ショスタコーヴィチ:交響曲第7番『レニングラード』

第7章 交響曲第7番 楽曲解説
【 第4楽章 】

シャガール 

                       マルク・シャガール『コンサート』1957年


第4楽章
 初演された当時ソヴィエト国内では、第1〜3楽章はとても良くできているが、第4楽章についてはごく一部から批判があったとされています。初演の指揮をしたサムイル・サモスードは個人的な意見としつつも第4楽章に合唱とソリストをつけるべきだと考えていました。また、ショスタコーヴィチは、友人のグリークマンへの1942年1月4日付けの手紙に「私の友人の Soso Begiashvili は(交響曲第7番の)第4楽章を十分な楽観主義を湛える名作ではないと見做していた。」と書いています(エリザベス・ウィルソン著『Shostakovich : A Life Remembered』 p.187)。Begiashvili はレニングラード音楽院で学んだ後に政府機関に属していて、クイビシェフ時代のショスタコーヴィチに対して食糧配給などの便宜を図ってくれた人物として、ショスタコーヴィチ家族にはとても助かる存在でありました。しかし、ショスタコーヴィチの妻ニーナは彼を「内通者」として警戒をしていたとされ、ショスタコーヴィチもその手紙の続きに、「私の友人の Soso Begiashvili はとても素晴らしい(marvelous)人だが、」と書いています。ショスタコーヴィチがグリークマンにmarvelous と書くときはその反対の意味を持たせることをグリークマンは知っていたとのことです(前掲書 p.187)。

 この第4楽章への批判というのはまさに政府がこの曲に対して、ソヴィエトの勝利を高らかに謳うことを求めていたのに関わらずショスタコーヴィチが十分に応えていないということを示しているものと考えられます。しかし、ショスタコーヴィチは「私は、この楽章に合唱もソリストも必要はないと信じている。このままで十分楽観主義的なのだ。」と言っています(『Re-examining the Warhorse Shostakovich's Leningrad Symphony』 by Keri Blickenstaff p.9 )。この「楽観主義」という言葉の訳は難しいのですが、当時のソヴィエト政府がめざしていたのが共産主義の明るい未来であり、その明るい未来を描くのが芸術作品に求められた使命でした。その使命を果たした作品が「楽観主義」と称され、芸術作品として認められた、つまりすべての芸術作品は「楽観主義」であることが必須の条件とされていたということになります。

 歌劇『ムツェンスク郡のマクベス夫人』を「荒唐無稽」と『プラウダ』紙上で批判されたことでそのことを身をもって感じていたショスタコーヴィチは、交響曲第5番の作曲において当局の期待に応えることで復権を果たしたことはよく知られています。交響曲第5番は「革命20周年」のために書かれたことになっていて、とりわけその第4楽章は当局が最も期待する「勝利の音楽」にしたことから、この交響曲第7番の終楽章も同じく「勝利の音楽」と見做すことが一般的となっています。のちに削除しますがこの楽章に「勝利」という副題をつけていたり、「第4楽章は来るべき勝利である」というショスタコーヴィチ自身の言葉が残っていたりすることからも、この楽章のあり方が決定されているのです。New York Timesの特派員ラルフ・パーカーがショスタコーヴィチにインタビューして書いた1942年2月9日の記事によると、

 「第4楽章はひとことで言うと『勝利』である。しかし、それは野蛮なものではなく、こう言えばより説明できると思うのだが、暗闇を照らす光の勝利、蛮行対するヒューマニティの勝利、報復に対する知性の勝利なのだ。」とショスタコーヴィチは応えています(『Re-examining the Warhorse Shostakovich's Leningrad Symphony』 by Keri Blickenstaff p.13)。

 これは間違いなく当局に知られることを意識したショスタコーヴィチの慎重な受け応えであると当時に、その本音も見え隠れする発言でもあります。そこには彼の芸術家としての信念が込められているとも読み取ることができるのではないでしょうか。


「勝利」のモールス信号?
 この楽章の解説によく取り上げられているのが、モールス信号の「V」(・・・−)=「Victory」を表わす音型が随所に現われるという説です。第4楽章の冒頭からしばらくして吹かれるオーボエとミュート(弱音器)付きのホルンによって弱音で奏される3連符と長い音符の連続(途中からティンパニも加わる)が、「勝利」を意味するモールス信号を模したものであるというものです(練習番号151)。第4楽章で最初にモールス信号は以下のように登場します。

Sym7譜面
                     モールス信号?

