ショスタコーヴィチ:交響曲第7番『レニングラード』

第7章 交響曲第7番 楽曲解説
【 第2楽章 】

 Chagall 

                        マルク・シャガール『死』1913年


第2楽章
 まず、この楽章が完成された時期に注目してみましょう。第1楽章の草稿の完成は1941年8月29日で、清書の完成は9月3日ですので、本格的に第2楽章の作曲に取り組んだのがその日以降と考えられます。ドイツ軍によるレニングラードへの爆撃が始まったのが第1楽章の清書の完成の翌日とされていますので、ドイツ軍の爆撃が第2楽章の作曲期間と重なることになります。その後、9月17日に第2楽章、9月29日に第3楽章が完成し、10月1日にショスタコーヴィチはレニングラードを脱出します。つまり、ドイツ軍による攻撃がより身近に迫った最中に書かれたのが第1楽章ではなく、第2、第3楽章だったいうことがわかります。レニングラード包囲下にあったショスタコーヴィチの心理状態まで覗くことはできませんが、作曲中の作品にもし戦争描写があるとすれば、開戦前から構想されていた第1楽章ではなく、第2、第3楽章の方がその可能性が高そうに思えます。一般的には第1楽章を戦争音楽と解釈し、第2、第3楽章においては戦争のことを語らないことが多いのですが、それにはやや矛盾があると思わざるを得ません。では、この第2楽章に戦争の痕跡はあるのでしょうか。

 第1章『曲の成立と初演』で既述の通り、ショスタコーヴィチはラジオ放送局に行ってマイクの前で「私は1時間前、新しい交響曲の大作の第2楽章のスコアを書き上げました。」とレニングラード市民に声を掛けています。ここで注目すべきことは、自分も警戒のために外に立っているとは言ってはいるものの作曲のことについては、「ソヴィエトの音楽家たち、私の親愛な、無数の戦友たち、私の友人たち! わが国の芸術がいまや重大な危機に瀕しているということを肝に銘じておいてください。」と語っていることです。ドイツ軍の攻撃に晒されている中で、自国の芸術を守るために自分は作曲をしているということが言いたかったのであって、戦争そのものを書いたとか書きたいとかは言ってはいないのです。このことは、「私は軍事行動(飛行機のうなり、戦車の轟音、大砲の一斉射撃)をリアルに再現するという任務を自分に課してはいなかった。」と言ったと伝えられるショスタコーヴィチ自身の言葉(第5章『侵略のテーマの謎』参照)とも符号すると考えられます。


 冒頭は弦楽器だけで奏されます。最初はセカンド・ヴァイオリン、次いでファースト・ヴァイオリンと旋律を繋いでいきますが、32小節間も弦楽器だけで演奏される例は交響曲としてそう多く例はないのではないかと思われます。筆者が知る限りでは、マーラーの交響曲第2番『復活』の第2楽章が同様に冒頭の30小節間弦楽器だけで演奏されます(ショスタコーヴィチの7番のこの楽章と雰囲気がどこか似ているような気がしないではないですが・・・。)。

 とりわけショスタコーヴィチ特有の拡大されたオーケストラによる咆哮が続いた第1楽章の後では、その落差による効果は絶大と思われますが、第1楽章のエンディングで既に音楽は静まって消え入るように終わりますから、第2楽章でそのコントラストを狙ったわけではないことがわかります。また、弦楽器だけとは言え、セカンド・ヴァイオリンとファースト・ヴァイオリンだけで、ヴィオラやチェロ・バスは伴奏に徹しているのです。ということは、第1楽章と同様にヴァイオリンという楽器に対してスポット・ライトを当てたいというショスタコーヴィチの想いがあったと考えるのが自然ではないでしょうか。

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              第2楽章 冒頭(セカンド・ヴァイオリン)

 ファースト・ヴァイオリンに移ってからはシンコペーションを織り交ぜて軽く弾んでウキウキするようなところがあるかと思うと急に塞ぎ込み足元を見つめて立ち止まるようなところがあるなど、変化に富んだフレーズを聴かせます。その後、全く異なる旋律となって最初はオーボエが哀愁を帯びた旋律を奏し、次いでコールアングレが受け継ぎます。


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         第2楽章 第2主題(オーボエ、コールアングレ)とその伴奏音型


