−−お客様の口座は残金不足の為お引き出しできません−−

 ATMのパネルに表示された文字を読んで俺の頭はしばらく真っ白になっとった。


『Natto is my life』


 銀行口座の残金表示は3桁、つまり札しか扱えんATMやと絶対下ろせんって事や。今朝オカンが振り込んでくれとるはずの金は何処に行ったん?
 背後から苛立っとる複数の視線を感じて、俺はカードを財布に戻すとキャッシュコーナーから急いで出た。その勢いのまま実家に携帯で電話を入れる。
「オカン、生活費入って無かったで。何でやねん?」
『あー。博俊(ひろとし)、堪忍してやぁ。うっかり忘れとったわ』
 やっぱし忘れとったんかい。オカンのうっかりは今始まった事やないけど、振り回されとるこっちがたまらんちゅーねん。
「マジで堪忍してやぁ。メッチャ困るやんか」
『明日の朝にでも振り込んどくさかい、そないにぶーたれんといてや』
「今日は金曜なんやで。月曜まで下ろせんやろが」
 俺が大声を上げると、逆にオカンの方が切れて怒鳴り返してきた。
『そっちに行く時に多めに持たしておいたやろ? 2、3日くらい自分で何とかしてや!』
 それだけ言うとオカンは電話を切ってしもうた。こら掛け直しても出ん可能性大やな。

 しゃーないからアパートに帰るコトにした。今すぐ振り込んで貰うても、もう午後の3時回っとるから月曜まで下ろせんのは同じやし、「金持ってきて」なんて言おうモンならオカンや親父から殴られるじゃ絶対済まん。それでのうても引っ越しや大学の入学金やらでそうとう金掛かっとるもんなぁ。
 家を出る前に貰った金は一昨日パチンコで負けてしもうてほとんど残っとらん。これがばれたら怒ったオカンが当分入金すらしてくれんかもしれんもんな。今日金が入るって思っとったから米や食料の買い置きも全然しとらんし、東京に来てからずっとコンビニとかで弁当買って食っとった。
 1人暮らしは初めてやから、先の事なんてホンマに考えとらんかったなぁ。

 財布の中身は126円。これでどないして3日間も生活できるんやろ?
 特売の食パンを100円くらいで買えんやろうか? パンの耳でもええから50円くらいで売っとらんやろうか? キャベツくらいなら買えるんかな? ほやけど、キャベツ1個で3日も腹が持つんやろか?
 こっちに引っ越してきて1週間になるけど未だに近所のスーパーの場所すらまともに把握しとらん。コンビニで買うたら菓子パン1個で終わってまうで。
 かなわんなぁ。どないしたらええんやろう? ちゅーのがホンマの気持ちやった。

 アパートに帰って無駄と思いつつ台所を漁ってみたら、出てきたんはインスタントコーヒーとお茶っ葉、それに弁当に付いとったソースと醤油とケチャップだけ。東京の食べもんは全部辛うて、調味料使わんでも充分やったから1週間分全部余っとる。これで米が有れば何とか食いつないでいけると思うんやけど、料理なんて家やとほとんどしたコト無かったから面倒やったんよな。
 月曜から講義が始まって4コマ目までぎっしり入れとる。ATMに行けるんは上手くして昼休みか最悪夕方やな。

 動くと腹が空きそうやからぼけーと寝転がっとったたら、隣の部屋から微かにテレビの音が聞こえてきた。松永が帰って来たんやな。ここは古くてボロいアパートやからちょっとでも大きな音を立てたら筒抜けになる。家賃がメチャ安いんやからしゃーないけど。
 松永は学部はちゃうけど俺と同じ大学に同期で入学した奴で、俺と同じ様に他県から来とる。一昨日パチンコ行ったんも松永に誘われたからやった。アイツは結構稼いどったなぁ。アレは絶対高校時代からやっとるな。俺は初めてやったんやから下手で負けても当然やん。
 ……!
 そうや。松永に頼んで少しだけ金貸して貰お。まだ本授業が始まっとらんから俺は松永以外にこっちに知り合いはほとんどおらん。隣に住んどるし金は月曜に返すて約束したらきっと「うん」て言うてくれるよな。
 俺は調味料を冷蔵庫にしまうと部屋を出た。

