縮刷版2016年3月上旬号


【3月10日】 感じ方の違いって奴だけれども3月11日という日付に、原子力発電所の再稼働反対というひとつのイシューだけで国会前に集まり気勢を上げるという気分には、僕はちょっとならないかなあ。5年前のあの日あの時間、グラグラっと来た中で感じた怯えを思い出してブルブルと震え、そしてテレビの中で海岸の街々が巨大な波にのまれていったその下で、どれだけの人が苦しい思いをしていたいんだろうかと考え哀しみを感じ、もしかしたらあれは自分の身にも起こっていたかもいれないことなんだと考え戦いて、静かに瞑目するのが最善のような気がしている。つまりは追悼の日。再稼働反対は別にその日でなくても、毎日でもやって良いものであってせめてその日ぐらいは静かに送りたい。そう思う。

 原発の再稼働にその日、反対したところで特別に何かがクローズアップされる訳ではない。むしろそんな日に、自分の身にのみ関わることに騒ぐ人たちだといった印象が世間に流布され、ポジティブではない反応を引き出しそう。もちろん原発が再稼働され、そこにあれだけの巨大な地震が起こったら被害を受けるのは反対している人たちに限らず、ほとんどすべての国民ってことになる。再稼働に反対すること、それ自体への異論はないんだけれどもただ、その日に必要なのかどうなのか、ほかにすべきこととの対比で考えた方が良いんじゃないかといったところ。不思議なのはそんな異論も浮かぶ場に、聡明でなる共産党の委員長が出かけると表明したことか。もらえる支持と受ける反発。比べて考えれば分かるのになあ。これで政権奪取は無理かなあ。

 どうということもなしに見ていた「マツコ有吉怒り新党」で、偶然にも名古屋めしが紹介されてついつい見入る。といってもありきたりなひつまぶしだとか手羽先だとか味噌カツだとか天むすだとかあんかけスパといったものではなく、そうしたメニューをさらに進化させたようなネオ名古屋めし。だから僕も食べたことがないし、名古屋にも行っているっぽいマツコさんだって未食の味。それだけにテレビから想像するだけではちょっと雰囲気がつかめず、これは実家に帰った際に是非に言って見なくてはと思ったという。そんなネオ名古屋めし。一つ目は名古屋駅のそばでやってる「朝日屋」ってきしめんの店で出してた「焼き太きしめん」。いわゆる焼きうどんのきしめん版だけれど、鉄板にしっかり卵が敷かれて味は醤油ベースの焼き肉のたれちうから、甘辛くそしてマイルドな味が食べると口中に広がりそう。駅から近いし言って見るか夏くらいに。

 ふたつめは緑区でも駅から遠そうな場所にある「キッチンカナン」の「味噌フレンチとんかつ」で、味噌カツなのはそうだけれどもそのカツが油ではなく卵にくるまれフライパンでからりとやいたカツレツともピカタとも言えそうなものに、やっぱり味噌がかけられていて食べると卵の味と豚肉の味が味噌に絡まって甘くマイルドに口中に広がりそう。食べたいけれどもちょっと遠いから実家から車を出すか。最後は伏見にある「喫茶神戸館」の「鉄板小倉トースト」で、鉄板の上にトーストがおかれアイスクリームが乗せられた上から、コーヒーシロップをかけると熱い鉄板でジュワッとなってパンに沁みる。どんな味かまるで不明。甘くて塩気があって苦くてと、もう何がなんだか分からないけど商売になっているなら美味しいんだろう。これも都心部だし行ってみるか。東京でも出してくれないかなあ。

 「ココロ」ってトラボルタさんの楽曲を原作にした舞台を作り、小説版の「ココロ」も書いた石沢克宜さんの新しいボーカロイド小説が登場。その名も「ボカロは衰退しました?」(PHP、1200円)が何かもう切なくて哀しくて読んでいてじんわりとした気持ちが浮かんで来る。1番長い「ボカロを探して2000年」という作品こそ、誰かの漫画みたいに机の引き出しを出入り口にして未来から少年がやって来ては僕らの時代には音楽がないから探しに来たといって、バンドを始めたばかりの少女といっしょにCD屋を回って楽曲を集めたり、出たばかりの「初音ミク」を使って音楽を作ったりしてだんだんと音楽に親しんでいく。

 でもそこに追っ手。逃げられるのか。そして未来に音楽は伝えられるのか。タイムトラベルも混ぜて未来に音楽の、何より初音ミクっていうボーカロイドから生まれた音楽の記憶を伝えようとする前向きさにあふれつつ、「初音ミク」がだんだんと人気になっていく様子を振り借りつつ、少女たちが自分でバンドを組んで歌うようになる青春に目を眩ませつつ、一方で未来に本当に音楽は残るんだろうか、誰も音楽なんて聴かなくなるんじゃないのかって不安も感じさせる作品だった。そんな乾いた世界は来るんだろうか。今のこの隆盛だって最後の燃え上がりかもしれない。その後に飽きが来て諦めた漂って音楽は消える、なんて可能性。分からないけどでも、「ボカロは衰退しました。」という別の短編を読むと、そういう可能性なんかも浮かんでしまう。

 ロボットとしてのボーカロイドが歌い踊って一世を風靡した時代があったけど、今は廃れてそのボーカロイドは場末のバーにいたりする。会いに行った男が思い出すのは、そのボーカロイドを発掘して売り出し大ヒットさせたという記憶。苦闘の果てに人気者に仕立て上げたら、稼ぎ頭の部署に引き抜かれてしまい男もついていってプロデュースに勤しむけれど、やがて合成の音声ではなく人間の音声をデータとして利用した、中の人がいるボーカロイドが隆盛となって人工音声のそのボーカロイドはお払い箱になってしまう。それも運命かもしれないけれど、どこかもの悲しい。レコード会社の伏魔殿ぶり、プロデューサーの貪欲さも見える。

 「底辺Pのぼくが文豪になるまで」はボカロ小説のみならずネット小説も含めスカウトされ本を出し、キャーキャーと言われる夢を抱いた人たちに希望と絶望をもたらす短編だったりするかも。3ケタの再生がやっとの底辺PがボーマスでCDを売っていたら、美人の眼鏡にスカウトされ小説を出してこれが底辺なのに本を出すとかいったバズり方もあって大ヒット。けど。そこで有頂天になったものの書けなくなってどうすると提案され、呑んでも悪くない条件なのにプライドが邪魔して拒否して背を向け、今は浮薄の身。そこでかかる声。さあどうする? そんな話。これは刺さるなあ。あらゆる表現者の心と体に。グサグサと。もう1本、「オワコン先輩」ってショートショートを入れた4編を収録。ボカロ小説というよりボカロ界隈小説といった感じでボカロがある日常に生まれるSFや青春を描いている。ボカロを知る人も知らない人も、読んで誕生から8年経ったボカロの今とこれからを感じよう。

 「ファイブスター物語」の続きも気になったけれどもとりあえず、大月俊倫さんへのインタビュー「この人に話を聞きたい」を読むために「月刊アニメージュ」の2016年4月号を買ったらキャラクターの人気投票でトド松だけが10位に沈んでた。ほかは1位から今で独占。どーゆー訳だ。何か寂しい。良い子なのに。んで大月さんのインタビューは「エヴァ」とかに囚われず過去から現在までの仕事を俯瞰していてなかなかの読み応え。実写の仕事についても触れられていたけれど、名前を出さずにプロデュースしている作品があるそうで、何でも名前だけはといった心理とは真逆のスタンスに、もの作りこそが大事といった理念が見えて気に入った。大月さんにはアニメじゃなくって「戦国鍋TV」の舞台化でインタビューをしたという不思議な縁。でも小黒祐一郎さんは大月さな「戦国鍋TV」を仕掛けたことを知らなかったみたい。ちょっと意外。BDボックスをガンガン出してキングレコードでの幕引きを目指すというから、面白くて意外な作品がこれから出てくるかも。キングレコードじゃない作品とかもまとめて出してくれたら嬉しいけどなあ。それは流石に無理か。せめて「フォトン」をBDで。


【3月9日】 朝方から自民党が今度の選挙に乙武洋匡さんを担ぎ出そうとしている話があって、それでもってダイバーシティとかバリアフリー化への取り組みをもし、訴えようとしているんだったら過去、自民党にも所属して28年間、国会議員をしていた八代英太さんの存在はまるでバリアフリーとかダイバーシティとかに意味を持たなかったのかって話になりそう。司会中に事故で脊髄を損傷して歩けなくなってずっと車いすで活動していた人。それでも国会議員として勤め上げて郵政大臣にもなった訳で、そんな人を担いでいた自民党がバリアフリーとかダイバーシティに取り組んでないはずはない。

 だから自民党は選挙にあたって乙武さんを担ぎつつ、体の不自由な人が暮らしやすい社会作りはとっくにやってましたと良い、それをより日常的なものにするために改めて乙武さんの存在をって言うなら分かるけど、もしも今初めてそれに取り組むようなこを言うんだったら、それは違うとつっこむべきって気がする。過去に何をしていたんだと言っても良いかも。さてはて。っていうか出るのか乙武さん。自民党とはちょっと外れたところにいたような気がするんだけれど、実際に制作にコミットするなら自民党じゃないと何もできないものなあ。あるいは民主党はホーキング青山さんあたりを引っ張り出してくるんだろうか。不自由な体を押して芸を見せつつ身障者の介護問題にも取り組んでいる。より相応しい人のような来もするんだけれど、果たして。

 人の顔を覚えるのも人に顔を覚えられるのも苦手なんで昔、宝島社がやってた「このライトノベルがすごい! 大賞」で何か賞を受賞して贈賞式に来ていた深沢仁さんに多分合っていても、どういう人だったか覚えていないし向こうもきっと覚えていないだろう。それでも本は出ていて新しい場所での活躍も順調な様子。ポプラ文庫から出た「英国幻視の少年たち ファンタズニック」はライトノベル的な雰囲気を持ちつつ英国が舞台の幻想小説めいた雰囲気も漂っていて楽しくて面白い。日本でいろいろあって英国にいる伯母の家で暮らすようになった大学生の皆川海。そこに妖精が現れ、そうした存在の面倒を見る英国特別幻想取締報告局に所属する少年ランスが来てまずは妖精退治……とはならず妖精助けをしてしまう。

 妖精が見ほれた天使のレリーフが入った壺を、カイの伯母はアンティークとして日本の発送して売ろうとしている。それをスーという妖精は阻止したいんだけれど、伯母にはそうした配慮をするような情はまるで見えない。カイだって別に妖精の面倒を見る義理はなく、道に迷わされたりして迷惑を被っていたんだけれど、それでもやっぱり何とかしたいと伯母を出し抜く方法をランスといっしょに考える。ランスだって所属する組織の人間として、妖精の面倒なんて見る義理はないんだけれどもカイといっしょに策を練る。そしてどうにか成功、といったエピソードから始まって以後、カイトランスはファンタズニックと呼ばれる妖精やら怪異なんかを相手に向き合っていく。

 ペアの妖怪ハンターみたいな感じだけれどもカイにはそうした知識もないし意欲もない。ただ体質なのか他に理由があるのか、歩けば怪異に行き当たってしまうようなところがある。結果、ドッペルゲンガーに出会った老人の面倒を見たり、大学の中にある沼地に暮らす妖精たちを戦ったり妖精を助けたりする繰り返し。そこに吸血鬼が現れ魔女までやって来る。こうなると次は狼男がフランケンシュタインか。なんて思いたくもなるけれど、それは続きが書かれてから。カイとは大学時代に知り合いだったらしい日本からの幽霊も参加して、ファンタズニックだらけのカイとランスの周辺だけに、どんどんと次の物語が生まれて来そう。

