-ふたり-3 翌朝、直人は洗面所の鏡に映る自分の姿を見て爆笑した。昨日3度も翼に拳で同じ場所を殴られた為に、顔に見事な痣が出来ていたからだ。 今から湿布を貼ったとしても、夕方までにこの痣が完全に消えるとは思えない。商売上顔に傷を作るのは御法度なのだが、昨日の自分の行動を振り返り、後悔は全く無いので、こればっかりは仕方ないと深い溜息をついて諦めた。 そういえば今朝は未だに翼が起きてこないと直人は首を傾げた。いつもならとっくに起きて洗濯物を終え、朝食の準備をしている頃である。 心配になった直人は翼の部屋のドアをノックした。 「翼。まだ寝てるのかい?」 扉の中から小さな声が聞こえるが聞き取れない。扉に耳を当てて直人はもう1度声を掛けた。 「翼?」 「直人。……起きてるけど……起きれないんだ。……ごめん」 ギリギリ聞き取れるかどうかの声音。いつもの翼では無いと直人は躊躇せずドアノブに手を掛けた。 「どうかしたのかい? 入るよ」 部屋に入ると翼は布団の中で丸くなって寝ていた。枕元まで行って顔をのぞき込むと、顔が赤く息も浅くて荒い。 「翼、体調が悪いのかい?」 「……寒くて寒くて仕方無いんだ」 苦しそうな顔で直人を見上げて翼は答えるが、その声も弱々しい。 直人はそっと自分のおでこを翼のそれに重ねて顔色を変えた。 「熱い。すごく熱が有るんじゃないか」 「そう……なのか? 自分じゃ……よく……判らねぇんだ」 「この部屋は寒い。翼、部屋を移ろう」 翼を抱き上げると直人は自分の寝室に向かった。普段の翼なら抵抗の1つもしそうなものだが今は大人しく直人に抱かれている。 これは、相当調子が悪そうだな。 直人は自分のベッドに翼を寝かせると暖房のスイッチを入れた。ベッドの側に行って声を掛ける。 「翼、気分が悪いとか、喉が痛いとか、咳が出るとかの症状は無いのかい?」 「ううん。只、寒気がするんだ」 「薬を飲んだ方が良いな。その前に何か食べられるかい?」 「……ごめん。何も食べたくない」 翼は疲れたと目を閉じた。 何も食べずに薬を飲むのは胃に負担が掛かる。直人は牛乳をレンジに入れると薬箱から解熱剤と胃薬を出した。温めた牛乳と水と薬を持ってベッドサイドに腰掛ける。 「翼、ミルクなら飲める? 空腹で薬を飲まない方が良いから」 「う……ん。それぐらいなら」 そう言って上半身を起こそうとするが力が入らないらしい、直人が後ろから翼の肩を抱いて支えてカップを渡す。 半分ほど飲んだところで「限界だ」と翼はカップを退けた。 「うん、無理はしなくて良いから。でも薬は飲もうね」 手渡された薬を口に含み水で飲み下す。まだ冷たい水の方が飲みやすいらしい。直人はほっと息をつく翼をゆっくりと寝かせた。 しばらくすると翼から静かな寝息が聞こえてきた。 直人はまたも自分の迂闊さを恥じた。自分の寝室にはエアコンが付いているが翼の部屋は元々物置代わりだったので暖房が無い。その上、ずっと床に直接布団を敷いて寝ていたのだ。 昨夜は特に冷えたから、翼の身体が寒さに耐えきれなかったのだろう。 ここ1ヶ月ほどの過労も響いているに違いない。本来なら昨日はゆっくり家で休ませるべきだったのだ。 自嘲気味に頭を振って直人はそっと寝室を後にした。 独特のモーター音が聞こえ翼は目を覚ました。 「あ、目が覚めた? 気分はどうだい? 君が眠っている間にコンビニでインスタントのお粥やプリンなんかを買って来たんだけど食べられる?」 しかし、翼はその質問には答えず逆に直人に聞き返す。 「これって洗濯機の音?」 「ああ。今洗ってるけど、それがどうかしたかい?」 「まさか俺のも!?」 慌てて翼が起きあがろうとするがふらついてそのままベッドに倒れ込む。直人が苦笑して翼に毛布を掛け直した。 「無理に動いちゃだめだよ。熱が高いんだから」 「でも、洗濯……」 「全部そのまま放り込んで洗ってるけど何か問題が有った?」 赤面して答えない翼にピンと来て直人は微笑んだ。 「僕に下着見られたのが恥ずかしい? でもね。病人は大人しくしてなきゃ駄目だよ。