オノレ・バルザック作品のページ


Honor de Balzac 1799〜1850 フランスを代表する文豪の一人、写実主義小説家。自分の多数にのぼる小説を“人間喜劇”としてまとめあげた構想にて有名。“人間喜劇”は150篇の小説からなり、風俗研究哲学研究・分析研究の3つに大別される。更に、風俗研究は、私生活情景・地方生活情景・パリ生活情景・軍隊生活情景・政治生活情景・田園生活情景に分かれ、重要人物が繰り返し幾つもの作品に登場したするのが特色。


1.「絶対」の研究

2.ゴリオ爺さん

3.谷間の百合

4.幻滅

5.ラブイユーズ

6.アルベール・サヴァリュス

7.オノリーヌ

8.従妹ベット

9.従兄ポンス

 


 

1.

●「絶対の探求」●  ★★☆
 原題:"La Recherche de l'Absolu"   訳:水野亮

  

1834年発表


1973年06月
東京創元社刊
バルザック全集
第6巻
 

 

2001/08/31

本作品にて、改めてバルザックという作家の特徴を認識したような気がします。
それは、バルザック作品においては、<作者の生み出した登場人物たち>が物語を作り上げていくのではなく、あくまで物語を作るのは<バルザック>であって、登場人物は単にその駒にすぎない、ということ。
言い換えれば、バルザック作品と他の小説を比べると、登場人物に気持ちが没入していくということがあまりないのです。また、上記のことが端的に現れているのは、バルザックが魅力ある登場人物を簡単に殺してしまう、という点です。
魅力ある登場人物というのは、その小説にとっては貴重な財産の筈。ですから殺すにしても、それが終盤ならまだ判ります。ところが、バルザックの場合は中盤辺り、それもちょうどストーリィに興が乗ってきたところであっさりと殺してしまう、そしてそのことに全く動じることがないのです。本作品では、バルタザルの妻ジョゼフィーヌ、先日読んだラブイユーズではデコアン夫人がその例。折角面白くなってきたところで、それを担っているような人物が簡単に死んでしまう、この後物語はいったいどうなるのかと、読み手としては唖然としてしまうのです。

バルザックにとっては、自分の考え出した“人間喜劇”という大きな枠組みの小説世界において、それを構成する物語のひとつひとつが大事なのであって、それらに登場する人物の一人一人まではとても気にかけてはいられない。各々類型的な人間であって、せいぜい、その与えられた役割のみを果たしてくれれば充分、役割を果したら死んでもらって差支えない、という風に感じるのです。バルザック作品に没入しづらい一因であり、同時にバルザックの小説世界に一旦入り込むとそのスケールの大きさに魅せられて止まない理由です。

本作品のストーリィは、“絶対”なるものの発見に没頭するあまり、富裕な世襲財産の一切を失い、妻子を貧困の底に突き落としてもまるで顧みない、という人間の姿を描いた作品です。その当人は、フランドル地方の名家クラース家の当主バルタザル
突如として“絶対”発見のための科学研究に打ち込み始め、妻ジョゼフィーヌを悲しみ死なせ、残された子供たち、とくに母親代わりとなった長女マルグリットに苦難を与え続けます。ただ、このバルタザルを読み手が決して憎むことができないのは、肉体的障害がある一方で何の資産も持たなかったジョゼフィーヌを、その心根の美しさを理解して求婚し妻にしたという、善良で見識ある人間であったことを知っているからです。

ストーリィの最初は、相変わらずやや退屈。でも、ジョゼフィーヌがあくまで夫に尽くしてその犠牲になっても構わないという意思を明らかにすると、子供たちより夫を優先する彼女の必死な思いが伝わり、本ストーリィへの興味が募っていきます。それなのに、ジョフィーヌはあっさりと死んで舞台から姿を消してしまいます。それが前半。
後半は、ジョゼフィーヌから一家を引き継いだマルグリットが中心的な存在となり、父バルタザルを愛しながらも対立する構図が生まれてきます。そこからの展開はとてもスリリング。まるでサスペンス小説ではないかと思う位の興奮をかきたてられていきます。前半とうって変わり、やはりバルザック作品は面白い!、と唸らざるを得ません。
しかしバルザックは、過ちを犯した人間も心を入れ替えれば善人になるなどという、楽天的な考えを決して持ちはしません。一度ものに憑かれた人間は、最後まで変わることがないのです。その点は、モリエールもやはり同じで、守銭奴はどんな目にあっても守銭奴であることに変わりない、これはフランス流な考え方なのかもしれません。
後半の中心人物が、マルグリットという若くしっかりものの娘だけにロマンス要素もあり、父親との対照もはっきりしていて、ハラハラしつつ面白く読める作品です。

