箱根山日記 2000年1月分と特別付録



2000年1月28日(金)
 約一週間経ってしまったけど、100歳姉妹の金さん銀さんの金さんがお亡くなりになり
ましたねぇ。
 「朝ご飯はまだいらない。もう少し休む」、休みながら念仏を唱えられていたそうです
が、本当に大往生だったようです。
 葬儀で何度もがっくりと顔を伏せる銀さんの姿をみて思わず私も泣いてしまいました。

 銀さんの葬儀での姿やインタビューを見て8年前に他界した私のばあちゃんのことを思
い出した。
 ばあちゃんにはこの世でゴキブリの次に嫌いだろうと思われる茄子をだまされて食べさ
せられたり、高校受験の時期、朝食に納豆を食べていたら「贅沢だ」と怒られたり、結構
闘争の歴史を繰り返してきたが、じさまが亡くなったとき「ばあさんが可哀想だから」と
ばあちゃんの部屋で寝るようにしたりと結構ばあちゃん子だった一面もあったようだ。
 ばあちゃんが死んだのはえらく寒い3月の朝だった。足を骨折してから多少小さく弱々
しくはなっていたが惚けもせず内臓も年齢より10歳ほど若いとかかりつけの医者は言って
いたから本当に突然の死だった。
 うちには温泉が引いてあるので、ばあちゃんを始め家族でも朝風呂を使うことが多い。
 その日もばあちゃんは私の出勤前に朝風呂に入っていた。
 明治生まれの几帳面な人だったから私が朝食をとる時間には必ず台所で仕事をしていた。
が、この日は私が出勤の時間になってもまだ風呂から上がってくる様子がない。妙な胸騒ぎ
を感じた私は風呂場に行ってみた。「ばあちゃん」と声をかけてもいらえがない。ドアを開
けてみるとばあちゃんが倒れていた。
 すぐに隣近所の医者の先生に来てもらったが、手遅れだった。
 おふくろと僕とかかりつけの医者の先生に看取られながらばあちゃんは息を引き取った。
 おふくろは「お風呂に入って体をきれいにしてから死ぬなんて・・・こんなときまで手を
かけさせないなんて・・・」と言って泣いた。
 そのうち集まってきた近所のばあちゃんと仲良しだったテルおばあさんは「千代さん、千
代さん」と名前を呼んで泣くことしかできなかった。

 死の前日、珍しくばあちゃんは夕餉の時間に家族に甘えたそうだ。先程も書いたけどまだ
まだしっかりした人だったので「お箸を取って」とか「(姉に向かって)あなたのおかずを
ちょうだいね」とか言う人ではなかったのだ。
 「今日のおばあちゃんは甘えっ子だね」と家族で笑っていたそうだ。ばあちゃんも自分の
死期を悟っていたのだろうか?
 そんな席に僕は居合わせなかった。友人とその晩、飲みに行っていたのだ。
 ばあちゃんがみんなに甘えた話を聞いて僕は自責の念に捕らわれた。ばあちゃんは死ぬ前に
きっとばあちゃん子だった僕にも甘えたかったことだろう。
 思い過ごしかもしれないが自分を責めた。
 でも救いはあった。ばあちゃんは足腰が弱るまだ前のころ、四国へおへんろさんに行った。
生前から「死んだらおへんろさんの衣装を着て死にたい」と。
 その願いをかなえるため家族は必死でばあちゃんの部屋を探した。が、とうとう見つから
なかった。
 僕は家族が探すのあきらめた後、一人探し続けた。見つけなければきっと後悔する。そん
な思いが僕の心を占めていた。それともばあちゃんが僕になんらかの波を送ったのか、一人
で探し始めて10分くらい後に僕はそれを見つけた。
 「ばあちゃん、よかったな。これで安心して冥土に行けるぞ」僕はばあちゃんの亡きがらに
そうつぶやいた。
 おへんろさんの衣装を僕が見つけられたのは僕の免罪符になったと同時に、ばあちゃんが僕
にみつけさせたかったに違いないと今でも思っている。おへんろさんの格好をしたばあちゃん
の死に顔は安らいでいるように見えた。

 あれからもう10年近い月日が経って、僕も結婚した。
 今では当時時の悲しさも少し薄れてばあちゃんに線香を上げるのもさぼりがちだ。
 こんな日は仏壇へ行って、ばあちゃんに線香でも上げよう。なんかお菓子はなかったかな。
 子供が産まれたら、今度はひ孫をつれてばあちゃんに手を合わせよう。
 ばあちゃんもきっと喜ぶに違いない。

 最後になったけど改めて金さんの御冥福をお祈りいたします。

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2000年1月27日(木)
 昨日の乱痴気騒ぎのおかげで今日は仕事にならなかった。
 ぎもぢわりーよー(泣)
 家に帰ってもMacを触る気にもなれず、寝た。(゚゚)ウーン

