ショスタコーヴィチ:交響曲第7番『レニングラード』

第5章 「侵略のテーマ」の謎

 
                 ショスタコーヴィチ:Sym#7

                  マキシム・ショスタコーヴィチが指揮した交響曲第7番のCD


  ショスタコーヴィチの交響曲第7番のほとんどすべての解説文には、第1楽章の提示部(第1主題と第2主題)の後に出現する長大な展開部が「侵略のテーマ」と名付けられ、変奏曲の形を取っていることが説明されていて、それはドイツ軍のソヴィエトの侵攻を描写しているとも書かれています。さらに、そのスネア・ドラムの叩くリズムに乗って楽器を変えながら同じ旋律を何度も繰り返しつつ次第に音量を増していくところがラヴェルの『ボレロ』と酷似していることと、その旋律の一部がレハールの喜歌劇『メリー・ウィドウ』でダニロが歌う「マキシムに行こう!」というアリアのパロディであることも既知の事実として書かれているのです。

 さらに、「侵略のテーマ」と名付けたのがショスタコーヴィチ自身であり、『ボレロ』の引用も本人が認めているかのように書かれていることもあります。購入したCDの解説がそうなっていれば、初めてこの曲を聴いた方ならずとも誰もが納得して信じてしまうことでしょう。しかし驚いたことには、どの記録を見てもショスタコーヴィチはこの主題が「侵略のテーマ」であるとか、『ボレロ』の引用だとか、決して明言はしてはいないのです。以下に、この曲について触れたショスタコーヴィチの発言を列挙してみましょう。


◇ 1941年12月27日、ショスタコーヴィチが家に友人たちを招いてパーティを開いた時の模様を、クイビシェフ時代の隣人のフローラ・リトヴィノヴァは次のように書き残しています。パーティの途中でショスタコーヴィチは先ほど交響曲第7番を完成させたと告げてその曲をピアノで弾き始め、それが終わると、「みんな口々にあのテーマ(侵略のテーマ)について『ファシズムのテーマ』とか『密告者のテーマ』とか言い合っていた。さらに戦争、レジスタンス、勝利についても語り合った。サモスード(後にこの曲を初演する指揮者)はこの交響曲はとてつもない成功を収めると予言すらもしていた。その後、ショスタコーヴィチと一緒にお茶を飲んだ時、彼は物思いに耽りながらこう言った。『ファシズム、そう、それもある。しかし、音楽は、真の音楽は本当のところ、決してひとつの主題に結びつくことはないのだ。ファシズム、それは単に国家社会主義ではなく、この音楽は恐怖や拘束や魂の屈従を語っているのだ。』その後、彼と気心が知れるようになって、私を信用し始めると、第7番は(第5番も同様だが)ファシズムだけでなく、ソヴィエトの体制、どんな形であれ専制政治と言われるもの、一般に言う全体主義について描いた、と率直に語ってくれた。」 (『Shostakovich Reconsidered by Allan B. Ho and Dmitry Feofanov』p.488 及び『ショスタコーヴィチ ある生涯』 ローレル・E・ファーイ p.173)


◇ ショスタコーヴィチは『ボレロ』の引用であることを指摘されることはわかっていたとアラム・ハチャトリアンに言っていたようです。また、ショスタコーヴィチの親友だったイサーク・グリークマンによるとショスタコーヴィチがピアノでこの曲を仲間に弾いて聴かせたときに「批評家たちはこれを聴いて『ボレロ』を思い出すだろうが、言わせておけ。私の耳には戦争はこんなふうに聞こえるのだ。」とも言ったとされています。これは1941年8月上旬に第1楽章の作曲途中で提示部分と変奏部をグリークマンにピアノで弾いて聞かせた時のことで、『ボレロ』については譜面に書かれた時点で既に本人は認識していたことになります。(『ショスタコーヴィチ ある生涯』 ローレル・E・ファーイ)


