『だって健(けん)君、全然こっちに帰ってこないし、あたしも受験勉強で疲れてるのよ。メールや電話だけじゃ嫌なの。だからバイバイ』
「ちょっと待てよ!」
 俺がそう言い掛けた時に電話を切られた。

 東京に出てきてわずか1ヶ月、1年半も付き合ってきた女にあっさり振られた。


『Natto is my life -2-』


 諦めが悪いとは思いつつ携帯のボタンを押して美由紀に電話を掛けた。
 くそっ。
 10回コールしても全然出やしない。俺の番号を着信拒否に入れやがったな。あいつ、始めから別れ話をするつもりで電話掛けてきたんだな。
 たかだが1ヶ月顔見ないだけで嫌いになったぁ? おお、上等じゃないか。俺だってそんな女に用は無い。
 携帯をベッドの上に投げ出して八つ当たりで部屋の壁を軽く蹴った。
 しまった。
 さっきの大声も今の蹴りも全部隣に筒抜けだ。貧乏アパートの悲しさよ。プライバシーも何も有りゃしない。それより今の蹴りが合図だとヒロに思われてるかもしれない。用が有って行くのが面倒臭い時は壁を叩く習慣がついてしまってる。

 5分ほど経った頃に玄関の扉がノックされた。吸っていた煙草をもみ消して扉を開けると、やっぱりヒロが小さな袋を持って立っていた。
「これな、俺の新作。まつながーも良かったら食べてみて」
 そう言ってヒロは俺の顔をチラッと見て袋を押し付けるとそのまま帰ろうとする。
 待て待て。別にお前に怒ってる訳じゃ無いって。襟首を掴んで引っ張たら、少しだけ困った様な顔で俺を見上げてきた。
「……俺、猫とちゃうで」
「アパートはペット厳禁だろ。それに猫がアパートを借りれるか」
 俺が下手な冗談で切り返すとヒロは「それもそうやなー」って暢気な声で笑った。
 ヒロこと酒井博俊は俺と同じ大学に通う同い年。たまたま同じアパートに引っ越して以来、友達付き合いが始まった。三重弁丸出しののんびりした口調、小柄なのと大きくてくるくるした目が歳よりずっと幼く見せている。
 俺も初めはヒロの事を世間知らずの馬鹿だと思ったが、ここ1ヶ月の付き合いでこいつへの認識はかなり変わってきている。今が丁度それだ。俺の不機嫌顔を見てすぐに部屋に帰ろうとする。さっき怒鳴り声を上げたばかりだし、そっとしておいた方が良いって思ったんだろう。

「愚痴言いたいから付き合えよ」
 俺が半ばヤケ気味に言うと、ヒロは少しだけ首を傾げて聞いてきた。
「俺なんかでええの?」
「自分で自分の事を「なんか」なんて言うな」
 俺は襟首を掴んだままひょいと体重の軽いヒロを持ち上げて玄関の中に入れた。強引かもしれないが、こうでもしないとヒロは俺に気を使って部屋に上がろうとしないだろう。
 あ、と思い直して先に聞いておくことにした。
「部屋の鍵は掛けてあるか?」
「まだー」
「さっさと掛けてこい!」
「うん、そうする。あ、まつながー、何か持ってきた方がええ?」
「何も要らないから戸締まりだけして来い。ちゃんとガスや電気も確認しろよ。窓の鍵も閉めるんだぞ」
「分かったー」
 そう言ってヒロは苦笑しながら自分の部屋に帰って行った。あ、また「母親臭い」とか思っているな。
 あいつのうっかりはお袋さんゆずりだとかで、度々鍵を掛け忘れて出掛けるし、よほどバイトで疲れたのか部屋に入らずに玄関先で寝ている時も有った。元々のんびりした性格らしくて俺を呼ぶのも間の抜けた平仮名にしか聞こえない。
 と言うか、力の抜けるあの呼び方がどうやらヒロ流の俺のあだ名らしい。

