9月10日(織笠→宮古) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
全駅間歩き2日目(40.3km) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
今日は、三陸海岸の中心都市・宮古を目指します。 当初は雨になるという予報だったのですが、 予報が外れ、一日中晴れる見込みとなりました。 レインコートを着込んで歩く必要がないのは助かるのですが、 直射日光に延々照りつけられるのは勘弁してほしいところです。 朝食をホテルの食堂で食べて、朝7時に出発しました。 織笠駅へと続く道との分岐点までは昨日と同じ道を進みます。 ![]() 織笠駅へと続く道との分岐点にさしかかりました。 昨日は、この左側から伸びている小道に入り、 織笠駅を目指しましたが、 今日は、中央に続く「織笠大橋」を渡って、 そのまま山田市街を目指したいと思います。 朝の通勤時間ということもあってか、 交通量がやや多い中、歩道も路側帯もない織笠大橋を渡ります。 この橋には歩道ついてると思ったのに…。 |
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織笠集落の被害は、昨日駅から眺めたときに想像した以上のものでした。 集落の大半があった低地の民家はすべて流出してしまいました。 瓦礫の撤去は終わり、土台だけとなった土地からは雑草が伸び始めていました。 これは、震災直後の様子ではありません。 震災から1年半たっても、まだこの状態なのです。 湾口にあった防潮水門も津波によって破壊され、その修復作業が行われていました。 ![]() 山田市街に向かう途中、右手に小さな岬が見えました。 小さな岬は、突端の手前で少しくぼんでいますが、 そのくぼんでいた部分の木々が無くなっていました。 津波がその高さまで押し寄せたことを物語っています。 |
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やがて、視界の先に山田市街が見えてきました。 山田町の中心市街も、津波とそれに伴う火災により、平野部は壊滅的な被害を受けました。 上写真に写っている家々の多くは、辛くも全壊被害を免れた高台の家屋です。 土台だけを残してすべてが無くなった中心市街を、通勤の車が次から次に走り去っていきます。 戻りつつある日常と、1年半を経て変わらず残る震災の爪痕が隣り合う光景は、 考えれば考えるほど少し奇妙なものに思えてきました。 |
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陸中山田駅です。 ホーム以外の建造物はすべて無くなってしまいました。 陸中山田駅は、コンクリート造りの駅舎と2つのホームを持ち、 2つのホームの間は木造の跨線橋で結ばれていたそうです。 震災によって、駅の周囲は津波と大規模な火災に見舞われ、駅舎や跨線橋もその被害を受けました。 震災後しばらくは、駅舎・跨線橋ともに残っていたましたが、復旧作業時に撤去されたようです。 ![]() 駅舎が撤去された駅前広場には、バス停が設けられ、 簡易的な四阿が設置されていました。 かつては立派な駅舎があったと思うと、なんとも悲しい光景です。 ホームの脇に葉をつけていない、1本の木が立っていました。 この木は、震災前からこの位置に立っていたようです。 まだ落葉の季節はずっと先ということを考えると、 この木は枯れてしまっているのかもしれません。 しかし、駅舎はなくなっても、ここに駅があることを伝えるかのように、 その木は残されていました。 先はまだ長いので、ここで少し休憩することにします。 駅舎が無いので、休憩するときも直射日光の下で腰を下ろします。 重い荷物からは解放されるのですが、直射日光はずっと照りつけるので、 体力は思ったよりも早く消耗していきます。 |
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次の駅を目指すことにします。 次の豊間根駅までは10km以上の道のりで、しかも峠越えが待ち構えています。 駅を出てしばらくは山田市街が続きます。 平野部の家屋は、そのほどんどが全壊被害を受けましたが、 山田市街でも、商店等が集まって仮設商店街の営業を始めています。 一方、津波等の被害によって土台のみとなった民家の一角には、 誰が植えたのか、ひまわりが花を咲かせていました。 恐らく、このひまわりは町の復興を願って植えられたものなのでしょう。 この場所からひまわりが無くなるとき、それが復興へ一歩近づくことを願って。 ![]() 湾の奥の方に養殖いかだが浮かんでいます。 山田湾では、昔から養殖いかだを使った ほたてやかきの養殖が盛んでした。 震災前の岩手県のかき養殖量は、 国内第4位を誇っていたそうです。 今回の震災で養殖いかだは流出し、 山田町の養殖漁業は、ほぼ全滅に近い被害を受けました。 しかし、震災後、懸命な努力と支援により、 山田湾の養殖漁業は徐々に復旧へ向かっているようです。 しばらくは右手に山田湾を見ながら進みますが、 市街から2kmほど離れた大沢集落の手前から、国道45号は峠越えのために、北へと進路を変えます。 |