※“人間喜劇”の中では「哲学的研究」に収録。

     

2.

●「ゴリオ爺さん」●  ★★★
 原題:"Le Pere Goriot"   訳:小西茂也

 

1835年発表


1974年06月
東京創元社刊
バルザック全集
第8巻

1999年05月
藤原書店
セレクション第1巻

新潮文庫
岩波文庫(上下)

 

 
1975/07/25
1989/05/11

例によって出だしは読みにくい。けれども、バルザックにしてはまとまりのある、戯曲的な作品です。まるでモリエールを読んでいるような気がしました。
ストーリィは、娘の欲望の犠牲になって破滅していく老人(父親)の悲劇であり、青年
ウージェーヌの眼を通して語られていきます。
作者は、まず登場人物をひとりずつ紹介していきます。その為、初めの部分は硬直的で面白くありません。そして、物語はそれらの人物達の間だけで展開し、物語の規模が膨らんでいくということはありません。その意味で戯曲的なのです。
しかし、この物語は、人間臭さ、泥臭さをよく描き出しているとともに、登場人物の何と個性的なことか。ディケンズの登場人物が戯画化されているのに対し、バルザックの登場人物達は何とも生々しいのです。
本作品で、作者は
“永遠の父性”というテーマを追求しています。ゴリオ爺さんは最初ごく普通の老人です。それが、次第に成功した商人にも拘らず、娘への盲愛のため財産の殆どを2人の娘 (アナスタジー、デルフィーヌ)に差し出し、自分自身は貧乏くさい下宿に住み着いている事情が判明してきます。何と愚かな老人か、と思わざるを得ません。
しかし、クライマックスに至ると、ゴリオの盲目的、崇拝的とも言うべき愛情、金銭をふりまく愛情が、逆に娘2人を金銭的にルーズな人間にならしめ、何かあると父親に泣き付くような娘に仕立て上げてしまったことに、我々は気付くのです。また一方で、父親の過剰な愛情が煩わしい、という娘たちの気持ちも理解できるのです。
ゴリオ自身も、娘達の不実を認識していたのです。しかし、信じたくないという思いから自らを欺いていた。金銭任せの愛情表現は、結局金銭あっての愛情しか育て得なかった。そうした諸々のことをすべてゴリオは理解していたのです。単なる愚かな老人では決してなかった。それにも拘らず、娘達の愛情を涙ぐましくも信じつつ零落していく姿は、まさしく“永遠の父性”の象徴に他ならないと思います。

サマセット・モーム「世界の十大小説」に挙げた作品。

 

3.

●「谷間の百合」●  ★★
 原題:"Le Pere Goriot"   訳:宮崎嶺雄




1836年発表

1974年06月
東京創元社刊
バルザック全集
第9巻

新潮文庫
岩波文庫



1976/08/31



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恋愛小説の傑作として知られた作品です。
でも、読みにくかった。精読しようと思って読んでいても、気持ちがストーリィからつい離れてしまう。バルザックの文章がヘタクソなことは明白だが、それにしても大袈裟な表現、必要のない文章が多過ぎるのである。

登場人物は、モソルノーフ伯爵伯爵夫人アンリエット、そして語り手であるフェリックスの3人のみとも言える。この3人の実像が、未だにはっきり掴むことが出来ない。3人のうちで最もよく描かれているのはモソルノーフ伯爵であるが、それは語り手が客観的に彼の姿を捉えている所為。その反面、アンリエットについては、作者が偶像化し、抽象的讃美を捧げるものだから、一人の人間としての実像がはっきりしない。本来、彼らの実像を描く為には、それら登場人物の日常生活から描いていく必要があると思うのだが、本作品にはそうした日常生活が描かれていないのである。

