フルーリュスの戦い 共和暦2年収穫月8日(1794年6月26日)



(以下の文章は、おそらくDescartesなる会社が製作した"BATAILLE DE FLEURUS, 8 Messidor an II"というゲームの"Historique de la bataille"をBabel Fishで英訳したうえで、さらに日本語訳したものである。勝手翻訳なのでこのページは隠しページ扱いとしている)


 全ての共和国軍は攻撃的に行動しなければならなかったが、しかし全ての戦場でそのような活動を行う訳にはいかなかった。その代わり、共和国は全ての国境に一律に部隊を配置する必要があった。その中で誰もが決定的な一撃を加えるべき場所だと感じていたのは北部国境だった。そこには敵がおり、共和国領土に直接している「敵軍の主力がいて、最もパリを脅かすに足る場所であり、そして何よりそこが開けた土地であって最も戦闘しやすい場所」であった。

 1794年にカルノーがこの地域で実施した計画は攻勢戦略であった。この計画はそうした一般的戦略に則ったものだった。以下にカルノーの文章を引用する。

「絶えず集結し、攻撃的に行動せよ。軍規を厳しく維持すべきだが、あまり些事にこだわるな。度を越さない程度に兵たちを緊張させろ。守備することが極めて重要な地点にのみ兵力を残しておけ。守備隊と駐屯地の兵をしばしば交代させ、兵たちが同じ場所に長期間とどまることがないようにしろ。士官たちに駐屯地を頻繁に訪ねさせるようにしろ。最後に、いかなる時も銃剣でもって戦いを始め、敵が完全に崩壊するまで継続せよ。

 大規模な会戦なしで戦争を終わらせることはできないのが明らかだ。部分的な作戦を実施した場合、敵の兵力の半分を壊滅させることはできるだろう。しかしその場合、我々の置かれている厳しい状況を長引かせるため、翌年も我々に攻撃を仕掛けるための手段を敵に残すことになる。従って、我々は最も攻撃的でより力強い作戦を行う必要がある。この点は全ての将軍たちに、特に最も決定的な一撃を与えるべき北方軍の将軍たちに伝えなければならない」

 国王の旧常備軍に、総動員令によって集められた若者の増援を加えた若く強力な共和国の11個軍は、60万人を超える兵で構成されていた。

 カルノーの宣言にあるように、主要な攻勢は北方に向けられた。ダンケルク、ベルジュー、カッセル、バイユーをカバーするためにイープルを落とし、守備隊を後退させて敵の拠点であるオステンド、ブリュージュ、ヘントを脅かし、敵が大軍をフランドルの海岸地方に配置せざるを得なくする必要があった。イープル奪取が重要だと判断した公安委員会はピシュグリュ(北方軍指揮官)に対し、必要なら全軍をもってイープルを攻撃するよう命じた。この攻撃によってリールとスヘルト河の間での大規模な会戦が行われると見られていた。この攻撃は、サンブル河とミューズ河の間、及びリエージュの2方向に攻撃を行うアルデンヌ軍と協力して行われることになった。この両軍の間にいる兵は防勢を採り、敵を両側面から攻撃できるように拘置する役目を与えられた。

 イギリス、オーストリア、オランダ各国軍計15万人で構成される連合軍の指揮官コーブルク公は、部隊を3つに分けてサンブル河北部に配置した。クレアファイトがフランドル海岸部の軍を指揮し、ヴァレンシエンヌにいる中央軍をヨーク公が、モーブージュとシャルルロワの間にある第3の軍をカウニッツが率いた。コーブルク公の計画は、軍をヴァレンシエンヌ、ケノワ、ランドレシーの線に集結させ、フランス北部国境の中央部を突破し、最も侵攻しやすいオワーズ峡谷沿いにパリへ進撃するというものだった。4月にカルノーはジュールダンに対してモーゼル軍の指揮を委ね、彼に対して左翼のリエージュとナミュール方面へ部隊をシフトさせるよう命じた。

