縮刷版2010年5月下旬号


【5月31日】 とはいえしかしやっぱり違いすぎたイングランド代表と日本代表。ルーニー選手あたりから反対側のサイドへと早くて正確なクロスが飛んでそれをサイドにいる選手がぴたりと足下に治めてすかさず走り出しては日本のディフェンスをかわし、そのままスピードのあるクロスをゴール前に送り込むとそこに2人3人とイングランドの選手が走り込んでいる。間に合わいそうもないと慌てて日本のディフェンスが遅れながらもカバーにはいろうとしてもゴールに向かいながらの守備だから、ああいったオウンゴールが生まれてしまうという寸法。まったりと攻めたからただ闇雲に放り込んで跳ね返される日本代表とはレベルも違えば実効性も違う。それを支えるのが正確なトラップ技術にフォローへと走るランの豊富さ。一朝一夕で日本が真似ようたってそうはいかない。

 グラウンドで回している時だってピタッと足下にボールを治めてからすぐに走り出すなりパスを出すなりして攻撃へとつなげる。無駄がない。相手に近寄らせる余裕もない。普段から当たりの強いプレミアリーグで素早い動きにまみれていれば、正確さも要求されて巧くなるし、巧くなければプレミアなんかにいられず代表にだって入れない。そんな切磋琢磨の上に屹立する代表選手達と、緩さが見える日本のリーグで王様をやってしまっている選手達とではやっぱり差が出て当然か。なるほど海外で揉まれている選手もいるけれど、激しさで成るプレミアで成功した選手が1人としていない、ってところがやっぱり日本の限界を示しているんだろうなあ。せめて1人でも。闘莉王選手あたりがやっぱり呼ばれたりするのかな。最強のフォワードとして。敵に勝たせるためにオウンゴールを決めさせる忍びとして。
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 何か人気なのあエケッコー。送られてきた通販のメールのタイトルに「願う物をぶら下げると願いが叶う」とか書かれてあって「エケコ人形」とあったから、前に流行ったタイのブードー人形みたく名前はオカルティックでも、その実配置のブードゥー教とは関係なくって針も刺さなければ釘も差さない紐で作った可愛い人形を今度はエケコ人形と読んでいるんだろうなあ、なんて思ってメールを読んだらそのままエケッコーだった。どういうことなんだ。調べたら何やら日本テレビの「世界仰天ニュース」とかいう番組で紹介されてらしくって、それで通販サイトなんかが一斉に一押しをかけて売り出して、そして評判を聞いた人たちによって代われて品切れになるところも出ているとか。送られてきたメールのサイトもその時点で売り切れ。なんだそりゃ。

 テレビで取り上げられるととたんに流行始めるあたりは、テレビってメディアがやっぱり伝播力影響力では未だトップにあるってことなんだろう。だからそれをどう使うかってところが問題なんだけれども、こうした流行グッズの紹介はともかく社会でも政治でも他にならって横一線、同じ論調を重ね合わせて増幅させては誤解曲解迷いに混乱を生むだけなんだからなあ。影響力があるんだからそれぞれに独自の主張を重ねて影響力を競い合えば良いのに。瞬間の数字を競い合うから横並びになってしまうんだろうなあ。そこがだから影響力を持ちすぎてしまったメディアの陥穽でもある、と。好みに応じて細分化された情報を提供するネットに向かうってのもよく分かる。うんん。

 いやだからエケコ人形だ。何で今更って思ったのはそれが家にすでに1ついたりするからで、あれはいったいいつだっただろう、まだ日記を書き始めてもいなかった1990年代初頭に、近所でもないららぽーとへと歩いていってそこにあった南米あたりから品物を持ってきていた雑貨屋に、並んでいた不気味な人形を買って帰ったんだったっけ。ちょび髭を生やしたおっさんで、首からいろいろと供物を下げてそして口を開けて笑ってる。その口には煙草をくわえさせるのが倣いってことなんだけれど、前はちゃんと立てて置いてあった場所の上から本が崩れて、本体が埋もれてしまった関係でとてもじゃないけど煙草をくわえさせておけない。ってか信仰にすらなってない。

 あれで一応神様なんで、粗末にした罰があたって何の願いも叶わず未だ無名のまま関心も寄せられずそろりそろりと生きていたりするんだろうか。たかが人形と侮るなかれ。あの直木賞作家の三浦しをんさんは、2000年に昨今の就職難を予見し皮肉りつつ、挑戦し突破する女性の姿を描いた「格闘する者に○」でデビューした三浦しをんさんは、その時に加藤文さんからエケコ人形を贈られているのだった。その後の三浦さんの活躍ぶりは誰もがご存じ。腐女子の星となり直木賞作家となりイケメン俳優たちによって作品が映画化され漫画にもなり宮崎駿さんから序文を贈られそしてそのうちノーベル文学賞も取るだろう。そんな成功の源にこのエケコ人形があったとしたら? 効果はやっぱり絶大で、讃えれば叶い讃えなかった僕が沈み込んでいるのも当然か。引っ張り出して掃除して崇め直すかエケコ人形。三浦さんちは床の間に飾ってあるんだろうか。

 銀座にある「ggg」こと大日本印刷のやっているギンザグラフィックギャラリーへの来館者が100万人に近づいているってんで100万人目を目指して潜り込む、じゃなかた取材がてら見物に行く。グラフィックっていうどちらかといえば商業作品として見られはしても残されず喜ばれはしても讃えられない、アートとは一線を画したとこにいたりする作品なり表現のその実とてつもなく素語くって素晴らしいってことを見せるために、20数年前だったかに大日本印刷が、ポスターなんかを刷ってる関係もあって自分たちで立ち上げたのがggg。もう亡くなってしまった田中一光さんを中心にして日本のグラフィック表現だけでなく世界のグラフィックも紹介していく展示は、広告の街でもあった銀座に通う広告に携わる者たちに、誇りと喜びをもたらした。

 90年代半ばあたりから通い始めていろいろと見たけど時代を追うごとに持ち込まれるテクノロジーもあれば、変わらず平面のグラフィックで勝負する人たちもいて、それでどちらかが古めかしくなるかというとそうではなくって、過去の名作ポスターなんかが展示されている回なんかでも、常に時代の最先端をあらわそうとした苦闘が現れていて、懐かしさよりもむしろ新しさの方が浮かぶ作品が多かった。昨日までやってた井上嗣也さんの展覧会には「いけないルージュマジック」で札束をエケコ人形よろしく首から提げた忌野清司郎さんに坂本龍一さんが描かれたポスターが張ってあったけど、そのぶっ飛び具合はファッションの時代性はさて置き今に通じる爆発力だった。あの時代に2人を使うのって、それこそ冒険だったんだよ。

 そして100万人目としてやって来た人には最初はこの人で良かったのかって感じで 拍手がおこってそして一体何が起こっているんだ? 的なリアクションの中で田中一光さんデザインの時計や永井一正さんデザインの風呂敷なんかが贈られた。2人ともgggの運営に関わってきたか関わっている人たち。それを知っていれば分かるしそれを知っている人だったから良かったけれど、フリーで入ってきた一般人が言われて田中一光、永井一正、亀倉雄策と言われて果たしてどれくらい伝わるか。そこがグラフィックって世界の立ち位置の不思議さで、だからこそgggが持つ意味ってのもあるんだろう。次回は6月4日からネビル・ブロディ展。懐かしい。デジタローグの江並直美さん経由で知って10余年。バブルとパルコの残り香が漂う中で次代を伺わせる存在として現れそして20年を突っ走り続けたその成果を、さあご覧あれ。


【5月30日】 気のせいか違うのか、iPadでTwitter向けに文章を書いて送ろうとするとさっきまで繋がっていたWi−Fiが切れてしまっていて送れない。アプリを閉じてまた開いても接続は戻らず。サファリでも同様。設定まで行き接続し直すか、APPストアのアプリを立ち上げると自動接続が始まってまた繋がるんだけれど使っている途中でやっぱり切れるという繰り返し。これが4月の米国でのiPad発売当初から話題になっていたWi−Fiの不具合なのかは分からないけれど、シームレスにネット環境を使っていたい人には割と煩わしいかも。複数のアプリを同時に立ち上げられないiPadなだけに、なおさら閉じてつなぎ直すのは面倒だし危なっかしいので、アップルには善処を求めたい。まあ聞こえないだろうけれど。

 ローマ風呂の偉い人に会え、Kalafinaの素晴らしいライブも見られた昨日夕方から夜にかけての経験を経て心地よく眠ってから起きて支度をして今日は池袋へ。途中で昼食に入ったジュンク堂の裏手辺りにあるラーメン屋でネギ豚ラーメンを頼んで待っていたら、席を後から入ってきたカップルのために横にずれてあけてくれと言われてあけたところ、出来上がったネギ豚ラーメンがさっきまで自分の座っていた席に座ったカップルの男のところへと行きやがって、どういうことだと文句を言っても後の祭り。親切を仇で返され腹が立ったけれど、腹が空いていたので居続ける。

 まあでもカップルで頼んだのに男だけ早く来て、っていうか僕のを横取りした感じになって食べ始めても、いっしょに頼んだ女子のがなかなか出てこず気まずい思いをさせられたので良しとしよう。ネギ豚ラーメンの呪いは深いのだ。横取りしたってことに気づいていた風がないのが若さ故の気配りのなさって奴だろうけど。ああ暗い話だ。10数年ときざ見続けてきたにも関わらず、世間からまるで関心を抱かれていない状況への絶望感に、じわじわと蝕まれて来ているなあ。こままでは消えてなくなってしまうかもしれないと気を取り直して、頑張る人を見物に行ったら頑張ろうって気になれた。

 それは夏達(シャンタァ)さん。言わずとしれた漫画「誰も知らない 〜子不語〜」(集英社)の作者の人。中国の山村を舞台に、学者と絵描きの夫婦のもとに生まれた娘が、備わっていた能力で妖怪変化や幽霊なんかを見て感じていきながらも、闘うとか調伏するとかじゃなくって、そうした存在が示す旧いもの、懐かしいものへの意識をあらためて世に示して、敬愛の気持ちを取り戻してもらおうって振る舞うストーリーが収録されたコミックス。描き出される繊細な筆致による懐かしくて恐ろしくて愛しい世界は、夏達さんが日本人ではなく中国人で、それもとてつもなく綺麗な人だといった情報が瑣末なものに思える位に、すばらしくて美しくって切なくって嬉しくって心に響く。

 漫画を描く姿勢もとっても前向きで熱情的な夏達さん。何よりも真面目でしっかりとしていて、顔が出ることをそれほど良しとせず、自分が描く絵や漫画を感じて欲しいといったことを望んでいる節がある。とはいえ世のメディアはそうした本質よりも、表層を重んじ本人の真摯な願いの逆を行ってしまいそうになりがちだから悩ましい。それがメディアだからといって、本質をすっ飛ばしてしまうってのはやっぱり違うよなあ。なのでこっちはそうした本質に迫っていければ良いんだけれど、でもいくら迫ってもそれが世に届かないんだからな虚しいなあ、ってまた暗くなった。無名はやっぱり心に毒。かといって有名になれる才も支えもない。暗い井戸の底であがき続けて消えるのみ……。

