9月11日(宮古→小本) 
 全駅間歩き3日目(40.4km)

距離 着時 発時
1 宮古(宿) 6:00
2 山口団地 2.1km 6:26 6:45
3 一の渡 8.7km 8:39 9:05
4 佐羽根 5.7km 10:12 10:45
5 田老 4.5km 11:41 12:05
道の駅たろう 4.6km 13:05 14:10
6 摂待 7.6km 15:54 16:20
7 小本 7.4km 18:02
 今日から三陸鉄道北リアス線を歩きます。
 震災から1年半となる今日は、岩泉町小本を目指します。

 今日はかなりハードな一日です。
 想定距離は今回最長の40km越えで、
 高低差200m前後の急なアップダウンも3回あります。

 ここから先はしばらくの間、
 概ね駅間ごとに峠越えがあります。
 しかし、駅間歩きの対象である三陸鉄道は、
 峠をトンネルで通過してしまいます。
 そのため、歩くと40km以上になる宮古−小本間を
 三陸鉄道はわずか25.1kmで結んでいます。

 40km近くを歩く場合、途中で意図的に寄り道でもしない限り、
 歩行距離は鉄道の営業距離の1〜3割増程度に落ち着くのが普通です。
 比較的最近になって作られた三陸鉄道が、いかに地形的に厳しいところを走っているかを物語っています。
 

 歩く距離が長いので、朝の6時に宮古を出発しました。
 この時期は、朝5時過ぎに日の出を迎えるので、6時には十分明るくなっています。

 宮古駅前から北に延びる道(県道40号線)を道なりに進みます。
 周囲はすぐに商店街から住宅地へと変わります。
 県道はいったん西に向きをかえた後、再び北に向きを変え、峠に向かいます。

 山口団地駅へ向かうため、県道が北に向きを変えるところで県道を一旦離れます。
 山口団地はやや起伏のある斜面に沿って建てられており、住宅内にも急な坂があります。
 この団地内には宮古市街へ向かうバスも運行されているようですが、
 団地の中を走る三陸鉄道に新駅を求めた住民の気持ちも理解できます。
 そんな団地のほぼ中央に三陸鉄道の新駅・山口団地駅がありました。


駅の入口は、集合住宅の一角にあります。
案内標識はありますが、初めて来た人には
少し分かりにくい場所にあります。

訪問時点では、開業から2年経過しておらず、
駅ホームには、まだ真新しさが感じられました。

駅ホームの一角には「駅長室」があるのですが、
この駅長室、実は鳥の巣箱です。
周囲でさえずる小鳥を駅長と見立て、
この駅長室がつくられたようです。

 しかし、この巣箱の穴を見る限り、ほんとうに小さな鳥でないと出入りできない気もするのですが…。
 巣箱って作ったこと無いのですが、案外小さな穴でも鳥は出入りできるものなのでしょうか。

 

 先ほどの県道に戻り、北を目指します。
 峠越えをひかえ、道は少しずつ高度を増していきます。
 山口団地を通過すると宮古の市街地を抜けますが、しばらくは県道に沿って住宅地が点在しています。

 30分ほど歩いたところで道幅が狭くなり、道が森に吸い込まれていきます。
 ここからは本格的な峠越えに入ります。



 林の中に入ると傾斜は一層急になり、高度もどんどん高くなっていきます。
 気温もだんだん上がってきていたと思いますが、
 峠越えの最中はほとんど日陰の中だったので、わりと快適に歩くことができました。
 今日最初の峠の頂点付近で、少し視界が開けた場所に出てきました。
 そこは宮古駅から5km余りの場所でしたが、視界の先まで建物は一切無く、
 すっかり山の中に入ってしまったような景色が広がっていました。

 峠を越えると下り坂となり、しばらく歩くと山と山に挟まれた谷間の集落に出てきました。
 自分が記憶する限り、林の中に入って峠を越えていた1時間ほどの間に
 見かけた車は片手で数えて足りる程度でした。
 …主要地方道なのに。