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国道は、沿岸部を離れると、峠越えのため少しずつ坂を上り始めます。 坂を登るにつれて、国道沿いに張り付く民家の数もまばらになります。 大沢集落から30〜40分ほど歩くと、総合運動公園の横を通過します。 ここには、被災した山田病院の仮設診療所が設けられていました。 仮設診療所は、市街地から5km余りの場所にあるため、歩いていける距離ではありません。 そのため、市街地と診療所を結ぶ送迎バスが運行されており、歩いているときも何度かすれ違いました。 総合運動公園を越えると、登坂車線が登場し、上り坂はやや厳しくなります。 山田市街から休憩なしでここまで登ってきたため、歩く度に汗が吹き出し、いい加減疲れてきました。 気温そのものは恐らく30度もなかったと思います。 しかし、厳しく照りつける直射日光も加わり、体感気温は30度を軽く超えていました。 ![]() 峠の頂点を越え、長い下り坂にさしかかります。 しばらく道なりに坂を下っていくと、左手の視界が開け、水田地帯が現れます。 沿道にある家では、乳牛が飼育されていました。 坂を下りきると、豊間根川を渡り、豊間根の集落に入ります。 豊間根の集落は、海からやや離れた、海抜30メートルほどある場所にあるため、 集落が津波に襲われることはなかったようです。 道路に沿って家々が立ち並び、平穏無事な雰囲気が流れていました。 |
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豊間根駅は、ほとんど震災前の姿のまま残されていました。 しかし、列車が来なくなった線路は赤くさび付き、線路の間には雑草が生えていました。 私が豊間根駅に着いたとき、 親子と思しき2人がホームのプラベンチに座っていました。 2人はただ無言でホームの先の線路を見つめていました。 もしかすると、列車が再びこのホームに入ってくる姿を想像していたのかも知れません。 私も、この豊間根駅のホームで休憩します。 しかし、待合室が塞がれてしまっているため、駅の中に「日陰」らしい場所がありません。 直射日光が当たるホームをベンチ代わりに腰掛けましたが、あんまり疲れがとれません。 |
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国道45号に沿って、次の駅・津軽石を目指します。 豊間根の集落を抜けたあたりからは、山田線の線路と並行して進みます。 豊間根から30〜40分ほど歩くと、宮古市に入りました。 山田線と一旦別れると周囲が開けてきました。 …そして、厳しい直射日光が襲ってきました。 脱水症状にならない程度に水分補給はしてきたつもりですが、 水を切らさないことを考える余り、どうしても水分補給は節約しがちになってしまいました。 それがたたってか、津軽石の集落に入る頃には、歩くも絶え絶えの状態になってきました。 この津軽石の集落も豊間根同様、多くの家々が立ち並び、 何事もなかったかのような雰囲気が流れていますが、この集落は津波による浸水被害を受けました。 そういう目で集落を見ると、家々の所々に補修の跡が見られます。 |
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津軽石駅に着きました。 津軽石駅には3m近い津波が押し寄せ、停車していた列車を押し流してしまったそうです。 駅を囲んでいた柵も、津波によって倒壊するなどの被害を受けたため、撤去されています しかし、木造の駅舎は流出を免れ、震災以前の姿のままたたずんでいます。 震災から1年半がたち、駅の周辺は見かけ上、もとの平穏が戻りつつあるようです。 駅に到着したのは、ちょうどお昼を過ぎた頃でした。 次の駅までは7km近くあるので、駅で昼食をとることにしました。 他の駅同様、待合室は板で塞がれているため、駅舎のひさしを日陰代わりに休憩します。 あまりに疲れているため、昼食のために買っておいたパンですら、満足に口に入りません。 50分近い休憩時間のほぼすべてを、ひさしの下でぐったりしながら過ごしました。 津軽石駅の向かい、宮古方の踏切近くに設けられた代替バスの停留所では、 学校帰りの高校生がバスの到着を待っていました。 |
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水分も補給し、なんとか歩ける程度には体力が回復しました。 約7km先の次の駅を目指します。 駅を出て少し歩くと、宮古湾に出ます。 津軽石の集落は、ちょうど宮古湾の最深部にあたります。 このあたりまで出ると、まだ津波の痕跡がはっきり残っています。 国道沿いにあった日帰り温泉「宮古湾温泉」は津波被害を受け、現在は取り壊されています。 歩道の左手に見える高浜集落も大きな被害を受け、 国道と同じ高さにある家々の多くは土台を残して無くなっていました。 宮古湾は青く悠然とその姿をたたえていました。 しかし、そのすぐ横に設けられた歩道は真新しく、震災後に設置しなおされたことが分かります。 そのしばらく先では、道路工事が行われ、津波によって破壊された歩道を造り直していました。 この区間には、日陰となる場所がほとんどなく、厳しい直射日光にさらされ続けることになりました。 とにかく歩き続けること以外まともに考えられませんでした。 あと20分で市街地…、あと10分で市街地…(かな)。 |
