藤本ひとみ歴史館


藤本さんの歴史小説を読んでいると、時代背景を知らずにはいられません。そこで、簡単に時代別に並べてみました。作品を読む参考になれば幸いです。
(注:本頁の記述については、Microsoft社の電子百科事典ENCARTAに多くを依存しています)

  佐藤賢一さんの歴史小説も加えました。1999.07.31

 


 

世紀 / 出来事

作 品 名

登場人物(期間)

−15世紀−

英仏百年戦争

赤 目  (佐)

 

 

双頭の鷲 (佐)

デュ・ゲクラン

 

傭兵ピエール (佐)

ジャンヌ・ダルク(1412〜31)

ジャンヌ・ダルクの生涯
われはフランソワ
 (山之口洋)  
フランソワ・ヴィヨン(1431〜63?)

 

王妃の離婚 (佐)

 

ばら戦争

メディチ家の繁栄

逆光のメディチ

ロレンツォ(1449〜92)

 

 

ダ・ヴィンチ(1452〜1519) 

−16世紀−

 

カルチェ・ラタン(佐)

フランソワ1世(1494〜1547)

 1547 アンリ2世即位 黒王妃(佐) カトリーヌ(1519〜89)

 

暗殺者ロレンザッチョ

預言者ノストラダムス

ノストラダムス(1503〜66)

1572 サンバルテルミーの虐殺

 

−17世紀−

 

 

二人のガスコン(佐)

1648 ルイ14世即位

ブルボンの封印
 

ルイ14世(1638〜1715)

−18世紀−

 

 

オーストリア継承戦争

ハプスブルクの宝剣

マリア・テレジア(1717〜80)

1789 フランス革命

7.14 バスティーユ

バスティーユの陰謀

ウィーンの密使等

侯爵サド

ラクロ(1741〜1803)

アントワネット(1755〜93)

マルキ・ド・サド(1740〜1814)

−19世紀−

 

 

1814 ルイ18世即位
王制復古

マダムの幻影

ルイ18世(1814〜15、15〜24)
シャルル10世(1824〜30)
 上記2人共ルイ16世の弟。

 


 

 

●百年戦争 Hundred Years' War

1337〜1453年と1世紀以上に渡って続いたイングランド・ フランス間の戦争。実際には、1337〜60年と1415〜53年の2期に分れる。
フランス王フィリップ6世が、イングランド王エドワード3世の南西フランスの領土を没収しようとしたことが戦争勃発の原因。元々、イングランド王はフランス王の臣下かつ親族であり、同時にフランス国内に広大な領地をもっていたが、争いの原因としてあった。
1356年、エドワード3世の長男エドワード(黒太子)はポワチィエの戦いでフランス軍を撃破、フランス西部を領土とした。フランスは王位を守ったものの領土の半分を失った。
更に1415年、エドワード3世の曽孫ヘンリー5世アジンコートの戦いに勝利し、フランス王位継承権を獲得した。この当時フランス国王は病弱なシャルル6世でったが、1422年に死去。
その後、フランス北部ではイングランド王がフランス王として認められ、南部ではシャルル7世が王とされるという状況が継続。ところが、オルレアンの包囲戦で、ジャンヌ・ダルクが登場、以後フランス軍が勝利し、シャルル7世は漸く正式に即位するに至った。更にフランス軍は領地を奪い返し、53年に戦争は終結した。

    

 

 