 だめだそれでは夏達さんの本質が伝えられない。なるほど夏達さんの作品は、日本の少女漫画を読み込み模写して描いたような雰囲気すら漂う絵柄で描かれているけれど、当人的にはそうしたことより中国の伝統的な絵なんかを描いていってつかんだ絵柄ってことみたい。好きな漫画家はだから少女漫画家ってよりは少年週刊誌の人気漫画家が多かった感じ。そこからストーリーテリングや表情を描く技法を学び、繊細なイラストを描く人からも繊細さを学びそして、自分が祖父母から教わった旧い言い伝えなんかを取り入れ描いた作品がすなわち「誰も知らない〜子不語〜」。誰かの真似でもなければ日本の真似だけでもない、自身のオリジナリティと自身のアイデンティティが存分にこめられた漫画って言って間違いではない。

 あれほどまでの繊細な絵を描くには、それこそ丸ペンで顔を原稿用紙にぎりぎりまで近づけ描く必要がありそう。見た所その手はとても小さく腕だって細い。そんな小さな手にペンを握って原稿用紙に線を引く。細い線を一所懸命に描いて行く。自然への慈しみ、映像や写真として残る記録としての過去ではなく、人が心に思い出として刻み伝えていけるように漫画で読ませ知ってもらいたい、感じてもらいたい、そんな思いで一本一本線を刻む。その積み重ねが成果が漫画の形になって現われ出る。感動の物語となって突きつけられる。

 とてもおろそかになんて出来ないし、本人が誰とかなんてもはやこの際関係ない。漫画家として尊敬したいし、人として敬意を払いたい。その真摯さがあれば歪まず翻弄されないで、これからも素晴らしい作品を描いていってくれるだろう。日本を席巻し世界に撃って出て映画になりアニメになって、あの繊細な線が原寸大で読めるようになるまで、応援し続けよう。でも僕の声って世間に届かないんだよなあ。虚しいなあ。いかんダークさがまた吹き出てきた。週刊誌向けに「鳩とクラウジウスの原理」の評でも書くか、モテない男が悪さをしでかしたのにモテてしまうという展開に、どこか希望を見いだせるかもしれないし。とはいえその週刊誌だって13年は続けているけど砂に水を撒いている感じなんだよなあ、リアクションが年に1度くらいしかないというか……いかん暗さがぶり返して来た。

 だからちゃんと力量とそしてやりたいことにマッチした選手を選べば、それなりにやりたいことがやれるんだってことを、自ずと証明してみせたのか結果としてそうなったのか。自らやったのなら大英断だし、結果としてそうなったのだとしてもその成果を生かしてこのまま本番へと突入していけば結果オーライ。あとはディフェンダーが相手のゴールと自分のゴールの両方にたたき込むグランドスラムを演じなければ、良い試合をした上に勝てる試合をするかもしれない。なんて思ったサッカー日本代表vsイングランド代表の親善試合。

 フィジカルに甘さのある内田選手をサブに抜き、動きに難のありすぎる中村俊輔選手を外し、中盤の展開力をつける為にアンカーに阿部勇樹選手を置いて左右に攻撃できる大久保嘉人選手本田圭祐選手を置く布陣を、ずっと使い続けていれば連携も上がって強豪に近寄れたかもしれない。まあそれだとそれを研究されて終わりてこともあるから、今まであれやこれや言われながらも封印して来たのか。仮に日本での試合にエースを出さないとあれこれお目玉が飛んでくるってプレッシャーが、これまであったのが舞台を海外に移して払拭されてあの布陣、本来考えながらも使えなかった布陣がここに来てようやく打ち出されたのかもしれない。脱俊輔脇篤人さえ決断できれば、サイドには松井大輔選手だっているし、遠藤保仁選手の調子が上がらなければ、中村憲剛選手だっていたりする。本田圭祐選手をトップ下に入れて両翼を大久保嘉人選手に松井選手で固め後ろを憲剛阿部で護り支える。ああなんて理想的。ちょっと本番が楽しみになって来た。


【5月29日】 何と。iPadとやらがパソコンに接続したままでは充電がされないとう事実にようやくもって気づいて、どういうことだと調べたら、ワット数が足りないんでウィンドウズのパソコンのUSBからでは使用に供給が負けかけてしまうってことらしい。ちなみにアップルのパソコンだと、USBが強化されているからそういうことはないんだとか。でもって仕様的に正しいのはウィンドウズの方らしいんでスティーブ・ジョブズ、そんなところからもマッキントッシュへの鞍替えを誘って、PCでもやっぱりウィンドウズを叩きのめすって意識をもっていろいろ組み立てているっぽい。何という欲張りな。それもまたジョブズらしいけど。別に彼、ヒッピーでもフリーダムでもなくって、ただの俺様なギークだからね。

 そんなiPadをいじろうとしたけどいじり方が分からない。iPhoneとか使っている人なら何をどうすれば楽しくなるって分かっているんだろうけど、もとからパソコンだって文章を書いてネットにつなげることにしか使っていない身の上で、携帯電話も滅多にかけないオフライン野郎、時間があるなら本でも読んでいる方が好きな人間が、モバイルでいろいろ接続が妙味の機器を持ったところで使いこなせるはずがないのだ。って買ってから気づいてどうするよ? まあそれでもパッと立ち上がってWi−Fi環境さえあればすぐにネットにつなげられるマシンは便利なんで、それ専用で持ち歩くかも、ってそれなら携帯で出来るんだよなあ。やっぱり使いこなせない。

 でも置いておくのはしゃくに障ると持って出かけるから鞄が重い。でも置いておけないこの悲しさ。ポメラだったらもっと軽くて用途も絞れるんだけど。キンドルだったら本だけ読んでいられるんだけど。何でも出来るってのは実は何にもやらないってことなのだ。それを思えばソニーとやらが開発を計画していると、ソニーと組んだってこともあるのか朝日新聞が書いて守り立てようとしていたけれど、ゲームが出来て携帯がかけられ音楽プレーヤーにもなる機械を作るんだったら、発売してまったく噂をきかないまま、ワンダースワンよりもネオジオポケットよりも売れていなさそうなPSP goをまずは何とかするべきなんじゃあないのかねえ。

 WIFIでつながるって点でiPod touchと同じ機能を持ちつつゲームも本格的なのが出来るって売り出したのに売れない現状を見れば、ソニーの思惑がいかに外れているかってのもよく分かる。山ほどの量が囲い込まれている訳ではないコンテンツのためにハードを買うほど人間はゆとりのある生き物ではないのだ。ソニーに求めるのはPSPの画面サイズを持って有機ELの鮮やかなディスプレーを持ったゲーム機が、ワンセグを内蔵し様々な規格のメディアから音楽映像テキストなんかを読み込めるようになっていることなんだけど。iPodから音楽をコンバートできればなおラッキー。それが1万円で買えたらなら買うけどなあ。買わないかやっぱり。そもそもゲームなんてやらないし。もはやソニーに入り込む隙間はないのかなあ。

 そんなこんなで有楽町ビックカメラでまだ売ってるiPadをながめてから、横浜へと出て横浜美術館で「ポンペイ展」を見て出たら行列ができていた。どういう訳だ? 常に先鋭的な展覧会を開催する一方で、先鋭的過ぎてお客さんがなかなかついてこれず、いつも優雅にして静謐とした空間で1人とか2人くらいで作品を見るのが日常だった横浜美術館に、入場を待つ行列ができている。これは何かの間違いに違いない。あるいはポンペイが持つ魔力、そしてローマ時代の風呂が持つ魅力が日本人を引きつけて止まないのだ。何だ風呂って。

 それはローマ時代にどこかの屋敷にあった風呂が来ているってことで、浴槽が展示していあるってだけなら別に珍しくないけれども、それに付随して湯を沸かす窯があって水を溜めておく桶があって、それらからバルブでもって調節されて流されるお湯と水が混ざり合って、ちょうど良い湯加減のお湯がチロチロと浴槽に注ぎ込まれるシステムが、まるまるっと横浜美術館に来て再現されていて、今話題のヤマザキマリさんによるローマ風呂vs日本風呂の物語「テルマエ・ロマエ」が見せてくれる世界を、目の当たりにできるってんでわんさか人がやって来たみたい。何しろ50万部の単行本。1割の読者が来たって5万人に達する訳で、それが50日なら1日1000人、美術館にとってはなかなかな人数ってことになる。とくに横浜美術館にとっては。

 ほかにも灰の下に埋もれた人間が消えて空洞になったところに、流し込まれた石膏が固まってできたうずくまる人間像とか、執政完だか誰かの頭部が飾られた彫刻の土台となっている資格の柱の前面に、像さんがぴょこんと飛び出している品物とかが並んでいて、ローマ時代のおおらかさって奴を目の当たりにさせてくれる。行けば明るく楽しくなれる展覧会。この暗くて先の見えないご時世に、少しでも明るくなりたいって思ってやって来ているのかもしれないなあ。そこに加わったヤマザキマリさんによるローマ風呂ブーム。火付け役も観覧してご満足の様子。ここからローマへの興味が広がって、ナポリが舞台となった小島てるみさんの「最後のプルチネッッラ」とか「ヘルマフロディテの体温」が人気になってくれれば嬉しいのに。なあ。

 そんな感じでポンペイの火山灰に埋もれてから近所の横浜ブリッツで開かれたKalafinaのライブを見物する。整理番号903番ってそんなに入るのかって心配したけどスタンディングで詰め込めばもっともとっと入るみたい。とはいえ最近は女性のファンも多いKalafinaだけに、それでも多い男子に混じって見るのはちょっとという女性たちのためのコーナーなんかも設けられているのが、ありがたいというか配慮というか。「黒執事」とかそういった傾向の番組から入った人、女学園みたいな女の園的雰囲気に憧れる百合色の乙女たちにとって見たいけど、男ばかりで入れないってのは辛いからねえ。いずれ「空の境界」の印象が薄れて耽美さが際だっていけば、女性ファンが男性ファンを押しのけそして「男性コーナー」ってのが作られるようになったりするのかも。暑そう。

 とはいえアニソンっぽいアーティストにありがちな奇声ものべつまくなしのかけ声もないのがKalafinaのライブの特徴で、もちろん光るサイリュームもないのはそれをお願いしているからでもあるんだろうけど、そうした歌を聴く前に自分をアピールしたい人がいられるライブじゃない、歌をしっかり聴かないともったいないって意識が誰の中にもKalafinaのライブではきっとあるに違いない。もうじっくりを舞台を見つめて響き渡るハーモニーに耳を傾ける。圧倒的な声量と完璧な音程で繰り出される声の素晴らしさに酔いしれる。それで精一杯なところに寄生だのオタ芸だのが入り込む余地はない。Kalafinaの凄さって奴であり、支える梶浦由記さんの音楽性の素晴らしさなんだろうなあ。今回もすごかった。