 まあ日本だって道を歩けば怪異に妖怪に幽霊に化物のオンパレードだから、英国がとくに凄いって訳ではないけれど、妖精に迷わされたら服を裏返しに着るとかいったしきたりなど、伝統のある国ならではの作法もあって勉強になる。そんな世界だけに第二の眼という、そうしたファンタズニックと触れあえる眼を持ったカイも大変そう。妖精が見えるし目の前で自殺した少女の幽霊とは会話までできる。それが力になるというより繋がりとなってピンチをしのぎ、妖精も人間も救っていく。そんな展開。ラストにちょっとしたスペクタクルもあって意外な展開とそして力のぶつかり合いが起こって、カイもランスもビックリ。そして収まったものの吸血鬼はいるし魔女は影響力を残しているし妖精は飛ぶ中で2人は何と会う? 本当に続きが楽しみ。

 兄というかすでに姉となったラナ・ウォシャウスキーに続いて弟だったアンディ・ウォシャウスキーも性別を女性に変えて手術まで済ませてリリー・ウォシャウスキーとなったことをLGBT向けメディアで公表。どこかに話が出てスクープされそうになったから自分で公表したってあたりは週刊文春が記事を書きそうだったんで巨人の中継ぎ投手が自分も野球賭博に関わっていたと白状したのに似ているけれど、リリー・ウォシャウスキーの場合は話が露見することよりも、それがどういう風に取り上げられるかってあたりを感じ取り、どこか偏見混じりの言葉で書かれるよりは自分の言葉で状況を説明したかったのかもしれない。英語読めないからニュアンス分からないけど。その公表されている画像が当人だとしたらしかし、ちょっと前にラナといっしょに映っていたゴツいあんちゃんがどうしてそんなに柔らかい表情になれるの? って驚きもある。

 薬の力か本人の努力か。不明ながらもそういう姿をこそ自分の本来と思っていたなら、ずっと男性として過ごしてきた時期はいろいろと思い悩むこともあっただろう。そしてようやくかなったその変化。自由の国であってもやっぱり映画の世界はどこか男性が主流な訳で、そこで性を変えて女性になってどこまでやれるのか? って心配も浮かぶけれど、それでも決断したからにはあとはその決断を讃えつつ、2人の姉妹が作る作品がどれだけのものかを判断していこう。それにしても兄が姉になって弟が妹になるその自在さ。ジョン/ヴァーリーの小説でも読んでいるような気分。そういう時代に社会的な了解はともかく医学的にも技術的にも雰囲気的にもなったって思うと感無量。あとはもっと手軽に自由に自分を選べてそれで一切の苦労が伴わない社会の到来を願いたい。そうなったら自分だってと。うん。

 せっかくだからと渋谷のHMV&BOOKSで開かれた大森望さんと西田藍さんによる大森さんの「50代からのアイドル入門」刊行記念トークイベントを見物。500円で1時間半ものトークを聞けたのも充実なら、その1時間半が最後の質疑応答でSFファンダムとドルオタたちとの相違について触れられた以外はすべてがアイドル話に費やされて、そっち方面についての知識を欲していた人には相当に充実したイベントになったんじゃなかろーか。SF話なら前にも聞いたしこれからも聞けるけど、この2人が真剣にモーニング娘だとか℃−uteだとかカントリー/ガールズについて語り尽くすなんて機会、まずないからちょっと貴重だったかも。

 そして西田藍さんがあんあにもアイドルオタだとはちょっと驚いた。道重さゆみさんの卒業コンサートに行って叫んで涙した話を語り、℃−uteのクリアファイルを掲げ手にしたキンブレを振り回す。来ていたTシャツは大森さんのピンクTシャツに元ネタになったっぽい道重さんの卒業コンサート関連Tシャツ。それを持ってるだけで本気とわかる。そんな本気の言葉だったからこそ、聞いていてそれほどまでに大森さんや西田さんが言うならと聞いてみたくなる。言葉の力の凄さを感じたイベントだった。自分も結構アイドルのライブとかは見ているけれど、あとでこれだけ力強く語れるほどの真剣さで見ていたか、ってなるとちょっと反省したくもなる。なのでこれからは頑張って言って見て語り誘い高めていこう。まずはSCANDALを行かなくちゃ、ってまだアイドルって言えるんだろうかSCANDAL。


【3月8日】 すでに無理だとは分かっていたけれど、やっぱりサッカーの女子日本代表ことなでしこジャパンはリオデジャネイロ五輪には出られないことになって、これからの世代交代が必須事項となって来た。アジアでは強豪の北朝鮮もやっぱり出られないことが決まったみたいで、アジアからはオーストラリアとそして中国というどちらかといえば“新興国”として台頭してきた2チームが、晴れてリオデジャネイロ五輪出場を決めた。北朝鮮が先行して日本も追随して伸びてきたアジアの、そして世界の女子サッカーがこれでひとつ、段階を変えたといった感じ。

 アメリカやドイツといったフィジカルに優れた欧米の各国に戦術が加わり、俊敏性に優れたアジアに高さとパワーが乗って女子サッカーの内容を高めていく。そこに乗り遅れればたとえワールドカップで準優勝したチームでも、半年で古くなってしまう。そのことをきっと日本も分かってはいたんだろうけれど、佐々木則夫監督に代わって引き受ける指導者がおらず、そしてこれまでの選手層に割って入って持ち味を出して戦術まで一変させてしまうようなスターが現れないまま、過去の成功体験の残り火を点し続けて来たのがここで完全に消えた。あとは再び人を点し直して指導者を尊び選手たちが自分に誇りを持ってピッチに立ち、そして戦術的にも体力的にも理にかなったサッカーを繰り広げていくしかない。それだけだ。

 どこまでも走りどこまでも詰めて奪いそこからは走ってどこまでも繋ごうとする「ひたむきさ」。それがなでしこジャパンの持ち味でありアイデンティティーでもあったのに、すっかりなりを潜めて綺麗で自分に責任が及ばないプレーに終始するようになっては、やっぱり勝てないし見ている人の共感も呼ばない。たとえ勝てなくても挑んでいくその情熱が欠けてしまっていることを、大儀見優季選手なんかは気にしていたんじゃないのかなあ。それがピッチに存在せず、したがって観客も引っ張り込めない中で冷たい空気がピッチを満たした。

 これは戦術を改めること以上に厄介な問題で、たとえ整ったとしても周りも整った中でプラスアルファを得るために必要な「ひたむきさ」がなければ、差はいつまで縮まらないだろう。そこを詰められる指導者が来て、内部で詰めようとするリーダーが出る。それが必要なんだけれど、誰がいるかなあ。澤穂希さんがコーチで戻ったところで、監督との関係が難しくなるだろうからちょっと無理。かといって監督を任せるには経験がなさすぎる。だからここは澤さんとも親しく高倉麻子監督にも近く過去を知り選手もまとめられる中堅をひとり、入れることが必要かなあ。加藤與恵さんとかどうかなあ。シドニー落選後の暗黒とアテネ出場後の栄光を知るベレーザのレジェンド。現場復帰しないかなあ。

 サッカーといえば雑誌の世界で内ゲバというかののしり合が発生。「サッカー批評」って雑誌が掲載したバルセロナのルイス・エンリケ監督へのインタビューに、この監督は単独で取材なんか受けることはないのにこんな記事が載るなんてあり得ないと「フットボール批評」っていう「サッカー批評」とは因縁のある雑誌が噛みついた。筆者のホルヘ・ルイス・ラミレスなんてジャーナリストの名前は聞いたことがなく、ペンネームだというけれどもルイス・エンリケ監督への単独インタビューに成功したならそれをペンネームで日本の雑誌にだけ書く必要もないんで、これは捏造に違いないと訴えてる。

 「フットボール批評」側ではバルセロナにも問い合わせて取材なんて受けていないといった言質を取ったとも。そうだとしたら完全に捏造だけれど、そんな半端なことを双葉社が出している雑誌が果たしてするのか。バレたら世界的な訴訟にだって成りそうな厄ネタだもん。でもそういうのが起こり得るのが雑誌という場なのかもしれない。「フットボール批評」が「サッカー批評」から飛び出して作られた人たちで作られているってことも、その追求に厳しさを与えそう。真相やいかに。とりあえず「サッカー批評」側の反論待ちか。バルセロナからの鉄槌なんてことも怒るのかな。

 それはそれとして海外で活躍する日本人選手の記事とか、本当に本人にコメントをもらっているのか現地の新聞雑誌に載ったものを集めて拾って記事に仕立て上げているのか悩ましいところ。昔の新聞とかの特派員の仕事は、現地の新聞やテレビから記事を拾って日本語に直して送るくらいだったけど、ネットで情報が国境を越える時代にそれは通用しなくなった。それでもやっぱり続く現地の紙誌から拾って記事を作る動き。バイラルなメディアはむしろそうした“まとめ”で食べているようなところもあるだけに、情報を最初に作ってそれがしっかり金になる仕組みを維持しないと、すべてが想像と妄想の話が全世界をめぐりながら増幅され濃縮される状況ばかりになってしまいそう。どーするメディア。どーなるメディア。

 安倍総理が国会で民主党の質問に答えずキレて怒って相手を誹るだけの答弁を繰り返しているというニュースが舞に新聞に載っていた。お腹が空くから怒りっぽくなって怒るとお腹が空いてお腹が空くと怒りっぽくなるというのは冗談として、怒っていればそれをとらえてメディアも総理天晴れと書いてくれていた時期もあったけれど、相手の質問に答えず俺は偉いとばかりに答弁する繰り返しに世間も気付いて来たこれからが正念場って感じ。例の保育園問題も、最初は怒ってみせたけどそれで相手がへこむどころか世間を的に回したと気付いてソフトになっている。それでも民主党の時よりは頑張っていると言って、実はそれ以前の自民党時にとてつもなく酷くなったのを民主党が何とかしていたらしいと分かってきてどつぼにはまってる。冷静になればあいてをへこませ自分を偉く見せるだけの答弁なんて長くは通用しないと分かるのに、自分がへこむのが徹底して嫌だから改まらないまま周りは振り回されているという。大変だねえ。

 たぶん石川雅之さんの「もやしもん」が読みたくて買い始めた「イブニング」。その「もやしもん」が「月刊モーニングtwo」に移ってからは買うかどうしようか迷いながらも電子書籍版が出たのをきかっけにしてkindleで毎週読むようになって以降、「少女ファイト」とともにずっとその展開を追いかけてきた遠藤浩輝さんの「オールラウンダー廻」が一応の最終回を迎えた。学生で総合格闘技を始めた少年の成長を描いた物語だったはずなのに、最終回が載た号の表紙は同じ格闘技をやっている180センチの身長を誇る神谷真希。これには長くファンをっやっている人も驚いたに違いない。

 ぷっくりと割れた腹筋ものぞかせた表紙絵に、こんな少女が主人公ならと初めて手に取った人に最終回なんだと驚かせそう。なおかつ告白するのしないのと騒いだ果てのストンと断ち切られたようなエンディングを読んでその斬新さ漫画研究者も驚かせそう。これは実験か。それともひとつの新提案か。残り幾つか外伝もあるからこういう終わり方もあったのかもしれないけれど、それいしてもユニーク。振り返って真希と廻の腐れ縁を追いかけ直したくなって来た。延岡薫の圧倒的な驚異にどうして廻が揺れ動かなかったかも。やっぱり女の子は腹筋なのかなあ。


