ショスタコーヴィチ:交響曲第7番『レニングラード』

第6章 交響曲第7番とユダヤ音楽

シャガール 

                    マルク・シャガール『緑色のヴァイオリン弾き』


『ダヴィデの詩篇』
 ヴォルコフの著書『ショスタコーヴィチの証言』には交響曲第7番について、ショスタコーヴィチの言葉としてこのように書かれています。「わたしはダヴィデの詩篇に深い感銘を受けて、あの曲を書き始めたのだった。もちろん、問題はダヴィデの詩篇にあるだけではないが、それがいわば情緒の刺激となって、わたしは書きはじめたのである。ダヴィデの詩篇には血についての注目すべき言葉がある。神は血のために報復し、犠牲者の号泣を忘れない、などとある。・・(中略)・・もしも第7番の交響曲の演奏に先立って、いつでも詩篇を読むなら、この交響曲についてばかばかしいことを言う人も少なくなるかもしれない。こんなことを考えるのは不愉快だが、だぶん、そうなのだろう。とにかく、聴衆はつねに音符を完全に理解できるわけではないのだから、言葉があれば、もっとわかりやすくなるのである。」

 この交響曲について解説する音楽学者や音楽関係者は、判で押したようにドイツ軍がレニングラードに迫り包囲する様を描いている第1楽章の「侵略のテーマ」に言及したり、この曲はヒトラーだけでなくスターリンへの批判が描かれているということに終始したりしているため、このショスタコーヴィチの『ダヴィデの詩篇』発言が無視されることが多いようです。この「侵略のテーマ」については第5章『「侵略のテーマ」の謎』で詳述していますのでご参照ください。

 この発言はヴォルコフの著書だけに留まらず、他の資料でも確認が取れています。ソフィヤ・ヘーントワによると、当初ショスタコーヴィチは交響曲第7番を『ダヴィデの詩篇』をテキストとして、ソリストと合唱を伴う作品にしようと作曲を始めたとしています。この説はManashir Yakubovの著作にも複数の著者によっても確認されていると書かれています(『Shostakovich Reconsidered』  by Allan B. Ho and Dmitry Feofanov p.155-156)。また、エリザベス・ウィルソンもその著作『Shostakovich : A Life Remembered』(p.172)で「ショスタコーヴィチは、『ダヴィデの詩篇』のテキストに基づく合唱曲の作曲を開始した。しかし、7月19日までにはその構想を捨て、交響曲第7番となるべき作品を書き始めた。最初それは単一楽章で合唱パートがフィナーレを導く形のものになるはずであったが、作曲の過程で直ちに4楽章構成の曲になったと推測される。」と書いています。しかしどの資料も、『ダヴィデの詩篇』のどの部分にショスタコーヴィチが関心を持ち、どれをテキストとして採用しようとしていたかについての指摘や考察はなされていません。

 旧約聖書に収められている『詩篇』は、古代イスラエルの祭儀のさまざまな場面で用いられた歌を収集したもので、神への賛美、祈り、感謝、悔い改めなどが歌われ(或いは朗読され)、とりわけユダヤ人にとっての信仰の要となってきました。この『詩篇』は全部で150篇もあり、さらにその中の『ダヴィデの詩篇』とは、ダヴィデが作ったとされる第3篇〜第41篇(或いは第72篇までとの説、全部で73編あるという説などもある)を指しますが、果たしてショスタコーヴィチはそういったどの篇が『ダヴィデの詩篇』であるかという認識をもっていたかどうかはわかりません。合唱に関わる音楽家であれば、1619年にドレスデンで出版されたハインリヒ・シュッツによる合唱曲集『ダヴィデ詩篇歌集』のことを知っていたと思われますが、もしショスタコーヴィチがこの歌集を知っていたとすると、シュッツの歌集は第1篇から第150篇の中から20篇が選ばれているので対象はいくらか絞られそうですが、ショスタコーヴィチがシュッツに関わった記録も今のところ見つかっていません。

 『証言』における「ダヴィデの詩篇には血についての注目すべき言葉がある。神は血のために報復し、犠牲者の号泣を忘れない」というショスタコーヴィチの言葉から、「血」と「報復」に関する記述を詩篇全150篇から一致するものを探すと第9篇(血を流す者の仇を報いる主は彼らを心にとめ、苦しむ者の叫びを忘れない)に行き当たります。この第9篇では、神が悪しき者を滅ぼし、正義をもって世界を裁き、公平をもって民を裁くということが書かれ、そこで「血を流す者の仇を報いる主は彼らを心にとめ、苦しむ者の叫びを忘れない」、「自分がただ人であることを知らせてください」と結びます。さらに、第10篇に入ると、「悪しき者は高ぶって貧しい者を激しく責めます」、「貧しい者を捕えようと待ち伏せ、網にひきいれて捕える」と訴え、「民の願いを聞き、その心を強くして耳を傾けて」ください、と懇願する内容となっています。このどちらの篇も確かに『ダヴィデの詩篇』に含まれるものではあります。

 また、ティモシー・ジャクソンは『Dmitry Shostakovich : The Composer as Jew』(『Shostakovich Reconsidered』 by Allan B. Ho and Dmitry Feofanov  p.617)の中で、「ショスタコーヴィチはたぶん『詩篇第79番』を心に描いていた」としています。この第79番の内容を要約してご紹介します。