 ビールと干し納豆を出すとヒロは少しだけ嫌そうな顔をした。
 「お前はどこのお坊ちゃんだ?」と何度も聞きたくなったくらいヒロは酒や煙草に免疫が無い。安いボロアパートに住んでいるくらいだから普通の家庭で育ったんだろうが、喫煙もパチンコも麻雀もやった事が無い18歳の男はかなり珍しい部類だと思う。
 1度、大学で訳も判らないまま集団にヒロがカモられそうになったのを知って、俺が速攻で救出した後に説教して以来、ゲームで麻雀のルールを必死で覚えようとする後ろ姿には涙が出そうになった。
 それでもヒロは鈍感じゃ無い。全然態度に出さないし、何も言わないが今も俺に気を使ってくれていると思う。事情を聞かない代わりに、俺が落ち着くまで黙って側にいてくれる。
 俺はヒロのこういう所が好きだ。
 18年間彼女居ない歴更新中っていうのは、単にヒロが恋愛に積極的じゃ無いだけじゃないかと思うくらいだ。
 俺が黙って缶ビールを空けると酒が苦手なヒロもそれに付き合った。
 「愚痴に付き合え」と言ったっきり時間だけが経っていくのに嫌な顔1つしない。俺が話すのをじっと待っているんだろう。俺はゆっくり息を吐いてヒロの顔を正面から見据えた。

「美由紀と別れた。と言うか、さっき振られた」
 正直にいきさつを全部を打ち明けるとヒロは大きな目を更に大きくして俺を見た。
 しばらく黙って干し納豆をつまんでいたがぼそりと言った。
「彼女さんも受験でイライラしとるのかもしれんなぁ。勉強がキツイのに毎日まつながーの顔を見れんくて寂しかったんかも」
 言われて漸く気付いた。さっきの美由紀の声はかなり苛ついていなかったか? あいつの成績は志望校合格ラインギリギリだった。俺が嫌になったんじゃなくて本当に今は心の余裕が無いのかもしれない。
 恋愛経験ゼロのヒロから言われたかと思うと少し情けなくなった。
「ほやけど、彼女さんも勿体無い事したなぁ。まつながーは男の俺から見てもホンマええ男やのにな。フリーになったって知ったら大学の女の子らが絶対放っておかんて思うで。まーつーなーがー、モテモテ。羨ましいでー」
 缶ビール1本ですでに真っ赤になっているヒロはそれだけ言うとぱたりと横になった。
「おい、寝るなよ」
 何度も俺の部屋で酔っぱらったあげく、そのまま寝られているので俺はヒロの肩を軽く揺すった。
「おい、ヒロ、こらっ。マジで寝るなって!」
 数回頬を叩いたが全然起きやしない。言うだけ言ってこれだ。あんなベタ誉めを言われた方が赤面する。
 俺は苦笑しながらヒロに毛布と夏用の布団を掛けた。
 ヒロはすぴすぴと寝息を立てながら笑っている。……器用な奴だ。俺はヒロの横に座り直すとビールを一口飲んだ。
 ヒロの言うとおり自分を振った女の事なんかさっさと忘れて新しい彼女を見つけるのも手かもしれない。俺の学部は女が少ないけど1期生の間は一般授業でいくらでも出会いは有る。
 俺は煙草を吸おうとしてライターに火を付けたが、ヒロが苦手なのを思い出してポケットに戻した。

 翌朝、目を覚ましたらヒロはとっくに出掛けていた。郵便受けが有る玄関口に部屋の鍵が落ちていた。寝ている間に毛布と布団を畳んで、俺のジャケットのポケットから鍵を出して戸締まりをして行ったらしい。
 朝飯くらい一緒に食って行けば良いのに……と思ったが、ヒロは1限目の講義を結構入れていたな。朝は早いし時々バイトで帰りも遅い。自分の事をあまり話さないから俺はヒロがアパートと大学以外で何をやっているのかほとんど知らない。聞き役タイプみたいだが、そんな事ばかりやってると彼女居ない歴19年に突入確実だぞ。
 テーブルの上には昨夜ヒロが持ってきた紙袋が置いてあった。開けてみると中からクッキーみたいな物が出てきた。薄茶色の生地に細かく刻んだひき割り納豆がまぶしてある。……また変なモンを作ったな。
 囓ると1週間以上賞味期限切れみたいな納豆と鰹節らしき味がした。微妙に不味い。
 だからいつも「納豆は温め過ぎるな」と言ってるだろうが。
 ヒロは醤油とネギよりダシ味が好きみたいで、たこ焼きならぬ納豆焼きだの納豆入りお好み焼きだのと、俺から見たら邪道としか言いようが無い食い物を作っては俺に持ってくる。創作納豆料理に度々挑んでいるが、大抵自分で食べた後に口を押さえて便所に駆け込んでいる。今回は自信が有ったんだろうけど、ヒロの味覚はいまいち俺には理解できない。