 確かに、楽章の最後の方ではパート譜の1ページ半にわたって3連符を含む同じ音型を数え切れないほど大音量でこれでもかと連呼し続けるのは事実ではあります(練習番号202の後からと204から最後まで)。しかし、楽章が始まっていきなり「勝利」というのも変な話しではないでしょうか。「勝利」は遠くから、最初は微かな兆しから始まるなんてことはないはずですし、モールス信号に p(ピアノ)も f (フォルテ)もないのでしょうから。これは第1楽章のいわゆる『侵略のテーマ』でドイツ軍が遠くから密やかにやってくるという説と同じくらい滑稽な話しではないでしょうか。ドイツ軍の攻撃は電撃的にあっという間に大軍を投入したのであり、もしソヴィエト軍が勝利したのならラジオで一斉に放送されてあっという間に全国に広まったはずです。それを楽章の最初から最後までモールス信号をちまちま打ち続ける様は、想像力をどう働かしても納得のいくイメージになりません。楽章の最初は例えば、攻撃されて海底に沈みゆく潜水艦の中から生き残った通信士がモールス信号で「勝利」を打電し、最後では100人ものオペレーターがモスクワの指令本部で一斉に「・・・−」と打ち続けるというシュールな場面が目に浮かんでしまうのです。

 むしろこの3連符は、第1楽章で述べた「4つの音符」の動機の変形と見ることはできないでしょうか。第1楽章では曲の冒頭で叩かれるティンパニ、いわゆる『侵略のテーマ』の伴奏部、展開部のクライマックスでの『マクベス夫人』の引用、楽章終わりに3回出てくるホルンの意味ありげに2回ずつ繰り返される動機が、終楽章で3連符という形になって再現されていると見做すことができるのではないでしょうか。この第4楽章では、最初は気付かれないようにそっと弱音で奏され、その後、金管によって明確なかたちでその姿を現わし、最後は全オーケストラによって最強音で繰り返されるという出現の仕方からすると、「4つの音符」の動機の延長線上と見る方が自然のような気がします。

 しかし、当局によって求められた「楽観主義」に副うためにはこのモールス信号説はショスタコーヴィチにとっては都合のいい話しとなりますから、敢えてクレームはつけなかったと考えられます。本人がどう考えようと、生き残るために重要なのはどう見られるかだったのですから。ヴォルコフの『ショスタコーヴィチの証言』に書かれているショスタコーヴィチの言葉からも他者による理解と本人の思いとのギャップは大きかったということがわかります。


指揮者ムラヴィンスキー
 「わたしの音楽の最大の解釈者を自負していた指揮者ムラヴィンスキーがわたしの音楽をまるで理解していないことを知って愕然とした。交響曲第5番と第7番でわたしが歓喜の終楽章を書きたいと望んでいたなどと、およそわたしの思ってもみなかったことを言っているのだ。この男には、わたしが歓喜の終楽章など夢にも考えたことがないのもわからないのだ。いったい、あそこにどんな歓喜があるというのか。」

 このヴォルコフの『証言』におけるショスタコーヴィチのエフゲニー・ムラヴィンスキーに対する批判の信憑性については、とりわけムラヴィンスキーのファンからは疑問が提示されるところです。それは、ムラヴィンスキーはショスタコーヴィチの交響曲を最も多く初演しているからです。両者はショスタコーヴィチの交響曲第5番の初演(1937年)で初めて会ったのを皮切りに交響曲第6番(1939年)、8番(1943年)、9番(1945年)、10番(1953年)、12番(1961年)と全15曲の交響曲のうち6曲も初演しているのです。また、第1章『曲の成立と初演』でも述べましたが、ショスタコーヴィチは第7番の初演をムラヴィンスキーに振ってもらうことを強く望んでいたのですが、戦争や諸般の事情で叶わなかったのでした。初演に先立つ1942年1月4日にショスタコーヴィチは次のように語ったとされています。

 「ここ(クイビシェフ)には(この曲を演奏するのに)十分なオーケストラがないのが心配だ。なぜなら、この曲は巨大なオーケストラが必要だからだ。本当のところはムラヴィンスキーがこの曲を指揮する演奏を聴きたいのだが、この時期ではそれは無理な話しだ。私はサモスードを交響曲指揮者としてそれほど信頼はしていないのだ。(『Re-examining the Warhorse Shostakovich's Leningrad Symphony』 by Keri Blickenstaff p.9 )

 交響曲第7番の初演を指揮したサムイル・サモスードは、かつてショスタコーヴィチの歌劇『鼻』及び歌劇『ムツェンスク郡のマクベス夫人』の初演を行なった人物で、ショスタコーヴィチは彼をオペラ指揮者としては高く評価していたと考えていいと思います。確かにサモスードが残したそれほど多くないレコード録音を見ると、チャイコフスキーの歌劇『チャロデイカ(魔女)』、グリンカの歌劇『ルスランとルドミュラ』、リムスキー=コルサコフの歌劇『不死身のカシチェイ』などのロシア物だけでなく、ヴェルディの歌劇『リゴレット』、プッチーニの歌劇『ラ・ボエーム』、ワーグナーの歌劇『ローエングリン』などとオペラ録音が多く目につきます。1910年〜1943年まではマリインスキー劇場、ボリショイ劇場などの歌劇場で指揮者として活躍したとはいえ、レコード録音が盛んになる1950年代からはモスクワ・フィルハーモニーなどシンフォニー・オーケストラも振っているのにもかかわらず、オペラ録音が多いということはそのスペシャリストとして認められていたということになり、ショスタコーヴィチの評価も頷けることになります。