 「あなたのしもべの屍を天上の鳥に餌として与え、その肉を地上の獣に与え、その血をエルサレムのまわりに水のように流し、これを葬る人がありませんでした。(中略)異邦人は言います、彼らの神はどこにいるのか?と。あなたのしもべが流した血の報いを見てそれを異邦人に知らせてください。」

 ドイツ軍によるレニングラード包囲の後であれば、『ダヴィデの詩篇』がレニングラード市内の悲惨なありさまを何世紀も前に予言していたことになり、ショスタコーヴィチがこれを音楽の中に取り入れようとしたと考えるのは正しいと思われます。しかし、ショスタコーヴィチが『ダヴィデの詩篇』に関心を持ったのはレニングラード包囲よりずっと前ですし、その包囲が始まる前に『ダヴィデの詩篇』のテキストに基づく作品のアイデアを放棄していたと考えるとこの説は少々無理があります。とはいえ、結果的に『ダヴィデの詩篇』の内容が現実となったのですから、ショスタコーヴィチの予感が当たっていた可能性はあると言えます。

 この『ダヴィデの詩篇』で語られていることを、当時のソヴィエト社会に重ねてみると、まさにスターリンによる粛清の嵐、密告の恐怖といったことが浮かび上がってきます。ユダヤ人に関しては、ソヴィエト政府による公式なユダヤ人への差別待遇が実施されたのが1932年とされていて(ここでは政治については深入りしないとして)、ユダヤ人の知識人に対しても圧力がそれ以降強まっていきます。音楽界においてもだいぶ後のエピソードですが、1945年のモスクワ音楽コンクールにおいて20名のユダヤ人ヴァイオリニストたちが第一選考の後に外された(イアン・マクドナルド著 『Shostakovich Reconsidered』 by Allan B. Ho and Dmitry Feofanov p.693)ことはそれをよく物語っています。こうした状況下で、ショスタコーヴィチがユダヤのことやダヴィデのことを公に表現すれば即刻銃殺かシベリア行きになったことでしょう。ヴォルコフの『証言』ではショスタコーヴィチはこのように言っています。

 「戦前でも、父や兄弟、あるいは親戚でなければ親しい友人といった誰かを失わなかった家族は、レニングラードにはほとんどいなかった。誰もが、いなくなった人のことで大声で泣き喚きたいと思っていたのだが、人に見られぬように毛布を頭からひっかぶって、声を殺してすすり泣くしかなかった。(中略)わたしもやはり悲しみに咽喉がつまる思いだった。わたしはそのことをこそ書かねばならず、それを自分の責務であり、自分の義務だと感じていた。わたしは非業の死をとげたすべての人々、処刑されたすべての人々のための鎮魂曲(レクイエム)を書かねばならなかった。(中略)しかし、それはどのようにして可能だったのだろうか。そのころのわたしは絶えず嫌疑をかけられ」ていた。

 もし、ショスタコーヴィチがこの日常的に国内で起きている当局による不当な逮捕と処刑、或いは過去の為政者が行なってきた弾圧的行為を『ダヴィデの詩篇』に託し、「それを書くことが自分の責務」として後世に残そうという意図があったとなると、この交響曲第7番においてこそ、その責務を果たそうとしたと考えるのが自然ではないでしょうか。しかも、この発言が掲載されている『証言』が出版されるのが自分の死後であることを知っていたとなるとその発言の信憑性は高まるばかりです。


ストラヴィンスキーの『詩篇交響曲』
 さらに、この『詩篇』にショスタコーヴィチが当時大きな関心を抱いていたことを示す事例があります。ショスタコーヴィチはストラヴィンスキーが作曲した『詩篇交響曲』のスコアを所有していて、出版された同年の1930年に4手連弾用に編曲してレニングラード音楽院で学生たちに紹介しているという事実があります。また、作曲家のカレン・ハチャトゥリアン(『剣の舞』で有名なアラム・ハチャトゥリアンの甥っ子)は、1943年からモスクワ音楽院でショスタコーヴィチに作曲の教えを受けていますが、後のインタビューの中で「ショスタコーヴィチはストラヴィンスキーの『詩篇交響曲』のスコアを持っていて、そのすばらしい曲を4手のピアノ用に自ら編曲をしていたおかげで、我々はその曲を本当によく理解することができた。」で語っています(『Shostakovich : A Life Remembered』 by Elizabeth Wilson p.213)。

 また、レニングラードからクイビシェフに疎開する時にショスタコーヴィチが持ち出すことができた譜面は3曲だけで、作曲中の交響曲第7番と自作の歌劇『ムツェンスク群のマクベス夫人』、それとストラヴィンスキーの『詩篇交響曲』のスコアと連弾用に編曲した譜面だったとされています。ということは交響曲第7番を作曲していた間いつも手元に『詩篇交響曲』があったということになり、ショスタコーヴィチの発言も真実性が帯びてきます。