●ばら戦争 Wars of the Roses

145585年、イングランド王位をめぐって、英国内がランカスター家派とヨーク家派に分かれて闘った内乱。両家の紋章が、ランカスター家は紅ばら、ヨーク家は白ばらだったので、ばら戦争と呼ばれるようになったと言われる。ランカスター家による王位継承は、ヘンリー4世・ヘンリー5世・ヘンリー6世と3代続いたが、王位継承権者だった3代目ヨーク公リチャードの長男エドワードがランカスター派を打ち破り、エドワード4世として即位した。
その後再び両派による闘いが繰り返されたが、エドワード4世が争いに勝利し、ヘンリー6世はロンドン塔で殺害された。
しかし、エドワード6世の死後、王弟のグロスター公リチャードがエドワードの遺児をしりぞけて王位を奪い、リチャード3世として即位した。
一方、ランカスター派は、フランス国王シャルル8世の支援をうけるランカスター家傍系のリッチモンド伯ヘンリー・チューダーをおしたて、最後の決戦の結果リチャード3世は敗死し、リッチモンド伯ヘンリーはヘンリー7世として即位し、チューダー朝創始者となった。そして、86年エドワード4世の長女エリザベスと結婚し、ランカスター・ヨーク両家は統合された。
(※ヘンリー7世の息子がヘンリー8世であり、その娘がエリザベス1世)
2派に分かれて闘った貴族たちは長期にわたる内乱で疲弊し、その結果王権が強化され、イギリス絶対王政への道が切り開かれる結果となった。

  

 

●ジャンヌ・ダルク Jeanne d'Arc 1412〜31

百年戦争末期、劣勢にあったフランス軍を優位に導いた国民的ヒロイン。
フランス北東部ドンレミ(現ドンレミ・ラ・ピュセル)の農家生まれ。1429年、オルレアンがイングランド軍に包囲された時、神から王子シャルルを助けるよう啓示を受けたと言う。
ジャンヌは軍の先頭に立ち、包囲軍をやぶってオルレアンを解放。シャルルは彼女と共にランス大聖堂へ赴き、シャルル7世として即位。
しかし、その後自信をつけたシャルル7世はジャンヌを必要とせず、彼女は30年ブルゴーニュ派軍に捕らえられ、イングランドに売渡された。イングランドは彼女をルーアンの教会裁判所へ委ねた。
裁判所は14回にのぼる異端審問の後、男装行為、教会を経由せず直接神に応答しうると信じたことを理由に有罪とした。死刑宣告を受けたものの、ジャンヌが過ちを認めたために一旦終身刑に減刑されたが、入獄後再び男装したことから、改めて死刑を宣せられ、31年5月30日、ルーアンの広場で火刑に処せられた。
その後、ローマ・カトリック教会は1456年に彼女の無罪を宣告、1920年には聖人の称号を与え、5月30日を祝日とした。
戯曲に、シラー「オルレアンの処女」ショー「聖ジョウン」がある。

 

 

 

●フランソワ・ビヨン Francois Villon 1431?〜63?

フランス中世最大の詩人。その抒情詩は、伝統的な定型律やテーマを踏襲しながら、はやくも15世紀にあって近代的な個人の心情表現の萌芽をみせている。
ビヨンその人については、生没年をはじめ不明な点が多い。
1431年頃、パリあるいはその近郊で生まれたフランソワ・ド・モンコルビエあるいはフランソワ・デ・ロージュが、詩人ビヨンであると考えられている。貧しい家に生まれた彼を養育した司祭ギヨーム・ド・ビヨンに感謝の意を表して、ビヨンを名のったという。
パリ大学で
1452年に文学修士の学位をとったものの、55年に路上のけんかで司祭を殺害。さらに1年後にはナバール学寮礼拝堂から金貨 500枚を盗み、パリを逐電してフランス中を放浪。牢獄にも入れられたが、ルイ11世の恩赦により放免。しかし、再び刃傷沙汰を起こして死刑判決を受けるが、翌年罪を減じられて10年間のパリ追放処分となる。その後の消息は不明。
代表作は、
1456年のパリ逐電に際して書かれた「ビヨンの形見」と、61年にパリにもどるに際して書かれた「ビヨン遺言」。このほか、犯罪者世界の隠語をもちいた12編の詩集「隠語によるバラード」と、上記以外のビヨンの詩を後世に集めた「雑詩編」がある。

 

  

 

●メディチ家 Medici

15〜18世紀にイタリア・フィレンツェを支配した一族。
メディチ家の基礎を固めたのは金融業を始めたジョバンニ(1360?〜1429)であり、その子供のコジモ(1389〜1464)の時にヨーロッパ有数の金融業者となり、フィレンツェの実質的支配者となった。コジモの孫のロレンツォ(1449〜92)の時代にメディチ家の繁栄は絶頂に達し、ロレンツォの子と甥はローマ法王になっている。
メディチ家を有名にしているのは、ルネサンス期の芸術・学術を保護したことにもある。ロレンツォはミケランジェロやボッティチェリを保護した。