「あ、悪い。貸せない」
「なしてぇー?」
 あっさりと松永に断られて俺は思わず情けない声を出した。
 立ち話も何やからて松永は部屋に入れてくれたけど、金は貸してくれんのよな。唯一の頼みの綱も切れてしもうた。
 事情を正直に詳しく話したら松永は笑って言うた。
「それは酒井が馬鹿だ」
「自分でも判っとるわい。それでのうても落ち込んでるのに馬鹿言うなや」
 俺がすねると松永は更に笑ってポケットから煙草を出して口にくわえた。細かいコト言う気は無いけど一応お前も未成年やで。俺もビールくらいならちょこっとは飲むけど。
「俺もうっかり下ろしそびれて金が無いんだっての。今から駅前のATMまで行くのが面倒だから月曜に下ろそうと思ってたんだ。幸い食料は結構買いだめして有るし、3日分で良かったら俺が飯食わしてやっても良いぞ」
「ホンマに?」
 俺が喜んで聞くと松永は吸っとった煙草を吹き出した。
「お前、本当に世間知らずだな。パチンコも散々だったし、あれは誘った俺が悪いって言えなくもない。但し俺流の料理だから味に文句言うなよ」
「松永ーっ。マジで恩にきるわー」
 俺が松永の足にしがみつくと「男に抱きつかれても全然嬉しく無い」と言って頭を思いっきり叩かれた。もしかして関東出身の奴ってこういうノリに付いてこれんのかな?

「飯は炊いてあるからインスタント味噌汁とおかずは適当で良いか?」
 そのまま夕方まで一緒にテレビ観て、松永が台所から声をかけてきた。
「うん。何か手伝うコト有る?」
「狭いから座ってろ」
「分かった。おおきにー」
 台所と言うても6畳一間からの続き廊下みたいなもん。コンロが2つ有って流しの横が玄関で両端がトイレと風呂場。2階建ての独身者用ワンルームアパートって言えば聞こえはええけど、築30年は経っとるからあちこちガタがきとる。そんでもトイレと風呂付きで大学まで歩いて行ける距離やし、急行は止まらんけど駅にも何とか歩いていける距離で月6万の家賃は東京じゃ破格の物件なんやて。
 俺の住んどった三重なら6万有ったらもっと新しい3DKの駐車場付きアパートが余裕で借りれるで。東京って話には聞いとったけどメチャ家賃が高いよなぁ。

 服や布団、大きな家具はオカンらが買うてくれたんで持ってきたけど、細かいモンは大学近くの100円ショップで揃えた。そん時に一緒に行った松永も色々買っとったみたいやけど俺の部屋よりずっと揃っとる気がする。食器とかも結構有るし、ホンマに1人暮らしなん? て聞きたくなるくらいや。ベッドも有るのに俺の部屋より広う感じるなぁ。
 そう思って聞いてみたら「お前は押し入れ使い方が下手なんだ」って返ってきた。
 許可を貰って押し入れを開けてみて納得した。服はもちろん本まで専用ケースに綺麗に収納されてぎっしり入っとる。表に出してあるのは授業で使う本と参考書くらいやもんな。突っ張り棒でクローゼットみたいになっとるトコも有るしホンマに松永って凄いなぁて思った。
 正直に誉めたら「うちのお袋が口うるさい人で、部屋を片付けて無いと荷物を外に放り出されるんだ。それにこういう生活には慣れてる」って言った。……何か凄い家庭っぽいし、慣れてるってどういうコトなんやろ? 何となく気が引けてその場は黙っとった。

