プッチーニ:『蝶々夫人』

付録2 メトロポリタン歌劇場:『蝶々夫人』演奏史

 
          Met-Opera

現在のメトロポリタン歌劇場



 タイトルに演奏史と書いてみたものの、出来上がったのは一覧表ぐらいでして、個々の歌手たちのことはごく一部を前章に取り上げるのが精一杯でした。下の表は縦軸は西暦で、メトロポリタン歌劇場において『蝶々夫人』が初演した時から2020年代までを表わし、横軸は同時期に蝶々さんを歌った歌手がわかるように配置してあります。()内の西暦は蝶々さんを歌った期間です。

                蝶々さん役一覧
 Met  

 何よりもメト初演から139回も『蝶々夫人』を歌ったジェラルディン・ファーラーの存在が光っています。同時期に歌っていたエミー・デスティン、フローレンス・イーストンはファーラーが休んだ時に代役で歌ったようにしか見えません。デスティンはロンドン初演で歌い、イーストンはメトで初演する前に全米ツアーで歌っていたのですから、『蝶々夫人』歌いとしては実績十分であったにもかかわらず、メトではたいして歌わせてもらえなかったことになります。

 15年間132回も歌い続けたファーラーが引退すると、リチア・アルバネーゼがその跡を継ぎます。少し遅れてドロシー・カーステンも参戦、この2人がおよそ20年間仲良く歌い分けていたことになります。この頃から多くの蝶々さん歌いがメトの舞台に登場してきます。ビクトリア・デ・ロス・アンヘレス、ガブリエラ・トゥッチ、アントニエッタ・ステッラ、レナータ・テバルディ、レオンタイン・プライスと錚々たるメンバーが名前を連ねています。テバルディとプライスの回数が少ないのは、両者共幅広いレパートリーを誇っていて、他の当たり役を歌うことが多かったからと考えられます。

 そして、先に退いたアルバネーゼの後釜を任されたのがレナータ・スコットとなります。その後、パトリシア・クレイヴ、渡辺葉子、ダイアナ・ソヴィエロと20回を超える出演をこなした歌手が続きますが、2000年代になると、『蝶々夫人』を数多くメトで歌う歌手は減っていきます。

 『蝶々夫人』を歌った歌手たちの錚々たる顔ぶれを見ると、今度は歌わなかった歌手についても知りたくなります。どんな有名な歌手といえども、このオペラをレパートリーにしていなければもちろん歌いません。例えば、ワーグナーやモーツァルトを専門に歌っている歌手や、ヴェルディは歌うけれどプッチーニは歌わない歌手もいます。しかし、当然レパートリー入っているはずの歌手や録音もしている歌手なのに、メトロポリタン歌劇場では1回も歌っていないという歌手もいました。


蝶々さんを歌わなかったソプラノ歌手たち
  
『蝶々夫人』を歌わない歌手 メト出演期間 メトでの総出演回数 『蝶々夫人』 出演回数
リナ・カヴァリエリ   1906〜1908   40   0
ネリー・メルバ   1893〜1910   238   0
ヨハンナ・ガドスキ   1900〜1917   494   0
エディス・メイソン 1915〜1936 93 2
クラウディア・ムツィオ 1916〜1934 201 1
ローザ・ポンセル 1918〜1937 441 0
アメリータ・ガリ=クルチ 1921〜1930 105 0
リリー・ポンス 1931〜1960 300 0
ジンカ・ミラノフ 1937〜1966 450 0
ビドゥ・サヤン 1937〜1983 238 0
エレオノーラ・ステバー 1940〜1966 428 0
ヤルミラ・ノヴォトナー 1940〜1983 205 0
ステラ・ローマン 1941〜1950 127 1
アストリッド・ヴァルナイ 1941〜1970 200 0
マーガレット・ハーショウ 1942〜1964 376 0
レジーナ・レズニック 1947〜1983 328 1
ヒルデ・ギューデン 1951〜1960 138 0
リザ・デラ・カーザ 1953〜1967 174 2
マリア・カラス 1956〜1965 22 0
ビルギット・ニルソン 1959〜1981 221 0
エリザベート・ゼーダーシュトレーム 1959〜1999 85 0
ジョーン・サザーランド 1961〜1987 223 0
ミレッラ・フレーニ 1965〜1997 140 0
ビヴァリー・シルズ 1966〜1979 71 0
ジュディス・ブレゲン 1970〜1991 283 0
ギネス・ジョーンズ 1972〜1996 95 0
キリ・テ・カナワ 1974〜2012 135 0
カーティア・リッチャレッリ 1975〜1990 47 0
エヴァ・マルトン 1976〜1999 94 0
キャロル・ネブレット 1979〜1993 84 0
マリエッラ・デヴィーア 1979〜1994 73 0
ドーン・アップショウ 1984〜2003 284 0
ゲーナ・ディミトローヴァ 1987〜1997 74 0
ヴァルトラウト・マイアー 1987〜2016 150 0
ルース・アン・スウェンソン 1988〜2010 238 0
スミ・ジョー  1989〜2000 47 0
シャロン・スウィート 1990〜1999 88 0
カリタ・マッティラ 1990〜2019 150 0
ジューン・アンダーソン 1989〜1998 55 0
デボラ・ヴォイト 1991〜2014 252 0
ルネ・フレミング 1991〜2014 262 0
マリア・グレギーナ 1991〜2015 166 0
アンジェラ・ゲオルギュー 1993〜2015 96 0
バルバラ・フリットリ 1995〜2016 121 0
アンナ・ネトレプコ 2002〜 192 0
       

