1794年―フランドル・オランダ戦線



・先手

 フランドルではフランス軍、連合軍とも春の攻撃に向けた準備を進めた。フランス軍は総動員法によって28万人(25万人の説もある)をこの戦場に集め、初めて連合軍を数で上回った。北方軍指揮官はジュールダンからピシュグリュに代わっていた。彼はまず3月29日にル=カトーとカンブレー方面の連合軍に対する攻撃をしかけたがこれは失敗に終わった。フランス軍は1200人の損害を出し、オーストリア軍は300人を失った。一方、神聖ローマ皇帝フランツ2世を名目上の指揮官としたザクセン=コーブルク公麾下の16万人はル=カトー北方に集まり、4月17日にギュイーズとカンブレーの間にいるフランス軍主力へ向けて前進を開始した。ザクセン=コーブルク公はフランス軍を追い払ったうえでランドレシーを包囲するため20日に前進を止めた。

 これに対しフランス軍は4月後半からフランドル国境全面で反撃を開始。モーゼル軍が南翼からサンブル河へ向かう一方で、ピシュグリュはランドレシー周辺の連合軍中央を攻撃するため4万5000人(4万人の説もある)の兵を向かわせた。4月26日、ランドレシー解放へ向かったシャピュー将軍麾下の2万5000人はル=カトー(トロワヴィユ)でオーストリア軍に西側から正面攻撃をかけたが、不手際な機動のため前進が遅れ、ヨーク公率いるイギリス=ドイツ諸邦連合軍の反撃を受けた。さらにシュヴァルツェンベルク率いるオーストリア騎兵がその左翼をカンブレーへ逃走させた。同日、モーブージュ付近にいるフェラン将軍のフランス軍1万人もランドレシーを東から攻撃したが、アルヴィンツィ負傷の後を引き継いだカール大公の反撃で退却した。シャピューは後退する最中にオット将軍の騎兵に捕まった。フランス軍の損害は4000人(7000人の説もある)、連合軍は2万3000人のうち2000人(2500人の説もある)の損害だった。フランス軍の攻撃失敗で21日から包囲されていたランドレシーの守備隊7000人は30日に降伏した。

・左翼からの反撃

 一方、北方軍の左翼を担当していたスーアンとモローはフランドルの海岸部での攻撃準備を進め、26日には5万人の部隊がリールから北方へ向かった。スーアンが右翼を率いてクルトレーへ進み、モローの左翼はメナンへ前進。連合軍のクレアファイト将軍はフランスの陽動にひっかかってトゥールネーへ移動しており、フランス軍の前進を知って慌てて1万8000人(2万8000人の説もある)の部隊を率いて北へ向かった。28日、スーアンはムスクロンにいたハノーヴァー旅団を蹂躙し、さらにクルトレーへ前進したが、その日のうちにクレアファイトがムスクロンを奪回してフランス軍とリールの中間地点を確保した。スーアンとモローは夜の間に強行軍で戻り、29日早朝に連合軍1万人を2方向から攻撃した。4時間の激しい戦闘の後、数で圧倒された連合軍は退却に移り、やがて壊走した。フランス軍で戦闘に参加したのは2万8000人(2万4000人の説もある)。全体でフランス軍の損害は1500人、連合軍は1800人。フランス軍は連合軍1200人を捕虜にしたという。

 ランドレシー陥落後、ヨーク公の軍勢がクレアファイト増援に向かった。クレアファイトはヨーク公がトゥールネーに到着し次第、クルトレーへ向かうよう命令された。5月8日、前進を始めたクレアファイトはヴァンダンムの前衛旅団をクルトレーへ追いやり、その郊外に布陣した。スーアン師団他2万人(2万5000人の説もある)は11日、クルトレーでクレアファイトの部隊8500人を攻撃。オーストリア軍の戦線は持ちこたえていたが、弱気になったクレアファイトはメナンを捨てティールへ退却した。損害はフランス軍1000人、連合軍1500人だった。一方、増援にきたヨーク公は5月10日にトゥールネーとリールの間のベシュー付近でフランス軍の攻撃を撃退したが、今やオーストリア軍とヨーク公の軍の間はフランス軍によって分断されていた。

