プッチーニ:『蝶々夫人』

第9章 『蝶々さん』歌姫列伝-9
リチア・アルバネーゼ

 
              Albanese

リチア・アルバネーゼ


リチア・アルバネーゼ( Licia Albanese :1909年 - 2014年 )
 イタリア生まれのソプラノ歌手のリチア・アルバネーゼは、1934年に代役で『蝶々夫人』を歌ってミラノのリリコ劇場で非公式ながらデビューを果たしています。以来40年以上にわたり、彼女はこの役を300回以上歌ったとされています。

 1936年3月、ローマ歌劇場で『蝶々夫人』を歌ってデビューし、ロゼッタ・パンパニーニと共に蝶々さんを4回ずつ出演し、1939年にも4公演歌いました。ローマでは5年間で『ラ・ボエーム』、『カルメン』など11のオペラに出演しています。さらに、1938年11月15日にアルバネーゼはボローニャで「蝶々さん」を演じて非常に高い評価を得ています。このボローニャでは1905年にトスカニーニの指揮、ソロミヤ・クルシェルニツカの蝶々さんによって初めて上演されましたが、今ひとつ成功を勝ち得ることはできなかっただけに、アルバネーゼの実力の程を知ることができます。また、1937年にはコヴェント・ガーデン王立歌劇場で『トゥーランドット』(リュー役)およびヴェルディの『ファルスタッフ』(ナンネッタ役)で出演し、1940年2月9日、「蝶々さん」役でメトロポリタン歌劇場デビューを飾ることになります。その日の『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン』紙にはその時の様子が次のように書かれています。

 「プッチーニの『蝶々夫人』が、およそ3年ぶりにメトロポリタン・オペラ・ハウスの舞台に帰ってきました。悲劇のヒロイン、蝶々さんを魅力的に演じたリチア・アルバネーゼは、自身にとって初となるアメリカの聴衆から異例とも言える熱烈な拍手喝采を浴びました。

 イタリア南東部バーリ出身とされるこの新しいソプラノ歌手は、さほど大きな前評判を伴わずに渡米してきました。しかし、公式な事前情報によれば、彼女は国内の声楽コンクールで300人以上のライバルを抑えて優勝したことでキャリアをスタートさせ、イタリア、フランス、イギリスなどの主要な歌劇場で歌ってきた経歴の持ち主です。パルマでのデビュー時にも『蝶々夫人』のタイトルロールを演じており、今回の舞台で見せた役作りからは、彼女がこの役に深く献身し、音楽的・演劇的の両面から徹底的に研究を重ねてきたアーティストであることが強く印象づけられました。

 この劇場での初登場において、彼女の声は並外れて魅力的な質を備えていることが証明され、終始一貫して素晴らしい水準が保たれていました。デビュー時の緊張が声の安定を損ないがちな「蝶々さん」の初登場の場面(独唱を伴う箇所)でも、その声は驚くほど安定しており、確かな発声技術の裏付けが感じられました。また、彼女の歌唱からは豊かな感情の機微が伝わってきました。声量は特に大きいとは言えませんでした。低音域では、親密な表現が求められる芸術的な歌唱でありながら、オーケストラの響きに埋もれてしまう場面もあり、音色がややこもって聞こえる瞬間もありました。しかし、この劇場での経験を重ねるにつれ、アルバネーゼ夫人はこの課題を克服できるものと思われます。高音はよく通り、歌い出しにわずかな硬さがあったものの、その明瞭さと芯のある響きは称賛に値するものでした。また、表現上の意図を達成するために、強弱のニュアンスも巧みに使い分けられていました。

 彼女の役作りは視覚的にも説得力があり、ポーズ、身振り、表情、そして舞台上の細かな所作に至るまで、独自の工夫と驚くほど豊かなディテールが盛り込まれていました。それらの多くは、メトロポリタン歌劇場よりも小規模な劇場でこそ最も効果を発揮するような細部もあったかもしれませんが、全体としては役柄を鮮烈に描き出すことに貢献していました。『ある晴れた日に(Un bel di vedremo)』は、単なる聴かせどころのアリアとしてではなく、一連の劇的展開の一部として歌われました。その結果、音楽的な旋律の滑らかさが多少犠牲になった面はあったものの、劇的な効果は高まりました。とはいえ、細部の表現にこだわるあまり全体的な表現力が損なわれるようなことはなく、この役に内在する幅広い感情や蝶々夫人の悲劇的な運命が、説得力と情感を込めて見事に表現されていました(The New York Herald Tribune)。」