 とくに大人気だった「空の境界」の曲を絞ってニューアルバムの「RED MOON」を中心にしたセットリストでも、ちゃんと聞かせられ引きつけられるってことを証明した所が素晴らしかった。体験として見知った曲を聴きたいってのが人情だけれど、そうしたものを”定番化”させては進歩はない。盛りあがりたいここぞの1発で「sprinter」あたりを持っていく以外は、どれをとっても凄みのたっぷりな「RED MOON」の曲をじっくりしっかり聴かせるライブ。聞き終えてもあれもこれもなかったって落胆を抱かせるより、あれもこれもやっぱり凄い曲だったんだ素晴らしい歌だったんだと気づかせてくれて、アルバムをまた聞き返したいって思わせてくれるライブ。そういうこと。

 とにかく現場で聞いて欲しいKalafinaを、現場で見聞きできるのがライブの何よりも価値。音程のズレなんてないWakanaの伸びやかなボーカルに、かわいらしさを含みながらも時に勇ましく屹立するHikaruのボーカル、そして時にしたから低音で支え時に中心となって引っ張るKeikoのボーカルが、どこかの人気アイドルグループみたいに同じ音域音程で重なり合うだけじゃなくって、高低のパートであり部分部分での掛け合いのように重なり合って1曲の音楽を作り出す。

 その凄みがレコーディングの技術だけでなくってアーティスト本人たちの才能によって発揮されているんだということを、目の当たりにできるライブは音楽を志すも者も、音楽を生業にするものも、音楽が大好きなだけという者も聞いた方が良い。というか聞くべきだろう。聞けば本物と分かるKalafinaが、だからといってフェイクを超えて世に出て行かれない矛盾の螺旋を解きほぐすために何をすべきか。何が出来るか。見て聞いて書いて伝えることしかないなあ。だから頑張る。Kalafinaを見聞せよ。その目で見てそしてその耳で聞け。


【5月28日】 目覚めると午前6時で起きるには良い時間。せっせとまわしをしてからざっと行列っぽい情報をチェックすると、やっぱり銀座は相当の行列ができている模様。ならばを裏をついて秋葉原のヨドバシカメラでものぞくかと、総武線で秋葉原まで出てヨドバシの入り口を眺めたら行列がいなかった。いや、いるにはいたけど予約の列で5人とか。予約なしの列でも10にんとかだったけれど、予約なしの列では当日売りがあるのかそれは何時から売るのかがはっきりとしていなかったんで、引っかかっては時間が無駄だと、そのまま地下鉄で銀座へと回ってアップルストアの前とやらを眺めたら!

 列列列列。どこまでも伸びる行列とそして待ちかまえるメディアの多さに辟易として、これで買おうとしたらいったい何時になるか分からないと行列横を通り過ぎ、やって来ていた「ブラック☆ロックシューター」の痛車なんかを眺めてそのまま有楽町のビックカメラへと回ったら! 行列がまるでいなかった。いや、いるにはいたけど予約なしでも10人とか。でもってすぐに買えるてんで、こりゃあまあ何かの縁だとフトコロも気にせず行列に並んでしまって散財の刑に処せられる。おまけに近寄ってきたイーモバイルの販売員から割引の甘言とか耳に入れられ、1カ月待ってバッファーローにいくならこっちでも変わらないって気にさせられ、一緒に契約をしてしまうという超散財の刑に処せられる。参ったなあ。

 これでワールドカップとか行くとなったらもはや散財では効かないけれど、そっちは代表のユニフォームを買ったくらいでパブリックビューイングに行く用事もないんで無視だ無視。でもって待つこと1時間弱ってあたりで販売が始まり、そのままするするっと中に入って購入手続き。手続き? Wi−Fiなのに? ってところが謎なんだけれどあるいはそれで無茶な転売とか防ごうとしているのか、あとでパソコンもないのに買った人から使えないって文句が来るのを防ごうって算段か、分からないけれどもそんな作業でだいたい5分くらいとられることが判明。するりと入ってそれだから、アップルストアなんかで買おうとした日にはさらに輪を掛けて時間がかかったんじゃなかろうか。なるほどビックカメラで正解だったかも。ポイントも付いたし。

 ってんで晴れて購入となったiPadは、Wi−FIモデルで64ギガバイトの大容量。接続はイーモバイルのポケットWi−Fiを使うことにしたら、同時購入で最初の3カ月は無料であとは本体1円月額3980円となって昨日単独で買うよりどうだろう、3万円近く2年トータルで払うお金が節約できたっぽいけど、そう思わせるのが得意なのがあの業界。きっとそれほど得にはなっていないのかもしれない。でもいいや。それが遊ぶってことだから。別に表面の保護シートを買い裏側の保護ケースを買い1番安いソフトケースも買ってとりあえず完了。戻って組み立てさ使おうってしたけれど、立ち上げたソフトを閉じるためのホームボタンお使い方すら分からないど素人にはまだまだ壁が高そう。

 どんなアプリを使うべきか。どんなアプリが使いやすいのか。何ができるのか何ができないのか。そして本は読みやすいのか。なんてことを考えながら使っていったらきっと途中で飽きてしまってもう良いやって放り出して、枕のしたに眠って気づくとカビが生えていた、なんてことにもなりかねないから要注意。とりあえず理想書店からブラウザーを買って、青空書房のアプリも入れてみて、書籍データを買ってあれやこれや読んでみるか。それからやっぱり「ラブプラス」。使えたっけiPadで。

 iTunesから音楽データの同期をとっている途中で時間が来たんでコンピュータエンタテインメント協会だったっけ、ゲームの団体の本部がある虎ノ門へと出向いてCEDECって開発者を対象にしたカンファレンスが今秋にも開かれるって話を聞きに行く。いわゆる一般層が最新のゲームを見に行くゲームショウとは違って、ゲームの開発に携わる人たちが開発にあたっての注意事項とか留意点とか最新ツールの動向とか市場の傾向なんかを話し合ったり講演を聴いたりするって内容。そんなの商売上の秘密なんだからそれぞれがため込んでいるべきって意見もあるにはあるけど、そういう状況ではもはやこの世界のゲームの潮流に太刀打ちできなくなってしまっているのが、CEDECってカンファレンスの意味合いをあげているらしい。

 つまりはかつては日本には多くのゲームプラットフォームがあってそれを作っているメーカーがソフトの充実を目指してサードパーティーを誘いツールの話プロフラムの話傾向の話なんかをまとめていた時代があったという。いわゆるハブとして機能していたんだけれども一つ抜け2つ抜けといった具合にハードメーカーが撤退し、残るソニー・コンピュータエンタテインメントはもはや母体はソニーに入って海外で作るようになって日本のサードパーティーと協調って雰囲気じゃなくなって来た。任天堂はサードッテよりはセカンドパーティーを誘い任天堂本体とともに任天堂のハードに相応しいタイトルを作るってポリシーがあるようで、多くの企業を誘い語らうって風土がソニーとか以前のセガほどには匂ってこない。

 そうした状況で情報に乏しくツールに疎く海外ほどにもお金のない日本のゲーム会社がたどる道は縮小均衡からさらなる縮小へと向かうデフレスパイラル。世界に通用するソフトがなくなって来てしまい、ますます大事にされなくなって潮流から大きく取り残されてしまって来ている。何とかしなきゃ、ってことでゲームの団体が中心となってそうした情報を共有しましょうよって開くのがCEDEC。だからゲームを仕事にしている人が聞けば面白いし、ゲームの情報を伝えているメディアもゲームへの理解を増進させるって意味合いで為になるみたいなんだけれども、そこはゲーム会社のゲームクリエーター向けイベントってことで一般はもとよりメディアへの公開も全面的って訳ではないみたい。

 気かせれば理解は広がりゲーム業界にとっても前向きで意義深い記事が出るのに、そこに踏み込めない理由ってのがあるとしたら何だろう、メディアがちょっとしたことをさも大げさに飛ばすことを心配してか。ネットで速報性が重視されるようになってそうした、羊頭狗肉な記事も出てきたりするからなおのおと、心配なんだろうけれどもそこは今が喫緊と割り切って、メディアも含めていっしょになってゲームをもり立てていけるような雰囲気を、作った方が得策なんじゃないかなあ。貴重講演が誰になるかは知らないけれど、相応の人が出てきてそれが聴けないってのはやっぱり辛いからなあ。宜しくお願い和田さん他。


【5月27日】 小島秀夫監督へのインタビューも含めて「メタルギアソリッド」についての大特集が掲載されている「SFマガジン」が滅茶苦茶売れているという話を聞くにつけ、ならば毎月ゲームの特集をすれば売上も倍々に伸びていって早川書房もうはうはなんじゃねえとと思ったものの「SFマガジン」で取り上げるに値するSF性を設定まで含めて持った作品ってそうそうないのが辛いところ。マイクロソフトが出している「Halo」なんて長大なストーリーがあって設定もかっちりしたのがあって、それを元にオムニバスアニメ「Halo Legend」が作られているから特集は十分に組めそうだけれど、相手がマイクロソフトではフットワークも軽く特集って訳にはいかなさそう。

 だったらと推したいゲームが「ラブプラス」。どこがSFだ? っていうなら今年の星雲賞候補に堂々、ノミネートされていることをどう説明すればいい? SF界でも最大規模の権威を誇る星雲賞が、SF界でも最高ランクの賞として位置づけている星雲賞に名前が並んでいる以上は「ラブプラス」はSF、そこに一切の異論はない。あるはずがない。そもそもが朝に彼女が向かえに来てくれて、学校では何かあるたびに誉めてくれて、いっしょにお弁当を食べてくれて帰りも手をつないでいっしょに帰ってくれて、呼び出せば公演に出てきてキスさせてくれて、日曜日になればデートに行ってくれて電車から動物園から道ばたから、ところかまわずキスさせてくれる彼女の存在なんてSF以外のいったい何だ? まさに非実在ともいえる彼女って奴を描いている点で「ラブプラス」はSF。空想科学の金字塔なのだ。ってことで編集長には是非に「ラブプラス」の特集を。来月なんて「ラブプラス+」も出ることだしちょうど良いんじゃありません?