 歩いてきた県道は、次の峠を登るべく、集落に入るとすぐに上り坂に転じますが、
 一の渡駅はこの谷を下った東側にあるので、一旦谷沿いの道へと進みます。
 時間も8時を過ぎ、日なたを歩くときは日差しの厳しさを感じるようになりました。
 道のすぐ脇には沢と呼ぶにふさわしい小川が流れており、道に沿って畑や民家が点在していました。


 谷沿いの道を下ること15分余り、ようやく一の渡駅が見えてきました。
 駅前といっても民家が1軒あるだけの場所なので、
 あまり駅前らしさはありません。
 道路は線路をアンダークロスしているため、
 ホームへはガードの下にある階段を上ることになります。

 次の駅に向かうためには、
 今下ってきた道を途中まで戻ることになります。
 駅に着く前から憂鬱な気分になってしまいます。



 一の渡駅は、山の谷間にある交換駅です。
 今は1本の列車が宮古と小本の間を行き来しているため、「交換」はありませんが、
 小本行きの列車は山側の1番線、宮古行きの列車は海側の2番線に止まります。
 時折走る車の音と遠くから聞こえる農作業機の音を除けば、
 聞こえるのは鳥の鳴き声と葉の擦れ合う音だけという、本当に静かな駅です。

 あまり人っ気のなさそうな駅でしたが、
 次の駅を向かうために階段を降りようとしたところ、
 1人のおじいさんがホーム近くの階段に腰を下ろしていました。
 これから次の列車で宮古へ向かうようです。

 「これからどこに行くんだい?」
 「佐羽根の駅まで歩こうかと」
 「そりゃあ大変だ。半日かかる。俺には無理だ。」

 どんな駅であっても、使う人あっての駅だなと改めて感じた瞬間でした。



 次の駅・佐羽根へ向かうには、先ほど峠越えに使った県道まで戻らなければなりません。
 駅に向かうときに歩いた道を逆戻りしますが、今度は上り坂です。
 しかも陽が高くなり、日陰も少なくなったため、体感気温はどんどん高くなりました。

 15分あまり歩いて県道まで戻ると、今度は峠越えです。
 朝越えた峠とは違い、日差しを遮ってくれる樹木が少ないため、
 直射日光を受けながら峠道を進むことになりました。

 峠を越えたところで、県道を離れ、佐羽根集落を結ぶ道に入ります。
 この道は、所々で舗装がなくなってしまうほど小さな道でした。
 車一台通るのがやっとという道幅です。
 …それにもかかわらず、車が来た時は避ける場所に困ってしまいましたが。

 峠を下ると採石場のような場所を通過しました。
 こんな小さな道を大きなトラックは通過できるのでしょうか。
 林の中をしばらく進むと周囲が開け、小川を越えると佐羽根の集落に入りました。
 水田の後ろに民家が点在し、さらにその後ろには里山が控えるという、なんとも日本的な集落でした。

 


 集落に入ってから少し進むと、右手に小さな橋が見えます。
 この橋を渡ると、佐羽根駅の入口に着きます。
 佐羽根駅は、40段ほどの階段を登った先にあります。

 佐羽根駅は片面ホームに待合室を有する駅です。
 陽が高く登り、駅ホームに日陰となる場所はありませんが、
 集落よりも一段高い場所にあるため、
 待合室の窓を開けると、気持ちいい風が流れてきました。
 
 朝から峠越えを2回繰り返し、だいぶん疲れてきたので、
 やや長めに休憩することにしました。
 次の列車もしばらく来ない昼前のひととき、周囲はのんびりとした雰囲気に包まれていました。


 十分に休息をとって、次の駅へと向かいます。
 次の駅の田老までは、田代川に沿ってゆるやかに下っていきます。
 谷間が続きましたが、やや開けた場所には水田が広がり、一面黄色くなっていました。
 このあたりも、まもなく米の収穫時期なのでしょう。