 ヴォルコフの『証言』でショスタコーヴィチは、「ストラヴィンスキーの音楽から受けた最初の鮮明な印象は、バレエ音楽『ペトルーシカ』と結びついている。レニングラードのキーロフ劇場での『ペトルーシカ』の上演を私は何回となく観ているが、上演のたびに欠かさず劇場に足を運ぼうと努めたものだった。」と言っています。さらに、1926年12月12日に行なわれたストラヴィンスキーのカンタータ『結婚』のロシア初演の時、レニングラード音楽院の大学院生だったショスタコーヴィチはピアニストのひとりとして舞台に立っている(ローレル・E・ファーイ著『ショスタコーヴィチ ある生涯』 )ことからも、ショスタコーヴィチはストラヴィンスキーに対して大きな関心を抱いていたことは間違いないと思われます。ヴォルコフの『証言』でショスタコーヴィチは、4台のピアノのうち「第二ピアノを私は弾いたのだった。演奏会に先立ってかぞえきれぬほど重ねた練習は、わたしにとって楽しくもあれば、有益なものであった。この作品は、独創性、美しい音の響き、抒情性によってすべての人を驚嘆させた。」と言っています。

 その後、ストラヴィンスキーの『詩篇交響曲』がブリュッセルで初演され(1930年12月13日)、出版されると、ショスタコーヴィチは直ちにそのスコアを入手しているのです。しかし、ストラヴィンスキーの作品はソヴィエト国内では演奏が禁止されていたため、ショスタコーヴィチは『詩篇交響曲』を4手連弾用の編曲を行ない、仲間内や生徒たちと密かに弾いていたのでした。

 1955年、教え子でショスタコーヴィチと特別な関係にあったガリーナ・ウストヴォルスカヤに、ショスタコーヴィチは『詩篇交響曲』のスコアをプレゼントしていて、そのスコアの表紙には「親愛なるガリーナ・ウストヴォルスカヤへ。ドミートリー・ショスタコーヴィチより。1955年3月18日レニングラードにて」と書かれていました(Forging the ‘Lady’s Hammer’: A Profile of Influence in the Life and Music of Galina Ustvolskaya by Rachel Claire Jeremiah-Foulds)。彼女自身も「彼は私にマーラーの交響曲をプレゼントしてくれました。ストラヴィンスキーもよく弾いてくれました。彼がストラヴィンスキーの『詩篇交響曲』を編曲した音楽を聴いたことがあります。」と語っています。ショスタコーヴィチ研究家イアン・マクドナルドは、その曲がテキストにしている『詩篇』そのものをショスタコーヴィチに紹介したのはウストヴォルスカヤなのだろうか、という憶測までしています。

 一方、このショスタコーヴィチの「ダヴィデの詩篇」発言がストラヴィンスキーの『詩篇交響曲』に触発されたものだとすると、ショスタコーヴィチが「ダヴィデの詩篇」と言ったものが、ストラヴィンスキーがその『詩篇交響曲』で採用した『詩篇』に絞られることになります。すなわち、第1楽章:第38篇(又は第39篇)、第2楽章:第39篇(又は第40篇)、第3楽章:第150篇、ということになります(「又は」としているのは聖書の訳本によって異なるとのこと)。とりわけ讃美歌集の棹尾を飾る『詩篇第150番』はブルックナーが曲を付けていることもあり、音楽関係者ならすぐにピンとくるはずで、「ハレルヤ、主をたたえよ」と始まるその詩にはラッパや竪琴など数々の楽器の名前が登場し、その楽器で「主をほめたたえよ」と歌われように、作曲に従事する者にとって食指を動かされる内容になっています。話は逸れますが、フローラン=シュミット(『詩編第47番』1904年)、アレクサンダー・ツェムリンスキー(『詩篇83番』1900年、『詩篇第23番』1910年、『詩篇第13番』1935年)等も詩篇に曲をつけています。

 しかし、ストラヴィンスキーが採用したこの3つの篇は、ショスタコーヴィチの『証言』における『ダヴィデの詩篇』発言から類推される詩篇第9ではないということになります。つまり、ショスタコーヴィチはストラヴィンスキーの『詩篇交響曲』に感銘はしてはいたものの、採用された歌詞の内容については関心を示さなかったことになります。以上のことを総合すると、イアン・マクドナルドが想像したように、ショスタコーヴィチと一緒に連弾でこの曲を演奏していたウストヴォルスカヤがその曲のテキストの出典となった『ダヴィデの詩篇』の存在をショスタコーヴィチに教え、その中から「血についての注目すべき言葉」をショスタコーヴィチは見つけ、ダヴィデを隠れ蓑にして自らが言いたかったこと交響曲第7番に折り込もうとした、しかし、やはり歌詞に直接的な表現が含まれるために危険と考え、合唱をやめることでダヴィデの言葉を消し去り、しかし音符にはその思い込めて曲を完成させ、その後にお礼として彼女にスコアを進呈した・・・、と連想が膨らんでいきます。あくまで想像の域を出ませんが、自分の死後公表されることになっているヴォルコフの『証言』の中で、このストーリーのヒント、言い換えれば交響曲第7番の主題をそっと示したという見方もできるかもしれません。

 この交響曲第7番について考えるときに、一度、『レニングラード』という題名を忘れてみてはどうでしょうか。ショスタコーヴィチはその題名をつけられても拒否はせず、ナチスの侵攻、ドイツ軍によるレニングラード包囲に始まり、レニングラード市民の勇敢な抵抗を経て、ソヴィエト軍の反攻と輝かしい勝利で曲をしめくくるシンフォニーと語られることも生前はすべて否定せず、プロパガンダの作品として国に利用されてスターリン賞まで貰うことも受け容れことは事実です。しかし、それはショスタコーヴィチが生き延びるために仕方なくそうしたのであって、本心は違うところにあり、本当に言いたいことは全く別にあったのではないのでしょうか。