そのうち中身も全部見せて貰うからこれぐらいは慣れようね」 「な……中身を全部って?」 更に真っ赤な顔になって翼がどもる。 「そんなの決まってるだろう。はっきり聞きたいのかい? 今言っても良いけど元気になってからにしようね。お粥なら食べれる?」 「……う……うん」 じゃあ用意すると言って直人は部屋を出た。 翼は先ほどの直人の台詞で更に熱が上がった様な気がした。 「おとっつあん、お粥が出来たわよ」 お盆にお粥の入った器とれんげを乗せてにこにこ顔の直人が戻ってきた。苦笑して翼が応える。 「いつもすまないねぇ、けほけほ」 「あ、『ととがゆ』知ってるんだ。やっぱ翼はノリ良いな。熱が有ってもギャグが出来る。ところで起きれる? 食べさせてあげようか?」 「いや、いい自分で食べる」 ゆっくりと上半身を起こして直人からお粥を受け取る。 「ふーふーして食べさせてあげようと思ったのに」という直人の台詞は「キモイ」とツッコミを入れる気にもなれず、あえて聞こえないふりをした。 翼が食べ終わる頃を見計らって直人が水と薬を差し出す。 「朝飲んでから4時間は経ってるから薬飲んだ方が良いよ」 「うん、ありがとう。……あ。直人、仕事は?」 時計に目をやり、薬とコップを握りしめたまま翼が声を上げる。 「洗濯物を乾燥機に放り込んだらすぐに出勤するよ。君はそのまま寝ておいで。良いね」 よく見ると直人は外出着に着替えていた。 翼は今更ながら直人の顔面に貼られた湿布に気が付く。 「直人、その顔?」 「ああこれ? 昨日の君の愛情表現は過激だったからね。見事な痣になってるんだ」 「愛情表現んん?」 心底嫌そうに顔をゆがめる翼の顔を見て、自分の頬をさすりながら直人が苦笑する。 「とにかく君はこのまま寝ている事。無理して動いちゃ駄目だよ」 翼にしっかり釘を刺して、器を片付けると直人は出勤していった。 まいったな。……どうしよう。 翼はしばらく考え込むとふらつきながらもベッドから立ち上がった。 直人は店に着くとまず洗面所で湿布を剥がして、鏡に写った自分の顔を見て苦笑する。予想どおり痣はほとんど消えていない。 今日は予約も入っていないし、メールもFAXも入っていない。この顔で接客するのは無理だと判断した直人は店の扉に「臨時休業」の張り紙をして帰宅する事にした。 クリスマス後が幸いした。前に集中する分ぽっかりと予定が空く日も有る。オーナーには後で2人ともダウンしたと報告すれば良い。今月はそれくらいの働きはしている。 自分の顔面もかなりのものだが、翼の辛そうな顔に比べたら数倍マシだ。直人はこの時間なら電車の方が早いと駅に向かって走り出した。 直人がマンションに帰って来ると玄関で翼とはち合わせた。 「翼?」 「え? ……直人、出勤したんじゃ無かったのか」 焦る翼の服装を見て直人は愕然とした。 初めて会った時のままのジャケットとトレーナーにジーンズ姿、肩にはしっかりバッグを掛けていた。 低く押し殺した様な声で翼に問いかける。 「今日は臨時休業にしたんだ。熱が高くて寝ていなきゃいけないはずの君がどうしてそんな格好をして居るのかな? 説明して貰えるよね」 「直人、俺は……」 「話は君をベッドに戻してから聞く」 問答無用とばかりに翼の腕を掴み寝室へ連れて行く。直人がドアを開けると翼は思わず目を閉じた。 整えられたベッド、サイドテーブルの上には昨日直人が翼に送ったプレゼントが箱に綺麗に戻されて置いてあった。その上に「お世話になりました」と一言だけ書かれた手紙が置かれていた。 「これが僕の気持ちに対する君の答えかい?」 振り返った直人は本気で怒っており、その顔を見て翼はかすかに震える。 「僕が居ない間に出ていこうとしたんだね? 何も説明の無いまま、しかもそんな身体で!」 壁に寄り添って辛うじて立っている翼の顔を挟む様に両手を壁に付けた。 「僕の事がそんなに嫌なのか?」 ふるふると翼は顔を横に振る。 「だったら何故こんな真似をしたんだ!? 納得出来る訳がないだろう!」 