その5 茶の湯の裾野を広げるには

 先日、学生の頃の友人(男)を茶の稽古に誘った。実を言えば、茶会の席(その4参照)に誘ったのが都合が付かず、しかしお茶には興味があるという事で連れて行ったのだった。

 カルチャーセンターのどちらかというとお気軽な感じの稽古だが、男性と女性の比率がほぼ同等という理想的な構成である。約2時間の間に友人は2回ほど客をし、その内の1回は私が特別に稽古を受け(本来の自分の稽古の場ではなかった)茶を点てた。

 稽古の終わりに、先生から感想を聞かれ友人が答えたのは、”とにかく足がつらい。”それに応じて先生は、”足がしびれるとかどうとかいう事は茶を学ぶ本質的な部分からは離れたことで気にすることはない。その内慣れる事だし、まずはお茶(の世界)が好きかどうかという事の方が大切である。”さらに、日本文化の中で、茶の湯が果たしてきた役割等を解説して頂いた。

 その後、自宅でビールを飲りつつ、BS放映の北野武の茶事の模様などを見つつ、色々と茶の湯について話した。だいぶ関心はあるようだが、やはり稽古となるといまいち乗り気ではない様子。

 数日し、友人から連絡があった。”やはり、正座の苦痛には耐えかね稽古は断念する。”

 

 自分にとってお茶の面白さはお点前や作法などではない。まして、正座が好きなんてことはない。(ただ、着物を着こなしきちんと正座した姿は美しいと思う。)許状なんかには今の所興味がなく、むしろ家元制度や権威主義、金権主義的な部分に疑問を感じさせする。一生、平茶人で結構だ。(もちろんそのような形で精進されている方々を否定する訳ではない。)茶の湯の本質は、お茶を如何に美味しく飲むか(飲ませるか)という所にあると思う。

 お茶を美味しく飲む(飲ませる)為の仕立てが、茶室や道具、懐石、そしてお点前なのだ。それらは必要条件ではあるが、十分条件ではない。その辺が本末転倒し、まずお点前ありき、なのが現在の多くの茶道であり茶人なのではないだろうか。それでは、お茶は堅苦しく窮屈なものという印象を拭い去ることは出来ない。

 茶の稽古は割稽古として、点前の部分を切り取って行うのはやむを得ないとしても、あくまで茶事の一部にすぎないという事を常に意識したい。茶事こそが本来のお茶の楽しさであるとアピールすることが、茶の湯の裾野を広げる事(特に男性に対しては)になると考える。

 一般には、今の日本料理の原点が茶懐石にあることを知らない者も多いし、茶会にお酒が出ることに驚く者もいる。うまい料理に舌鼓を打ち、程々のお酒をたしなんだ後の一服のお茶の美味しさを味わう、そういう楽しさから茶の湯愛好者を広げていきたいと思う。そういうことが可能な、茶味あふれる料理屋を自分の手で実現することが、目下の野望である。

 

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