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津軽石駅からまるっと1時間歩いて、ようやく宮古市街に入りました。 まだ宮古駅までは4km近くあるのですが、 市街地に入ったことで安心し、もう宮古駅まで着いた気分になりました。 磯鶏駅に入るために国道を外れると、そこは閑静な住宅地でした。 このあたりは、ほぼ全域が津波によって浸水したそうですが、 震災から1年半が経過し、その痕跡を見つけるのが困難なほどに復旧は進んでいました ![]() 磯鶏駅に到着しました。 磯鶏駅は、宮古市街の住宅地の中にある駅です。 ホームも線路もきれいに整えられ、 この駅だけ見れば、今にも列車が来そうな雰囲気です。 時刻は14時30分を過ぎ、 暑さのピークは過ぎようとしていますが、 今度は西日が厳しく照りつけてきました。 |
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駅で休憩していると、向かいの道路に「東京水」と書かれた車が走ってきました。 …こんな所で東京?しかも、水?? 「どこかの飲料メーカーの車かなぁ」などとボケをかましていると、 「東京都水道局」という文字が飛び込んできました。 東京都が東北沿岸各都市に職員を派遣しているという話は聞いていましたが、 どうやら宮古市にも東京都水道局の職員が復旧支援のために派遣されているようです。 |
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今日のゴール駅、宮古に向かいます。 国道45号に戻り、海岸近くを北に進みます。 海岸線の近くまで行くと、震災の爪痕はまだ色濃く残っています。 所々で道路の復旧工事も行われていました。 国道は再び住宅街の中に入り、いよいよ閉伊川を渡ります。 国道45号は宮古大橋で西から北へと向きを変えながら渡りますが、 今回は宮古駅へ向かうため、国道を外れ、宮古大橋の脇から伸びる宮古橋に向かいます。 |
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宮古橋からは、山田線の鉄橋・第34閉伊川橋りょうが見えます。 道路橋である宮古橋・宮古大橋は津波に耐えましたが、 1935年開業当初からの鉄道橋であるこの橋りょうは宮古側の橋桁6本が流出してしまいました。 宮古橋を渡りきると、目指す宮古駅はすぐそこです。 …でも、その前に少し寄り道して、今日泊まるホテルに向かいました。 宮古到着後、浄土ヶ浜まで足を伸ばすことにしたため、荷物を預かってもらうことにしたのです。 重い荷物背負って5kmの往復など、今の体力じゃ絶対できません。 ホテルで荷物預かってもらうついでに、フロント近くの自販機で缶ジュースを1本買いました。 そして、飲み始めると…スルスルスルっと、1分も経たずに飲み干してしまいました。 しかも、フロントの目の前で堂々と。 極限まで疲れていると、人の目って気にならなくなるものなんですね。 気を取り直して、宮古駅に向かいます。 |
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ホテルから歩いて5分弱で宮古駅に着きました。 やっぱり重い荷物がなくなると、足取りも軽くなります。 今日の「全駅間歩き」はここでゴールです。 |
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![]() 明日からは、この三陸鉄道に沿って久慈まで歩くことになります。 入場券を2枚買って構内に入ると、 丁度小本からの列車が到着するところでした。 2両編成の列車からは、大勢のツアー客が降りてきました。 2両編成のうちの1両は、「手をつな号」というラッピング列車でした。 これは、国内外のマンガ・アニメなどのキャラクターが 被災地支援のために、版権の壁を越え手を繋ぐプロジェクト 「てをつなごう だいさくせん」の一環で、 2012年4月から運行しているものです。 ![]() このプロジェクトには、 ピカチュウやドラえもん、エルモやピングー、ミッフィーのほか、 どーもくんやモリゾー、キッコロといったキャラクターまで参加しています。 (詳しくはhttp://www.teotsunago.com/を見てください) ラッピング列車だけではなく、 三陸鉄道各駅には、このプロジェクトのポスターが掲載されています。 続いて、隣接するJRの宮古駅に行きました。 こちらでは、丁度盛岡行きの普通列車が発車するところでした。 2両編成の列車には、座席が6〜7割くらい埋まる位の乗客が乗っていました。 震災が起こるまでは、このホームから釜石方面に向かう列車も発車していました。 釜石方面に向かう列車がこのホームから再び出発する日を願ってやみません。 やがて、隣のホームに宮古止まりの列車が到着すると、 入れ違いに盛岡行きの普通列車は宮古駅を後にしました。 時刻は16時少し前です。 これから浄土ヶ浜まで足を伸ばしてみたいと思います。 |