 どんっとテーブルに置かれた晩飯を見て俺は目を疑った。
 ほかほかの白ごはん、白菜の浅漬け、インスタントやけど乾燥ワカメを追加して結構具沢山の味噌汁、缶詰の煮魚、ここまではメッチャまとも。問題はおそらくメインらしいコレ! コレって何なん!?
 松永はソレに醤油を垂らして嬉しそうにこねくりまわしとる。いや、俺かてこれは食べたコトは有る。普通にどこでも売ってるモンなんやもん。問題は量、まさかと思うけどコレを1人で食うん? それとこの上に乗っかってるのってなん?
 丼に入った大量の納豆、万能ネギが一掴み(一摘みや無いで)に生卵の黄身が1個丸々入っとる。
 俺が晩飯を前にしながら食おうとせんかったら松永が怪訝そうな顔で俺のコトを見た。
「どうした? 食えよ」
 取り合えず俺は箸と丼を持って松永の顔を見た。
「なぁ、コレって1人分なん?」
「はぁ?」
 俺が正直に思ったコトを聞くと、松永は呆れた様な大声を上げた。俺、何か変なコト聞いたんかいな?
「俺の家やと3センチくらいの紙パックの納豆が出るん。だし醤油と辛子で食うんよな。ほら牛丼屋とかで出るヤツ」
「あんなのは俺の基準じゃ一口サイズって言うんだ。納豆は袋入りを買って丼の中で思いっきりこねくりまわした後に、ご飯にぶっかけてこそ美味しいんだろ。たった一口じゃ納豆を食った気にならんだろうが」
 一口サイズって……あれって普通に1人分とちゃうの? 松永の顔を見とったらマジっぽいし、それに量にケチつけたから少し機嫌が悪いみたいや。食わして貰っとるのに量くらいで文句言うたらバチ当たるよな。
「堪忍な。俺、東京の食習慣てよく知らんから。こっちじゃコレが普通サイズなんやな」
 俺が頭を下げて納豆をこね始めたら松永が機嫌を直して笑ってくれた。
「俺も東京の事はあまり知らないけど大して変わらないんじゃないか」
「あれ? 松永の出身てドコやった?」
「言って無かったか? 茨城だ。あの長寿番組黄門様の出身地だぞ。羨ましいだろ」
 ……別に黄門様は羨ましく無いんやけどな。茨城ってたしか納豆発祥の地やったよな。さすが茨城県民。もしかして茨城の人はみんな毎食こんだけの納豆を食うのが習慣やったりして。いくら何でもまさかなぁ。
 俺が肩を揺らして笑っとったら松永に「気持ち悪いから止めろ」て言われてしもうた。
 卵入れて納豆食うのは初めてやけど、ぬるぬるが消えてさらさらになっとるからご飯にかけやすい。大量のネギが臭みも消してくれとる。なるほど。これやったら丼サイズでも1人で食べるのが苦にならんかも。
 その日は納豆で腹一杯になったんで、せめてもの恩返しに茶碗を洗って片付けると礼を言って部屋に帰った。オカンが金振り込み入れ忘れたと知った時は水だけでどうやって3日も乗り切ろうかと泣きたい気分やったけど、俺はええ隣人に恵まれたよな。神様にホンマ感謝や。

 そんな俺の考えは甘かった。
 翌朝、松永が俺を起こしに来た。枕元で大声がするんでビックリして飛び起きたら、いきなり顔面に蹴りを入れられた。
「何すんねん!?」
 俺が枕を投げると松永はそれを器用に受け止めて俺の顔に投げ返してきた。
「いくら1人暮らし慣れして無いからって玄関の鍵も掛けずにぐーすか寝てるんじゃねぇよ」
「へ?」
 俺、ホンマに間抜けかもしれん。松永がこうして俺の部屋入ってきとるってコトは俺が昨夜鍵掛けるの忘れとったてコトよな。盗るモノなんか大して無いけどドロボーが入ってこんで良かった。
 松永に「おおきに。堪忍な」て謝ったら「良いからさっさと来いよ」て言って部屋から出て行った。

 俺が布団を畳んで隣に行くと、松永がトースターからパンを出して何か乗せてもう1回タイマーを回しとった。イメージ的に朝こそ和食で納豆って気がしとったんやけどそうでも無いんやな。食卓の上にはインスタントコーヒーとマグカップが2つ置いてある。コーヒーくらいは俺が持ってきた方が良かったかな?
 げっ。この臭いなん? マジで臭い。ちゅーか、どこからこんな凄い臭いがするん?
 俺が顔を上げたら松永が嬉しそうに何かが乗った皿を2枚テーブルに置いた。皿の上に「何か」は無いやろってツッコミ入れんといてな。俺の目の前に有る物体を食い物やとは思いとう無いんやから。
「俺様お手製納豆トースト。酒井は納豆慣れして無いみたいだからピザ風にしてトッピングはガーリックバターにネギとピザ用チーズにしたぞ。本当のお勧めは和風なんだけどよ」

んなモン食いたくないわーーーーーいっ!

