ふたり−

 それから1ヶ月程の間、仕事も2人の同居生活も順調にいっていた。
 元々の資質か翼はすっかり仕事に慣れ、最近では色々なアイデアを直人に提案する様になり、直人は過労から解放された喜びと、独り暮らしを始めて初めて出来た料理上手でで気さくな同居人に満足していた。
 職場とプライベートが一緒だと、どうしてもストレスが溜まりそうなものだが、翼のストレートな物言いと、裏表の無い態度が直人の気持ちを楽にさせた。
 家事の大方は翼の担当で、「家賃代」プラス「直人に任せると洗濯物が痛むし、掃除は部屋が逆にゴミ溜めになる」と言い張って直人の手出しを許さない。
 現在、家主の直人が担当しているのは自分のベッドルームの掃除だけだった。ここだけは翼は絶対に入ろうとせず、直人のプライバシーを尊重しているらしい。
 逆に荷物置き場だった4畳半は翼の完全プライベートルームになり、うっかり直人がのぞき込もうものなら文字通り蹴り出される。
 TVを観たり、話をしたければ共用スペースのリビングが有るので困らない。この辺りが境界線なのだとお互いに暗黙の了解が出来ていた。

 コンビニへ行くと言って翼が出掛けた後、玄関先に財布が落ちているのを直人は見つけた。
あいつも割とドジだね。ま、すぐに気が付いて戻って来るだろうけど。
 シンプルな焦げ茶色の財布を拾い上げ、直人はすぐに眉をひそめた。
あれ? これはどう見ても女物の財布だよな。翼ってこういう趣味がって……えっ。まさか!?
 悪い事とは知りつつ中を開いてみると、数種のカードと運転免許証が入っていてその写真にはセミロングヘアーの少女が写っていた。
嘘だろう! ずっと騙されていたのか?
 頭をハンマーで殴られた様な気持ちで直人が立ちすくんでいると、余程慌てているのかバタバタと大きな足音を立てて翼が帰って来た。
 ショックで上手く足に力が入らず、廊下の壁にもたれながら不機嫌な顔で直人が声を掛ける。
「君の財布ならここだよ。玄関先に落ちていた」
「あ、拾ってくれてたんだ。サンキュー。家で良かった」
 いつもなら安心する翼の脳天気な声が、不信を抱いた直人の神経を逆撫でする。
 直人は自分の表情や機嫌に気付かずに財布を受け取ろうと近寄った翼の腕を強く掴むと、リビングに引っ張って行き、翼を強引にソファーに座らせると自分も正面のソファーに座った。
「一体何だよ? 財布返してくれよ。買い物に行く途中だったんだぜ。話なら用が終わってからにしてくれよ」
 何が何だか判らないという顔をする翼をちらりと見つめて、直人は手元の財布に視線を戻す。
「可愛い財布だね。女物だろ。翼の趣味ってこういうのなのかな?」
「……やっぱそう見えるか? 便利だし気に入って買ったんだけど後で良く見たら女物だったんだよな」
 一瞬顔を強張らせるが、なんとか笑顔を作って翼が答える。今の直人には全てが空々しく感じられた。
「じゃあ、運転免許証の写真に女装して写るのも君の趣味かい?」
「……中を見たのか!? プライバシーの侵害じゃないか!!」
 焦って言い募る翼を睨み付けると直人はテーブルの上に財布を置いた。
「今はそんな話しをしている場合じゃ無い。問題は君の性別だ。君は本当は女の子なのかい?」
「……」
 無言は肯定の何よりの証拠だ。裏切られたという思いが、直人の理性を打ち砕いていく。それでも口から出てくるのは低い声のままだ。
「嘘は付くなといつも言っていたハズだよね? 君は僕をずっと騙していた訳だ」
 いっその事思いきり大声で翼を罵倒出来れば楽になれるのにと、直人は今1つ強く出れない自分に苛立った。