 そんな「ラブプラス」にも関わっていたという話の大迫純一さんが亡くなられたとの報。Twitter上で走る情報に本当かと驚く一方で勇み足なら良いのにと迷っていたら、本当の本当だったというから驚きは哀しみへと変わって沈み込む。うーむ。すべてを追いかけているという訳ではないけれど、榊一郎さんによる「神曲奏界ポリフォニカ」が始まってそれを追うように世界観を同じにしながらキャラクターを変えたシェアードワールド的なシリーズ、いわゆる「ポリ黒」が始まった時に、ハードボイルドな設定やコロンボ的な種明かしの楽しさがとてもハマって、むしろこっちの方がメインじゃないかって思いたくなるくらい、好きになった。

 もしもこの「ポリ黒」が登場せず、マナガもマティアも現れなかったら果たして僕は「ポリフォニカ」シリーズを読み続けていただろうか。もちろん本家だけあって榊さんによる「ポリ赤」も存分に面白いし、コーティカルテは可愛いけれどもどこかありがちな妖精さんと人間によるバトルストーリーだけではあるいは、どこかで飽きてしまていたかもしれない。そこにミステリーの要素を持った「ポリ黒」が登場したことで、シリーズへの興味を引きつけ直し、ポリフォニカワールド全体への関心を抱かせ、そして続く白に青に黄金に無色といったシリーズも読んでみようかと思わせた。「ポリ黒」の成功が後に続く人たちの意欲をかきたてたのだとしたら、まさしく大迫さんはシリーズにとって中興の祖、あるいはロケットブースターのような人だったって言える。

 大きく広がったことでポリフォニカシリーズはずっと読んでいける。少なくともしばらくは読んでいけると思う。けれどもそこにはもうマナガもマティアも現れない。BUNBUNさんが描く優しげだけれど不敵さと強さも内に秘めたマナガも儚げで可愛らしそうだけれど表情は硬く生真面目そうなマティアも描かれない。そしてレオンもだ。不敵で大胆で破天荒な奴の活躍はもう見られない。いや、誰かが引き継ぐことは可能だろうけれどもそれはやっぱりどこかが違う。哀しい。そして寂しい。いつか吉田直さんが逝かれてしまって「トリニティ・ブラッド」が未完のままとなって、寂しさを味わったことがあった。栗本薫さんの「グインサーガ」も近年は良い読者ではなかったけれども、完結の暁には読み返そうと薄らかに思っていたのも果たせなくなった。逝かれるのは寂しい。現役の作家であるなら寂しさもなお強い。だからといってどうしようもない時、出来るのは既刊を読みそして読み続け、そういう人がいた事実を絶対に忘れないことだ。読もう。ポリ黒を。やろう。「ラブプラス」を。「ラブプラス+」にも参加していたのかな?

 人は過ちを繰り返してより間抜けになっていく。なんて言ってしまってしっぺ返しも怖いけど、それにしても電子出版をめぐって起こるハードの先陣争いとそれを追従していく出版業界の動きを見るに付け、根本的なところで「本を読むってどーゆーこと?」って議論がすっとばされている気がして何だかなあ、って思えて仕方がない。と書いたのは2003年11月13日のこと。電子書籍をめぐって何やらソニーの端末を担いだ一段が出版社とか印刷会社もまとめて新しい会社を作って、電子出版をやっていこうって発表をしたことに対して過去に山ほど積み重ねられた、ハードメーカーを核にしてクローズドな企画の中でコンテンツを囲い込もうとしたところで、世の中はそんなものを認めないし興味も示さないってことを訴えた訳だけれども果たして杞憂とはならず現実に「パブリッシングリンク」が担いだソニーの端末は消え、直前に発表していたパナソニックの端末も消えてしまった。

 そして世は様々な端末のブラウザに向けてコンテンツを供給していく用意さえあれば良いって結論に落ち着いて、ボイジャーあたりがセルシスと組んでブラウザを開発しつつ、一方でコンテンツも着々と溜めてマルチプラットフォーム体制って奴をどうにかこうにか作り上げ、来るべきアップルの完全クローズドな体制に風穴を開けようと頑張っている時に何を考えたのかソニーに朝日新聞にその他の出版社。組んでプラットフォームを作ってそこに電子書籍を供給していくんだと発表しやがった。ここでいうプラットフォームがソニーのハードとイコールなのか、サーバーやネットワークや課金認証著作権ちった部分も含めたシステムのことをあらわしているのかは分からないけれど、少なくともソニーでありKDDIといった端末を持つ企業がそこにいるってことは、携帯電話でも携帯読書端末でも、特定のものがメーンとなってそこに向けたコンテンツ供給体制を作っていくってのがおそらくは初期の活動になる。

 まさにパブリッシングリンクの再来。そしてシグマブックの再来。さらには大手町にあってライトな層を取り込もうと頑張っている新聞社が仕掛けて玉砕した電子新聞の大再来。なるほどアップルがiTunesを窓口にしてコンテンツの流れを一気に握ろうとしていることへの挑戦とも言え、相手が出来たことならこっちだってやれないことはないって考えもそこにはあるんだろうけれど、ここで大事なのはアップルは1日1カ月の頑張りでここまでの成果を得たんじゃないってこと。iPodを音楽プレーヤーのデファクトとしつつ、そこにコンテンツ流通の仕組みを作って虜にしてから、iPhoneからiPadへとハードを広げそこでメディアの幅を広げながらも、根っこの部分をiPod時代の積み重ねから利便性という果実で握って放さなかったことが今の絶対的な地位につながった。

 あと、アップルならではの他の追随をまるで許さない先進的はハードを供給し続けることも、話さないどころかむしろ招き寄せている状況を作りあげた。そうした経緯をまるで見ず、結果だけから自分たちにも出来るじゃねえの的な発想で新しい端末を作り新しいフォーマットを作って売りだしたところで一体誰が買う? これも7年前に言ったことだけれど「紙ですら本を読まなくなった世代には言わずもがな。500円の文庫すら買わない人がおそらくは何万円もする専用端末を買ってまで本を読むとはとてもじゃないけど思えない。『デジタルブック』の失敗からなーんにも学んでない」って言葉を今回もまた繰り返さなくてはいけないところに、この国が世界に通じるソフトもハードも生み出せないまま、ひたるさに独善を貫きそして取り残されていっているって状況の原因がある。それともさすがに過去の轍を繰り返さない秘策でもあるんだろうか。あったらあったでこれ幸い。なのでそれをまず見せて欲しいもの。端末タダにして全国民に配るとかってんなら最高ダネ。


【5月26日】 もう6巻だけれど規定の8巻まではまだ2巻あるから、それまでにどうにか「マンガ大賞」の最終候補くらいまでは入って欲しいもりしげさんの「フダンシズム 腐男子主義」(スクウェア・エニックス)なんだけれど、これだけ世間が“男の娘”だの何だのと大騒ぎしているにも関わらず、とんと噂に上がって来ず「マンガ大賞」で推しているのだって僕1人くらいという四面楚歌な状況が、もう2年だか続いているのが悔しいやら情けないやら。もっと知られていいはずだって声を大にして言いたいけれど、それで届かない所に我が身の至らなさを思い知らされ、歯ぎしりを鳴らして地団駄を踏む。

 最初こそ真面目で空気の読めないエリート少年が、姉の病気で代わりに同人誌即売会で売り子をするために女装をするハメとなり、そのまま放り込まれた女性向け同人誌の世界でやおいを知り男装を知りコスプレを知っていくといった具合に、オタク方面をガイドするような段取りが目立ったけれど、キャラクターが増えて関係性が強まってきてからは、その少年・数(あまた)が女装し変じるアマネをめぐって女の子たちが知ってか知らずか手を引き合い、そこに漫画研究会の松元部長が絡み部員の清川が女装して絡み、果ては部長までもが女装しそして現れ学園祭は歓喜のクライマックスを迎えるという感動が、第5巻で繰り広げられた。ちょっと泣いた。アマネとは違った数の女装の美しさ。あれには誰だって気色悪がらないで胴上げしたくなるよなあ。

 そして第6巻ではコミックマンガマーケットことコマケットへとみんなで乗り込み、コスプレもして同人誌も買ってと展開も新た。アマネがネジ釘の擬人化同人誌に目覚めたりする様子とか、準備会でも重鎮らしい関西弁の女性が出てきてその妹も現れちょっぴりの小競り合いがあり、そして新たな出会いがあったりとか、これからの展開にいろいろと波風なりを起こしてくれそうな予感がして興味が募る。そんなコマケの2日目終了間際に現れアマネの同人誌をもらい受けていた、準備会の腕章をつけた眼鏡の男性はもしかしたら伝説の…。そして彼が合流する長髪の人もまた伝説の…。そこがとっても気になって仕方がない。

 そんな光景をチラッと見た関西弁の十河さんが「代表達を見た気がする」といってスタッフに「代表達がいるわけないじゃないですか」と返され、「人違い」と理解するそのシチュエーションは何だろう。2日目だからいないということ以上に、いろいろと深い意味を持っているのかもしれない。本家の方で相次いで逝った伝説へのリスペクト? 分からないけれどもそんな伝説たちが築き上げたものが、今も息づいて漫画の中に描かれるコマケをもフトコロが深くてルールさえ守れば誰もが楽しめる場所にしているんだろうなあ。という訳で「フダンシズム」第6巻。松元部長はアマネに告白するけれども中身はパーフェクトプリンスな数に伝わるはずもなく玉砕。だから清川にしとけって。そういや表紙って妹と清川? どっちも最高。とくに妹のちょっぴり嫌気な表情が。

 そうかそれは悔恨と昇華の物語だったのか。分厚さにたまげた宮部みゆきさんの最新刊「小暮写眞館」(講談社)は、古い写真館の建物を居抜きで買った一家がスタジオとかショーウィンドーとかをそのまま残しながら、普通に住居として暮らし始めたところに、写真館だと勘違いした少女がやって来て、そこで撮られたらしい1枚の写真を持ち込んだことから主人公の少年の冒険が始まる。って言っても写真に妙なものが写っているからどうにかしろって話で、少年はどう見ても心霊写真にしか見えないその写真に写っている人を探し、関係者をたどっていってそしてどうしてそんな写真が撮れてしまったのかという理由を明らかにする。オカルト探偵って奴だな。

 もっともそこはミステリー作家の宮部さん。そうした心霊写真の科学的合理的解決が行われるミステリーに向かうんだろうと思っていたら、写真に写った異物はすなわち写した人の思いなりが現れた正真正銘の心霊写真、あるいは念写とも言えるもので、科学的な理由は示されないまま、そうした念に絡んだ感情のもつれを示して人の心の複雑さ、強さってものを示していくエピソードが繰り広げられる。ほほう。続くエピソードもやっぱり思いが残した残滓を追ってあからさまにする展開。もっとも結末にはやや救いがあって、過去を嘆いても今をやり直せる可能性を示してくれる。

 3つ目になると念写といったオカルティックな設定は引っ込むけれども、代わりに浮かんでくる幽霊の存在。それは現実に強盗を撃退したりと実効性を伴って存在感を示し、念写以上のオカルティックな雰囲気を醸し出す。もっともそうした部分が猟奇にも怪奇にも走らず、生者に対する優しさのように描かれている部分が読んでいて、不思議さを通り越した心地よさを与えてくれる要因か。なるほど幽霊の存在を追いかける展開にはなっているけれども、それは生者が死者への慈しみやさまざまな感情として抱いたものが、自分に返ってくる時に、そこに幽霊と言う存在を反射鏡のように置いてみせただけのことかもしれない。考えるのも悔やむのも喜ぶのもとまどうのも、出来るのはすべて生ある存在。そうした生者の感情を死者を通して浮かび上がらせることを狙って、オカルティックな設定を置いてみせたのかもしれない。

