ショスタコーヴィチ:交響曲第7番『レニングラード』

第7章 交響曲第7番 楽曲解説
【 第1楽章 】

シャガール 

                     マルク・シャガール『ヴァイオリン弾き』1914年


 この章では、交響曲第7番におけるユダヤ音楽の痕跡を辿りつつ、ショスタコーヴィチがこの曲で表現したかったことが何であったかについて考えていきたいと思います。ここで注意しなければならないのは、作曲者の愛するわが街が包囲されるという戦時下に書かれているだけに、「戦争」に関することを避けて通ることはできないにせよ、ソヴィエト政府や国内外の音楽関係者、各種メディアによるプロパガンダ、宣伝、記事、解釈等の中で、喧伝され、謳われ、書かれてきたことに捉われないことです。そして、当時のショスタコーヴィッチが何に関心を持ち、何を考えていたのかをその自信を持って書かれた音符から引き出していくことだと思います。

 「第7交響曲は、1941年の戦争をあつかった標題音楽である。・・・(第1楽章の)中間部全体のテーマは戦争である。・・・第1楽章は戦いであり、第4楽章は来るべき勝利である。・・・(『ショスタコーヴィチ自伝〜時代と自身を語る』 )」
 
 この文章は、交響曲第7番が1942年3月29日のモスクワで初演された時に配られたプログラムに掲載されていた曲の解説文で、ショスタコーヴィチが書いたことになっています。会場に居合わせた聴衆は曲を聴く前からこの曲を「戦争交響曲」と理解していたことになります。会場に来る前からそういう曲をショスタコーヴィチは作曲しているとも聞かされていたことでしょう。さらにはこの文章は海外にも発信されていて、この曲が「戦争交響曲」であることが既知の事実として広まっていったのでした。この章では、この文章がショスタコーヴィチの真意なのかどうかを探っていきたいと思います。


第1楽章 提示部
 曲の冒頭はファースト及びセカンド・ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロによって力強く主題が提示されます。男性的でエネルギーに満ちたこのテーマは、いとも簡単にソヴィエトの無敵の軍隊とかレニングラード市民の勇ましい姿に結び付けられてしまいます。しかし、この冒頭の音楽に対して Maestoso(マエストーソ=荘重に、堂々と)といった曲想標語が記されていてもいいのですが、ショスタコーヴィチはテンポに対して Allegretto(アレグレット=やや速く)という指示しか書いていません。実は、この曲全体において曲想標語はほとんど書かれていないのです(わずかに marcato [マルカート] 、marcatissimo [マルカーティシモ] と espressivo [エスプレッシーヴォ] があるだけです。)。つまり、ここをどんな音楽として演奏すべきか、作曲家は何も指示していないことになります(すべての版を見たのではないので確かではないですが)。この冒頭の音楽がソヴィエトの雄姿を表わしていると頭から決めかかってはいけないのではないでしょうか。

Sym7譜面
             交響曲第7番 第1楽章 提示部 第1主題


 金子建志氏は「冒頭の第1主題をレニングラード音楽院時代の師シュテインベルクは「人間の主題」と呼んだ。全ての芸術を独ソ戦のために総動員させた政策を反映する“男性的で、人生を肯定する”」(千葉フィルハーモニー管弦楽団のホームページ)と書かれています。この交響曲第7番の作曲が開始されたのがドイツ軍の侵攻の前だったことを考えると、真っ先に音符に記したであろう冒頭のテーマに戦争から連想されることを見出すことには少々無理があります。そのためこのより普遍的な「人間の主題」という考え方は十分受け容れられるものと言えます。しかし、仮にシュテインベルクがそう言ったとしても、それは次に紹介する記事を読んでからのものではないかと思われます。交響曲第7番のクイビシェフ初演のプログラムに、アレクセイ・トルストイの記事が掲載されています。彼は当局の命令で最初のリハーサルに立ち会うようクイビシェフに派遣されていたのでした。

 「人類の勝利がこの交響曲第7番のテーマである。・・・人類を非人間化させるファシズムの脅威に対して、ショスタコーヴィチは、人類の文化によって創られた最も高貴で崇高な勝利を語る交響曲によって応えた。・・・交響曲第7番は、悪の闇の勢力に対して躊躇なく出陣していくロシア人の精神にその起源がある。・・・(第1楽章の終結部で)力強い『人間の主題』がまさに語りかけてくる。・・・」

 この記事は、『プラウダ』紙にも掲載され、さらには米国において8月10日付けのソヴィエト大使館による英字の機関紙にも掲載されました(Information Bulletin ; Embassy of The Union of Soviet Socialist Republics Special Issue August 10, 1942)。このアレクセイ・トルストイは、ソヴィエト政府お抱えの広報官とも言うべき人物で、ソヴィエト政府による文化面におけるプロパガンダの最前線で活躍していました。つまり、交響曲第7番をもっともらしく解説をするこの文章は、曲を聴く前から聴衆に対して、この曲が何を表現しようとしているか、そしてどう聴き、何に感動すべきかを巧みに誘導していくものであり、こうした曲の解釈がソヴィエトの国民だけでなく、世界中の人びとに対しても間違いなく広まっていったのでした。

 作曲者自身も初演に先立ってステージに上がり、曲のあらましを客席とラジオの向こうの聴衆に語った内容も上記と似たようなものだったのですが、果たしてショスタコーヴィチの真意が語られたものであったかどうかは少々怪しいのではないかと思われます。残されているその時と思われる映像を見ると、ショスタコーヴィチは原稿から全く顔を上げずに読むこと専念しているからです。その映像は、YouTube にアップされています。

Шостакович Антифашистское выступление Dmitry Shostakovich Speaks Against Nazi Germany Antifascist