 て、大声で叫びたいのを俺は必死で堪えた。ここで松永を怒らしたら月曜まで絶食が待っとる。でも、これってホンマに食えるの? ちゅーか、茨城の人らってマジでこういうモノ毎日食っとるん? 一種の罰ゲームとかとちゃうの?
 松永は座布団に腰を下ろすと鼻歌を歌いながらコーヒーを作っとる。本気なんやな。恐るべし茨城県民。
 俺は勇気を出してそれを食ってみるコトにした。メチャ腹だけは減っとるんやもん。空腹の時は何でも美味しゅう食べられるハズや。……多分。
 色々なモンが混じった凄い臭いをスルーすべく息を止めてパンを囓った。
 アカン。ニンニクとネギと納豆とチーズの味が混ぜこぜになって口の中で増殖しとる。ニンニクとチーズだけやったらフツーに食える。納豆とネギもフツーの組み合わせやもんな。
 だけど何で全部一緒に1枚のパンに乗っかってるん? だんだん意識が遠くなっていく。

 ……親父、オカン、無理言うて東京の大学まで行かして貰うてホンマにおおきに。先立つ不幸をお許しください。

 異変に気付いたんか松永が俺の頬を何度も叩いてきた。
「この馬鹿! 息しろ。息」
 思いっきり肩を揺すられて俺は口を開けた。一気に空気が肺の中に入ってくるのが判る。
「はぁ〜〜〜っ」
「何を馬鹿やってんだ。口一杯に放り込んだら窒息するに決まってるだろうが」
「……うっ」
 ホンマは臭過ぎてずっと息止めとったなんて怖くてとても言えん。
「全くどこまでも手の掛かる奴だな。ほら、コーヒーでパンを流し込めよ」
 松永は呆れながら俺にマグカップを渡してくれた。言われてみたら当たり前のコトやん。酸素欠乏で意識がのうなりかけとっただけなんや。俺ってもしかしてアホ?
 松永は俺がパンを喉に詰まらせたって勘違いしてくれたっぽい。ホンマのコトはとても言えんからそういうコトにしとこ。納豆のコトが無かったら松永ってメッチャ面倒見が良うてホンマにええ奴やもん。
 今気付いたけどコーヒーの香りが納豆トーストの凄い臭いをほんの少しやけど緩和してくれとる。ああ、こういう食べ方もできるやな。と、俺は気付いてコーヒーを飲みながらトーストを胃に収めた。
 松永は日頃から食い慣れてるんかコーヒー無しで美味そうにトーストを食っとった。ホンマは和風がええて言うてたけど、どんなトッピングなんか聞くのが怖い。

 昨夜と同じ様に食器の片付けは俺がした。料理はできんけどオカンによく片付けは手伝わされとったから何とかなった。やっぱ経験て大事なんやな。松永と俺じゃ全然レベルがちゃうて気がする。
 茶碗を水切りに並べると松永が「天気が良いからコインランドリーに行く」って言うた。そういや俺も洗濯物が結構溜まっとるけど、1回分の洗濯代も今の俺には到底出せん。
 そんなコトを考えとったら松永がにっこり笑って100円ショップで買った小さいプラスチックの洗濯板といつの間に用意してくれたんかビニール袋に小分けにした洗剤を渡してきた。
「お前の金欠は自業自得だからこれを使って風呂場で洗え。本当なら俺も手洗いして安く済ましたいけど洗い物が大量に有るんだ」
 松永はにかっと笑って大きなビニール袋を抱えてアパートを出た。金は貸してくれんて言われたし、ホンマに実行しとるけどちゃんと道具や洗剤は貸してくれるんやな。洗濯バサミやロープは買って有るから俺でも何とかなるやろ。

 俺が風呂桶とバケツをタライ代わりにして洗濯しとったら松永が帰ってきた。
「お、まだやってたのかトロイ奴だな」
 風呂場の窓から顔を覗かせて松永が笑って言うた。トロイは余計やで。どうでもええけどいくら男同士でも風呂に入ってるんや無いからって堂々と覗きすんなや。そら、風呂入っとる時やったらいくら俺かて窓は閉めるけどな。俺が面白く無いて顔をしとると松永が格子の付いた窓から手を伸ばしてきた。
「差し入れだ。待ち時間の暇つぶしに用に買ったのが余っただけだから気にするな」
 缶コーラを俺に渡すと松永は「飯作って待ってるから昼前には終われよ」って言って部屋に帰って行った。
 やっぱ松永ってええ奴やなぁと思って缶を開けてコーラを口に含んだらホンマに生温かった。多分行きしに買ったのがホンマに余ったからくれたんやな。まぁ今の俺の経済状態考えたら温くても飲めるだけでも贅沢やな。

 洗濯物を全部干し終わって昼前に隣に行ったら、松永はタイミングを計った様に台所で麺を茹でとった。松永は料理できるから羨ましいなぁ。俺も自分で作れたらもうちょい倹約できたかもしれんもん。オカンから言われた時に面倒くさがらずに料理作るのも手伝えば良かったなぁ。