 ヴォルコフの著作『証言』の中でショスタコーヴィチは、「第7番と第8番の交響曲について、まったくばかげたことをわたしは耳にしている。それらの愚かな意見がどれほど長いあいだ生きつづけていたことか、あきれるばかりだ。(中略)第7交響曲は戦争のはじまる前に構想されていたので、したがって、ヒトラーの攻撃にたいする反応として見るのはまったく不可能である。「侵略の主題」は実際の侵略とはまったく関係がない。この主題を作曲したとき、わたしは人間性にたいする別の敵のことを考えていた。」と言っていることからもそのことは窺い知ることができます。

 しかも、ここで忘れてはならないのは、『ダヴィデの詩篇』がユダヤ人の心のよりどころでもあったということです。つまり、ショスタコーヴィチが「非業の死をとげたすべての人々、処刑されたすべての人々のための鎮魂曲を書かねばならなかった。」と語るときに、戦争や為政者の弾圧で命を落としたロシア人だけでなく、長年にわたって虐げられてきたユダヤ人もそこに含まれていたと考えるのが自然だと思われます。

 話は逸れますが、チェリストのムスチラフ・ロストロポーヴィチがショスタコーヴィチにオーケストレーションの授業で教えを受けていた頃(1943年)、ショスタコーヴィチとストラヴィンスキーやマーラーの作品をピアノの連弾で弾いたと語っています。また、ロシアを出国して50年近くたったストラヴィンスキーがソヴィエトに一時帰国した際(1962年)、ショスタコーヴィチに会っています。随行員のひとりだったカレン・ハチャトゥリアンの話によると、ストラヴィンスキーはモスクワに到着するなり「ショスタコーヴィチは何処にいる?」と尋ねたため、直ぐにショスタコーヴィチを呼び寄せたが、行き違いになったりしてなかなか会えず、ストラヴィンスキーは何かの計略と思って「ショスタコーヴィチに何が起きたのか?何故、ヤツは俺から逃げ回っているか?」と言い続けたそうです。その後ついに両者の会談がセットされましたが、とても堅苦しいものになりました。しばらく互いに口をつぐんだままで、勇気を振り絞って口を開いたショスタコーヴィチが言ったことはなんと、「プッチーニはお好きですか?」でした。ストラヴィンスキーは「あいつには我慢ならん」と応えると、ショスタコーヴィチは「私もそうです。我慢できません。」と合意したとか。その後は単なる顔合わせ以上のもではなく、音楽に関わる本質的な話しは交わされなかったそうです。しかし、ストラヴィンスキーに同行していた指揮者のロバート・クラフトの日記には両者の接触が2回あったことが書かれていて(1962年10月1日と10日)、プッチーニの話題には触れていません。2回目に会った際、ショスタコーヴィチは興奮した口調で、『詩篇交響曲』を初めて聴いた時に圧倒されたと言い、よければ自分がピアノ版に編曲したスコアを差し上げたいと申し出たとされています。また、ストラヴィンスキーは帰り際の言葉をさがしながら、自分はマーラーを高く評価しているとショスタコーヴィチに言ったそうです(『Shostakovich : A Life Remembered』by Elizabeth Wilson p.422-424)。


ユダヤ音楽の接点と萌芽
 「父の歌うジプシー・ロマンスは息子の心に深く染み入り、ショスタコーヴィチは終生ジプシー音楽に格別な愛着を持つことになった」(ローレル・E・ファーイ著『ショスタコーヴィチ ある生涯』 )。また、ヴォルコフの著作『証言』でもショスタコーヴィチは「わたしの父はジプシーのロマンスが好きで、よくそれを歌っていたものだが、わたしもその音楽が気に入っていた。」、「この魅惑的な音楽は、のちにわたしが映画の仕事をするようになったとき、おおいに役立った。」、「ジプシーのロマンスにたいする興味をわたしは否認しない。」と言っています。さらには、「わたしはユダヤの民族音楽を聞くたびに、いつでも感動を覚えるが、それはひじょうに多様性をおび、見た目には陽気でも、実際は悲観的なのである。それはほとんどつねに泣き笑いにほかならない。ユダヤの民族音楽のこの特性は、音楽がいかにあるべきかという私の観念に近い。音楽にはつねに二つの層がなければならない。ユダヤ人はひじょうに長いあいだ苦しんできたので、自分の絶望を隠すすべを身につけていた。ユダヤ人は自分の絶望を舞踏音楽のなかに表現している。」とも言っています。

 ロシアにおける反ユダヤ主義は共産革命によって初めて生まれてものではなく、すでに15世紀から存在していて、ロシア帝政、ソヴィエト共産政権を通じてユダヤ人迫害(ポグロム)が慢性的に発生していました。ロシアの文豪フョードル・ドストエフスキーも文豪レフ・トルストイも反ユダヤ主義的発言を繰り返していたとされています。