 ロシア語なのでショスタコーヴィチが何を話しているのかわかりませんが、同じシーンを見ることが出来る次の映像(『音楽ドキュメンタリー戦争シンフォニー〜ショスタコーヴィチの反抗』)では英語訳がついています(41分35秒から)。それによると、「戦い続けよう。そうすれば平和が来る。この曲について誰もが、人類の明るい未来のために血にまみれたファシズムと戦うことに捧げた作品だと胸を張って言える。」といった勇ましいスピーチになっていて、いかにも当局が用意した原稿であるということがわかります。つまり、この映像はソヴィエト当局によって宣伝用に演出され、撮影されたものであるということが言えるのではないでしょうか。なお、このショスタコーヴィチの演説が具体的に何時行なわれたかはわかっていませんが、おそらく交響曲第7番が演奏されたコンサート(モスクワ初演のとき?)が始まる前のステージ上で、客席後方の柱を見る限りモスクワにある労働組合の家の円柱ホール( the Hall of the Columns, House of the Trade Unions, Moscow)であろうと思われます。

Shostakovich Against Stalin

 ショスタコーヴィチと同じ時代の空気を吸っていたムラヴィンスキーを始めとするソヴィエト出身の指揮者たちは皆、この曲の冒頭を勇ましい限りのエネルギーで演奏しています。また、米国初演におけるトスカニーニを始めとして、ソヴィエト以外の指揮者たちもそれに倣って同様の解釈を行なっています。しかし、最近の若い指揮者の中にはそういった伝統に拠らない演奏も散見されます。筆者がCDで聴いた中では、ヴァシリー・ペトレンコ指揮ロイヤル・リヴァプール・フィルハーモニーの演奏は柔らかで弦楽器のユニゾンの美しさを強調した弾き方で曲を開始させるなど、この曲の抒情的な面にスポットを当てた演奏になっています。この曲を戦争交響曲とは見做さない解釈なのかもしれません。確かに戦争の影は途中感じられるものの、独ソ戦という具体的な戦争ではなく、もっと広い意味での悲劇やカタストロフィーを表現する曲として捉えているものと考えることができます。

 さらにアレクセイ・トルストイはプログラムの中で各楽章の解説を行なっていて、第1楽章については次のように書いています。

 「ヴァイオリンが争いのない至福の世界を謳いあげるが、その背後には大惨事が横たわっている。そのことに気付かず、破滅への道に向かって能天気にフワフワと歩を進める鳥の巣立ちのようである。この幸福感から、解決しない矛盾の深みから出現するのが戦争の主題であり、それは短く、冷ややかで、輪郭のはっきりした、鉄のように無感覚に相違ないものなのである。」

 これは第1主題の提示の後に、ヴァイオリンによる第2主題とオーボエによる第3主題が出現して冒頭の音楽とは対照的な美しい叙情的シーンについて解説をしているものと考えられます。アレクセイ・トルストイはそれを展開部で大暴れするいわゆる『侵略のテーマ』が現れるまでのつかの間の幸福感、その後に来るスペクタクルの前座みたいなものと片付けてしまっています。しかし、それだけのものなのでしょうか。

 この交響曲第7番の第1楽章では、フルート(或いはピッコロ)とファースト・ヴァイオリンが活躍することに気付きます。この2つ楽器がユニゾンで演奏されたり、絡みながら進行したり、ソロを順番に受け渡したりしているのです。この2つの楽器を採用したのは、単に同じ高い音域を担当する楽器であるということではない何か他の理由があったのではないかという疑問を憶えます。ここでショスタコーヴィチの弟子フレーイシュマンの作品『ロスチャイルドのヴァイオリン』のストーリーを思い出すとその符号にあっと驚かされます。ロスチャイルドは最初フルート吹きで登場しますが、ヤーコフからヴァイオリンを貰ってヴァイオリン弾きになっているではありませんか。

 この視点から提示部の後半(第2主題と第3主題)を見てみましょう。まず、第2主題はファースト・ヴァイオリンによって呈示されます。その旋律はなだらかな上降と下降を2回繰り返しますが、この下降の際に小節線を跨いで2回奏される山型(上がって降りる)の3つの特徴的な音符に気づきます。こうした山型の音型は演奏上自然と音量に起伏がつくものなのですが、ショスタコーヴィチは敢えてクレシェンド、ディミエンドを書き込んでいるところも、何らかの想い入れが込められていると考えるべきと思われます。


Sym7譜面
               第1楽章 提示部 第2主題


 この第2主題はわずか17小節で終わってしまい、直ちにオーボエによって「ソーーラシドレーレー」とソからレまでの5度の間の音階を奏されることで第3主題を開始されます。そして程なく第2主題において出現した特徴的な山型の音型が2回繰り返されてこれもわずか16小節で再びファースト・ヴァイオリンによって引き継がれます。

Sym7譜面
                第1楽章 提示部 第3主題


 そのファースト・ヴァイオリンはややスケルツォ風のテイストを帯びながら、その山型の音型を再現しつつ極めて暖かみのある雰囲気をつくりあげていきます。音符はどんどん上昇していきますが、その後は4回にわたって下降音階を繰り返して降りてきます。次いでファースト・ヴァイオリンは「ソラシドレーレー」と今度はフルートを伴って(ユニゾンで)第3主題を再現し、下降音階を3回繰り返して音楽を収めていきます。こうした上降と下降音階と山型音型という共通項を持っていることから、第2と第3主題を分けて定義せずに、大きな枠組みの中で自由な変奏曲形式による第2主題と見做してもいいのかもしれません。

Sym7譜面
          第1楽章 提示部 後半 フルートとヴァイオリンがユニゾン(練習番号12)


 ここで注目すべきことは、この第2主題と第3主題における5度の間の音階「ソラシドレーレー」と何度も繰り返される下降音階です。5度の間の音階「ソラシドレーレー」の変形から生み出されたのがこの後の展開部に出てくるいわゆる『侵略のテーマ』の前半部に、そしてその下降音階は『侵略のテーマ』の後半部になっていくのです。さらに、第3主題に現れる山型の音型は『侵略のテーマ』の前半部にも見ることができるのです。

