-ふたり-

 最後の客を見送った閉店時間から1時間は過ぎている。後片づけを終えた直人(なおと)は、細い路地に繋がる裏口のドアを開けた。
「今日もやっと終わったか」
 溜息と共に出た自分の言葉に思わず苦笑しする。
遂に独り言まで出る様になったか。マジでそろそろ何とかしないとやばいな。
 軽く首を横に振って直人が顔を上げると、目の前に1人の少年が寝っ転がってるのが目に入った。
…………えーと。
今時珍しいものを見つけてしまった。何だろうこの子は。酔っぱらっているのかな?
しかし変な所で寝ているな。わざわざこんな汚い場所を選んで寝るか? どういう神経をしているんだろう。
 直人は両手に持ったゴミ袋を高く上げ、器用に少年の横をすり抜けると、表通りの収集場所にゴミを捨てた。
 帰り際に店の表看板横の小さなポスターに目をやる。
 ポスターには『急募! バーテンダー・ウェイター 若干名 委細:面談』と書かれている。
 直人はバー「ウインド」の雇われマスターだ。つい最近まで一緒に働いていた青年が家庭の都合で急に辞めてしまったので、仕方なく1人で店を切り盛りする事になった。募集を始めて2週間になるが未だこれという人材が現れず、かなり疲れが溜まってきていた。
 せめて裏方だけでも学生アルバイトを使おうかと思う時も有るが、客層を考えたら多少高い給料を払っても店員は選ばなければならない。雰囲気と料理の味を気に入り、まめに通ってくれる常連客達有っての店だ。オーナーから信頼され任されている以上、多忙や疲れを理由に危険は冒せない。
 やれやれと直人は2度目の溜息をついた。

 戸締まりと火の始末を再チェックし、直人が帰宅しようと裏口から出たら、そこにはまださっきの少年が眠っていた。じっくり観察すると表通りから自分の姿を隠している様にも見える。
 こういう手合いは訳有りが多い。関わらない方が良い。見なかった事にして帰ってしまえと理性は告げるが、深夜で相手が子供という事も有って、面倒見の良い本来の性格が躊躇させる。
 1分間程その場で悩み、少年の側にしゃがんで声を掛けた。
「君。そんな所で寝ていると風邪を引くよ」
 よほど熟睡しているのか少年は起きようとしない。しかし、少年からはアルコールの匂いは全くしなかった。
どうも様子がおかしいな。病人なら救急車を呼ばなくちゃ。
 ポケットの中に有る携帯を手にし、直人は少年の肩を揺すりながら再び声を掛ける。
「君、大丈夫か?」
「何だよ。ぅっせえなー。俺は腹減ってて、眠くて動けねえんだよ。放っておいてくれよ」
 それだけ言うと少年は再び目を閉じた。
「はあ?」
 ちょっと待てよ。と、直人は顎に手を当てた。
 短いとはいえ返ってきた声は元気だった。ついでに少年はどうやら正気で、しかも意図的にここで寝ているらしい。空腹プラス睡眠不足。都心ならともかくこの地方はすでに初冬を迎えている。この寒空では次に待ってるのは最悪凍死だ。
 こんな所で死なれたら後々大変な事になる思い、直人は再度少年の肩を揺すった。
「頼むから起きてくれよ。こんな所で凍死でもされちゃこっちが困るんだ。空腹なら僕が奢るから……」
 全てを言い終わらない内に、少年は大きく目を見開いて跳ね起きた。
「あんた、俺にメシ奢ってくれるって言うのか?」
 にぱっと笑う少年のあまりの変わり身に直人は半ば呆れながら苦笑した。
「ああ約束する。だからちゃんと起きて一緒に来てくれるかな? ちょと歩いた所に24時間営業のファミレスが有るんだ」
「サンキュー」
 フットワークも軽く立ち上がると少年は軽く身体に付いた汚れを払い、枕にしていた大きめのバッグを肩に掛ける。
空腹で動けないってさっき言ってなかったか?
 そう直人は思ったが、あえてツッコミを入れるのは控えた。まずは少年と自分の空腹を満たし、詳しい話しをするのはその後の方が良いと判断したからだ。