 この管楽器が旋律を奏でている間、弦楽器が特徴的なリズムを刻んでいます。このリズムに含まれる「スラーで繋がる2つの音符のパターン」について、これをスターリニズムによる弾圧を意味するという説があります( Booklet of Shostakovich Symphony No.7 conducted by Yuri Temirkanov : David Wright 1995,「ある分析者」によるとして引用していますが、この説の出典は明らかにしていません。)。このパターンは3部形式を取るこの楽章の両端の提示部と再現部で繰り返されるのですが、管楽器による穏やかな音楽の伴奏であり、けっして不安を煽ったり、恐怖を植えつけたりする使われ方ではありません。スターリンの残虐な圧政を意味するのであればむしろ激しい音楽となる中間部にふさわしいと思われます。しかし、その中間部ではこのパターンは出現しないため、この説はいまひとつ説得力に欠けるように思えます(スターリン統治下に作曲されたショスタコーヴィチの他の作品に同じパターンがあるかどうかは検証する価値はありそうです。)こんな穏やかな音楽が鳴っている時にスターリンの顔を想像するのは御免蒙りたいところです。


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               第2楽章を支配するリズムのパターン


 それより、この第2楽章のリズムのパターンを弾いているとマーラーの『子供の不思議な角笛』の「死せる鼓手」を思い起こします。マーラーの曲では全曲に亘って、トランペットによって以下のリズムが刻まれていて、主人公が軍隊の鼓手であることを示唆しています。ショスタコーヴィチの初期の交響曲はマーラーの影響があると指摘されることが多いことから、或いはこの楽章でもマーラーに対する何らかの意識が働いたのかもしれません。


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          マーラー:歌曲集『子供の不思議な角笛』〜「死せる鼓手」


 マーラーのこの曲の題名であるRevelgeの英語訳は、Reveille =「起床ラッパ」なのですが、何故か「死せる鼓手」という題名に日本訳されています。歌詞の内容からすると確かに「死せる鼓手」とした方がわかりやすい曲ではあります。歌詞の大意を下記にご紹介します。

 「僕は死ぬまで行進しなきゃならない、でも銃弾に撃たれちまった、営舎まで運んでくれ、僕は太鼓を打ち鳴らさにゃならない」と歌い、途中から人称が変わって「彼は恋人の家の前を通り抜けてゆく、翌朝彼らは墓石のように隊列をなして立ち、恋人が彼だとわかるように太鼓が一番先頭になって・・・。」と歌われて曲を閉じます。

 ショスタコーヴィチの音符におけるスラー・スタカートの弾き方は、指揮者の解釈によって大きく2つに分かれ、レガート(なめらかに)で弾く場合と、文字通りスタカートで乾いた音で弾ませる場合とがあります。とりわけ後者の場合、骸骨がカタカタ音を立てることを連想させることから、よりマーラーの「死せる鼓手」のイメージと結びついていきます。

 もしこれがマーラーの引用であったとすると、現実に起きている戦争のことではなく、メルヘンの世界における戦争で命を落とした青年の悲しい物語をこの楽章で語ろうとしたと考えられます。レニングラード郊外の最前線に赴いて命を落とした若者たちを含む多くの人々のことを想い、才能ある弟子であったフレーイシュマンも「死せる鼓手」と同じように銃弾に撃たれる危険に晒されているということ、そしてまさに悲しむべきその訃報がこの楽章を作曲していたショスタコーヴィチの手元に届いたということ(フレーイシュマンが戦死が9月14日、第2楽章の完成は17日。)、こうしたことが作曲者の胸に去来していたのではないでしょうか。マーラーが描いた「死せる鼓手」の世界にフレーイシュマンを送り込み、オーボエやコールアングレの物悲しい旋律でその死を悼んでいるように思えてなりません。当初、ショスタコーヴィチはこの楽章に「回想」というタイトルをつけていました。これはフレーイシュマンの回想のつもりだったのかもしれません。後になって誰の回想と調べられてユダヤ人のフレーイシュマンということを知られたくないために、そのタイトルを削除したのかもしれません。

 さらに、この楽章におけるヴァイオリンの扱いも冒頭だけでなく、中間部への経過句でのスケールを含む旋律(Vn I  練習番号81)、ピチカートによる冒頭主題の再現(Vn I  練習番号82)でも登用されているのです。また、中間部の後の再現部においても提示部とほぼ同じ楽器編成、つまりヴァイオリンがこの楽章でも主題、経過句、再現と多くのシーンで活躍しているのです。このように見ると、第1楽章で述べたフレーイシュマンの『ロスチャイルドのヴァイオリン』のことをこの楽章でも考えざるを得なくなるのです。