 松永が「できたぞ」て言って俺の前に皿とフォークを置いた。
 俺、マジでこの瞬間に毎回固まっとる気がする。
 茹でたての麺が皿の上に乗っとる。ここまでは普通よな。ほやけどなしてパスタの上に乗っとるんがひき割り納豆に万能ネギなん? 細くきざまれた海苔が小さく揺れとった。
 松永は固まっとる俺に瓶を差し出ししてきた。ラベルを読むと「めんつゆ」て書いてある。そうめんやあるまいしパスタにめんつゆかけて食うんかい? いや、それ以前になして納豆なん?
 松永に飯を食わして貰うようになって毎回納豆が食卓に上がる。いくら何でもと思い切って聞いてみた。
「なぁ、なして納豆なん?」
「はあ?」
 松永は何を言われたのか解らんて顔しとる。ほやけど、ここで聞かんかったらずっと納豆食わされる気がする。
「何でパスタの具が納豆なん?」
「普通だろ」
 そう言ってパスタにめんつゆをかけとる。うえっ。ホンマにそうやって食うんかい。
「普通やないて。今朝も思ったけど何であらゆるモンに納豆が付いてくるん?」
 フォークを置くと松永は俺の頭を軽く小突いた。
「酒井、納豆を馬鹿にするとは日本人にあるまじき行為だぞ」
「馬鹿になんかしとらんて。俺かて普通にやったら納豆食うもん」
「納豆パスタは普通の食べ方だぞ。お前、どこの出身だ?」
「三重やって初対面の時に言ったやん。今日まで俺は納豆パスタも納豆トーストも見た事なんか無いで」

 松永は信じられんて顔で俺の顔を見とる。俺の方がそういう顔したいトコやで。ほやけど、好意で食わして貰ってる立場やから今までは我慢しとったんや。
「納豆は低カロリーで良質のタンパク質なんだぞ。脳の老化を防ぎ、成人病を予防して、骨を強化して、整腸作用が有る上に血行まで良くしてくれる日本が世界に誇れる食品だ。毎日、できれば毎食食ってこその日本人だろうが」
 松永は立ち上がるときっぱりと言い切った。松永の背後に後光を背負った葵の紋所が入った巨大な納豆パックが見えた気がする。これはもう一種の洗脳かもしれん。
 10歩譲って毎日食うんはともかく、毎食は普通やないと思う。しかもパンやパスタに納豆入れるんは絶対普通やないで。

「酒井がたまたま美味しい物を知らずに育ったのは解ったからまず食べてみろ。文句はそれから言え」
 松永に押し切られて俺は一口納豆パスタを食うてみた。……別次元の食い物だと思ったんは言わんとこ。俺にはこれの美味しさは解らんけど松永にとってはきっと美味しい物なんや。
 俺がもそもそと食っとったら松永は「無理して食わなくて良いぞ」て言うた。俺ってそないに表情読みやすいんかな? 
「初めて食ったから舌がびっくりしとるんやと思う」
 俺がお茶を飲みながら何とかそう答えたら「そうか」と松永は笑って言うた。

 夕方に洗濯物を取り込んでいたら隣から良い臭いがしてきた。あ、今夜はカレーやな。レトルトで済まさずにちゃんと自分で作るところが松永の偉いトコやと思う。
 洗濯物を畳んでタンスにしまっっとったらふすまを挟んだ壁がドンドンて大きな音を立てた。松永の「飯ができたから来い」て合図なんやな。ボロアパートなりに便利な使い方も有るもんやなと俺は吹き出した。
「肉は豚の薄切りを使ったんだが、酒井は嫌いじゃないか?」
 松永はうっかり先に聞くのを忘れてたからと俺に聞いてきてくれた。俺が「カレーの肉は何でもOKやから」と言ったらほっとしとる。もしかして昼間のコトをまだ気にしてくれとるのかもしれん。初めに文句言うなて言われとったのに文句を言った俺の方が悪いて思う。松永にそういう態度とられたらどうしてええか判らんやん。そんなコトを考えながらテーブルに目を向けて、俺はその場に突っ伏した。