 一方、『ニューヨーク・タイムズ』紙は演技面では絶賛はしているものの、歌唱表現についてはやや手厳しい書き方をしています。

 「その歌声が”偉大な”ものだと主張するまでには至らないかもしれませんが、美しさと官能的な音色を備えており、解釈の才を活かして巧みに駆使されていました。しかし、ソプラノが歌う愛の場面は期待に届かなかったのは事実で、そこにはより伸びやかな旋律の運びや、さらには豊潤な響き、そして感情の強烈さが求められているからです。この時の歌唱は説得力に欠け、どちらかと言えば装飾的なものにとどまっていたのです。もっと繊細さを抑え、圧倒的な推進力と声量を持つ歌手が歌っていれば、より大きな効果が上がったかもしれません。というのも、この場面は決して繊細なニュアンスを要するものではなく、その効果の多くは、メロディが持つ強烈な活力や、ユニゾンや豊かな音色を駆使したプッチーニの壮麗なオーケストレーションに負っているからです(The New York Times)。」

 アルバネーゼがデビューする前の約20年間は、ジェラルディン・ファーラーは既に引退していて、フローレス・イーストン、エリザベート・レートベルク、マリア・ミューラーらがメトロポリタン歌劇場で「蝶々さん」を歌っていました(各25、12、19回『蝶々夫人』に出演)。フローレス・イーストンは幅広いレパートリーを誇っていましたが特にワーグナー、R.シュトラウスを数多く歌い、エリザベート・レートベルクは『アイーダ』やワーグナーを得意とし、マリア・ミュラーはリリック・ソプラノとドラマティック・ソプラノ両方を歌い分けた歌手として知られていましたが、基本はワーグナー歌いとして名を馳せていました。つまり、当時のニューヨーカー達は馬力のある「蝶々さん」に慣れ親しんでいたと考えられ、そんな時期にヨーロッパ仕込みの繊細な「蝶々さん」像を打ち出したアルバネーゼには物足らないものを感じたのではないでしょうか。

 しかし、アルバネーゼはその年と次の年には6回ずつ『蝶々夫人』を歌って歌唱力を磨いていきます。そればかりかデビュー1年目に『ラ・ボエーム』のミミ、『カルメン』のミカエラ、『フィガロの結婚』のスザンナ役を歌い上げています。さらに翌々年にはのちに彼女の当たり役となる『椿姫』を歌って絶賛されるなど、着実にニューヨークの聴衆の心を掴んでいったのでした。デビュー翌年の1941年12月8日に日米開戦となったことから『蝶々夫人』は上演禁止となりますが、その10日前の11月29日の『蝶々夫人』公演は「満員御礼」という盛況ぶりだったと『バラエティ』誌は伝え、彼女の活躍を次のように伝えています。

 「蝶々さんを演じたリチア・アルバネーゼは、歌唱・容姿ともに最高の出来栄えでした。昨年歌った『あと一歩(Ancora un passo)』での高音の変ニ音(Dフラット)はあえて省略したものの、その後に続くアリア『昨日、私は行きました(Ieri son salita)』、『ある晴れた日に(Un bel di vedremo)』、『小さな神様(piccolo iddio)』では、音域の処理も完璧で、美しい音色を響かせました。彼女の演技は胸を打つものであり、台本の世界観を余すところなく表現したのでした(Variety)。」


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 戦争が終結するとそれを待ちかねたように『蝶々夫人』の上演が再開されました(1946年1月19日)。それを『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン』紙は「
A Happy Return」というタイトルで次のように報じています。

 「昨日の午後、プッチーニの『蝶々夫人』がメトロポリタン歌劇場に帰ってきました。戦争中この作品は上演が見送られていました。その理由は、日本人が概ね適切な振る舞いを見せる一方で、米海軍士官が(領事の承認を得てとはいえ)不適切な振る舞いをするという内容だったからのようです。連合国による占領下、イタリアではこの作品が大変な人気を博していたといいます。イタリアの家庭では、米軍兵士に本気で恋をしてしまうとどんな悲劇的な結末が待っているかを、娘たちに教える好例としてこの物語が好まれていたのです。ここアメリカでもおそらく人気を博すことでしょう。ただし、その理由は道徳的な教訓というよりは、この作品が美しく感動的なオペラであるという点にあります。(中略) リチア・アルバネーゼは、その美しい歌声でタイトルロールを歌い上げ、見事な演技を見せています。低音域では声の響きがやや弱いものの、高音域は実に見事に伸びやかに響きます。(中略) 特にアルバネーゼが歌うこの作品がレパートリーに復活したことは大きな喜びです(The New York Herald Tribune)。」。