 交響曲第7番の初演後約20年が経過した頃、ショスタコーヴィチが絶大な信頼を寄せていた指揮者ムラヴィンスキーは、ユダヤ人問題を扱った交響曲第13番『バビ・ヤール』の初演を断っています。その曲が完成した頃、ショスタコーヴィチはムラヴィンスキーのダーチャ(別荘)に行き、ふたりで曲をピアノで弾いたりして作品の検討をしたとされています。しかし、ショスタコーヴィチの友人のグリークマンによると、ムラヴィンスキーは「エフトシェンコの『バビ・ヤール』にもとづくこの交響曲の特に偉大な冒頭楽章に共感を抱かなかった」としています(グレゴール・タシー著『ムラヴィンスキー - 高貴なる指揮者』 p.252-253)。この著者は初演を断った理由をいくつか挙げていますが、この件についてムラヴィンスキーは沈黙を守ったまま鬼籍に入ってしまったために、結論的には「はっきりしない」としています。

 「その音楽様式にあるとの説がある。ムラヴィンスキーがその生涯を通じて、声楽を伴う曲に慎重だった、音楽の内容や様式における問題が重視されていたとしても、そうした作品を後押しするのを嫌がっていたのだろう。」(前掲書 p.256)

 1962年10月9日にショスタコーヴィチがムラヴィンスキーに交響曲第13番の初演を12月の後半にできないかと電話をかけますが、ムラヴィンスキーは新年まで待てないかと答えたとされています。実はその日にムラヴィンスキーは、数ヶ月前から具合を悪くしていた妻インナ・セリコーヴァが不治の骨癌、多発性骨髄腫(白血病)であることを告知されていたのでした(前掲書 p.255)。ムラヴィンスキーはその時、正常な精神状態ではなかったことになります。結果的にはこの電話がふたりの袂を分かつ契機となり、交響曲第13番は1962年12月18日にキリル・コンドラシンの指揮で初演されます。また、ムラヴィンスキーの妻インナは1964年7月1日に死去します。

 ムラヴィンスキーは1963-64年のシーズンでシベリウスの交響曲第3番とヒンデミットの『世界の調和』のソヴィエト初演と、ボリス・クリュズナーの交響曲第2番とワジム・サルマノフの交響曲第3番の世界初演をしていますから、妻の病気によって規模の違いはあるにしても新作を指揮しないわけではなかったのであり、ショスタコーヴィチからのオファーに対して気が動転していてまともな受け答えができなかったのと、単にスケジュールが厳しかったからと考えるのが妥当ではないかと思われます。

 また、ムラヴィンスキーの妻インナはレニングラード音楽院を卒業後、教師、放送交響楽団の団員を経て、ソヴィエト連邦共産党の地域委員会文化部で働いていたということから、共産党員の妻からその政治的に微妙なテーマを扱った曲を初演することを止めさせられたという説もあります。先に掲げたグリークマンによるムラヴィンスキーのこの曲そのものに対する態度から判断するとこの説の真実性が少し見えてくるような気がします。

 ムラヴィンスキーはショスタコーヴィチとの確執にもかかわらず彼の交響曲を毎年必ず振っていたこと、彼の最後の交響曲第15番の世界初演こそショスタコーヴィチの息子のマキシムが指揮しましたが(1972年1月8日、モスクワ放送交響楽団)、ムラヴィンスキーはその年の5月5日にその曲のレニングラード初演を作曲家立会いのもとに果たすことで、旧来の関係を蘇らせたことを付記しておきます。

 なお、1964年にインナ・セリコーヴァが死去した後、ムラヴィンスキーは、1967年にアレクサンドラ・ミハイロヴナ・ヴァヴィーリナと四度目の結婚をします。彼女はレニングラード・フィルハーモニーの首席フルート奏者を1988年まで務めた人物(在籍は26年)でした。その1988年に夫ムラヴィンスキーは亡くなりますが、彼女は最近までフルート教師として個人レッスンを自宅で行なっていました。しかし、今年(2021年)9月にサンクトペテルブルクの自宅の火災で亡くなるという悲劇の報道が飛び込んできました。享年93歳。指揮者ムラヴィンスキーの貴重な遺品も灰に帰したとされています。