 そう思えば別に幽霊というオカルティックな存在を否定できるけど、それだと念写の説明がつかないんだよなあ。前半と後半で気分、変わったのかな? そしてそんな設定の上に、死者への悔恨から片方では結束し、一方では他を廃していた家族が過去を振り切り、こだわりをぬぐい去って歩み始める様が描かれていくところがやっぱりこの作品の本質か。ひしひしと染みてくる1人の人間の死の重さ。そして生の確かさ。それらがもたらす大勢の感情の交錯を描いて、人が人々として生きていくこの世界を見せてくれた物語だった。分厚いけれどもすらすら読めて楽しめて、キャラクターたちの存在感に浸れて感動も得られる。やっぱり凄いや宮部さん。

 何かもう人が並び始めたというアップルストア。当日でもiPadが買えるかもしれないって話を聞くと別に欲しくもないのに並んでみたくなる悪い癖がむくむくと頭を持ち上げ始めていたりして、財布との相談も大変そうな予感がしているけれどもそうはならないためにiPadの至らない点を探ろうと「ニューズウィーク」の最新号を買って、APPストアが日常茶飯事に行っている検閲の問題について感じ入り、ならばやっぱり自由の敵だと諦められるようにしようと思って読んだらあんまりそこまでの踏み込んだ記事は載ってなかった。あんなに巷間言われているのに、紙媒体では検閲の問題性に踏み込んだところがないのは何だろう、将来お世話になるだろうことを見越してその可能性の芽を摘まないよう配慮しているってことなのか。うーん。未来は明るいのか暗いのか真っ暗なのか暗黒なのか。偏ってる。


【5月25日】 ふと明け方に目が覚めてテレビを着けたらサッカーの試合をやっていて、相手は韓国でそうか録画してあった昨晩の日韓戦が流れているのか、あの体たらくをまた見るのも心臓に宜しくないなあと目を向けたら、中村俊輔選手がサイドラインに張り付きながらもパスを受けたらそれを出して、そしてそのままライン際を前に向かって走っていった。どういうことだ。そんな殊勝な動きなんぞ昨晩の日韓戦では見せてなかったぜ、それができないからこそ最近の日本代表の体たらくは絶望的なレベルにまで来ているんだぜって不思議に思い、よくよく目を凝らしたら、日韓戦は日韓戦でもワールドカップの壮行試合なんかじゃなくって、2007年に行われたアジアカップでの韓国との闘いだった。オシム監督下の。きっと渇望する心が自然とリモコンに手を伸ばさせて、録画してあったあの試合を知らず再生させていたに違いない。人間って不思議な生き物だ。

 ってのは半分は冗談で、余りに体たらくだったんで過去にはいったいどんな感じで日韓戦を闘っていたのかを確かめようと、HDD/DVDレコーダーに録画してあったのを再生したものなんだけれど、やっぱりランの質がまるで違う。もらえば出して走り受けようとする動きがちゃんとできている。それは中村俊輔選手も含めてすべての選手にしっかり浸透していて、誰も止まらずしかりと走っては常に相手を出し抜こうと虎視眈々としている。足下から足下へのパスなんてまるでなし。そんなことをしていたら動き回る周囲から切り離されて埋没してしまう。全員が動くから否応でも動かなければ居場所がない。そんな心理に誰もが囚われている中で、アクティブなサッカーを展開してる。

 サイドもハーフラインくらいまで上がって、中盤との連携をとろうとしている。ディフェンスラインはしっかりと集注して危険があればちゃんと追いかけ、そこにカバーがちゃんと入る。すべてが約束事のようにしっかりと動く。チームとして組織としてちゃんと動いてボールを前へと運んでいく。これだよ。これなんだよ。これだったんだよ。インターネットの動画配信で行われた討論会で、湯浅健二さんがしきりにそうあって欲しいと主張していた組織サッカーの萌芽がそこにあった。まだ過渡期でしかなかったアジアカップで見せてくれたそれが、そのまま発展していったとしたら一体どれくらいの激しさを持ったチームになっていたのか。片鱗はスイスとの試合でも見せてくれたけれど、そこからさらに研ぎ澄まされたチームが見せてくれただろう形を想像した時、描かれるのは欧州のトップクラブとだって互して戦える日本代表の姿だったりする。

 けれどもそれはHDDの中にしか残っていない萌芽であり、そして芽吹かず成長しないまま彼果ててしまった夢でもある。接ぎ木すら成功しないで現れたものはあらゆるサッカーの定性進化より切り離された、あるいは数百年の過去へと戻ってしまったかのようなサッカーで、見れば誰もが「こんなものをなぜ21世紀になって見なくてはいけないのか」と驚き慌てふためくことだろう。その意味では岡田武史サンは立派に世界を驚かせられる。そのためにもここで投げ出すことなくチームを率いてイングランドに粉砕され、コートジボワールに木っ端微塵にされ、カメルーンに刺殺されオランダに撲殺されデンマークに毒殺されて欲しいもの。そこからしか次は生まれてこないという意味で、昨晩の日韓戦をメルクマール的価値観から100点と評価した木崎伸哉さんは正しいのかもしれない。

 もちろん後藤健生さんや湯浅健二さんの経験から来る物言いにも一理はあった。けれどもそれをぶちこわしにしてくれる言説もあった。岡田サンの進退伺いに対する見解。辞任する覚悟を犬飼会長に言って止められ、やっていこうと考え直したってな感じのことを記者会見の席で話して、無責任だろう今さら何を言ってやがるんだといった批判がそれこそ炎のように燃えさかった。あまりの騒動に慌てたのか岡田サン、今日になってあれは冗談として話したことだって弁明をしてみせた。冗談でも言ってよくないことがある。応援してくれた人たちにもうここからは絶対に後に引けない所まで来て、投げ出すようなことを言うのは無責任を通り越して愚劣ですらある。この1点で監督としてというより人間としての器に狭量さを感じないではいられない。なおかつそうした想像を与えることをおそらくは承知して(していなかったらさらに問題)発言を翻させる言説を許した日本サッカー協会にも、無責任の誹りが与えられて当然だ。

 問題は実はそこではない。後藤さんも湯浅さんも岡田サンがそうやって進退伺いを仄めかす会見の場にいて、それを冗談だとすぐさま分かってふふっと笑ったんだとネットでの討論会で即座に言って捨てた。岡田サンをずっと知っている身としてあれは冗談でしかなと感じたと話した。岡田さんもだからその場で冗談だと分かってもらえたと判断し、こんなに大事になるとは思っていなかったんじゃないかなと話してた。でも。これってヘンじゃないか。なるほどそう感じたのかもしれないけれど、ああいった場、緊迫した場、後がなくそれを言えば無責任のそしりを免れない場でそれを冗談めかして言った岡田サンを、さすがに拙いとたしなめもしないで一緒に冗談だと思ったというその心性は、すなわち日本代表がそこまで切羽詰まった状況に追い込まれているんだという認識を、岡田サンや日本サッカー協会と同様に、メディアも持ち得ていなかったってことになる。

 プロフェッショナルの目がそうは思わなかったといった言い分もあるだろう。でもそれは内輪でしか通用しない論理。誰もがお互いになあなあで来ているムラ社会の論理に染まってしまって、社会や世界が一般的に持ち得ている論理から、大きく乖離してしまっている。そのことに協会や岡田サン同様気づいていないとしたら、それはジャーナリストとして大いに不足なことだと言えるんじゃなかろーか。世間が記者クラブを批判するのは、取材対象の論理に染まってしまって、それが一般の目から見たらおかしいことに気づかないか、気づいていないふりをしているから。まったく同じことが日本のサッカー界に起こっているんだってことが白日にさらされたって意味で、今回の討論会の配信にはとても大きな意味があった。

 協会も悪いし岡田サンも拙い。でもメディアも同様に、いやいやむしろ当人たち以上にみっともない。まさしく運命共同体。あるはそれ以上のファミリー。共に成長して来たって同志の意識もあるんだろうけど、それが招くものは内向きの結束であり外部との対立でありやがての破滅であることは、過去の歴史が証明している。だからこそ変わらなければ、変えなければ日本のサッカー界は永遠に暗黒を彷徨い続けるだけ。もっとも一度つかんだ安寧はなかなか手放せないのが人間の意識って奴で、世に言われる記者クラブ問題とと同様に、付き合いの長さを権威に代えて居座り続ける古手のメディアが変わることはきっとなく、かくして一体となって“日本サッカー界”とやらを世界から取り残されたガラパゴスへと追いやって、化石化させ消し炭へと代え雲散霧消へと追い込んでいくんだろう。哀しいけれどもこれが現実。だとしたら僕たちは一体どうしたら良いんだろう?

 どうしようもないんで頭から吹っ飛ばしてヨドバシカメラへと向かい「エヴァンゲリオン新劇場版・破」のブルーレイディスクとミナたんこと「ダンスインザヴァンパイアバンド」のブルーレイの2巻ともども購入。レジ前のワゴンセールにずっと並んでいる「護法童子ソワカちゃん」ってDVDが気になって仕方がないんだけれど買っておそらく思うだろうことは1つなんで遠慮しそのまま秋葉原を歩いていたらゲーマーズの前で見つけてしまった限定パック。すでにブルーレイディスク版は売り切れになっていたんだけれど、積み上げられたネルフのマークが入ったキャリーケースやセットになった付録の数々に、ついつい限定物心が動かされDVDはまだ買ってなかったことを思い出して買ってしまったよどうしようもないなあこれだからマニアは。まあきっと見ないで部屋のどこかに積み上げたまま、10年後くらいに発掘して発見して思い出すんだ。やっぱりエヴァの綾波がパッケージになったGAINAXバージョンのサバイバーショット共々。そいうのが昔売られていたんだよ。

 そして早速確かめたフィルムは……まっくろけのけ。目を凝らせばそこが作戦会議室か何かで中央のテーブル型モニターを眺めた人たちが周囲を囲んであれやこれや議論している場面なんだと分かる。そのキャラを追えば中には1人くらい有名なキャラが混じっていないとも限らず、その意味ではただ空だけが映っている奴よりは当たり度が高いって言えるんだけれどでもなあ、やっぱり惜しかったよ真紀波だか誰だか眼鏡のピンクなお姉ちゃんのが。開ければ限定パックのDVDの付録(ついてたっけ?)が当たりかもしれないけれどそっちは開けないと決めたんで無視。でもって今回は再生産はされないだろうから今しか買えないとなったら果たしてやっぱりもう1枚くらい買っておくべきかどうなのか。迷うところだけれども1枚引いて当たるかどうかがばくちの極意。当たらなかったことを諦め次に向かうのが正しい博徒のあり方ってことで当てるぞ「マイマイ新子と千年の魔法」のDVDで貴伊子のスカートのすそがふわりとまくれ上がる場面を。


