ショスタコーヴィチ:交響曲第7番『レニングラード』

第7章 交響曲第7番 楽曲解説
【 第3楽章 】

  Chagall  

                    マルク・シャガール『ダヴィデ王の出現』1980年


第3楽章
 1942年3月29日のモスクワ初演の時のプログラムに掲載された解説には「第3楽章では人生の喜びと自然崇拝のムードが支配的である。」と書かれていました。これはショスタコーヴィチの文章とされるものなのですが、毒にも薬にもならないどころか実際に聴いた印象とのギャップに驚くのではないでしょうか。これはショスタコーヴィチ自身が書いたものではないか、仮に書いたとしても本心とは別のことを書いたとものしか思えず、これを手がかりに曲を理解しようとすること自体意味がないように思えます。

 初めてこの楽章の冒頭を聴いた時、新古典主義時代のストラヴィンスキーの音楽を思い浮かべたのは筆者だけでしょうか。後になって、この曲を作曲していた時期のショスタコーヴィチの手元に常にストラヴィンスキーの『詩篇交響曲』のスコアがあったこと、ショスタコーヴィチがその『詩篇交響曲』をピアノ版に編曲していたこと、ストラヴィンスキーのカンタータ『結婚』のソヴィエト初演の際にショスタコーヴィチがピアノパートを受け持ったことを知ってビックリしたのでした。変遷を重ねたストラヴィンスキーの作風の中で新古典主義の作品に特徴的なことは、そのクリアであると同時にそのユニークな響きにあり、それによってどこか人間離れした人知の及ばない崇高さが漂ってきます。マーラーが俗世の些事を脱し、『大地の歌』でめざした自由闊達な神仙境における花鳥風月、雪月風花、琴歌酒賦をも越えた境地をストラヴィンスキーが追い求めた結果であり、それはマーラーへの挑戦であったと筆者は勝手に考えています(そのストラヴィンスキーとショスタコーヴィチが共にマーラーを評価していたことは興味深い事実です。)。


            詩篇交響曲
        ガリー・ベルティーニ指揮:詩篇交響曲のCD (シャガール)


 この響きの共通性はオーケストラの編成が似通っていることもその理由と考えられます。『詩篇交響曲』は中高音の弦楽器(ヴァイオリンとヴィオラ)とクラリネットを除く管楽器という変わったオーケストラ編成で作曲されていて、ショスタコーヴィチの第3楽章の冒頭17小節間は管楽器(とハープ)だけで演奏されるコラールだからということもあります。おそらくショスタコーヴィチは、ストラヴィンスキーの響きをこの楽章で鳴らすことで、当初念頭にあった『ダヴィデの詩篇』をなんとか音楽にしようと考えたのではないでしょうか(第6章『交響曲第7番とユダヤ音楽』 参照)。

 この冒頭のコラール Adagio(4分音符=112)は管楽器だけの編成にハープが2本加わっていることにも注目しなければなりません。ダヴィデと言えば教科書にも載っているミケランジェロの彫像が有名ですが、聖書には羊飼いの美少年だったダヴィデが巨人ゴリアテを一撃で倒したことが書かれています。この話は宗教と無縁な人々でもよく知っているのではないでしょうか。その後ダヴィデはイスラエルの王となり、エルサレムに都を置き、約40年間(紀元前1000年から前961年頃)王として君臨し、また150篇ある『詩篇』の半分近くの作者としても伝えられています。さらにダヴィデは竪琴の名手でもあったことから、彫像をはじめ絵画に描かれるその姿の多くは竪琴を手にしていることでも知られています。このことから、ショスタコーヴィチがこの時期の作品にハープを使用したとなると、それがダヴィデ王の竪琴をイメージして音符を書いたであろうことは想像に難くないと思われるのです。