 

 

 

●カトリーヌ・ド・メディシス  Catherine de Medicis 1519〜89

イタリア・フィレンツェのメディチ家出身、大ロレンツォの曾孫。
1533年フランス国王フランソワ1世の次男オルレアン公アンリと結婚、ヴァロア朝最後の3人の国王の母となる。
1947年アンリ2世が即位するが、59年に騎上の試合による負傷がもとで死去。
同年15歳の長男フランソワ2世が即位するが、翌年夭逝。次いで次男がシャルル9世として即位、カトリーヌは摂政となる。
74年シャルルが死去し、三男がアンリ3世となり、一時摂政に再び就任。
カトリーヌの時代は、名門貴族間の抗争、カトリックとプロテスタントの宗教対立が重なっていたが、カトリーヌは両派のバランスを保ち、王権を維持することに注力した。
文化面においては、イタリア・ルネサンスの感覚をフランスにもたらした功績あり。
マルグリットはナヴァール国王アンリと結婚。アンリは後のブルボン朝アンリ4世

 

 

 

●ノストラダムス  Nostradamus 1503〜66

フランスの医師・占星術師。本名:ミシェル・ド・ノートルダム。
1555年、預言集として名高い「諸世紀」を出版。この書は四行詩にてあらわされ、16世紀中葉から世界の終末までの出来事があいまいな表現で記されている。
南フランスのサン・レミ地方で生まれ、モンペリエの大学で医学を学び、1525年頃に開業。その直後からペスト患者の治療にあたり、斬新な治療法で好評を博した。
1550年頃から預言を書き始め、「諸世紀」により名声を高め、王妃カトリーヌ・ド・メディシスも天宮図の作成を依頼する程。60年にシャルル9世の侍医に任命されている。

 

 

 

●サンバルテルミーの虐殺 

1572年8月24日(サン・バルテルミの祝日)未明、パリで始まったカトリック教徒によるカルバン派キリスト教徒(ユグノー)の大量虐殺事件。虐殺行為は全国に波及した。
この事件は、両派の宥和策としてのナバル王アンリ(のちのアンリ4世)と国王シャルル9世妹マルグリットの婚礼を機に、過激なカトリック信徒・ギーズ家のアンリがユグノーの指導者コリニーの暗殺を図ったことが契機となった。
カトリック側は、ユグノーの報復をおそれて、ユグノーの主だった指導者の殺害を図り、これが大量虐殺への口火となった。

 

 

 

●アンリ4世 Henri IV 1553〜1610

父親はブルボン・ヴァンドーム家のアントワーヌ、母親はナヴァール女王ジャンヌ・ タルブレ。シャルル9世の妹マルグリットと結婚。
その後ヴァロア家に王位継承権をもつ男子がいなくなったため、ブルボン朝の初代国王アンリ4世として即位(在位1589〜1610)。ナントの勅令を発布してカトリックとプロテスタントの抗争であるユグノー戦争を終結させ、戦後復興と絶対王政の基礎を築く。
王妃マルグレットとの間に子供が生まれなかったことから離婚、メディチ家のマリー・ド・メディシスと再婚。二人の間に生まれた子が、後のルイ13世
1610年過激なカトリック教徒に襲撃され、殺害される。

  

 

●オーストリア継承戦争 1740〜48

1740〜48オーストリア・ハプスブルク家世襲地の相続をめぐって起きた戦争。神聖ローマ皇帝でオーストリア大公だったカール6世に息子がおらず、長女マリア・テレジアを継承者としたことが原因となった。
カール6世の生存中は、イギリス、フランス、プロイセン、ロシア等の列強もそれを承認していたが、1740年のカール6世死後、バイエルン選帝侯カール・アルブレヒト(後の神聖ローマ皇帝カール7世)ザクセン選帝侯でポーランド王のアウグスト3世ブルボン出身のスペイン王フェリペ5世が継承権を主張して争った。
また、プロイセン王フリードリヒ2世は、当時オーストリア大公領だったシュレジエンに侵入して占領し、戦争をひきおこした。
戦争は、バイエルン、フランス、スペイン、サルデーニャ、プロイセン、ザクセンの同盟と、それに対するオーストリア、オランダ、イギリスとでたたかわれ、戦火はヨーロッパ各地にひろがった。
戦争は、1748年のアーヘンの和約によって終結。この和約は、いくつかの例外を除き戦争中の占領地をすべて元に戻すことを定めており、マリア・テレジアはシュレジエンを除いてハプスブルク家の領地の殆どを守るに至った。
戦争で最も利益を得たのはプロイセンであり、これを契機にヨーロッパ列強に仲間入りした。