【5月24日】 文学フリマで見た電子書籍本ムーブメントみたいなものについて考えつつネットに流れている言説なんかも参考にしつつ、電子書籍って奴がだからいったいどれだけのインパクトをもたらすかって考えた時に、やっぱり流通の面で起こる変化が1番大きいんだろうなあ、っていうかおそらくはそれが9割ってところで向こう5年くらいは動いていくんだろうなあ、ってな思考に至る。だって別にキンドルで見ようとウェブサイトで読もうとそれ事態に一切の違いはないじゃん。京極夏彦さんがiPadoで出す本だって同時期に発売される紙の本と中身において違いはない。別に途中で京極さんが出てきて「不思議なものなどなにもなのだ、カァーッ!」って喋ってくれる訳でもないし、午前0時を過ぎると段落が入れ替わり結末が自動的に生成されて昨日読んだ本と違う本になる訳じゃない。

 何で読むかってだけの違い。読者の側にはだから何の変化も生まれない。電子書籍で読んだからといって内容がより深く分かるようになる訳でもないし、紙で読んだからといって旧態依然とした思考のままで固まる訳でもない。どっちがより便利か、ってことだけでそれを判断して人はより便利な方へと流れていく。iPadが持ち運びにも収納にも閲覧にも便利だと思えばそっちが普及するし、やっぱり紙の方が良いとなればそっちが残る。どっちも消えるってことじゃあなくって、どっちかにシフトしつつも併存していく状況ってのがしばらくは続くことになるんだろう。読者はだから変わらない。変わるのは取り次ぎであり本屋であり印刷所であり製本所。紙での流通が減れば印刷会社は仕事が減り製本所も仕事がなくなる。本屋も売る分が少なくなって実入りが減る。閉店も相次ぐ。左様なら。

 書店が減ることで起こる“現象”めいたものもあるだろう。売れるものしか置かなくなってそれが売れるものしか作らない体制を生んで作品の幅を狭めるとか。でもそれも結局のところは流通の問題。大量仕入れの大量販売ができないところを少量生産少量販売してく出版社なり個人が出てきてそれを同人誌即売会のような場とか、ネットとかで販売していく。多様性はかくして維持される。みしろ前より豊穣さが増すかもしれない。過渡期として玉石混淆は免れないだろうけれど、そこにもある程度のランキング性なりレビューシステムなんかが入り込んで、良いものを推し良いものが売れる状況も起こるだろう。一方でネットだから情報の集注が起きて、そればっかりがマス的に売れる現象も起こるだろう。裾のはひろがるけれども裾は薄く、天辺ばかりが高くなり構造が生まれてそして天辺はとてつもなく富み、裾野では兼業の作家、日曜作家がちまちま稼ぎながらも賞賛の栄誉に良くする。そんな構造になるんだろう。

 でも、そこに表現そのものの変化はない。あるいは今はまだ見えない。これから先に見えていく可能性があるのかといえば、iPad向けの書籍アプリで試みられている、動画や音声といったものとの連動が、何かをもたらしてくれそうな気はしないでもない。でも大半は紙の書籍を置き換えたものとして電子デバイスの上で再生され閲覧され購読されるものに留まりそう。1995年あたりから数年間、盛りあがったマルチメディアでありCD−ROMでありデジタローグでありシナジー幾何学であるといった表現への挑戦めいたものが出てくるのも先になりそう。発売されたばかりの「エコノミスト」2010年6月1日号の電子書籍特集でも、読み方が変わり出版形態が変わりプラットフォームが現れ対立が行われといった話が中心。書かれる物への変化とか、書き手の広がりとか表現における革新といったものは指摘されていない。だからなんだろうなあ、僕が今の電子書籍ブームにあんまりワクワクできないのも。京極夏彦さんの会見にドキドキ感を覚えなかったのも。挑戦を。一心不乱の挑戦を。電子書籍にも誰かもたらして欲しいなあ。

 青柳碧人さんという人の「千葉県立海中高校」(講談社バース)が傑作なのでSF好きもファンタジー好きも青春好きも本が好きならためらわずに読むように。温暖化の懸念がいわれる中、クリーンな海流発電と水中なら頑丈なコンクリートが発明されて千葉県沖の東京湾に作られたのが海中市。人が暮らし学校もできてそして20年を迎えた時に変化が起こる。それもとてつもない変化が起こって海中市を消滅へと追い込んでいく。物語はそんな変化の経緯を、海中市がなくなってから10年後に都内で教師をしている男が、生徒に問われて語るという形式で進んでいく。

 水中スクーターで学校に通いウェットスーツを着たままでプリクラに移り映画館にも行けたりする海中市の暮らし。周辺には自在に魚が泳ぎ絢爛とした雰囲気だったりしていたものが、終わってしまい生まれ故郷が消えてしまうという事実に夢を否定され、自分自身を否定されたような気持ちになって迷い悩む女子高生の心の動きがどうにも切なくて愛おしい。浮かぶのはダム建設によって消えていってしまった村々に暮らした人たちの思いであり、建設中止なのかそれとも続行なのか判然としないなかで宙ぶらりんとなっている、八ツ場ダムの周辺の住民たちの思い。それが海中市に暮らしている人たちの“喪失”の念と重なり、失われていくものへの哀惜と失わせてしまう存在への憤りが渦巻く。

 けれども一方には地球規模での温暖化防止といった目標があって、最初はそれいそぐうはずだった海中市が、結果的には温暖化防止の犠牲になってしまうのだという避けられない現実も突きつけられて、交錯する納得と感傷の先に、より良い未来をどう作っていくのかといった思考を求められ考えさせられる。テクノロジーの可能性と限界を示した上にその上で起こる出来事から思弁を求めるSFであり、故郷を愛し恋人に焦がれる女子高生の日常を描き、一方で教師と生徒の交流を描いた青春小説でもある「千葉県立海中高校」。そんな物語のクライマックスに描かれる熱情とその中で浮かぶ恋情は、読む人に感動の落涙をもたらすだろう。改めて断言。青柳碧人「千葉県立海中高校」(講談社バース)は傑作である。

 2006年6月23日付けの日記でこう書いた。「まだまだ戦いは続く。サッカーの最高峰の闘いはこれから始まる。見届けたい。日本の人はそんな戦いの中から次につながる何かを探して欲しい。監督。戦術。テクニック。そして何より闘う魂。見つかるものはまだまだある。求めるものはいくらでもある。それを声高に要求しよう。寄こせと。日本代表に寄こしてくれよと。得られれば4年後はきっと来る。世界の見つめるピッチで共に戦える。その時を願って今は静かに眠ろう」。それがまあ何というかしかし全く。当時は4年後にこのどれ1つとして見つけられず得られもしないまま南アフリカに向かうことになるとは思わなかったよ。その責任が誰にあるかといえば明々白々なんだけれども言っても詮無いことなんで、ここは未だ南アフリカに向かう前から同じことを繰り返して書いておこう。「監督。戦術。テクニック。そして何より闘う魂を日本代表に寄こせ」と。4年後にどれくら得られているかな。でもってちゃんとブラジルに向かえるかな。

 もうそれ自体がシリアスに心配になって来た日本代表の弱体ぶり。なるほど結果だけみればディフェンスラインが破られたってことになるけどあそこまで入り込まれるっていうのは前線のチェックが甘く中盤もゆるゆるでサイドは絞らず数的優位をまるで作れなかったからで、そういう練習をしていないのかしても染みつかせられないことに原因があると見るべきなんじゃなかろーか。それは攻撃とも裏腹でサイドで動かない選手がいればバックスは走り込めずボールは停滞して後ろに戻って最終ラインを回るだけ。前線も動き直しがないからボールを出せないまま寄せられ奪われ反撃をくらう。そんな時も中盤が動かないから最終ラインが押し上げられないまま全体が間延びしてカバーが遅れ気味になってすり抜けられるという寸法。誰が悪いってんじゃない。トータルとしてチームになっていないからあっさり奪われめっきり取れない状況が繰り返される。

 それこそ中盤にフリーランにかけてはJリーグでも1、2を争う山岸智選手なり羽生直剛選手をいれて中盤をかき回しサイドを切り裂きボールをチラさせ相手を走り回らせるくらいのことをしないと、足下パスから囲まれ上ばれる旧態依然どころか茫然自失の展開が繰り返されてチームは泥沼へと落ちケープタウンから身投げするより他になくなってしまうだろう。あるいは更なるカンフル剤として年齢的にも選手のリーダー的存在になれる澤穂希選手を遠藤保仁選手と替えてボランチの底に入れ込み左前は中村俊輔選手に替えて安藤梢選手を入れ、トップの岡崎慎司選手は欧州から戻って入ったAFC女子アジア杯の対北朝鮮戦で早速1点を奪った永里優季選手を入れて決定力を担保してもらった方が、魂もこもった強靱なチームに仕上がるんじゃなかろうか。まったくもって冗談でなくそう思えてきた。それでもきっと何も変わらず南アフリカに散るだろう日本代表。せめて女子の躍進を願いそっちだけを思って美酒と思いこもう。


【5月23日】 マラドーナマラドーナマラドーナマラドーナマラドーナ。真夜中にNHKで、FIFAワールドカップ1986メキシコ大会準決勝「アルゼンチン代表vsイングランド代表」の試合が最初っから最後までまるまる放映されていたの見る。いわゆる5人抜きってやつ。あるいは神の手とも。その前からマラドーナはアルゼンチン代表として名をとどろかせ始めてはいたけれど、世界のひのき舞台でその技その存在感を余すどころか3倍4倍もの凄さで発揮して見せて、世界中のサッカーファンの頭からペレの存在もクライフの存在も忘れさせた上に、今に至るまでその存在の上を行く者を許していないという、ある意味で歴史に残る高いであり試合であったってことになるみたい。

 メッシはともかくジダンはある意味でマラドーナより貢献度で上回っているかもしれないけれど、2人が並んで人がどっちになびくかといえばやっぱりマラドーナか。ペレだったらペレかもって躊躇が入る分、やっぱりこの2人が図抜けているってことになるんだろう、21世紀が10年経った現在でも。そんなマラドーナの試合、見たけれども案外にマラドーナだけが突出しているって風じゃなくって、周囲の選手もちゃんと動いて走ってもらって戻してっていった具合に活躍してた。そりゃあいくら1986年だからって1人が11人をぶち抜いてゴールを決めて、11人からゴールを守り抜くなんてことは出来はしない。ちゃんと守備してちゃんとパスする人がいてサッカーは成り立つってことで、そんな必要なピースの中にちゃんとマラドーナがはまったからこそ、彼はそのポテンシャルを最大限に発揮して、活躍できたんだろー。