        Sym7譜面
    第1楽章 展開部 いわゆる『侵略のテーマ』の前半部:1,3小節目は山型音型
Sym7譜面

           第1楽章 展開部 いわゆる『侵略のテーマ』の後半部


 この展開部では、新しく『侵略のテーマ』が出現して最初はスネアによる弱音のリズムに乗って密やかに奏されますが、ラヴェルの『ボレロ』を思わせるやり方で何回も何回も繰り返される変奏曲のかたちを取り、次第に膨れ上がってつには大音響のクライマックスを迎えるという説明がなされます。しかし、このテーマは新たに提示されたものではなく、提示部で示された第2或いは第3主題に基づくテーマを展開させたものと考えるべきなのです。交響曲におけるソナタ形式上、そうでなければならないのです。その形式を無視してここを中間部と見做して、『侵略のテーマ』が突然現れて暴れ狂うことを殊更に書き立てることはもちろん、そのテーマだけでこの楽章やこの曲全体の解説を済ませてはいけないのです。この下降音階にしても、ショスタコーヴィッチは時間をかけて下降するテーマを様々に変化させていき、その結果、展開部で最終形を示しているのですから、それをレハールの引用と言うのは、いくらなんでも作曲者に失礼ではないかと思われます。この曲の解説の度に名指しされるレハールも気の毒な話しで、しかもヒトラーとの関係について痛くもない腹を探られていい迷惑ではないでしょうか。

 話しを提示部に戻します。ここで興味深いのは、この第3主題を再現する箇所(練習番号12)で、ファースト・ヴァイオリンがフルートとユニゾンで演奏する、つまり全く同じ音符が与えられているということです。ヴァイオリンは弱音のp(ピアノ)1つですが、フルートは pp とピアノ2つ、10人を越えるファースト・ヴァイオリンにフルート1人では勝ち目はなく、ほとんど聞こえません。フルートを聞かせるのであれば mp(メゾ・ピアノ)とするか、1オクターヴ上げればいいのですが、両者とも同じ音域で書かれているのです。はっきり言ってここのフルート・パートは不要だと言っていいと思われます。後に音楽院でオーケストレーションの教授にもなるショスタコーヴィチがどうしてこんなミスを犯したのでしょうか。

 しかし『ロスチャイルドのヴァイオリン』において、ヴァイオリン弾きのヤーコフは亡くなる直前にフルート吹きのロスチャイルドと仲直りをしてヴァイオリンを譲ることを思い出すとなんだか合点がいきます。ショスタコーヴィチはフルートがわざと聴こえないように譜面を書き、ロスチャイルドがフルートを吹くことをやめて、ヴァイオリンを手にして新たな未来を開いていくことをここに表現しようとしたのではないでしょうか。ここでフルート聴かせようとヴァイオリンの音量を抑える演奏をしてはならなのです。譜面にはそう書かれていないのですから。

 このようにして、ショスタコーヴィチはこの提示部の後半で、ユダヤ人フレーイシュマンへの想いをこっそり誰にも悟られないように、ここに忍ばせたと考えることができます。さらに、この主題提示部の終わりの部分では、フルートに替わってピッコロが名残惜しそうに下降と上降音階を吹くとソロ・ヴァイオリンが引き継いであたかも魂が昇天するかのようにゆっくりと上降音階を奏していきます。ここでショスタコーヴィチは戦場で散ったフレーイシュマンへの才能を惜しみつつその冥福を祈ったのではないでしょうか。実際、第1楽章が完成された時点では、フレーイシュマンは戦死していなかったのですが、戦地に赴いたことを知った時点でショスタコーヴィッチは彼が生きて帰れないということを悟ったのであろうと考えられます。


展開部:いわゆる『侵略のテーマ』について
 ソナタ形式において、主題提示部が終わると展開部が続き、第1主題や第2主題を基にして旋律をさまざまに変形、変奏させ、時には思い切った転調を伴うなど作曲者の技量が問われる箇所でもあります。しかし、この交響曲第7番においては、この箇所を展開部とはせず、「中間部」として『侵略のテーマ』が何回も繰り返し演奏される変奏曲と見做したり、展開部としても内容は変奏曲とする解説が多く見られます。しかし、前述の通り提示部の主題からの変形、すなわち展開されたテーマを基にしていることから、やはりここは純然たる展開部であり、複数回繰り返されるテーマは楽器が替わるだけで音符の変化がないのですから、これは変奏曲とは言えないのではないでしょうか。途中からは繰り返しではなく、様々な要素が加わって変化しつつ盛り上がっていくのですから、やはりこれは「展開」という言い方が相応しいと思います。

 さらにこのいわゆる『侵略のテーマ』が、他の曲をルーツにしているという指摘もあります。ショスタコーヴィチの歌劇『ムツェンスク郡のマクベス夫人』第2幕第4場(場は第1幕からの通し番号。また第2幕の場は1つしかない)で、カテリーナが舅のボリスに毒を盛ります。ボリスが息を引き取ると、司祭が「死んだ」と宣言して人びとが「アーメン」と唱え、その直後にカテリーナが歌う旋律がこの『侵略のテーマ』に類似しているのです(千葉潤著『ショスタコーヴィチ』)。ここでカテリーナは「ああボリス・チモフェーヴィチ、どうして逝ってしまわれたの?あなたは私たちに誰に頼れとおっしゃるの。(訳:小野光子)」と、しらじらしく嘆いてみせるシーンです。この「偽りの嘆き」とも言うべき旋律のルーツは千葉氏によると、ムソルグスキーの『ボリス・ゴドゥノフ』のプロローグで、「官吏が民衆を脅してボリスが王位につくように懇願させる場面」の旋律であり、歌詞の裏側に別の真実が隠されている、つまり二重性を持っていることを示唆しています。

