9月12日(小本→黒崎) | ||||||||||||||||||||||||||||||
全駅間歩き4日目(34.3km) | ||||||||||||||||||||||||||||||
普代村の黒崎を目指します。 今日は回る駅数こそ少ないですが、 迂回距離が長く、台地と海岸沿いの低地を 行ったり来たりするので、厳しい1日となりそうです。 昨日は岩泉市街で宿泊しました。 岩泉といえば龍泉洞と岩泉線です。 時間の都合で、龍泉洞には行けませんが、 小本駅まで戻るバスは岩泉駅前8時の出発なので、 バスに乗る前に、岩泉線の岩泉駅を見ておきたいと思います。 龍泉洞は2度ほど行きましたが、洞内は広く、青く透き通った地底湖がとても印象的でした。 岩泉線が止まっている今でも、盛岡駅から路線バスに乗って2時間ほどで龍泉洞まで行くことができます。 ![]() 7時半過ぎに宿屋を出て、岩泉駅を目指します。 昨日は着いた時点ですでに真っ暗でよく分かりませんでしたが、 明るくなって改めて町を見てみると 山間の町という言葉がよく似合う町並みです。 岩泉市街の中心部には川が流れ、 川に沿って観光用の行灯が設置されています。 昨日はほとんどの店が閉まっていた中心商店街では、 通学途中の小学生や高校生の姿をみかけました。 |
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ホテルから10分余り歩いて、岩泉駅に着きました。 岩泉駅には、過去に2回訪れたことがありますが、 岩泉駅は、そのときと変わらない姿で迎えてくれました。 駅に着くと同時に、マイクロバスが岩泉駅を後にしていきました。岩泉線の代行バスです。 ちらっと見た限りでは、座席は7〜8割程度埋まっていました。 ![]() 2010年7月末に発生した土砂崩れ以来、 運転見合わせが続いています。 追い打ちをかけるように、 その8ヶ月あまり後には東日本大震災が発生し、 運行しているJRが復旧せずに路線廃止の意向を示すなど、 岩泉線をとりまく情勢は非常に厳しいものとなっています。 岩泉駅のホームには、今でも自由に立ち入ることができます。 ホームの周辺は列車が来なくなっても手入れが行われており、 以前(右写真・2009年2月撮影)とほとんど変わりありません。 今にもホームの向こう側から列車が来そうな雰囲気です。 |
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列車が来なくなってから2年以上が経過していますが、駅名標はそのまま掲示されています。 岩泉駅前から代行バスが発車することもあり、切符売り場も同じ場所で業務を継続しています。 また、列車の発車時刻表も列車運行時そのままの形で掲示されており、 枠の下に「列車運休中」と記された紙が貼られていました。 ところで、この発車時刻表、「平成24年3月17日改正」の時刻表が掲示されています。 バス代行が続く中でも、岩泉線の発車時刻表は最新のものに更新されているようです。 岩泉駅前のバス停を8時に出るバスに乗り、昨日のゴール駅・小本駅まで戻ります。 岩泉市街から小本方面に向かう乗客は、自分を入れて4〜5人ほどでした。 岩泉市街から30分近くかけて、山間の道を下っていきます。 8時30分少し前、小本駅に到着しました。 少し前置きが長くなりましたが、今日の全駅間歩きをスタートしたいと思います。 |
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小本駅から5分ほど歩いて、昨日まで歩いてきた国道45号線に戻ります。 道はまもなく、台地に上るため(中野峠越えのため)に急な上り坂に入ります。 小本市街の宮古寄りに例のくねくね看板を出して、三陸北道路への迂回を呼びかけているお陰で、 小本市街を抜けると、主要国道にも関わらず、車の行き来はぱったりとなくなってしまいました。 ![]() ここからはしばらく、標高200メートル前後の台地の上を進みます。 道路に沿って林が続き、民家はほとんど見かけません。 町民バスが通過するバス停の付近に、 数軒の民家で構成される集落が見られる程度です。 岩泉町と田野畑村の町村境付近には、牧草地が広がっていました。 道路を通る車の少なさと相まって、 北海道を歩いているんじゃないかという錯覚に陥りました。 |
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小本駅から歩くこと1時間余りで、田野畑村に入りました。 そこからさらに15分ほど歩いて、槇木沢橋に着きました。 槇木沢橋の入り口には、どういうわけか「歩行者用押しボタン」が設置されていました。 歩行者用押しボタンがあるといっても、近くに横断歩道があるわけではありません。 試しに押してみたのですが、何も反応がありません。 どうやら今は機能していないようです。 槇木沢橋には歩道もなければ、路側帯もありません。 やはり、狭くて交通量の多いトンネルの前に歩行者用押しボタンが設置されている場所があるそうですが、 そこでは、ボタンが押されるとトンネル内に「歩行者有、注意」のような表示が出てくるそうです。 ここでも恐らく、そのような設備があったのだと思いますが、 槇木沢橋の交通量が減ったことから、設備が取り外されたのかも知れません。 さて、槇木沢橋を渡ってみます。 隣の橋は、三陸北道路の道路橋・思案坂大橋です。 橋の欄干から見下ろすと、足下を流れる沢に向かって、前後の台地が急激に傾斜しています。 槇木沢橋は谷底から105m、隣の思案坂大橋は谷底から115mの場所に架かっているそうです。 台地と台地の間は崖のように切り立っており、思わず足がすくんでしまいます。 |