 3日と経たない内に俺がフリーになったと学部で噂になっていた。唯一話したヒロが言いふらすはずが無いと思っていたら、休憩時間に美由紀にメールを送って無いのがばれた原因だと言われた。
 恐るべし女の情報網と観察力。という事で、今大学のカフェで誘ってきた同じ学部の女と一緒に昼飯を食っている。
 「こっちの方が美味しいから」と連れて来られたカフェは洋食しか無い。納豆パスタも、いつもの食堂なら普通に置いてあるカップ納豆すら有りゃしない。仕方が無いからシーフードスパを注文する。
 そっちが何を食っても良いから俺に納豆を食わせろ。と言うか、マジで食いたいんだ。これはラーメンにも納豆を入れる茨城県民へのいじめか?
 ケーキで腹がふくれるのか? と聞きたい所だが、どうやら別腹らしくてちゃっかりピラフも注文していて食っていた。

 東京に出てきて気付いたんだが、生まれついての関東人は大学にはあまり居ない。たまたま俺の学部や周囲だけかも知れないけど、ヒロみたいに他地方から出てきた奴の方が多い。
 そのせいか俺の納豆好きを理解してくれる奴は皆無に等しい。
 日本人なら納豆を食え。納豆を食わずして日本人を名乗るな……なんて事を言って、理解してくれたのが三重県民であまり納豆が好きじゃ無かったヒロだけだったのはかなり深刻な状況だと思う。
 このまま日本食は廃れていくのか? 逆に外国では日本食は健康食として注目されているのにだ。
 自国の食文化に誇りを持てよ。日本人。
 実はちょっと前にヒロから「納豆だけが日本食とちゃうんやで」と突っ込みを喰らったのは内緒だ。

「松永君は休日に何してるの?」
 食後にコーヒーを飲んでいると、ケーキを突きながら女が俺に聞いてきた。そう言えば名前を聞いて無かった。たしか服部だったか。特別好みのタイプでも無いし、気が合いそうも無かったからこれまで挨拶程度しか話した事が無い。
「バイトに家事とパチンコ」
 俺が適当に答えると「えーっ、イメージと違う」とか言っている。どういうイメージで俺を見ていたんだ?
「松永君て体格が良いから何かスポーツをやってそうな感じだったんだけどな。趣味は何?」
 これは見合いか?
「高校2年まではバレーをやってた。今は特別趣味って言えるほどの物は無いな。普通に本読んだり、映画のDVDを観たりとか……」
「1人暮らしでそれってつまらなくない?」
 そんな事までリサーチ済みかよ。しかも「つまらない」とはどういう言い草だ。
「映画は隣に住んでるヒロと適当に話しながら観てるし、結構一緒に遊んでる……かな」
 DVDレンタル代だって馬鹿にならない。俺のバイト先からヒロと共同出費で借りている。引っ越して来た当初、ヒロが食品の買い物すらまともにできなかったのと、まとめて安く買えるから今も休日に一緒にスーパーに買いに行って後で割り勘のパターンが多い。
「ヒロって誰?」
「情報学部の酒井博俊。アパートが一緒なんだ」
 俺がそう答えると服部は思い出したという顔をして「ああ、あの子」って言った。
 ヒロ、多分見ず知らずだろう同い年の女から「あの子」呼ばわりされてるぞ。お前、何やったんだ?