             ヴァヴィリーナ
             4人目の妻
アレクサンドラ・ヴァヴィーリナ

 話を戻しましょう。ヴォルコフが『証言』を著わすために本格的な取材をした期間は1972年から1974年とされています。ムラヴィンスキーが交響曲第13番の初演を断ったのが1962年ですから、ショスタコーヴィチはムラヴィンスキーに対して裏切られたという感情を抱き、疎遠になっていた時期と言えます。こうしたことが、ヴォルコフへの発言につながったとも考えられます。交響曲第5番と第7番の第4楽章を「歓喜の終楽章」と決めつける世間の風評に対して、老人特有の勘違いと思い込みの連鎖からムラヴィンスキーの名前を挙げてしまったのかもしれません。『証言』の中で恩師グラズノフの話になるとどんどん話しが脱線していって様々な悪口を言ってしまっているのと同類ではないかと筆者は感じています(こんな見方をすると研究者の方々から怒られそうですが)。ムラヴィンスキーの名誉のために、彼が「勝利の音楽」と発言したという記録は、ヴォルコフの『証言』以外には今のところ見つかっていないことを付記しておきます。

 ムラヴィンスキーが言ったかどうかは別として、ショスタコーヴィチ自身が「第4楽章はひとことで言うと『勝利』である。」と語っていたとはいえ、それは言わざるを得なかったのであり、この交響曲第7番の第4楽章を「歓喜」とか「勝利」といった月並みな言い方で片付けることは作曲者自身望んでいなかったのではないでしょうか。本書第1楽章でも引用させていただいた、指揮者の井上道義氏の「ベートーヴェン的発展をみせる演奏は決してあってはならない。タコ氏には『社会主義の勝利』も『苦悩を通しての歓喜』も決して存在しない。彼は世界と個人の関係の真理を音楽化することに成功している。(『ショスタコーヴィチ大研究』〜「ショスタコーヴィチを解毒する」)という発言をここでもう一度思い出していただきたいと思います。


第4楽章の形式
 さて、この第4楽章の形式についてはっきりと説明している解説書はないようです。「自由なソナタ形式」と見做す解説や、形式については全く触れない解説もあり、これはきっと誰にもうまい説明ができないのかもしれません。速度記号から判断すると、冒頭から練習番号179までのAllegro non troppo(速く、しかしあまり速すぎないように)の部分、練習番号179からは最後まで Moderato(中くらいの速さで)なので、2部形式と見ることができます。速度記号を考慮しないとすれば、練習番号192から冒頭部分の再現をしますので、3部形式と見做すこともできます。また、最初の練習番号179までの長大な部分の中に2つの主題が含まれていてそれが展開されるとなると、その2つの主題の展開の後に出てくるのは少々変ですが Moderatoを第3主題とすれば自由なソナタ形式という見方も可能ですし、3つの主題による自由なロンド形式とも言えるかもしれません。

 この楽章の形式が何であるかについては専門家に任せたいと思います。筆者は、この楽章は当局から完成を急かされたショスタコーヴィッチが構成を整える手間を省いたのではないかと密かに考えています。スターリンにとって欧米からの支援と援助を得るためには、この曲の完成と初演及び譜面の米国への送付は一刻の猶予も許されなかったはずです。この後起きるこの交響曲に対する世界規模のフィーバーがもし数か月遅れていたら、レニングラードはおろかモスクワもドイツ軍に蹂躙されていたのではないでしょうか。この曲の完成に当局が絡んでいたという証拠はありませんが、以下の映像が都合よく撮影されていることから何らかの工作があったと考えていいのかもしれません。

Shostakovich Plays His Leningrad Symphony, 1942
  
   
曲について 
 ここでは便宜的に第4楽章の冒頭でファースト・ヴァイオリンによって静かに奏される最初のテーマを第1主題、その直後にチェロ・バスが動きのある動機の断片を2回奏して、練習番号152から弦楽器により明確な姿を現わす主題を第2主題とします。第1主題を序奏と見做すこともできなくはないですが、このテーマは後にまた出てきますので、主要な主題のひとつとすべきでしょう。但し、この楽章でメイン・テーマとなるのは第2主題です。また、第1主題が収まった静けさの中に前掲の「4つの音符」の動機がオーボエとホルン、ティンパニによってこっそり奏されることは既に述べた通りです。

Sym7譜面
              ファースト・ヴァイオリンによる第1主題(冒頭)

Sym7譜面
                弦楽器による第2主題(練習番号152)

Sym7譜面
                「4つの音符」の動機(オーボエ)


 第4楽章冒頭で指定している Allegro non troppo にショスタコーヴィチが付記したメトロノーム記号は二分音符=132。non troppo (あまり〜しすぎないように)と書いている割にはかなり速い数値と言えます。後の交響曲第10番の第2楽章におけるメトロノーム記号の真偽論争並みに話題にならないのがおかしいくらいです。その数値はともかく、この練習番号152からテンポの指示が変わるわけではありませんが、指揮者の目の色が変わるところであり、オーケストラの奏者たちの脳裏には第10番の第2楽章の時と同様ストップ・ウォッチが掠め、同時に作曲者を呪いたくなるところでもあります。ショスタコーヴィチはこの交響曲第7番を語るときにしばしばムラヴィンスキーが指揮するレニングラード・フィルハーモニーの演奏水準の高さに触れて賞賛していることから、この箇所は間違いなく彼らのことを意識して書き、彼らにしか演奏できないテンポであらん限りの音符を詰め込んだのに違いありません。