「嘘なんか付いてねぇよ。俺は何も言ってないのに、初対面で俺を男だと勝手に勘違いしたのは直人じゃないか。そりゃぁ、泊めて貰ったり仕事まで貰えたから、勘違いを訂正しようとはしなかったのは確かだけどよ」
「あっ」
 言われてみるとその通りである。直人が最初に翼に「家出少年君」と断言したのだ。怒りで真っ白だった頭の中が徐々に晴れていく。原因が自分にも有るから強く怒れないのだ。
 翼はいつも正直に直人に接していた。だから騙されたと、裏切られたと思っても、本気で怒れないのだと勝手に思いこんでいた。
 だが、現実はどうだ? 単に自分がとんでもない間抜けだっただけなのだ。でもまだ納得がいかない。
「それはそうだが、あんな言葉使いと格好をして勘違いするなって言う方が無理だろう? 第1女なら普通は体形ですぐに……」
 そう言いかけると直人ははっと気付いて翼の服に手を掛けて、トレーナーとシャツをたくし上げようとする。
「うわっ! 何すんだ? 止めろよ!!」
 必死で抵抗して暴れだす翼を強引にソファーに押さえ付けると直人は服を引き上げ、一目確認するとぱっと手を離して翼から離れて台所に向かった。
 すでに半泣き状態の翼は震える手で急いで服を直す。
 翼の胸にはきつくさらしが巻かれていた。
 家出中の女の子が自分の身を守る為にした事なのだと直人はすぐに気づいた。
 自分の勘違いとお節介に近い親切が元とはいえ、翼は翼なりに必死で仕事と住居を死守し続けていたのだ。掃除も洗濯も自分にさせなかったはずだ。少しでもヒントを残せば全てばれてしまう。翼は少なくとも常識はわきまえている。性別を隠したまま仕事は確実にこなし、若い男と一緒に暮らすのはどれ程大変だった事だろう。直人は激情に駆られて乱暴な事をした愚かさを恥じ、翼を泣かせてしまった自分の頬を殴りつけたくなった。


 ひとしきり反省した後、直人は翼を放りだしたままだったと気付いた。謝るきっかけ欲しさにコーヒーを入れてテーブルの上に置いた。翼はまだ青白い顔をしてかすかに震えている。
「強引な真似をして済まなかった。謝るよ。……これを、飲んでお互いに少し落ち着こう」
 目の前のコーヒーにも手を付けず俯いたまま翼は微動だにしない。
「僕が全部悪かった。本当にそう思って反省している。だから初めから全部話してくれないか?」
 床に頭を付けんばかりに土下座をする直人の姿を見て、翼は「ソファーに座れよ。話は目を見てするモンだろ」と小さな声で呟いた。
 許した訳じゃない。だけど人に頭を下げさせたままで会話をするのは自分の信条が許さないという口調に、直人は翼の強さを改めて思い知らされて顔を上げた。
 翼は「冷めちゃったから作り直す」と言いカップを持って台所に行った。
 始めの出会いからお互いに間違え続けた。でも今ならやり直す事は出来るだろう。直人も翼も1ヶ月の間に互いの性格を解り合っていた。
 入れ直したコーヒーを同時に口に含み、一息つくとゆっくり翼は口を開いた。
「俺、勉強するより早く社会に出たかったから、高校を卒業して半年前までとある会社で働いてたんだ。でも、どうしても上司と仕事の方針が合わなくって辞めたんだ。ある程度貯金も有ったし、じっくり再就職先を探そうとしたら親父の奴が再就職の必要は無いって言いだしやがって、山の様に見合いの話しを持って来やがったんだ。俺には全くその気がねぇって何度も言ったんだけど全く聞く耳持たず、あげくに再就職活動の邪魔までする始末でさ。頭に来て3ヶ月ちょい前に家出したんだ」
 まさかの告白に日頃はたれ目がちの直人の目が吊り上がる。
「……見合いって、その歳でかい?」
 まだ早いだろうにと直人が問い掛ける。