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宮古の中心市街を通って、浄土ヶ浜を目指します。 道幅があまり広くないため、一方通行となっている道路の両側には、商店が立ち並んでいます。 このあたりも、震災時には津波が押し寄せたそうですが、 今はその爪痕を認めるのも難しいくらいに復旧が進んでいます。 駅から15分ほど歩くと宮古市役所の前を通過します。 庁舎の前には、納税を呼びかける看板が掲げられており、 見かけの上では、日常の光景が戻りつつあるように写ります。 |
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しかし、宮古港付近まで足を進めると、その様子は一変します。 道の両側は土台を残してすべて無くなった家が続き、 この2日間見てきた、津波に襲われた沿岸地域と同じ光景が広がっていました。 この地域にあったはずの郵便局は、数百メートル北の高台に仮設移転していました。 港近くの海岸には、多数の小型ボートが並べられていました。 並べられている小型ボートの多くは見たところ新しそうなものでした。 津波は、家屋だけではなく、漁業で必要な船やボートも流し去りました。 ここに並べられているボートは、震災以後に購入あるいは寄付されたボートなのかもしれません。 完全復旧までは道半ばなのかもしれませんが、一歩一歩立ち直りつつあるようです。 ![]() 宮古駅からまるっと1時間歩いて 浄土ヶ浜ターミナルに着きました。 ここが、写真に出てくる浄土ヶ浜かと思いきや、 写真にも出てくる浄土ヶ浜は、 さらに先の「奥浄土ヶ浜」と呼ばれる場所のようです。 せっかくここまで歩いてきたので、 もう少し踏ん張って奥浄土ヶ浜を目指したいと思います。 |
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浄土ヶ浜ターミナルから15分ほど歩いて、奥浄土ヶ浜に着きました。 白い砂利で埋め尽くされた海岸線が広がり、 その先には独特の形をした白い岩山と緑の松が連なっていました。 時間は17時を過ぎていたので、着いた頃には陽が陰ってしまいましたが、その白さは目をひくものがありました。 「浄土ヶ浜」という名前の起こりには諸説あるようですが、 「浄土」と呼ぶにふさわしい景色であることはすぐに理解できます。 この浄土ヶ浜も、例外なく震災による津波の被害を受けました。 海岸の白い砂利も津波が運んできた泥や瓦礫などにより一面茶色と化してしまいました。 その後、津波によって運ばれた瓦礫等の撤去や砂利に付着した泥などの掃除を行い、 多くの方々の努力あって、もとの「白い海岸線」を取り戻したそうです。 海岸線の砂利は美しい…のですが、 足にどうやら豆ができてしまったようで、砂利の上を歩くだけで足に痛みが走ってしまいます。 あまり歩かず、海岸近くでのんびり腰を下ろすことにしました。 気がつくと17時半を過ぎようとしていました。。 日没時間が迫ってきたので、帰ることにします。 帰りももちろん歩きです。 浄土ヶ浜から市街に戻るためには、高台にあるターミナルまで戻らなければなりません。 標高差は40メートル近くあります。やはり荷物は置いてきて正解でした。 ターミナルを通過し、宮古港地区まで戻ると、空は暗くなっていました。 宮古港では、水揚げされた海産物を運ぶフォークリフトがせわしく動き回っていました。 震災の被害が大きい同地区ですが、復興の兆しはあちらこちらに見られます。 市街まで戻る頃には、もう真っ暗になっていました。 18時30分過ぎ、今日宿泊する駅近くのホテルまで戻りました。 今日も夕食はホテルのレストランで…と気楽に考えていたのですが、定休日でした。 日中の疲れも重なり、あまり夕食のことを考えたくもなかったので、 山田線の線路を挟んで反対側にあるマクドナルドで夕食をとることにしました。 …はるばる宮古まで来てマクドナルドですか、というツッコミはなしにしてやってください。 そして、マクドナルドでいざ注文という段になって、 今度は…財布がない!! 単純に財布をホテルに置いてきてしまっただけのことでしたが、一瞬パニックになってしまいました。 財布がないことに気がついたのが、注文した後だったのでなおさらです。 結局、いつも持ち歩いている肩掛け鞄に非常資金として入れてある2千円札を使う羽目に。 さらば守礼門…。 最近滅多に2千円札を見ないから、使いたくなかったのに(涙)。 明日は、小本を目指して、三陸鉄道北リアス線を歩きます。 歩行距離は長い上に、峠越えも何回かあり、今日以上に厳しい行程となりそうです。 |
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