この発言はヴォルコフの著書だけに留まらず、他の資料でも確認が取れています。ソフィヤ・ヘーントワによると、当初ショスタコーヴィチは交響曲第7番を『ダヴィデの詩篇』をテキストとして、ソリストと合唱を伴う作品にしようと作曲を始めたとしています。この説はManashir
Yakubovの著作にも複数の著者によっても確認されていると書かれています(『Shostakovich Reconsidered』
by Allan
B. Ho and Dmitry Feofanov p.155-156)。また、エリザベス・ウィルソンもその著作『Shostakovich :
A Life
Remembered』(p.172)で「ショスタコーヴィチは、『ダヴィデの詩篇』のテキストに基づく合唱曲の作曲を開始した。しかし、7月19日までにはその構想を捨て、交響曲第7番となるべき作品を書き始めた。最初それは単一楽章で合唱パートがフィナーレを導く形のものになるはずであったが、作曲の過程で直ちに4楽章構成の曲になったと推測される。」と書いています。しかしどの資料も、『ダヴィデの詩篇』のどの部分にショスタコーヴィチが関心を持ち、どれをテキストとして採用しようとしていたかについての指摘や考察はなされていません。
また、ティモシー・ジャクソンは『Dmitry Shostakovich : The Composer as
Jew』(『Shostakovich Reconsidered』 by Allan B. Ho and Dmitry Feofanov
p.617)の中で、「ショスタコーヴィチはたぶん『詩篇第79番』を心に描いていた」としています。この第79番の内容を要約してご紹介します。
この『ダヴィデの詩篇』で語られていることを、当時のソヴィエト社会に重ねてみると、まさにスターリンによる粛清の嵐、密告の恐怖といったことが浮かび上がってきます。ユダヤ人に関しては、ソヴィエト政府による公式なユダヤ人への差別待遇が実施されたのが1932年とされていて(ここでは政治については深入りしないとして)、ユダヤ人の知識人に対しても圧力がそれ以降強まっていきます。音楽界においてもだいぶ後のエピソードですが、1945年のモスクワ音楽コンクールにおいて20名のユダヤ人ヴァイオリニストたちが第一選考の後に外された(イアン・マクドナルド著
『Shostakovich Reconsidered』 by Allan B. Ho and Dmitry Feofanov
p.693)ことはそれをよく物語っています。こうした状況下で、ショスタコーヴィチがユダヤのことやダヴィデのことを公に表現すれば即刻銃殺かシベリア行きになったことでしょう。ヴォルコフの『証言』ではショスタコーヴィチはこのように言っています。
ストラヴィンスキーの『詩篇交響曲』
さらに、この『詩篇』にショスタコーヴィチが当時大きな関心を抱いていたことを示す事例があります。ショスタコーヴィチはストラヴィンスキーが作曲した『詩篇交響曲』のスコアを所有していて、出版された同年の1930年に4手連弾用に編曲してレニングラード音楽院で学生たちに紹介しているという事実があります。また、作曲家のカレン・ハチャトゥリアン(『剣の舞』で有名なアラム・ハチャトゥリアンの甥っ子)は、1943年からモスクワ音楽院でショスタコーヴィチに作曲の教えを受けていますが、後のインタビューの中で「ショスタコーヴィチはストラヴィンスキーの『詩篇交響曲』のスコアを持っていて、そのすばらしい曲を4手のピアノ用に自ら編曲をしていたおかげで、我々はその曲を本当によく理解することができた。」で語っています(『Shostakovich
: A Life Remembered』 by Elizabeth Wilson p.213)。
1955年、教え子でショスタコーヴィチと特別な関係にあったガリーナ・ウストヴォルスカヤに、ショスタコーヴィチは『詩篇交響曲』のスコアをプレゼントしていて、そのスコアの表紙には「親愛なるガリーナ・ウストヴォルスカヤへ。ドミートリー・ショスタコーヴィチより。1955年3月18日レニングラードにて」と書かれていました(Forging
the ‘Lady’s Hammer’: A Profile of Influence in the Life and Music of