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槇木沢橋を越えると、大芦・浜岩泉の集落を通過します。 バイパスは槇木沢橋を越えたところで終わっているため、 道行く車の数は増えますが、それでも交通量はかなり落ち着いています。 林の中を進むこと約30分、思惟大橋(しいのおおはし)が見えてきました。 思惟大橋は、谷底から高さ120mの場所にかかっており、 周囲の道路橋の中ではもっとも谷底からの高低差が大きい橋です。 橋の上では、谷の上流部からの風が常に吹き続けていました。 あまりにも高低差が大きいためか、谷の幅が槇木沢よりも広いためか、 正直なところ、足がすくむような高低感はなかったのですが、 山の上から周囲を見下ろすようなパノラマが広がっていました。 |
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思惟大橋を渡りきった先には、「道の駅たのはた」がありました。 道の駅で少し休憩した後、島越駅を目指すことにしました。 道の駅から島越駅へは、谷底目指して3km近く迂回した後、 思惟大橋の下をくぐり、谷(松前川)に沿って進むことになります。 高低差120mというだけあって、下っても下ってもなかなか谷底に着きません。 20分くらい歩いて、ようやく道の駅の上流側約1kmの場所にある橋に着きましたが、 橋の上から谷底までは、まだ20m以上ありそうな高さでした。 |
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橋を渡り、松前川に沿って下ると、視界の先にアーチ橋が見えてきます。 これが1時間前に渡った思惟大橋です。 高低差が高低差だけに、視界のかなり上に架かっています。 近くで見れば見るほど、とんでもない所に架かっている橋だなと感じてしまいます。
思惟大橋の下をくぐって少し進むと、 右手に左の写真のような看板が現れます。 「辞職坂」??? 誰かが仕事を辞めた坂なんだろうか? 看板の先には、未舗装の山道が続いています。 地図を見る限りでは、 先ほど歩いた国道に向かっているようです。 後で調べてみたところ、こんなお話があるそうです。 まだ、このあたりに思惟大橋も槇木沢橋も架かっていなかった頃、 外部から田野畑にむかうためには、険しい谷をわざわざ上り下りする必要があったそうです。 その谷があまりにも険しいことから、 田野畑に赴任する役人が先に進むか思案した坂が「思案坂」(現在、槇木沢橋・思案坂大橋が架かる谷)、 その谷を何とか越えたものの、さらに険しい次の谷(松前川)を見て、 仕事を投げ出して帰ってしまったといわれる坂が辞職坂なんだそうです。 |
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しばらく谷底の林の中を進みますが、 辞職坂から30分ほど歩くと、周囲が開けてきました。 「高台移転予定地」と記された看板を過ぎたあたりから、島越の集落が見えてきました。 はじめは高台付近に数軒の家が建ち並んでいましたが、 いつの間にか民家は消え、周囲は空き地ばかりとなりました。 視界の先に海が見えるようになってきましたが、見えるものは重機と土砂の山ばかりです。 あるはずの三陸鉄道の高架橋や集落の家々は全く見あたりませんでした。 |
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島越駅は、谷間を繋ぐ高架上にありました。 しかし、震災で発生した津波は、駅と高架を周囲の家々もろとも流し去ってしまいました。 周囲に立ち並んでいた民家も軒並み流出し、駅前は文字通り何もなくなってしまっていました。 現在は、1年半後の運転再開を目指して、線路と駅の再建工事が進められています。 駅が消えた「駅前広場」の一角には、碑が残されていました。 これは宮沢賢治の作品「発動機船 第二」の詩碑です。 この詩碑は、震災前(平成9年)から同じ場所に建てられていたもので、駅を流し去った津波にも耐えました。 民家がほとんど無くなった谷間の地に、重機の音が響き渡っていました。 壊滅的な被害を受けた島越も、少しずつですが復旧への道を歩み始めています。 |
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青空に照らされ、島越の海は青く澄んでいました。 しかし、穏やかに見える海の上にも、震災の爪痕は色濃く残っていました。 外海の波から守るために作られた堤防はあちらこちらで崩壊し、 震災から1年半が過ぎた今でも無残な姿をさらしていました。 島越港から発着していた遊覧船は、未だに運航休止が続いています。 |