本作品の主題は何か? モソルノーフ伯爵夫妻の間の心の葛藤か、アンリエットとフェリックスとの間の恋情か、アンリエット自身か。「谷間の百合」という題名からすると、アンリエットの精神生活のように思われる。
アンリエットは、夫の激しい感情の変化に苦しめられ、フェリックスの愛に救いを見出す。しかし、彼女にとってフェリックスは決して恋人であった訳ではないと私には思える。一時の休息の場、心の拠り所に過ぎなかったと思うのである。彼女はフェリックスに崇高さを要求する。まるで自分がその資格を備えていることを自ら確認する為のように。そして、愛が決して肉欲と無縁ではないことをフェリックスに見せつけられると、自身の崩落を感じざるを得ないのである。

アンリエットの愛は、母親の愛でもあり、フェリックスにとっても彼女への愛には母親への思慕が含まれていたのである。その点で、本作品をプラトニックな愛の物語であるとすることは、正確ではないと思う。
解説によると、アンリエットのモデルはベルニー夫人だと言う。彼女はやはり夫の感情の起伏に苦しめられた女性。バルザックがベルニー夫人に恋慕した時、自身は22歳、夫人は44歳とのこと。夫人はバルザックの文壇での成功をよく助けたという。それは、フェリックスがアンリエットの助言により宮廷で成功するのと同様である。

      

4.

●「幻 滅」●  ★★☆
 原題:"Illusions Perdues"   訳:生島遼一

 

183743年発表


1974年8・9月
東京創元社刊
バルザック全集
第11
・12

2000年10月
藤原書店
セレクション第4・5巻

  

1977/03/14

バルザックについて一言で言い表すなら、彼ほどヘタクソな、面白い作家はいない。
バルザック作品を読む時は、いつも出だしのつまらなさに閉口する。「幻滅」は珍しくその例外かと思ったら、冒頭で詳細に語られるダヴィッドという青年は、何の事はない、主人公ではなかった。よくもまあこんな書き方をするものかと呆れる程である。
本作品はゴリオ爺さん
」「従妹ベットのような優れた作品とは思わない。けれども、バルザック作品の中で抜きん出て“人間喜劇”らしい作品と言う事が出来よう。“人間喜劇”に共通して登場する人物が一同に会しており、まさにその中核に位置する作品である。例えば、ラスチニアックは「ゴリオ爺さん」の最後で社会にデビューし、「幻滅」にて社会に存し、その後の作品で興隆を図る。“人間喜劇”を知るには、格好の作品と言える。

本作品には、当時のフランス社会、パリの実態が見事に描かれ、とても面白い。作者バルザック自身があまり道徳的な人間ではないから、その作風は美徳を一蹴し、現実社会の泥臭さを堂々と誇り、その中に逞しい生活力を満々と湛えている。ディケンズより泥臭く、その故にこそ、よりスケールの大きさを感じる。
本作品で、善良なダヴィッドエーヴは、ずるいコワンテ兄弟プチ・クロー、更には兄リュリアンの犠牲になり苦しむ。しかし、勧善懲悪でない、これこそが現実なのである。現実社会を動かすのは金銭であり、社会を構成する人間は金銭欲に取り付かれた人間であり、善良過ぎるだけの人間は片隅に引っ込んでいれば良い、自分のできそうもないことをしようとするな、とバルザックは本作品にて主張するのである。そこには、バルザック自身の力強い生活力への自信が窺える。
“人間喜劇”のスケールの壮大さには、眼を見張るばかりだ。

 

5.