Galina Ustvolskaya by Rachel Claire
Jeremiah-Foulds)。彼女自身も「彼は私にマーラーの交響曲をプレゼントしてくれました。ストラヴィンスキーもよく弾いてくれました。彼がストラヴィンスキーの『詩篇交響曲』を編曲した音楽を聴いたことがあります。」と語っています。ショスタコーヴィチ研究家イアン・マクドナルドは、その曲がテキストにしている『詩篇』そのものをショスタコーヴィチに紹介したのはウストヴォルスカヤなのだろうか、という憶測までしています。
話は逸れますが、チェリストのムスチラフ・ロストロポーヴィチがショスタコーヴィチにオーケストレーションの授業で教えを受けていた頃(1943年)、ショスタコーヴィチとストラヴィンスキーやマーラーの作品をピアノの連弾で弾いたと語っています。また、ロシアを出国して50年近くたったストラヴィンスキーがソヴィエトに一時帰国した際(1962年)、ショスタコーヴィチに会っています。随行員のひとりだったカレン・ハチャトゥリアンの話によると、ストラヴィンスキーはモスクワに到着するなり「ショスタコーヴィチは何処にいる?」と尋ねたため、直ぐにショスタコーヴィチを呼び寄せたが、行き違いになったりしてなかなか会えず、ストラヴィンスキーは何かの計略と思って「ショスタコーヴィチに何が起きたのか?何故、ヤツは俺から逃げ回っているか?」と言い続けたそうです。その後ついに両者の会談がセットされましたが、とても堅苦しいものになりました。しばらく互いに口をつぐんだままで、勇気を振り絞って口を開いたショスタコーヴィチが言ったことはなんと、「プッチーニはお好きですか?」でした。ストラヴィンスキーは「あいつには我慢ならん」と応えると、ショスタコーヴィチは「私もそうです。我慢できません。」と合意したとか。その後は単なる顔合わせ以上のもではなく、音楽に関わる本質的な話しは交わされなかったそうです。しかし、ストラヴィンスキーに同行していた指揮者のロバート・クラフトの日記には両者の接触が2回あったことが書かれていて(1962年10月1日と10日)、プッチーニの話題には触れていません。2回目に会った際、ショスタコーヴィチは興奮した口調で、『詩篇交響曲』を初めて聴いた時に圧倒されたと言い、よければ自分がピアノ版に編曲したスコアを差し上げたいと申し出たとされています。また、ストラヴィンスキーは帰り際の言葉をさがしながら、自分はマーラーを高く評価しているとショスタコーヴィチに言ったそうです(『Shostakovich
: A Life Remembered』by Elizabeth Wilson p.422-424)。
音楽家になってからショスタコーヴィチがユダヤ音楽に関心を持つことになったきっかけを作った人物が2人いたとされています。まずはショスタコーヴィチの友人のイワン・ソレルチンスキーで、20歳台のショスタコーヴィチにマーラーの音楽を知らしめた人物としても知られています。そして、ショスタコーヴィチはマーラーを通じてユダヤ音楽の一端を得ることになったと考えられています。もうひとりはショスタコーヴィチの弟子のヴェニアミーン・フレーイシュマンであったとされています(『Dmitry
Shostakovich: The Composer as Jew』by Timothy Jackson from『Shostakovich
Reconsidered』by Allan B. Ho and Dmitry Feofanov p.606)。
イスラエルの音楽学者ヨアキム・ブラウン(ラトヴィア系ユダヤ人 Joachim Braun :ヨアヒムと読むのかもしれません
)は、ショスタコーヴィチにおけるユダヤ音楽の要素を詳しく分析していますが、最初の関わりをフレーイシュマンの歌劇『ロスチャイルドのヴァイオリン』の編曲(完成は1943年)としています。しかし、ティモシー・ジャクソンは、ショスタコーヴィチがフレーイシュマンとその歌劇に関わった時期をもう少し遡っておよそ1938年から1941年として、それが交響曲第7番の作曲時期と一致すると指摘しています。さらには、このユダヤ音楽への関心が『ダヴィデの詩篇』に触発されたものであり、ショスタコーヴィチの周囲にホロコーストに関する情報が少しづつ囁かれるようになった時期でもあるとしています(その事実が公表されたのは1944年)。