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区間の多くが早期復旧を果たした三陸鉄道北リアス線も、このあたりの被害は非常に甚大でした。 地上区間の高架橋は流出し、ちぎれた路盤の先からは赤さびたレールが延びていました。 復旧工事も始まっていますが、ここに高架橋が再び架けられるのは、もう少し先になりそうです。 小さな峠を越え、田野畑駅を目指します。 途中、島越トンネル・平井賀トンネル(県道)を通過しましたが、 いずれのトンネルも停電状態で、真っ暗闇の中を進むことになりました。 懐中電灯では足下しか照らせないため、おそるおそる前に進みました。 普段は恐怖に感じる「歩道のないトンネルを通過する車」も、 進行方向を明るく照らしてくれるという意味ではうれしかったりもしました。 |
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![]() まもなく平井賀(田野畑)の集落が見えてきました。 集落の入り口では、 三陸鉄道の列車を模った調整室を持つ水門が出迎えてくれました。 津波の高さは、水門の高さまで達し、 調整室も被害を受けました。 震災前(2009年2月)の写真(右)と比べると 水門が受けた被害の様子が分かります。 (両者とも水門の南側から撮っています) 調整室に向かう階段や水門の手すりはなくなり、 調整室の扉も強い力を受けたためか、ねじ曲がっています。 |
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![]() 平井賀の集落も、津波によって大きな被害を受けました。 左上の写真が今回(2012年9月)撮影したもの、 右上の写真がほぼ同じ場所で2009年2月に撮影したものです。 2009年の写真では、写真左側に広がっていた家々のほとんどが、 2012年の写真では無くなってしまっています。 上の写真中央にある水門の前から、 少し高台にある田野畑駅までの間にあった建物は、 そのほとんどが流出し、 雑草だけが茂る荒野の先に駅がぽつんと見えるという状態でした。 |
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田野畑駅に到着しました。 ここから先、久慈方面は今年の4月に運行を再開した区間です。 田野畑駅は高台にあるため、直接の津波被害は受けませんでしたが、津波は駅のすぐ前まで迫ったそうです。 駅舎は震災以前と変わりありませんが、 白一色だった駅舎は、運行再開と併せて桜の模様が描き込まれ、以前よりも華やかな感じとなりました。 写真では濃い花びらだけでなく、薄い花びらも所々に見えますが、 実は、「薄い花びら」にはたくさんの「大切な人へのはげましの言葉」が書かれています。 写真を拡大して改めてメッセージを読んでみると、思わず涙が出てきてしまいます。 ![]() 小本同様、不通区間の島越も入った駅名標となっています。 震災以前、宮古からこの田野畑までの駅名標は (最近開業した山口団地駅は除きますが) 上部は魚の形、中央付近から下は周辺の海岸線を模った オリジナル度の高い木製の駅名標でした(右写真)。 以前は、田野畑以南と普代以北で 駅名標のスタイルが全く異なっていたのですが、 現在は、駅名標下のキャッチフレーズ(?)が違うだけで、 駅名標そのもののスタイルは南北間で統一されました。 普代以北の旧駅名標については、また後ほど。 |
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左の写真が2012年9月に、右の写真が2009年2月に撮影したものです。 田野畑駅のホームは、周囲よりも少し高台にあります。 かつては、駅の下にも集落が広がっていましたが、 低地に広がる家々はそのほとんどが流出してしまいました。 …同じ場所で撮ったつもりだったんですけど、ちょっとずれちゃっていますね。 時刻は午後2時を過ぎました。 駅の中にある、小さな喫茶店兼レストランで遅い昼食をとることにしました。 駅の中には、切符売り場や売店、そしてこのレストランがありますが、 駅にいる係員は一人だけです。 レストランで注文しようとすると、切符売り場にいる係員に声をかけないといけません。 今日は平日ですし、列車だってそう頻繁に来るわけではありませんが、 声がかかれば、いろいろな場所を行ったり来たりしなければならないわけで、係員さんが大変そうでした。 駅の待合室で休憩していると、ぱらぱらと雨が降り出しました。 しばらく待っていると雨はやみましたが、あんまり良い天気ではありません。 今回初めての雨とはいえ、まだ今日のゴールまでは12km以上。 しかも、ここから先はゴールまでまともな休憩ポイントがないとくると、 このタイミングで雨はやめてくれよと思いました。 |