 それはチャンピオンズリーグの決勝でバイエルン・ミュンヘンを相手に2得点を決めたアルゼンチン代表でもあるインテルのディエゴ・ミリートについても言えること。奇しくもマラドーナと同じ名を持つミリートの、なるほどフィニッシュにおいて凄まじい落ち着きと精度を持っていることは認めたい。あそこで1つフェイクをはさんでキーパーが倒れたところの上を抜けるゴールを決め、サイドで内に入ろうとして外を抜けそこから一閃して流し込んだ妙技のどちらも素晴らしい。あの精度と落ち着きが日本のフォワード陣にあれば世界とだって戦える。でもいないから日本はこんな有様だよ。監督を誰にするかってより、ああいったフォワードをどうやったら養成できるのかを考えた方が良いってのは未来への願望として、とりあえず今はディエゴ・ミリートだ。

 なるほどフィニッシュは2得点とも彼だったけれど、彼が最前線で張っていられるように後列を固めてバイエルンの選手を寄せ付けなかった守備陣がいなかったら、果たしてどうなったか。2得点目でエトーがサイド方面へ流れてディフェンダーを引きつけなかったら、ミリートがボールを保持して1人を抜くだけてフリーになれる場面は起こったか。戦術があってそれをこなす選手たちがいて、すべてがうまくかみ合って生まれた2得点は、個人の能力に寄る部分もあるけれどもチームの力に頼る部分も少なくない。他のチームで同じことをやろうとしてできるのか? ってことを考えるとやっぱりインテルだったからってことになるし、あのアルゼンチン代表だったからマラドーナも2得点を奪えたんだってこともやっぱり言える。当然だ。

 ところが。スター大好き日本メディアがまたぞろスター様を大々的にフィーチャーして来るだろうFIFAワールドカップ2010南アフリカ大会。ってか既に日本代表には1人の前髪がいて、1人のガチャピンがいて1、人の腕時計Wしかいないような空気にすらなっていたりするから始末に終えない。ボスニアの偉人はなるほどメディアがフィーチャーしたがる前髪を中心に据えるべきだっていっているけど、それはボスニアの偉人が指揮したようなチーム戦術がしっかりと行き渡り、誰もがしっかりと意志を持って動く中で前髪も、時には攻め時には受け時には護ってそして蹴ってみせたチームにおいてこそ。誰もがしっかりと役割をこなすからこそ前髪の天才ぶりも意味を持ち、スペシャルさが突出して相手を上回ることができた。けれども果たして今のチームにそうした総合的なタスクがあるか。誰もが自分の役割をきっちりこなすだけの意志があり、そうした役割を果たさせるだけの戦術なりカリスマが指揮官にあるか。なければ天才は輝かず上乗せっどころか足を引っ張りチームの総合力を減じる。そして実際に減じられっ放しだ。

 ってなところまで勘案してこそ見えてくるサラエボの偉人の言葉の意味なんだけれども、そーゆー言葉すら単なるスターシステムの論拠として拾い持ち上げ拡散してしまうのが今のメディアだし、そんな声しか耳に入らず聞こえない今の世間でもある。官僚と報道、政治と報道の融合が世間を欺いているってことも指摘されているけれど、そんな融合された情報を実は心地よく受け止めてしまっている世間もあるんだってことを、考えておかないといつまでたっても世間は流され続けた挙げ句に、どこか最果ての地へと送り込まれては、そのままざあざあと滝のように流れ落ちていく水といっしょに墜落していくことになるだろー。個人が出し手になれて受け手にもなれる電子メディアの発達が釘を差してくれるって意見もある。一方でそうしたツールの伝播力の上でデマゴギーが拡散してより混乱を招くだけって見方も出てきている。結局の所は人それぞれ。そこをどう鍛えさせていくのか。答えなんて誰も出せないよなあ。

 って訳で文学フリマ。脈絡は? ない訳じゃなくって何だか急に電子出版絡みの出展が増えていたことがポイント。個人が情報を発信していく運動の形としてあった同人誌的な分野で、電子メディアってツールを使って何ができるのかっていう動きを現したものって言えるのか。まあ電子メディア自体は20年くらい前から割に普通に人々が使えるようになっていて、それがブロードバンドネットワークというインフラなり携帯電話のキンドルにiPadといったプラットフォームの登場によって、より使い勝手を増して来たってだけのことかもしれないけれど、そうした発展が世界に劇的な変化をもたらすことはよくあること。鉄砲しかりダイナマイトしかり飛行機しかり鉄砲しかり。活版印刷もそうだった。そうした発明の一般化によるパラダイムシフト、って奴が今まさにようやく起ころうとしている、なんて言って良いのかな。

 振り返れば画像や音声も入れて融合させた「マルチメディア」って奴が15年ほど前にあって、それが表現の手法を大きく変えるんじゃないかって期待もあった。総合芸術たる映画すら超えていく次世代エンターテインメントになるんじゃないかって期待も抱いてた。でもそうはならずにむしろ映画がCGIを取り込みつつ、立体視のところまでやって来ては世間にその程度の驚きをもたらしている。あくまでその程度。インタラクティブの感動はそこにはない。一方でマルチメディアの概念はゲームの方へと向かったけれども、そこで遊びの新しさが生まれたかっていうとどうだろう、未だに世間で1番売れている野は「ドラゴンクエスト」。四半世紀も前に誕生したRPGの延長だったりするところに大きな進化を見るのはちょっと難しい。

 一方で、ツールやプラットフォームが個人化したことによる変化ってのはあったのか、っていうとどうだろう。フロッピーディスクってメディアを使って当時の最先端を突っ走るアーティストとかサブカルの人たちが、作品を一般に販売してみせた「フロッケ展」ってのが15年ほど前に立ち上がって、マルチメディア的な方向での同人誌的発達ってやつの可能性を見せてくれたけれども、それが広く注目されるってことはなかった。あそこには確実に今の個人で作り個人で売って個人が楽しむ電子出版の可能性って奴が萌芽として見えていたんだけれど、世の中は直後にネットワーク社会へと向かいブログで日常をさらしメールでリアルの延長のコミュニケーションにまみれ、そして今はTwitterで言葉のやりとりに終始する様を“新しい”と称揚しまくる状況になっている。

 ネットが発達しようとデバイスが進化しようと、人が欲しいのはコミュニケーションであってコンテンツじゃない。ってなことすら伺えそうな中で、電子書籍って奴が果たしてどれだけ浸透していけるのか。そんな辺りを占う意味でも注目していたけれど、とりあえず、米光一成さんのところが仕掛けた電子書籍部では、どうやらら1453冊が売れたそうでこれはまずまずの成果。普通に冊子で売ったら壁際の大手にだってなれちゃうくらいの実績を、2にがけのテーブルで一切の在庫本を置かずにやってしまったんだからちょっと凄い。

 1冊150円として売上はなかなかな。15冊セットで1500円がメインで売れたんだったとしてもそれでもなかなかの売上が立っている。それでどれだけの利益が出ているのか、1著者に還元できるのかってあたりは商業じゃないんで計れないけど、あの短い時間でそれだけの数の言葉を必要としている人が現れたって事実を、平常に敷衍して掛け合わせてみた時に、それなりのマーケットって奴があることが、見えて来そうな気がしないでもない。

 一方にはマスに走りすぎた挙げ句に打算の中でしかもの作りができなくなってしまった既存メディアが、実はとっても有用でそれなりに需要もある言葉の数々を見落としてしまって商業に乗せられず、また乗せようともしない中で、そうした言葉を丹念に拾い集めていける小回りと才覚を持った個人がいて、ツールを駆使して言葉をパッケージに直し、それを届けるインフラを使ってみせられるようになったことも、ここに来て電子本が注目され始めた理由になっているのかもしれない。

 必要なのはだからそうした意義のある言葉をちゃんと集めて送り出せる体制があり、そうした意義のある言葉を受け止め嗜み称揚する受け手側のマインドがあること。なんだけれどもマスメディアを含んだ世間一般は、そんな中からスターを見い出し、祭り上げてはもてはやし、視線を集中させては他をなかったことにしていってしまうのかもしれないなあ。デジタローグもオラシオンもシナジー幾何学もまるでなかったことにされているように。唯一“活字”にこだわり続けたボイジャーだけが今もしっかり立っているところは、人が求めるコミュニケーションの指向性を現していたりすのかもしれない。果たしてどうなる電子本ブーム。動向を注視せよ。


【5月22日】 坂本龍馬に身をなぞらえた代議士が元政権政党を離脱したもののその後の消息は泣かず飛ばずむしろ沈み気味。同じく龍馬に身をなぞらえたIT企業の禿頭なトップも威勢はとっても良いんだけれど会社の方は借金が嵩んでなかなか身動きがとれず、それをカバーするために次から次へと広言流布を行っては世間を慌てさせている。いずれにしたって龍馬龍馬と騒ぐ人ほど龍馬ほどにも世の中から喝采を浴びるほどには至っていないという状況。むしろ龍馬の足を引っ張っている感じすらある。

 龍馬を看板に掲げた幸福な方々による政党なんか、議席の1つすら取れない状況で政党を名乗って宣伝活動に勤しんでいるという切羽詰まった雰囲気で、党首なんかころころと変わって、連載を持っている某ビジネス紙なんかもおそらくは来週も同じ人が書いてくれるのか、それとも別の人に変わるんじゃないかってドキドキしつつ慌てふためいているんじゃないか。龍馬にとってはなかなかに不穏なイメージがつきかねないって状況なんだけれども、それを龍馬が認めたかどうかは龍馬になりきって話せる方をトップに仰いでいるだけに、あるいは認めたのかもしれないし、そうでないかもしれない。どっちにしても世間の龍馬好きにとってはどこか引っかかる。

 つまるところは利用したい奴らの手垢にまみれ、憧れたいおっさんたちの妄想に汚れちまった哀しみを背負ったキャラクターが坂本龍馬ってのが最近の状勢。そんなとこに龍馬を引っ張り出しては巨大な龍馬像まで作ってしまって、そのイメージを利用しようとしているサッカー日本代表が何ともみすぼらしく見えてしまって仕方がない。龍馬が醸し出す陳腐さに浸って日本代表も陳腐なものに思えてくるっていうか。これが例えば信長だったら、旧態依然としたものをぶっこわして突き進むパワーが重なったかもしれないし、伊達政宗だったら婆娑羅な雰囲気を与えて強敵をひらりとかわして進むイメージを重ねたかもしれない。平将門……はさすがに朝敵だから拙いか、だったら源義経でも坂上田村麻呂でも誰でも良い、少なくとも龍馬みたいな陳腐さはなくって、強さを感じさせるキャラクターを持ってくるべきだった。

 なのに龍馬。ああ龍馬。龍馬に罪はないんだけれども龍馬が利用しまくられている現状においてはやっぱり避けるべき人材だった。これを考え出したのが日本サッカー協会なのか、それとも影で暗躍する大手広告代理店なのかは知らないけれども、後者だとしたら世界に冠たるクリエイティブ能力を持ち、マーケティングリサーチにだって長けた集団にもだんだんと綻びが出ているのかもしれないって思うのが、あるいは正しかったりするのかも。これで日本代表が南アフリカの地で3連敗なんてした日には、龍馬のイメージも政治家が与えた猪突猛進に経営者がフィードバックした大言壮語、宗教家が加えた空想炸裂といったイメージの上に虚弱空疎なイメージが加わり低減衰滅していくことになるだろう。22世紀には龍馬なんて誰も知らなくなっているかもな。