 俺が時計に目を向けると服部も次の講義の時間だからとトレイを持って席を立った。
 「またね」とか言ってたけど、こっちは「2度とごめんなさい」だ。飯は不味いし、話は聞かれる一方で面白くないし、その上疲れた。
 美由紀とはメールと電話だけのやりとりになってたから、女が色々と面倒くさい生き物だとうっかり忘れていた。
 服部と一緒に飯を食ったのがあっという間に広まって、他の女達からも毎日の様に昼飯を誘われて俺は閉口した。断る口実にちょっと歩くがヒロの学部まで行って、一緒に昼飯を食う事にした。
「わざわざ毎日迎えに来んでもええのに。俺がそっちに行こか?」
「俺がこっちで食いたいから良いんだ」
 呆れた様な顔で笑うヒロに俺は不機嫌顔で答えた。
 他の奴から仕入れた情報だとヒロは自覚が無いだけで、うちの学年では結構を名前を知られているらしい。

 ……今時珍しい「天然記念物」として。

 ヒロが俺を迎えに来ようモンなら、個性的な俺の学部の女共からオモチャにされるのが目に見えている。
 それにヒロは他の奴らと違って、俺がどんな組み合わせで納豆を食っても何も言わないから安心して飯が食える。学部の奴らと食う時にうどんやそばと一緒に納豆を頼むと大抵嫌な顔をされた。
 休みの日によく一緒に飯を食うからかもしれないが、ヒロは俺が何をどう食べようと普通に笑っている。
 うちの女共もこいつの懐の深さ知ったらあんなあだ名では呼ばないだろう。
 たまたま休み時間に廊下でヒロとすれ違ったんで声を掛けた。
「今夜暇か? ヒロが観たがってた映画のDVDが手に入ったんだ」
「あ、堪忍な。今夜は遅くまでバイトやねん。急に辞めた人がおってシフトが変わってしもうたん」
 申し訳なさそうに頭を下げるヒロに俺は軽く手を振った。
「1週間レンタルにしといたから気にするな。週末の休みでも充分間に合う」
「まつながー、おおきに」
 ヒロがにぱっと笑うので俺も笑い返した。「癒し系」ってヒロみたいな奴の事を言うんだと思う。一緒に居るとつい最近失恋した事まで綺麗に忘れられるから不思議だ。

「今夜、空いてる?」
 そう誘ってきた真田は俺の学部でも美人で割と人気が有る女だった。
「予定がキャンセルになったから一応暇だ」
 俺がちょっとだけ警戒した顔を見せると真田は笑った。
「松永君は茨城出身で納豆好きらしいね。あたしも千葉出身だから好き。近くに安くて美味しいって評判の和風レストランを見つけたの。一緒に食べに行かない?」
 少なくともイタ飯だのフランス料理だのに付き合わされる心配は無いらしい。俺が頷くと「じゃあ6時に駅前の噴水で」と言って小走りで教室を出て行った。
 俺が講義で纏めたノートをルーズリーフに整理していると、「真田さんから誘って貰えるなんて羨ましいぞ」と教室に居た奴らから頭をしたたか叩かれた。そう思うなら自分から真田に声を掛けて誘えば良いだろうが。

 図書館で時間を潰して駅に行くと真田が駆け寄ってきた。当たり前の様に俺の腕に手を掛ける。まぁ、スタイルは良いし美人は得って事で俺も悪い気はしない。
 真田は俺の専攻する工学部の中でも1、2を争う美人で頭の切れも良い。特別着飾っている訳じゃ無いのに、スタイルの良さが判るスッキリしたデザインの服、軽くウェーブのかかったダークブラウンでセミロングの髪がよく似合っている。他の女達がうるさいくらいのおしゃべり好きなだけに、真田のサバサバした口調が男の好感度を更に上げていた。