 ピシュグリュによる作戦実行の遅れを恐れていたカルノーの心配は的中した。4月16日、オーストリア軍は先手を取ってケノワとサンブルの間を抜け、ランドレシーを攻撃しこれを4月30日に陥落させた。この間、モローとスーアンが5万人の部隊を率いてリールへ移動した。彼らは2万人のオランダ軍を打ち破った後でメーニンとクルトレーを確保。この一連の勝利により、コーブルクはギーズへの行軍を中止せざるを得なくなった。5月18日にオーストリア軍はトゥールコアンで敗北。クレアファイトのイープル救出作戦は失敗に終わり、イープルは6月17日にフランス軍の手に落ちた。カルノーの計画は実行に移され始めた。

 サンブル河でのアルデンヌ軍の戦闘はそれほどうまくは進まなかった。攻撃の先頭に立つのを躊躇わない派遣議員のサン=ジュストとルバがいたにもかかわらず、5回にわたって試みられた渡河は5回とも撃退された。失敗の重要性を認識したカルノーは、サン=ジュストと合意のうえで、モーゼル軍の一部と苦戦を続けていたアルデンヌ軍、そして北方軍の右翼をまとめた部隊の指揮権をジュールダンに委ねた。

 これだけの兵を含む軍勢を前進させるのには困難が伴った。連合軍のボーリュー将軍はこの軍勢の移動を妨害しようとしたが、前衛部隊を率いるルフェーブルのヌフシャトーとサン=テュベールでの勝利にも助けられて軍は前進を続けディナンでミューズ河を強行渡河。6月5日にはサンブル河に到着し、そこでジュールダン将軍は合流した部隊の指揮を取ることになった。

 数日の休息の後、ジュールダンはサンブル河を渡り6月12日にシャルルロワを攻撃した。アトリ師団がこの街の攻囲に向けた準備を進め、軍の残りはシャルルロワ北方に半円形を描くように配置された。6月16日にジュールダンは攻撃を受けた。敵は12時間に及ぶ激しい戦闘で勝利。フランス軍右翼はサンブル河を再び渡って後退し、シャルルロワは解放された。ジュールダンは退却を命じ、作戦を始める前の位置まで戻った。オーストリア軍はフランス軍が準備していた攻囲用施設を焼き払い、塹壕を埋めたうえで、夜の間に軍の大半はナミュールとニヴェールへ引き上げた。6月18日、ジュールダンは新たにシャルルロワの包囲を試みるべく兵をこの要塞都市の北方に配置した。敵がこの作戦を静かに継続させてくれることはなく、大規模な戦闘を交えざるを得ないと決意した彼は、部下の将軍たちに配置についた場所で塹壕を掘り、前面にある村落の防御を強化するよう命じた。コーブルクがサンブル河畔でネーデルランドの行く末を決めるべく可能な限りのオランダ軍とオーストリア軍をかき集めているため、シャルルロワは早急に陥落させねばならなかった。連合軍はモーブージュ前面に必要最低限の兵しか残さず、占領地域の守備隊も大幅に削減し、ピシュグリュ将軍と対峙している兵たちの大半もこの地域へと移動していた。

 この時、公安委員会がジュールダンに対し早急に北方軍に対してルフェーブル、シャンピオネの両師団を派遣せよと命じてきた。将軍と彼の参謀長は派遣議員として軍に同行していたサン=ジュストに対し、この命令は全軍を危うくするとの理由から実行を拒否するとの意思を伝えた。彼らは派遣議員の「もしピシュグリュが成功しなければ諸君は二人ともギロチン送りになる」との返答を――こうした脅迫が口先だけのものでないと知りつつ――受け容れた。彼らが不服従を貫く勇気を持ったことは確かに軍を敗北から救い、劇的な結末をもたらした。

 攻囲は軍から分かれた一部部隊によって行われた。この場所の確保が重要な意味を持つため、フランス軍は準備を急いだ。6月25日には工兵が十分に距離を詰め、その夜には強襲を行うことが決まった。その時、シャルルロワ守備隊の指揮官は要塞を明け渡しフランス軍の寛大さにその身を委ねると宣言した。この申し出は受け容れられ、守備隊は名誉ある撤退をすることになった。