【3月7日】 観たんでせっかくだからと一年作品についても書いておきたい東京藝術大学大学院映像研究科アニメーション専攻第七期生修了作品展。井上幸次郎さん「だぁれぇ」は落語を動く文字で描いた作品で、第二期生にあったオスカー・ワイルド「幸福の王子」を文字で動かした折笠良さん「Scripta volant」をちょっと思い出した。ラストにオウムが残っていたのが愉快。折笠良さんといえば卒業後、ちょっと追っかけていなかったけれども2015年の大藤信郎賞を「水準原点」という作品で獲得していた。小野ハナさんに続いて藝大院卒業生がとったってことになるのか。

 梅村春香さん「てのひらのにわ」は猫が可愛かった。金魚は可愛そうだった。猫のせいにされるんだろうなあ。子安のぞみさん「あみこみ」は線画で描いた乙女の園。端正だった。大山絵梨香さん「まごころ? マスター」はマスターの出汁がとれたコーヒーが美味しいんだろうかと思った。メイドに切り替わったりとシナリオはユニーク。鵜飼うめさん「翡翠」は変容するシュールなビジョンに引き付けられた。山崎萌花さん「腕の多い男」はたぶんアニメーションとして優れた作品。黒いバックの上で蠢く腕とかよく描いたなあ。リン・マンイさん「Brick Games」はジェンガやってたら住んでるアパートがジェンガされてた不思議なビジョン。ストップモーションアニメーションなのかCGなのか。最近は区別つかないんだよなあ。

 宮嶋龍太郎さん「RADIO WAVE」はスピーディーな絵の動きで電波の発信所とラジオで受ける少年の間を結んだアニメーション。変幻自在に突っ走っていく感じに勢いがあった。男の子らしい? お・ゆんじぇさん「貝殻のウラ」。海辺。伊藤圭吾さんの「無限の火」は暗闇に浮かぶ白いマッチの炎が着いては消されてまた着くなかでだんだんと燃え広がって画面が真っ白になる、その変幻がとても良かった。アニメーションらしさ。そんな作品。栗原萌さん「将棋」。綿かフエルトで作られた棋士たちが対局中にぐちゃぐちゃになっていく。動かし方は良いけれど、ここからさらにどこまでエスカレーションするかが観たかったなあ。

 シモン・フェアットさん「静寂」。これも黒と白とで描かれた世界。矢野ほなみさん「牛乳の麓」。ストーリーとして1年次作品では1番目くらいに好きかも。山上からミルクを流す巨大な女性がいて、麓で男が牛から乳を搾ってる。かつては男は女と暮らしていたけど今は1人。妻と死に別れたのか、それとも彼女に逃げられたのか。いずれにしても切なさが浮かぶ物語に泣けた。岡田莉奈さん「CHARON 冥王星の孤独」。細かく描いてあったなあ。和田健士郎さん「Nothing for them」。これは美術賞物。もしかしたら修了作品も含めてすべての作品の中でプロダクションデザイン的に1番好きかもしれない。

 電話をかけ合う男女。それが人形によって作られストップモーションアニメーションで動かされる。電話が鳴ると男女とも腹の空間のベルが触れてジリジリと鳴る。互いに何を言っているか分からない不思議な言語があてはめられているけれど、すれ違いめいたものがあることは分かる。そして起こる対立。引っ張り合い。そして明らかになる両者の位置。そんなストーリーを表現するキャラクターの造型が単体でもアートだったし、ストーリーの中でもハマってた。舟越桂さんが作る彫刻みたいな雰囲気もあったかなあ。このままいろいろと映画祭とか持って行っても良いところいきそうな感じ。ダークな雰囲気のストップモーションって海外でよく見かけるから。これから注目すべきクリエイターかも。

 コウ・ブンエイさん「傘」は雨のように降る墨に全身が染められることを誰もが厭う世界で雨にうたれながら緑の草木を得て掲げる展開に脱却へのすすめを観た。谷口ちなみさん「まゆみ」はまゆみという名前に執着する少女の勢いが感じられたって記憶。そんな感じに今年もいろいろとタイプがあったけれども17人、いて男性が4人くらいしかいないような気がするのは、やっぱりアニメーション作家に女性が増えているからかなあ。藝大院の修了展を観に来ていた中にも女性が結構いたからなあ。いわゆるアニメのファンとして集まる人たちとは違った雰囲気。山ガール的というかカメラ女子的というか。

 アニメーション作家として話題になっているのもシシヤマザキさんに小野ハナさんに「ズドラーストヴィチェ!」の幸洋子さんに「Airy Me」の久野遥子さんに「かたすみの鱗」の石谷恵さんに「きつね憑き」の佐藤美代きっとこれから来そうな小谷野萌さんにANIME SAKKA ZAKKAを進める中内友紀恵さん等々。そんな活躍する女性アニメーション作家だけで特集が組めそうだけれど、それはたまたま今そうなっているだけなのか、環境からシフトが進んでいるのか気になるところ。美大がもとから女性の園だったのか頑張って活躍して大学院にまで進む勤勉さは女性に顕著なのか等々。いろろな可能性は考えられるけどどっちにしたって良い作品が作られれば男性女性が中性でも宇宙人でも構わないんで皆さん頑張って、作り続けて下さいな。

 気がつくとスペースクラフトエンターテイメントを退社したばかりの石井マークさんが、同じ声優の榎本温子さんと結婚を発表していた。すでに挙式も済ませたとか。タイミングを合わせての発表は去年にフリーとなった榎本さんと2人で個人事務所でも立ち上げるってことなのかな。それはそれとして年齢が榎本さん36歳で石井マークさん24歳。干支でもちょうどひと周り離れての結婚はかつての大澄賢也さんと小柳ルミ子さんとの、こちらは13歳離れての結婚を思い出すけれど、当時37歳だった小柳ルミ子さんは今にして思えば熟女手前の女盛りで13歳の年の差なんて関係ないくらいの容色だった。あと三浦皇成さんとこちらもひと周り離れていたほしのあきさんも33歳くらいで容色抜群だった。僕らが欲しいくらいだった。それを思えば榎本温子さんとの干支ひと周り婚も気にすることはないのかな。いや榎本さんがどういう容色なのか最近観てないから分からないんだけれど。何か演じていたっけ。

 新江ノ島水族館とかプロジェクションで飾りインタラクティブな花園とかも作ったりしてデジタルアート分野で活躍中のチームラボが「人前式」っていう神様仏様に誓いを立てないタイプの結婚式をコラボレーションしたってんでホテル椿山荘東京へ。部屋の中にはプロジェクターが置かれてあちらこちらを照らし出しては花を浮かばせ、そして新郎新婦が入場してくると蝶を舞わせてふたりを導き壇上へと誘う。そこでは背後に花を散らせ蝶も舞わせて指輪の交換から両親からの激励、そして結婚誓約書への調印なんかを飾り立てる。なかなかに華やか。プロジェクションを行う関係で部屋が暗くなるのがちょっと気になるけれど、披露宴じゃなく挙式なんでそれもまた厳かな感じがして良いのかも。インタラクティブだから2度と同じにはならないというのも唯一無二の機会っていう、結婚式のイメージを高めるのに役に立つ。そんなことなのかも。こんな積み重ねがやがて巨大なイベントへと採用されて東京五輪とかに使われば面白いんだけれど、現実はアイドルが乱舞するんだろうなあ。哀しいけれどもそれが偉い大人の脳内世界なんだよああ。やれやれ。


【3月6日】 テレビで放送された吹き替え版の映画「パシフィック・リム」を録画しながら「山猫」とスイッチしながらも、その場面が来るとしっかり本放送に見入ってしまうくらいに見どころと思っている場面が幾つか。ひとつは香港で、どうしてもイェーガーに乗りたい菊地凛子さん演じるマコが、自分の実力を見せようとしてジプシー・デンジャーを操縦するローリー・ベケットを相手に棒剣術で挑む場面で、脱ぎ捨てたジャケットの下から現れるタンクトップ姿の上半身の胸元からこぼれそうになるなだからかな双房と、動きに合わせて起こる上下の揺れ、さらに前屈みになった時に現れる谷間なんかだけれど、イェーガーに乗り込むともうスーツに身を固めてしまってそうした肉体は覆い隠されてしまうから、残念といえばちょっと残念。これが日本のロボットアニメならスーツは薄手のものなるか、そもそもスーツなんか着ないんだろうからなあ。優秀な日本のロボット技術。

 あとのひとつは杉田智和さんが楽しそうに「ロケットパンチ」を放つ場面で、本当だったらエルボーロケットとなったところをこれは日本ならそう呼ぶべきだと周囲が仕向けたらしいと聞いて、やっぱり分かっている人たちも映画界にいるんだなあと知って嬉しくなった。その割には日本で15億円程度と圧倒的なヒットとはいかなかったのは、やっぱりやり過ぎてしまってオタクな作品と思われてしまったからなのか。ラブストーリー的な要素をもうちょっと見せれば良かったのか。まあそれをいうなら「GODZILLA」だって日本は32億円で、まあそれなりな数字だけれども圧倒的って感じじゃない。洋画でもっと行くのはある訳で、それを思うと日本にルーツがある作品として日本をリスペクトする一方で、それで来てくれる観客は決して多くはないと理解し、より大きな中国市場を狙って行く方が洋画として正しいあり方ってことになっても仕方が無いのかも。次の「GODZILLA」はどうなってしまうのか。そして「パシフィック・リム」は。そこが気になる。

 これはロボットじゃないけれど、巨大さでいうならイェーガーよりも大きくそしてKAIJUとだって戦えそうなヘヴィーオブジェクトたちが一気に7つも現れ戸惑うクウェンサーや正統王国の面々。とりわけ移民が暮らす地域に家族を持ってる元エルチ・カーゴの整備の婆さんがエルチ・カーゴらしくハンビーみたいな軍用車両を飛ばして家族を苦そうとしたけど時既に遅く迫るオブジェクト。そこに現れたのがクウェンサーとヘイヴィアで、鉱山でかっぱらっておいたダイヤモンドの原石でもってその場に居あわせたメイド服姿の傭兵たちを抱き込んで、駆けつけさあ戦いをおっぱじめるといったところでいか次回。まあ資本企業とか言ってたメイドにも裏があることは原作読んでいるから分かっているけど、それでもああいった見た目のお姉さんたちが戦場にいると、誰だって嬉しく思ってゴロニャンとなってしまうだろうなあ。戦えばあっという間に静圧されると分かっても、それで組みしだかれる方を選ぶという。男ってこれだから。

 さてもやっぱり観ておこうかと電車を乗り継ぎ桜木町まで行ってから徒歩で東京藝術大学大学院映像研究科アニメーション専攻の第七期修了生修了制作展の会場へ。ちょうご午前の10時に入ったから上映会場も普通に好きな場所に座れたけれどもだんだんと人が入ってきて満席になっては座布団で通路に座って観る人もぽつぽつと。1年次の作品とそれから第七期生の修了作品のAプログラムとBプログラムの両方を見終わって午後2時前にロビーにおりると、サブ会場で見ようとする人で行列まで出来ている盛況で、いったい芸大アニメーションに何が起こったんだと訝るというか驚くというか。

 前は休日でもこんなに混み混みになんてならなかったよなあ。そういえば東京工芸大学芸術学部の卒業制作展でもアニメーション専攻の上映がラストは秋葉原UDXシアターが満席になっていたし、もしかしたら今、短編アニメーションを観たり作ったりするのにひとつの波が観ているのかもしれない。アニメーション作りは男子がやればDJやらダンスにも匹敵する超スタイリッシュでクールなパフォーマンスの技能になっているのかもしれず、女子がやれば山登りだのカメラだのといった感じに、高尚でちょいオタクもかかっているけどファッショナブルな部分は維持されている新しい嗜みってことになっているのかおしれない。