 ファースト・ヴァイオリンによるピチカートが終わると、突然テンポがアップされた3拍子の音楽がスタートします(練習番号82a)。sub. f(スビト・フォルテ=急に、突然の強音)でオーボエ、コールアングレと弦のピチカートが激しく3拍子を刻み、それに乗ってクラリネット群とファゴットによるグロテスクな舞曲が始まります。一風変わった楽器編成がいかにもショスタコーヴィチらしい響きを作り上げている箇所でもありますが、マーラーの引用の延長からそれが「骸骨の踊り=死の舞踏」であるということへと連想が膨らみます。疫病や戦争が身近にあったヨーロッパにおける伝統的な「死」に対する見方は、リストやサン=サーンスの例を引くまでもなく音楽の世界でも広く浸透していたはずで、とりわけリストのピアノ曲を得意にしていたショスタコーヴィチも例外ではなかったはずです。


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                    第2楽章 中間部


 

                            死の舞踏

           死の舞踏(左端の骸骨が吹く楽器はクラリネット?)


 次いでこのファゴットの旋律はトランペットによる2拍子系の行進曲風に変形されて奏されます。これを軍隊行進曲と説明している解説がありますが、果たしでそうなのでしょうか。音楽は依然として3拍子が刻まれているのであり、あくまで舞曲が進行しているのですから、そこに何かの行進が闖入するさまであるとはいえ、これを近代的な軍隊の侵攻とするのはいささか短絡的に思えてなりません。旋律も全く新しいものではなく、前掲のファゴットの音型のバリエーションであり、むしろ別の骸骨たちがラッパを吹きながら登場してくるといったシーンと言った方が相応しいのではないでしょうか。

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                第2楽章 中間部 トランペット(練習番号84)


 
しかもこの時、トランペットはわずか5、6小節しか吹かず(練習番号84と87)、その後は再び3拍子の音楽となり、グロッケンやピアノといった金属的な音が加わって喧しさが増大していくのです。この間は弦楽器による奇怪な奏法(アップ・ボーイングを連続させてクレッシェンドを強調させる)を指定してグロテスクさを際立たせています。しばらくすると拍子は明確な2拍子へと変わり(練習番号90)、はっきりとしたトランペット等によるファンファーレが高らかに奏され、他の楽器もそれを称えひれ伏すように呼応していきます。行進曲というよりは2拍子が3拍子を圧倒していく骸骨たちによる死の勝利といった印象を受けます。
                          
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                第2楽章 中間部 トランペット(練習番号90)


 
しかし、それは長くは続かず、再び3拍子に戻って管楽器とヴァイオリンによる中間部の最初のテーマが輝かしく再現されます。まるで骸骨を蹴散らしていくような印象を受けます。この再現されたフレーズを弾いているとクレズマーの世界に浸っているような感じを受けるのは筆者だけでしょうか。クレズマーの音楽に不案内な筆者ではありますが、この旋律からユダヤ音楽の粘っこい嘆き節が滲み出てくるように思えてなりません。

 中間部が終わると、木管とファースト・ヴァイオリンによる経過句を経てこの楽章の冒頭と同じ旋律が再現されます練習番号96)。これに続いて冒頭ではオーボエだった担当が今度はバス・クラリネットに代わります(練習番号97)。ここのフルートとハープ、ヴィオラによる絶妙な伴奏はまさにショスタコーヴィチらしい音色の世界に魅了されるところでもあります。あたかも、ばらばらになった骸骨があちこちでコトコト音をたてているようにも聞こえます。次いでクラリネットによって引き継がれると(練習番号100)、伴奏は弦楽器に変わり、長調に転じて明るさが出てきます。するとファースト・ヴァイオリンがスケールを含むいかにも回想風の経過句を奏してから冒頭の旋律を再現します。ここでは2度にわたってGP(ゲネラル・パウゼ=総休符)を間に挟みつつ高音の引き伸ばしの後、静かに下降していきます。最後はマーラーの「死せる鼓手」のリズムのパターンを残る弦楽器が3回繰り返して曲を閉じます。フレーイシュマンの冥福を祈るように。




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