 真田が俺を連れて行ったのはアパートとは逆の方向に駅から歩いて10分の所に有る最近流行っている和風ファミレスだった。たしか店オリジナルの豆腐が旨いと聞いている。こんな所にも有ったんだな。入るのは初めてだ。
「いらっしゃいませ。2名様ですか? 喫煙席と禁煙席のどちらになさいますか?」
営業スマイルの店員に聞かれて俺が真田を振り返ると「松永君、煙草吸うよね。あたしは吸わないけど喫煙席で良いよ」と、あっさり言われた。
 気を使われているのかもしれないが、遠慮するのも馬鹿らしいので迷わず喫煙席に行く。
「いらっしゃいませ。当店は水とおしぼりはセルフサービスになっております。ご注文がお決まりになりましたらボタンを押してお呼びください。あっ、まつ……」
 メニューを持ってきた店員の声に聞き覚えが有ったので顔を上げたら、ヒロが目を大きく開いて俺を見て、すぐに営業スマイルに戻ると席を離れた。
 ヒロはこの店でバイトしていたんだ。全然知らなかったぞ。教えてくれても良いだろうに。制服を着ているヒロは多めに見ても高校生バイトにしか見えない。
 メニューを見て煮魚セットと単品で納豆にした。小さいカップなのが少々不満だが食べられないよりはマシだ。真田は噂の豆腐ヘルシーセットに決めたらしい。ボタンを押すとヒロがオーダー端末を持ってやって来た。
「ご注文を確認いたします。煮魚セットとヘルシーセット、単品で納豆がお1つですね?」
 俺が黙って頷くとヒロが小声で言った。
「ここの納豆って小さいからまつながーには少ないんやないかな。彼女さんの分て事で2個頼んだらええんとちゃう?」
「あ、その手が有ったか。じゃあそうしといてくれ」
「うん、分かった。……ありがとうございます。納豆を1つ追加いたします」
 ヒロはメニューを回収すると、頭を下げて厨房に入って行った。

「知り合い?」
 真田が興味深げにヒロの後ろ姿と俺を見比べた。
「隣に住んでる奴で……」
 俺が言い掛けると「あ、あの天然記念物の子」と笑った。
 真田もヒロの事を知っているのか。だからって本人を見て天然記念物は無いだろ。俺は席を立って2人分の水とおしぼりを取りに行った。
 たしかにヒロは今時珍しいくらい真面目で箱入りの世間知らずな奴だ。噂が勝手に1人歩きしてあいつの良い所は全然知らないくせに平然と俺の前で陰口を言う。何かだんだん腹が立ってきたぞ。

 店が混雑している割に15分もしない内に料理が運ばれた。俺のトレイにはちゃっかり納豆が2つ乗っている。
「ご注文の品はこれで全部ですね? どうぞごゆっくり」
 ヒロは真田の料理を持って来くるとオーダー票をケースに入れた。足早に別の接客に向かうヒロを見て真田がまた笑った。
「松永君なら知ってるかな。あの子、情報学部の女子に結構人気有るらしいよ」
「へぇ」
 ヒロの口からは全くそういう話は出ない。もしかしたら俺には黙っているだけなんだろうか?
 俺が箸を割って味噌汁に口を付けると真田が少しだけ身を屈めて小声で囁いた。
「見た目も性格も可愛い系だって」
「……まぁ、そうかもしれないな」
 女からは童顔のヒロは可愛く見えるのか。そういう感覚は俺には良く解らないから曖昧に頷くと、真田は豆腐に醤油を掛けて箸で切り分けながら言った。
「松永君があの子と仲が良いって聞いて、意外だったけど……実物を見たらかまいたくなるタイプかもと思った」
「は?」
 俺が間の抜けた声を上げると真田は軽く吹き出した。
「だってあの子の評判って「子犬みたいで可愛い」とか「頭をなで回したい」とか「しっぽと耳が似合いそうな男子ナンバーワン」だよ。松永君もあの子に懐かれてるでしょ。やっぱり子犬みたいに嬉しそうに後を付いてくる?」