 守備隊の撤退が終わらないうちに砲声が聞こえた。オーストリア軍がフランス軍の前哨線を攻撃したのだ。怒ったレイニャック将軍は、もし後一時間待っていたのなら降伏することなく、しかも攻撃を受けることもなくて済んだのにと叫んだ。

 シャルルロワ陥落によりフランス軍はアトリ師団を予備として使えるようになった。カルノーと公安委員会の望んだ「大規模な会戦」に向けて全ての準備が整ったが、その場所は彼が論理的に想定したリールとスヘルト河の間ではなくフルーリュスの戦場であった。

 「フルーリュスの勝利はいくつもの個別の戦闘があつまってそういう結果をもたらした。この会戦においては、ナポレオンのやり方に見られるようなはっきりと異なるいくつかの局面とか、指揮官が巧妙に用意し実施した機動による敵の敗北などを探しても無駄である」。デュピュワが1794年のサンブル河における軍事作戦について分析した中で述べたことは、この戦いについて正鵠を射ている。以下ではオーストリア軍の各縦隊を順番に見ながらこの戦闘について説明しよう。

第1縦隊 オラニエ公フレデリック

 オラニエ公はフランス軍左翼を3つの部隊で攻撃すべく準備をした。

 第1部隊はラトゥール、第2部隊はオラニエ公フレデリック自身、第3部隊はリーシュ将軍(第1、第2部隊の連絡を確保するのが任務)が指揮をした。

 26日午前1時半、ラトゥールは2個師団を率いてピエトン河を渡るべくトラゼニーへと移動した。フランス軍のモンテージュがその場所を占めていた。砲兵による戦闘が始まり、およそ一時間に渡って激しく続いた。この戦闘は共和国軍にとって有利に推移した。このままではケリがつかないと判断したラトゥールは歩兵部隊の先頭に立ち、ドラムを鳴らしながらトラゼニーの高地まで彼らを率いて前進した。攻撃を受けたモンテージュ師団は、モンソーの森とマルシエンヌ=オ=ポンへと後退した。連合軍は攻勢を続け、ジュドンサールへと前進した。部隊はやがてモンソーの丘に到着してその場所を一掃し、さらにマルシエンヌ=オ=ポンに対して砲撃を加えた。

 オラニエ公フレデリック率いる右翼部隊は午前2時に大きな困難もなくカルヴェール=ダンデリューに到着。彼らはドーリエール旅団が守るエスピネットの丘前面で停止した。激しい3時間に渡る砲撃戦が両軍の間で交わされた。

 トラゼニーへの接近路を巡る戦闘が始まったという連絡を受けたクレベールは、3個歩兵大隊と12ポンド砲1門、曲射砲2門をモンテージュ師団支援のためクールセルに向かわせた。この部隊はモンテージュの兵が全面退却に移った時にクールセルに現れた。攻撃するにはあまりにも弱体だったため、彼らは計画を再考した。この退却の動きによって生じる困難を避けるため、クレベールはベルナドットに対して敵が突破してくることのないようピエトン河にかかる全ての橋を防御するよう命じてピエトン河の右岸に対する備えとした。防御の準備を整えたクレベールは反撃を決意。デュエームはトラゼニーへ向かい、その間に自身はモンソーの森を攻撃することにした。

 14時にデュエーム、ベルナドット、クレベールの3個縦隊はゆっくりと前進しピエトン河右岸へ行った。この反撃はすぐには効果を表さなかった。ラトゥールの部隊がフォルシーへ後退を始めたのはやっと17時になってからだった。

 オラニエ公フレデリックはこの反撃によって後退を強いられ、15時ごろにはカルヴェール=ダンデリューの高地から撤退し、17時には完全に引き上げた。ジュールダンの左翼に対する第1縦隊の攻撃は完全な失敗に終わり、17時頃にコーブルクから下された退却命令は余分なものとなった。

