」
「俺は別にかまわんで」
「じゃあ、宜しく」
 俺らはそのまま校門に向かった。多分大丈夫やと思うけど鞄からシステム手帳を出して予定を見た。あ、まつながーもやっぱ今日は深夜シフトや。この分ならアパートで晩飯食うやろ。そのまま携帯でまつながーにメールを送る。
「何してるの?」
 真田さんが興味津々て顔で俺の顔を覗き込んでくる。うっ、美人さんにこないな近くから見られると緊張するなぁ。
「まつながーに用が無かったら早う帰って俺の部屋に寄ってくれる様に頼んだん。もしかしたらバイト先に直行するかもしれんから」
「酒井君は松永君のスケジュール知ってるの?」
 真田さん、ちょっと驚いとるみたいやな。一応説明しとこ。
「隣に住んどるしお互い貧乏やから、バイトや講義の時間が合う時はどっちかの部屋で一緒に晩ご飯作って食べるコトにしとるん。後は先に帰った方が作っておいたりとか。1人分だけ作るのって材料が無駄になったり高くついたりするやろ」
「へぇ。2人共料理作れるんだ」
「俺はまだまだやけど、まつながーの料理はホンマに美味しいし、家事全般得意やで」
 「意外」と真田さんは言った。男が家事が得意って変なんかな。まつながーって学部でどんな顔しとるんやろ? 俺の前では下ネタスキーでアホなコトも平気で言うしやっとるけどなぁ。

 大学を出て大通りを抜けて裏道(もしかしたら東京やとこれが平均なのかも)を通って20分弱歩くと2階建てのアパートの前に着く。俺とまつながーやったら15分もかからんで帰って来れるんやけど、真田さんは女の人やし踵の高い靴履いとるからちょこっと足が遅いみたいや。
「ここなんだ」
 感心したのか呆れたのかよう判らん声で真田さんがアパートを見上げた。
「今にも傾きそうなボロアパートなんでビックリしたやろ」
「ううん。よく駅と学校の近くで安いアパートを見つけられたなって思った」
「寮の抽選に外れたら学校からここを紹介されたん。まつながーもそうやて言うとったで」
「ああ、だから隣なんだ」
 錆びた金属製の階段に真田さんの靴音がよく響く。一応滑り止めが有るけど大丈夫なんかな? 俺の姉貴やったら「こんな汚いトコ嫌! 通りとうも無いわ」くらいのコト言うとる。やっぱ工学部は実習も有るし、これくらいじゃ驚かんのかもしれんな。
 2つドアを通り過ぎて鍵を開ける。
「あ、ちょこっと待っとってな」
 そう真田さんに言うて少しだけドアを開けて中を覗く。朝からあんまり天気が良う無かったからパンツとか洗濯物は風呂場に干してあるし、見られて困るモンはそこらに無いよな。
 俺が安心してドアを大きく開けると、真田さんは俺が何をチェックしとったんか解ったみたいで笑って「お邪魔します」と言うて玄関で靴を脱ぐと部屋に入った。
 6畳の部屋に低い折りたたみテーブルと100円ショップで買うた座布団が2枚。オカンらが地元で買うてくれたノートパソコン、小型テレビにDVD付HDRとミニコンボやタンスに本棚と小さい食器棚。
真田さんは座布団に座って面白そうに部屋中を眺めとるけど、何も無いから女の人が見てもつまらんのじゃ無いんかなぁ。
 やっぱ、お茶くらいは出さんと悪いもんな。ヤカンを火に掛けてお湯を沸かす。夜食用のクッキーと日本茶を出すと、真田さんは「ありがとう」って言ってお茶を飲んだ。