 ブチ切れた。
 何が子犬だ? 愛玩動物じゃ有るまいし。世間ずれしていないし、1人暮らし慣れしていないだけで、あいつはれっきとした18歳の男だぞ。
「何も知らないくせにあいつの悪口を言うな」
 俺はそれだけ言うと、オーダー票を持って立ち上がった。真田ならまだマシかと思っていたが、こいつも他の女達と変わり無い。
「えっ、ちょっと松永君?」
 真田は手を伸ばして俺を引き留めようとしたが、その手を軽く払った。これ以上真田の顔を見ていたら店の中で怒鳴ってしまいそうだ。大股で歩いてオーダー票をレジに持って行くと、ヒロが慌てて走ってきた。
「まつながぁ、ご飯全然食べてないやん」
「良いんだ。金は俺が全部出すから精算頼む」
 俺のこれ以上は無いっていう不機嫌顔を見て、ヒロは渋々金を受け取っておつりを渡してきた。店を出るとヒロが「お客様、忘れ物ですよ」と言って追いかけてきた。ヒロの手には俺がいつも吸う銘柄の煙草が有った。
 ポケットを探ると俺の煙草は有る。あの馬鹿、自販機用に置いてあるのをわざわざ持ってきたな。
 ヒロは俺の服の袖を掴むと引っ張った。
「まつながぁ、やっぱりちゃんとご飯食べなあかんて。ご飯は大切にせなあかんていつもまつながが言っとるやろ」
「不味い飯を食うくらいなら俺は空腹を選ぶ」
 手を振りほどこうとしたが、意外に握力が有るのかヒロの手は外れない。
「ここのご飯がまつながーの口に合わんとは思わんで。俺にはちょっと辛めやけどまつながー好みやと思う」
 ヒロは真っ直ぐに俺の顔を見上げてくる。ああ、もうコイツは……。
「あの女の顔を見てたら飯が不味くなるんだ」
「なして? 綺麗な人やん」
「性格が嫌なんだ」
 俺が大きく腕を振ってヒロを引き離すと、ヒロは俺の腕を掴んできた。
「それはちゃうやろ! 性格が嫌なら始めっからまつながーは一緒にご飯食べんはずやろ。あの人は……俺のコトちょっとだけ勘違いしとるだけ……やで」
「聞いてたのか?」
 俺は振り返ってヒロの顔を見た。ヒロは少しだけ顔を赤くして「たまたま近くにおったから」と俯く。
「あんな事まで言われてお前は腹が立たないのか!?」
 俺が怒鳴るとヒロも怒鳴り返してきた。
「俺が学部の女の子らから情けないて思われとるんは本当のコトやから仕方ないて思う。ほやけど、それは今のコトで、これから俺が頑張ってしっかりしてきたら、女の子らかてそんなコト言わんくなるやろ。まつながが俺を庇って怒ってくれるんは嬉しいけど、ほやかて女の子泣かしてええって理由にならんとちゃうの」
 ヒロが指さしたガラスの向こう側には真田が2人分の飯を前に顔を両手で覆っていた。小さく肩が震えているからヒロの言うとおり泣いているんだろう。
「あの人に少しでも悪いて思うんやったら戻ってあげてな」

 あれだけの陰口を言われても尚、ヒロは俺に頭を下げて仲直りしろ言う。
 本当にこいつのこういう所にはかなわない。
「悪かった」
 ヒロの頭を軽く撫でて俺は店に戻った。ヒロは俺の後を付いてきて新しい煙草と灰皿をテーブルに置いた。
「お客様、当店では煙草は自動販売機のみの販売となっております。灰皿はドリンクバーの右端に置いて有りますので宜しくお願いいたします」
 それだけ言って軽く頭を下げるとヒロはまた厨房に戻って行った。
「……煙草を追加オーダーしただけ?」
 真田がハンカチで真っ赤になった目を隠しながら俺の方をチラリと見た。元々頭の良い女だ。俺達の様子から芝居だと判ったんだろう。
「まぁな。……と言うか、ヒロがそういう事にしとけって事なんだろ」
 真田はびっくりして顔を上げた。
「真田はあいつを噂でしか知らないんだろうが、ヒロはああいう奴なんだ」
「見た目よりずっとしっかりしてるんだ」
「ああ。と言っても、単純馬鹿は本当だけどな」
 俺が笑うと真田も漸く笑った。
 俺達は少しだけ冷めてしまった料理を食べて店の前で別れた。
 別れ際に真田は「酒井君に酷い事を言ってごめんなさいって伝えてくれる? 本当は自分の口から言うべき事だけど、ちょっと顔を合わせ辛くて」と言った。
「ヒロはあんな事を気にする奴じゃ無い。あいつは真田達が思っているよりずっと懐が深いんだ」
 俺が言い切ると真田は笑って軽く肩を揺すった。
「そうみたいね」
「じゃあな」
 俺は真田に軽く手を振って1人で駅の方角に向かった。これで学部での俺の評判もがた落ちになるだろうが、かまうもんか。
 アパートに帰る途中でコンビニで酒を袋一杯買った。今日は思いっきり飲みたい気分だ。ヒロが何て言おうが無理矢理にでも飲ましてやるからな。