 それで観る人作る人作りたい人が新しいトレンドに触れたいとわんさか押しかけた、とかってことは流石にないか。だんだんと存在が知れ渡って1日をタダで楽しめる面白いイベントがあるって誰もが気付いたとかってことなんだろー。あとはやっぱり映像を配信するプラットフォームが増え、そうした映像を手軽に見られるスマートフォンのようなデバイスが普及して、音声だけじゃなく映像も伴ったコンテンツの需要と関心が増える中で、それらを作れる映像クリエイターとしてのアニメーション作家の出番が増えて、人気や認知度も高まって来たったてことは言えるかも。

 ミュージシャンがPVをアニメーション作家に作ってもらってYouTubeとかで配信をして話題を狙う。アーティストが出てただ演奏している映像よりも関心を集められるし。あるいはPRなんかにアニメーションを使う。横浜とかキム・ハケンさんとか起用してドラッグの危険性を訴えるプロモーション映像を作っていたものなあ。その結果の満席だとしたら来年は、もっと大勢がやって来るかも。幸いにして芸大はユーロスペースで有料だけれど上映会を開いてくれるんで、そっちを最初から狙うってのも手かも。

 引く手あまたかは別にして、活躍の場はちゃんと用意されているんだなあと感じたのは、藝大の院をすでに出た人たちが中心となって新作を寄せて、修了制作展の会場の側で展開していた「ANIME SAKKA ZAKKA×GEIDAI」ってイベントで流れた作品を観た時で、例えば池亜佐美さんは「ウエイクアップ! コアラ」って作品を横浜市立金沢動物園で行われた「ナイトズー」って企画に会わせて作って、動物園で流してそこで歌まで歌っていた。シシヤマザキさんのように歌手デビューもあるのか? あと奥田昌輝さんはそのものずばりの横浜市のプロモーションCMとして、「あうたびに、あたらしい」という作品を作ってそれを会場で流してた。

 デンマークに留学していたらしい小谷野萌さんは、線で描かれたウサギが絡み合いながら線の色を変えていく変幻自在なアニメーションを制作。東京藝大院の修了制作展に出した「Mrs.KABAGOdZILLA −ミセス・カバゴジラ−」のようにストーリー性もあって絵もしっかりしていた作品ではなく、前に東京工芸大の卒展あたりで見かけた時のような、小谷野さん独特の雰囲気が現れた作品を作っいた。仕事にしろ留学中の作品にしろ作る場があって作る作品があって、それを上映しててみせる機会がある。卒業制作なり修了制作が文字通りの“卒業”であり“終了”になってしまいがちなアニメーション作りの世界で、卒業してからの活動の場をしっかりと得ている状況を見るにつけ、上映会の盛況も何か頷ける気がしないでもない。作家が増えても活動場所は増え好きな人も増えて観客でいっぱいになる。好循環。

 まあそれは表層で、個々には厳しかったりするのかもしれないけれど、それでもちゃんと作り続けていられるだけでも凄いことなのかも。そんなひとりで東京藝大院の修了作品の「澱みの騒ぎ」が毎日映画コンクールの大藤信郎賞を受賞した小野ハナさんが、自分の作品を手掛ける屋号というかレーベルとも言えそうな「銀杏に雨」として作った「あいたたぼっち」が第8回恵比寿映像祭の中でお披露目されていて、それが今回の「ANIME SAKKA ZAKKA×GEIDAI」にも登場。観たらこれも心に刺さる話だった。

 久しぶりに会った少女はいじめで自殺未遂をして10年分の記憶が飛んでしまっていて、その子を見舞っている時に少女の頭に見つけた隙間から落ちてしまうと、そこは心象の世界で自殺未遂をした少女の過去が迫ってくるというストーリー。記憶を失った少女がエンドウマメで友人の少女がキャベツという、擬人化というか野菜への擬態が行われたビジュアルは、その分いじめというとキャベツになってて人間じゃない分いじめというシリアス過ぎる問題から浮かぶ傷みめいたものが減衰されるけれど、見てくれが可愛らしい分、逆に切なさは強く浮かぶといった感じ。あとはアニメーションならではの幻想と幻惑が迷う心象を柔らかい線で見えやすく、けれどもそれだけ強烈に浮かび上がらせる。11分37秒もあるけど見入ってしまう作品。次に上映される機会があるかは分からないけれど、あったらまた観に行きたい。賞とかに応募はするのかな。追いかけていこう。

 いじめの問題は東京藝大院第七期生修了作品の木下絵李さんによる「アンケート」という作品がまさにそれを扱っていて、放送部員の女の子がいじめが起こるのはいじめられる人にも責任があるとアンケートで答えた生徒が、先生に呼ばれて諭される話をリポートしているんだけれどそうアンケートで答えた生徒が実は…、といった展開。目の前で陰口をたたかれている描写がリアルで、人形のストップモーションアニメーションなのに心にズキッと突き刺さる。本人を前によく言えるなあ。でもそれが実際に起こっているならたまらないよなあ。学校が地獄になる訳だ。そんな「アンケート」もあったAプログラム。山中澪さん「物語たちへ」は黒バックい白い線で動くキャラたちに会わせ3つの物語が語られ1回で耳に入ってこない。聞き分けると浮かぶ何かがありそう。買ったDVDを見直すか。

 片山拓人さんの「愚図の底」とそして梁佳緒里さん「微睡みの終末」は何か背中合わせのような関係にあるなあと思った作品。震災に囚われ続けて心身を泥濘に引きずり込まれるような不安を、泥臭い絵で描いたのが「愚図の底」だとしたら、「微睡みの週末」は終わりへと向かうか、すでに終わってしまってあとは残り火の中を淡々と生きているカップルを、漫画のようなデザインの線画でふわりと見せた作品。どちらも生きるに前向きとは言えず、というより状況がそうさせることを許さないけれど、そんな中でも瞬間をどう生きるかといった解釈で、溺れ続けるかそれともささやかな楽しさを求めるかで雰囲気も違ってくるのかもしれない。僕ななこのまさに今、じわじわと起こりつつある終末をどちらで生きる、ったって暮らし会話する相手もいない僕ではやっぱり「愚図の底」でのたうち回るのかなあ。

 レジェみたいなピカソみたいな女性のキャラたちが動き回っては、それぞれに自分たちの興味と関心を放ち続ける円香さんの「愛のかかと」はそのままアニメーション映画祭とかで上映されて共感を呼びそう。匂いに妙に関心がある少女だとか新聞の猟奇殺人めいた事件をスクラップしている老女だとか、彼氏のいびきがきになる女性だとか会社で辛いけどそれでも頑張る眼鏡のOLだとか。そんな面々の日々が重なり合い連なり合いなが描かれる。毎日を生きていこうって思わされる作品。K・チャヤーニットさん「Dear Little Tim」は4コマ漫画が動き出すような楽しさ。ショウ・セウツセイさん「見跡」は抽象的で観念的ながらも意志めいたものが感じられる作品。CGで作画されているのか映像としても綺麗だった。

 第七期修了作品のBプログラムでは清家美佳さん「ふりだし」が作品としてのまとまり具合で気になったかなあ。痛みか苦しみか何かをおしてコップに水を汲もうと走る様子をクローズアップからだんだんと引きつつ、コップを落として割れてそして最初へと戻るループとして描きながら、だんだんと変奏を加え次に何が起こるか興味を抱かせる展開が良かった。線と面とで構成された画面は端正だけれど不安定。それが観ている人に緊張感をもたらすといった感じ。オウ・イコンさんの「RED FOREST」は狼に育てられた少女的な内容を持った作品で、草原をかけて狼か何かと戯れる少女とそんな狼を狙うハンターの関係が、絵本のようなタッチで塗られ漫画みたいな少女のキャラで描かれていて一般の人も子供も引き付けそう。世界に出ても受けるかも。

 世界って意味ではビジュアル的に受けそうだったのが小川育さん「I think you’re a little confused」ってストップモーションアニメーション。腸詰めが誘われ部屋を出て肝臓入り腸詰めとやらを尋ねていく話なんだけれど、途中に骸骨がいて乾燥機から布袋を取り出し着てみたり、得体のしれないものが現れたりする中を進んでいって出会った友達とパーティしたら食われそうになって逃げてといった悪夢的ビジョン。プロダクションデザイン的にも優れていたしストップモーションアニメーションとしても見ていて巧みだった。海外とかこういうダークなストーリーの作品ってよくあるし、勝負したら結構行けるかも。プロダクションデザインという意味では1年次作品に出て来た和田健士郎さん「Notthing for them」も凄かったなあ。

 駒崎友海さん「Out of May Mind」は神経症的な世界で見ていて胸苦しくなた。リュウ・シンシンさん「夏の女神の口の中」は「ズドラーストヴィチェ!」的ビジュアルで描かれる夏の海岸。楽しさに踊りたくなった。そして大寶ひとみさん「おもかげたゆた」。誰がいたことを証言で追いかけ浮かび上がらせるルポ的作品。作者にとって誰なんだろう。とまあそんな感じでいろいろと見た修了作品展。ここからまた「MEC Award2016」で何冠めかの受賞となった「ズドラーストヴィチェ!」みたいにあちらこちらの映画祭に出品されて競う作品も出てくるんだろうけれど、願うのはここをゴールにはせず“卒業”でも“終了”でもなしに継続して作品を作り、世に送り出し続けていって欲しいってこと。そのための環境を僕が用意してあげることはできないけれど、機会があれば観て触れるくらいのことはするから是非に、頑張って作り続けそして見せ続けて欲しいと願う。ユーロスペースも出来れば行こう。3月12日から18日まで開催。


【3月5日】 夕べはその2日前の「訪問者」に続いて劇団スタジオライフの公演「トーマの心臓」を見たんだけど、山本芳樹さんのユリスモールは確か2014年の公演の時にも見ていたから感じはその時とだいたい同じで、能面のような顔の奥に懊悩を抱えて生きる少年って感じを見せてくれた。そして相手役にあたるエーリクが、2014年の時は及川健さんだったけれど今回は2014年版では山本さんとユリスモールをWキャストで演じた松本慎也さんが登板しては、小生意気でそれでいて純真で傷つきやすくて揺れ動きやすい子供とも天使とも言えそうなエーリクを魅せてくれた。顔立ちといい金色の巻き毛の具合といい萩尾望都さんのキャラが漫画から抜け出てきたかのよう。ミュージカルじゃないけど2・5次元の究極とも言えそうなその舞台の元祖ならではの完成度を、改めて見せつけられたって思いがした。

 そしてもう1人の核となるオスカーは、2014年版では看板女優めいた立場をずっと見ていた岩崎大さんがイケメンに演じていたけど、今回は「訪問者」でオスカーの実の父親となるミュラー校長を演じていた笠原浩夫さんが、その息子も合わせて演じるという1人DNA連鎖。そういう面白さを連続して見たことで味わえたのも良かったし、初演でもオスカーだったという笠原さんの20年近くを経てのオスカーが、多分昔と変わらずちょっぴり大人だけれど子供として父親を愛しく思い求める心情を、抱き続けているといった雰囲気を出していたのも良かったんじゃなかろーか。そんな3人の関係に、死んでしまったトーマを入れた4人の求め求められ拒絶し拒絶されながらも思い続ける強さってものが、浮かび上がってラストまで心を引き付けられた。

 松本さんのエーリクはもう本当にウザったくて、自分の思いだげが唯一でそれは母親に向かいユリスモールに向かって辺り一面を引っかき回しては、傷口をえぐり大勢を迷わせ困らせる。でも、そんなエーリクの傍若無人なアプローチがあったからこそユリスモールは固く閉ざして誰も彼をも拒絶していた心を開いて、エーリクの言葉に耳を傾け、自分の拒絶が招いた不幸と向き合いそして誰をも救う神の言葉を伝える身になろうと決意した。それは贖罪でもあるけれど、決して後ろ向きではなくトーマの優しさを背に受けともに飛ぼうとする前向きな心。そういう結末へと至ったと思えばエーリクのウザさも気にならなくなるか、っていうとやっぱりウザいか。だからこそのエーリクなんだけど。