 20回以上メトロポリタン歌劇場に出演していながら、『蝶々夫人』を3回以上は歌わなかったソプラノ歌手を並べてみました(漏れはあると思います。)。400回以上出演した4名、ヨハンナ・ガドスキはワーグナー歌手、ローザ・ポンセルは何故かプッチーニのオペラを一切歌わなかったソプラノ、ジンカ・ミラノフは基本ヴェルディ歌いで、プッチーニは『トスカ』のみ21回歌っています。

 428回もメトロポリタン歌劇場の舞台に立ったエレオノーラ・ステバーは、そのうち『ばらの騎士』60回、『ドン・ジョヴァンニ』58回、『フィガロの結婚』55回、『魔笛』29回も歌うなど、R.シュトラウスとモーツァルト歌いとして名を馳せました。一方、プッチーニの『ラ・ボエーム』8回、『マノン・レスコー』2回、『トスカ』6回、『西部の娘』1回歌っているにもかかわらず、『蝶々夫人』は舞台では歌いませんでした。ただ不思議なことに、1949年にマックス・ルドルフの指揮、メトロポリタン歌劇場管弦楽団でスタジオ録音(コロムビア)は行なっていて、現在も聴くことができます。また、その前年の1948年にハリウッド・ボウルで行われたライヴ録音もあります。指揮はユージン・オーマンディでした。以下のYouTubeで聴けます。
マックス・ルドルフ指揮、エレオノーラ・ステバー(1949)
ユージン・オーマンディ指揮、エレオノーラ・ステバー(1948)

 この1949年のスタジオ録音の演奏に対してジュゼッペ・ピントルノは次のように評しています。

 「マックス・ルドルフの指揮により、メトロポリタン歌劇場のオーケストラと合唱団が演奏を担当しています。エレノア・ステバーがタイトル・ロールを歌うこの演奏は、堅実で手堅い仕上がりを見せています。彼女は、有能なスズキ役のジーン・マデイラ、リチャード・タッカー(プッチーニ的というよりはヴェルディ的な歌唱スタイルですが)、ジュゼッペ・ヴァルデンゴ(シャープレス)らに支えられ、充実した声と美しい歌のラインを披露しています。これは称賛に値する非常に楽しめる録音です(ジュゼッペ・ピントルノ著『「蝶々夫人」〜プッチーニ的歌唱の理想を求めて』 )。」

 エミー・デスティンの教え子でもあるチェコ出身の.ヤルミラ・ノヴォトナーは、1937年のザルツブルク音楽祭でトスカニーニが指揮するモーツァルトの『魔笛』のパミーナ役を演じています(その時、グロッケンシュピールを弾いていたのは若きゲオルク・ショルティでした。)。その後第二次大戦中に米国に渡り、メトロポリタン歌劇場にやってきます。しかし、『蝶々夫人』は歌いませんでした。米国に来る前にベルリンやウィーンで『蝶々夫人』は歌っていて、渡米後にはサンフランシスコ歌劇場で1939年に2公演歌っていたので、得意としていたのは事実でしょう。ステバーとノヴォトナーは共に1940年にメトロポリタン歌劇場デビューをしていますが、『蝶々夫人』をステージで歌わなかった理由は、リチア・アルバネーゼも同じ年だったことが関係しているのかもしれません。ノヴォトナーは1月に『ラ・ボエーム』のミミでデビュー、アルバネーゼは2月に『蝶々夫人』でデビュー、ステバーは12月に『ばらの騎士』のオクタヴィアン役でデビューしています。その後アルバネーゼは『蝶々夫人』が当たり役となり、他のふたりもそれぞれ得意とする役を歌っていきます。ノヴォトナーは『ばらの騎士』のオクタヴィアン31回、『こうもり』のオルロフスキー公爵37回、『フィガロの結婚』のケルビーノ35回とメゾ・ソプラノの役が主でしたが、ソプラノでも『椿姫』のヴィオレッタを歌って絶賛されました(11回出演)。