 また、ショスタコーヴィチは作曲家である以前から名ピアニストであったことを忘れてはいけません。リストを得意とし、ショパン・コンクールにも参加したヴィルトゥオーゾであったことは、残された彼の映像を見たり録音を聴いたりするとよくわかります。シンフォニー作曲家として7番目の交響曲を作曲するにあたり、理想のオーケストラを身近に得たショスタコーヴィチが、演奏家の本能に任せた音符を並べるのはごく自然なことだと思われるのです。それが結果的に戦争を思わせる激しい音楽になったという解釈もあっていいのではないでしょうか。


ダヴィデの再臨
 この第2主題の音型を見ると、第3楽章の副次主題に類似していることに気づきます。(練習番号109と135)。第4楽章が何故第3楽章とアタッカで切れ目なく演奏されるようになっているのか、もしかしたらその理由がここにあるのかもしれません。

Sym7譜面
             ファースト・ヴァイオリンによる第3楽章副次主題
Sym7譜面
                  弦楽器による第4楽章第2主題

 第3楽章の終わりが第4楽章につながる必然性については、単に第3楽章が静かに終わり、第4楽章も静かに始まるということ以外、明確に説明することができません。ベートーヴェンの第5交響曲のように第3楽章の終わりで弱音から徐々に音量を増大させて切れ目なく第4楽章に大音量と共になだれ込むという芸当はここにはありません。ベートーヴェンの第9交響曲の第3楽章から第4楽章やシューマンの交響曲第1番の第2楽章から第3楽章、マーラーの交響曲第1番の第3楽章から第4楽章へのアタッカは、夢心地の聴き手を突然のフォルテで驚かす効果がありますが、そういった演出もここにはありません。
 
 ショスタコーヴィッチの交響曲第7番の第3楽章と第4楽章は、演奏するとそれぞれ20分近くかかる曲で、それを休みなく演奏されては演奏者も聴き手もたまったものではありません。しかし、第4楽章のメイン・テーマである第2主題がこの第3楽章の副次主題から派生したものと見ると、その連続性を強調したかったためにアタッカでつないだと考えられなくもありません。ショスタコーヴィチはそこに気付いて欲しかったのかもしれません。もしそうだとすると、第4楽章もダヴィデの存在を無視するわけにはいかなくなってきます。

 竪琴を抱えたダヴィデの祈りと苦難が第3楽章で描かれたとすると、第4楽章はその活躍と栄光を語るのが自然ではあります。しかしこの「第4楽章ダヴィデ」説にとって手痛いことは、ダヴィデを象徴するハープがこの楽章では登場しないことにあります。ダヴィデがイスラエル全域の支配を樹立するための戦いといったことを表わしているとも考えられます。そこにはショスタコーヴィチが誇りとしているロシア革命における革命軍のことが頭をよぎっていたのかもしれません。

 練習番号170からの別働隊のトランペット、ホルン、スネアの3連符と4分音符の組み合わせ、すなわち「4つの音符」のセットが執拗に繰り返され、それはさらには練習番号173から本隊に引き継がれていき、ついには練習番号174からは木管と弦楽器がユニゾンでその音型を連呼するショスタコーヴィチ・ワールドとなって大爆発します。ここからの激しい音楽つくりはショスタコーヴィチの天性とも言える見事なもので、木管、金管、打楽器をそれぞれ華やかに使い分け、幾何学的に並んだ木管・弦楽器の音符は絶大なる効果音としてその背景を鮮やかに描いています。

 この激しい部分が終わろうとする直前の練習番号175の後では冒頭の第1主題が ff (フォルティッシモ)で突然再現されます。聴きようによっては少々間の抜けたような印象を受けるところですが、天から降ってくような音楽のようにも聴こえます(個人的にはマルク・シャガールの絵から聴こえてくるような音楽と密かに思っています。)。これを境に音楽は急速に収まっていきます。しかし、なぜここで第1主題が突然出てくるのかと疑問が残るところではあります。第1主題がダヴィデを表わす旋律とすると、この突然聞えてくるのがダヴィデの声であり、その声によって音楽が収まっていき中間部へと導いていくとも考えられます。第2主題が第3楽章の副次主題に由来することと併せて考えると、やはりこの楽章もダヴィデのことを音楽にしたと見做すことができるのではないでしょうか。あくまでも想像の域を出ませんが。

 この後は第3楽章の中間部に入る直前と同様に、また単一楽器による経過句がファースト・ヴァイオリン、ヴィオラと受け継がれていきます。中間部は一転してModerato(中くらいの速さで)となり、休符を含むその動機は荘重な或いは決然とした音楽と言えます。

Sym7譜面
               中間部(ファースト・ヴァイオリンの例)