 「訪問者」ではオスカーの父親のルドルフを本当に好演していた楢原秀佳さんは、「トーマの心臓」ではエーリクの母親が結婚しようとしていたシュヴァルツを演じて、血の?がらない子とどう向き合うか、っていった「訪問者」と同じシチュエーションながらも異なる心情を持った“父親”の像を見せていた。本当の子なら愛せるか、それとも育ててきた子なら愛せるのか、どちらでもなく同じ者を愛したもの同士なら理解し合えるのかといったさまざまな感情について考えさせてくれる役だった。そしてサイフリート。悪魔のような男を演じた青木隆敏さんは「訪問者」ではオスカーの綺麗な母親を演じてた。女性も演じられて悪魔のようなイケメンも演じられる役者。そんな人たちが勢ぞろいした劇団スタジオライフってやっぱり面白い。次は何をいつ観られるか。分からないけど萩尾さん作品じゃないのも次は観てみたいかな。最初に観た「銀のキス」、素晴らしかったものなあ。

 なでしこジャパンことサッカー女子日本代表が、おそらくはリオデジャャネイロ五輪に出られないことを寂しく思うし哀しく思うし悔しくも思うけれど、でも“その日”はいつか来る可能性があったこと。男子だって今の戦いぶりでは果たしてワールドカップ2018ロシア大会に出られるかどうか不安な訳で、中央アジアあたりの台頭に東南アジアの洗練、そして中国の強化といった辺りを考えるなら、予選突破は結構難しいところにある。女子の方もアジアに限らず世界が全体に底上げをして来て、パワー一辺倒からフィジカル+戦術へとその戦い方が変わってきた中で、チームワークという日本の優位性は薄れている。一方で2011年の女子ワールドカップの優勝に2012年のロンドン五輪での銀メダル、そして2015年のワールドカップ準優勝といった成功体験からの脱却がなかなかできないその狭間で、まずは女子代表に“その日”が訪れただけだと言えば言える。

 もちろん指摘するなら果たして戦術と呼べるようなものが行き渡っていたのか、って思わないでもない。ディフェンスラインからフォワードまでをコンパクトにして前線から守り奪い、両サイドが走り中盤と絡んでボールを運びサイドをえぐり、ディフェンスも前に押し出して全体で攻めていく、という基本的な了解すら覚束ないまま、全体に間延びした選手たちが長い距離をぽんと蹴ってボールを受け渡しするだけで精一杯といった感じで、感覚を詰めてパス交換をしながら前に攻めて走って崩して得点を奪うような戦いができていたかというと、このリオデジャネイロ五輪出場をかけた大会でも出来ていなかったし、もうずっと出来ていなかった。

 それでもひとり孤軍奮闘して、ボール奪取からボールさばきまでやり時には前線に飛び込む澤穂希さんというダイナモがいたから、ディフェンスと中盤と前線とが?がっていた。所属していたINAC神戸レオネッサで2015年の皇后杯を優勝できたのも、そんな澤さんの察知力と展開力があったから。けれどもそうした要の仕事が澤さんの引退によって切れてしまった。そしてその代わりを誰もできなかった。ずっと前なら僚友の加藤與恵選手がいたし宮本ともみ選手がいたし小林弥生選手もいたけれど、今の坂口夢穂選手と中島依美選手と宮間あや選手と川村優理選手の中盤で、澤選手のような泥臭くても要となる立ち回りを演じる選手が果たしていたか。そう思うとやっぱりこの状況は半ば必然だったかもしれない。

 必要な動きとは何でそれには誰だどう動くべきなのか。ってな約束事もなく自主的な意志も魅せられないまま漫然と、そこに選手を置いただけで始まってしまった試合が試合になるはずもなく、結果として至ったこの状況に選手を責めるというよりは、やっぱり指揮官の側にマインドを植え付けるだけの言葉があったかといった疑問が浮かぶ。走れ蹴れ戻れ守れ。それでは選手は動けても試合にはならず勝てはしない。戦術を固め必要な選手を選び長所を伸ばし短所を埋める作業をちゃんとして来たのか。そこが気に掛かる。もちろん選手の側にも自分が、自分たちがという意識がどこまであったかも知りたいところ。そういう役回りをかつての大部由美さんであり山郷のぞみさんであり近いところでは岩清水梓選手といった人たちが担っていたのが今回、誰も担えず担おうとしなかったところに綻びも浮かんで当然か。そのあたりはきっとくわしい人が語ってくれるだろう。あのメンバーに何が起こっていたのかと。

 リーグ戦で決して好調ではなかったのにINAC神戸レオネッサ勢を割に重用する選考も不思議といえば不思議。横山久美選手や田中陽子選手といった2部リーグでの得点源を速く呼ぶなり、今回の横山選手のように呼ぶならもっと早く呼んでなじませることも必要だった。長身の菅澤優衣香選手がポストとなれるならそれに絡ませるフォワードを置いて攻めるような練習も積んでおくべきだったけど、それが曖昧なまま菅澤選手はエースの自覚を抱けず、そして怪我をしてリタイア。結果としていつものメンバーによるいつものような決まらない攻撃が続き、間延びした中盤を抜かれディフェンスがあたふたしているところを決められる繰り返し。そうなると分かっていて修正できないところにもやっぱり指揮官の半ば諦めめいたものが感じられて仕方が無い。

 そんな気分を抱きつつ、けれども分かっているならそこをこれから直していけば良いとも思う。指揮官が替わるのは当然として、選手もメンバーを入れ替えどん底からの這い上がりといった強い意識を持つようになって、そしていつかのアテネ五輪へ、その前年のワールドカップへと進んだようなピリピリとした日々を、これからまた積み重ねていけば良いのだ。なおかつ今は、あの頃と違って知名度はありファンもいる。30人ではなく3000人がスタジアムに来てくれる。ずっと気分的にも楽だろう。少なくともサッカーは続けられるのだから。

 もちろん五輪に出られるにこしたことはなく、可能性があるなら挑むしかないけれども、現実を見ればとてつもなく厳しい。だからといって女子サッカーは終わってなどいない。ずっと存在していてそしてこれからも続いていく。あの頃と違ってチームは幾つもあるし、春にはまたリーグ戦も始まる。その日々に寄り添い応援を重ねた果てに、五輪なりワールドカップといった少しのご褒美があるかもと思って、それぞれが応援したいチームを応援し続けるのが、僕らのこれからだ。別に何も終わってはないし、何かが始まる訳でもない。ずっと続いてきて、これからも続いていく。それだけのことだと思って明日も通う。スタジアムへ。

 橋本環奈さんだ橋本環奈さんだ。橋本環奈さんに出会えるってんで当選したチケットを握りしめて角川シネマ新宿へと向かい、今日から始まった映画「セーラー服と機関銃 −卒業−」の上映とそして舞台挨拶を観る。その印象はといえば、とにかく橋本環奈さんが可愛くて凛々しかった。鈴のようなのに感情が混じるとかすれかけるあの声がまた良かった。TOHOシネマズの映画館で上映されるメガポップコーンの宣伝でも聞いていたけど、あの声は僕は売りになる。ただ可愛いだけの声よりも、聞いてピンと来る声の方が実は個人的には好きなのだ。

 だからもし、橋本環奈さんが何かの声優を演じることがあったら絶対に観に行く。棒読みではない感情のこもった演技も出来ると映画で分かったから、きっと声優だって楽々とこなしてくれるだろう。でもやっぱりの顔立ちも存分に観たいから女優の方が良いかなあ。とにかく目が綺麗。そして唇が可愛い。最後の方、赤くなっていたシーンでのあの美しさはもはや神がかっていた。そんな橋本環奈さんを女優として、これからもずっと観ていきたいけれども本人にそうした意識があるかどうかが多分重要。そこで鍵になるのが舞台挨拶での武田鉄矢さんの言葉で、今は撮影が終わったら福岡に帰っているけれど、女優になるならやっぱり東京に出てこい、そこで寂しさを噛みしめながら成長するんだといったようなことを話してた。

 「Rev.from DVL」のメンバーとして、九州のローカルアイドルとして活動している、そんな顔も持っている橋本さんが、ひとり地元を離れて東京に出られないことは多分、武田さんだって知っているだろう。けれども、それでも敢えて呼びかけたのは女優としての力量を買ってのことか。観客席の中程の通路で舞台方向を向いて行われたフォトセッションの後、背中側にも続いていた観客席の方にも向いて挨拶をしなさいよって、そっと橋本さんに促していた武田さんの気配り具合を考えるなら、橋本さんの置かれた境遇を知ってなお、自分にとっての決断とは何かを感じてもらいたかったのかもしれない。受けていったい橋本さんはどんな道を選ぶのか。次の映画がやっぱり鍵になるかなあ。

 さて、映画としての「セーラー服と機関銃 −卒業−」は、テーマとして社会派で若い人が都会に出て過疎化やら高齢化が進む地方の問題をえぐり、そこに忍び寄る暴力組織の存在を指摘していた。とてもあり得る話。それをカリカチュアライズしてリアリティを抑え、箱庭的な舞台にしてアイドル映画的分かりやすさで懲悪的展開を見せるから、2時間近くを楽しく見通すことができた。とはいえアイドル映画的などこまでもシュガーでスイーツな絵作りにはせず、ヤクザの抗争でどんどん撃たれ切られリアルに死んでいくハードさもあって、甘さに頭を抱えたくなるようなこともなかった。

 そんなバトルを長谷川博己さんと安藤政信さんがぶつかり演じるシーンの激しさ、美しさ、格好良さたるや! 舞台挨拶に女性が多かったのもそんな2人を観に来たのかも。残炎ながら安藤さんは体調不良で舞台挨拶を欠席したけど、スクリーン上でのあの狂気が舞台上でも繰り広げられたら、ちょっとしたパニックになっただろうからそこは欠席でも良かったかな。思えば1981年の映画「セーラー服と機関銃」は、名古屋の栄にある東映に観に行って満員の中で観たっけ。あれから35年。相米慎二さんばりの長回しでアイドル映画でありながらアイドル的美しさと物語の痛快さ、そして映像としての面白さを味わえる映画をまた観られるとは。これだから映画って面白い。機会があったらまた行こう。

 新宿からどこへ行こうと考えて、横浜の馬車道は遠いんで埼玉のSkipシティへと周り、今日から始まった映像のコンテストみたいな「MEC Award2016」ってのを見物する。前に何度が作品を観ていた高橋昂也さんの新作「Erg Chebbi」がとんでもなかった。以前は土俗的原始的雰囲気のアニメーションを作っていたけど、今回は1980年代的デジタル映像で、古いPCのブラウン管に現れるドットで描かれたような絢爛の街並みって奴がプロジェクターによってスクリーンに映し出される。どこかアラベスク的でルミナリエ風な光景が上下に流れて眼をキラキラとさせる。ハイビジョンの液晶モニターではなくスクリーンにプロジェクターで投影されるから、余計に前世紀的な印象になる。不思議な映像。どうやって作ったんだろう。ちょっと知りたい。ゲームな人とかにも観て欲しいかも。

 あとは何度も観ている幸洋子さんの「ズドラーストヴィチェ!」も来ていたけれど、投影されるスクリーンの両脇に、映像に添えられるナレーションより濃い内容のストーリーが手描きで大きく書かれてあって、ついつい読み込んでしまった。名古屋の結婚式はお金がかかるなんて話もしたのか。あとおじさんに買ってもらったという本とか。脈絡がねえなあ。澁谷岳志さんの「Holy Shit!」も入選作。これも「ズドラーストヴィチェ!」と一緒に藝大院の修了展で観ていたっけ。藝大院の人では池亜佐美 さんの「物騒な夜」ってのが佳作に入っていて、黒字に白の手足がうごめきなまめかしかった。佳作では武藤亮人さんという人の「ボンとハレトモ 〜古代遺跡で大慌て〜」が、エジプト王墓での戦いがゲーム内画面っぽく移り変わって愉快だった。