 佐羽根駅を出てから40分あまり、三陸鉄道とのアンダークロスを過ぎると、田老の市街が近づきます。
 市街の方からは工事用の重機の音が大きく響いてきました。


 田老の市街地に出ました。
 市街地に出たところでは道に沿って家が建ち並び、
 何事も無かったかのような雰囲気でしたが、
 駅の方に向かって進んでいくにつれ、
 震災の爪痕が明らかになってきました。
 駅近くを流れる小川を渡った先からは、
 ほとんどすべての建物が消えていました。

 小川に架かる橋も海側の欄干部分が大破しており、
 津波が橋の高さを超えて襲いかかったことは明らかでした。
 
 市街地の手前から聞こえてきた重機の音の正体は、
 震災で発生した瓦礫の処理作業を行うクレーン車等の音でした。


 田老駅の横にある観光センターは、建物は残ったものの、
 一階部分を中心に壊滅的な被害を受け、今も機能を停止している状態です。
 今も運行を見合わせている田老−浄土ヶ浜間の遊覧船の時刻表が、震災以前のまま掲出されていました。
 観光センターから駅に向かって伸びていたと思われる庇もなくなってしまったためか、
 扉も窓も無くなってしまった観光センターの1階は、駐輪場の雨よけ代わりに使われていました。

 田老駅の入り口は、観光センターの中ではなく、10〜20m先のガード下にあります。
 地盤沈下のせいで、今も雨天時に水がたまってしまうのか、
 通路にはかさ上げされた仮設通路も設けられていました。

 

 田老駅のホームは、市街地と比べると少し高台に位置しています。
 ホームからは市街地を見渡すことができますが、ほとんどの家屋は消え去ってしまいました。

 津波は、この田老駅のホームを超える高さまで達したそうです。
 幸いなことに、駅施設や線路に深刻な被害はありませんでしたが、大量の瓦礫が線路に散乱したそうです。
 三陸鉄道は、この田老駅から宮古駅までの区間をいち早く運行再開することを決めました。
 線路や駅施設に散乱した瓦礫は、自衛隊の協力でなんとか撤去し、
 震災から9日が過ぎた3月20日には、宮古−田老間の運行再開にこぎつけました。
 復旧当初、駅周辺はまだ震災によって生じた瓦礫や泥などが堆積している状態で、
 利用者は長靴を履いて駅に向かったそうです。

 田老駅周辺も、周辺の被災地域同様、瓦礫や泥の撤去は概ね完了しています。
 しかし、そこから先の復旧・復興への道のりはまだまだ先のように感じられます。


 田老駅を出て、国道に沿って町の中心部を目指します。
 田老の町は、過去の津波の教訓から、
 「万里の長城」と呼ばれた高さ10メートルの巨大堤防が
 市街地を二重に取り囲むという鉄壁の備えが施された町でした。
 しかし、東日本大震災で発生した津波は、堤防をゆうに超える高さで押し寄せ、
 堤防を破壊し、背後に控える市街地のほとんどを流し去ってしまいました。
 破壊を免れた堤防は今もそのまま残っており、国道上からもその姿を確認することができます。

 中心部に入ったところで一旦国道を抜け、田老郵便局を目指しました。
 田老郵便局は、田老総合庁舎の真向かいにあるはずでしたが、
 津波によって跡形もなくなってしまいました。
 現在は、総合庁舎の一角を間借りして、営業が再開されていました。

 やや高台にある総合庁舎へと続く階段の手すりは、
 下側の一部が根本から折れ曲がっていました。
 おそらく津波の水圧によってねじ曲げられたのでしょう。
 建物のほとんどが無くなった後も、津波の威力を物語っています。


 
 
 国道に戻り、北に進みます。
 左上写真のあたりは、田老市街の中心部で、道の左右には家々が立ち並んでいたはずですが、
 土台を残して、そのすべてが無くなってしまいました。
 