 ショスタコーヴィチはユダヤ人ではありませんが、ショスタコーヴィチの家庭では反ユダヤ主義を恥ずべき盲信とされていて、多くのユダヤ人の知り合いや友人に囲まれていました。ユダヤ人でショスタコーヴィチと極めて親しい友人としては、フセヴォロド・メイエルホリド(演出家、俳優)、イサーク・グリークマン(作家)、レフ・アルンシュタム(映画監督、脚本家)、モイセイ・ヴァインベルク(作曲家)、ダヴィッド・オイストラフ(ヴァイオリニスト)、マクシミリアン・シテインベルク(作曲家)などが挙げられます。

 音楽家になってからショスタコーヴィチがユダヤ音楽に関心を持つことになったきっかけを作った人物が2人いたとされています。まずはショスタコーヴィチの友人のイワン・ソレルチンスキーで、20歳台のショスタコーヴィチにマーラーの音楽を知らしめた人物としても知られています。そして、ショスタコーヴィチはマーラーを通じてユダヤ音楽の一端を得ることになったと考えられています。もうひとりはショスタコーヴィチの弟子のヴェニアミーン・フレーイシュマンであったとされています(『Dmitry Shostakovich: The Composer as Jew』by Timothy Jackson from『Shostakovich Reconsidered』by Allan B. Ho and Dmitry Feofanov p.606)。

  ソレルチンスキー   フレーイシュマン

     ショスタコーヴィチとソレルチンスキー、フレーイシュマン(前列左から5人目)


 さらにティモシー・ジャクソンによると、ショスタコーヴィチのユダヤ音楽の扱い方が1936年を境に変化したことを指摘しています。1936年までは、バレエ音楽『ボルト』(1931年)の中の「コゼルコフの踊りと彼の友人たち」のように直接的にユダヤのカルチャーから或いはマーラーを通して間接的にユダヤの要素を取り入れていました。ショスタコーヴィチはマーラーにおけるユダヤ人としての不安やアイロニー、ユーモアといったものをクレズマー音楽に同化させていたのでした。また、1933年の3月6日から7月20日にかけて作曲されたピアノ協奏曲第1番ハ短調作品35は、自作や他人の作品からの引用が全曲に散りばめられていることでも知られていますが、後にあるコンサート終了後、ショスタコーヴィチはピアニストにアシュケナージに「でも、ぼくはね、あの曲にユダヤ風のちょっとしたモチーフを挿入したんだよ。みごとなモチーフだろう?」と言ったとされていますが、そうした「いたずら」も一度限りに留まっていました(ソフィア・ヘントーワ著『驚くべきショスタコーヴィチ』)。

 ショスタコーヴィチの音楽で最初にユダヤ音楽が明確なかたちで引用されたのは交響曲第5番op.47(1937年)の第3楽章で、これはユダヤ人だったフレーイシュマンがショスタコーヴィチから作曲の授業を受け始めた1937年に一致する、とティモシー・ジャクソンは指摘しています(前掲書 p.608-609)。この頃からショスタコーヴィチは、ユダヤ人に対して単に同情や憐れみを抱いていたのではなく、また気遣ったり思いやったりしたのでもなく、自らのあり方、行き方に重ねて考えるようになっていったのでした。

 イスラエルの音楽学者ヨアキム・ブラウン(ラトヴィア系ユダヤ人 Joachim Braun :ヨアヒムと読むのかもしれません )は、ショスタコーヴィチにおけるユダヤ音楽の要素を詳しく分析していますが、最初の関わりをフレーイシュマンの歌劇『ロスチャイルドのヴァイオリン』の編曲(完成は1943年)としています。しかし、ティモシー・ジャクソンは、ショスタコーヴィチがフレーイシュマンとその歌劇に関わった時期をもう少し遡っておよそ1938年から1941年として、それが交響曲第7番の作曲時期と一致すると指摘しています。さらには、このユダヤ音楽への関心が『ダヴィデの詩篇』に触発されたものであり、ショスタコーヴィチの周囲にホロコーストに関する情報が少しづつ囁かれるようになった時期でもあるとしています(その事実が公表されたのは1944年)。

 ユダヤ音楽を本格的に採用した曲(断片的な引用だけでなく主題として扱った曲)としては、数学者であり音楽学者でもあった親友イワン・ソレルチンスキーの追憶に献呈されたピアノ・トリオ第2番ホ短調 op.67(1944年)が知られています。この曲の第4楽章では「ユダヤの主題」が鋭く尖ったリズムを持つ舞踏風の音楽の中に取り込まれ、取り憑かれたようにカタストロフィーへと突き進んでいきます。まさしく「死の舞踏」とも言えるこの音楽は、戦争や権力への怒り、ユダヤ人弾圧への抗議、ユダヤ人たる故人への思いが反映されているとも言われています。

 しかし、ソレルチンスキーがユダヤ人かどうか明確に説明されている資料はないようです。父親はロシア正教会の家系に生まれ裁判長や上院議員などを勤めているのでユダヤ人とは考えにくく、母親はシュラフタと呼ばれるポーランド貴族出身で、シュラフタにユダヤ人が含まれていたのでその可能性はゼロではないものの、ユダヤ人であったことを示す証拠はありません。しかし、生まれた場所がヴィテプスクという現在のベラルーシの都市(レニングラードから約530 Km真南)で、大半の住民がユダヤ人であり、1941年のナチス・ドイツ軍の侵攻の際にその多くが虐殺されたことで知られています。なお、画家のマルク・シャガールはこの近くの村リオスノの出身です。