「松永君の部屋もこんな感じ?」
「まつながーの部屋はもっと片付いとって綺麗やで」
「ううむ。ここを上回るとは松永君もなかなかやるわね」
 真田さんは感心した様に呻る。これくらいなら言ってもええやろ。まつながーってあんまり学部の女の子らに自分のコト話してないみたいなんよな。俺が勝手にベラベラ話したら後で怒られそうや。
「台所は結構そろっているね。ここで松永君と2人でご飯食べたりしてるんだ」
 真田さんは台所の方をじっと見て言った。
「どっちっかって決まっとらんけどな」
 たしかにまつながーの影響で俺の台所も色々道具や調味料が揃っている方かもしれん。食器や道具は100円ショップで買ったヤツやし、鍋やまな板はまつながーに連れて行って貰ろうて激安ショップで買い漁った。1人暮らししとる女の子の部屋って入ったコト無いからよう判らんけど、多分もっと綺麗なんやろうな。
 そう思って言ってみたら真田さんに思いっきり噴き出された。
「女子って男子が思ってるよりずっとずぼらな子が多いよ。あたしみたいに親元に居る子はそれなりに部屋を飾ったり片付けてる子も居るけど、寮やアパートに居る子は服や家具で部屋が一杯って子も居るしね。酒井君の部屋がこざっぱりしてて綺麗だから逆にびっくりしちゃった」
「へー。そうなん?」
 そういや姉貴の部屋も服やぬいぐるみや小物が多くてゴチャゴチャしとったな。家出てアパート暮らししとるくせに、未だに姉貴の部屋は姉貴が出てった時のままや。オカンは「いつ帰ってきても良いように」って言うとるけど、俺には不要品物置にされとるとしか思えん。

 真田さんはクッキーを一摘みしてお茶を口を含むとふーっと溜息をついた。
「酒井君は良いな。やっぱり性別の壁って越えられないのかな」
「へ?」
 俺が意味が全然判らんて思っとると、真田さんは恥ずかしそうに笑った。
「松永君ね、学部の男子とは普通に話してるけど女子には冷たいんだ。あ、無視されるとかそういうのじゃ無いよ。授業で解らない問題とか有ったら丁寧に教えてくれるし、話し掛けたらそれなりに答えてくれるから。ただね、何か一線引かれてるなっていつも思う。だからかな。松永君と仲良くしている酒井君が羨ましいと思うよ」
 あ、そうか。真田さんは多分まつながーのコト好きなんや。だから一緒にご飯食べに行ったんやろうし、少し揉めたけど今も友達付き合いは続いてるっぽいもんな。直接まつながーに声掛けにくいから俺に声掛けたんかも。

 これは俺の憶測やし、まつながーから直接何も聞いてないコトやからとても人には言えん。
 まつながーはまだ前の彼女さんのコトが忘れられんのやと思う。1年半も付き合うてきたんやから、いきなり一方的に振られて諦め切れんのは仕方無いて思う。
 一緒に外歩いとる時に着メロを聞いてまつながーが慌てて自分の携帯見たりしとるのを何回も見た。多分、彼女さんからのだけ違う着メロに設定してるんやろう。時々部屋でぼーっと煙草を吸いながら携帯を見とる時も有る。
 もし真田さんが言うとおり、女好きのまつながーが学部の女の子らに距離置いてるんやとしたら理由はそれしか思いつかん。
 こればっかりはまつながーの気持ちの問題やし、いくら隣に住んでるからって他人の俺なんかが口出してええ問題とちゃう。真田さんには悪いけどやっぱ言えんモンは絶対言えん。
 そやけどまつながーがそのせいで女の子らから誤解されとるんやとしたらそれも嫌や。俺はちょこっとだけと思って言ってみた。

「あのな、真田さん。お願いやからまつながーのコト誤解せんであげて欲しいん。口は悪いしあんまり自分のコト話さんけど、ホンマは優しくてええ男なん」
 自分で言うてて急に恥ずかしゅうなってきた。心臓も急にばくばくいいだした。今俺の顔、緊張で真っ赤になっとるかもしれん。
 真田さんは俺の顔をしばらくの間じっと見て笑い出した。
「あはは。大丈夫、ちゃんと知ってるって。松永君がちょっと感情表現が下手だって事くらい毎日顔を合わせてたら解るよ。だってあたしが松永君に振られたのって酒井君の事を誤解して悪く言ったからだよ。全然悪気は無かったんだけど、松永君は酒井君が好きだからあの時に凄く怒ったんだなって後で気付いた。あ、そうそう酒井君に謝らなきゃね。噂を真に受けて酷い事言ってごめんなさい。酒井君って凄くしっかりしてるとあたしは思うよ」
 そう言って真田さんはぺこりと頭を下げる。
 うわーっ。こんなに丁寧に謝られたらめっちゃ恥ずかしい。ちゅーか、どないしてええんか判らん。
 俺が入学した当初はホンマに世間知らずやったから周りからアホ認定されてもしゃーないて思っとる。世話好きのまつながーが色々細かいトコまで面倒見てくれたから漸くここまでなれたんで、俺なんか全然しっかりしとると思えん。
「あ、あの時のコトやったら全然気にしとらんし、お願いやからそないに頭下げんといて」
 俺が慌てて手を振ると真田さんは頭を上げて「松永君もそう言ってたけど、あたしがきちんとけじめを付けたかったの」て言った。
 真田さんてホンマサバサバしとって気持ちのええ性格しとるなぁ。美人さんやし、まつながーと並ぶとお似合いやと思う。