 田老市街の外れに、「三陸大津波ここまで」と記された看板がありました。
 田老に巨大な防潮堤を作るきっかけとなった
 1933年の三陸大津波が押し寄せた最深部を示したものです。

 今回の津波は、三陸大津波を上回る規模で押し寄せ、
 事実、この看板のさらに奥まで津波は押し寄せたそうです。
 田老では、津波に備えて十分な対策や訓練等を行ってきたそうです。
 しかし、それにもかかわらず大きな被害が出たということは、
 人間の力など、自然の前にはその足下にも及ばないことを
 物語っているのかもしれません。

 

 高台に向かって高度を増していく国道から田老市街を撮ってみました。写真の奥が中心部です。
 この写真からも、中心部の家屋がほとんど無くなっていることが分かります。
 川に沿って走る堤防は、町を守ってきた防潮堤の一部分です。
 町の復旧・復興が1日も早く進むことを願うところです。


 田老市街を抜けると、国道は高台へと向かうため、一気に坂を上り始めます。
 1kmで100メートル近く上ってしまうので、結構急な坂です。
 気温も上昇し、坂を上ると汗が噴き出てきます。
 再び脱水症状のような感じになってきましたが、道の駅を目指して歩きました。
 もう歩けないと思ったところで、昼食場所と決めていた「道の駅たろう」に到着しました。
 道の駅の標高は160m。市街地からは150m以上の標高差を上ってきたことになります。

 道の駅ではラーメンを食べました。
 脱水症状気味の時は、お腹が空いていても、すぐに食べ物が口を通りません。
 とにかく身体は水を欲しがっていたので、差し出された水はもとより、
 水をおかわりしても、その水はすぐになくなってしまいました。
 食後も少しゆっくりしていると、あっという間に1時間が過ぎようとしていました。



 道の駅を出ると、しばらくは標高200メートル前後の台地の上を歩きます。
 台地の上は平坦地が続くと思いきや、微妙なアップダウンがあり、
 疲れてくるとその「微妙な」アップダウンが結構堪えます。
 道の両側には、しばし林が続きますが、その中にも民家や畑、牧草地が点在しています。
 震災から丸1年半となる14時46分も、このあたりを歩いているときに迎えたはずですが、
 歩くことに集中していて、まったく気がつきませんでした。

 道の駅から1時間ほど歩くと、国道は右に大きくカーブを切り、長い下り坂が始まりました。
 途中で、車を運転していたおじさんに声をかけられました。
 その方は、昨日もヒッチハイク(だったかな?)の旅をしている若い人を宮古まで送ったそうです。
 9月に入ったとはいえ、大学はまだまだ夏休み。
 昔はもっといたそうですが、今もそういう旅を楽しんでいる方がいるみたいですね。

 自分も似たようなことをしてるんじゃないかって?
 ゲフンゲフン。でも、ヒッチハイクはしたこと無いですよ。

 坂を下りきると、目前に摂待の集落が現れました。
 集落は山に囲まれ、のどかな雰囲気を醸し出していますが、
 海まで比較的近く、津波は集落の目の前まで押し寄せたようです。
 摂待橋を渡ると、まもなく摂待駅に到着します。


 三陸鉄道は、摂待集落を高架で突き抜け、国道と交差する地点に摂待駅があります。
 片面ホームに待合室を有するシンプルな駅ですが、周囲に高い建物はなく、周囲をよく見渡せます。

 さて、この摂待駅の下には直売所が設けられています。
 このあたりの農家で栽培された野菜や果物が販売されています。
 せっかく来たのだから、丸かじりできそうな野菜か果物を買おうと思ったのですが…
 売っている商品は、ばら売りではなくセット売りでした。

 これが何を意味しているかって?
 すぐには無くならないってことを意味しています。
 車で移動しているのであれば、車に乗せてしまえば問題ないのですが、今回は歩いているのです。
 つまり、持って歩かないといけないのです。