 連合軍の参謀長マックは、分散した各部隊を同時にフランス軍の背後へ移動させ、トゥールコアンへ前進してクルトレーとメナンにいるスーアン、モローのフランス軍を包囲する計画を立てた。慌しく計画が策定され、5月17日には6つの縦隊が作戦を始めたが、翌日、オット将軍(トゥールコアン)とヨーク公(ルーベ)の縦隊以外は予定の場所に到着できなかった。オーストリア軍の移動が遅れている間にスーアンとモローは内線の利を活用して兵力を集結。18日朝、北方から前進してくるクレアファイトに対してはヴァンダンムが少数の部隊で遅滞作戦を行う一方、スーアンは4万5000人(4万人の説もある)を集めてヨーク公とオットの3万人(2万人の説もある)に攻撃を開始。まずオットの部隊を襲撃してこれを退却させ、さらにヨーク公の主力部隊も攻撃した。さらにリールから出撃したボノー将軍の1万6000人がムーヴォーとルーベで連合軍の側面を攻撃した。マックは南方にいたカール大公らの兵力2万9000人に対してヨーク公を支援するよう命じたが、この部隊は戦場に到着せず。ヨーク公は3000人の損害を出してトゥールネーへ後退した。17日から18日にかけて行われたこのトゥールコアンの戦い全体では、フランス軍8万2000人、連合軍7万4000人(うち4万8000人が実際の戦闘に参加)が戦場に集まり、フランス軍が3000人、連合軍が5500人の損害を出したと言われる。

 トゥールコアンの敗北でヨーク公の3万人(2万8000人の説もある)の軍勢はスーアン率いるフランス軍5万人の前で孤立した状況になった。5月23日(22日の説もある)、ピシュグリュが合流した北方軍(4万5000人の説もある)はスヘルデ河西岸にいるヨーク公の部隊(ザクセン=コーブルク公が部隊を率いたとの説もある)に攻撃をかけた。連合軍右翼のハノーヴァー部隊を河の向こうに追いやったが、他の地域では攻撃は成功しなかった。散兵戦術を使って北方軍マクドナルド旅団は連合軍の中央の拠点であるポン=タ=シャンを奪ったが、ヨーク公が予備の2個師団を投入したのに伴ってここは戦闘の焦点となり、その所有者は5回も変わった。激しい戦闘の後、フランス軍は結果的に後退して最初の位置へ戻った。双方の損害は4000人(フランス軍6000人、連合軍3000人の説もある)。ピシュグリュは攻撃の鉾先を孤立したイープルに向け、6月1日から包囲された連合軍守備隊6000人(7000人の説もある)は17日に降伏した。

・サンブル河戦線

 4月下旬から始まったフランス軍南翼によるサンブル河への攻撃はゆっくりとしたものだった。シャルドニエ将軍とデジャルダン将軍麾下の兵5万人は5月10日から北東へ移動し、サンブル河沿いのシャルルロワに接近した。一方カウニッツ将軍率いるオーストリア側にも3個師団の増援が到着し、その兵力は3万人になった。フランス軍はサンブル河南岸のテューアンを占領し、12日に河を渡った。カウニッツはシャルルロワ方面へ後退。13日、グランドレン(ルヴロワ)でオーストリア軍に攻撃をしかけたフランス軍3万3000人は混乱状態となり、オーストリア騎兵の反撃により夜にはサンブル河南岸に逃げた。損害はフランス軍4000人、連合軍2800人だった。

 再度シャルルロワへ向かうよう命じられたフランス軍は5月20日にサンブル河を渡河。翌日のオーストリア軍による攻撃から橋頭堡を守りきった。カウニッツは24日に攻撃を再開。側面迂回行動のためクレベールの部隊1万5000人を派出して手薄になったフランス軍右翼に、連合軍は攻撃を集中した。クレベールが強行軍で戻って部隊の退却をカバーしたおかげで損害は少なかったが、フランス軍は河へと退却することになった。このアーケリヌ(ペシャン)の戦いにはフランス軍3万人、連合軍2万4000人が参加。損害はフランス軍が5400人、連合軍が650人だった。この戦闘ではフランス軍の殿を務めたベルナドットが名声を得た。

 2回の試みで大きな損害(8000人との説もある)を受けたシャルボニエとデジャルダンはラインからジュールダンの4万人の増援(4万5000人の説もある)が到着するまで休息しようと考えたが、フランス政府は26日に3度目の渡河命令を出した。疲労したフランス軍の攻撃は拠点を一つ奪っただけで止まったが、連合軍も部隊を再配置している最中であったため左翼をシャルルロワまで退却させることにした。29日に連合軍防御部隊の最前線を蹂躙したフランス軍は30日にシャルルロワを取り囲んだ。しかし、1万人の増援を得た連合軍の新指揮官オラニエ公は6月3日に北方と西方から反撃。フランス軍はシャルルロワ東方でサンブル河を渡って退却した。フランス軍2万7000人、連合軍2万8000人が参加し、損害はフランス軍2000人、連合軍400人だった。