「うん。俺、一応1人娘だから、親父は早く婿養子を貰って後継ぎが欲しかったんだろうよ。俺は親父の持ち物じゃねぇてーのによ。ったく腹の立つ親父だぜ!」
 そこまで言うと翼はコーヒーを一気に飲み干した。
「で、貯金をきり崩しながら安ホテルを転々としながら仕事を探してたんだけど、身元保証人が居ねぇとアパートは借りれねぇし、バイトも住所不定じゃそうそう雇って貰え無くってさ。結局4年も掛けて貯めた金をほとんど使っちまって、食うにも困る状態になって、途方に暮れてあそこに座りこんでたんだ。だんだん腹も減ってきてそのうち寝ちまったんだけどな」
 と、翼は照れ隠しの苦笑をする。
「そこにたまたま僕が声を掛けたって事かい?」
「ああ、そうだよ。ついでに俺がこんな格好してるのも、女が1人でふらふらしてると色々危ねえからだ。俺、元々男顔だったから、都合が良かったんだ」
 やはり自分の考えは正しかったのだと知り、直人は再び反省の意志を軽く頭を下げる事で示した。
「それでわざわざ髪も切って、男言葉を使っていたのかい?」
「いーや。免許取った時にたまたま髪が長かっただけで元々こんな頭だ。言葉だって特別変えてる訳じゃねぇよ。普段からこういう話し方なんだ」
「それはそれで問題が有ると思うけど……っと、話が逸れてしまったね。つまり、君は無理矢理結婚させられそうになったから家出までして、だから家には絶対帰りたがらなかったんだね?」
 素直に頷く翼を見て、直人は小さく溜息をついた。

 本当に翼は嘘を付いなかった。勘違いされた性別は隠してはいたけれど、1ヶ月も一緒に暮らしていて全く気付かなかったのは、自分の落ち度としか言い様が無い。
 家事がすごく上手で、女心を知り尽くしたような接客も、23歳の男にしては身体の線が細くて声がやや高いのも女の子だと言われれば全て納得がいく話だ。それをあんな酷い方法で確かめてしまった。
 直人が自己嫌悪の深い穴に落ちかけた時、翼はソファーから立ち上がった。
「俺、ここを出ていく。本当に世話になった。ありがとう」
 きっぱりと言い切る翼に直人は慌てて顔を上げた。
「出て行く? ……突然どうして?」
「って普通聞くかぁ。俺は今まで性別を偽ってここに住んでウェイターの仕事までしてたんだぜ。女だってバレたからあそこじゃ働けないし、第1もうここに住む訳にはいかないじゃないか。直人の性格からして家の中でまで俺に気使っちゃって疲れるだろ。そういうの……俺が困るっていうか、すげー嫌なんだよ」
 赤面する翼を直人は素直に可愛いと思ったが、これは口には出さなかった。出そうものなら今すぐにでも翼は出て行ってしまうだろう。苦笑しながら返事をする。
「店の事は気にしなくて良いよ。客は誰も気付いていないから、今君に辞められたら僕の方が困るよ。ここに住む事だって君さえ良ければ僕としては嬉しいな」
「何でだ?」
「料理は美味いし、家事は得意だし、翼と暮らす様になって随分楽をさせて貰ってるよ。なにより翼は見てて飽きないからね。毎日が面白い」
「それって誉めてるつもりか?」
 憮然とした顔の翼に満面の笑みを浮かべて直人は答える。
「もちろん。あ、もう家の中でまで男の芝居をしなくて良いよ。今までずっと無理してたんだろう」
「へ? 何勘違いしてんだ。これが俺の地だってさっきから言ってるだろ」
「……」
 何かが違うぞと直人は思ったが、それを口にするのは「可愛い」よりはばかられた。自分は怒りにまかせて翼を傷付け泣かしてしまったのだ。全ては自分の思いこみが原因だ。翼が何と言おうと、これからは女の子と意識して翼に接していくべきなのだ。それが1番正しい道のはずだ。
 直人が眉間に縦皺を寄せ、悶々と考え込みだしすと、翼は「さっきから何だよ。気持ちわりぃ」の一言で、直人が入りかけていたのとは全く違う穴に蹴り落とした。