 ショスタコーヴィチは、ソレルチンスキーがユダヤ人であるかどうかは置いて、ソレルチンスキーに思いを馳せる時にその出身地で起きたホロコーストのこと、ユダヤ人の悲劇を重ねて考えつつこのピアノ・トリオを作曲したと考えられるのです。ソフィア・ヘントーワはその著作『驚くべきショスタコーヴィチ』の中で、ソレルチンスキーがユダヤ人であることについては触れていませんが、「ヴィテプスクにはソレルチンスキーの両親が住んでおり、ソレルチンスキー自身もまた、若い頃そこに住んでいた。そしてこの町でショスタコーヴィチが耳にしたのは、ソレルチンスキーがその目にし、観察し、親しく交わった人びと、ユダヤ風の裾長上着をはおり、長い垂れ髪をした人びとの間で鳴りひびいていた音楽だった。ショスタコーヴィチの想像力は、それらもろもろのうちに、ある突拍子もない、心理学的にもきわめて重要な連想を探りあてていたのである。」と書いています。さらに、「ヴィテプスの画家で、M.シャガールの弟子でもあったソロモン・ゲルショーフが歌ってくれたあるモチーフ(「死の舞踏」)のなかに聞きとったのである。(中略)ゲルショーフが歌ったモチーフは彼の意識の置くにしまわれ、しかるべき時に姿を現わした。ショスタコーヴィチはそれを引用するに留まらず、反復し、変形し、いろんな場所で演じてきた『クレズメル(クレズマー)』という、ユダヤのオーケストラに特長的な弦楽の手法を利用したのである。(中略)フィナーレは、具体的な人物描写、献辞から明らかになる動機からさらに遠くへと聴き手を連れ去っていく。このような『死の舞踏』が、アウシュヴィッツやマイダネクにあった強制収容所の現実であることを当時の人々はみな知っていた。」と、この曲のルーツに踏み込んでいます。しかし、このゲルショーフの歌がどんなものであったかソフィア・ヘントーワは書いていません。

 この他にユダヤ音楽を取り入れた曲で有名なのが弦楽四重奏曲第8番ハ短調 op.110(1960年)です。この第2楽章において、ピアノ・トリオ第2番第4楽章の「ユダヤの主題」が引用されているのは夙に知られていて、それと彼のアナグラム「D-S(Es)-C-H」(DSCH音型)を組み合わせて激烈な音楽を作り上げているのです。これについてティモシー・ジャクソンは、「これが意味するところは明白で、この自叙伝的な作品において、彼は自分自身がユダヤ人であることを名乗り、彼自身が持つユダヤ的なものを音楽の中で語っているのがユダヤ人であることを証明しているのである。(中略)ショスタコーヴィチは自身がユダヤの魂の共同体に参画していると信じていたのである。」と述べています(『Dmitry Shostakovich: The Composer as Jew』by Timothy Jackson from『Shostakovich Reconsidered』by Allan B. Ho and Dmitry Feofanov p.599)。以下に YouTube におけるこの2曲の該当楽章の演奏をご紹介します。

ピアノ・トリオ第2番第4楽章
Greenwich Trio - Shostakovich Piano Trio no.2 (4th mov Allegretto)

弦楽四重奏曲第8番第2楽章
Schostakovich Quartet No. 8 - Jansen, McElravy, Rachlin, Maisky

 ユダヤ音楽との関わりはその後、歌曲集『ユダヤの民族詩より』(1948年)、ヴァイオリン協奏曲第1番(1948年)と続き、ついには交響曲第13番『バビ・ヤール』(1962年)へと繋がっていくのはご存じの通りです。あまり目立たない作品ですが1952年に作曲された『プーシキンの詩による4つのモノローグ』の「赤ん坊を亡くしたユダヤ人の家に夜中突然ノックの音がして見知らぬ巡礼者が入ってくる・・」と歌われるこの曲の第1曲『断章』はかなり直接的なかたちでショスタコーヴィチのユダヤ人への想いが表われているとも言えます(話がどんどん逸れてしまうのでこの辺にしておきます。)。しかしここで注目すべきなのは、ユダヤ音楽が明確なかたちで引用された交響曲第5番(1937年)と、本格的にユダヤ音楽を採用した曲ピアノ・トリオ第2番(1944年)との間に位置するのが、交響曲第7番であったということです。

 なお、このショスタコーヴィチにユダヤ音楽の影響を与えた2人の人物、イワン・ソレルチンスキーとヴェニアミーン・フレーイシュマンに、筆者はそこにもうひとり、3人目の人物としてモイセイ・ヴァインベルクを加えたいと思っています。ヴァインベルクの両親は、元々はロシアに住んでいたユダヤ人で、ロシア帝政下で迫害から逃れてポーランドの首都ワルシャワに移住し、そこのイディッシュ劇場(ユダヤ系民族音楽や芝居を上演する劇場)で父は指揮者及び作曲家として、母は女優として活躍していました。1939年、ワルシャワ音楽院を卒業したモイセイ・ヴァインベルクは、おりしもナチス・ドイツ軍がポーランドに侵攻してきたためベラルーシへと逃れます。ポーランドに残った家族は全員収容所に送られて命を落としています。1941年に独ソ戦が始まり、ベラルーシが占領されるとさらに東へと逃れてタシュケントにたどり着き、作曲家としての活動を本格化させます。それがショスタコーヴィチの目に留まり、1943年、モスクワに移ります。このとき以来、13歳年上のショスタコーヴィチと親交を結ぶことになります。その後、ヴァインベルクとその妻が反ユダヤ主義がらみで逮捕されたときは助命活動や家族のめんどうも見ています。