第2縦隊 クォスダノヴィッチ

 午前4時、クォスダノヴィッチはグラン=シャンの正面で部隊を戦闘配置につけた。一方、フランス軍のモルロは歩兵の大半をメレの平野に配置し、残りの部隊を攻撃側の右翼に当たるテュメオンに向けた。午前7時、クォスダノヴィッチは正面で攻勢に出ながらテュメオンにも攻撃部隊を差し向けた。モルロ師団はポン=タ=ミヌルーを流れる小川の左岸に部隊を配置しなおした。激しい砲撃戦が始まり、連合軍側が優位に立った。15時ごろ、モルロはジュールダンから後退するようにとの命令を受け、ゴスリーの方角へ退いた。第2縦隊は追撃を図ったが、16時ごろまで彼らはポン=タ=ミヌルーを流れる小川の線を超えることができなかった。

 第2縦隊との連絡が確立できなかったことを考えるのならば、オラニエ公が自らの部隊が危険な状況にあると判断したのも理解できる。

第3縦隊 カウニッツ

 戦闘は午前6時から始まり、9時半までサン=フィアル周辺で一進一退を続けていた。しかし、ルフェーブル師団がフルーリュスを放棄してキャンペネールの丘へ退却したため、右翼ががら空きになったシャンピオネもサン=フィアルを支援できる場所から引き上げエルピニーの丘に歩兵を配置した。これによって生じた戦線の空白を埋めるため、ジュールダンはアトリ師団の半旅団を送り、シャンピオネ師団の第4、第6騎兵連隊に支援をさせた。共和国軍の激しい砲撃と、第4縦隊の失敗とにより、カウニッツの進撃は遅らされた。しかし、11時にはシャンピオネはクレベールが苦戦しているという情報と右翼でマルソーがボーリューに押されているという情報とを得た。ルフェーブルはマルソーを支援するため、自らの左翼をシャンピオネに守ってもらおうとした。

 正午ごろにカール大公の成功を知らされたカウニッツは、14時ごろにワグネーからエルピニーへと攻勢を開始。シャンピオネはデュボワ騎兵師団の一部から支援を受けてこの攻撃に対峙し、その前進を食い止めた。15時ごろ、戦線はサン=フィアルを通り過ぎオーストリア軍の1部隊はエルピニーまで突入した。ルフェーブルとカール大公の間で始まった戦闘はやがてフルーリュスからキャンペネールへの接近路へと移動。砲声が次第に南東へ移動するのに従い、シャンピオネは包囲されるのではないかとの懸念を抱いた。

 シャンピオネはジュールダンにその懸念を伝え、ジュールダンは後退を命じた。15時半、ルフェーブルがキャンペネールの丘を維持していることを知った司令部はシャンピオネに攻撃再開を命じ、半旅団でそれを支援した。シャンピオネの部隊は当初いた場所を取り返し、さらに敵を追ってサン=フィアルまで達した。この再攻勢はちょうどカウニッツがコーブルクから後退を命じられた時に実施されており、そのことがこの機動の成功に寄与したと考えられる。17時ごろ、カウニッツは戦場から引き上げ、シャンピオネ師団の勝利が確定した。

第4縦隊と第5縦隊 カール大公とボーリュー

 コーブルクの命令に従い、第4縦隊は25日夕方にフルーリュスへの途上で編成された。第5縦隊については命令の中では触れられていない。第4縦隊は3つの部隊に分けられた。第1部隊はボーリューが、第2部隊はシュメルツィングが、第3部隊はツォプフが指揮をとった。

 午前3時ごろ、この3つの部隊はフルーリュス東方とコピオーの森の方角に向けて攻撃を実施した。フランス軍のマルソーがコピオーの森に退いたため、前衛部隊のボーリューはこの場所を攻撃する準備をした。10時半まで両軍は頑強な戦闘を続けたが、最後には連合軍が突出しメゾン=ルージュまで到達した。アルデンヌ軍の兵はサンブル河へ向けて壊走し、ボーリューは容易にランビュサールへと前進できるようになった。マルソーは部下をとどめようと努力したが、彼らはリーダーの声を全く聞かなかった。この地域の勝者となったボーリューは左翼をカバーする必要があると判断。呼び戻されたシュメルツィングがボーリューと合流し、ボーリューはランビュサール奪取を決断した。