「気持ち悪いってどこが?」
 泣きたい気持ちを抑えて詳しい事情説明を求めると、翼が泣いて震える程「怒った」のは、切れた直人が自分を嘘つき呼ばわりしたあげく、体格差に物を言わせて自分の意志を全く無視した事に対してだけで、直人がずっと勘違いで翼を男扱いしていた事にはむしろ喜んでいたとあっさり答えた。
 どうやら翼にとって直人はお人好しで面倒見の良い雇い主兼同居人らしい。「一応」男だから人に知られたく無い事も有るだろうと、寝室には入らない様気を付けていたとまで言われた。
 わざわざ強調する様に「一応」を付けられ、ついさっきまで全く男として意識も警戒もされなかったと知り、それはそれでかなり虚しいと直人は思ったが、最後は翼のにやり笑いでこの話は終わった。
 ともかくそれ以降、家の中では翼は胸にさらしを巻くのを止めていた。さすがに1日中胸を締め付けているのは苦しかったらしい。
 直人にとっては嬉しい限りだがおくびにも出さず、翼が望むとおり今まで通りに接していった。
 秘密を打ち明けた後も翼の態度が全く変わらないので、自分1人が舞い上がってもまたキモがられたら虚しいだけだし、「何を今更言ってるんだ」とトドメを刺されるのは2度とごめんだというのも有った。
 直前の行動が原因で本音を言うのに躊躇したのはたしかだ。出て行かれると寂しいでは無く、翼に居なくなられると「仕事」が困るから、今のままで良いと言ってしまった事に直人が気づくまで更に数日を要し、自分の馬鹿さ加減に完全に嫌気がさして寝室の壁に何度も頭をぶつけていた。


 12月に入ると店が特別忙しくなった。忘年会、コンパ、連日満員御礼で売り上げが伸びるのは嬉しいことだが、2人は毎晩くたくたになって帰宅する日々が続く。
 特にピークの12月23、24日はカップルの予約だけでも精一杯で、マンションに帰った時には、2人共すぐには口を開く元気さえ無かった。
 しかし、せっかくのクリスマスだからと、リビングでケーキと店の残り物のチキンとシャンパンを開けてパーティーをしようという事になった。
 酒が入ってくるとだんだん疲れも忘れて2人共言いたい事を言う様になっていく。
「直人ってその歳で彼女も居なくて、クリスマスに寂しく従業員とケーキ突いてるなんて、つくづく空しい男だよなー。せっかくの良い顔が泣いてるぜ。やっぱ性格?」
 顔を褒めているのか性格を貶しているのかどっちだと突っ込みたくなったが、翼程出来上がっていない直人はつい普通に返してしまう。
「うるさいな。サービス業に付いてる奴はみんなそうなんだよ。僕だってそれなりにもてるんだぞ。だけど特定の女性客とお付き合いするのは良くないから、できないんじゃ無くて作らないんだよ。そう言う君こそもてないって言ってたじゃないか。もてたかったら先ず、その言葉使いを改めなよ」
「別に俺男にもてたい訳じゃねーもん。今のままでも不自由してねーから平気だぜ。へへーんだ。つーか、そんなん全然効かねえっての。がはははははははっ」
 それが23の女の笑い方かと突っ込みたくなるオヤジ笑いを続ける翼の勢いに、直人は押されながらも短く反論する。
「可愛くないなー」
「おう、誉め言葉として受け取ってやるぜ」
「全然誉めて無いよ! だいたい君は……って、翼ぁ?」
 一気にアルコールが回ったのか、今日までの疲れがどっと出たのか器用にシャンパン入りのグラスを持ったまま翼はいきなり眠ってしまった。
これが噂に聞く電池切れか? こういうのって現実に有るんだな。初めて見た。
 直人はそっとグラスを翼の手から取り上げたが翼は目を覚まさない。
「翼。こんな所で寝ると風邪引くよ」