◇ ソロモン・ヴォルコフの『ショスタコーヴィチのスターリン』には、こう書かれています。「この曲の初演に向けた作曲者自身によるきわめて曖昧な(わかりきった理由から)説明では、次のように強調されている。『私は軍事行動(飛行機のうなり、戦車の轟音、大砲の一斉射撃)をリアルに再現するという任務を自分に課してはいなかった。いわゆる戦争を描く音楽を作曲したわけではなかった。厳しい事態の内容を伝えたかった。』」これと似たような発言が、この曲のクイビシェフでの初演に向けて用意した解説の中でもショスタコーヴィチによって述べられています。「展開部では、こうした人々の平和な生活に、突然戦争が侵入してきます。私は戦争の自然主義的描写、武器のガチャガチャという音や、砲弾の炸裂などの描写をしようとは思っていません。戦争のイメージを感情的に伝えようとしているのです。」 (『ショスタコーヴィチ ある生涯』 ローレル・E・ファーイ)


◇ ショスタコーヴィチは後にこう回想しています。「私は交響曲第7番『レニングラード』を、あっと言う間に書き上げました。それを書かずにはいられませんでした。辺りは戦争一色でした。国民と心を一にしなければなりませんでした。敵軍に包囲された故国のイメージを生み出し、それを音楽に刻み込みたいと思いました。」 (『ショスタコーヴィチ ある生涯』 ローレル・E・ファーイ及び『ショスタコーヴィチの証言』ソロモン・ヴォルコフ)

◇ 信憑性に問題があるとされていますが、ソロモン・ヴォルコフの『ショスタコーヴィチの証言』には、ショスタコーヴィチ自身の言葉として次のように紹介しています。

 「第7交響曲は、あるいはわたしのもっともよく知られた作品かもしれない。ところが、すべての音楽のなかで明らかになっているのに、これが何について書いているかを人々に正しく理解してもらえなかったりするのには、不愉快なだけである。・・・第7番と第8番の交響曲はわたしの「鎮魂曲」である。・・・この2つの作品にまつわるありとあらゆる騒ぎ・・・新聞に出る論文があまりに多すぎる、騒ぎが大きすぎる、ということがわかった。」

 「第7交響曲は戦争のはじまる前に構想されていたので、したがって、ヒトラーの攻撃にたいする反応として見るのはまったく不可能である。「侵略のテーマ」は実際の侵略とはまったく関係がない。この主題を作曲したとき、わたしは人間性に対する別の敵のことを考えていた。」

 「結局、第7番がレニングラード交響曲と呼ばれるのにわたしは反対しないが、それは包囲下のレニングラードではなく、スターリンが破壊し、ヒトラーがとどめの一撃を加えたレニングラードのことを主題にしていたのである。」

 「第7番と第8番の交響曲について、まったくばかげたことをわたしは耳にしている。・・・この二つの交響曲の初演の直後に、これらの作品について書かれたすべての意見が、そののち考える時間もあったはずなのに、なんの変更もなしに今日までくり返されている。それでもやはり、戦争はずっと以前に、ほぼ三十年前に終わっていたのだ。三十年前なら、この二つが戦争交響曲といわれても仕方がなかった。しかし、いやしくも交響曲と呼ばれる価値のあるものなら、命令によって書かれることはあってはならないのである。」


◇ ショスタコーヴィチ自身の言葉以外でも注目すべき点があります。この「侵略のテーマ」がドイツ軍を描写しているとなると、時間的な矛盾が生じるのです。つまり、交響曲第7番はドイツ軍の侵攻の前に作曲し始めているという記録があるからです。レニングラード音楽院でショスタコーヴィチに師事し、卒業後もショスタコーヴィチに個人指導を受けさらには恋愛関係にもあったとされるガリーナ・ウストヴォーリスカヤの回想にはこう書かれています。「1939年か1940年のある日、交響曲第7番がほぼ出来上がったとショスタコーヴィチは私に伝えに来て、この作品を『レーニン』か『レーニンスカヤ』と呼ぶか決めかねていると言った。彼はレーニンを尊敬していていつも自分の作品をレーニンに捧げたいと言っていた。」  (O. Gladkova "Galina Ustvolskaya: Music as Bewitchment", 1999, P. 31)

 実際に交響曲第7番が完成したのは1941年の暮れですからこの日付は彼女の記憶違いといえますが、ショスタコーヴィチの作曲の仕方が息子のマキシム・ショスタコーヴィチに言わせると「考えるのはゆっくりだが、書くのは早い」だったとされていることから、ショスタコーヴィチの頭の中で交響曲第7番が出来上がった時期とすると、彼女の言い分は正しい可能性もあります。なお、ウストヴォーリスカヤの回想はクリーヴランド管弦楽団が1942年10月15、17日にこの曲を演奏した公演の時に配布されたパンフレットにも掲載されています。