翼は俯いて直人から視線を逸らそうとしたが、直人の手が翼の顎を捕らえて強引に視線を合わさせる。 手に伝わる熱はかなり高い。フラフラの状態でも翼は直人と離れる事を選び、掃除までしたのだ。そんなに自分が嫌なのかと憤りが直人を包む。 「ちゃんと答えろ。翼」 翼の目から幾筋も涙が溢れ出るが、それでも直人は翼を許さない。 「だって、また直人と顔を合わせたら、俺……きっと出て行けない。だから……」 「僕の気持ちに答えられないというのならはっきりそう言えばいい。何故黙って出ていこうとしたんだ!?」 「……それは……」 「それは?」 「俺も……多分直人の事が 好き だから だと 思う……」 翼の言葉の最後の方は消え入りそうなくらい小さかったが、それでも直人にははっきり聞こえた。 ふっと肩の力を抜いて直人は微笑するとそっと翼を抱きしめる。 「君が僕の事を好きだと言うならどうして出ていこうなんて思ったんだい?」 「……一緒に居るのが恥ずかしくなったから」 「どうして?」 「判らない。でも、昨日から直人と居るとどきどきする。俺、普通じゃ無くなってしまうから、だから……もう駄目だなって」 翼の言葉を優しいキスで直人は遮ぎり、にっこり笑って答える。 「それが普通なんだよ。僕も君と一緒に居るとどきどきするよ。君の事が本当に好きだから、これは当たり前の事なんだよ」 翼の頬を優しく包み込み何度もキスをくり返す。そっと翼を抱き上げるとベッドに寝かせた。 そのまま上に身体を重ねようとする直人に翼は慌てて押し退けようとする。 「ちょ、……ちょっと待ってくれ」 「嫌だ」 「直人、お願いだから」 翼を見下ろしながら直人は笑顔で答えた。 「君が男慣れしていない事ぐらいとっくに気付いてるよ。安心してほしい。強引な事をする気は無い」 でもね、と言葉を続けた。 「心臓が凍り付く様な思いをさせられたんだから少しは君にお仕置きをしないと気が済まない」 反撃が来る前に翼の上にのしかかって口付けた。そのまま翼の服を脱がそうとする。 嘘つき! 強引な事はしないって今言ったばかりじゃないかー!! 「んー! んん!!」 唇を塞いだまま暴れる翼の服を器用にはぎ取っていく。ジーンズを脱がすとさっと直人は立ち上がってベッドから離れた。その間に下着姿にされた翼は急いで毛布で身体を隠す。 「さてと」と、直人は翼のバッグからパジャマを取り出すと翼に放った。 「ちゃんとパジャマに着替えて今度こそ大人しくベッドで寝る事。分かったね」 勝ち誇った様な顔をした直人の意図に気付いた翼は憤慨して叫んだ。 「始めからそう言ってくれれば自分で着替えてベッドで寝たのに何でわざわざこんな事するんだよ!?」 「それじゃお仕置きにならないだろう。それとこれくらい役得が無いと……本当に襲っちゃうよ?」 真っ赤になった翼を後目に直人は自分も服を脱ぎ始めた。 「ちょっと待て。直人、お前何してんだ!?」 慌てて直人から視線を外した翼に至極当然という声で答えた。 「着替えるんだよ。僕の服はこの部屋に有るからね。もしかして期待した? だとしたら嬉しいな」 「馬鹿!」 翼の投げた枕が直人の顔面に見事に当たった。 その日から翼は直人のベッドで一緒に眠る様になった。翼は床に蒲団を敷いて寝ると主張したのだが、直人は風邪を引くからと譲らない。 セミダブルのベッドで2人で寝るにはやはり少し狭い、結局直人の腕の中で眠る事になる。 寝始めは緊張して寝付け無いのだが、直人の心音を聞いているうちに何時の間にか熟睡してしまうのだった。 12月30日は仕事納めである。いつもより丁寧に掃除を行い、玄関前に正月用のリースを飾ると1月4日まで休業の張り紙を扉に張る。 マンションに帰ると忘年会と称して2人でワインを空けた。 ふと直人が真剣な眼差しで翼に聞いた。 「翼のお父さんってどんな仕事をしてる人なんだい?」 「親父ぃ? せっかく美味い酒飲んでるって時に嫌な事思い出させるなー。言って無かったっけ? 俺ん家、喫茶店やってるんだ。で、子供の頃からよく店の手伝いさせられてた。