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2000年1月26日(水)
 きょうはおんせんたいきょうのしんねんかいだー。
 ぼくはかいけいでもあるし、かいちょーをはじめ、ふくかいちょーやじむきょくちょー
のえらいひとたちはまちのたいきょうのしんねんかいにいっているから、ちくのしんねん
かいはえらいひとたちがまちのしんねんかいからもどってくるまではぼくがしきらなきゃ
ならないんだなー。
 19じ30ふんころ、きれーなおねーさんもとうちゃくした。きょうのおねーさんはまぁ
まぁだ。
 5ねんくらいまえのき*がわおんせんのげいしゃはひどかったからなー。
 かいをはじめてすぐはまださんかしゃもおおくない。ほんかくてきにあつまってくるの
ははちじはんころだろー
 それまではおねーさんがひとりにひとりつくというゆめのようなてんかいだ。
でも、ぼくはかいひのちょうしゅうとか、みせのますたーのれんらくちょうせいでいそが
しい。びんぼうくじのようだけど、ぼくはそれでもよいのです。
 だってさー さいきんのおねーさんはわかくてきれいだったりかわいかったりするけれ
ども、はなしがおもしろくないんだなー。
 ぼくなんかはむかしのいきなげいしゃさんなんかをしっているからよけいだねー。
 おかねをはらっているこっちがきをつかうことがおおい。はなしをふったりしなくちゃ
ならないとかねー。
 そんなえんかいがえんえん、ひづけのかわったごぜんのいちじはんまでつづいた。
ぶんとうにもかいたけど、ぼくはかいけいなのでさいごまでいなければいけないんだなー。
つかれたよー。はやくかえってあいするおくさんのかおがみたいねー。
 でもでも、さいごにますたーのすぺしゃるかくてるをなんばいかのめたからいいよね。
 ますたーはほんとうはかくてるをつくるのがほうんとうはすきなんだけど、うちらのよう
なえんかいだとかくてるをつくるちゃんすがあまりなくてかわいそうだ。
 だからぼくはえんかいのさいごのほうはますたーにかくてるをたのむんだ。ぼくはますたー
のつくったかくてるはすきだからもちろんうれしいし、ますたーもそのひなんばいかのかく
てるをつくれてしあわせそうだなー。
 ようやくいえにかえってちょっとめざめたおくさんのほっぺたにちゅーしたら、ふとんに
くるまってふたたびねてしまった。
 ぼくもかったりーから、も、ねよねよ。
 きょうのはひらがなだけでよみづらくて、すまぬすまぬ。

※温泉地区体育協会。各種行事を通して地域住民の健康増進に寄与する任意団体。私はそこで会計を勤める。
 ちなみに温泉地区とは僕の住む宮ノ下、大平台、小涌谷の3つの地域のことを指す。
 昭和31年の町村合併まで温泉地区は温泉村であったのだ。
@なんとなく「アルジャーノンに花束を」してるなBAKI/(;^^)

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2000年1月25日(火)
 雪。
 今日は朝から雪だ。僕の住む箱根の宮ノ下では本格的な雪はこの冬初めてではなか
ろーか。
 霙みたいのは正月の2日に降ったけど。
 職場に着くと標高差があるせいか雪は降っていなかった。僕の職場は自宅から標高
差が数百メートルあるのだ。
 今日は時差出勤で帰宅が20時頃。帰路は山に上っていくにつれて雪がどんどんひ
どくなる。天下の国道1号線も真っ白だ。
 「こりゃ明日の朝は大変だ」助手席の妻になんとはなしに話しかける。車のヒーター
もあまり効かない。
 ここ数年、箱根では年に一、二回はどか雪が降る。
 道路は積雪で通行止め、電車は倒木で運休。まさに陸の孤島だ(笑)
 雪国ではないけれど、大雪の朝は静かだ。
 積雪で交通量が少ないのと、雪で音が吸収されるからだろう。
 この妙な静けさが結構好きだ。音はほとんど聞こえないはずなのに耳の中ではシンシンシン
って鳴っているような気がずる。
 こんな日が休みの時は布団にくるまったまま静寂をしばし楽しむ。
 気が向くと2階の開けた窓から外の景色を眺める。
 箱根山一面の雪化粧が見れるときもあれば、雪がまだ猛然と舞っていて遠くも近くも
白く煙って何も見えないときもある。
 寒い冬が大嫌いな僕でも唯一この時間は好きなのかもしれない。
 しかし、これが平日となると状況は一変する。
 道路の状況や登山鉄道の運行状況を素早くチェックし、役所からの放送に耳を澄ます。
場合によっては愛車のタイヤにチェーンをくくりつける作業に大声で悪態をつきながら
精を出す。
 明日はどうだろう?
 外はいつもより静かだ。でもたまに通る車のチェーンが地面を蹴る音が響く。
 これを書いていても足がジンジン寒さで痛い。
 ひじょーに寒いので外を見る気力もなし今日はもうねちまおう。