◇ ソロモン・ヴォルコフが紹介したガリーナ・ウストヴォーリスカヤの回想には「交響曲第7番は、1941年の春に発表されたレニングラード・フィルハーモニーの1941-1942年のシーズンのために計画されていました。つまり戦争が始まる前でした。」という記述もあります。つまり、「侵略のテーマ」がドイツ軍の侵攻の前に出来上がっていたのであり、尊敬するレーニンに捧げる曲であった可能性もあるということになります。


◇ 息子のマキシム・ショスタコーヴィチは1990年6月12日のレクチャーで父親が言ったことして次のように述べています。「交響曲第7番のインスピレーションは戦争に先立つ時代に起きた国家の悲劇から得たものである。ドイツにもソヴィエトにも邪悪な勢力はある。ソヴィエトには独自のファシズムがあり、ドイツには自分たちのヒトラーがあった。交響曲第7番は戦争の音楽なんかではない。」 (『Shostakovich Reconsidered by Allan B. Ho and Dmitry Feofanov』p.411) 


◇ ショスタコーヴィチ研究家のAleksandr Sherel は、「侵略のテーマ」を示す1939年6月26日付けのスケッチが残っていることを指摘しています。著名な演出家・俳優であったフセヴォロド・メイエルホリドが1938年1月に形式主義文化の害毒を流布したと批判されて逮捕されます。親友であったショスタコーヴィチは彼を救うべく証人に立った6日後にそのスケッチをメイエルホリドに捧げたとされているのです。なお、メイエルホリドは1940年2月1日に死刑判決を受け、翌日に銃殺されました。このことから、Sherel はいわゆる「侵攻のテーマ」はヒトラーではなく、人類の敵(たぶんスターリン)であったとしています。 (『Shostakovich Reconsidered by Allan B. Ho and Dmitry Feofanov』p.158) 


◇ ボロディン弦楽四重奏団のメンバーの1人でショスタコーヴィチとも知り合いだったロスティラフ・ドゥビンスキーによると、「交響曲第7番の第1楽章は戦争が始まる1年前、すなわちスターリンとヒトラーとが仲良がよかった頃には出来上がっていたということを、ソヴィエトの評論家たちは都合よく忘れている。」と書いています。さらに、「『レニングラード交響曲は、1941年のヒトラーによるロシア攻撃の前に計画し書き始めている。第1楽章の悪名高いマーチは『スターリンのテーマ』としてショスタコーヴィチが思いつたものだ。戦争が始まった後、ショスタコーヴィチは『ヒトラーのテーマ』と名付けた。しかし、この曲を出版するとき『悪魔のテーマ』と名前を変えた。まさに、ヒトラーとスターリンが共にこの仕様を満たしているのだ。』(Stormy Applause: Making Music in a Worker's State by Rostislav Dubinsky 1989)


◇ ショスタコーヴィチの親友だった音楽学者のレフ・レベディンスキーによると、「レニングラード交響曲は1941年にヒトラーがソヴィエトへの攻撃を開始する前に計画され、作曲が開始されていたのだ。あの悪名高い第1楽章の行進曲は、『スターリンのテーマ』として思いついたもので、戦争が始まると、ショスタコーヴィチはこれをヒトラーのテーマだと宣言した。作品が出版されるとそれを「悪のテーマ」と名付けた。」 (『Shostakovich Reconsidered』 by Allan B. Ho and Dmitry Feofanov p.159)と述べています。


◇ ソロモン・ヴォルコフは『ショスタコーヴィチとスターリン』の中で、「音楽学者のリュドミラ・ミヘーエワは最近、これらの変奏曲を作曲家はすでにドイツとの開戦前にレニングラード音楽院の生徒たちに演奏して聞かせていたと伝えた。」と述べ、続けて「注目に値するのは、ショスタコーヴィチ自身、交響曲第7番を説明しながら、『侵略』のエピソードないしテーマについて語っていないことである。『侵略』という名称が登場したのは、多くの解説者たちが書いた論文や批評文においてであった。」と書いています。