             ヴァインベルク
           
晩年のショスタコーヴィチとヴァインベルク

 ヴァインベルクは父親の劇場を手伝っていた時にクレズマー音楽を身につけたと考えられ、彼の作品にはクレズマーを色濃く感じさせるものが多いことで知られています。クレズマーとは東欧系ユダヤの民謡にルーツを持つ音楽のことで、物悲しい旋律に加えて婚礼などのお祭りで踊られるドンチャン騒ぎのリズムに特徴があります。ショスタコーヴィチのクレズマーへの興味は、ヴァインベルクとの出会いが発端となったとする説がありますが、ヴァインベルクがタシュケントに移った時がまさにショスタコーヴィチの交響曲第7番が作曲されている最中であったということ、ショスタコーヴィチがそのヴァインベルクの音楽のどこに関心を持ってモスクワに呼ぼうとしたのかとても興味深いところです。


ロスチャイルドのヴァイオリン
 ヴェニアミーン・フレーイシュマンは、レニングラード音楽院作曲科で1939年から1941年までショスタコーヴィチに師事しています。ヴォルコフの著作『ショスタコーヴィチの証言』において、ショスタコーヴィチがこの弟子を高く評価していたことから西側でも注目されるようになったソヴィエトのユダヤ人作曲家です。アントン・チェーホフの短編小説を原作とする1幕物のオペラ『ロスチャイルドのヴァイオリン』に着手しますが、独ソ戦が勃発するや全く軍事経験がないにもかかわらず志願して最前線に赴きます。レニングラードから南西に25キロメートルに位置するクラスノエ・セロが1941年9月12日ドイツ軍により占領されると、その2日後の14日に戦死します(享年28歳)。ロジェストヴェンスキーのこのオペラのライナーノート(メロディア・レコード)には「レニングラード近郊のルーガにあるクラスノエ・セロ」としていますが、ルーガはドイツ軍の進行ルート上にあるとはいえ、レニングラードから近郊とは言えない120キロメートルも離れているし、ルーガにはクラスノエ・セロという地名はないのでこれ間違いだと思われます。

 『ロスチャイルドのヴァイオリン』の譜面は未完のままレニングラード作曲同盟に残されていて、ショスタコーヴィチはその残されたスケッチ、手書き及び写譜屋によるピアノ・スコアを基にしてオーケストレーションを行ない、ヴォーカル・パートの一部と作曲されていなかった終曲の補筆を行ない、1944年2月5日に完成させます。(『Shostakovich Reconsidered』 by Allan B. Ho and Dmitry Feofanov p.130-131)しかしその後は長い間引き出しにしまわれ、初演は1960年にモスクワ・フィルハーモニーによって演奏会形式で行なわれ、1968年に舞台上演されました(『証言』の著者ヴォルコフはこの1968年に舞台上演を行った当事者でした。)。

 ショスタコーヴィチは、このロシアにおけるユダヤ人音楽家たちを描いた作品のオペラ化を弟子のフレーイシュマンを勧めたとヴォルコフの著作『ショスタコーヴィチの証言』で言っていることに注目すると、ショスタコーヴィチは交響曲第7番を作曲開始する前、或いは構想を練っていた時期にはこのチェーホフの小説のオペラ化に関心を持っていたと考えられます。1941年6月に独ソ戦が開始されてフレーイシュマンが戦地に赴きますから、フレーイシュマンはそれより以前の1939年には、『ロスチャイルドのヴァイオリン』に着手していたとされるからです(『Shostakovich Reconsidered』 by Allan B. Ho and Dmitry Feofanov p.130)。つまり、ショスタコーヴィチが交響曲第7番の第1楽章も出来上がっていない時期で、次の新作が『レーニン交響曲』になるというイメージを持っていた頃に、弟子のフレーイシュマンにこの作品のオペラ化を勧めていたということになります。このことはすなわち、交響曲第7番の構想の中に、このチェーホフの小説がなんらかの形で投影されていると考えるのはあながち間違ったことではないと思われるのです。

 ご参考までに、歌劇『ロスチャイルドのヴァイオリン』のあらすじをご紹介します。1894年に新聞に掲載されたチェーホフの短編『ロスチャイルドのヴァイオリン』の内容はほぼそのままオペラ化していますが、登場人物の名前は変更されています。

 主人公ヤーコフはなかなか仕事にありつけない棺桶職人で、たまの婚礼の日などでは楽団に呼ばれてヴァイオリンを弾いてちょっとした小遣いを得ていました。ユダヤ人を毛嫌いするヤーコフは、楽団のフルート吹きのユダヤ人ロスチャイルドを日頃からいじめていました。これといった理由もないのにロスチャイルドを軽蔑し、汚い言葉で罵ったりなぐりかかかったりしていたのでした。