 軽く頬を突いてみたら無反応。
「おーい翼。翼ってば」
 いくら何でもこれならと思い鼻を摘んでみたら、余裕で口を開けて息をしている。
「つ・ば・さ・ちゃーん、起きないとお兄さんがオオカミになって襲っちゃうぞー」
 ここまで言っても全く起きる気配が無い所をみると本当に熟睡しているらしい。
「こうしてじっくり見ると普通に可愛い女の子なんだよねぇ。これが目を開くと少年顔になっちゃうんだから勿体ないったらありゃしない」
 直人は微笑んで翼を抱き上げると寝室へ運んで行った。


「う……ん」
 翌朝、翼が目を覚ますと耳元から声が聞こえた。
「よく眠れたかい?」
「?」
 翼が目を開けると目の前ににやけ顔の直人の顔が有った。
「げっ!」
 視線を巡らした翼は自分が直人のベッドで、しかも腕枕で眠っていた事に愕然とした。
「いやー翼ちゃんの寝顔って可愛いね。思わず堪能してしまったよ」
 にこにこ顔の直人に対し、翼は真っ赤な顔をして金魚の様に口をパクパクさせている。
「翼ちゃん、昨夜リビングで寝ちゃったからベッドに運んだんだ。僕も疲れていたし部屋まで運んで布団を敷くのって面倒だったから」
「な……な……」
「うーん。何かなー?」
「直人ーーーーっ!!」
 ナチュラルハイ状態の直人の顔面に翼の拳が飛んだ。

「翼ちゃーん。いい加減機嫌直してくれよー」
 昨夜の後片付けをしている翼の背後から、頬を真っ赤に腫らした直人の情け無い声が聞こえる。しかし、完全に頭にきている翼は完全無視のまま皿を洗っていた。
「昨夜は一緒に寝ただけで何もしてないよ」
それ以上の事をやってたら今頃ボコボコにしている所だ!
 皿がカタカタと音を立てながら小刻みに揺れる。翼の手は怒りのあまり震え続けていた。
「翼ちゃん。朝ご飯はまだ?」
 ぶちっと何かが切れた音が翼には聞こえた気がした。振り返りざま大声を上げる。
「その『ちゃん』付けは気持ちわりぃから止めろ! 朝飯ぐらいたまには自分で勝手に食え。この馬鹿!!」
「じゃあブランチって事で一緒に外に食べに行こうか?」
 あっさり切り替えされ翼は額を手で覆って上を向いた。
「あのなあ……」
「あ、ちょっと待ってくれるかい?」
 翼の抗議を遮ると直人は自分の寝室へ戻って行き、両手一杯に沢山のリボンの掛かった箱を抱えて戻って来た。
 何事かと首を傾げる翼にテーブルの上に箱の山を置くと直人は言った。
「昨夜渡しそびれちゃったんだけど翼にクリスマスプレゼント」
「これ全部?」
「うん。開けて見てくれる?」
 信じられないというという気持ちで翼は1つ1つ丁寧に包装をほどいて箱を開けていった。
「これは……」
 淡いクリーム色のコート、同色の帽子、濃い赤ワイン色のワンピース、靴とバッグ、ご丁寧にワンピースに合わせたカラータイツまで有った。流行やブランドにうとい翼でも、これらが決して安い物では無いというくらいは判る。
 翼は口元に手を添え、どう対応したら良いのか判らないという顔で直人の顔を見つめた。
「直人……。俺、直人に何も用意してないんだ。……嬉しいけど……やっぱ貰えないよこんなに沢山」
 動揺と嬉しさが入り交じった顔をしている翼に、直人はにっこり微笑んで答えた。
「今日は店も休みだから、これを着て今日1日だけは普通の女の子に戻って僕とデートしてくれない? それが僕に取っては1番のクリスマスプレゼントになるんだけど、ダメかな?」
「……」
 翼は頬を赤らめかすかに涙目になっていた。こんな事をして貰った事は生まれて初めてだった。嬉しいのに素直にお礼の言葉がなかなか出てこない。
 翼は元々感情が顔に出やすい。気持ちは伝わっても直人は辛抱強く翼の返事を待った。