 アラン・B・ホー&ドミトリー・フェオファノフは、同じ内容を『The Shostakovich Wars』 において、音楽学者でショスタコーヴィチの友人だったレフ・レベディンスキーの義理の娘リュドミラ・ミヘーエワの発言として次のように引用しています。「正確に何時だったかはわからないが、1930年代の終わりか1940年に、つまり大祖国戦争が始まる前だが、彼は、レニングラード音楽院で作曲とオーケストレーションの授業で生徒たちに、このボレロと似たコンセプトのテーマ(いわゆる『侵略のテーマ』)を弾いて聴かせた。このテーマはシンプルでぎくしゃくしたダンスであり、スネア・ドラムの乾いた響きに乗って展開され、途方もないパワーにまで成長していく。始めに聞こえる時は無害で軽薄でさえあるが、恐ろしいほどの抑圧のシンボルにまで発展するのだ。作曲者はこれを引き出しにしまい、公に演奏することも、出版することもしなかった。」

 「行進曲」ではなく、「ぎくしゃくしたダンス」と表現しているのが興味深いところです。



 以上の文献を見る限り、これはドイツ軍の「侵略のテーマ」だとか『ボレロ』の引用だとかはショスタコーヴィチ自身、全く言ってはいないのです。それだけでなく、周囲からそう言われることを本人は嫌っていたということも分かります。プロパガンダとしてこの曲を利用しようとしていたソヴィエト政府にとっては格好の材料になったことでしょう。交響曲の第1楽章で敵国ドイツ軍の侵攻に晒されたソヴィエトが終楽章では勝利を得るという筋書きは完璧だったはずです。ドイツ軍を敵にした連合国側においては、ジャーナリストたちはそういった筋書きを書けば売り上げを伸ばせたことでしょう。そしてその記事を鵜呑みにした音楽学者たちが権威を振りかざしつつ訳知り顔に「侵略のテーマ」や『ボレロ』の引用について書けば誰だって信じてしまうでしょう。演奏家やリスナーたちを取り巻く環境において、こうした間違った情報がなんの疑問も呈されず、裏付ける文献もなしに声高に喧伝されていることは、実に嘆かわしいと言わざるを得ません。

 最後に、ロシアの音楽学者レオ・マゼルとショスタコーヴィチに師事したこともある作曲家のカレン・ハチャトゥリアン(『剣の舞』で有名なアラム・ハチャトゥリアンの甥っ子)の文章をご紹介します。

 自分の作品について作曲家が語ったことは、得てしてまゆつば物であることが多い。もっと言えば、時代が変わったり、環境が変わったりすれば、作曲者は自分の作品の異なる面を強調するかもしれない。言い換えれば、芸術家の作品が最終的に目指すものは、その作品の最初のアイデアと必ずしも完全に一致はしないということである(『Shostakovich Reconsidered』 by Allan B. Ho and Dmitry Feofanov)。  レオ・マゼル

 ショスタコーヴィチは自分の音楽について質問されことや、このテーマは何を表現しているとか、何か特別な意味を持っているかなど訊かれることを嫌っていた。「あなたはこの曲で何が言いたいのか?」と質問されると、彼は「私が言ったことを言っているのだ。」と応えたものだった(『Shostakovich : a life remembered』 by Elizabeth Wilson p.423-424)。  カレン・ハチャトゥリアン




もうひとつの謎
 いわゆる「侵略のテーマ」には、レハールのオペレッタ『メリー・ウィドウ』で外交官ダニロが歌う「マキシムへ行こう!」のテーマが引用されていると言われていますが、このことについてもショスタコーヴィチは実は何も語ってはいないのです。

 この引用説を決定づけたのは、何と言ってもベラ・バルトークの『管弦楽のための協奏曲』にまつわる伝説でしょう。この作品の解説文にはほぼ100パーセントそのことが書かれています。レハールのオペレッタ『メリー・ウィドウ』の中で主人公の恋人ダニロが、パリの踊り子達と遊ぶために「マキシムに行こう!」と歌う曲がヒトラーのお気に入りだということを知ったショスタコーヴィチが交響曲第7番第1楽章で「ボレロ」のように反復される「侵略の主題」に引用し、そのラジオ放送を聴いたバルトークが、『管弦楽のための協奏曲』の第4楽章にパロディとして挿入した、ということです。しかし、この話もバルトーク自身の言葉として記録はされていないようです(詳細は第2章『ラジオ放送とバルトーク』をご参照ください)。