     David      Chagall
  ダヴィデの墓のある建物の前の像(エルサレム)  シャガール『ダヴィデとハープ』1956年

 冒頭のコラールの編成をもう一度よく見ると、フルートとトランペット、トロンボーン、チューバが入っていないことに気付きます。とりわけ教会音楽に不可欠なトロンボーンが吹いていないせいか、やや冷ややかな印象を与えているような気がします。コラールということから宗教的な儀式を思わせつつも、よく知られた教会音楽にならないような編成を考えたのかもしれません。そしてそこにハープを加えることで、ダヴィデの時代とその詩篇の世界を表わそうとしたのではないでしょうか(しかし、残念ながらこのコラールで2台のハープが健闘はしているのですが実際の演奏ではほとんど聴こえません。)。仮にこれを第1テーマ(A)とします。
 
Sym7譜面
             木管楽器による第1テーマ(コラールの旋律線のみ)

 管楽器による Adagio(4分音符=112)のコラールが終わると、ファーストとセカンド・ヴァイオリンがユニゾンで音の跳躍(8度のオクターヴを越える10度と11度)を含む熱気と緊張感に満ちた Largo(4分音符=92、練習番号106)の旋律を奏します。これを第2テーマ(B)とします。
 
Sym7譜面
               ヴァイオリンによる第2テーマ(B) 
  
 楽章の冒頭で順番に奏される管と弦の対比はとても面白く、何か問答をしているようにも感じられます。この管楽器の Adagio とヴァイオリンの Largo(今度は12度の跳躍) のセットを形を変えてもう一度繰り返されますが、ヴァイオリンの後半(副次主題)では Adagio になってややテンポを上げ、編成にハープが加わることで趣が変わっていきます(練習番号109)。ハープの響きによるものなのでしょうか、天上から人間の世界に降り立ったような暖かみが加わりながらもかすかに哀歌の雰囲気を感じさせ、次の音楽を予感させているように思えます。 

Sym7譜面
                   ヴァイオリンによる副次主題 
  
 このあたりのショスタコーヴィチの音楽つくりは見事と言えるのではないでしょうか。しかしこれまでのところ、「人生の喜び」や「自然崇拝」の痕跡は認められません(戦争ということを意識すると「人生の喜び」はもしかしたら「生きる喜び」或いは「生命の喜び」と訳するのがいいのかもしれません。)。なお、この第2テーマ(B)には第1楽章で述べたDavid Hurwitz 氏が指摘する「5つの音符のグループ」を構成する16分音符が含まれていることも興味深いところです(第7章 第1楽章参照)。

 この後、経過句を経てフルートによるソロへと引き渡されます(練習番号112)。後半からセカンド・フルートが旋律に絡むとはいえ、弦楽器だけによる単純な伴奏に乗ってフルートだけが長い間(64小節間!)吹くというのは、交響曲作品においていかがなものかとつい思ってしまいます(こういうところが「作曲技法上の未熟さ」や「素材へのコントラストを過度に単純化する」と批判される箇所と言えるかもしれません。)。これを第3テーマ(C)とします。
 
   Sym7譜面 
 
                 フルートによる第3テーマ(C) 

 このフルートのソロは、どこをめざしているのか掴みどころのない旋律を紡いでいくのですが、抑制された中に多様な悲しさがたくさん詰まっているような印象を受けます。なお、sempliceとは「素朴に」という意味になります。これを聴いていて思い起こされるのが、ヴォルコフの『証言』の中でショスタコーヴィチが語った「人に見られぬように毛布を頭からひっかぶって、声を殺してすすり泣く・・・わたしは非業の死をとげたすべての人々、処刑されたすべての人々のための鎮魂曲(レクイエム)を書かねばならなかった」という言葉です。ショスタコーヴィチは『ダヴィデの詩篇』(『詩篇第79番』)で語られたエルサレムでの惨劇に舞台を移して、ダヴィデが爪弾いたであろう竪琴をフルートに託してここでレクイエムを書いたのでないでしょうか。そこには慟哭ではない深い悲しみを湛えた静けさが必要なのです。