サラバンド?
 ショスタコーヴィチはこの箇所のスコアには Moderato と4分音符=100、tenuto (音符の長さを十分に保って)としか書いていませんが、バロック音楽の組曲を構成する舞曲のひとつである「サラバンド」と説明されることが多いようです。「サラバンド」とはテンポの遅い、優美あるいは荘重な曲調を持っている舞曲のことで、バッハの管弦楽組曲や無伴奏ヴァイオリン・パルティータ、無伴奏チェロ組曲などに含まれていることでも知られています。この舞曲の起源は中央アメリカのスペインの植民地とされ、後にスペイン本国に逆輸入されてヨーロッパ各地に伝わったものと言われています。そのルーツから第3楽章で登場した「スペイン的な華麗さ」との符号が気になるところですが、ショスタコーヴィチがこのサラバンドの起源について知っていたかどうかはさだかではないので、その関連性は薄いような気がします。しかし、この箇所がよく言われる「サラバンド」と見做すことができるのか、ショスタコーヴィチが本当に「サラバンド」を意識して書いたのか、何故ここでバロック音楽なのかなどと考えてしまいます。

 確かに、欧米におけるこの箇所の説明文にはヘンデルの「サラバンド」風といった表現が散見され、具体的にはヘンデルのハープシコード組曲第2集の第4番「サラバンド」であろうと思われます。ピアノを習った方なら一度は弾く曲で、弦楽合奏でもよく演奏されることから、この箇所を聴いてすぐにこのヘンデルの「サラバンド」を連想したのだと思われます。しかし、ヘンデルとの類似点についてショスタコーヴィチの作風などを踏まえて考察をしている解説はなく、形容詞的な軽い気持ちで書かれているような印象を受けます。原曲と弦楽合奏の演奏例を以下にご紹介します。後者はショスタコーヴィチ風な演奏を選んでみました。

ハープシコードによるヘンデルのサラバンド

オーケストラによるヘンデルのサラバンド

 これは典雅な宮廷を彩るヘンデル特有の音楽であり、そこにパッションが加味されても遅いテンポながらも、重厚な衣装を纏って踊りつつ「切れ」を失わない、あくまでも舞曲であることがわかると思います。しかしこういった情景をショスタコーヴィチのこの作品の中に見出そうとするのは少々無理があるのではないでしょうか。ショスタコーヴィチは、ここの全パートの音符に対して tenuto (音符の長さを十分に保って)という指示を書いています。つまり舞曲としてのイメージは抱いてはいなかったのではないでしょうか。またもうひとつ、バッハの影響はどうでしょうか。ヨーロッパ大陸の作曲家としてバッハを知らずに通過することはないとはいえ、この交響曲第7番を作曲した時にショスタコーヴィチがどこまでバッハを意識していたかはわかっていません。バッハの『平均律クラヴィーア曲集』の影響下でショスタコーヴィチが名作『24の前奏曲とフーガ』を作曲するのは1950年まで待たねばなりません。

 ショスタコーヴィチがこの Moderato(中くらいの速さで)に与えたテンポは4分音符=100でして、例によってかなり速いテンポと言えます。通常ですと Allegretto に相当すると思われますが、これを「サラバンド」の舞曲と見做すのは少々無理があるような気がします。ムラヴィンスキーの録音は4分音符=96くらいとスコアの指示に近いテンポで演奏していますが、多くの指揮者は4分音符=70の後半くらいの遅いテンポで演奏しています。この箇所まであらん限りの快速テンポで演奏していたのですから、コントラストを際立たせるようにここで遅めのテンポを取った方が演奏効果は上がるからです。しかしいずれにせよ「サラバンド」の舞曲をイメージして演奏しているようには聴こえません。それでは「サラバンド」でないとすると何を表現したかったのでしょうか。

 ここの音符の形を見ると(練習番号179)、第1楽章展開部におけるいわゆる『侵略のテーマ』を思い出します。本書第7章【 第1楽章 】で、いわゆる『侵略のテーマ』が『ボリス・ゴドゥノフ』プロローグと『ムツェンスク郡のマクベス夫人』第2幕第4場に由来することに触れていますが、これらの音型にそっくりとまでは言えないにせよ、どこか通じるものがあるような気がします。しかし、続く練習番号180から繰り返し刻まれるリズムに至ってはいわゆる『侵略のテーマ』のそれを連想せずにはいられません。

         Sym7譜面 
            Sym7譜面
        第4楽章中間部(上)と第1楽章のいわゆる『侵略のテーマ』(下)