「いただきます」
 両手を合わせて少年は猛然とテーブルに並べられた料理を腹の中に収めていく。
 唖然としながら直人も一緒に食事を摂っていたが観察は怠らない。ファミレスを選んだのは金銭面より初対面の少年に警戒させない為だ。
 食べるスピードと旺盛な食欲、所々汚れた服装、普通に出かけたにしてはどう見ても大きすぎるバッグを見て家出少年だなと確信した。
 言葉使いはとても褒められた物じゃないが、「いただきます」と「ありがとう」が自然に言えるのだから躾けは良い。こういう子供が準備万端で家出をする時は、理由は様々だが何らかの事情が有る。
 さてどうしたものかと直人は紙ナプキンで自分の口元をぬぐった。職業柄、初対面の相手から話を聞き出すのは得意な方だ。とはいえ相手は子供。酒と会話を楽しみにくる客を相手にする時とは勝手が違う。
 食後のコーヒーを飲む頃になって漸く直人は口を開いた。
「さて。名前ぐらいは教えて貰えないかな? 家出少年君」
 瞬間、少年はむっとして警戒した顔になる。それは直人も予想済みで余裕の態度は崩さない。
「俺の事を警察に通報する気か?」
「場合によってはね。このまま「はい、さようなら」って別れた後に、どこかで君に凍死でもされたらこっちの目覚めが悪いんだ。多少の事情を聞くだけの資格は有ると思うんだけど?」
 にやりと笑いながら直人は少年が食べた皿の山を指さした。
 眉間に皺を寄せた少年は舌打ちをしかけてすぐに口を閉じ、見ず知らずの他人の奢りで大食いした事をきまずく感じたのか、少しだけ躊躇う様に口を開いた。
「俺の名前は滝沢翼(つばさ)。歳は23だ。たしかに家出中だけど未成年じゃ無い。警察の世話にはなれねーよ」
 直人はわざとらしく頭を振りながら溜息をついて、翼の顔をまっすぐ見つめ返した。
「君ね。そんなすぐにばれる嘘は身の為にならないよ。どう見たって10代半ばだろう」
「嘘なんかついてねぇよ。俺、すっげー童顔らしいんだ。あんたもそうだけど初対面の奴ってみんな俺を子供と勘違いするんだよな」
 そう言うとむすっとした顔をしてふいと横を見る。
 2度も「あんた」呼ばわりされ、直人は多少むっとはしたが、名前を聞いておいて自分は名乗っていない事に気付いた。
「僕の名前は岡田直人だ。出来れば”あんた”は止めてもらいたいな」
「じゃあ、直人……さん。ごちそう様でした。ありがとうございました」
 ぺこりと頭を下げると翼は立ち上がってバッグを肩に担いで店の外に出ようとする。