この他にユダヤ音楽を取り入れた曲で有名なのが弦楽四重奏曲第8番ハ短調
op.110(1960年)です。この第2楽章において、ピアノ・トリオ第2番第4楽章の「ユダヤの主題」が引用されているのは夙に知られていて、それと彼のアナグラム「D-S(Es)-C-H」(DSCH音型)を組み合わせて激烈な音楽を作り上げているのです。これについてティモシー・ジャクソンは、「これが意味するところは明白で、この自叙伝的な作品において、彼は自分自身がユダヤ人であることを名乗り、彼自身が持つユダヤ的なものを音楽の中で語っているのがユダヤ人であることを証明しているのである。(中略)ショスタコーヴィチは自身がユダヤの魂の共同体に参画していると信じていたのである。」と述べています(『Dmitry
Shostakovich: The Composer as Jew』by Timothy Jackson from『Shostakovich
Reconsidered』by Allan B. Ho and Dmitry Feofanov p.599)。以下に YouTube
におけるこの2曲の該当楽章の演奏をご紹介します。
『ロスチャイルドのヴァイオリン』の譜面は未完のままレニングラード作曲同盟に残されていて、ショスタコーヴィチはその残されたスケッチ、手書き及び写譜屋によるピアノ・スコアを基にしてオーケストレーションを行ない、ヴォーカル・パートの一部と作曲されていなかった終曲の補筆を行ない、1944年2月5日に完成させます。(『Shostakovich
Reconsidered』 by Allan B. Ho and Dmitry Feofanov p.130-131)しかしその後は長い間引き出しにしまわれ、初演は1960年にモスクワ・フィルハーモニーによって演奏会形式で行なわれ、1968年に舞台上演されました(『証言』の著者ヴォルコフはこの1968年に舞台上演を行った当事者でした。)。
ショスタコーヴィチは、このロシアにおけるユダヤ人音楽家たちを描いた作品のオペラ化を弟子のフレーイシュマンを勧めたとヴォルコフの著作『ショスタコーヴィチの証言』で言っていることに注目すると、ショスタコーヴィチは交響曲第7番を作曲開始する前、或いは構想を練っていた時期にはこのチェーホフの小説のオペラ化に関心を持っていたと考えられます。1941年6月に独ソ戦が開始されてフレーイシュマンが戦地に赴きますから、フレーイシュマンはそれより以前の1939年には、『ロスチャイルドのヴァイオリン』に着手していたとされるからです(『Shostakovich
Reconsidered』 by Allan B. Ho and Dmitry Feofanov p.130)。つまり、ショスタコーヴィチが交響曲第7番の第1楽章も出来上がっていない時期で、次の新作が『レーニン交響曲』になるというイメージを持っていた頃に、弟子のフレーイシュマンにこの作品のオペラ化を勧めていたということになります。このことはすなわち、交響曲第7番の構想の中に、このチェーホフの小説がなんらかの形で投影されていると考えるのはあながち間違ったことではないと思われるのです。
なお、ショスタコーヴィチはヴォルコフ著の『ショスタコーヴィチの証言』の中で「私は最後にアメリカに行ったとき、映画『屋根の上のヴァイオリン弾き』を見た。その映画で感動させられたのは、なによりもまず、祖国にたいする郷愁である。(中略)もしもユダヤ人が、自分の生まれたロシアで平穏に幸福に生きてゆければ、よいことだったことだろう。しかし、反ユダヤ主義の危険については、いつでも思い出されなければならないし、そのことをいつでも人々に思い出させなければならない。」という示唆に富んだことを言っています。つまり、作曲家であれば、反ユダヤ主義が危険であることを常に音楽に書き留めなければならないとショスタコーヴィチは考えていたということに他なりません。余談ですが、この『証言』における映画を見た場所に間違いがあります。多分彼の記憶違いによるものと思われますが、この映画を見たのは米国ではなく、その1973年の米国訪問の途中に立ち寄った英国であったとされています(『The
Shostakovich Wars』 by Allan B. Ho and Dmitry Feofanov
)。