まぁ家が商売やってる所の子供はみんなそうなんだけどよ」 つまんねー話を振るなと翼は拗ねた顔でグラスに歯を立てる。 なるほど、夜の水商売の経験は無いが喫茶店で接客していたからすぐに仕事に慣れたって事か。 納得しながら再び直人は翼に問いかけた。 「初耳だよ。それで後継ぎが要るとか言ってたんだね。ところでお正月には実家に帰らないのかい?」 ぶっとワインを吹き出して翼が抗議する。 「冗談言うなよ。家に帰ったら最後、2度と家から出して貰えないあげくに親父の見つけてきた見ず知らずの奴と結婚させられるんだぜ。せっかくまた貯金が貯まり始めてるってのに、それだけはぜってー嫌だ」 「うん。そう言うと思ったから言ってるんだけど、僕も一緒に翼の実家に挨拶に行こうと思ってね」 「挨拶ー? 何で?」 「やっぱり1度ちゃんと『今度お宅の娘さんと結婚することになった岡田直人です』って挨拶しないといけないだろう?」 その瞬間、翼はワインが気管に入り激しく咳き込む。 「ゲホッ、ゲホッ、いきなり何言い出すんだよ? びっくりするだろ」 「いきなりって、僕の方はとっくにそのつもりでいたのに君は僕と結婚する気が無いのかい?」 こちらこそ心外だと言わんばかりに今度は直人の方が非難めいた声を上げる。 「……マジ?」 「もちろん本気だよ。全く君は鈍いなー。普通気付かないかい?」 「だって直人、結婚なんて一言も言って無かったじゃないか」 一瞬呆れて物が言えなくなった直人だが、とにかく恋愛経験皆無の相手である。何とか平静を保って言った。 「もうすでに実質的には新婚生活2ヶ月だと思うんだけど?」 「おい、待て。2ヶ月って言ったら俺がここに住むようになってからじゃないか。そりゃあここ数日は一緒に寝てるけど、何時そういう関係になったんだよ。俺達は」 翼の言葉にぽんと手を叩いて直人は納得した様な顔になってにっこり笑った。 「そういえばまだそういう関係まで行って無かったね。うん、僕も相当辛抱強い性格だって事の証明だね。じゃあ今から関係を作ろうか?」 そう言って翼の手を引いて寝室に行こうとする。 「ちょっと待てぇ! 俺は嫌だ」 じたばたと逃げだそうとする翼の肩を抱いてそっと直人は囁く。 「冗談だよ。無理強いはしないって言っただろう? 君がその気になってくれるまでずっと待つよ」 翼は訳が解らないという顔で直人を見上げる。 「只ね、このまま君が家出したままだとご家族はずっと心配したままの日々を送らなければならないだろう? 1度ちゃんと家に帰ってお父さんと話し合った方が良い。僕が一緒に行くから、絶対君を守るから、安心して帰ろう」 誰からも一生言って貰える時は来ないだろうと思っていた嬉しい言葉を聞き、翼は口元をゆがませる。 「そんな大変な事簡単に言うなよ。……たとえ親父が俺達の結婚を認めたとしても、直人がうちに婿養子に来ないといけないんだぜ。……無理矢理喫茶店を継がされるんだぜ。……直人の親だってこんな話納得しないよ」 今にも泣きそうな顔で翼が打ち明け、ふっと直人は微笑する。 「うっかり言い忘れてたけど、僕の父は普通のサラリーマンで僕は3男なんだ。婿養子? 全くオッケーだよ。喫茶店の仕事も僕が喜んで継ぐよ。いつまでもバーの雇われマスターでいる気も無かったしね。金を貯めていずれは独立する気だったんだ。渡りに船って言っても良いくらいだよ。オーナーには休みが明けたら話をするよ。それより君が僕のプロポーズを受けてくれて本当に嬉しいよ」 「へ? 何時俺がそんな事言った?」 「さっき『俺達の結婚を認めたとしても』って言ったじゃないか? 結婚の意志が無かったら絶対に出てこない台詞だよね」 翼は自分が言った台詞の意味を、言われて初めて自覚して真っ赤になった。 「明日にでも家に電話して正月休みの間にきちんとご両親と話しをしよう。良いね?」 優しく問いかける直人に照れくさそうに翼がこくりと頷く。 「絶対約束だよ。嘘は駄目だからね」 そういつもの台詞を言って直人は翼を抱きしめてキスをした。 おわり |