「お、おい。ちょっと待てよ」
 慌ててレジを済ませると直人は翼を追いかける。大通りに面しているとはいえ、素早く角を曲がられたら翼を見失ってしまう。
「待てったら」
 早足で歩き去ろうとする翼になんとか追いつくと、直人は並んで歩きながら声を掛けた。
「まだ、話は終わってないだろう」
 直人を横目でちらっと見ると、翼はすぐに視線を前に戻してボソリと口を開く。
「まだ俺に何か聞きたい事があるのか?」
「今夜の宿はどうする気なんだい?」
「……」
「泊まる所が無いんだろう? さしずめお金を使い果たして途方に暮れてあそこで寝ていたんじゃないのかい?」
「……」
「図星だね」
 その一言で赤面した翼は更に足を速める。
「こらこら、親切心で食事を奢った相手にそういう態度は無いだろう?」
「もう話す事は無ぇよ」
「どこかで野宿する気なんだろう? 止めた方が良いよ。この寒さだ。本当に凍死するよ」
「うっさいな。仕方無ぇだろ。金も無けりゃ行く所も無ぇんだよ。家にはぜってー帰りたく無ぇんだ」
 すでに2人共小走り状態で、口元から白い息が漏れている。
なんて強情な子だろう。食事を摂る金すら使い果たしているくらいだから家出慣れをしている風でも無い。よほどの事情が有って本当に家に帰れないのか。そうなら安易に警察に保護を頼めない。エサに釣られてもそれ以上は人に頼ろうとしない。健康に自信が有るのだとしても無茶だ。
 黙って歩きながら思考を巡らした直人は、思い切って1つの提案をする事にした。
「じゃあ、こういうのはどうだい? 今夜1晩君を僕の家に招待する。そうすれば君は野宿しなく済むし、僕としてもこのまま君を見送って心配して寝不足にならずに済む」
 ピタッと翼は足を止めて振り向いた。
「あんた馬鹿か? 見ず知らずの他人にメシ奢った上に家に泊めるだぁ? 信じられねぇ。正気かよ。俺が泥棒だったらどうする気だよ!?」
 頬を真っ赤に染めて叫ぶ翼に直人は苦笑する。一見無謀な行動をしているが、最低限の常識は持ち合わせている。これなら正攻法で行ける。
「”あんた”じゃ無くて直人だ。僕はこう見えても職業がら人を見る目は有るつもりだよ。君が本当に泥棒をするような人間なら、空腹であんな所で倒れる前にひったくりでも何でもして現金を手に入れてるだろうし、要領が良い性格なら上手く立ち回ってお金を使い果たすなんて事に成るハズも無い。僕の質問に正直に答える所とか、ちゃんと礼も言う所を見ると君の性格は馬鹿正直な部類だろう。第1、自分から泥棒と疑えなんて言う泥棒は居ない」
「!!」
 完全に図星を指されて絶句する翼に直人はにっこり微笑んだ。気まずいものを感じて翼が視線を逸らす。
「金が無けりゃどんな善人だって魔が差すとか有るかもしれねーだろ……。あんた、良い人っぽいし、もっと気をつけろよ。でないといつか痛い目見るぞ」
 言ってる事はまともだが、自己申告23歳の青年とも思えないオドオドした態度に、直人は思わず吹きだした。
 こんな素直な性格の持ち主をどう疑えと言うのか。これが全部演技なら大したものだが、腹の虫と目は嘘をつけない。
「本当に君は正直だね。顔を見てるだけで何を考えてるかすぐ判るよ。さぁてどうする? 僕の家に来るかい?」
 翼は赤面したままその場で数分間沈黙を保ち、漸く口を開いた。
「……じゃあ、今夜だけは世話になる」
「決まりだね」
 満面の笑顔で言うと同時に直人は手を挙げる。
 ほどなく2人の前にタクシーが停まった。

 タクシーは15分ほど走ってマンションの前に停まった。エレベーターに乗って玄関先に着くと翼は扉の横に書かれた表札を確認して小さく頷く。
 そんな翼を見つめて、直人はこの用心深さがこれまで無事に済んだ要因かと思いながら、玄関の鍵を開けて尋ねた。
「これで少しは僕の言ってる事を信じて貰えたかな? さあ、どうぞ」
 玄関から1番近い扉を開けて4畳半ほどの荷物置き場の様な部屋に翼を招き入れる。
「少し狭いけど1晩くらいなら良いだろう? 布団はクローゼットの中に入っているから君の好きに使って良いよ」
「分かった。本当に助かる。ありがとう」
 やや遠慮がちに翼が礼を言うと軽い口調で直人は返した。
「どういたしまして。じゃあ、おやすみ」
 軽い音を立てて閉じられたドアと遠ざかる足音を聞いて翼は大きな溜息をついた。
全く変な奴だったな。まぁ、バレなかったから良いか。
 少なくとも今夜は空腹で眠れない事も、雨の心配をしながら寒さに震える心配もしなくて済む。クローゼットから布団を出すと翼は着替えもせぬまま倒れ込む様に爆睡した。