 カール大公はフルーリュスへの攻撃を午前6時から始めた。激しい抵抗の後、右翼がもはやマルソーによって防御されなくなったルフェーブルは、キャンペネールとランビュサール周辺の庭園へ後退するよう部下に命じた。11時ごろにフルーリュスを占領したカール大公はキャンペネールへの移動を続けた。そして第4、第5縦隊は全面攻撃の準備をした。攻撃部隊は3つに分かれていた。右翼部隊はキャンペネールを、左翼部隊はランビュサールを攻撃し、中央部隊はランビュサール西方へ通じる谷間を進むことになった。右翼部隊と中央部隊はキャンペネールからの激しい砲撃によって動きを止められたが、左翼部隊はランビュサールへ突入するのに成功した。フランス軍歩兵部隊は家屋に火を放ち、敵の突破の動きに対して炎の壁を築くことで戦線を維持した。ボーリューは1個大隊、8個中隊、砲兵9個大隊を率いて村の反対側に回りこみ、カール大公と合流してキャンペネール攻撃に加わることを決意した。戦闘は決定的な結果をもたらすことなく続いたが、17時になってルフェーブルはボーリューの左翼に対して反撃を行った。オーストリア軍から蒙った損害によって戦力が衰えていたにもかかわらずこの反撃が可能だったのは、既にボーリューの部隊が退却を始めていたからだと考えられる。

 連合軍は全戦線で後退した。ジュールダンの軍は勝利したのだ。

 いくつかのオーストリア軍縦隊が決定的な攻撃をしようとしていた時に退却命令が下されたのは驚くべきことである。コーブルクはフランス軍の方が数的優勢にあったことを理由にこの判断を正当化しているが、多くの資料が数の優位は連合軍側にあったとしている点を考えるなら、この理由は成り立たないだろう(訳注:フルーリュスの戦いにおいて連合軍側の数が多かったとする説を唱えているのはジュールダンくらいであり、実際にはこの戦いに参加したフランス軍の兵力は連合軍の倍もあった)。

 全員が合意しているのは、共和国軍が地形など自然条件と(一時的なものだったが)重砲兵の数で有利だったという点である。シャルルロワ陥落のニュースをフランス軍の捕虜から知ったコーブルクがこれ以上人命を危険に晒すのは無駄だと判断し兵に対して15時ごろに退却を命じた、と考える向きもある。もちろん、ジュールダンはこの考えに反論している。彼によればこの戦いは単にある「拠点」を救出するためのものではなく、フランドルを奪おうとしている軍を叩き、それをサンブル河の背後に追い払うのが目的だったという。そして、コーブルクがもし全ての攻撃に失敗していなければ、彼はこの目的を達成できたであろう。

 ヴィッツレーベンはフランス軍の勝利は必然だったとしている。政治的情勢によって指揮官は完全な敗北や戦闘の停止を許されない状況にあったからだ。彼はまた、連合軍の兵士たちが伝統に従っていたに過ぎなかったのと異なってフランス軍の兵士たちが熱情をもって戦っていたことも指摘している。

 ヨーク公は、オーストリア軍はベルギーを放棄してでも平和を望んでいたと考えていた。シュルツの"histoire des guerres en Europe"によると神聖ローマ皇帝はネーデルランドをこれ以上保持できなかったし、皇帝がネーデルランドを去った時点でこの地域からの撤収は決まっていた。フルーリュスの戦いは名誉のために行われたのだ。

 フルーリュスはその後20年にわたる国境の安全を確保した戦いであった。そしてまた、これは6月29日に「サンブル=エ=ミューズ」の名を得た軍がもたらした共和国の最初の偉大な勝利でもあった。



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