●「ラブイユーズ」●  ★★☆
 原題:"La Rabouilleuse"   訳:小西茂也

 

1841〜42年発表


1974年11月
東京創元社刊
バルザック全集
第17巻

2000年01月
藤原書店
セレクション第6巻

  

 
2001/08/06

小林信彦さんが小説世界のロビンソンの中で絶賛した作品。
でも、冒頭読みにくいのは相変わらず。前置きが長く、何時になったら本ストーリィが始まるのか、と思う程です。それでも、バルザック作品の中では、判り易く、読み易い方でしょう。
始まりは、イスーダンという田舎町における強欲な医師ルージェのことから。そして、本ストーリィが展開し、物語はルージェの娘アガトが寡婦になってからのブリドー家のこととなります。
長男フィリップ母親アガトは熱愛しますが、このフィリップこそなかなか悪辣な人間。母親、同居人で気の良い寡婦ラ・デコアン、善人の次男ジョゼフから金を奪い、損失を与えても、まるで当然の行為の如く平然としています。善人3人が束になっても、悪漢フィリップ一人に皆が振り回されているという状態。最後は漸くフィリップも零落して善人がやはり勝ったと思うと、この第1部は、結局第2部以降の序章に過ぎなかったというのですから、バルザックには全く敵いません。

第2部以降は、ルージェから継いでその低能の息子ジャン・ジャックが保有する財産の相続争いが主ストーリィになります。ジャンの家には、妾兼家政婦のフロールという美貌の娘がいます。極貧育ちから“ラブイユーズ(川揉み女)”と蔑称されている娘。このフロールとその愛人マックスがジャンの財産を横取りしようとしているのですが、アガトとジョゼフという善人母子ではまるで太刀打ちできず。そこで、フィリップが乗り出すことになります。主役が第一部とまるで逆転。そして、フィリップ対マックスという悪漢同士の争いが展開されます。
勝利をつかむのは、善人などではなく悪漢だからこそ、というストーリィ。その迫真さに、思わず納得させられてしまいます。
また、フィリップの徹頭徹尾した悪漢ぶりは、お見事という他ありません。本書は、間違いなく面白い悪漢小説のひとつです。

     

6.

●「アルベール・サヴァリュス」●  ★★
       
   訳:河盛好蔵

 
1842年発表

1974年06月
東京創元社刊
バルザック全集
第9巻

 
1976/08/31

谷間の百合に比べて読み易かった。比較的短い作品であるし、抽象的描写が少なかった所為だろう。
サヴァリュスフランチェスカの恋愛関係は、「谷間の百合」のフェリックスとアンリエットの関係を思わせる。それにしても、その2人の間に押し入るロザリーの行動力というか奸計には眼を見張る。小悪魔的であって、痛快に感じることを否定できない。
結局、彼女の行動は、アルベールの予想外の結果に終わる訳だが、作者はロザリーに過酷な運命を与えている。これは、因果応報というより、ロザリーに静かで平凡な終局を与えることに満足できなかった、作者バルザックのエネルギッシュさを感じるのである。

  

7.

●「オノリーヌ」● 
 
原題:"Honorine"   訳:堀口大學

 
1843年発表

 
1974年11月
東京創元社刊
バルザック全集
第17巻

 

 
2001/08/07

オクターブ・ド・ボーヴァン伯爵とその妻オノリーヌの悲劇を、伯爵の秘書であるモーリス・ド・ロスタルの回想により語った作品です。しかし、読み終えた後ももうひとつ理解できないものが残ります。
オノリーヌは信頼するオクターブ伯爵と結婚したものの、突然駆け落ちをし、その挙句に男に捨てられてしまう。彼女は世捨て人となって一人自活をしているつもりでいるが、彼女を依然として愛するオクターブ伯爵の庇護のもとにあります。
そんなオノリーヌを取り戻すべく、伯爵はモーリスをして彼女の隣家に住まわせ、彼女の心を探ろうとする、というストーリィ。
オノリーヌは自分が愚かだったことを自覚しているが、愛そして情熱はひとつしかないと言って、オクターブの元に戻ろうとはしない。オノリーヌには、潔癖さというより頑迷さを感じます。
結局、オノリーヌが伯爵の元に戻る心の内は如何なるものであったのか、オノリーヌとモーリスの間には恋情が生じても当然のような雰囲気があったけれども、真実はどうだったのか。
そうした重要なポイントが、明らかにされず、謎めいたところが後に残る作品。ですから、読み手としては困惑が残ってしまうのです。

※本論と関係ないのですが、モーリスがオノリーヌに向かって「青いダリアと青いバラを作ってみたい」という場面があり、読んだばかりの最相葉月「青いバラ」との偶然性を感じてニッとしてしまいました。

  

8.