ボリス・ゴドゥノフ譜面
           『ボリス・ゴドゥノフ』プロローグから


       マクベス夫人譜面
            『ムツェンスク郡のマクベス夫人』第2幕第4場から


              第1楽章譜面

            第1楽章 展開部 いわゆる『侵略のテーマ』


 ケリー・ブリッケンスタッフは著書『Re-examining the Warhorse Shostakovich's Leningrad Symphony』の中で、第7交響曲の第3主題(いわゆる『侵略のテーマ』)と、ショスタコーヴィチの歌劇『ムツケンスク郡のマクベス夫人』のボリスのモチーフを逆さにしたもの(inverted Boris motif)の間に共通点があると指摘するディヴィッド・ファニングの著書を紹介しています(『Shostakovich Studies』 Edited by David Fanning, Cambridge University Press, 2009)。このinverted Boris motif が具体的にどんなものかその著書を読んでいないので不明ですが、これも興味深い指摘と思われます。

 ショスタコーヴィチにとっても自信作であり、初演後も好評を博していたにも拘らず、1936年に当局から批判を受けてお蔵入りとなったこの歌劇『ムツェンスク郡のマクベス夫人』への思い入れが、作曲家をして交響曲第7番にその刻印をさせたと考えることは十分可能であると考えられます。カテリーナの言葉の裏に潜む人間のエゴと残虐性につけた旋律から派生させてこのテーマを作り上げ、当局から受けた仕打ちに対してしっぺ返しをしたという見方もできます。なお、カテリーナによって毒殺される舅とムソルグスキーの歌劇の題名役の名前がどちらも「ボリス」というのも偶然の一致にしては出来すぎかもしれません。

 『ボリス・ゴドゥノフ』で無理やり言わされている民衆は誰もが早く家に帰りたいと思っているはずですし、『マクベス夫人』ではカテリーナの嘆きのセリフは嘘であって、腹の中では笑っているのです。ショスタコーヴィッチはこの交響曲のこの場面で、2つの歌劇から二重性を持つシーンをここで採用したということに注目べきと思います。

 このいわゆる『侵略のテーマ』は、展開部で最初は弱音で密やかに登場させますが、執拗なまでの繰り返しを重ねながら次第に音量を増し、恐ろしいほどの狂気へと膨れ上がって、ついにはカタストロフィーに至ります。この音楽構成は、レニングラードが包囲されている現実を目の前にした人々にとっては、遥か遠くから何かがやってきて、やがてそれがドイツ軍の戦車と兵士たちとわかり、ついには攻撃がはじまって大音響の中でレニングラードの破壊が始まるといったストーリーに簡単に結びついていくものになっています。それ程、ここの音楽は単純で分かり易い作り方にしている、すなわちショスタコーヴィッチはそう気付かれることを想定してわざとそうしたと考えられるのです。

 しかしそれは、ショスタコーヴィッチが本当に言いたかったことではないのです。何故ならその本心を分かり易く描いてしまうと、当局から形式主義と批判されるどころか、即刻シベリア送りか処刑されるとわかっていたからなのではないでしょうか。ショスタコーヴィッチはこの陳腐でわかりやすいテーマを隠れ蓑にして、自分が言いたいことについては最後まで口をつぐんだままでした。僅かにヴォルコフ著の『ショスタコーヴィチの証言』の中に少しばかりヒントを残していて、それが『ボリス・ゴドゥノフ』についての発言ではないかと思われるのです(第1章『曲の成立と初演』〜「ボリス・ゴドゥノフ」参照)。

 では、ショスタコーヴィッチはここで何を言いたかったのでしょうか。このいわゆる『侵略のテーマ』について興味深い説を唱えている音楽学者がいます。1934年に共通の友人であるソレルチンスキーの紹介でショスタコーヴィチと知り合いになったAbram Gozenpud で、彼は当時、文豪ドストエフスキーと音楽に関する書物を出版しようとしていました。エリザベス・ウィルソンの著書『Shostakovich : A Life Remembered』には次のように Gozenpud の文章を紹介しています(p.519)。Gozenpud なる人物は、DVDの映像作品『音楽ドキュメンタリー戦争シンフォニー〜ショスタコーヴィチの反抗』の中でインタビューを受けていて、ショスタコーヴィチと直接コンタクトのあった人物ならではの興味深いコメントをされています。

 「ショスタコーヴィチは、ドストエフスキーと同様に、悪がどのように生まれ、初めは無害だったものがどのように危険で破壊的になっていくかを明らかにしている。(ドストエフスキーの小説)『悪霊』の中でリャムシンがピアノの即興演奏で、『マルセイエーズ』に感傷的な小唄『わが愛するアウグスチン』を混ぜ合わせていく。無邪気だった小唄は次第に威圧的になり、獰猛でぞっとする音楽になっていく。ショスタコーヴィチの第7交響曲の第1楽章の無害で行進曲風な歌は、次第にハリケーンのようなパワーを帯びてきて、通り道にあるすべてを吹き飛ばしてしまう。もちろん、1870年のプロシアと戦うフランスで生まれた曲を弾くリャムシンの即興と、第二次世界大戦中に作曲され、敵の攻撃のテーマとソヴィエトの勝利を信じる第7交響曲とは根本的な違いはあるが、この交響曲の第1楽章の中間部のエピソードとリャムシンの即興演奏にはある共通のコンセプトがあると思われる。」

 『悪霊』の登場人物のひとりであるリャムシンは、小説の中では脇役にしかすぎませんが、郵便局の小役人のユダヤ人で、ピアノの名手として描かれています。第2部の第5章「祭りの前」で、リャムシンが『普仏戦争』という新しいピアノ曲を皆に聴かせるシーンがあります。江川卓訳(新潮文庫)のその部分の要約をここにご紹介します。