 この後どないして話続けよかて思っとったら玄関のドアがガチャガチャって音立てた。あ、まつながーが帰ってきたんや。助かったぁ。
 まつながーは不機嫌そうにドアを開けて靴を脱いだ。
「ヒロ、物騒だから家に居る時も鍵は掛けておけっていつも言ってるだろ。何回言えば……って真田ぁ!?」
 まつながーは玄関先で大声を上げると硬直しとる。
 メールに真田さんのコト書くの忘れとった。やっぱ驚くよなぁ。俺が部屋に綺麗な女の人上げてるんやから。
「堪忍なぁ。うっかり真田さんのコト教えるの忘れとった。部屋の鍵掛けて無かったんも真田さんが居るからやで。1人暮らしの男が女の人を家に上げるのに鍵掛けちゃアカンやろ」
「あ、……ああ。そういう事か」
「もしかして松永君、酒井君の部屋の鍵持ってるの?」
 真田さんが驚いた様な声を上げた。
「俺もまつながーの部屋の鍵持っとるで。1人暮らしで病気とか何か有った時に困るやろ? ほやからお互いに合い鍵渡しとるん」
「へぇ」
「……ヒロ」
 真田さんは嬉しそうに笑ってて、まつながーは眉間に皺を寄せて額を押さえとる。俺、何か変なコト言うたんかいな。
「あんまり真田にベラベラ話すな。またネタにされる」
 ぺしっと軽く俺の頭を叩くと、まつながーは自分で食器棚から湯飲みを出して、お茶を入れると俺と真田さんの隣に座った。ネタにされるって何をやねん?
「相変わらずとても仲の宜しい事で」
「ほっとけ」
 にこにこ笑う真田さんに対してまつながーは少しだけ機嫌が悪いみたいや。もしかしてまつながーってホンマは真田さんには頭上がらんの?
 いや、もしそうやったら真田さんかて俺やのうてまつながーの部屋に行ってるよな。
「ネタってあたしは「酒井君はしっかりしてる」って事以外は誰にも何も話して無いよ。あの子達が2人の仲が良いところを見掛けて小説を書いただけ」
「アレを俺に渡したのは真田だろうが」
「松永君には直接渡しづらいからって頼まれたから」
「だからってあんなモン預かるな」
 何か知らんけどどんどんまつながーの顔が怖くなっていくし、真田さんもちょこっと機嫌が悪くなっとる。2人は学部が同じやから俺の知らんトコで色々有るんかもしれんけど、やっぱ止めた方がええんかな? どっちも気が強そうやからちょっと怖いんやけど。

 俺がそんなコトごちゃごちゃ考えとると、真田さんがバッグからビニール袋入りの四角いモンを出した。
「これ、あの子達から酒井君と松永君の2人に渡してって頼まれたんだ」
 そう言って俺と松永に渡してくる。
 あ、何かと思ったら同人誌やん。俺らに渡してきたってコトはまた文芸サークルの子らなんかな。前に貰ろうたコピー本と違って、今度のはちゃんとオフセット印刷で作ってある。厚みもそれなりに有るし、表紙もフルカラーで綺麗なイラストが付いとる。
「真田さんて文芸サークルに入っとるん?」
「ううん。あたしはサークルや部活やって無いよ。友達が入ってるんだ。コミケ直前だとレポートの締め切りとぶつかって大変だから、印刷屋が混む前に続編を書いてオフ本にしたんだって」
 学校で渡してくれても良かったのに、これの為にわざわざうちまで寄ってくれたんや。真田さんて友達思いやなぁ。
「へー。ほな、これくれた子にありがとうて言うといてくれる?」
「うん。分かった」