 12時近くになってバイトを終えたヒロがアパートの階段を上がって来る。俺は缶ビールを飲みながら手すりにもたれて、ヒロの部屋の前に居た。
「まつながー、何やっとるん?」
「ヒロと飲もうと思ってここで待ってた」
 俺が酒臭い息を吹き掛けるとヒロは露骨に嫌な顔をした。
「バイトで疲れとるんやから堪忍してやー。俺は風呂に入ってさっさと寝たい気分なん」
「明日の講義は午後からだったよな?」
「うん。ほやからゆっくり朝も寝れると思って、バイトのシフト時間組んでるん……って何すんねん?」
 俺はヒロの襟首を掴んで強引に俺の部屋に引き込んだ。お前が寝たかろうが何だろうが、俺は今お前と酒を飲みたいんだ。

 ヒロはテーブルの上一杯に置いてあるビールとチューハイの缶の数とツマミの量を見て情けない声を上げた。
「まつながー、堪忍してや。まさかあれを今夜全部2人で飲むとか言うんとちゃうやろな? 俺が酒に弱いコト1番知っとるんはまつながやろ」
「ところがどっこい。そのつもりで買い込んだんだよ」
 俺はヒロの両足を引っ掛けて転ばすと、靴を脱がして座布団の上にヒロを座らせた。ヒロはぶつけて赤くなった鼻をさすりながら恨みがましい目で俺を見る。
 ここで怒って席を立たない所がヒロの凄い所だ。俺が同じ目に遇わされたら絶対に相手を1発は殴っている。

「あの綺麗な人と……」
 そこまで言い掛けてヒロは黙ってチューハイの缶を開けた。ヒロはどんな時でもむやみに人の事を詮索しない。
 それでも今夜は俺がヒロの口を割らしてやりたいんだよ。
 いつも笑っているけどヒロは大学で自分がどう噂されているかなんて、とっくに知っていたのかもしれない。だからこそ俺に何度も聞きながら色々な事に挑戦しようとしているのかもしれないんだ。
「同じ学部なだけで、付き合ってるとかじゃ無いから気にするな」
 干し納豆の袋を開けながら言うと、ヒロは「ふーん」とだけ言った。
「何だ? その「ふーん」っていうのは。俺がお前に嘘つくとか思ってるのか?」
 ヒロの頭を抱えて堅めのヘッドロックを掛けると、手足をじたばたと動かしながら「ギブ! ギブ!」とか言ってくる。

「俺の質問に正直に答えたら離してやる」
 そう言うとヒロは抵抗を止めて少しだけ緩んだ腕の中で顔の向きを変えた。
「なん?」
「お前の好みのタイプってああいうのか? だから泣かすなと言ってきたのか?」
 俺がニヤリと笑うとヒロは真っ赤になって大きな目を何度も瞬きさせた。
「べ、別に……スタイルええし、綺麗な人やと思ったけど……それ以上のコトは思わんかったで」
「ほー、ほー、ほー。で?」
 腕の力を強めるとヒロは再びギブアップした。
「俺、どっちかっつーと綺麗な人より可愛い子の方がええねん。小さくて俺が守ってやらんとって思うタイプの子が好きなん」
 俺が手を外すとヒロは飲みかけのチューハイ缶を持って、俺のリーチが届かない所まで這って逃げた。2度とヘッドロックを喰らいたく無いらしい。

 小さくて守ってあげたくなる様な可愛い子か。
 ……ヒロに鏡を見せたくなったのは俺のせいじゃ無いよな。変な噂を聞かせた真田が悪い。
「お前の口からそういう台詞が出るのは10年は早い」
 あっさりと返すとすでに酒で真っ赤な顔になったヒロはきっぱりと言い切った。
「10年先でもええやろが。大器晩成って言うやろ? 俺がそのタイプやないて言い切れんやん。まーつーなーがーから見て後10年やと思うんやったら、俺は頑張って2年でそれだけの男になったるわい!」
「へぇー、へぇー、へぇー。お前がなー」
「今はまだ女の子らからトロイとか頼りないとか言われとるけど、2年後見とれや。まつながー以上にモテモテになったるわい」
 ヒロ、お前やっぱり噂を知っていたんだな。
「今はチビやけどその内身長だってまつながーを追い越して、結構力仕事やからバイトで筋肉も付けて、料理もできる「旦那にしたいタイプナンバーワン男」になったるで」
 それだけ言うとふらついたヒロはばったりと畳の上に転がった。
 あ、疲れと興奮で酒がいつもより早く回ったな。大の字になったヒロは早々に寝息を立てている。

