プッチーニ:『蝶々夫人』

第9章 『蝶々さん』歌姫列伝-10
ドロシー・カーステン

 
          Kirsten      Kirsten

         ドロシー・カーステン(右:『ライフ』誌 1946年12月30日号)


ドロシー・カーステン( Dorothy Kirsten:1910年 - 1992年 )
 米国ニュージャージー州出身のドロシー・カーステンは、メトロポリタン歌劇場の歴史上初めて30年連続で同劇場の舞台に立った主役級歌手と知られていて、雑誌『ライフ』誌の表紙を飾った最初のオペラスターでもありました。シカゴ・オペラ・カンパニー(マノン、1940年)、サン・カルロ・オペラ・カンパニー(1942年)、ニューヨーク・シティ・オペラ( 1943年)、フィラデルフィア・ラ・スカラ・オペラ・カンパニー(1943年)、サンフランシスコ・オペラ(1945年)などでそのキャリアを積んだのち、1945年12月1日にメトロポリタン歌劇場で『ラ・ボエーム』のミミ役でデビューを果たします。その後メトロポリタン歌劇場には通算285回舞台に上がったカーステンは『蝶々夫人』を69回、『ボエーム』40回、『トスカ』42回、『マノン・レスコー』26回、『西部の娘』18回、『椿姫』27回、『ファウスト』23回歌うなどの活躍をしました。また、サンフランシスコ歌劇場では1948年から1969年の間に12のオペラに出演し、そのうち『蝶々夫人』は20回歌っています。

  カーステンがメトロポリタン歌劇場にデビューした頃はリチア・アルバネーゼが『蝶々夫人』をほぼひとりで歌っていたのですが、デビューの翌年の1946年12月28日にようやく「蝶々さん」の役がカーステンに回ってきました。その時の『ヘラルド・トリビューン』紙に掲載されたジェローム・D・ボームによる批評は以下の通りです。

 「メトロポリタン・オペラ・ハウスで土曜の夜に再演されたプッチーニの『蝶々夫人』において、体調不良のリチア・アルバネーゼの代役としてドロシー・カーステンがタイトル・ロールを歌い、同役での当地初登場を果たしました。(中略)カーステンは、蝶々さんという難度の高い役柄の音楽を、終始澄み切った音色で歌い上げた。高音域を多用するこの役の最も過酷なパッセージにおいても、彼女のソプラノは透明感のある輝きを失わないませんでした。過去に蝶々さんを演じた他の歌手たちと比べると、感情の激しさという点では及ばないかもしれませんが、これほど一貫して魅力的な響きを聴かせてくれる歌手は稀でした。15歳の日本人娘という役柄を演じるには少々背が高すぎ、完全な説得力を持つとは言い難い面もあったものの、本物志向の美しい衣装が視覚的な魅力を高めており、演技面でも演劇的な観点からよく練られたものでした(The New York Herald Tribune)。」

 この時から19年間、カーステンとアルバネーゼの2人が中心となってこの歌劇場で『蝶々夫人』を歌い続けることになります。カーステンが歌う『蝶々夫人』の全曲の録音は YouTube で聴くことができます。
Puccini / Kirsten / Barioni / Mitropoulos, 1956: Madam Butterfly - Complete - Met Opera Club MO 722

 この録音は、LPレコードのかたちで The Metropolitan Opera Club から販売されていたものです。これは1956年(日付無し)のライヴ録音とされていることが多いのですが、メトロポリタン歌劇場アーカイヴによると『蝶々夫人』のこの年の公演は3回だけで、この演奏と同じ配役の上演はありません(指揮者はミトロプーロスで同じです。)。また拍手もなく、客席や舞台上などからのノイズは一切ありませんので、この演奏はセッション録音と思われます。同アーカイヴによると、同じ年の12月15日の公演は放送録音していると記録されていまして、これは現在CD(非正規盤)で聴くことができます。しかし、蝶々さんを歌っているのはカーステンではなく、リチア・アルバネーゼでした。1956年はカーステンとアルバネーゼが『蝶々夫人』を競い合っていた時期にあたり、放送録音とセッション録音とを仲良く(?)分け合っていたことになります。カーステンはメトロポリタン歌劇場で『蝶々夫人』を69回歌っていますが、その回数においてジェラルディン・ファーラー(139回)、リチア・アルバネーゼ(72回)に次ぐ3番目となっています。


 Kirsten Albanese Kirsten
       ドロシー・カーステン(1956)     リチア・アルバネーゼ(1956)        ドロシー・カーステン(1960) 


 1960年4月16日にカーステンが歌った『蝶々夫人』の公演の様子が『ミュージカル・アメリカ』誌に掲載されているのですが、その日の公演は放送録音されていて、現在は非正規盤のCDで聴くことができます。但し、音質は先の1956年スタジオ録音ほど良くはありません。

 「今シーズンの最後のマチネ公演は、ドロシー・カーステンが蝶々さん役として同カンパニーに復帰したことで際立ったものとなりました。彼女の演技は、声の面でも芝居の面でもスケールの小さなものではありましたが、常に説得力のある効果を上げていました。カーステンは、蝶々さんが幼い花嫁であったことを決して忘れない歌手です。彼女は、その素朴さ、舞台での存在感、そして瑞々しく軽やかな歌声によって、容易に観客の共感を勝ち取っていました。第1幕の二重唱や『ある晴れた日に』といった場面で、彼女の歌声が美しく響き渡ったことは驚くにあたりません。また、死の場面における声楽的な要求にも、彼女が確実に応えていたことは特筆すべき喜びでした。登場時の最後の音(変ニ音)の処理は感心できるものではありませんでしたが、それは些細な欠点に過ぎないでしょう(Musical America)。」
 
 
 カーステンのメトロポリタン歌劇場での最後の公演は1979年2月10日、『トスカ』 のタイトルロールでした。『ニューヨーク・タイムズ』紙には次のような記事が書かれています。

 「彼女は1945年12月1日に『ラ・ボエーム』のミミ役でメトロポリタン歌劇場に初登場しましたが、それ以前の1940年にはシカゴ・オペラでデビューしており、キャリアは35年に及びます。彼女はメトロポリタン歌劇場で30年間のキャリアを全うした初の主役級ソプラノ歌手であり、率直に言って、オペラ歌手としてのその息の長さは驚異的とも言える現象です。彼女は今後はメトの舞台には立たないものの、他の場所でオペラやその他の歌を歌い続ける意向を明らかにしています。”歌えるうちは歌い続けます”と、彼女は自身の記念と引退を祝う幕間の式典で語っていました(The New York Times )。」

 1982年、カーステンの夫である神経外科医ジョン・ダグラス・フレンチがアルツハイマー病と診断されたことを受けて、彼女はオペラ歌手としてのキャリアを終わらせ、残りの人生を夫の変性脳疾患の治療法を見つけるための活動に捧げました。翌年、夫の名にちなんだジョン・ダグラス・フレンチ・アルツハイマー病財団を設立し、米国内約580万人と言われるアルツハイマー病患者とその研究を支援するために生涯350万ドル以上を集めたとされています。



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