「ありがとう? 分かったぁ? お前らどっかおかしいんじゃ無いのか?」
 まつながーが経験無いけど、3日間くらい納豆食えんかった時みたいに怒りだした。ちゅーか、なしてそないにさっきから機嫌悪いんやろ。俺が勝手に真田さんをアパートに連れて来たからなんかな。それやったら俺に直接怒ればええのに。
「まつながー、なんを怒っとるん? 俺がまつながーを怒らせるコトしたんならちゃんと謝るから、真田さんに当たるの止めてやってな」
 まつながーは更に機嫌が悪い顔になって本を放り投げた。
「俺が怒ってるのはこの本を作った奴らだ。それと俺が嫌がる事を知っていてわざわざ持ってきた真田にも腹が立つし、こんなモン貰って笑って礼なんか言ってるヒロにも腹が立つ」
 えっ。それって皆に腹立ててるてコトなん? 物貰って礼言ったら腹が立つてなん? 当たり前の礼儀とちゃうの?
 そう思って聞いてみたらまつながーに「お前は馬鹿か?」て怒られた。
「ヒロ、お前この本の中身知らずに言ってるんだろ? これは俺とお前がホモだなんて嘘ばかり書いてある気色の悪い本なんだぞ」
 あ、何や。そういうコトか。俺はまつながーの言いたいコト解った気がする。でもそれってちゃうで。
「まつながー。誤解やて。これの中身、俺らのコトとちゃうで」
「はあ?」
 まつながーは何を言うんかって顔しとる。この分やとやっぱりまつながーはこの本ちゃんと読んで無いな。俺はビニールを外してページをめくってみた。あ、良かった。俺が前に読んだトコも入っとる。
「これな。主人公2人の男って同居つーか男同士でも同棲って言うの? しとるん。俺らは隣に住んでるだけやん。それと名前やけど本の中だと「坂本」と「光那賀」になってるやろ。たしかにちょっと似てるかなーて思うけど性格なんか全然別人やで」
「それはそうかもしれないが……」
「ちょっと待ってって」
 ページをめくりながら更に文句を言い出しそうなまつながーを強引に黙らせる。まつながーのコトやから自分が納得できんと絶対引かんもんな。あ、有った。有った。
「ほら、このシーン『坂本は光奈賀にキスされてうっとりと目を閉じた』やて。俺マジでココで爆笑したで。まつながーとキスなんかしたら絶対納豆の味と臭いしかせんと思う。たまに煙草臭いかもしれんけど、俺がもし女でまつながーと付き合っとったら「キスする前に絶対歯磨け」て言うとるわい」

 真面目に解説しとったら真田さんが耐え切れんて感じで大爆笑しだした。畳をどんどん叩いて笑っとる。このアパートは音が響くから、下から文句言われん様にできるだけ静かに笑って欲しいんやけどな。
 まつながーはメチャ複雑な顔して俺のコト見とる。
「ヒロが普段から俺をどういう目で見ているのか今のでよく判ったぞ。納豆臭くて悪かったな。だから外出する前は必ず歯磨きしてるだろうが」
 あ、禁句の『納豆の悪口』言われて機嫌が悪うなっとるんやな。俺も納豆は美味いて思うけど、臭いモンは臭いんやからしゃーないやろ。ビールのつまみやおやつにも干し納豆食っとるまつながーからは、ホンマに納豆の臭いしかせんのやもん。
「悪いとは言っとらん。俺がもしこの坂本の立場やったら絶対嫌やなて思っただけやて。ちゅーか、やっぱ全然別人やから他人事やん」
 まつながーはどう言おうって顔をして、一旦顔を上げると俺のコトを見た。
「俺が1番気に入らないのはそれの冒頭に『我が校の名物コンビに感謝』って書いてある所なんだ。まるで俺とお前がホモみたいじゃないか」
「俺らホモとちゃうやろ」
「違うに決まってるだろうが!」
「ほやったらやっぱしただの別人やて。後書き読むと『とても仲が良い親友同士をよく見掛けるのでちょっとだけ作品を書くヒントにさせて貰いました』って書いてあるん。俺らのコトをまんま書いたなんて一言も書いとらんやん」
 まつながーが眉間に皺を寄せたままポケットから煙草を出そうとして、俺の部屋は禁煙になっとるのを思い出して手を止めた。クッキーは食べないやろうしやっぱここはコレやなっと思って戸棚から干し納豆の大袋を出してまつながーに差し出した。
 まつながーは袋を大きく空けて、ヤケ食いみたいに口一杯に干し納豆を頬張っとる。ばりばりって凄い音と一緒に納豆の臭いで部屋中が充満した。
 やっぱ俺が言ったとおりやんか。それにしても好きなモン食う時くらい、その縦皺止めればええのに。