 翌朝、直人が目を覚ますと家の中ががらりと変わっていた。
 洗面所は大量に溜め込んでいた洗濯物が、全て乾燥まで済まされて綺麗に畳まれてカゴに入れられていた。
 流し台に山の様に放置されていた食器類が全て洗われて食器棚の中に収まっている。異臭を放っていた生ゴミも綺麗に片づけられていた。ここ数週間の自分の生活を考えたら魔法の様だ。
 そしてキッチンには、昨夜行きがかり上拾った翼がこざっぱりした姿で朝食の準備をしている。
 直人の気配を察して、背中を向けたまま翼が声を掛けてきた。
「おはよう。図々しいとは思ったけどシャワーと洗濯機を借りたぜ。昨夜借りた布団のシーツも今洗濯しているところだ。あと、直人が寝ている時にクリーニング屋が来たからシャツとスラックスを受け取って、ランドリーに置いて有ったのを渡したけど不都合は無いよな?」
 全く何時の間にこれだけの事をやってのけたのか。直人は感心しつつも不思議に思った。
「……おはよう。君、昨夜ちゃんと寝たの? 何時の間にこれだけの事をやったんだい?」
「俺、あれからすぐに寝たからな。ぐっすりさっぱりだぜ。おとと、卵はスクランブルと目玉焼きのどっちが良い?」
「あ、じゃあスクランブルで」
 何がどうなっているのか全く判らない。寝起きで頭が回らない時に予想外の事が起こりすぎ、ぼんやりした状態で直人はテーブルの席に付いた。
 翼は冷蔵庫の中をのぞき込んで小さく舌打ちをした。
「……ったく。米もミソも切れてるし日頃は何食ってるんだ? 中身が寂しすぎてロクな物が作れねえな。直人、パンは何枚食べるんだ?」
「えーっと、2枚かな」
「分かった」
 素早くトースターに食パンを入れると翼はバターを冷蔵庫から取り出し、フライパンに入れて卵をかき混ぜる。
早い。これは手慣れている。もしかしたら同業者か経験者か?
 漸く頭が回り始めた直人は、翼の素早い動きを感心しながら見つめていた。
「ほら、できたぜ。飲み物はコーヒーで良いか?」
 振り返った翼の顔を見て直人は愕然とした。
 昨夜拾った時は小汚い少年のハズだったのだが、シャワーを浴び、身支度を整えた翼は美少年の範疇に充分入るものだった。
「コーヒーが嫌なら紅茶でもミルクでも用意するぜ?」
 直人がなかなか返事をしないのを翼は勘違いしたらしい。コーヒーサーバーから手を離し、食器棚のティーセットに手を伸ばす。
「……あ、ああコーヒーで良いよ。ありがとう」
 翼に礼を言うと直人は食事を始めた。
 ロクな物が無いと翼は言ったが、程良く焼けたトーストにインスタントじゃないコーヒー、バターと黒コショウで味付けされたスクランブルエッグ、マヨネーズを添えた解凍野菜の簡単なサラダまで付いている。朝食としては充分な品数だ。
 ふと直人が目を上げると、翼は立ったままコーヒーを飲んでいる。
「君はもう食べたのかい?」
「1晩泊めて貰った上にシャワーや洗濯機まで借りたんだ。そこまで図々しい真似は出来ないだろ」
 やっぱりとすぐに食事の手を止めて直人は提案する。
「じゃあ、一緒にこれを半分ずつ食べよう。1人で食べるより2人で食べた方が美味しく食べれる」
「でもそれじゃ……」
 悪いと言いかけた翼を直人はスプーンを振って遮った。
「ストップ。宿泊費と昨夜の食事代は充分貰ったよ。食器も洗濯物もこの朝食も全部労働で返そうって意志なんだろう? やっぱり君は律儀な正直者なんだね」
 ぱっと赤面する翼に微笑ましいものを感じながら、直人は棚からもう1人分の食器を取り出して器用に食べ物を取り分けた。
「さあ、食べよう」
 にっこり笑う直人に躊躇しながらも、翼は「いただきます」と言って食事を始めた。