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三陸鉄道は、田野畑駅から次駅の普代駅までの間を内陸寄りにトンネルで通過しますが、 今回は、海岸近くを通過する県道を歩いて、普代を目指したいと思います。 もっとも、田野畑から普代までは県道経由で20km近くあるので、 今日は途中の黒崎で一泊することになります。 田野畑駅から県道を10分ほど歩くと再び海岸線が見えてきます。 一旦海岸近くまで下ってから海岸をなぞるように道路は再び高台まで登ります。 震災から1年半が経過し、車道はほぼ復旧していますが、 道路の海岸寄りにあった歩道は津波にさらわれたままで、 車道横のガードレールも大きくひしゃげたまま残されていました。 |
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田野畑駅から歩いて15分弱、羅賀地区の集落が見渡せる高台まで来ました。 左が2012年9月の写真、右が2009年2月の写真です。 写真左側の大きな建物は、羅賀荘というホテルで このあたりにある宿泊施設の中ではかなり大きな部類に入ると思います。 津波は、このホテルの4階部分まで押し寄せ、ホテル自体も大きな被害を受けたそうです。 長らく休業が続き、歩いた時もまだ休業中だったのですが、今年の11月から営業を再開したそうです。 北山崎名物の「サッパ船」は、このホテルの前から出航しています。 一方、右写真から分かるように、写真の右側には羅賀の集落が広がっていましたが、 津波はその集落に立っていた民家のほとんどを流し去ってしまいました(左写真)。 左右の写真を見比べると、津波がいかに高い場所まで押し寄せたかが分かります。 |
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羅賀集落を抜けた後も、道路は海岸沿いを進みます。 周囲は海岸近くまで切り立った崖が続くため、集落と集落の間にはアップダウンがあります。 低地に下ると、侵食された歩道や破壊されたままの堤防など、随所に津波の痕跡が残ります。 一方、高台に登ると、震災を感じさせない、三陸海岸独特のダイナミックな景色が広がっていました。 真っ暗闇のおみおしトンネルを文字通り手探り状態で抜けると、 一気に200メートル近く登る急坂にさしかかりました。勾配標識には10%の表示がありました。 重い荷物背負っての10%は本当に堪えます。 前に進む足も、思わずよろけてしまいます。 陽が完全に陰っていたからよかったものの、終盤近くに登るべき坂じゃありません。 坂を登り切った先にあった非常用休憩施設の脇で倒れ込むように休憩しました。 ![]() ここからは、海岸線から少し離れるため、海とはしばしのお別れとなります。 ゆるやかなアップダウンが続く林の中をしばらく歩くと 「北山崎」という看板が目にとまりました。 この看板の先、約1km余り進むと名勝「北山崎」に着きます。 北山崎は三陸海岸随一の絶景スポットなのですが、 立ち寄ると日没に間に合わなくなるので、泣く泣くパスすることにしました。 さらにしばらく進むと、普代村に入りました。 普代村は「北緯40度東端の村」をうたっています。 でも、緯度でPRするんだったら、 主要道路の北緯40度通過点に線を引いて欲しかったなと思ってみたり。 北緯45度の主要道路通過地点には線が引いてあるわけだし。 |
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普代村に入っても、引き続き林の中を進みます。 道路は、1分間に2〜3台の車が通過するくらいで非常に落ち着いています。 このあたりでは緩いアップダウンを伴った長い直線道路が続きます。 景色の変化が乏しい長い直線道路は、精神的にかなりしんどいです。 今日に限らず、この類の直線道路は、どういうわけか行程の後半に出くわすことが多いような気がします。 (だから、余計にうんざりするんですが) ようやく長い直線道路の終わりが見えてきました。 道路が左に大きくカーブを切る地点が、今日のゴールである黒崎への分岐点です。 分岐点を右に曲がれば、今日の宿屋や黒崎灯台へ続く道に入ります。 黒崎への分岐点には、黒崎灯台を模した小さな灯台の模型が設置されていました。 |
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分岐点を右に折れ、くろさき荘の案内看板に沿って林の中を歩くこと約5分、 林の先に今日の宿「国民宿舎くろさき荘」が現れました。 日没時間を過ぎ、周囲は少しずつ暗くなりかけていました。 客室の窓からは太平洋を一望することができました。 海辺の宿らしく、夕食も刺身など海の幸がメインで、とても美味しかったです。 こういう一軒宿チックな場所に泊まったときは、暗くなった後にふらりと星を見に行くことも多いのですが、 足にまめができて痛み出した上、暗くなってから小雨まで降り出したため、 おとなしく宿屋にとどまって、洗濯にいそしむことにしました。 宿屋で洗濯していると、時間があっという間に過ぎてしまいます。 明日は、いよいよ全駅間歩きの最終日です。 三陸鉄道北リアス線の終点、久慈を目指します。 |
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