 こちらは入選作の鹿野洋平さん「せまい部屋に雨が降る」はメディアアート的な作品。並ぶモニターに映る瞳の真ん中に見える転がるや灯るライト。それが反対側の壁に映し出されている。見ることと見られることの関係を間に立って体感するといった感じ。入選作ではあと1本、阿部瞬さんの「母よ、アニメを見よう」は、プロジェクターを担いで蠢く何かをそこらへんに映しながら、何か居るよと叫ぶ息子を見守り支えいっしょに歩く母親の健気さに涙。親子のドラマを映した映像作品でもあり、オープン環境でのプロジェクションという行為でもある作品。そんな作品が並んだ「MEC Award2016」。場所も遠いし日本科学未来館では学生CGコンテスト、馬車道では東京芸大院の修了展、そしてタマグラの上映館なんかも開かれているから行く人は少なそうだけれど、高橋昂也さんの作品とかは他の上映イベントには入ってないし、アニメーションではない映像作品もあるんでそういうのに興味がある人は行くと吉。最寄りは川口駅からバスで、って感じ? やっぱり遠いや。


【3月4日】 莫迦だと言ってしまえば莫迦なんだけれど、もしかしたら五輪の聖火台は競技場の中に作られて始終観客から見えなくちゃいけないっていった周知が大会組織委員会にも、そして新国立競技場を施工する側にも徹底されていなくって、IOCから指摘されてはじめてそうだったんだーと知って驚き、日本の大会組織委員会が騒いだけれどもそんなことお前ら言ってなかったじゃねえか、だから別に聖火台なんて隣接して作って五輪の期間だけ使えば良いと思って競技場の中に設計しなかったんじゃねえかって施工する側も驚き慌てながらも全部俺たちのせいにするんじゃねえとか思っていそうな雰囲気。

 だって施工主は別に東京五輪のためだけに競技場を作るんじゃなくって、ラグビーのワールドカップも含めたさまざまな大会が開催できる新しい日本のナショナルスタジアムとして作ろうとしているんだから。なんで五輪のためだけに限定的な意匠をそこに盛り込むなんてことは最初っから考えていなくて、なおかつ考える必要もなかったのが、大会組織委員会側に文句が来て初めてそれで気がついたってことだったら、責任の大部分はやっぱり五輪を招致して運営にあたる大会組織委員会にあるような気がしないでもない。

 あるいは新しい競技場を検討している段階で、誰か聖火台はどうするの? って尋ねたけれども大丈夫大丈夫外に作ればって話になっていたのかも。ザハ・ハディドの案でも外に作ることになっていて、それが最初は通っていたんだからそこで気付かなかった大会組織委員会がやっぱり阿呆の震源地って言えるんじゃないかなあ。施工主はとんだ濡れ衣。とはいえ現実、聖火台は必要となってそれを作りたくても作れないならどうするか、ってところへ話は向かう。スタジアム内で完全防護のケースに入れて類焼しないような仕組みを作って燃やし続けるとかするのかなあ。

 あるいは21世紀も5分の1が経って行われるビッグイベントなんだから、21世紀的なテクノロジーを使った新しい形の五輪って奴をそろそろ見せても良いような気がする。聖火リレーだって聖火台だって最初からあった訳じゃなし。誰かによる国威発揚なり政治的なプロパガンダなりを含めて意図され企画され実行された過去があるなら、この辺でガラリと変えてハイパーなテクノロジーをぞんぶんにぶち込んだ新しい五輪であり聖火であり開会式なんてものを見せても良いような気がする。

 幸いにして日本には落合陽一さんに真鍋大度さんに猪子寿之さんに村松亮太郎さんにスプツニ子!さんに初音ミクにきゅんくん岩佐卓琢磨さん等々のテクノロジーを使いガジェットを組みあわせて映像や空間を演出することに長けた人たちがガンガン出ている。ならばこうした人たちを起用して今までのバジェットでは不可能だったとてつもない演出を、手掛けてもらえば世界に響く上に産業の振興にも?がるんだけれど、きっと現実は秋元康さんがプロデュースして小山薫堂さんがストーリーを書き葉加瀬太郎さんが音楽を手掛けAKB48が乱舞する光景が待っているんだろうなあ。それもそれで日本的ではあるんだけれど。未来があるかは別にして。はあ。

 正しい用語を使うならばアンカーマンでありアンカーパーソンであって、ニュース番組の仕切り役として集まってくるニュースを紹介したりリポーターとやりとりして情報を膨らませながら分かりやすく解説したり番組全体で取り上げるニュースの調整を行って全体の雰囲気を作ったりするのがアンカーパーソン、つまりは日本でいうところのニュースキャスターという存在の役割だろう。だから芥川賞作家で芸人が月に1回登場しては、何かを報じるのをキャスターとは呼ばずリポーターであって「ニュースステーション」に出ていた立松和平さんの役どころを今に蘇らせたに過ぎない。

 けれどもメディアって奴は、キャスターという言葉が持つなにやら知的で中心的な意味合いを、芥川賞作家で芸人の人に漂わせることによってニュースとしてのバリューをかさ上げしようとしている感じ。そういう無茶を指摘して引っ込めさせるのが真っ当なニュースキャスターの役割だけれど、当人が下駄を履かされたキャスターとしてリポーターとしての仕事をこなすという、この滑稽な風景が日本の報道のバラエティー化を招き、結果としての扇動主義を読んでそこに権力からの突っ込みを読んで衰退から弱体へと辿る中、よりいっそうのセンセーショナリズムなり事大主義なり見出し主義に走るという悪循環。視聴者は呆れ諦めながらネットに向かいテレビは空虚な言葉を電波に乗せて散らす。困った状況だけれど仕方が無い。衰退って奴は誰にも止められないものだから。

 そして気がつくと「ヤングキングアワーズ」で麻宮騎亜さんによる「彼女のカレラ」ではなくってそこに出てきた岬愛華って女子高生レーサーを主人公にした「ゼロ エンジェル 〜爽碧の堕天使〜」って漫画の連載がスタートしていた。RX−7に載っていたのがスバルのインプレッサWRX STiになってレーサーって感じよりラリードライバーな雰囲気も車からは醸し出されているけれど、そこはスタイリッシュな女子高生レーサーが駆る車だけあってインプレッサもゴツさよりクールさが前面に出た絵柄になっている。確か東京へと出てくる前は2代目のWRX STiを駆って峠を走っていたからそっちの方が実は性に合っているのかも。新車でも早速絡まれていたけれどもぶっちぎって勝利を重ねてブルーゴーストの名を再び轟かせそう。麗奈ほどのボリュームはないけどクールさで魅せていってくれるかな。「一騎当千」も始まってアワーズ、ちょっと面白いかも。

 クラウドファンディングで4月から始まるテレビアニメーションへの“支援”を呼びかけているのを見かけたけれども、集めたお金がいったい作品の具体的にどういった方面へと使われるのかがよく見えない。イベントに参加できたりスタジオ見学ができたり打ち上げに出席できたりといった“特典”への半ば対価としてのクラウドファンディングだとしたら、それはクラウドファンディングが意味合いとして持っている、普通の金融ではまかないきれない部分を直接、ファンの想いといったものを得て埋めて立ち上がろうといった作り手の意志に対して賛同を示すといった行為とはちょっとズレているような気がしないでもない。

 ようするに支払ったお金の多寡によってランク付けされたファンクラブってこと。もちろん新しいアニメの応援が仕方もあるよって募っているから、そういう内容はある意味正しいんだけれど、だったらクラウドファンディングでやらずファンクラブとしてやれば良いのに。むしろ本当に立ち上がるかどうか見えない作品に、ちょっとでも足しになればと応援するのがクラウドファンディングの心意気って奴な訳で、そういう作品へと回るお金が、ファンクラブ的な誘いかけによって持って行かれているとしたら、残念というか寂しい気持ちが浮かんでしまう。錦織博監督の「CHIKA☆CHIKA IDOL」なんてまだ2割だものなあ。ちゃんと作られるかなあ。あるいはちばてつやさんの作品のアニメ化プロジェクト。どうなるかなあ。


【3月3日】 100人が聞いて120人がそりゃヘンって言い出しそうな施策を堂々と、公然と、公費めいたものも使って繰り出す国会議員を間抜けと呼ばずして誰を呼ぶんだろうというか。何でも演歌が若い人たちにあまり聞かれていないと、俳優であり歌手でもある杉良太郎さんが考えていたこもあったのか、あるいはそういう考えを持った知名度のある歌手を巻き込んだのか分からないけれども国会議員の人たちが、超党派で「演歌・歌謡曲を応援する国会議員の会」を設立することを決めたとか。でも演歌にしろ歌謡曲にしろ流行歌であり風俗であって時の流れや社会の空気によって人気も出れば陰りも起こる。歌は世に売れ世は歌に連れとの言葉もあるように、どちらともなく賑わっては社会の空気を変えつつその変化に流され消えていく。これが演歌であり歌謡曲といった“歌”だろう。

 でも自民党に公明党、そして民主党をも含んだ国会議員の偉い先生はそうは考えなかったらしい。曰く「若い音楽ファンと演歌との『すきま風』を埋められないか−。歌手で俳優の杉良太郎氏と自民党の二階俊博総務会長らが2日、超党派の国会議員約40人で『演歌・歌謡曲を応援する国会議員の会』を設立することを決めた。『演歌離れ』を食い止める対策を考えていくという」。吹いたすきま風とはつまり社会の判断であって、国民の間に民主的に生まれた流れであって、それに棹を差して引っかき回すとかいったいどういうことかというのがひとつ。ただそれを言うならアニメーションをはじめとした映像文化を国が支援するのもおかしいという話になってしまうから、そこは産業として隆盛であり世界的にも競争力があるにも関わらず、構造的に歪んでいる部分を政治や行政が面倒みてよといった話にして支援を求めていけば良い。

 もうひとつ、アニメーションという表現技法とは違って歌の中で保護しようと国会議員が手を差し伸べたのが、どうして演歌であり歌謡曲なのかといったところ。それなら例えば民謡だって歌い手がおらず消えてしまいかねない文化であって、早急に保存する必要があるだろう。あるいはフォーク。歌っている人はいるけれど、いつかの全盛期とはやぱり人気的にかけ離れている。そしてデスメタル。ひとつの文化として存在しながら若い音楽ファンとの「すきま風」から一般にはなかなか普及しない。そんなさまざまなジャンルの音楽がそれぞれに困っているなら国会議員は「デスメタル・パンクロックを応援する国会議員の会」を発足させて、国会でデスボイスによる質問をぶつけ、受ける方は髪の毛を逆立て中指立てながら応えるようなパフォーマンスを見せてデスメタルやパンクロックを普及させるべきだろう。アイドル歌謡が廃れているなら女性議員が歌って踊っても良いけれど。良いけれど……中継は……。

 つまりは公平性と公益性の問題であって、自分たちが好きだからとかいった感情から判断したり、自分たちにとってよく慣れ親しんだジャンルに過ぎないだけの体験を伝統とかいって持ち出し、演歌をさも日本古来の何かのように持ち上げようとしているところに世間は胡散臭さを感じているのだけれど、俺がすべての国会議員な人たちにはそういう不審や不満は通じないんだろうなあ。そして吹く国民と国会議員のあいだの「すきま風」。でもメディアは国会議員に荷担し空気をそちらに染めつつ誘導していく。いずれこの勢いだと「軍歌」も廃れる伝統的な文化といって持ち上げ国会で全員が斉唱するような事態が起こるかも。 中上育実さんと森谷里美さんが招かれ歌うならそれはそれで見てみたいけど。