 とはいえ、一度直売所を覗いたからには何か買うべきでしょう。
 ということで、りんご(きおう)を購入しました。7個入りで300円でした。

 もちろん、7個すべてを持ち歩くことはできません。
 早速摂待駅の待合室でりんごをいただくことにします。

 味は甘すぎることもなく、良かったのですが、量が問題です。
 普通デザートとして食べるりんごは、せいぜい半分か3分の1程度。
 それを1個丸かじりするのですから結構腹にきてしまいます。
 結局、駅では2つ食べるのが精一杯。
 残りはザックに詰めて、宿屋で食べることにしました。

 いよいよ出発というところでザックを背負ってみると、さっきよりも明らかに重たくなっていました。
 りんご5個の重さをなめちゃいけません。
 しかし、りんごを食べたお陰で十分な水分補給をとることができました。


 摂待駅を出ると、国道はまたしても峠越え…というか丘越えのために上り坂となります。
 今回は標高差60〜70mとはいえ、この時間の上り坂はかなり厳しいものがあります。
 りんごの重さも加わったためか、足取りは重たくなったような気がします。
 ようやく陽が陰ってきて歩きやすくなったのがせめてもの救いでした。

 摂待トンネルを抜けて坂を下ると、いよいよ岩泉町に入ります。
 国道に沿って集落が点在しています。
 狭いながらも歩道があるのは立派な進歩です(笑)。

 小さなトンネルを過ぎると、道は上り坂に転じます。
 道を上りきったところで海が見えてきました。
 思えば、今回はずっと海沿いを歩いているはずなのに、
 海岸線まで出たのは、今日はこれが最初でした。

 時刻は17時半を過ぎました。
 日没時間はもう少し先ですが、
 陽は山の向こうに沈んでしまいました。

 まもなく国道は小本トンネルに入ります。
 この小本トンネルは通学路にも指定されているらしく、歩行者用スペースがついています。
 特にトンネルの中は、これがあるのとないのとでは怖さが違います。

 トンネルを抜けると下り坂となり、
 坂を下りきると小本の集落に出てきます。
 小本の集落にも津波は押し寄せ、沿岸部ほど大きな被害が出たようですが、
 歩いたルートに限っていえば、復旧が進んできているように感じられました。
 海側の小本温泉は休業状態が続いているようですが。

 さて、明日は田野畑・普代方面に向かいます。
 もちろん、この国道に沿ってまっすぐ進むわけです、が。


 あれ?
 田野畑行くのは、まっすぐじゃないんですか?


 しかも、険しいルートが待ち構えていることを予告するかのように、
 直進ルートの道は、ご丁寧にもくねくね描かれています。

 実は、最近、自動車専用道路の三陸北道路が開通し、
 田野畑方面へは、この三陸北道路を走った方が早くて快適、ということになったのです。
 こっちは歩くわけですから自動車専用道路の三陸北道路は歩けません。
 明日は、この「くねくね道」を歩くことになります。

 18時少し前、ようやく小本駅の建物が見えてきました。
 駅のホームには三陸鉄道の車両が止まっています。

 この立派な建物は「小本観光センター」で、
 厳密に言えば小本駅の「駅舎」ではありませんが、
 観光センターから駅ホームは建物内の通路で繋がっており、
 観光センター内に切符売り場もあるため、
 この建物が実質的な「駅舎」といえそうです。

 切符売場で入場券を買って、駅ホームへと向かいました。


 今日のゴール駅、小本駅です。
 厳しい区間でしたが、何とか今日も歩ききることができました。

 小本駅は交換可能なホームを持った駅です。
 現在、宮古から来た列車は、ここが終点となっています。
 ここから先、田野畑までの区間は現在も不通となっていますが、
 26年春の運行再開を目指して工事が行われています。
 駅名標には不通区間内にある次駅「島越」の文字もそのまま表示されています。