 料理の腕はともかくその童顔で小柄な所はたった2年で変わるとは到底思えない。……とはさすがに可哀相でツッコミを入れる気にならない。
 ヒロの理想とは大きく外れるだろうが、懐の深さや芯が強いからこそ癒し系でいられるのだと気付く女が現れるかもしれない。
 今はまだ見つからないが、俺にもいつかは自然体で相性が合う女と出会えるかもしれないよな。

 なあ、ヒロ。
 俺達、まだ18歳で大学に入ったばかりだよな。焦って彼女作る必要無いよな。勉強して、バイトして、色々な事を覚えていく時期だろ?

 なぁ、ヒロ。
 お前は気付いて無かったんだろうが、ここに引っ越したばかりの時に、お前が俺を頼ってくれたのが凄く嬉しかったんだ。寮はなんだかんだと言っても見知った同じ学校の奴らの集まりだ。知らない土地に1人暮らしで心細いと思っていたのはお前だけじゃ無いんだぞ。

 なあ、ヒロ。
 お前が居るから俺は寂しく無いんだからな。それくらいいい加減に気付よ。お前が俺を頼ってくれている様に俺だってお前に頼ってるんだ。

 当分はヒロに彼女ができなきゃ良いなんて、滅茶苦茶都合の良い事を考えている俺が居る。
 俺はビールを空けると新しい缶に手を伸ばした。視界の先に熟睡しているヒロが目に入った。

 ……ちょっとした出来心。冷蔵庫から小粒納豆を数粒出してヒロの鼻の穴に突っ込んでやった。
 数秒後、悲鳴を上げて飛び起きたヒロの背中に俺は爆笑しながらタオルを放った。
 流しに駆け込んで鼻に詰まった納豆を全部出して涙目になりながら「何すんねん!?」と怒るヒロにビールを差し出す。
「こっちは徹夜で飲む気なのに1人でさっさと寝るな。一気に目が覚めただろ? 一緒に飲もうぜ」
 涙を流しながら笑う俺の顔を見て、さっきまで怒っていたヒロもにぱっと笑った。
「まつながーが先に潰れたら、嫌いな甘納豆を鼻に突っ込んたるから覚えとれよ」
「俺がお前より先に潰れるかよ」
「そんなのやってみんと判らんやろ」
 俺達が深夜に爆笑し続けたので下の階の奴から「うるさい!」と怒鳴られた。

 なあ、ヒロ。
 今日みたいな事が度々有っても良いだろ?
 俺は当分お前とこうして遊んでいたいんだって。

 翌日、午後の講義を受けにヒロと一緒に大学に行くと、真田が小声で俺に話し掛けてきた。
「良かったね。あの子の評価が上がったよ。「気難しくて怒りっぽい松永君を宥められる唯一の人」だって」
「は?」
 俺が訳が解らないという顔をすると、真田は軽くウインクした。
「お互いに持ちつ持たれつで良いコンビだね。少なくともうちの学部であの子の事を悪く言う子はもう居ないと思う。2人共、当分彼女ができなさそうな噂も立ってるけど仕方無いよ」
「はあ?」
 思わず聞き返すと真田は意味有りげに笑って友人達の所に戻って行った。


 真田が言った事の意味を俺が知ったのは、夏前に文芸サークルの連中が作ったとんでもない内容のコピー同人誌を読んだ時だった。ヒロには絶対読ませられないシロモノですぐにゴミ箱に放り込んだ。
 人の噂も75日、秋風が吹く頃にはきっと俺達にだって春? は来る。
 本音は泣きたい気分だが、そう信じる事にした。

 なぁ、ヒロ。
 ……女ってマジでこえーよ。


おわり


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