 ショスタコーヴィチは終楽章において曲の回想をすることによって構成上の統一感を持たせようとしたのではないでしょうか。さらには、『ボリス・ゴドゥノフ』由来の動機を使うことによってムソルグスキーへの想いとその音楽に自らの主張を託したかったと考えられるのです。第1章『曲の成立と初演』で述べた通り、ショスタコーヴィチはムソルグスキーの『ボリス・ゴドゥノフ』のオーケストレーション作業を通じて、ソヴィエト共産党に追従する音楽と自らの主張する音楽を書き分ける手法を編み出していったのであり、この交響曲第7番の冒頭から当局が望むソヴィエト軍の勇敢な闘いの音楽を書いた後に続けて、自分が言いたいのはそうではないのだと言いたかったのかもしれません。少し穿ちすぎかもしれませんが。

 この中間部の主題についてもうひとつ気になることがあります。ここは#(シャープ)が5箇所につく嬰ロ短調3拍子で書かれていて、テンポが Moderato となっていまして、なんと第3楽章の中間部も同じ嬰ロ短調3拍子で Moderato risoluto なのです(メトロノーム記号は四分音符=100と120との違いはあります)。ここにも第3楽章との連続性の痕跡が認められると言えるのかもしれません。

 またこの奇妙な符号に加えて、この調性がのちに作曲する弦楽四重奏曲第8番(1960年)の第2楽章と同じであることにも驚かされます。その旋律はショスタコーヴィチが本格的にユダヤ音楽を採用したピアノ・トリオ第2番(1944年)第4楽章(嬰ハ短調)から借用したものとされていることでも知られています。弦楽四重奏曲第8番ではこのクレズマーの旋律が奏される直前にハ短調へと転調していて、厳密には同じ調性と言えませんが、わずかながらもユダヤ音楽の1本の糸がこの交響曲第7番から、ピアノ・トリオ第2番、弦楽四重奏曲第8番へと繋がっているような気がしてなりません。

 この中間部の主題はわずかな変形を重ねながら繰り返され、ついにはファースト・ヴァイオリンを主体とする弦楽合奏によって頂点が築かれます(練習番号183)。この楽章のこれまでの音楽からするとやや違和感を覚えるところではありますが、第3楽章後半での弦楽合奏の使い方に類似しているようにも思えます。ここで音楽が終わってしまうのかと思いきや、決然としていた音符は次第に角が取れてきて穏やかな音楽となっていきます。この後はクラリネット、フルート、バス・クラリネットと受け渡しながら経過句を形成します。この経過句も単一楽器によってリレーされるだけのシンプルな作りになっていて、ワン・パターンの謗りが免れないところでもあります。フィナーレに備えたとりとめのない時間帯に入ったようにも感じられます。


再び『ロスチャイルドのヴァイオリン』
 この中間部の頂点に至る音楽、付点音符による上降音型とトリルを含む音楽が、第6章と第1楽章、第2楽章で触れたフレーイシュマンの『ロスチャイルドのヴァイオリン』の終曲とよく似ていることに気づきます。ロスチャイルドがヤーコフからヴァイオリンを譲り受けた後(歌がなくなってから)です。楽譜がないのでYouTubeの以下の映像の8分50秒以降をお聴きください。

Fleishmann/Shostakovich "Rothschild's violin" III

 それだけでなく、その終曲で音楽が盛り上がっていくと、8分音符(たぶん)が連続して奏される部分(10分00秒以降)が、ショスタコーヴィチのこの後の終結部の音型(練習番号200)に酷似しているのです。このショスタコーヴィチの音型は唐突に出てくる印象があり、ここに『ロスチャイルドのヴァイオリン』の音楽を挿入させたと考えられるのではないでしょうか。もちろん偶然似ているだけかもしれませんが、ショスタコーヴィチがこの交響曲第7番を作曲していた当時心を痛めていたフレーイシュマンの刻印を曲の最後に残しておきたかったと想像することは決して不自然なことではないでしょう。

    Sym7譜面
        第4楽章 練習番号200 『ロスチャイルドのヴァイオリン』に似たところ


終結部へ
 練習番号189からはファースト・ヴァイオリンが第2主題の断片を pp(ピアニッシモ)で奏します。テンポは Moderato のままで進行していきます。程なくしてこの曲の基調であるハ長調に転調して、ヴィオラが第2主題をはっきりした形で奏します。そのフレーズが終わるとヴィオラがスタカートのついた8分音符をひとくさり弾きます。これまでのうねうねと漂うような音楽の流れからすると、転調とともに新たな局面に入ったという感じを受けるところではあります。後になってヴァイオリンとヴィオラが連続する8分音符を tenuto で弾きながら音楽を盛り上げていくところがあり、その兆しともとれます。次いでファースト・ヴァイオリンが第2主題と引き継ぐと、ヴィオラのスタカート音型はチェロ・バスに移っていきます。個人的にはこのヴィオラのスタカートを聴くと、ショスタコーヴィッチの次の交響曲第8番第3楽章冒頭のヴィオラを連想してしまいます。