 5月29日にディナンを占領したジュールダンは6月4日にサンブル河戦線に到着。数の優位を確保したフランス軍は12日にシャルルロワへの攻撃を再開した。16日、連合軍4万1000人はフルーリュス(ランビュサール)でフランス軍7万3000人に反撃。フランス軍右翼にいたアルデンヌ軍が混乱しサンブル河を渡って退却したため、ジュールダンはシャルルロワ包囲を諦めて後退した。連合軍はシャルルロワとの連絡を回復。双方とも3000人の損害を出した(連合軍は2800人の説もある)。だが、フランス軍は18日(19日の説もある)にシャルルロワの包囲を再開。ザクセン=コーブルク公はこれに対抗するためフランドルに展開する連合軍のうち1万2000人をサンブル河方面へ増援として送り出した。ただ、ヨーク公やクレアファイトの部隊はピシュグリュの北方軍への備えに残された。

・フルーリュスの戦い(1794年6月26日)

 アトリ将軍のフランス軍部隊1万1000人に包囲されていたシャルルロワの守備隊3000人はフランス側の恫喝に屈して25日(26日の説もある)に降伏。フランス軍9万人(7万7000人、7万5000人の説もある)のうち残りの部隊はシャルルロワ周辺のサンブル河北岸に半円形の陣地を築いて連合軍の反撃に備えており、さらにアトリの部隊も予備として使えるようになった。6月26日、ザクセン=コーブルク公麾下の連合軍4万6000人(5万2000人の説もある)がフランス軍陣地全域に攻撃をしかけた。連合軍は西から1つの縦隊、北から1つの縦隊、北東から3つの縦隊で前進。右翼のオラニエ公の部隊1万5000人は、クレベールとサンブル河南岸に残っていたシェレールが送り込んだ増援によって前進を止められ、シャルルロワが降伏したと知って後退した。最左翼ではボーリューのオーストリア軍1万7000人がマルソー師団を攻撃してこれを壊走させるのに成功したが、その背後に待ち構えていたルフェーブル師団の抵抗にあって前進が止まった。中央ではカウニッツとカール大公の兵2万人がフルーリュス近辺のフランス軍を北と東から攻撃した。カール大公は街に強襲をかけこれを奪ったが、その背後にあるフランス軍の防衛線には3回攻撃していずれも失敗。その西方で攻撃をしていたカウニッツに対してはシャンピオネ師団が抵抗。ルフェーブル師団が後退していると思い込んだフランス側指揮官ジュールダンは彼の部隊をアッピニーの陣地から後退させたが、すぐにルフェーブル師団が踏み止まっていることを知ってデュボワの騎兵部隊を含め部隊を再度前進させた。さらにルフェーブル師団に対してはアトリ師団の一部を増援に送り、混乱を収めたマルソーの部隊も戦場へ戻った。やがてシャルルロワの陥落を知ったザクセン=コーブルク公は午後中ごろに攻勢を諦めた。双方5000人の損害(連合軍の損害は1600人の説もある)を出したこの戦いは事実上引き分けだったが、オーストリア政府がすでにハプスブルク領ネーデルランドの放棄を決めていたために結果的に戦局の転換点となった。このページに戦闘序列を紹介している。
 (なお、この戦いは歴史上初めて気球が戦争に使われた例としても知られている。フランス軍指揮官のジュールダン自身も気球に乗って上空から敵を観察したと言われる。最初に気球が飛んだのは革命前の1783年6月8日で、モンゴルフィエ兄弟が熱気球の浮揚に成功した)

 ザクセン=コーブルク公は政府の命令に従い、戦わずにモンスを放棄しブリュッセル方面へと退却した。北方にいたヨーク公の部隊も孤立することを恐れて後退。連合軍がすべてディール河北岸へ下がったのを受け、ピシュグリュとジュールダンはともに前進し7月11日に(10日の説もある)ブリュッセルで合流した。

・北への進撃

 合流したフランス軍17万人は7月12日(13日の説もある)にディール河へと前進を開始した。ザクセン=コーブルク公麾下のオーストリア軍8万人はミューズ河を渡って東へ後退、ヨーク公の3万5000人は海岸に向かって北東へ進み、両軍の間をオランダ軍1万5000人がつないでいた。フランス政府はベルギーの要塞を落とすまでオランダへ前進しないよう命令。モローがニューポール(7月6−18日)スリュワ(7月17日−8月24日)、シェレールがランドレシー(7月1−16日)ケノワ(7月19日−8月16日)ヴァレンシエンヌ(8月27日)コンデ(8月30日、29日の説もある)を落とすまでフランス軍は動きを止めた。

 オランダへ向けた攻撃再開は8月26日だった。モローの部隊は28日に海岸沿いにスヘルデ河口へと前進を開始。ジュールダンは9月4日にピシュグリュの北翼を先鋒に全戦線で慎重に前進を始めた。ピシュグリュの部隊は連合軍の隙間を突く格好になり、9月14日にはヘッセン部隊とエミグレ部隊1100人からボクステルを奪取。これに対しアバクロンビー配下の4個連隊が反撃のためにその夜派遣されたが、1万2000人を擁するフランス軍相手に敗北し、退路を切り開いて逃げた。この戦いはウェズリー中佐(後のウェリントン)が始めて戦闘を経験した戦いでもある。