 「出だしはフランス国歌の『マルセイエーズ』の勇壮なひびきで始まり、来るべき勝利への陶酔が聴かれるが、どこかからドイツの俗謡『わが愛するアウグスチン』のみだらな旋律がひびきはじめる。やがて『わが愛するアウグスチン』はへこたれず、ますます厚かましくしゃしゃり出てくる。『アウグスチン』は凶暴性を発揮し、しゃがれ声が聞え、底なしのビールの饗宴、気違いじみた自己礼讃、幾十億の賠償金、細巻きのシガー、シャンパン、人質要求が音楽の中に感じ取られる。『アウグスチン』はもの狂おしいばかりにわめき立てる・・・普仏戦争が終わりを告げる。」
 
 この『わが愛するアウグスチン』は、1679年に始まったウィーンでのペスト流行による犠牲を嘆く内容の唄で、わが国でも別の歌詞が与えられた『岩をぶっちわり』という曲として、或いは子供用のピアノ曲としてもよく知られた曲です。YouTubeで聴けます。

Ach Du Lieber Augustin


 ショスタコーヴィチは10代の頃からドストエフスキーの愛読者であったことはつとに知られていて、死の前年に歌曲『レビャートキン大尉の4つの詩 Op.146』 (1974)を作曲しています。これはドストエフスキーの小説『悪霊』の中で登場人物のレビャートキン大尉が歌う詩に基づいて作曲されたものです。つまり作詞者はドストエフスキーということになります。また、この『悪霊』に登場するピアノ弾きのリャムシンがユダヤ人であることもショスタコーヴィチが関心を寄せたであろうことは想像に難くありません。さらに、リャムシンの即興演奏において2つの主題が競合し、次第に一方が他方を圧倒していくという構成に注目すると、チャイコフスキー作曲の大序曲『1812年』におけるフランス国歌『ラ・マルセイエーズ』がロシア正教の賛美歌の旋律に駆逐されるという曲の展開を想起させます。ショスタコーヴィチに対してソヴィエト当局が常に期待していたのが、この『1812年』のように外敵を打ち負かし、ソヴィエトが勝利を勝ち取るというストーリーを描いた作品であったことを考えると、ショスタコーヴィチの作曲過程においてそういったことが少なからず影響を及ぼしたと考えられるのではないでしょうか。もちろん、ショスタコーヴィチは従うふりをしても、本心から当局の言いなりにはならなかったのは言うまでもありません。

 以上のことから、この交響曲第7番第1楽章の展開部において、ショスタコーヴィチが表現したかったことは、人間の内なる世界における悪の増大過程と、さらにそこから敷衍させて社会体制や集団による弾圧や暴力が拡大していくことだったのではないでしょうか。そして、その被害者が主としてユダヤ人であることをショスタコーヴィッチは密かに定めていたのであり、それが後に交響曲第13番『バビ・ヤール』に結実していくと考えることができるのではないでしょうか。

 では、この展開部でユダヤ音楽の痕跡はあるのでしょうか。ティモシー・ジャクソンは『Dmitry Shostakovich : The Composer as Jew』(『Shostakovich Reconsidered』 by Allan B. Ho and Dmitry Feofanov p.617-619)の中で、ショスタコーヴィチの初期におけるユダヤ音楽の引用例として交響曲第7番第1楽章の展開部を『ダヴィデの詩篇』のエピソードと共に次のように紹介しています。「ユダヤ教会の音楽ではなく『クレズマー音楽』で殉教者した神のしもべたちを表現し、機械的に何度も繰り返されるフレーズでエルサレムのまわりを水のように神のしもべたちの血で流した異教徒たちであるファシストを表現している。このクレズマーの踊りは、この楽章のクライマックスで大爆発を起こす。」として下記の楽譜(練習番号41番)を示しています。

Sym7譜面
          交響曲第7番第1楽章展開部 クレズマーの音楽


 このフレーズはこの箇所に先立つ練習番号41番の直前で別働隊を含むホルン8本で吹かれています(1フレーズのみ)。下の楽譜を見ると、これは明らかにオリジナルのテーマの変形であることが分かります。ショスタコーヴィチは、ムソルグスキーの『ボリス・ゴドゥノフ』から拝借したメロディーを『ムツェンスク郡のマクベス夫人』を経由してこの曲の中に取り入れ、さらに変形させてついにはユダヤのクレズマー風の音楽に仕立てていったのです。この時、音楽はすでに大音量の狂乱の中にあり、カタストロフィーに向けて突進していき、展開部が終結し再現部へと雪崩れ込みます(練習番号52)。


 Sym7譜面  Sym7譜面 
      展開部で最初に出現するクレズマーの音楽(左)とオリジナルのテーマ(右)

 なお、この箇所に関して面白い映像が残っています。これも明らかにソヴィエト当局によって製作されたと思われるものですが、ショスタコーヴィチ自身が短いスピーチの後に、ピアノでこの曲のさわりを弾いている映像です。確かに音楽が盛り上がっていくところで、当局を喜ばせるのに十分な箇所なのですが、実はそれがなんとこのクレズマーの音楽のところから弾いているのです。ショスタコーヴィチはこれがユダヤの音楽であることを誰にもわかるまいと密かに笑っていたのかもしれません。

Shostakovich plays a fragment of his 7th symphony (1941)