※残業代をもらうかわりに超過勤務分の時間だけ遅れて出社する勤務体系のこと

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2000年1月23日(日)
 週末に「箱根山通信」をいよいよアップしようと思っていたが、家の商売の手伝い
(ほんの少しだけど)をしたりしていたら何となく疲れたので漫画を読んで寝てしまっ
た。
 いままでホームページといえばオフ会の画像だとか、フリーのホームページアドレ
スを維持するためにでっち上げたものだったりで、そう言えば自分のページをきちん
と作るということはしなかったんだなー、パソ通の仲間もそれぞれホームページ作り
など頑張ってるんだなーとふらふら考えたのが数日前のこと。
 思えばσ(^_^;は学生の頃から同人誌を作ったり、総合芸術団体(単にお笑い集団(笑))
「アルカリ」を結成したりと、結構自己を表現したがる奴だったかもしれない。
 5年ほど前にパソコン(Macintosh)を購入し遊ぶようになってインターネットな
るものの存在を知った時、「こりゃ、おもしろい」と思った。そいでもってしばらく眠っ
ていた自己表現本能が春の土筆のようにムクムクと起き上がってきたその衝動を今で
も覚えている。
 ようやくσ(^_^;のスキルもMac購入当時に比べて少しづつではあるが上がり、また
ここの所少し元気のないσ(^_^;の住む街、箱根−宮ノ下を紹介したいという思いもあっ
て、ついにというか突然ではありますが自分のホームページを立ち上げることになっ
たんですね。
 まぁ、気張らずてらわずこの日記のページと宮ノ下のページはちょこちょこ頑張り
たいなぁと思う次第なのでありますよ。


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これは某ジ**ティーのホームページで公開していた「今日のお怒り」というページからの引っ越し
版です(笑)でっち上げのページ故、第1回しかアップしていない、なおかつ数人しかその存在を知
らないと言う曰く付き(?)の作品です(^_^;)

1999年6月18日(金)
 この日は3日間に渡るコンピュータプログラミング研修の最終日だった。
 最終日ということで午後からは実際に作成したプログラムを入力し、動かしてみる
実習があるのだ。
 話は2週間ほど前にさかのぼる。今回の研修コースの前に別のコースを受講したわ
けだが、このコースでもやはり最終日に実習があった。
 実習は2人一組のペアで行う。ペアは同じ会社などから受講している人達は優先的
にペアを組むことになるのだが、僕のように一人で寂しく来ている奴は同じような境
遇の人と組むことになる。
 この時僕がペアを組んだのは歳の頃は20代前半。身長は190cmはあるだろうとい
ういかつい男だった。 
 この男と最初に言葉を交わした印象からはプログラミング知識も結構ありそうで、
とっつきにくいがなんとなく頼りになりそうなそんな奴だった。
 しかし、自分の直感が如何にいい加減なものか思い知ることになろうとは…
 まず、この男は恐い。恐いったら恐い。
 いざ、実習が始まると機械に向かって罵る。コンピュータに向かって罵ってもしょ
うがないと思うが罵るったら罵る。徹底的に罵る。
 それでもうまくいかないと機械に蹴りを入れる。(実話)
 入力でスペルミスが度々あり、僕が「あのぅ、スペル違います  け ど…」と言
うと「はいぃぃ」と振り向きざまに顎をつきだして返事をする。「はいぃい、すみま
せん」と返答する言葉は丁寧だが殺気がこもっている。で足元では機械をガンガン蹴
り倒しているのだ。こういうのは本当に恐い。
 で結局僕らのペアは40組み近い参加者のうちびりであった。
 話を元に戻そう。
 そんなこともあったせいか今回の研修ではどんな奴とペアを組むかが非常な関心事
なのであった。
 今回のペアは恐らく係長クラスと思われる中間管理職風のおじさんであった。瞬間
僕の脳裏に「まずいぞ」と言う警鐘がなった。まずこういうおじさんはバリバリかヘベ
レケかどちらかなのだ。そしてヘベレケの確率の方が遥かに多い。
 「うーむ。まいったぞまいったぞ。」僕は心の中でつぶやいていた。
 果たしてこのおやじはペアの僕にも、もちろん講師にも一言の断りもなく、な、な
んと午後の実習から逃亡したのだ。
 おかげで僕はプログラムを一人で作成、入力し、まさに孤軍奮闘。
 他の組みは二人なかよく力を合わせながら実習を進めているではないか。
 僕には相談しようにもその相手が逃亡していないのだ。
 おかげで僕はびりはなんとか避けられたものの、ブービー賞。(゚゚)ウーン
 恐らく、管理職だと思われるあの時のおじさんよ。せめて「午後は帰る」の一言く
らいあっても罰は当たらないんじゃないの。
 あんたははっきり言って 人間失格 だ!
 この文章を読んでよーく反省するように!



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