 丸い深皿に真っ白なご飯と黄色いカレー、らっきょうまで添えて有って一見凄く美味しそうなんやけど、ご飯の上に乗っかっとる茶色のは何なん? いや、自分を誤魔化すのは止めとこ。あれはどう見ても納豆や。誰が何て言ったって納豆や。茨城県民はカレーライスにまで納豆かけて食うんかい?
 俺が俯せのまま無言で小刻みに震えとったら、松永は俺の襟首を掴まえると軽くひょいという感じで座布団の上に座らせて自分も反対側に腰掛けた。
 文句言わずに食えって無言の圧力を視線から感じる。食べ方が判らんて思っとったら松永がご飯の上に乗せてあった納豆をカレーに混ぜて、その後ご飯も混ぜてから食っとった。全然予想も付かんから俺も見様見真似でやってみた。

 カレーや。しかも変わったとろみ(多分これは納豆のねばねばやな)で味は甘口。台所に有ったルーの箱にはしっかり辛口て書いて有った気がするんやけど俺の勘違いなんかな? 冷たい納豆と温かいカレーとご飯の微妙なミスマッチ。しかも口の中ではしっかりカレーの味と納豆の味が完全に独立して同時に存在しとる。
 ……神様、これは何かの試練ですか? オカンが持たせてくれた大事な金をパチンコで擦ったコトの天罰ですか? それとも東京の食べ物は辛くて苦手やと思うて、ラーメンもうどんも避けまくっとった俺への「郷に入っては郷に従え」という教訓ですか?
 俺が今にも泣きそうな気持ちでいたら松永がにやりと笑って「ミスマッチだと思ったろ?」て言うた。
「ミスマッチって判ってるなら食わすなやー!」
 俺が思わず言い返すと松永は自慢げに話し続ける。
「1回目は誰でもそう言うんだが、これが慣れると美味いんだ。俺も初めて食った時は「何だ。これ?」って言った口なんだ。お前も絶対はまるって」
「慣れるまでこんなの食いとうないわい」
 むすったれて言うと松永は台所の鍋を指さした。
「んな事言ったってカレーは2人で食べても後2回分は有るぞ。明日の昼と夜の分だな」
「ラップかポリ袋を敷いたパックに入れて冷凍しとけばええやろ」
 オカンがカレーは色や臭いが残るからて、パック詰めにするときはいつもそうしとったんを覚えとる。俺がそう言うと松永は「お前でもそういう事を知ってたんだな」って笑った。
「冷凍庫の中は別のモンがぎっしり入ってるから無理。酒井が居るから俺も安心して大量に作ったんだ。冷蔵庫じゃ毎日火を通さないと持たないだろ」
「……冷蔵庫の中、見せて貰うてもええ?」
 俺が不信たっぷりの目を向けると「あんまり開けっ放しにするなよ」って念押しして許可をくれた。ホンマやったら人の冷蔵庫の中なんか見たいて思わんのやけど、全然買い物に行ってない雰囲気やのにこれだけ連続で納豆が出る松永の冷蔵庫は4次元ポケットにでもなっとるとしか思えん。

 2ドアの冷蔵庫のドアを開けて目に入ったのは大量のビールとチューハイの缶。松永ってマジで飲みすけなんやな。野菜室にはにんじんとか普通の食材が入ってる。肉のパックと卵にマヨネーズとかの調味料。ここまではどこの家でも変わらんと思う。けど、俺の目の前にあるコレって……。

 900g入り袋納豆(使いかけ)。

 こんなモン初めて見たわい。東京にはこんなモンが売っとるんか?
 俺は脱力する気持ちを振り絞って冷凍庫を開けた。そこにはびっしりとさっき見た袋入り納豆が綺麗に並べられて入っとった。

 撃沈。俺は気が重うなって冷凍庫のドアを閉めると座布団に座り直した。
 先に食えばええのに律儀に松永は俺が戻るのを待ってから食事を再開した。ホンマええ奴や。ええ奴なんやけど……松永の脳みそは絶対納豆タンパクでできてるに違いない。もしかしたらDNAの中に納豆を食わないと生きていけない因子でも入ってるんかもしれん。そうとでも思わんとあの冷蔵庫の中身は俺には到底信じられん。
 俺がかすかに残った気力を振り絞ってカレーを食べて皿を洗い終わると、松永は窓を少し開けて煙草を吸っとった。あ、そか。食べた後に煙草が吸いとうなっても飯食ってる俺の前で吸うのは悪いて思って自分も食べるのを待っとってくれたんや。うちの親も俺も煙草を吸わんから、昨日煙たそうにしとったのを覚えてくれとったんやな。
 納豆教にはとても入信できんけど松永教になら入信できそうな気がする。俺と同じように1人で東京に出てきたのに、何もできん俺と違って松永は一通り何でもできる。せっかく隣に住んでるんやから色々教えて貰いたいなぁ……味覚以外。