 魔法道具屋に行ってリッチーのウィズと再開する展開に、えっとウィズっていつ登場してたっけって、録画してあった「この素晴らしい世界に祝福を!」のアニメーションを見たけどどこにも出ていない。もしかしたら録画し忘れているかと週を追ったけど毎週ちゃんと録れている。それなのにどーしてウィズがお墓に行って成仏していない霊を浄霊していたところにアクアがやって来てどうしてリッチーがとまとめて浄化しようとして佐藤和真が取りなしウィズが街で魔法道具屋を営んでいると知っていずれ訪ねていくと言ったエピソードがないんだろうと考えたけれどやっぱりよく分からなかった。もしかしたら記憶から抜け落ちているのかも知れない。あるいはサブリミナル的に6枚のセル画の1枚がそのエピソードで知らず記憶にすり込まれていたのかも知れない。いずれにしても不思議な話。なんてな。

 どうやら情報だと「この素晴らしい世界に祝福を!」は放送が全10話らしくそれではやっぱり予定していたエピソードは入らずそれでも話を進めるために、とりあえず削っては後でパッケージで補完するとかいった話になっているのかな。元より金崎貴臣さんと上江洲誠さんのコンビって、「これはゾンビですか」でも第1巻を6話も使ってアニメーション化するとかいった描き方が得意で、「このすば」も割と1冊を分割して細かくそして丁寧に、隙間も埋めながら描いていたからまだ文庫の2巻の途中くらいまでしか進んでいない。残る話数でかっぱいだところで2巻が終わるのがやっとで4巻にある温泉回には届きそうもないんだけれど、ここで一気にホップステップしてやってしまうのかどうなのか。そんな想像もしながら残る話数を見続けよう。それにしてもやっぱりウィズ、大きいなあ。どこがとは聞かない。

 DJIって世界的に大きなドローンの会社が六本木ヒリズアリーナで新型のドローンを発表するってんで見物に。途中で時間もあったんで村上隆さんの五百羅漢展でも会期終了前に見ておくかと思ったら、50分もの待ち時間が出来ていたんで諦める。いやあこんなに話題の展覧会になっていたとは村上さん、まだまだ日本で行けるじゃないか。それともやっぱり五百羅漢という日本的なモチーフに、見入る普通の年輩の女性とか男性がいたってことなのかなあ、並んでいるのもそういう人だったし。ちょっと不思議。そしてドローンの発表は「Phantom4」という新型が登場。自動追尾機能だとか障害物を避ける機能だとかがあって誰でも安全にそしてすっげえ映像を撮れるようになっていそうなドローン。これが普及すれば映像の世界も変わりそうだけれど、使えるシーンも法律で限られてしまっているだけに、そこをどう安全を確保しつつ柔軟に利用を促していくかで日本の未来も決まりそう。

 それにしてもドローンなんてハイエンドでどこかオタク的なアイテムが六本木ヒリズアリーナという洋画のレットカーペットだとかジャパンプレミアなんかが行われる場所で発表されるとは、つまりドローンがそれだけ文化であり社会であり経済にとって普通に大きなアイテムとなって来た現れか。例えば自動車みたいに。それかビデオカメラくらいに。そういう雰囲気を作ることによって誰でも使えて簡単に録れてすごい映像が送り出せると分かった暁に、日本から世界と戦える映像が出てくるかどうか。そこが今は知りたいところ。でもOK Goが日本でドローンを使って作った映像は監督が日本人の原野守弘さんでその驚きは世界級だった。アイデアのどれだけをOK Go側が担ったかは分からないけれど、画期的なツールがあればそれを使い工夫するのには日本のクリエーターは長けている。ならば今後、すごい映像が生まれてくると信じたいけどそれにはやっぱり法律との戦いも必要になるから、そこをうまく案配していって欲しいもの。どうなるかなあ。自分でも撮ってみるかなあ。18万9000円なんてお金ないけど。

 「月夜&オパール」のシシヤマザキさんが作品で歌っている歌なんかを収録したCDを出してその販促も兼ねてか渋谷のHMVでイベントが開かれたんでのぞいてくる。単独ではなく同じ東京芸大院アニメーション専攻だった「ズドラーストヴィチェ!」の幸洋子さんとの対談で、家族のこととか占い遊びのこととか互いに好きな作品なこととか話してた。2人とも1年前に大学院を出て今はもう学生ではないけれどシシヤマザキさんはプロとして映像を作り画集も出して音楽もやっている幸さんは5日から埼玉のSkipシティで始まる「MEC Award2016」に作品を出したりして活躍中。新作のアニメーションがあるかは気になるけれども活動が続いているならそれはそれで。いつか見られると信じて応援していこう。ってか「MEC Award2015」は高橋昂也さんも出ているのか。久々だけれどしっかり活躍中。これは行かねば。

 幸福の科学がカルトかどうかは安易に判断はしづらく、社会問題や人権問題が浮上してこないとカルトと名指しで糾弾はできない。熱烈な信者がいようと教祖がアレであろうと言論と信仰は自由であってカルトと譏るのはちょっと違う。その意味では難民揶揄漫画で名をとどろかせた人の言は間違っていないのだけれど、一方で漫画家がそう言いたくなるくらい、そして同じことをテキサス親父が言っているように彼ら彼女らが幸福の科学に親しいことは浮き彫りになったとは言える。そして今後はその言をこそ幸福の科学に当てはめ差別的で暴力的な言動も辞さない人が支持している集団だと世間が思うようになる、そんなきっかけになるのかな。っていうか、いつかのアングレーム国際漫画展での両名の立ち回りを見れば、そんなバックグラウンドなんて明らかだっただろうに何を今更って感じ。なおかつそんな騒動を堂々報じてた新聞もまた一派なのだということも、改めて知られるべきだろうけどそっちに追求が及ばないのは、すでにバレバレだからか。だって僚紙が党首のコラムを連載してるんだもん。やれやれだ。


【3月2日】 「小説家になろう」とか「エブリスタ」とかいった小説投稿サイトから人気作品も生まれてくるのを横目に見ている場合ではないと、KADOKAWAも乗りだしはてなと組んで始めた「カクヨム」って小説投稿サイトで早速ひとつの悶着が。それなりに名のあるライトノベル作家の人が、自分の作品を電子書籍で出すって契約を結んだのに全然出ないのはどうしてなんだと、小説投稿サイトなはずの「カクヨム」上でツイッターに呟くように指摘してきた。小説でもなんでもなく、カテゴリーにあるホラーでも何でもなく契約上の不満を直公然と言ったこと。受けて版元も反応しようとしているみたいだけれど、行き違いの溝は埋まらず膠着状態になっている。

 ちょっと前にも作家の諸口正巳さんがツイッターで1年以上も前に原稿を上げたのに、ノベライズがなかなか刊行されないのはどうしでだって呟いて騒動になったことがあったけれど、ノベライズの原作を管理している権利元も含めてどうしでだって後押しもあり、版元としてもこれは対処しなと拙いとすぐに偉い人が立ち上がって収集し、落ち着くところに落ち着いてそれほどの炎上にはならなかった。それと同じような展開と、今回はならなかったのは場所が「カクヨム」っていう注目を集めているサイトで、小説の連載という形を取って見せたことで、真摯な異論というよりひねくれた冗句として世間が捉えてヤンヤと囃したからって感じ。

 それで声も大きくはなって広がったけれど、落としどころも見えづらくなっているだけに今後いったいどうなるか。知らずすらっと出してしまえば、それで収まりそうな気もするけれども果たして。しかしこれで注目を集めた「カクヨム」からそれなりな作家が出てくれば良いんだけれど、むしろこれまで書いていた人が、「小説家になろう」ほどのレッドオーシャン化していないブルーオーシャンと見てシフトしているって雰囲気もないでもない。裏返せば紙の本で何かを出すのが難しくなっていることの現れでもあって、出版の未来、小説の未来を明るいものと見るべきかどうか迷うところでもある。

 あとはやっぱり既存の小説投稿サイトとの勢力争いでしかないってことか。アクセスとかいくら集めたところで、それで本にならなければお金にはならない訳で、かといって今まで以上に本が出たら中味は薄まってしまいかねない。いっそそれなら「カクヨム」に加えて「アカイレル」って機能も添えて、プロの校閲が投稿に対して日本語として正しいか、整合性はとれているか、事実関係に誤りは無いかをチェックし赤を入れて帰すサービスを入れれば、本気で小説かを目指す人がこぞって投稿するんじゃないかとちょっと思った。その赤入れに耐えられる根性は必要だけれど、プロを目指すなら超えなきゃいけない壁だしね。うん。

 そして目覚めるとスーパーチューズデーとか言われるアメリカ合衆国での民主党と共和党による大統領候補を決める予備選が各州で繰り広げられていて、民主党はヒラリー・クリントン前国務長官がだいたいの州で勝って、バーニー・サンダース候補を大きく引き離した感じ。私用メール問題とかいろいろ降っては来ても致命的にならないのは、不用意ではあってもそれで何か問題が起こった訳でもないのと、対立候補のバーニー・サーンダース氏を選ぶ理由がとりたててないってことがあるのかな。

 だったらヒラリー候補かというとそれも悩ましいけれど、国務長官をやっているし何よりクリントン元大統領のファーストレディとしてホワイトハウスに暮らした経験もあって、ちゃんと分かって政治をやってくれるんじゃなかといった期待はある。もしくは当たり前のことを当たり前にしてくれるという印象が。だったらそれを押し出せば、おそらくは共和党からこのままの勢いが続けば確実に出てくるドナルド・トランプ候補に勝てるのか、ってところが難しいところだけれども7月の共和党の全国大会までには、やっぱりあの乱暴な物言いが咎められ、あるいは失言からトランプ候補が大きく評判を落とす可能性もある。身辺に及ぶ脅威もあってロップアウトを宣言する可能性も。

 それでマルコ・ルビオ候補が出て来てヒラリー候補と対決、っていう構図になればヒラリー候補が勝ちそうだけれど、こちらも失言とか批判を乗り越えたトランプ候補との一騎打ちとなるのか。それによって大統領選挙の風景も大きく変わってきそう。あの暴言だけれど心地良い言葉に共和党の全員が投票するかどうか、それなら民主党の候補でも構わないからヒラリーに向かう共和党員が出てくるか、ってあたりが分かれ目かなあ。逆に民主党員でトランプに投票するって人がいるかどうかも。現実の状況は、共和党に限って言えばトランプが圧倒的。その支持率のみならず支持数を数えた時にクリントン候補を上回る可能性があるかどうか、ってあたりが目下の関心事。さてどんなものか。そこまで見据えた展望を希望。

 困ったなあ。誤報だなんて間違ったことをしていると言って他紙を激しく糾弾するなら、まずは自分たちがそうしたことを一切していない必要があるんだけれどもとある全国紙、茨城県で活動する高校生たちを取り上げては、当人たちが言ってもいないことをそうだと書いて困らせている。違うと言って抗議してもなしのつぶてで、ちょっと前にムスリム女性に関する記事を掲載して、その真意を曲げて書いた毎日新聞に対して問い合わせを行い、謝罪・訂正にまで至らせた日本報道検証機構が、高校生たちに成り代わるように問い合わせを行っても返事のひとつもよこさないという。