「……直人、ありがとう。これ今日着させてもらうね。準備に時間が掛かると思うけど良い?」
 短い言葉の中に含まれた意味をしっかり理解すると直人は極上の笑みを浮かべた。

 翼は洗い物を素早く片付けるとシャワーを浴び、直人に貰った服を持って部屋に籠もった。バッグの最奥から小さなポーチを取り出す。
まさかこれをこんな形で使うとは思わなかったな。
 そう思いながら翼は鏡の前で準備を始めた。
 直人も翼の後にシャワーを浴び、身支度を整えるとリビングで翼を待った。
「お待たせ。時間掛かっちゃってごめんね」
 リビングに入ってきた翼を見て、直人は一瞬言葉を失った。
「久しぶりにこんな格好したからよく判らなくて。変じゃ無い?」
 そう言ってくるりと回る翼に直人はただ見とれていた。
「直人?」
 首を傾げる翼にぶんぶんと頭を横に振って直人は答えた。
「全然変じゃないよ。……すごく、本当に可愛いよ」
「ありがと。で、何処に行く?」
「あ、ああ、先ず何か食べに行こうか?」
「うん。わたしもお腹空いちゃった」
 無意識の内に翼に向かって手を伸ばすと翼は手を握り返してきた。
「じゃあ、行こう」
 2人は手を繋いだまま、マンションを後にした。

 歩きながら直人が翼に聞く。
「今日は化粧してる?」
「うん、服に合わせてちょっとだけ。就職面接の時に無いと困るかなって思って持ってた」
すごく綺麗だよ。
 という言葉は口にしなかった。昨夜何度も見つめ返した寝顔は本当に可愛かったし、元々美少年顔だと分かっていたが、それは素が良いという事なんだと改めて直人は知る。
 素顔に近いくらいの薄化粧でも、充分翼は綺麗で可愛いかった。女の子らしい服装をすれば美少女と言っても良いくらいだった。
 実際、23歳という歳を考えれば美少女という言葉は当てはまらないのだが、翼には少女という言葉がしっくりきていた。
 レストハウスで軽食を取り、公園を散策し、まるで本当のカップルの様にデパートの専門店街でウィンドウショッピングを楽しんだ。
 ふと、ある店の前で翼が足を止める。
「何か欲しい物が有るのかい? 買ってあげようか?」
 背後からのぞき込んでくる直人の顔を翼は両手で遮った。
「ありがとう。でもあれは自分で買いたい。ここで待っててくれる?」
 初めて可愛くお願いされ、直人も素直に身を引いた。
「ここで待ってるから行っておいで」
 にっこり笑って翼は店に入って行った。
 しばらくして直人の背後から肩にふわっとした物が掛けられた。それは翼のコートと同じ色をしたマフラーだった。
 振り返ると翼がにっこり微笑んでいた。
「さっき、公園で直人が寒そうだったから……それにこういうペアルックも有りだよね?」
 肩に掛けられたマフラーを見つめて直人は「そうだね」と少し照れくさそうに笑った。

 その後2人で映画を観て、レストランで夕食を摂り、マンションに帰って来たのは日付が変わるほんの少し前の事だった。
「今日はとても楽しかった。つき合ってくれてありがとう」
 ウインクして笑い掛ける直人から視線を外して、翼はリビングの掛け時計を見つめてぽつりと言った。
「12時だ。直人。シンデレラの魔法が解けた時間だな」
 真っ直ぐに自分の目を見つめる翼はさっきまでとは別人の様だった。服装も顔もそのままなのに声もわずかに低く変わり、いつもの少年の様な表情の笑顔に戻っていた。
「俺も昨日は楽しかったぜ。直人、サンキュー。来年こそはちゃんと彼女とデートが出来ると良いな」
「翼?」
 直人は翼の急変に戸惑い立ちすくす。
「じゃ、俺シャワー先に使わせて貰うな。早いトコこの化粧を落としてーんだ」