 俺が部屋に帰ろうとしたら、松永が冷蔵庫からビールとつまみを出して「一緒に飲もう」って言うてくれた。
 酒が入ると松永は楽しそうに色々な話を聞かせてくれた。
 高校は全寮制の進学校だったコト、洗濯機がボロの上に順番待ちが面倒臭くて自分の手でよくパンツとか洗っていたコト、食堂のおかずが少なかったから少しでも多く食いたくて納豆持参で食堂に通っていたコト、土日は自炊でカセットコンロで色々作っとったコト、寮生活しとったから色んなコト知ってるんやな。
 松永かて初めはきっと色々失敗したと思う。それを3年間の内に何でもできる様になったんやな。そう思ったら少し気が楽になった。
 大量の納豆は地元から宅配で送ったコト、地元に1学年下の彼女が居るからできるだけ近い東京の大学に来たコト、彼女は今年が受験で大変やから毎日メールでしか会話できなくて寂しいなんて、18年間彼女居ない歴更新しとる俺には羨ましい愚痴まで披露してくれた。あ、そんで食器とか全部2人分は有ったんかな。彼女さんより先に使ってしもうて悪いコトしたなぁ。
 陽気に笑う松永の顔を見とったらふっと頭に想像が浮かんだ。もしかしたら松永も引っ越してきたばかりで、俺以外にあまり話せる相手が居なくて寂しかったんかも。だから昨日俺が金に困ってるって言った時に呆れながら親身になって世話をしてくれたんかもしれん。
 何か松永に恩返しができるとええな。そう思いながら酒に弱い俺はそのまんま眠ってもうたらしい。

「へくしっ」
 座布団を枕に眠った俺に松永は毛布を掛けてくれたけど、酔っぱらってうっかり窓を閉め忘れて寝てしもうたとかで、俺だけ風邪を引いたみたいや。
 松永は「納豆を気嫌いするから免疫力が低いんだ」なんて言うとる。お前はちゃっかり自分のベッドで寝とったんやから風邪引くわけないわい。
 鼻をすする俺の為にと言うて松永が今朝出してくれたんは和食で納豆味噌汁……。
 マジで堪忍してて思うたけど、松永は血行が良くなれば身体が温まると言って半ば強引に俺にそれを飲まさせた。
「本当は納豆トーストも和風……つまり、ネギやショウガと混ぜて冷たいまま食うのが1番身体には良いんだぞ。カレーだって食べる直前まで冷たいままだったろ。酒井が嫌そうな顔するから食べやすくしたんだからな」
 松永は不本意て顔しとるけど、俺の方かて昨日アレを食うた時はマジで死ぬかと思ったんやで。

 朝ご飯を食べ終わると松永はベッドを俺に譲ってくれて休ませてくれた。2人部屋の寮生活で慣れてるからと風邪薬も分けてくれた。俺のコトなんか放っておいて出かけてもええのに煙草も我慢してテレビを見ながら部屋におってくれる。
 あ、そか。病気しとる時って急に心細くなったりするもんな。1人暮らしなら尚更やもん。松永はそういう気持ちが解っとるから俺の側におってくれるんや。俺は何時の間にかぐっすりと眠っとった。
 風邪引いている時にカレーはキツイかなて思ったんやけど、納豆の甘さがカレーの刺激を上手く消してくれて食べやすかった。買い置きの桃缶も開けてくれた。松永の言うとおり納豆カレーにはまってしまいそうや。