 

 

 

●マリア・テレジア  Maria Theresia 1717〜80

神聖ローマ皇帝カール6世の長女としてウィーンに生まれる。1736年ロートリンゲン公フランツ・シュテファン(後の神聖ローマ皇帝フランツ1世)と結婚、16人の子をもうける。フランスのルイ16世王妃マリー・アントワネットは末娘。
カール6世に男子がいなかった為ハプスブルク家の相続者をマリア・テレジアに定めたが、1740年のカール6世死後は、諸国が相続に干渉し、オーストリア継承戦争が起きる。この戦争でシュレジェンを失ったがその他の領地は守り抜き、45年には夫フランツの神聖ローマ皇帝即位を成し遂げる。
国民からは敬虔・誠実なカトリックの啓蒙君主として敬愛された。

 

 

 

●バスティーユ Bastille

1370年頃、パリ防衛の目的から当時のパリ東部外壁につくられた要塞。絶対王政時代には軍事的目的を失い、ルイ13世時代から国事犯収容の監獄として利用されるようになった。そのため専制政治を象徴するものとして受け取られていたが、実際には本人の家族の依頼によって収容されることが多く、囚人は厚遇されていた。
1789年7月14日、パリの民衆がパリ防衛の目的からこの要塞に保存されている弾薬を要求しにいき、誤解から戦闘が始まった。これがフランス革命の発端となった事件。

 

 

 

●ラクロ Choderlos de Laclos 1741〜1803

書簡体小説「危険な関係」 で有名な軍人、作家。同小説は、18世紀末の貴族階級の頽廃を冷厳に描いた心理小説の先駆として知られる。

 

 

 

●マリー・アントワネット Marie Antoinette 1755〜93

1755年11月2日、神聖ローマ皇帝フランツ1世とオーストリアの女帝マリア・テレジアの末娘としてウィーンに生まれる。オーストリア・ハプスブルク家とフランス・ブルボン家の結びつき強化するためルイ16世の妃となる。2人の間には女子1人、男子2人が誕生。
マリー・アントワネットは、王国行政の人事にしばしば口をはさんだために、宮廷内部に多くの敵をつくった。そのため、男性関係についての噂や、浪費などのスキャンダルが取り沙汰され、民衆の間で悪評が広がり、国王失政は理由とされた。
フランス革命勃発により、マリー・アントワネットは、91年夫ルイ16世、子供らと共にパリ脱出を図ったが、フランス北東部のバレンヌで捕らえられ、パリに戻った。
92年に王政が廃止され、王家は監獄に幽閉された。93年1月にルイ16世が処刑され、マリー・アントワネットも同年10月16日、断頭台で処刑された。

 

 

 

●マルキ・ド・サド(サド侯爵) Marquis de Sade 1740〜1814

背徳小説で知られるフランスの作家。通称マルキ・ド・サド、本名: ドナシャン・アルフォンス・フランソワ・ド・サド。
プロバンス地方の貴族の子としてパリに生まれる。司法官の娘と結婚した後、放蕩にふけり、男色などの罪で入獄、脱獄。1777年パリで捕らえられパンセンヌ監獄に収監され、6年後バスチーユ監獄、89年にシャラントン精神病院に移された。フランス革命で一時解放されるが、1801年好色小説出版のかどで逮捕され、監獄から監獄へたらい回しにされ、03年に再びシャラントン精神病院に監禁される。
結局サドは40年近くを監禁されて過ごし、結果的にサドの作品の多くは獄中で書き上げられた。

 マルキ・ド・サド既読作品

 

 

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