 食器の後片付けと洗濯物を全て終わると、翼はバッグを抱えて直人に向かって頭を下げた。
「直人には昨夜から本当に世話になった。ありがとう」
「え、もう出ていくのかい? もう少しゆっくりして行けば? せめてお茶くらい飲んで行っても……」
 働くだけ働いてすぐにかと、直人が引き留めようとする。昨夜は何とか説得出来たが、翼の言うとおりなら心配の種は尽きない。
 要するに直人は翼を気に入ったのだ。言葉使いを除けば礼儀は正しいし、何より言葉に嫌みが無く思いやりもある。責任感も強そうだ。手放すのは惜しい人材とまで思い始めていた。
「俺、本当に金無いから今日中にでも仕事を見つけて、泊まれる場所も探さなきゃいけないんだ。日中に回らないと良いバイトの口は無い。これ以上長居は出来ねぇよ」
 翼の切実な言葉を聞いてぱっと直人に笑顔が戻る。
「じゃあ、このまま此処に住んでうちの店で働けば良いよ」
「はぁ?」
「君が昨夜寝ていた場所の店は、僕が雇われだけどマスターをやってるんだ。バーテンダーとウェイターを募集中なんだけどなかなか良い人材が居なくってね。君の今朝からの行動をずっと見てて是非採用したいと思っているんだけど嫌かい?」
 問題はその言葉使いだけどと漏らす直人に、苦笑して翼は答えた。
「直人さんは私が職場でも敬語を使えないとお考えなのですね。これでも高校を卒業してからずっと働いて来ました。アルバイトの経験も有りますし、お客様に失礼に当たらない程度の敬語は使えますよ。……ってぐらいは俺だって言えるぜ。ありがたい申し出だけど、俺はそういう仕事の経験が全く無いんだ。無理だよ」
「なんだ、ちゃんと敬語も使えるんじゃないか。それなら大丈夫。君の手際の良さが有ればすぐに仕事にも慣れるよ。容姿も申し分無いし」
「だけど……」
 尚も否定の言葉を言い募ろうとする翼に、直人は少しだけ意地悪い笑顔を向けた。
「住所不定、身元保証人無しではまともな就職先が見つからなかったんだろう? 君にとっても良い話しだと思うけど」
 又も図星に翼が口を閉じる。
「決まりだね。じゃあ君のサイズに合った服を今から買いに行こう」
 直人は止めようとする翼のバッグを取り上げてソファーの上に放り、翼の腕を掴むと玄関に向かった。
それ以前に、俺は女なんだよーっ!!
 喉元まで出かかった言葉を翼は必死で飲み込んだ。今更正体をバラす訳にもいかず、無一文の自分には確かに直人の申し出は本当にありがたいものだったのだ。
 童顔が災いして何度も警察に通報されかかった。身元が解るものを提示すれば逆に偽装書類と疑われた。道を歩いていて有った勧誘はロクなものでは無く逃げ出した。
 溺れる者は藁をもつかむと言うが、翼には直人は信用に足る藁だと信じられたのも大きかった。
 直人にデパートの子供服売り場に連れて行かれた時は、後ろから蹴り飛ばしてやろうかと思ったが自重した。小柄な少年にしか見えない外見を今は利用するしかない。直人が店員と交渉し、フォーマルに近い白無地のシャツに蝶ネクタイ、黒のベストとスラックスと革靴で落ち着いた。
 出来合いとはいえ安くはないユニフォームに、翼はかなりまともな店で働けるらしいと安心した。