 このフルートのソロは依然として Adagio でありながら冒頭のテンポ4分音符=112より速い4分音符=120と指定されています。ちなみに第1楽章の冒頭は Allegretto 4分音符=116ですから、Allegretto は Adagio よりほんの少し速いだけというおかしなことになっているのです。一般的に Adagio といえばおよそ4分音符=50〜60くらいですが、ショスタコーヴィチは倍の速さを要求していることになります。多くの指揮者たちはメトロノーム記号に従って、速度標語は無視して演奏しているのですが、この Adagio という速度標語に含まれる固有の香りというか気配といったものが吹っ飛んでしまっているのが実情のようです。ショスタコーヴィチの速度標語に対する考え方、捉え方、使い方についての研究があればご教示願いたいと思っています。

 それはさておき、フルートのソロの後に続いて登場するのは、またしてもヴァイオリンなのです。第1楽章で頻出していたフルートとヴァイオリンという組み合わせをここでも聴かせるということは、ショスタコーヴィチの強い意志が働いていると考えざるをえません。また、ここでもハープが印象的な伴奏をつとめていることにも注目したいところです(練習番号119)。

 この後、ファースト・ヴァイオリンはモノローグ風の経過句へと移行し、転調と共に空気を変えつつ音量を増しながらセカンド・ヴァイオリンを巻き込みつつ中間部に突入します(練習番号121、第4テーマ(D))。先輩チャイコフスキーが苦手とした経過句の処理をショスタコーヴィチは苦労しながらもなんとかやってのけたといた感じですが、ひとつの楽器で(つまり鍵盤を片手で弾きながら作曲して)音符を紡ぐだけでは交響曲作品としてやや物足りない気がしなくもありません。この中間部は、最初はホルンとヴィオラのシンコペーションを背景に、ヴァイオリンがリードしていきます。Moderato risoluto 4分音符=120 (中くらいの速さで決然と)という指示があり、譜面を見る限りでは付点のついた音符を弾くヴァイオリンはあたかも重たい荷物を背負ってもがいているような印象を受けます。テンポはアップするものの、ヴァイオリンの旋律にはスタカートは書かれていませんし、それを伴奏するパートには pesante (=重厚に)とも書かれているからです。

    Sym7譜面
                   ヴァイオリンによる中間部の主題 


 しかし、この中間部を4分音符=120を守って演奏している指揮者は極めて少なく(筆者が聴いた限りではヴァーツラフ・ノイマン指揮チェコフィルハーモニーとレナード・バーンスタイン指揮シカゴ交響楽団の録音は厳格に4分音符=120で演奏されています。)、ショスタコーヴィチの信頼の厚いエフゲニー・ムラヴィンスキーをはじめほとんどの指揮者は4分音符=135前後の快速テンポで演奏しています。中間部に入る直前に指定もないのにアッチェランドをかけてテンポを上げる演奏すらあります。これは nicht eilen (急がないで)を連発して自らの意志を徹底させるマーラーとは違うショスタコーヴィチの寛容さなのでしょうか。Moderato risoluto と指定はしたものの、初演以来繰り返し聴くうちに速めのテンポを容認したのでしょうか。テンポの違いはこの中間部の印象を大きく変えることになるため、作曲者にはどういう意図があったのか知りたいところではあります。

 ヴァイオリンがリードしていく途中からチューバ、ホルン、クラリネット、ファゴットが割り込んできますが、チューバとホルンのパートに対して pesante、 espress.(重々しく、表情豊かに)という表記が付けられていることに戸惑いを覚えます。やはり速いテンポを想定していなかったのではないか、それにしても pesante と espressを同時に表現するにはどうしたらいいのかなど、疑問の多い箇所ではあります。その後、弦楽器はシンコペーションに回り、金管が主導権を握って音量もフォルテ1つから2つへと増していきます。音楽が最初の頂点を迎えると、ヴァイオリン、ヴィオラがテンポを煽りたくなるリズムを刻みます(練習番号121)。
     Sym7譜面
                  ヴァイオリンが刻むリズム