 ヒトラーがこのレハールのオペレッタ『メリー・ウィドウ』を好んでいて、戦争中ドイツ国内や占領地域でよく上演されたことも事実です。1943年、ヒトラーが友人たちをミュンヘンに招いてこのオペレッタを観た時に、レハールは初演時のパンフレットにサインをしてヒトラーにプレゼントしています。また、レハールの妻がユダヤ人であったにも関わらず彼女は調査対象にならなかったとも伝えられています。ヒトラーはレハールのファンだったからこそ、そうした特別扱いをしたのであろうと想像はできます。

 こうした事実を背景として、交響曲第7番の第1楽章で登場するドイツ軍の「侵略のテーマ」にヒトラーが大好きな曲のテーマを加えるという少々出来すぎとも思える演出によって、ショスタコーヴィチはヒトラーを揶揄しているという説が広まったと考えられます。ヒトラーと戦っていたソヴィエト政府にとってもこの話はプロパガンダの格好の材料となったことでしょう。ただし、ショスタコーヴィチは交響曲第7番を作曲する前に、ヒトラーが『メリー・ウィドウ』を好んでいたことを知っていたのでしょうか。今のところそれを示す資料は見つかっていません。

 ソロモン・ヴォルコフの著作『ショスタコーヴィチの証言』の解説に作曲家であり音楽評論家の柴田南雄氏の文章が引用されていて、そこには、「ダニロの歌のリフレインが『彼女たちは親愛なる祖国を忘れさせてくれるのさ!』であるのにはまったく恐れ入る。もしこの歌詞をソヴィエト共産党や作曲家委員会の幹部が嗅ぎつけていたら、彼の運命はどうなったのだろうか。」と書かれています。ショスタコーヴィチは間違いなく、銃殺かシベリア送りになっていたことでしょう。しかし、そうならなかったのはよほどその幹部たちはボンクラだったのでしょうか。ショスタコーヴィチは、生き延びるためには沈黙を貫く以外に道はなかったとも言えます。

 また、別の視点からこの引用について考えてみましょう。そもそもこれが「揶揄」になるということは、ショスタコーヴィチがこのオペレッタを嫌っていたか或いは元々興味がなかった、または、オペレッタそのものを卑下していたという暗黙の了解がなければ、成り立たない説ではないでしょうか。一般的にヒトラーが好きだった曲はワーグナーの作品であり、ナチスの宣伝トーキー映画にはワーグナーの曲が多く使用されています。特に『ニュルンベルクのマイスタージンガー』は大ファンだったはずですから、何故ショスタコーヴィチはこの曲を引用しなかったのでしょうか。ショスタコーヴィチにとってくだらない音楽を自分の交響曲に取り入れることは考えにくいですから、ワーグナーだったらその心配もないでしょう。

 では、ショスタコーヴィチはオペレッタが嫌いだったのでしょうか?ショスタコーヴィチのオペレッタとの関わりを以下に紹介します。(ローレル・E・ファーイ著『ショスタコーヴィチ ある生涯』 )

1939年7月、レニングラード音楽喜劇劇場の上演演目になる予定の『十二の椅子』の作曲を発表。
(時期不明)、オッフェンバックの『美しきエレーヌ』のオーケストレーション(破棄)
1941年2月、J.シュトラウスの『ジプシー男爵』の挿入曲として『観光列車』のオーケストレーション
1941年5月、J.シュトラウスの『ウィーン気質』のオーケストレーション(ナチスの侵攻で頓挫)
1943年、オッフェンバックの『青髭』のオーケストレーションする企画(白紙)


 これだけ見ても、ショスタコーヴィチは交響曲第7番を作曲する前後に多くのオペレッタに関わっていたことがわかります。収入を得るためのやむを得ない仕事という見方もありますが、1937年にレニングラード音楽院の教員に任じられている事実からしてもこれは多すぎるのではないかと思われます。

 だいぶ後になってことですが、1957年3月、ショスタコーヴィチは彼にとっては初めてのオペレッタ『モスクワよ、チェリョームシキよ』の作曲中に、このジャンルに対する愛着を公言していて、「オッフェンバック、ヨハン・シュトラウス、そして、レハールの作品を敬慕していたが、それは彼が長らく持ち続けていた偽りのない気持ちだった。」とローレル・E・ファーイは書いています。ただし、向いていないと判断したのか、ショスタコーヴィチはそれを二流作品のひとつとみなし続け、その後二度とオペレッタを手がけることはなかったようです。