 こうしてクライマックスを迎えると、木管、金管、弦楽器によって下記の動機が強奏されます(練習番号55番の直前)が、これはショスタコーヴィチの歌劇『ムツェンスク郡のマクベス夫人』第4幕第9場の終幕近くでオーケストラが強奏する動機と全く同じものです。殺人の罪で捕らえられ、収容地に向けて移動していたカテリーナが、監視の目を盗んで川に飛び込む直前に、彼女が死を決意し、湖(或いは川)に向かって歩き始めた時に演奏されるものです。ニコライ・レスコフの原作における冷酷な女カテリーナを、ショスタコーヴィチは旧弊な社会に縛られて追い詰められた女性として同情的に扱っているところからも、彼女を歴史的に虐げられてきたユダヤ人像に重ね、死をもって救済される様を描いたという見方をすると、この曲のクライマックスにおけるこの動機が持つ意味が明らかになってくるのではないでしょうか。


Sym7譜面
                第1楽章 展開部〜再現部のクライマックス


               マクベス夫人譜面
       『ムツェンスク郡のマクベス夫人』第4幕第9場 練習番号542の2小節前


 なお、ティモシー・ジャクソンは、交響曲第7番で出現するクレズマー音楽と後に作曲するピアノ・トリオ第2番終楽章のテーマが「strikingly similar 驚くほど似ている」とも書いています。しかしこれはどうでしょうか、「strikingly」と言う程似ているようには聞えませんでした。どこか共通する雰囲気は感じられますが。以下、YouoTube でスコア付きで聴けます。開始から16分55秒からピアノがそのテーマを演奏します。

SHOSTAKOVICH Piano Trio No. 2 in E minor (Op. 67) Score

 さらに、ティモシー・ジャクソンは第1楽章の練習番号45から52の間は、「ファシストの行進曲とクレズマーのメロディーの途方なく巨大化された闘いを呈示させ、抗争の中で互いに歪ませながらついには再現部の開始となる「悲劇の英雄」のテーマ(練習番号52)によって蹴散らされるである。1941年にショスタコーヴィチがこの曲を完成させた時、マーチによって粉砕されたクレズマー音楽はレニングラード防衛における殉教者を表わすことになったのではないか。とりわけその中に彼のユダヤ人の友人である殉教者フレーイシュマンが含まれていた。」と展開部の終結部から再現部の冒頭までの区間に対して興味深い解釈を披露しています。1941年6月のドイツ軍の侵攻の前に作曲が開始されているものの、その侵攻によって「ファシストとクレズマー」の相克というアイデアが8月末の第1楽章完成までの間に新たに加わったと考えることは十分にありえることと思われます。

 なお、この「悲劇の英雄 tragic-heroic」という表現は、ショスタコーヴィチが交響曲第9番について説明した際、それに先立つ「交響曲第7番と第8番をもし悲劇の英雄という性格を帯びているならば・・」という言い回しに由来しているものと思われます。しかし、ショスタコーヴィチ自身が「もし」と言っているということから、「世間ではそう言われているけれど自分はそのつもりではない」ということだと思われますので、交響曲第7番第1楽章の再現部のテーマ、すなわち提示部における第1主題(冒頭のテーマ)を「悲劇の英雄」と見做すことは作曲者の本意ではないことになります。

 しかし、このユダヤの要素は当局に知られるとマズイことになることはわかっていたはずで、「ファシスト」を描けばこのユダヤのことを隠し通せると考えたと推測することも可能かもしれません。さらには、この「ファシスト」に聞えるマーチは実は「ボリス・ゴドゥノフ」における「心にないことを言わされる民衆の声」をルーツにしたテーマであることを考えると、ショスタコーヴィチの本心としては、それはソヴィエト当局による芸術家に対する監視と統制であると見做すこともできます。だからこそ、この展開部の繰り返される主題は、金子健志氏が指摘されるように、「明るい長調のまま進む前半は、寄席の新装開店に近い。陽気な太鼓に乗って、次々と芸人が登場。笑いに包まれたまま時間が過ぎ、客席は陽気に盛り上がる。」というおちゃらけた音楽にして、これによって当局の阿呆どもを揶揄しているのではないでしょうか。音楽学者エスティ・シェインバーグによると、ショスタコーヴィチの盟友であった指揮者ムラヴィンスキーはこの箇所について「愚さと甚だしい悪趣味の普遍化されたイメージ」と主張していると書いていますが、金子氏の指摘と通じるものがあります。


再現部
 展開部においては、この曲に「戦争と勝利」というレッテルを貼ることなる、いわゆる『侵略のテーマ』の背後には実はショスタコーヴィチの隠された信念が深謀遠慮のもとに構築されていることを見てきました。続く再現部では第1主題が断片的にしか姿を現わさないのですが、苦悩や闘争の果ての輝かしい勝利でも平和な安らぎの世界の実現でもないところがショスタコーヴィチらしいというべきでしょうか。指揮者の井上道義氏の「ベートーヴェン的発展をみせる演奏は決してあってはならない。タコ氏には『社会主義の勝利』も『苦悩を通しての歓喜』も決して存在しない。彼は世界と個人の関係の真理を音楽化することに成功している。(『ショスタコーヴィチ大研究』〜「ショスタコーヴィチを解毒する」)という発言は演奏家から見た卓見と言うべきで、この曲がレニングラードに攻めてきて包囲したナチスの軍隊を勇敢なソヴィエト兵士が蹴散らすという陳腐な映画音楽では決してないことを、この展開部から再現部にかけての音楽を聴けばよくわかるのではないでしょうか。

 第1主題の再現がひとしきり収まると、再びフルートがファースト・ヴァイオリンとユニゾンで経過句を奏します(練習番号57-58)。この楽章でショスタコーヴィチは常にこの2つの楽器に拘っていて、それがフレーイシュマンの『ロスチャイルドのヴァイオリン』へのオマージュであることが窺えます。フルートが単独となってからはクラリネットがその後を引き継いでいき、ファゴットの長いモノローグが始まります。最初はとりとめのない経過句的なメロディーが吹かれますが、山型の音型が出現してきて、第2主題(或いは第3主題)の再現(練習番号63)となります。この長いファゴットの独奏部分は様々な解釈が施されています。初演以来、戦争音楽というレッテルを貼られしまったことから、闘いが終わり死屍累々たる戦場に広がる物音ひとつしない静寂の中を、ファゴットが涙も出ないほど悲しみを越えた茫然自失の光景を静かに歌う、といった説明が抵抗なく受け容れられる箇所と言えます。