・オーストリア軍の退却

 オーストリア軍も苦戦していた。新たに指揮官となったクレアファイトは、8月下旬にストッケンとアイヴェイルの間のミューズ河東岸に部隊を配置し、マーストリヒトの橋頭堡をクライ将軍に確保させる一方で、リエージュ対岸のラ=シャルトルーズを戦線中央部の拠点とした。これに対しジュールダンは9月18日、右翼のシェレールアイヴェイユ(スプリモン)へ、左翼のクレベールによる二次的な攻撃をマーストリヒトへ向けた。シェレール麾下の3万5000人(6万人の説もある)による攻撃はオーストリア軍2万5000人をヴェルヴィエールへと後退させ、ラ=シャルトルーズの守備隊もそれに合わせて退却した。損害はフランス軍1000人、連合軍2500人だった。20日にさらなるフランス軍の攻撃を受けたクレアファイトは部隊再編の試みに失敗。全軍をエクス=ラ=シャペル周辺の線まで後退させ、マーストリヒトの守備隊は包囲されるのに任せた。フランス軍は素早い追撃により22日にエクス=ラ=シャペルを占領した。

 9月下旬、フランス軍に押されたクレアファイトの7万6000人はローエル河東岸へ部隊を後退させた。ジュールダンはマーストリヒト陥落を優先せよとのカルノーの命令を無視し、10月2日早朝には10万の兵をローエル河に集結させた。シャンピオネ将軍の3万人は中央部でアルデンホーフェンを奪取し、ついでルフェーブルと合流してリンニッチへの攻撃を成功させたが、近くにある橋を破壊されたため当日中の渡河はできなかった。クレベール率いる左翼ではネイとベルナドットの2個師団が泳いでローエル河を渡河し、対岸にあったオーストリア軍の砲兵を黙らせるのに成功した。右翼ではシェレールの部隊がデューレンを攻撃し、午後7時にラトゥールの部隊を河の東岸に追いやった。フランス軍が夜間に橋を作っている間、クレアファイトは彼の部隊にライン東岸への退却を命じた。ジュールダンはマーストリヒト攻撃のため急ぎ分遣隊を戻す一方で、ケルン(9日)コブレンツ(25日)を占領しモーゼル軍との連携に成功した。9月22日から包囲されていたマーストリヒト(守備隊8000人)は11月4日に陥落した。

・オランダ戦線

 ピシュグリュはオランダへ後退したイギリス・ドイツ諸邦連合軍に対する前進を9月23日から再開。洪水のためフランス軍の前進は鈍ったが、クレアファイトの退却を知ったヨーク公は10月4日からワール河北岸へ下がった。19日にスーアン麾下の1万2000人に伸びきった戦線の中央を攻撃され、ヨーク公は再び後退。ワール河とレッヒ(ネーデルライン)河の間に部隊を配置し、オランダ軍をゴルカム守備に配置した。ピシュグリュは前進を止め、連合軍の孤立した守備隊攻撃のため兵を集める。ヴェンローは10月26日(27日の説もある)にモロー(ローラン准将の説もある)の7000人の部隊(6000人の説もある)によって陥落。翌日にはナイメーヘンに予備攻撃をかけるがこれは失敗する。モロー(スーアンの説もある)は5個師団2万5000人をワール河南岸に半円状に配置し、11月2日から砲撃を始めた。ヨーク公は北岸から増援を送り込み、11月3−4日の夜に街から出撃してフランス軍の砲撃を中断させるが、彼らは2日後に砲撃を再開。11月7日にスーアンが外郭線を形成する要塞を一つ落としたのを受け、ヨーク公はその夜のうちに全軍をライン河の北へ引き上げることにした。だが、後衛として残されることになっていた3000人のオランダ軍は犠牲になるのを望まず、ナイメーヘンから逃げ出そうと試みたため混乱が生じ、2000人が捕虜となった。

 12月2日、ヨーク公はオランダを去った。チフスに苦しめられ補給不足にあえぐ連合軍の指揮はヴァルモーデン将軍が引き継いだ。泥と雨が冷たい氷に変わり、フランス軍は12月28日に浮かんだ氷を利用してトゥイルでワール河を渡った。12月29−30日の夜、ダンダス将軍麾下の9000人がティール(ヘルデルマルゼン)で反撃して4000人のフランス軍をワール河の対岸へ追い返すのに成功したが、それでも全体的に見るとフランス軍は圧倒的な優位にあった。


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