 ここで再現或いは回想されるのは第2主題だけでなく、3連符を含む「4つの音符」(俗に「モールス信号」と称される)も2回にわたって顔を出します。最初はヴィオラの第2主題の後にコールアングレ、ファゴットによって、次いでファースト・ヴァイオリンの後にオーボエ、フルートによってです。この楽章の冒頭での出現と同じような弱音で奏されるということは、「モールス信号」説のような戦況の中継放送ではなく、何かの象徴としての役割を果たしていると考えるべきでしょう。第1楽章の終結部で2回にわたって弦楽器のフレーズの後にホルンによって吹かれる「4つの音符」(練習番号67から70)との符号は単なる偶然と片付けるわけにはいきません。ショスタコーヴィチが曲の統一感を出そうと苦心している姿が垣間見られるところでもあり、後年、ショスタコーヴィチが作品の中に自らのイニシャルDSCHを音列として組み込むことに腐心するようになるその萌芽とも見ることができるのではないしょうか。

 練習番号202を越えたあたりで、突然「4つの音符」の動機がフルート、オーボエ、ヴァイオリン、ヴィオラによって登場してきます。練習番号204になるとその動機は変形されてより多くの楽器群によって執拗に繰り返し奏されるようになり、これが最後まで続けられることになります。

    Sym7譜面
                 終結部における「4つの音符」の変形

       Sym7譜面
                  練習番号204からの反復音型


 俗にはこれを「モールス信号」の「勝利」のリズムと一致することから、華やかな栄光に満ちた勝利のクライマックスとして理解されていることになります。しかし、本書第7章【 第1楽章 】で指摘した通り、この「4つの音符」の動機は歌劇『ムツェンスク郡のマクベス夫人』に由来するもので、第1楽章の冒頭、展開部の頂点、コーダといった重要なポイントに出現していて、この楽章においても変形されて3連符を含みつつも、楽章の冒頭、回想部と曲のフィナーレと同じような状況で現われていることに注目すると別の姿も見えてきます。そこには、旧弊な社会に縛られて追い詰められた女性たち、ロシアにおいて歴史的に虐げられてきたユダヤ人に関するショスタコーヴィチの強い想いがそこに込められているとも考えられるのです。

 この辺りの音楽を聴くと、先ほどご紹介したフレーイシュマンの『ロスチャイルドのヴァイオリン』の終曲とその進み方や響きがそっくりなことに驚かされます。それもそのはず、この2年後にショスタコーヴィチが『ロスチャイルドのヴァイオリン』のオーケストレーション作業を行なっているのですから似てもおかしくはないのですが、その終わらせ方をこの交響曲第7番のそれと同じイメージになるように意識したのではないかと想像したくなります。是非、『ロスチャイルドのヴァイオリン』の10分00秒あたりから聴いてみてください。

 音楽はいよいよ佳境に入っていきます。トランペットとトロンボーンがこの楽章の主要主題である第2主題が変形された動機を2回繰り返し(練習番号205の前後)、練習番号207でついに fff(フォルテ3つ)というこの曲における最強音に達します。全曲でオーケストラの全パートが fff と指定される箇所は他には第1楽章展開部の頂点である『マクベス夫人』の「4つの音符」のところしかありません(練習番号55)。次いでトロンボーン、別働隊のトランペットとホルンが第1楽章の第1主題の動機を再現します。他のパートが「4つの音符」を最強音で連呼し続けている中で無理やり挿入させた感が否めないのですが、曲を解説する上でなんとも都合のいいタイミングで第1楽章の回帰という説明ができることになります。しかし、この楽章の主要主題である第2主題が繰り返し再現されている中で突然第1楽章の主題を回帰させるというのは構成上統一感に欠けるような気がします。この後、さらにトロンボーンとチューバがこの楽章の第2主題の動機を3回繰り返し、最後はティンパニがその断片を2回繰り返して曲を閉じます。


 ここでベルギーの音楽学者、ピアニスト、指揮者であった Paul Collaer のこの終結部についての記述と、ショスタコーヴィチの青年時代の友人(恋人?)だった小説家ガリーナ・セレブリャコーワのこの曲に対する言葉を紹介してこの章を閉じたいと思います。

Paul Collaer
 「爆発的な栄光のひびきで終わるのではない。重いものにたたきのめされたような感じで、重苦しさと深い疲労感があと味として残るのだ。―― これは華々しい勝利の歌よりもさらに感動的かつ真実感のある終結に相違ない(『 La Musique Moderne 』 レナード・バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィルハーモニックの交響曲第7番のLPレコードの解説文 三浦淳史著)。」

ガリーナ・セレブリャコーワ
 「交響曲第7番は、まったく戦争に関する作品ではなかった。」「地獄と天国、罪と無実、狂気と理性、闇と光、こういったものすべてをショスタコーヴィチはその天才的な交響曲のなかで反映させていました。
交響曲は何かある一つのテーマに限定されたものではなく、ダンテの『神曲』のように普遍的かつ不滅の物語なのです(ヴォルコフ著『ショスタコーヴィチとスターリン』 p.294)。」




*参考文献の一覧は≪目次≫をご覧ください。
 


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