 その時にお前は八つ裂きになっていないじゃん。「刀語」の第5夜「賊刀・鎧」で登場したのはゴールドセイントのアルデバラン、ではなくって海賊の頭目・校倉必が身にまとった護りに長けた刀というかつまりは鎧という妙な代物。それを相手に鑢七花は最初は何だろう気を送り込んで内側を粉砕するような技を使ったもののどういう理由からか相手に届かず、惑っていたところをとがめにたしなめられてそれならと相手に迫りぐいっと持ち上げそのまま叩きつけてノックダウン、ってそれで終わり? どうしてあれで倒れるの? 殴られても護ってくれる鎧だけれどもその重量がすべてかかったまんま落ちると衝撃が全身にかかって頭がぐるぐる回ってしまうのかもしれない。1点突破は無理だけれども全身打撲なら勝てるというか。うーん。

 そんな余裕の戦いを前にしてお風呂につかっていた時にとがめの案外に意外なグラマラスっぷりが目に毒というか楽というか。どう見たってスレンダーで真っ平らにしか見えないその胴体に、ちゃんとしっかり二つの房があってこんもりとしていたりして、それが実に柔らかそうに描かれてあって校倉ならずとも触れてみたくなった。いや校倉はきっとめとっても触れずに妹を写して懐かしんでいただけだろうけど。そんなとがめの豊満さを目の当たりにしながらピクリともさせない七花の朴念仁ぶりに感嘆。どういう育ち方をしたらああなったな。それとも姉貴はさらに凄いのか。姉貴いったいどこ行った。そして次は蝦夷での戦い。ガッチャマンもどきとかち合うの? 比較的早い放送なんで逃さず見よう。チェリオ。

 今日かと思ってヨドバシカメラに言ったら26日だった劇エヴァ2のブルーレイ発売日。だもんで何も買わないでスーパーロボット大戦の新型超合金が並び手に仮面ライダーの超合金だかを持った行列を横目にブックオフを舐めて隣にあるバッタ屋さんをのぞいて何か良いもの出てないかなと見渡したら、何と「ONE PIECE」の抱き枕風なクッションが出ていたんで即座に買う。だってニコ・ロビンだよ。それからナミだよ。サイズこそ抱き枕ってほどには大きくないけど、それでも狭い我が家に転がしておくにはちょうど良いサイズ。抱いて眠れば夜は隠微に楽しくなって朝にはいろいろ大変なことになっていそう。ちょっと楽しみ。ボア・ハンコックもいたけど前に四角いクッションを買っていたんでそっちはパス。でもいずれ買ってナミにロビンにハンコックというとがめもタジタジの女性陣に囲まれ眠ることになるんだろうなあ。眠れるかな。


【5月21日】 ブログの女王があれやこれや喧しい中で新・ブログの女王が突っ走っていく後ろから一気にまくったツイッターの女王。それを語るときには欠かせないくらいの存在感となっているけど現実問題どれだけの動員力があるのかは判然としない中できっといろいろ試しては、結果を見せてくれると信じたいけどさてはて。とか行っているうちにこれから出てくる新コミュニケーションツールを使って、例えばフェースブックの女王だとか出てきて持ち上げれたりもするんだろうけどいい加減そうしたツールの進化に伴う女王探しに世間が飽き飽きしているのも事実。ここはだからむしろ原点に立ち返るような意味合いから、その登場を提案したい。「文通の女王」。

 電子メディアが出てくる以前、電話すら行き渡っていなかった時代のオールドメディア・手紙。その手紙を使ったコミュニケーションとして多く用いられた文通をこの瞬間メディア全盛の時代に復活させては、そこはかとない温かみと届くまでの間がもたらすわくわく感を醸し出して、心を感じさせる言葉に植えた人たちのカリスマとなってもらうってのも大いにあるんじゃなかろーか。女王には1日10通で月300通を書いてもらってそれが3カ月ほどで1セット。だいたい1000通を書き上げたら元に戻って書いていくってパターンなら、1人が3カ月に1通の手紙を受け取れる。

 この時間。このゆとり。切なさを増し期待を高め寂しさを誘って喜びを与える。そんな言葉の端々にちょっとづつアフェリエイト的な文言を乗せていくことで、新たなコマーシャルメディアとしても文通を利用するこができる。どうだろう。誰か1人のカリスマ文通アイドルって奴を養成して1年間、書き続けさせることができれば十分に賞賛はると思うんだけれど。そうでなくても今なら誰もいないからすぐにナンバーワンになれること請負。女王に限らず甘い言葉をつづれる男性だって文通の王子様として女性ファンの関心を集めて悪くはない。できるんだったら僕がすぐにでも名乗りを上げたいところだけれど、残念ならが1年習字に通って7級にしかならなかった身ではちょっと手紙は……。だから任せた。出よ、文通の女王、文通の王子様。

 目が覚めたんで支度をしてロケットの打ち上げを見ようと丸の内にある「JAXAi」へ。再度の打ち上げで天候も判然としない中だけに、たいして駆けつけないだろうとオープンの5分前に行ったらすでに長蛇の列で、これは座れないかもと思いながらも入ってどうにか空いていた壁際のスツールに2人で座ったら、その間に1人ツレらしき人を呼び込まれて端に追いやられそうになった。ロケット者はたくましい。

 そして中はすぐに一杯になってテレビカメラも何台か。NHKがいてテレビ東京がいてフジテレビもいたみたいだけれどもどの枠で放送したかは不明。NHKは生中継していたみたいだから、映していた真後ろに僕の顔がのぞいていたかもしれない。でも見られない。残念。テレビ東京は誰か知らない女子リポーターが来ていたけれども誰だったんだろう。それにしてもいっぱいのメディアはやっぱりあれか、JAXAiが例の事業仕分けで廃止されるとかどうとかってことになってしまって、それが呼び水となって人が集まるようになったこともあったんで、様子を見に来てほらこんなに来てます廃止だなんて民主党さんも拙速ですねえといったニュアンスの報道を行うつもりもあったのか。

 現実問題として例の仕分け以降、丸善丸の内本店に行くついでに中をのぞくと人がいっぱいで、昼時なんかにも近所の働くお兄さんお姉さんがのぞきにきていて宇宙服の裏側に入って記念写真なんか撮っていたりする。近くにあるのってつまりはこういう効果がある訳で、これが例えば青海の日本未来科学館だったら誰も行かないし行けるわけがない。そういう意味合いをまるで勘案しないで、どこかにあれば良しとする態度ってのはやっぱり拙いよなあ、でも一方で地の利を活かしたPRができていなかったってのも事実な訳で、そうしたことを勘案しつつ再挑戦、できる機会を与えるってのが人治であり徳政ってもんじゃあ、ないのかねえ。

 あんまり杓子定規だと敵にとって返されちゃうぞ、って思ったけれども敵も猿もの。これは誤字ではありません。アメリカのコラムニストにルーピー(愚か者)とあざけられた鳩山総理大臣を揶揄する言葉を議場で吐くのも、相手に会わせて猿の如くに己の水準を下げているみたいで、とってもみすぼらしい話なんだけれども、そんな言葉を何か革命のスローガンの如くに位置づけては「この愚か者めTシャツ」なんてものを作ってみせる“愚か者”ぶりを発揮しているから堪らない。敵が自分で下がっているなら、そこを超然としてロジカルに攻めるのが格好いい姿なんだけれど、単なる揶揄でしかない言葉を看板にして掲げては相手も苦笑いするだけ。支持者だってなんて低次元だとしか思わない。

 どこかのTシャツ屋がパロディとしてやるなら分かる。それに相乗りするくらいなら理解できなくもないけれど、政権奪還を目論む元与党が自らやってはただの悪のり。ましてや放っておいても周囲の目がそれと証明してくれている「ぬれぎぬ」を、Tシャツにスローガンだなんてカウンターカルチャー的な手法でやるなんて、ひたすらに暑苦しくって押しつけがましい。なんてことは多分誰もが分かっているんだろうけれど、政権の真ん中あたりにいる人たちには、議員に痛々しげに足を引きずらせてそれが得と思考する与党も含めてどうも分かってないらしく、それを伝える大手メディアも、まるで分かっていないのが情けないというか恥ずかしいというか。このままどこまでも落ちていくことになるんだろうなあ、この国は、人も、政治も、社会も、文化も。

 そんな衆愚ならぬ政愚に囲まれ、お可愛そうではありながらも半分くらいは自己責任も感じつつ、それならばと思いっきりサービスに出ている感じもしているJAXAiでは最前列に子供たちを陣取らせて、モニターをじっくり観賞してもらったり、帰りがけにアンケートをしてくれた人にピンバッジを配ったりして、宇宙への関心を高めよう高めようってスタンスを思いっきりアピールしてた。良いことだ。それがちゃんと続けばなお良いんだけれど、喉元過ぎれば何とやらとなるのか、それより周囲が続けさせてくれないのか、分からないけれどもこれが終わりではなく始まりとなった、金星探査の成果なんかを着々と伝えつつ、金星には金髪のロングヘアでジャージを着て胸に「2−3」と書いてある宇宙人がいた! ってな報を粛々と流せば、誰だって興味を持たざるを得ないから頑張ろう。スクール水着の胸に「2−3」の金星人もいるかもな。

 四角い箱の中にはもしかすると脳味噌が入っているかもしれないサイモンライト型「あかつき」も悪くはないけど、やっぱりSF的には太陽風でもって宇宙を行く「イカロス」の方に興味津々、だってクラークじゃん。どれだけ太陽光の圧力でもって推進力を得ているかはよく分からなくって、むしろ太陽光発電で得た動力でもってイオンエンジンを駆動させて推進しているのかもしれないけれど、そうしたハイブリッド技術も含めて何やらSFめいたテクノロジーが現実化して宇宙を飛んでいるってだけで、もう夢が広がって仕方がない。

 いつか自分の体に巨大な太陽風をうけるパラシュートをつけて宇宙を飛んでいくんだ、なんて思ったらそれはちょっと拙いっていうか、宇宙線が体に悪そうだけれど、帆を広げて宇宙をいく船なんて想像するだけで優雅で華麗。地球の海ではなくなった帆船による大航海時代が宇宙で再び幕を開けるってビジョンから、いろいろと物語が生まれて来そう。それを現場で打ち上げをみていた子供たちがやってくれたら嬉しいんだけれど、そういう方向に向かっていた興味もそのうちに手の中のゲーム機でモンスターを狩る方向へと向かってしまうんだろうなあ。導き手が必要だなあ。「あかつき」のプロジェクトに関わっている眼鏡で博士な大月祥子さんの魅力とか。いやいやそれには子供はクラつかないってば。


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