 18時45分に出る宮古行き列車に乗る人たちが、ちらほらホームに上がってきたところで駅を後にしました。
 今日の宿屋は岩泉市街です。小本駅からバスで移動します。
 観光センターを出ると、ちょうど三陸鉄道代行バスが駅前に入ってきました。
 どうやら、これから小本止まりの三陸鉄道と接続して、田野畑駅へ向かうようです。

 岩泉行きのバスが来るまでの間、休憩していた代行バスの運転手と少し話をしました。
 歩いて旅行していることや、お嫁さんもらうなら東北の人がいいとかそんな話をしたと思うのですが、
 最後に…
 「明日はどこまで行くんだい?」と聞かれたので
 「田野畑の先の黒崎まで行きます」と答えたのですが…
 「すると、田野畑までは三鉄(=三陸鉄道)代行バスに乗って、そこから先は歩くんかい?」と。
 答えにくい質問しないでください〜(泣)。


 18時40分少し前に、岩泉行きのバスは小本駅を後にしました。
 車内には小本市街から乗ったと思われる中学生が3〜4人ほどと
 三陸鉄道から乗り継いだと思われる高校生2人が乗っていました。

 小本駅から30分ほどバスに揺られて、岩泉高校前で下車しました。
 今日は岩泉市街にあるホテル「龍泉洞愛山」に泊まります。
 ホテルに荷物を置いて、夕食を食べに中心部の商店街に向かったのですが…

 

 もう真っ暗でした。
 開いてる店はほとんどありませんでした。
 ちなみに、この時点でまだ19時半過ぎ。飲食店くらいは開いてると思ったのですが。

 少し歩き回って、ようやく営業しているお店を見つけ、そこで夕食をとることにしました。
 そこは広島風お好み焼きの店で、23時くらいまでは営業しているようです。


 食事を終えて宿に戻ったとき、フロントの目の前に設置されていた「あるもの」が目にとまりました。


 見ての通り鉄道模型、ですが、さてここはどこでしょう。

 そう、岩泉線の岩泉駅です。
 ホームから駅舎、そしてその周辺施設もよく再現されています。

 岩泉線は、茂市から岩泉を結ぶJRのローカル線です。
 沿線には岩泉以外に大きな町はなく、そのため運行本数も1日に3〜4往復と極端に少ない路線です。
 2010年7月に土砂崩れに伴う脱線事故を起こして以来、運休が続いています。


 このホテルでは、「もうひとつの岩泉線」プロジェクトと称して、
 鉄道模型ファン有志の協力を得ながら、ホテルのロビーに岩泉線の再現模型を作っています。
 現在は岩泉の隣駅、二升石駅までできているようですが、
 最終的には岩泉線の起点、茂市駅まで作るという壮大な計画があるそうです。


 フロントの方に声をかけると、模型列車の車内灯をつけてくれるとともに、
 フロントの照明を少し落としてくれました。
 現在のキハ110形に置き換わる前に岩泉線を走っていた、キハ52形も出してくれました。

 フロントの方の話からも、岩泉線に対する想いが伝わってきました。
 リアルの岩泉線は、今厳しい現実に立たされています。
 岩泉線を走らせているJRは、すでに廃止の意向を周辺自治体に示しています。
 自然の中を走る岩泉線は、秘境(駅)ブームとともに鉄道ファンを中心に注目されはじめ、
 臨時列車等によって年間7000人の入込があったそうですが、
 (これでも、岩泉線の輸送量を考えると結構大きな数字なんですよ!)
 年々減り続ける輸送量を補うには焼け石に水と言わざるを得ないようです。

 地元も岩泉線を観光資源として考えるようになり、活用し始めた矢先の2010年7月の事故、そして震災。
 できることなら、ファンの一員として、現実の岩泉線が再び動き出すことを期待したい。
 でも、それがかなわないのなら、どんな形であれ、岩泉線が「走り続けること」を願いたいと思います。


 明日は、普代村の黒崎まで歩きたいと思います。
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