Sym7譜面
      再現部 練習番号57-58番 フルートとファースト・ヴァイオリンによるユニゾン

Sym7譜面
                再現部 ファゴットのソロ


 しかし、ここは戦場だけに限らないもっと広義の意味での荒涼とした情景を想像することも可能であるし、その裏にショスタコーヴィチの本当に言いたいことが隠されていると考えることもできるのではないでしょうか。3分近くもファゴットが長いソロを吹くのはそれなりの理由があったのでしょう。迫害を受けたユダヤ人、スターリンによって抹殺された罪のない多くの人々、そしてフレーイシュマンを始めとする戦場で散った若者たちへの鎮魂という体裁を、ムソルグスキーの『ボリス・ゴドゥノフ』、自作の『ムツェンスク郡のマクベス夫人』の引用を交えながら作り上げることで、この楽章のクライマックスを、最強音で爆発する展開部の終結部ではなく、このファゴットの長いソロの箇所に置いたショスタコーヴィチの構成力には感心せざるを得ません。この曲と『ボリス・ゴドゥノフ』との関係性から作曲家の本心をこの部分から窺う金子健志氏の洞察も見事と言えます。

「虐げられた民衆の『声』を代表するかのように、道の片隅で乞食姿の男が独り言を始める。問わず語りのモノローグは、生活苦からの呻きを代弁するような形をとりながら、体制批判や、真実を鋭く衝いた本音が含まれている。ショスタコーヴィチの長大なソロの殆どがこれで、仮面をかぶらざるを得なかった作曲家の本心が語られている。」

 ファゴットのソロが終わると、またしてもヴァイオリンとフルート(ここは2本)がユニゾンで第1主題を静かに再現させます(練習番号66、フルートは3小節目から合流)。ここでもショスタコーヴィチは矛盾した書き方をしていて、2本のフルートには pp(ピアニッシモ=極めて弱く)の指示を書きながら、ファースト・ヴァイオリン(たぶん10人以上はいるはず)に対してはp(ピアノ=弱く)と記しています。このアン・バランスな書き方は、前述したように、ロスチャイルドがフルートをやめてヴァイオリンを弾くようになることの暗示という見方がここでもできるかもしれません。ショスタコーヴィチがこの曲でめったに書かなかったmolto espress.(モルト・エスプレッシーヴォ=極めて表情豊かに)が両パートに書かれていることに注目すると、この第2再現部ともいうべき箇所は楽章で作曲者が最後に言いたかった大事なところであろうと見做さざるを得ません。  
Sym7譜面
          再現部 ファースト・ヴァイオリン、途中からフルート
 

 話しは逸れますが、1958年から1972年まで作曲家・指揮者のレナード・バーンスタインが企画と指揮及び司会をしていた「ヤング・ピープルズ・コンサート」でもこの曲が少しばかり取り上げられています(1966年1月5日放送)。その日は『ショスタコーヴィチの誕生日を祝って』と題した日で、バーンスタインはステージに登場するなりニューヨーク・フィルハーモニックを振って、交響曲第7番第1楽章のまさにこの箇所(練習番号66)を演奏します。9小節ほど演奏するとバーンスタインは棒を降ろして向き直り、いつものトークが始まります。「この美しいメロディーはショスタコーヴィチ作曲のレニングラード交響曲です。ショスタコーヴィチの典型的なスタイルで、大胆で、気高く、誇らしげで、歌謡性に富み、情感に満ちています。」と。曲の冒頭やフィナーレではなく、この箇所を取り上げたということにバーンスタインの強い想い入れが伝わってきます。なお、バーンスタインはこの4年前にニューヨーク・フィルハーモニックを振ってこの曲をレコード録音していますが(1962年10月22日&23日)、さらにその26年後にシカゴ交響楽団と再録もしています(1988年6月)。


 次いで第3主題が再現されますが、ここは弱音器付きのヴァイオリンだけで演奏されて、フルートは登場しません。つまり、ロスチャイルドはヤーコフから貰ったヴァイオリンを手にして新たに羽ばたいていくということに他なりません。テンポはここからやや速めになるように指定されていて、微かな希望の光が見える、憧れるようなフレーズであることも、ロスチャイルドの明るい未来を願うショスタコーヴィチの想いが感じられるところです。いずれにせよ、もしこの楽章が戦争を表わすものであったとしたら、このようにおだやかで美しいかたちで終えるということはないのではないでしょうか。

Sym7譜面
               再現部 ファースト・ヴァイオリン

 このヴァイオリンによる第3主題の再現は終わる際にソの音を長く弾き伸ばします。その音は次第に弱くなっていきますので、そこで楽章が終わると誰もが思うところです。しかし終わらずに、展開部の再現、すなわちいわゆる『侵略のテーマ』が現れます。スネアのリズムが弱音で刻まれる中(練習番号70番の3小節目)、弱音付きのトランペットが静かにそのテーマを吹いて楽章を閉じます。どこか、チャイコフスキーの悲愴交響曲の第1楽章の閉じ方に類似していているようにも感じられますが、ショスタコーヴィチの本心を隠すためのダメ押しとも聴こえなくもありません。本当のところはヴァイオリンによる長い音の弾き伸ばしで消えるように、フレーイシュマンへの想いをその音に託して楽章を終わらせたかったのではないでしょうか。