 結論からすると、ショスタコーヴィチはオペレッタが好きだったということです。そうなると、このダニロの歌の引用が「ヒトラーの揶揄」とする説にはやや説得力がないように思われます。ショスタコーヴィチが好きなテーマを引用したのにすぎず、それがヒトラーの好きだった曲と偶然同じだったとも言えるからです。

 さらに、この問題をややこしくしているのが、交響曲第7番の作曲当時、3歳だったショスタコーヴィチの息子の名前が「マキシム」であったということです。息子の名前と引用したとされるダニロの歌の名称が「マキシム」で一致することは何を意味するのでしょうか。ほのぼのとした家族愛に動かされた若きショスタコーヴィチの姿が目に浮かびますが、戦争の話しから一転するこの落差の大きさに音楽学者たちは一斉に口をつぐんでいるようです。

 ところで、当時のソヴィエト国内でオペレッタは上演されていたのでしょうか。ソロモン・ヴォルコフは『ショスタコーヴィチとスターリン』の中でこう書いています。「ロシアで大人気だったレハール作のオペレッタ『メリー・ウィドウ』からこれを借用した。この俗悪で、わざとらしい野卑なモチーフについて、同じく洞察力に優れたルリエーは次のように特徴づけていた。『こういったモチーフなら、通りがかりのどんなロシア人も口笛で吹けるし、そこには何かゾーシチェンコの登場人物めいたものがある』。」

 パリの社交界に出入りして高級店を渡り歩くダニロの歌が「俗悪で野卑」なのかどうかの話は置いておくとして、「どんなロシア人も口笛で吹ける」曲であった、つまり誰もが知っているメロディーであったのは間違いないようです。包囲下のレニングラードでは週末になるとカールマン、ヨハン・シュトラウス、フリムルなどのオペレッタが劇場で演奏されていたとう事実もあります。但し、レハールの『メリー・ウィドウ』は上演された記録はないようです。(ひのまどか著『戦火のシンフォニー レニングラード封鎖345日目の真実』)

 最後に残る問題は、ショスタコーヴィチの交響曲第7番の第1楽章の展開部で現われるこのテーマが本当に『メリー・ウィドウ』から借用したものなのかどうかです。確かに多くの音楽学者たちが言及していますが、ショスタコーヴィチ本人は何も言っていません。似ているのは事実ですが、ただの下降音階ですから、似るも似ないもどの作曲家も下降音階は使います。ショスタコーヴィチのは音階そのもので最後の6番目の音を次で繰り返しますが、レハールのは下降音階の5番目の音はひとつ飛ばして下がり、6番目の音は1音上がっているのです。ショスタコーヴィチはそのパターンを2回繰り返した後は音階のちょっとしたバリエーションだけに留まりますが、レハールはそこからメロディーを大きく展開させていき、踊り子たちの名前を連呼するクライマックスにまで持っていきます。どっちが洗練されているかといえば後者に軍配は上がるでしょう。引用されたレハールはこれを知ったら怒るのではないでしょうか。レハールは政治には関わりませんでしたが、ヒトラーのお気に入りだったこともあり、晩年は大人しくしていて1948年に亡くなっています。

ショスタコーヴィチSym7
            ショスタコーヴィチ:交響曲第7番〜第1楽章


        レハール_マキシム
            レハール:『メリー・ウィドウ』〜「マキシムへ行こう」

  
 第3章で触れたバルトークの音符も見てみましょう。3連符を上手に織り交ぜ、それに相応しい楽器をきちんと選択しているところも注目に値します。『メリー・ウィドウ』でダニロがけだるく歌うシーンとはまるで違うテイストであることにも気が付きます。  

      バルトーク_管弦楽のための協奏曲スコア
               
バルトーク:管弦楽のための協奏曲〜第4楽章 
 

 バルトークはこの後、この音列をチューバに繰り返させ、さらにそれをひっくり返した音型をヴァイオリンにずらしてカノン風に弾かせています。バルトークが他人の旋律を借用したという下世話なことより、こうした洒落た処理を施していることを指摘し、両極にある楽器を使用するという彼の発想力とウィットを楽しむことが大事なのではないでしょうか。
 
 オケコン2
                
バルトーク:管弦楽のための協奏曲〜第4楽章

 



*参考文献の一覧は≪目次≫をご覧ください。
 


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