 言った言わないという水掛け論になりがちだけど、それならそうだと言えば良いのに相手が高校生だからだんまりを決め込んでいるのか、言えば謝らなくちゃいけないと分かっているから口を閉ざしているのか。どっちしにても朝日新聞が誤報をやらかしたと全力で叩きに回っている媒体だけに、自らの誤報かもしれない事態には即座に答えるのが筋ってものなんだけれど、自分たちが叩く朝日は悪であり、誰かに叩かれる自分たちは善だともいった不思議な価値観でもあるんだろうか。そうとられても不思議じゃないような腰の二枚っぷりが傍目にも見て取れる。

 どっちにしても厄介極まりない話。別の誰かは高校生のデモを取り上げヒットラー・ユーゲントや紅衛兵みたいだとポン酢なレッテルを貼って失笑を買っていた。人権蹂躙と抗議されれば謝らなくちゃいけないような言動を、衒いなく迷いもなしに発することが出来る人間が、メディアにいて大手を振っているというこの状況がたまらなくむずがゆい。都議会議員が自分の質問中の写真をプロのカメラマンに適正な範囲で撮らせたことを不当なように角度を付けて書き散らし、それは違うと抗議され、内容証明を出されてもだんまりといったこともあるらしく、それで他の誤報がどうとはよく言えたものって感じも。そんな矛盾がじわじわと信頼を削っているだけに、そろそろどうにかしないと本当に首も絞まるかも。それともとっくに締まっているのかな。何ともやれやれな話。

 そして誘われてシアターサンモールで劇団スタジオライフによる「訪問者」。もちろん萩尾望都さんの漫画を原作にした舞台でいっしょにやっている「トーマの心臓」のスピンオフ的ストーリーとしてオスカーという生徒の過去を描いている。その舞台はといえばもう漫画そのもの。相当に完璧なまでに萩尾望都さんの原作漫画のビジョンを舞台に写してる感じがする上に、プラスアルファも混ぜてオスカーの少年期というよりグスタフという父親のズレながら懸命に生きようとして、けれどもズレてしまうどうしようもなさを浮かび上がらせていた。原作だと息子を放ってほっつき歩くダメ親爺っぷりが先に立つけど、舞台だとどうしてそんな人間になってしまったかということを、過去なんかも交えて描いているからそうかそれなら仕方が無いかって気にもなる。

 そんな揺れ動く中年男グスタフを楢原秀佳さんが徹頭徹尾、演じきっていたのが印象的。あと刑事のバッハマンを演じた倉本徹さんも良い味を出していた。大人のイケメン男性が少年を演じることに話題が向きがちな劇団スタジオライフだけど、この「訪問者」は中年男とおばさんたちがいっぱい出てきて、人生を滲ませ性格を露わにした演技を見せてくれる。こういう舞台も出来るし演技も出来るんだなあ、って役者だからそれも当然か。そんな大人達に囲まれて、母親に愛されながら父親を愛したいけどうまくいかない関係の中、迷い惑いながらそれでも天津欄間でいようと明るく振る舞うオスカーを、久保優二さんがこれもしっかり演じきっていた。少年そのものだった。そこにはしっかり萩尾望都さんの描く漫画の世界があった。素晴らしい舞台。母親ヘラの青木敏隆さんも綺麗だったなあ。眼鏡のニーナも可愛かった。引き締まって原作を崩さず奥行きも見せてくれる演目。見られる人は観ておいた方が絶対に良いと断言しよう。次は「トーマの心臓」。前も見たけど今回はどんな感じになっているか。楽しみ楽しみ。


【3月1日】 ふっと思い立って録画しながら2話あたりから見ていなかったアニメーション「この素晴らしき世界に祝福を!」を見始めたら面白くって最新話まで行って戻って見直したりして時間をいっぱい使ってしまった。おかげでサッカーの女子日本代表の試合を見るのがおざなりになってしまったけれど、負けた試合を見るのも辛いんで仕方が無いってことで。愛がないなあ。でも愛で勝てるなら見るけれどそうでもないからなあ。もといアニメ版「この素晴らしき世界に祝福を!」は監督が「これはゾンビですか?」の金崎貴臣さんでシリーズ構成も同じ「これゾン」の上江洲誠さん。なるほどだから本編のユルく流れる展開に含まれた毒気を増大させ盛り上げ引っかかりも増やしてついつい観居てしまう作品になったのか。

 神様で浄化の能力には長けていても知力が今ひとつのエリスとか、魔法使いとして優れていても爆裂魔法にだけこだわって他は何も得ようとせず、そして1発撃てばその場で倒れてしまうめぐみんとか、剣をふるえば何にも当たらずそれでも強靱な肉体でもって盾となり、なおかつそうやって蹂躙されるのが大好きらしい美少女のダクネスといった具合に誰も彼もが最強だけれど変態といったキャラクターは「これゾン」にも通じる部分。見た目の素晴らしさと言行のあり得なさのギャップって奴を存分に描いて笑わせてくれる。そしてやる気のない佐藤和馬。現代から転生する際に無理矢理女神のエリスを引き連れてきたろくでなしだけれど、周りが周りなだけに沈んでいては生きていけないと、知力を発揮し幸運を活かしているうちに、それなりなリーダーっぽくなっていく。

 もちろん異能を発揮し大活躍て感じじゃなく、それは周囲がやるんだけれども作戦だとか鼓舞だとかいった部分でも役に立てるというのは人にとって嬉しいこと。そういう和馬を観て何の取り柄のない僕達は、それでも何か出来ることがあるんじゃないかと思い安心するのだった。どうせ出来るのならスティールのスキルくらいは得たいもの。それで何を取るかと言えば和馬と同じ物、になるんだろうけど人前でやったら確実に捕まるな。和馬もそれが後々に聞いて変態で悪辣な人間と思われたみたいだし。

 アニメの方の進み具合だと文庫の2巻あたりまでか。「これゾン」も1冊を3話くらいでやったりして結構ゆったりすすめてた。その辺りも金崎×上江洲コンビの真骨頂か。つまりは第2期もあるってことかな。どシリアスでどリアルな「灰と幻想のグリムガル」とは対極の転生アニメ。これが同じ時期に放送される日本のアニメの豊穣と、そして原作となったライトノベルの多彩さを喜ぼう。  電撃文庫の方ではシリアスにしてダークな青春小説の松村涼哉さんによる「ただ、それだけでよかったんです」を出した第22回電撃小説大賞の受賞作品から、メディアワークス文庫でも幾つかの作品を刊行。そのうちの銀賞を受賞した結月あさみさんによる「恋するSP 武将系男子の守りかた」(メディアワークス文庫)を読んで、福田政雄さん「殿がくる!」(スーパーダッシュ文庫)を思い出した自分はもしかしたら相当な年寄りなのかもしれない。志野靖史さんの漫画「内閣総理大臣 織田信長」を思い出したってことも含めて。

 1994年から1997年くらいにかけて出ていた漫画「内閣総理大臣 織田信長」は、現代に転生したかのごとくに登場した織田信長や家臣団が、戦国武将ならではの決断力とか知力とかを発揮しながら日本の政治を引っ張っていくといったもの。とりわけ信長が見せる傍若無人ぶりは、固定観念に凝り固まった現代をぶちこわしてカタルシスを与えてくれる漫画として、結構な話題になったっけ。いつか誰かがドラマ化すると思っていたけど、実現しなかたなあ。そしてライトノベルの「殿がくる!」は、タイムスリップして来た織田信長の思考と決断力が現代を毒する政治や社会に切り込むといった話。あと相場師としても信長、凄いところを見せていた。

 こうした作品に対して「恋するSP 武将系男子の守りかた」は、現代にタイムスリップして来た長尾景虎こと上杉謙信も、武田晴信こと武田信玄も、そして織田信長も積極的に現代には絡まない。というより現代に絡んで未来を知った戦国武将たちが、例えば明智光秀の謀反を阻止すると行った具合に過去を変えて現代を変えてしまっては困ると考え、タイムスリップして来た城から外に出さないよう、保護と称する監視も兼ねてSPを付けると行った展開。そのSPとして、警視庁に入ってようやくSPになれたばかりの黒田千奈美という女性が配置され、そこで戦国さながらにおなごには貪欲で、なおかつかつて愛した女性にそっくりな千奈美を強く欲する。

 つまりは草食系で言いたいことも言えずしがらみに縛られがちな現代の男性とは違った、荒くれだけれど筋が通って積極的な武将系男子といったものを見せて女性の心を揺らすといった設定。現代人が尋ねてきても刀で斬って追い返したりする信長の乱暴ぶりには臆するけれど、それも含めて好みといったりする千奈美の先輩の女性SPもいたりするから、やっぱり戦国武将には現代人にはない何かがあるんだろう。そういう部分を描きつつ、一方で現代のことを密かに調べて知っていくという、さすがは乱世を生きている戦国武将ならではの策略も見せてくれる信長ほか。それで過去が変わるかどうか、ってあたりで筋が通った戦国武将ならではの、生き様と覚悟って奴を見せてくれるところにも、キュンと引かれてしまいそうになる。

 信長は運命を知って現代の文明を取り入れてそして過去に戻って何をしでかすか。それとも何もしないのか。武田晴信らしき人物がどうやら影武者と分かって、その代わりになった男はいったい何を目論むのか。そして上杉謙信は現代に来て恋路を改めて確認しながら、過去に戻って純情をどうやって貫くのか。そんな結果としての現代があるということは、つまり誰もが歴史に準じたってことになるのかな。続きは作られそうにもないけれど、あるいは何度か現代にタイムスリップしてくるような展開が考えられるのかも。応募時には4人だった武将が3人に減らされたってことは誰が減らされたのかにも興味。そんな武将は他の戦国武将たち、島津に毛利に長宗我部に徳川等々が、現代に来てはやり武将としての潔癖さを貫くか、それとも違う部分を見せるのか。そうした武将たちが現代に何かを与えることはあるのか。なんて興味も浮かんだんでここは是非に続きを。それにしてもiPadに驚かず使いこなしてしまう織田信長はやっぱり凄いなあ。本能寺で死なすのが惜しくなって来た。

 「GAME ON」の内覧にも行きたかったけれども誰かが行くみたいだったんで重なってももったいないと「ラブライブ!」のコラボが開店と同時に始まった「アニON STATION 渋谷店」の内覧へ。前に新宿歌舞伎町で店を構えていた時は、ライブとカラオケの雰囲気を誘いつつアニソンがかかりPVなんかが上映されているスペースで、みなで楽曲を聴きPVを観て盛り上がろうって感じのスペースで、特に何かとコラボレーションをするとは決めていなかったけれど、いったんの閉店を経て渋谷や札幌、名古屋、福岡での再開となった今回は、基本的にアニメ作品とのコラボ行うスペースとなった様子。もちろん歌舞伎町でも「美少女戦士セーラームーンCrystal」とのコラボなんかをやっていたんで経験はあって、その好評も受けての路線修正ってことになるのかな。

 だから流れる楽曲は「ラブライブ!!」に登場する「μ’s」が中心で、メニューもメンバーにちなんだパスタやケーキやおでんなんかがまずは登場。これも10日ごとに切り替わって、一気にすべてを楽しめず、だから何度も行かなくちゃいけないって気にさせられる。コースターがつくドリンクだって9種類あって1度に全部は頼めないから、やっぱり通うことになりそう。何しろ3月は「μ’s」のラストライブも控えた大事な月なんで、そうしたファンの内心の盛り上がりを受けて店にも大勢のラブライバーが通うってことになるのかな。ただこれだけの看板をいきなり掲げると次に来るタイトルが大変になりそう。どんなコラボなら集客があるか。って考えると女性が来そうなタイトルになるんだけれど、「おそ松さん」とか「TIGER & BUNNY」なんて他でもやっているからなあ。かといって「THE IDOLEM@STER」ってのもちょっと。そんな辺りを思いながらまずは1カ月の様子を見よう。行列できるかな。


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