 直人から簡単な説明を受けて、その日の夕方から翼はバー「ウインド」でウェイターとして働き始めた。
 10人も座れないカウンター席と4人掛けのテーブルが数席、儲け主義に走らず、スペースをふんだんに使い、洒落て落ち着いた内装はカップルか女性客メイン向けである事を物語っていた。
そういえば直人もモロ女受けするタイプの顔だよな。だから俺を雇ったって訳か。
 自分が少年顔である事を充分自覚している翼は、テーブルセットを終えると1人納得しながらグラスを棚に収めていく。
「マスター。ずいぶん可愛い子が入ったのね。幾つなの?」
 常連らしいカウンターの若い女性客が直人に囁く。
「当ててみてくださいよ。お好きなカクテルをサービスしますよ。昨夜偶然落ちてたのを拾ったんですよ。なかなかの掘り出し物でしょう」
 冗談とも本気とも取れる直人の軽口に女性客は笑い声をたてた。
「落ちてたのを拾った? ええ、マスターも良い男だけど彼もスレて無い感じでとても良いわ」
 まだ単独の接客は任されていないが、数日の内に翼は仕事に慣れ、真面目な勤務態度と丁寧な挨拶、可愛い容姿で確実に常連の女性ファンを増やしていった。


 ある日、カウンター席の隅に1人の女性客が着いた。ウィスキーをダブルで注文すると、青い顔で俯いたままグラスを握りしめている。
 異変を察した翼がちらりと視線を投げたが、直人は飛び込みで入ったグループの対応に追われている。
 どんなお客様も平等に大切にしなくてはならない。翼はその女性に負担にならない様に気を配りながら少しずつ会話を進めていった。
 話の内容からどうやらつい先程酷い失恋をして、その憂さ晴らしにたまたま近くに有った初めての店で飲めもしない強い酒を注文したらしいと判った。
こりゃまずいな。
 翼は一切表情には出さず、コップを取りに来た直人に耳打ちした。
「マスター、ちょっとお願いが有ります。実は……」
 翼の話を聞くと直人はすぐに頷いた。
 自分の判断に任せるという顔を見て、翼は表情を引き締めてキッチンに向かう。カクテルを作れない翼にとって初めての挑戦だった。
 しばらくして暗い表情のままの女性客の前に可愛らしい柄のコーヒーカップが置かれる。
 びっくりした女性が顔を上げると、翼は優しく微笑んで氷の溶けてしまったウイスキー入りのグラスを横に避けた。
「これは当店からのサービスです。温かいうちにどうぞ」
 戸惑いがちに女性客がそっとカップに口を添える。ホットミルクチョコレートの中にほんの少しだけ甘い酒が入れられている。
「……美味しい」
 女性の顔から厳しさが取れ、ほんのり目に笑みが浮かぶのを見て翼は内心ほっとした。
「ありがとうございます。差し出がましいとは思いましたが、今貴女に必要なのは強いお酒では無く人の温かさだと判断いたしました。これを飲まれたらお家に帰って電話ででも親しい友人に今の気持ちを正直に話してみてたらいかかでしょうか? きっと明日には良い朝が向かえられますよ。今日のお代は結構です」
「そうね。……そうだわ。やっぱり女は独りやけ酒より、やけ食いやおしゃべりの方がスッキリするよね。帰りにコンビニで今度は缶ビールとお菓子も沢山買わなくちゃ」
 かすかに涙を浮かべながら微笑むと、翼に「聞いてくれてありがとう」と言って店を後にした。

 仕事を終えてマンションに帰って来た時、直人は笑って翼の肩を叩いた。
「君はさぞかし学生時代から女の子にもてたんだろうね。普段は悪い口が良く回る。それに女性の扱いが板に付いてる」
 むっとして翼が言い返す。
「それはまんま直人の事だろ。この女ったらしめ。俺は学生時代も社会に出てからも、もてた事なんて全然無かったぞ」
 あれは会社の女子更衣室や給湯室で度々繰り返されたのと同じ会話だよ。と翼は思ったが口には出せなかった。
 そんな事とは知らない直人は「またまた。嘘は付いちゃいけないよっていつも言ってるだろう」などど気楽に言ってくる。
 この童顔で男みたいな顔が禍して「男」にもてた事なんて本当に無いんだっての。とも思ったが、これも口に出す訳にもいかず翼は憮然としていた。


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