 ショスタコーヴィチはここの弦楽器に対して特定の弾き方を指定していませんが、リコシェ・サルタート(フライング・スピカート)で弾かれることが多い箇所です。この奏法はロッシーニの『ウィリアム・テル』序曲で使われていることで有名です。もっとわかりやすく言うと子供の頃見たテレビドラマ『ローン・レンジャー』の音楽での弦楽器の弾き方になり、昔お茶の間を沸かした西部劇のヒーローが馬を疾走させるシーンをつい思い浮かべてしまうところです。さすがに西部劇はないと思いますのでここはロシアの広野を駆る騎馬兵という情景なのでしょうか。視覚的なイメージを膨らますことができるのは劇場音楽に長けたショスタコーヴィチの面目躍如といったところとも言えます。途中からスネアの連打が加わり、同一音型が狂気のように繰り返されるまさにショスタコーヴィチ・ワールドが展開されます。その頂点付近では、「トランペットによって闘牛士風の派手な吹奏で頂点を形成する。派手な衣装と格好良さでマタドールと軍服は共通している。違いは剣で何を殺すかだけだ。」という金子建志氏の「スペイン的な華麗さ」とのご指摘は卓見と言えます(千葉フィルハーモニー管弦楽団のホームページ)。偶然かもしれませんが、このフレーズにある16分音符の音型は第1楽章で述べたものの変形と見ることができ、David Hurwitz 氏が指摘する「5つの音符のグループ」がここでも顔を出しています(第7章 第1楽章参照)。

   Sym7譜面
              トランペットによる中間部のクライマックス
 
 なお、このトランペットのフレーズは冒頭でヴァイオリンによって提示されるテーマから派生したものと考えていいと思われます。 
 
Sym7譜面
               ヴァイオリンによる第2テーマ(B) 
  
 
 しかし、何がなんでも戦争に結び付けなくてもいいのではないでしょうか。確かに多くの解説書はこの中間部で戦争のことを持ち出しています。音量が上がり、スネアがリズムを打ち込むと直ちに機関銃の描写と決めつけてしまうからなのでしょう。ショスタコーヴィチの音楽においては機関銃がまだなかった時代のことを描いた曲でもそれを機関銃掃射と解釈されるくらいですからそれは仕方ないかもしれません。しかし、譜面の指示通りのテンポで演奏しているバーンスタインの演奏を聴く限り、少なくとも筆者には戦争や騎馬兵のイメージは沸いてきません(そにれしても第3楽章冒頭からバーンスタインとシカゴ交響楽団は実に素晴らしい演奏を聴かせてくれます。)。むしろ「スペイン的な華麗さ」を頂点に持っていたことに焦点を当ててみるのも面白いかもしれません。 
 
 さて、この「スペイン的華麗さ」については今後の研究を待ちたいと思いますが、曲の冒頭からストラヴィンスキーの『詩篇交響曲』の影響が色濃く出ているこの楽章にあって、その中間部でもやはり『ダヴィデの詩篇』で語られることが描かれていると考えられます。前述したとおり、この中間部では伴奏するパートに対して pesante (重々しく)という表記が与えられているところは「あたかも重たい荷物を背負ってもがいているような」音楽であり、ダヴィデの時代におけるユダヤ人が背負っていた苦難の日々、さらには歴史的に長い間迫害を受けてきたユダヤ人を描いたのであり、そして、スネアが打ち込まれ金管楽器が咆哮する激しい箇所は、ダヴィデとゴリアテの闘い、或いは異教徒の圧政に対する抵抗や反乱といったことを表わしていると見做すことも可能ではないでしょうか。