 まだ腹筋を押さえとるけど真田さんが立ち直ったみたいや。涙を拭いて顔を上げた。
「あたしがアパートに本を持ってきたのも、ちゃんと2人に受け取って欲しいからだったんだ。松永君は前に渡した本をくしゃくしゃにして教室のゴミ箱に捨てたんだよ。あたしが見つけて拾っておいたけど、またあんな事されたらあの子達泣いちゃうよ。松永君がこの本が気に入らなくて捨てるんだったら、家でゴミに出すかこのままあたしに返してよ」
 なん? まつながー、あのコピー本を学校で捨てたんか。
「まつながー。それはやっちゃアカンやろ?」
「要らないモンを無理矢理押し付けられたんだ。どうしようが俺の勝手だ」
 こういう自分に正直なトコ、凄くまつながーらしいて思う。ほやけど……。
「前の事はやってしもうたからしゃーないけどな、この本作った子らって本気で文章書くのが好きで小説書いてると思うん。まつながーかて自分が大事に思ってるモンをゴミ箱に捨てられたら嫌やろ。せめて真田さんが言うとおりに家に持って帰ってから捨てるとか、ホンマに嫌やて思うんやったら受け取らないんが筋とちゃうの」
 俺がじっと見上げとったらまつながーは視線を逸らして髪をくしゃくしゃに掻きむしった。
「俺だって内容がこんなんじゃ無かったらあんな事はしなかったぞ。真田、この本は返す。それで良いな?」
 まつながーが放り投げた本と拾って真田さんに返した。真田さんもそれで納得したみたいでバッグに本を戻す。
「あたしが松永君に言いたい事は全部酒井君が代わりに言ってくれたからね。松永君、この歳になって現実とフィクションの区別が付かない子なんて居ないよ。あの子達は松永君達を見てると微笑ましいって思ってるだけなんだからね」
 ……なんて言うとる。まつながーもさすがに大人げないて思ったんか言い返さんけど、眉間の縦皺がまた増えた。
 この2人が喧嘩にならんでホンマに良かった。

 ほっとして顔を上げたら窓に何かが当たるんが見える。
 しもたぁ。すっかり忘れとった。
 俺は立ち上がるとまつながーと真田さんに声を掛けて外の走った。
「まつながー、真田さん、ちょっと堪忍な。すぐ戻ってくるから」
「おい、ヒロ!」
「え、酒井君?」
 2人の声が聞こえてきたけどしゃーない。うっかりしとった俺が悪いんやもんな。
 俺は雨が降り出す中、急いで近くのコンビニまで走って行った。

 俺が水色の女物の傘を買って帰ってきたら真田さんが「やっぱり」って顔でバッグから折りたたみの傘を出した。
「ごめん。先に言っておけば良かったね。天気予報で午後から雨だって言っていたから傘持ってきてるんだ」
「なんやー。俺アホみたいやん。うちに置き傘無いから急いで買って来たん」
 俺が息を切らして言うと真田さんが笑って言った。
「酒井君は全然アホじゃないよ。凄く優しくて気が利くと思う。松永君も酒井君のこういうところ見習えば」
「真田もだ。その口の悪さをヒロに直して貰え」
 あ、俺が傘買いに行っとる間に2人の間で何か有ったみたいやな。でも険悪な雰囲気って感じや無いからまぁええか。

「その傘、あたしが引き取ろうか?」
 玄関先に出てきた真田さんが財布を出した。
「いや、ええて。俺が勝手に買ってきたんやし、梅雨時に置き傘が1本も無いと不便やから俺が使う」
 俺が傘を後ろ手に回すと真田さんはそれを覗き込んでくる。
「でもそれどう見ても女物だよ」
「あー」
 うーっ。どないしょ。こういう時咄嗟にええ言い訳が思いつかん。
「ヒロが使わなくてもまた客が来た時に雨が降って、女だったらそれを貸せば良いだろ」
 まつながー、ナイスフォロー。
「そういう予定有るの?」
 ……真田さん、ナイスツッコミ。
「予定は全然無いデス。……ほやけど、近いうちに使える様になるつもりや」
「ふーん」
 真田さんは面白そうに笑って「そうだ」と言った。
「これ、2人の置き傘にして先に早く彼女ができた方が使うっていうのはどうかな。どっちが先に彼女作れるかって競争心が出てきて良いんじゃない?」
「はあ?」
 あ、綺麗にまつながーとハモってしもうた。
 真田さんてぶっ飛んだ思考しとるなぁ。
「どっちになるか楽しみにしてるよ。また明日ね。あ、帰り道は解るから心配しなくて良いよ」
 そう言うて真田さんは軽く手を振ると階段を降りて行った。駅まで送ろうかと思っとったけど真田さんに圧倒されて足が出んかった。