 マリア・カラスもLPレコード録音はしていますが(指揮はヘルベルト・フォン・カラヤン、1955年)、メトロポリタン歌劇場の舞台で蝶々さんは歌っていません。22回の登場のうち、『トスカ』を7回、ベッリーニの『ノルマ』を6回歌っています。しかし、カラスはシカゴ・リリック・オペラでは3回ステージで歌っているのです(1954年11月11,14,17日、ピンカートンはジュゼッペ・ディ・ステファノ)。その翌年にミラノでレコード録音を行ない、さらに翌年の1956年にメトロポリタン歌劇場にデビューしています。なぜカラスは蝶々さんをメトで歌わなかったのでしょうか。なお、シカゴではカラスの次に蝶々さんを歌ったのはレナータ・テバルディ(1958年)、次いでレオンタイン・プライス(1960年)、レナータ・スコット(1965年)とその時代を代表する大御所達が名を連ねています。

 意外なのは、2回も録音し、映像まで収録しているミレルラ・フレーニが『蝶々夫人』をメトの舞台では一度も歌わなかったことです。LPレコード録音はマリア・カラス同様指揮者はヘルベルト・フォン・カラヤンというのも気になるところです(CDへの録音はジュゼッペ・シノーポリ)。140回もステージに上がっているフレーニがこの曲を避けた理由は何だったのでしょうか。メトロポリタン歌劇場に出演していた時期は、蝶々さん歌いとして、リチア・アルバネーゼ、ドロシー・カーステン、レナータ・スコットの3人がその座を守り、さらに多くの歌手たちがその役にチャレンジしていたからなのかもしれません。フレーニは、プッチーニの『ラ・ボエーム』を22回、『マノン・レスコー』を11回、『トーランドット(リュウ)』を5回歌っていますが、『トスカ』は0回でした(フレーニは『トスカ』を2回録音しています。)。

 『椿姫』でメトデビューを飾ったアメリータ・ガリ=クルチはヴィオレッタを19回歌っていますが、プッチーニは『ラ・ボエーム』を1回歌ったきりでした。リリー・ポンスもプッチーニを全く歌わないソプラノで、『ランメルモールのルチア』を94回、『ラクメ』を50回も歌っています。キリ・テ・カナワはこの曲の録音もせず、メトロポリタン歌劇場に限らずどの歌劇場でもこの役は歌わなかったようです。ただ、アリアはコンサートで歌い、録音もしてはいました。プッチーニの他のオペラ、『トスカ』、『ラ・ボエーム』、『つばめ』の録音はあるものの、不思議なことにメトロポリタン歌劇場ではプッチーニは1回も歌いませんでした。舞台で歌ったのは、R.シュトラウス、モーツァルトが中心で、他にヘンデル、ヴェルディとドニゼッティ(『連隊の娘』のクラッケントルプ公爵夫人役)のみでした。彼女は自分の声に合ったオペラを慎重に選び、キャリアの間それを守ったとされていますが、レパートリーとする役でもメトロポリタン歌劇場で歌わなかったのは会場の大きさや音響などに不安があったのかもしれません。

 マーガレット・ハーショウは25作品で合計39の役を歌ったアメリカのソプラノで、主にはワーグナーを歌っています。アストリット・ヴァルナイ、ビルギット・ニルソン、ギネス・ジョーンズ、ヴァルトラウト・マイアーは皆ワーグナー歌いです。

 ギネス・ジョーンズはプッチーニの『トーランドット』を16回歌っていて、バイエルン国立歌劇場で『蝶々夫人』を歌った放送録音がありますが、メトロポリタン歌劇場では歌いませんでした。イタリア物は『トーランドット』だけで、他は『フィデリオ』8回、R.シュトラスの『サロメ』6回、『エレクトラ』4回、あとはすべてワーグナーでした。ギネス・ジョーンズの『蝶々夫人』の全曲は YouTube で聴くことができます(1979年2月26日)。ひと声聴くとそれとわかるその声は、まるでブリュンヒルデのような蝶々さんとでもいいましょうか。意外とプッチーニの音楽にワーグナーに近いところがあるということに気付かされる演奏です。他にウィーン、ハンブルク、ジュネーヴなどヨーロッパ各地では歌っていました。
Dame Gwyneth Jones, Madama Butterfly Munich feb 26 1979


 2026年現在、『蝶々夫人』がメトロポリタン歌劇場で上演された回数は933回、ランキングでは、7位となっています。ちなみに、そのランキングのトップ10は下記の通りです。ジェラルディン・ファーラーは139回ですから、933回の『蝶々夫人』公演のうち約15パーセントに出演したということになります。これはたいへんな数字と言えるのではないでしょうか。

1 プッチーニ ラ・ボエーム 1430 回
2 ヴェルディ アイーダ 1208 回
3 ヴェルディ ラ・トラヴィアータ 1076 回
4 ビゼー カルメン 1054 回
5 プッチーニ トスカ 1021 回
6 ヴェルディ リゴレット 943 回
7 プッチーニ 蝶々夫人 933 回
8 グノー ファウスト 752 回
9 レオンカヴァレロ 道化師 738 回
10 マスカーニ カヴァレリア・ルスティカーナ 696 回

*The Metropolitan Opera Archives より



*参考文献の一覧は≪目次≫をご覧ください。 


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