 中間部が終わると、再び冒頭と同じように木管(第1テーマA)のコラールとヴァイオリン(第2テーマB)のセットが再現されます。次いで第3テーマ(C)を、フルートの代わりに今度はヴィオラが旋律を受け持ちます(練習番号137)。ここはヴィオラ奏者達が待っていましたとばかりに気合を入れて弾くところですが、全曲を通じて唯一ここが不安や恐れのない穏やかで叙情的なシーンではないかと思われます。とりわけハープの長い音符による伴奏も効果的で、まさにダヴィデの竪琴に想いを馳せるひとときでもあります。なお、最初にフルートで吹かれたこの第3テーマ(C)は semplice (素朴に)でしたが、ヴィオラに対しては espress.(表情豊かに)となって、スラーも短めになっています。

  Sym7譜面
                 ヴィオラによる第3テーマ(C)

 余談ですが、ロシアの指揮者ユーリ・テミルカーノフが指揮したサンクト・ペテルブルグ・フィルハーモニーの録音(2008年)ではこのヴィオラの部分をカットして演奏しています。つまりヴァイオリンのモノローグが終わる練習番号136あたりから第3楽章の残りをバッサリと切り捨てて第4楽章に飛んでしまうのです(厳密には第3楽章の最後から18小節前くらいに復帰する)。テミルカーノフは1995年にも同じオーケストラで録音していますが、その時は譜面通りに演奏しています。第3楽章が冗長だからなのでしょうか(カットしたのは楽章全体で約20分のうち約7分間。)。もしかしたらこのヴィオラのパート・ソロが全曲の中であまりに異質で浮いていると判断したのかもしれません。それにしても、全曲中唯一の聴かせどころであるこの部分をカットされたヴィオラ・パートは暴動を起こさなかったのでしょうか。

 ヴィオラのパート・ソロが静かに収まっていって弦楽合奏になると、急にトーンが変わってどこか不安な感じが漂ってきます(練習番号141)。ここからの17小節間の弦楽合奏は実によく書かれていて、もしショスタコーヴィチが喧しい交響曲を半分くらいにして弦楽合奏曲をもっと書いていればかなり幅広いファンを獲得できたのではないかと思ってしまいます。ここから先もずっと弦楽器だけの合奏が続き、再び冒頭のヴァイオリンによる Largo が再現され、次いで木管楽器ではなく弦楽合奏で冒頭のコラールの変形も再現されます。このあたりのショスタコーヴィチの意図が何だったのかが理解に苦しむところです。まさか、終楽章の大仕事のために木管、金管楽器群を休ませておこうという配慮があったなんて、それはないと思いますが。
 
 楽章で提示されたいくつかのテーマをここでまとめてみると、次のような構成になっています。だから何が言えるというわけではないのですが、西欧的なシンメトリーを構成していないところがショスタコーヴィチらいしということでしょうか。指揮者ユーリ・テミルカーノフがいらだったのはこのことかもしれません。彼は下のC3とその先の[ ]内をバッサリと切り捨てて後奏に飛んだのでした。この[ ]内は弦楽器のみで演奏される個所です。
 
A:第1テーマ(木管によるコラール)    A2:第1テーマ(弦楽器) 
B:第2テーマ(ヴァイオリン)    B2:第2テーマ(ヴァイオリン)
C:第3テーマ(フルート)        C2:第3テーマ(ヴァイオリン)  C3:第3テーマ(ヴィオラ) 
D:第4テーマ(中間部) 

 [A-B-A'-B'-B2]-[C-C2]-
D(中間部)-[A-B-B2]- C3 -[A2-B-A2-B-A'2-B2]- 後奏

 なお、続く第4楽章はこの第3楽章から切れ目なく演奏されるようスコアに指示されています( attaca =アタッカ )。第3楽章と第4楽章を続けて演奏すると40分弱、全曲で80分弱かかるので、その半分をぶっ通し演奏し続ける、つまり休みなく聴かなければならないということになります。40分というと大半の交響曲1曲分ということになるわけで、ショスタコーヴィチさんも随分なことを演奏家や聴衆に求めたものです。



*参考文献の一覧は≪目次≫をご覧ください。
 


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