 この日の公演は全米に放送され、その録音はYouTubeで聴くことができます。
Puccini: Madama Butterfly (Cimara; Albanese, Melton, Brownlee) 19 January 1946

  以前、このディスクはメトロポリタン歌劇場基金に100ドル寄付すれば誰でも入手できたそうで、財政難に苦しむ歌劇場の一助になったとのことです。この演奏について、『ニューヨーク・タイムズ』紙は次のように述べています。

 「アルバネーゼの愛好家たちは、真珠湾攻撃以来初となるメトロポリタン歌劇場での『蝶々夫人』上演となったこの1946年の放送録音を、常に彼女の最高傑作とみなしてきました。彼女の声は、生まれつき極上の美しさを備えたタイプではなかったかもしれませんが、その独特で個性的な音色は、誠実で心からの感情を込めたドラマティックな表現を行う上で、常に大きな武器となっていました。ある意味で、彼女は『蝶々夫人』に理想的なソプラノの持ち主でした。スコアの親密で静かな場面では魅力的なほどに儚げな響きを聞かせつつ、プッチーニの最も情熱的なフォルティッシモの上にも軽々と声を響かせることができたからです。彼女が残した数少ない商業録音のどれをとっても、このライブ・パフォーマンスほど彼女の魅力を伝えているものはありません。そこでは、スリリングなほどの熱量と、豊かで即興性に富んだ役作りが展開されています。共演者たちは必ずしも”黄金時代”の名歌手と呼べる顔ぶれではなく、ピエトロ・チマーラの指揮もやや堅苦しいきらいがありますが、それでも現場の空気は、まさに今、本物の舞台が創り上げられていくという興奮に満ち溢れています(1975年7月6日付 The New York Times )。」


 アルバネーゼは、メトロポリタン歌劇場では通算で428回舞台に立ち、『蝶々夫人』は72回歌いました。この回数は、ジェラルディン・ファーラーの139回に次ぐ2番目となっています。アルバネーゼは、メトロポリタン歌劇場では他に『ラ・ボエーム』64回、『椿姫』89回、『カルメン』(ミカエラ)42回、『ファウスト』21回、『道化師』18回歌っています。また、サンフランシスコ歌劇場でも活躍をしていて、1941年から1961年まで20シーズンにわたり120回の公演で22の役を演じ、そのうち『蝶々夫人』を22回歌いました。

 録音は、トスカニーニの指揮で『ラ・ボエーム』(1946年)、『椿姫』(1946年)、フリッツ・ライナーの指揮で『カルメン』(ミカエラ役:1951年)、イオネル・ペルレア指揮で『マノン・レスコー』(1954年)などがあります。筆者は中学生頃、父親が持っていた『椿姫』の赤いジャケットの抜粋盤をよく聴いたものです。しかし何故、アルバネーゼが歌う『蝶々夫人』の正規の録音がないのでしょうか。前掲の『ニューヨーク・タイムズ』紙もこう書いています。

 「最も有名な役柄のいくつかを公式にスタジオ録音する機会に恵まれなかったアーティストたち・・・アルバネーゼの『蝶々夫人』はまさにその好例です。このソプラノ歌手は1940年から1963年の間にメトロポリタン歌劇場でこの役を48回歌い、プッチーニの芸者役は常に彼女の代名詞となってきました。彼女がRCAと契約していたにもかかわらず、なぜこのオペラを録音しなかったのかは、誰も答えを知らない録音史の謎のひとつであります。 実際、RCAは1950年代にアルバネーゼの『蝶々夫人』を発表し、録音セッションも開始しましたが、何らかの理由でプロジェクトは中止されたのでした(1975年7月6日付 The New York Times )。」
*48回ではなく、正しくは1965年までに72回です。



*参考文献の一覧は≪目次≫をご覧ください。 


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