 晩ご飯の後に貰った薬を飲むと、松永は「温かくして寝ろよ」て言ってラップでくるんだ食パンと缶コーヒー、それに小分けしてあるバターをくれた。
 そういや俺は明日1コマ目から授業やけど、松永は午前中はバイトの面接やって言うてたな。俺が自分のスケジュールで動ける様に先に渡してくれたんや。松永て絶対に世話女房タイプやで。彼女さんもホンマにええ男掴まえたなぁ。俺も松永に負けんくらいええ男になって可愛い彼女を大学で見つけたる。
 礼を言って部屋に帰ると、俺は貰った物を冷蔵庫にしまって明日の授業の準備をした。
 昨日は風呂に入りそびれたから今日は入りたいよな。身体を冷やすとアカンから熱めに湯を溜めて風呂に入っとったら松永がいきなり窓を開けて「この馬鹿! 男が2、3日くらい風呂に入らない事なんか気にするな!」って怒鳴り付けると窓をピシャリと閉めた。
 ……今度から風呂に入る時は窓の鍵も掛けとこ。松永は寮生活で慣れてるんやろうけど、こっちは心臓が飛び出すくらいびっくりするちゅーねん。
 風呂から上がって身体を拭いとったら玄関の郵便受けにビニール袋が引っかかっとるのに気が付いた。何やろうと思って袋を引っ張り出すと解熱剤と風邪薬と栄養剤が入っとった。
 松永が食べ物は渡したけど薬を渡し忘れたと思い出して慌てて持ってきてくれたんやな。これだけ心配してくれとるのに風邪で熱が有るのを無視して暢気に風呂なんか入っとったら、そら怒鳴られて当然やん。
 明日、金下ろしたら松永にお礼も兼ねて何か好物でも奢ろっと。そう思いながら貰った薬を飲んで布団に入った。


「松永ー、今帰り? 時間有るんなら茶でも飲んでいかへん」
「ああ」
 階段を上がってくる足音を聞いて俺は玄関を開けると松永に手招きした。テーブルの上には甘納豆と煎茶が用意してある。前に松永のトコでおやつを食べたらやっぱり干し納豆が出て、最近納豆に目覚めた俺でもさすがに閉口した。酒好きの松永には干し納豆の方がええんやろうけどお茶受けにはやっぱこっちやろ。
「あっまーっ」
 松永は嫌そうな顔して茶をすすっとるけどこれだって立派な納豆やで。お茶受けの納豆まで大豆やなくてもええやん。
「松永、これやるわ」
 俺が冷蔵庫から出して差し出した箱を見て松永は首を傾げた。
「松永のコト、オカンに話したら送ってくれたん。モロヘイヤ入りとひじき入り納豆。地元で売ってるん」
「ぶっ。三重県も結構チャレンジャーだな」
「茨城が伝統守って普通過ぎるんやで。歴史が浅い分、地方にも色々工夫が有るってコトなんと違う?」
 俺は納豆ネタで松永をびっくりさせれたコトで少しだけ機嫌が良くなった。初めて納豆トーストだのカレーだのを食わされた俺のショックに比べたらこんなんは全然可愛いモンやと思う。
 あれ以来俺も松永を見習って少しずつやけど料理も覚えて納豆も毎日食っとる。
「お袋さんに礼を言っておいてくれるか」
「うん」
 松永は箱の中身が気になってしゃーないて感じやったけど用はこれだけや無いんよな。

「近所のスーパーで納豆巻きが安かったからまとめ買いしてきたんやけど松永も食う?」
「へぇ。そういや最近寿司屋に行って無かったから久しぶりだな」
 松永が嬉しそうに笑ってくれたんで俺は冷蔵庫から納豆巻きを2パック出した。箸に小皿と醤油、ねりわさびを出してテーブルに並べる。
「……おい」
「何?」
 松永が変な顔で俺のコトを見とる。何かおかしなトコあるんやろうか?

「げーーーーーーーーっ!!」
「あ、やっぱり」
 俺は一口納豆巻きを食べるとそのまま台所に走って行って水をがぶ飲みした後、何回も口をゆすいだ。
「メッチャ辛くて合わんわ」
「そりゃそうだろうな。殺菌作用の強いわさびと発酵食品の納豆を合わせて食えるのはよほどの通だって聞くぞ。俺だってやった事無い」
「そういうコトは先に言えや!」
 俺が涙を流しながら怒ると松永は「何事も経験」とあっさり言い切った。

「いつか松永をあっと言わせる納豆料理を開発してみせるかんな」
「へぇー、へぇー。つい最近まで料理が全然できなかった酒井がか?」
 納豆巻きを食べて茶を飲み終わった松永は立ち上がると玄関に向かう。ドアを開けながら松永は笑って振り返った。
「俺もお前がどんな納豆料理を作るか楽しみにしてる。俺みたいに地元民には絶対思いつかない様な物を酒井なら作ってくれるかもしれないからな」
「待っとれや。絶対やで」
「ああ、絶対な」
 松永は軽く手を振ると自分の部屋に帰って行った。台所の曇ガラス窓越しに煙草の火が見える。

 そう遠く無いうちに絶対松永以上の納豆通になってみせたるわい。
 こうして俺の納豆ライフが始まったんや。

おわり


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