KOKORO
ココロ

 「泣いた。まじ泣いた」と、東京・北千住にあるTHEATRE1010で上演された「舞台劇ココロ」を見て、2011年4月29日付けの日記に書いた。

 クリプトン・フューチャー・メディアが送り出した、ボーカロイドソフトの「鏡音リン・レン」を使って、作曲家のトラボルタが作った「ココロ」という楽曲は、ボーカロイドという単なるコンピューター上で動くプログラムが、人間らしさを持った歌声を響かせ、世界に驚きを与えた現象から強くインスパイアされつつ、当のボーカロイドを使って作られたものとして、ボーカロイドの持つ奥深さを広く印象づけた。

 その「ココロ」という楽曲から、石沢克宜がさらにインスパイアを得て、脚本を書き演出をしたのがこの「舞台劇ココロ」。そこでは、繰り広げられるロボットとココロについての物語が、そうした設定を多く持つSFが好きな人に限らず、誰もが常に考えて、考えて、考え抜いてもなかなか明解な答えを得られない、ココロとは何か、ロボットのような人間が作り出した存在に、人間のようなココロを持たせられるのか、といった問いに対する、ひとつの道筋を見せてくれていた。

 ある民間企業が作った、2号機と呼ばれている美少女型のロボットは、話しかければ当意即妙な受け答えをして、人間の少女らしく振る舞ってみせるけれども、それはやっぱりプログラムに過ぎないと見なされていた。実は、過去にそうではなく、人間のココロに近いものを植え込んだロボットも、企業では作り出すことに成功していた。それが今は使われておらず、後退したかのような状況を甘受していたのには、事情があった。

 そこに、かつてココロに近いものを持つロボットを生み出しながら、今は使われなくなった事情によって、研究所を追われたわれた科学者が戻ってきて、完成した、完璧だと自認する“ココロシステム”を、2号機のボディに入れ込み、ココロを持っていたという1号機、すなわちリンを復活させようと企む。というのが「舞台劇ココロ」の一方のストーリー。一方では、500年後という遠い未来の世界で、長い眠りから目覚めたロボットに向かって、どこかから侵入して来た兵隊たちが、ココロシステムを探していると告げて始まるストーリーが展開される。

 そこから、ココロというものをめぐる、さまざまな思いが紡がれていった「舞台劇ココロ」。人間によってココロを持たされたロボットの悲劇が描かれ、ココロを持たせた科学者の懊悩が示され、ココロを忌避した科学者の誠意が繰り出され、そしてココロとは何かと模索するロボットの、強くて激しい希求のココロが描かれていく。

 そんな舞台から浮かぶのは、ココロがあればすべてが救われ、報われるのだという考え方。逆に、ココロなんてものがあるから、痛みを感じ苦しみを覚えるのだとい考え方。ココロがなければただのコピーに過ぎないという考え方や、コピーであってもその経験は記録となり、記憶となってかけがえのないココロとなるのだという考え方。どれも間違いかもしれないし、どれも正しいかもしれない。「舞台劇ココロ」を見た人は、そんなさまざまな思いを感じさせられることになる。

 そして訪れるラストシーン。記憶とは記録の積み重ねによって生み出された、唯一の経験であり、それがすなわちココロなのかもしれないのだと思わされる。自分が憶えていさえすれば、いつだって記録は記憶となって甦り、ココロを強く揺らすのだ。誰かに憶えていてもらえさえすれば、記録は記憶となって浮かび上がって、ココロを激しく揺さぶるのだ。

 憶えていれば。憶えていてもらえすれば。そのために今、自分に何ができるか。そんな思いにかられながら、にじむ涙をぬぐった「舞台劇ココロ」。それから1年後の2012年4月。脚本・演出の石沢克宜によって「舞台劇ココロ」がノベライズされて「ココロ」(PHP研究所、1200円)として登場した。

 展開は舞台とほぼ同じ。舞台とは違って空間的な制約がないことから、外を見たがる2号機に、展示会場のシャッターを開いて、潮の混じった外の風を浴びさせるような描写もあって、ココロがないはずなのに、人間らしさ、少女らしさをのぞかせるロボットの姿が、人間そっくりにふるまうことと、人間のココロがあることの、何が同じで何が違うのかを、改めて考えさせる。

 舞台上で役者たちが、言葉と演技によって作り上げたキャラクターが、まるで舞台から抜け出てきたかのように映るのには、ただただ驚くばかり。天本という2号機を作り上げ、面倒も見ている科学者や、ココロシステムを作り上げながら放逐された、岸田という天才肌で身勝手な科学者は、舞台で演じた役者の雰囲気を、そのまま持った性格や立ち居振る舞いを、文字の上でも繰り広げてみせる。

 2人の間で揺れ動く町子という科学者の、苛立ち暴走しながらも反省してしゅんとなる可愛らしさも、演技者そのままの雰囲気がよく写されている。何より2号機であり、リンというロボットでもある少女たちたちが、舞台上で見せたぞんざな言葉や無邪気な振る舞いが、小説版の方でも実に良く再現されている。加えて、心象の世界で2号機たちが、集団化して走り回る場面の妙な可愛らしさは、舞台では絶対に実演不可能なシチュエーション。読めば舞台を見た人ならその演技を思いだし、見ていない人でもその尊大で、ぞんざいで、憎めないキャラクターのファンになるだろう。

 人類のこの先、テクノロジーのこの先を感じさせてくれる設定を持った「ココロ」。同時に、ロボットという存在と人という存在との決定的な差異は何か、あるいは、差異なんてものがあるのかといった、これもSFに主流のテーマが描かれた「ココロ」。過去にも小説に、漫画に、ゲームに、アニメに描かれさまざまに出されてきた答えとはまた違った、「ココロ」ならではの答えを示してくれる。

 復活したロボットが、500年後の未来で兵隊に提案した指切りを、反転させるかのように現代において、ロボットが天本から提案される裏表のシチュエーションが、隔絶してしまった時代の遠さを感じさせつつ、かつての記憶をたどるかのようなその振る舞いに、あるいはココロとは自然に宿るものなのかもしれないと思わされる。

 舞台上でのそうしたやりとりをふり返れば、再びの感動を呼び起こされるシチュエーション。出来れば今いちど、舞台として見てみたいという思いにもかられながら、かなわない願いは2011年の公演を収録したDVDや、それ以前に別の劇場で繰り広げられた公演のDVDを見ることで補いつつ、ようやく出た小説版の完璧なまでの筆をたどって、そこに感動を甦らせてまた泣こう。まじ泣こう。


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