「あー、くそっ! だからあの女は嫌なんだ」
 真田さんの姿が見えなくなったらまつながーが通路の手摺りを蹴った。ええけどアパート壊すんは堪忍やで。いくら古うてボロいからて、大家さんから弁償しろて言われても知らんからな。
「真田さんて綺麗やしはっきりしとるから、まつながーとお似合いやと思うけどなぁ」
 前の彼女さんのコトは知らんコトにして、わざとからかう様に言ってみた。
「たしかに真田は美人だしさっぱりしている性格だが、ベクトルが全く違うとアウトだろ」
「それはそうかも」
 たしかにまつながーと真田さんやったらどっちも引かずに延々喧嘩しそうやな。喧嘩するほど仲がええって風にはならんのかな? ホンマ美人さんなのに勿体ないなぁ。

 その後、2人して急いで晩ご飯を作った。いくら深夜シフトやからってちょっとのんびりし過ぎた。かき込む様にご飯食べて一緒に鍋や茶碗を片付ける。
「そういえば、ヒロはあの本を前にも受け取ってたんだな」
「うん」
「よくあんなのを読めるな」
「……うーん。読みたいとは思わんけど、捨てたり受け取らんかったりするのも悪いかなて思って」
 まつながーが不思議そうに俺のコト見とる。自分がモデルやと知っただけであれだけ怒るまつながーやったら当然の反応かもしれん。
「高校時代ん時にゲーム好きの友達が同人誌作ってたんな。1冊じゃ無理やから50部とか100部とか印刷屋で刷るん。あれだけの本を作ろうて思うたら印刷代だけで何万て掛かるんやて。俺の友達はずっとバイトしてお金貯めてコミケとかに出るて頑張っとったん。そういうのを身近で見とったからかなぁ。あの本を作った子らも多分そうなんやろうなって思ったん」
「で、お人好しのヒロは自分を元ネタにしたホモ本を笑って受け取ったという事か」
「内容は好みや無いけど所詮はフィクションで他人事やし、読みたく無いシーンは全部飛ばすからまあええかなーて。それにわざわざ持って来てくれた真田さんにも悪いなぁて思ったし。ははは……」
 まつながーはタオルで手を拭くと、苦笑する俺の頭を軽く叩くと「バーカ」と笑って言った。
 良かった。もう怒って無いみたいや。


 朝から雨で面倒やなぁ。って思いながら校門を通ったら後ろから声を掛けられた。
「おはよう。酒井君、その傘ってあの時のだよね?」
「おはよー、真田さん。バイト先で傘無くしてもうたん。新しく買うのも面倒やし水色やからまあええかて思うて俺が使うコトにしたん」
「それじゃ賭けは無しかぁ。つまんない」
「賭けってなん?」
 俺が聞き返すと真田さんはしまったって顔をして舌を出した。
「実はうちの学部の女子でその傘を酒井君と松永君のどっちが先に彼女に渡せるかって賭けてたんだ。でも使うのが本人だったら無効だよね」
「まさかと思うけどそれまつながーに……」
 俺がおそるおそる聞くと真田さんは笑って言った。
「言ってないよ。松永君、すぐ怒るから。酒井君の爪の垢でも飲ませてやりたいくらいかな」
 こらアカン。ホンマにまつながーと真田さんてほぼ同じ強さでベクトルが全然別方向や。
「お願いやからそれもまつながーには言わんといてな」
「さっきから全部聞こえてる」
「おわっ!」
 振り返ったらまつながーが不機嫌な顔して後ろを歩いとった。すぐ後ろに居るんなら声くらい掛けれや。真田さんは「また後でね」と言って走っていく。逃げ足早いなぁ。

 うーっ。もう1回振り返るんが怖い。背中にビシビシ痛い視線を感じる。けど後ろに居るの知ってて無視するのも変よな。
 思い切って振り返えったらまつながーの方から声を掛けられた。
「ヒロ、当分の間昼飯そっちで食うから待っててくれ」
「何で?」
「学部の女共からオモチャにされるからだ。あいつらどういうつもりか、最近徒党を組んで俺で遊ぶんだ」
 本気でぶすったれとるまつながーの横顔を見て俺は逆に安心した。
 なんや、いつの間にかまつながーも学部の女の子らともしっかりなじんどるやん。やっぱ、真田さんのおかげかなぁ。
 俺が声を抑えて笑っとったら、まつながーから傘の柄で頭を叩かれた。

 あれ?
 っと思うて顔を上げたら、いつの間にか雨が上がって、雲の合間から綺麗な光がさしとった。

おわり

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