 ある日、ヤーコフの妻が病気にかかりあっけなく亡くなってしまいます。ヤーコフは自分が作った棺桶に妻の亡骸を入れて埋葬します。その墓地からの帰り道、ヤーコフも具合が悪くなります。その時、50年近くも共に暮らしながら一度も妻のことを顧みたことがないと気付き、帰宅してヴァイオリンを見たとたん胸が締め付けられ後悔の気持ちに襲われます。ヤーコフがヴァイオリンを弾いていると、そこへロスチャイルドが訪ねてきて、婚礼があるから弾きに来て欲しいと言います。ヤーコフは病気なので行けないと断り、そのまま寝込んでしまいます。

 ヤーコフの病状はどんどん悪化していき、ヤーコフは死を覚悟します。臨終の時、司祭から何か罪を犯した覚えがないかとたずねられたヤーコフは、最後の力をふりしぼり、「ヴァイオリンはロスチャイルドにあげてください」といいます。それからロスチャイルドはフルートを吹くことをやめて、ヴァイオリンを弾くようになり、それを聴く者は皆涙を流し、あちこちから弾きに来て欲しいと言われるようになったのでした。

      フレーイシュマン  ロスチャイルドのヴァイオリン
        
    フレーイシュマンと『ロスチャイルドのヴァイオリン』

 主人公のロスチャイルドという名前ですぐ連想するのは、19世紀にその栄華の頂点を極めたドイツ、フランクフルト出身のユダヤ人大富豪、ロスチャイルド家のことです。ロスチャイルド家は、ユダヤ人迫害を推進するロシア帝国と対立し、日露戦争の際には日本への資金援助をしたことでも知られています。その後、ヨーロッパでの反ユダヤ主義の台頭及びナチスによる弾圧によって衰退していくのですが、この大富豪と同じ名前を使ったチェーホフの小説はこうした背景を踏まえて誕生したと考えられ、この小説をオペラ化したフレーイシュマン、その後押しをしたショスタコーヴィチも同様にユダヤ人に対する思いを音楽に込めたと見なすことができるのです。

 YouTubeには以下のサイトでこのオペラを見ることができます。この映像には「ショスタコーヴィチそっくりさん」が登場してその上演に立ち会うという筋書きになっていてとても興味深いのですが、いかんせん日本語対訳がついていないので何を言っているのかわかりません。

Le violon de Rothschild 1996



     シャガール  屋根の上のヴァイオリン弾き
        シャガール『ヴァイオリン弾き』と『屋根の上のヴァイオリン弾き』


 この絵は、ロシア(現在のベラルーシのリオスノ)出身のマルク・シャガールが1912年に描いた傑作『ヴァイオリン弾き』(アムステルダム市美術館所蔵)です。ユダヤ人社会の中で婚礼や葬儀をはじめとする宗教儀式などの様々な行事においてヴァイオリン演奏が欠かせなかった時代があったことを教えてくれる作品でもあります。チェーホフの小説もまさにこうしたユダヤ人社会における日々の生活から生まれたものと考えられます。また、ユダヤのヴァイオリン弾きという存在が単なる楽器弾きであるだけではなく、神と民衆との間を取り持つ役割を担い、その奏でる音楽が、人々の心を憎しみや妬み諍いといった俗的なところを離れてより高い境地へと導くことを示唆しているとも言えます。

 ロシアにおけるヴァイオリンとユダヤ人というとまず思い出されるのはミュージカル『屋根の上のヴァイオリン弾き』(1964)でしょう。帝政ロシア時代、ウクライナ地方のユダヤ人一家に降りかかる娘たちの結婚問題とユダヤ人排斥を描いた作品ですが、ここでもヴァイオリンがその調べをユダヤ教徒の生活を貫く縦糸のように観る者の心に響かせながらその役割を演じていることがわかります。また、ユダヤ人ではないですが、ロシアの民話に基づいたストラヴィンスキーの『兵士の物語』(1918年)もヴァイオリンを軸とした作品として思い起こされます。

 なお、ショスタコーヴィチはヴォルコフ著の『ショスタコーヴィチの証言』の中で「私は最後にアメリカに行ったとき、映画『屋根の上のヴァイオリン弾き』を見た。その映画で感動させられたのは、なによりもまず、祖国にたいする郷愁である。(中略)もしもユダヤ人が、自分の生まれたロシアで平穏に幸福に生きてゆければ、よいことだったことだろう。しかし、反ユダヤ主義の危険については、いつでも思い出されなければならないし、そのことをいつでも人々に思い出させなければならない。」という示唆に富んだことを言っています。つまり、作曲家であれば、反ユダヤ主義が危険であることを常に音楽に書き留めなければならないとショスタコーヴィチは考えていたということに他なりません。余談ですが、この『証言』における映画を見た場所に間違いがあります。多分彼の記憶違いによるものと思われますが、この映画を見たのは米国ではなく、その1973年の米国訪問の途中に立ち寄った英国であったとされています(『The Shostakovich Wars』 by Allan B. Ho and Dmitry Feofanov )。

 ショスタコーヴィチがこうしたユダヤ人社会におけるヴァイオリンの存在に気付いたり影響を受けたりしたかどうかは不明ですが、若くして戦場に散ったフレーイシュマンへの哀悼をこの交響曲第7番で捧げた考えることは間違いではないかもしれません。ということは、曲の中にその痕跡を探すことも可能かもしれません。

 



*参考文献の一覧は≪目次≫をご覧ください。
 


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