 ここで興味深い動機に気付きます。ヴァイオリンがそのフレーズの最後でソの音を長く伸ばし、音が静かに消えていくと、ホルンによって4つの音符が2回吹かれます(練習番号70番)。この音型は、molto espress.で第1主題を再現する直前(練習番号66番)でも吹かれていて、どちらもフレーズの切れ目のちょっとした隙間に挿入されているのです。つまり、この動機はとても大事に扱われているという印象を受けます。そういえば、この音型どこかで聴いた記憶がある・・・、そう、この楽章の冒頭で弦楽器による第1主題の提示の合いの手としてトランペットとティンパニによって極めて印象的に奏される音型だったのでした。

       Sym7譜面 
               ホルンによる「4つの音符」

Sym7譜面
          第1楽章冒頭における「4つの音符」 (トランペットとティンパニ)


 ここでスコアを最初から見直すと、この提示部の練習番号4番の直前においては4つの音符が多少変形されて木管とホルンによっても奏されます。この変形された音型は再現部の練習番号67番でも木管、トランペット、ヴァイオリン(ピチカート)によって演奏されます。

   Sym7譜面
              第1楽章冒頭における「4つの音符」の変形
Sym7譜面
          再現部 ヴァイオリンのピチカートによる「4つの音符」の変形



 これだけではなく、この4つ音符による動機は展開部においてさらに変形されて数え切れないほど登場します。いわゆる『侵略のテーマ』の伴奏音型として繰り返し演奏されるのです。最初はチェロ(練習番号25番の直前)によってピアノ( p = 弱音)で弾かれ、その後鍵盤楽器のピアノが練習番号29番の直前から、次いでファゴットも練習番号33番の直前から、さらにティンパニは練習番号35番から、そしてクラリネットとセカンド・ヴァイオリンが練習番号37番の直前からと、この音型に参加する楽器が次々と増えていき、それと同時に音楽も盛り上がっていきます。最初のピークを迎える練習番号52番から53番の5小節目までの間では最強音の合間からこの音型がバス・クラリネット、ファゴット、バス・テューバ、ティンパニ等の打楽器で繰り返し奏されます。
          Sym7譜面
           展開部 練習番号25 チェロによる「4つの音符」の変形


 そしてついに、前述した『マクベス夫人』から引用された4つ音符による音型によって最大の頂点を築くことになるのです(練習番号55番の2小節前)。

Sym7譜面
                 第1楽章 展開部〜再現部 クライマックス


 この4つの音符による音型は、何やらベートーヴェンの『運命の動機』を思わせるところがありますが、David Hurwitz というクラシック音楽解説者が似たようなことに注目していいます。Hurwitz 氏は様々な曲の解説やベスト録音についてのトークをYouTubeにアップしていて、ショスタコーヴィチの交響曲第7番についても30分以上に及ぶ非常に面白い話が聴くことができます。そこで彼は「5つの音符のグループ」と「4つの音符のグループ」でこの楽章が出来上がっていると指摘しています。弦楽器による冒頭の第1主題が、16分音符4つと4分音符1つをグループとしたリズムで構成されていること、いわゆる『侵略のテーマ』の間ずっと叩かれるスネアのリズムもその時奏される主題そのものも「5つの音符のグループ」を基本としたものであるというのです。ラヴェルの『ボレロ』の模倣ということよりは(そうと明言はしていませんが)、第1主題のリズムとスネアのリズムが共通していることをCDの演奏を聴かせながら説明しています。

   Sym7譜面
          第1楽章提示部 練習番号2番と3番の間 「5つの音符」

Sym7譜面
            第1楽章展開部 スネアによる「5つの音符」


 スコアを見ると、展開部において最初のピークを迎えた後、練習番号53番でこの「5つの音符のグループ」と「4つの音符のグループ」が初めて同時に絡み合うように書かれているのは確かです。ただ、演奏を聴くとユニゾンで奏される主旋律群が大音量であるために、特に「5つの音符のグループ」の音は聴き取れないことが多いようです。彼のトークは下記で聴くことができます。

Repertoire: The BEST Shostakovich Symphony No. 7 "Leningrad"

Sym7譜面
           第1楽章再現部 「5つの音符」と「4つの音符」


 『侵略のテーマ』が楽章の途中で登場し。終始スネアが叩くリズムをラヴェルの『ボレロ』の模倣だとか指摘してこの楽章の解説を終わらすのではなく、スコアに書かれた音符をしっかり検証することで、ショスタコーヴィチの意図を探り、それを実際の演奏に活かしていくのが重要なのではないでしょうか。なお、David Hurwitz 氏はこの曲をドイツとの戦争とかスターリンの暴虐的な圧政とかを扱った曲では決してないと断言しています。

 「第5章『侵略のテーマ』の謎」で既にご紹介していますが、ショスタコーヴィチの言葉として次の言葉が伝えられています。1941年8月上旬に第1楽章の作曲途中に、
「批評家たちはこれを聴いて『ボレロ』を思い出すだろうが、言わせておけ。私の耳には戦争はこんなふうに聞こえるのだ。」と友人のグリークマンに言ったかと思うと、別のところでは、「『侵略のテーマ』は実際の侵略とはまったく関係がない。」、さらには、「いわゆる戦争を描く音楽を作曲したわけではなかった。」とも言っています。

 この曲が戦争開始前に構想されていたことは既に述べた通りで、この曲の中に戦争のことを書く予定はなかったとはいえ、まさに作曲中にドイツ軍によってレングラードが攻撃を受けていたのですから、自分や家族の命を脅かす戦争のことはショスタコーヴィチの頭の中で渦巻いていたのも事実でしょう。そのため、戦争のことがある程度曲に影を落としていることは否めません。しかし、譜面に書かれた音符を見ると、戦争をイメージした音楽と決めつけるだけでは説明がつかない程、ショスタコーヴィチが何かを伝えようと様々な工夫を凝らしているということは間違いなく言えるのではないでしょうか。




*参考文献の一覧は≪目次≫をご覧ください。
 


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