 それだけ言うと、翼はもう用は無くなったとばかりに直人に背を向けて自分の部屋に帰ろうとする。
「翼!」
「ん? 何だよ、どうかしたのか? 直人」

 直人の頭は真っ白になっていた。リビングを出ようとする翼を抱きしめていきなり唇を奪った。
 翼はとっさの事に抵抗も出来ず愕然と焦点が合わないくらい近付いた直人の顔を見つめていたが、しばらくして身じろいて直人の腕から逃れようとした。しかし、1度組まれてしまうと到底力ではかなう訳も無く、口付けは一層深いものになっていった。
 翼が抵抗するのを完全に止めると、漸く直人は翼の唇を解放して頬に手を添える。
「翼、僕は君の事がす……」
 再び顔を近づける直人の顔に満身の力を込めた翼の拳が当たった。
 衝撃で直人の身体がわずかに離れる。その隙に翼は直人の腕を振り解いた。
「いきなり何すんだ。直人の馬っ鹿やろー!!」
 叫ぶと翼は走ってリビングから出て行った。
 直人は翼の目に浮かんだ涙を見逃さない。すぐに翼を追いかける。
 翼の部屋の前で何とか翼の腕を掴んだ。
「放せよ」
「嫌だ」
「放せって言ってるだろう!」
 直人に殴り掛かろうとする翼の手を取り、力一杯抱きしめる。
「直人!!」
 バタバタと暴れようとする翼を壁に押しつけて再び口付ける。翼はもがいたが直人の腕は全く外れようともしない。
 さっきは衝動的に抱きしめてキスをした、けれど今は意識的にキスをしている自覚が直人には有った。
 好きなのだ、絶対に放さない。強い意志の元、抱きしめる腕に更に力を込めた。
 次第に翼の全身からは力が抜けて体重すら支えられなくなっていた。
 ずるずると落ちていく翼の身体を直人は受け止めるように抱き直した。
「う……う……」
 苦しそうな翼の声に直人は顔を上げた。
 閉じられた翼の両目からは幾筋も涙が流れていた。
 それでも直人は翼を抱きしめる腕は緩めない。今、手を離したら翼の身体は崩れ落ちてしまうだろう。そっと翼の頭に手を回して耳元に囁いた。
「僕は君が好きだ」
 ビクリと翼の全身が震える。
 直人はそんな翼を今度は優しく包み込む様に抱きしめる。
「翼。もう1度言うよ。僕は君が好きだよ」
「今無理に返事をしなくても良い。ただ、信じてほしい。僕は本気だよ」
 翼は直人の腕の中で少しづつ混乱する頭がはっきりしてきていた。聞こえてくる直人の言葉に耳まで真っ赤に染まる。
 素直な反応をする翼に微笑すると、直人は翼のおでこにキスをしてゆっくりと手を放す。
「シャワー浴びるんだろう? お湯を熱くするんだよ。今夜は冷えるから」
 じっと自分の顔を見つめる翼に悪戯っぽく笑顔で言った。
「それとも一緒にお風呂に入る?」
 その直後、今日3度目の翼の拳が鈍い音を立てて直人の顔面にクリーンヒットした。
「馬鹿っ!!」
 真っ赤な顔をして翼は立ち上がり部屋に着替えを取りに行った。
廊下に出ると左頬を真っ赤に腫らした直人が洗面所の扉の横に立って翼を待っていた。洗面所の奥に風呂場は有る。
 小さく舌打ちをして、翼は直人を思いっきり睨み付ける。
「俺が入ってる時に覗いたり、入ってきたらその時はマジで殺すぞ」
「はいはい。今日のところは我慢しておきます」
 にっこり笑い返す直人を更に睨み付けると翼は「一生だ。馬鹿!!」と叫んで洗面所に消えていった。
 鈍い音の拳はいい音をさせる平手の数倍は痛い。それを立て続けに受けたのだから直人の顎はがくがくだ。それでも直人の顔から笑顔は消えない。
 1人残された直人は痛む頬をさすり、翼が聞いたら本当に包丁でも持って来そうな言葉を呟いた。
「一生はさすがに無理だよ。僕はそこまで紳士じゃないからね」


<<もどる||ふたり TOP||つづき>>