●「従妹ベット」●   ★★★
 原題:"La Cousine Bette"   訳:水野亮

 

1846年発表


1974年10月
東京創元社刊
バルザック全集
第19巻

2001年07月
藤原書店
セレクション第11・12巻

  

1973/08/31
1994/01/13

バルザックの小説は、最初が常に冗長で、ひどく読みにくいのが特徴。バルザック作品きっての面白さと言える本作品にしても、それは例外ではありません。しかし、 100頁辺りまで進むと、主要な登場人物たちも大方顔を揃え、本作品の面白さが現れてきます。
本作品の面白さは、サスペンス、犯罪小説のような趣向を持っている点にあります。主人公である老嬢
ベットは、いかにも百姓女といった風貌。それに対し、従姉アドリーヌユロ男爵の元に嫁ぎ、息子・娘に恵まれ幸せな家庭を築いています。ベットはユロ男爵家への嫉妬・憎悪から、破廉恥な若い女ヴァレリーを仲間にして、ユロ男爵一家を不幸のどん底へ突き落とそうと策略をめぐらします。
ベットの策略の見事さ、ユロ一家やその近親までが策略にまんまと嵌って絶望に落ち込んでいく様子のスリリングさ、その一方でアドリーヌらが何とか罠を逃れられないものかと思う歯がゆさ、昨今のサスペンス小説を凌駕する面白さに充ちています。
ユロ男爵は公金横領で失踪、叔父は加担した罪を背負って自害、兄のユロ元帥は悲しみの末に死去。さらに、息子ヴィクトランは父親の借金を肩代わりして破産、等々。
しかし、バルザックの見事なところは、決してユロ一家を善人、ベットを悪人と単純化していないこと。ユロの娘オルタンスは、ベットに若い恋人がいることを知ると、巧妙に立ち回って彼をベットから奪い取ります。アドリーヌさえもそれを面白がり、オルタンスを励ましながら、せめてベットに悟られないようにと注意する程度。
かように、バルザックの登場人物達は、いずれもしたたかなのです。バルザックを読むなら、是非お薦めしたい作品です。

 

9.

●「従兄ポンス」●   ★★
 原題:"Le Cousin Pons"   訳:水野亮

 

1847年発表


1975年06月
東京創元社刊
バルザック全集
第20巻

1999年09月
藤原書店
セレクション第13巻

  

1977/02/07

貧乏で善良な音楽家ポンスは、金持ちの親戚からいたぶられている境遇。しかし、彼が高価な芸術品を所蔵していることが知れると、その遺産を狙う貪欲な人間たちによって迫害され、ついに死に至るという、簡単かつ月並みなストーリィ。それにも関わらず本作品が評価を得ているのは、バルザックの筆力に負うものでしょう。
金持ち達から貧乏人がどのような扱いを受けているか、老音楽家2人の厚い友情の様子、善人であった筈の
シボ夫人弁護士レジエが欲望から何と呆気なくずる賢い策謀家に変身することか。それらを描き出す筆力は、まさに“人間喜劇”の作者バルザックの面目躍如という風があります。
2人の老音楽家がいたわり合いながら死んでいく姿の何と痛ましいことか。富を欲し、策謀をめぐらす人間達の何とおぞましいことか。その一方で、善良な人間の何と弱く無力なことか。
社会の下層階級で生活にあえぐ人間達と、それと対照的な貴族の生活、善良な人間を押し潰す強欲者達、それらの姿はまさに“人間喜劇”という様相のものです。
本作品と
従妹ベットの2作はともに「貧しき縁者の物語」として関連付けられていますが、「ベット」程のアクの強さはないことから、平凡かつ印象は弱いです。

  

読書りすと(バルザック作品)

 


 

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