トゥールコアンの戦い 1794年5月17−18日



(以下に紹介するのはトゥールコアンの戦いについて記したフランス、イギリスそれぞれの文献である。最初の文章はGallicaに掲載されているAbel Hugoの"France Militaire: Histoire des Armées françaises de terre et de mer de 1792 à 1837"をBabel Fishで英訳したうえで、さらに日本語訳したものである。次の文章はXenophon Group Internetに掲載されているCharles Francis Atkinsonの記した"Encyclopedia Britannica, 11th ed. French Revolutionary Wars"の一部を翻訳した。双方の視点の違いや関心の差などが分かるだろう。なお、いずれも勝手翻訳なのでこのページは隠しページ扱いとしている)


France Militaire: Histoire des Armées françaises de terre et de mer de 1792 à 1837

 トゥールコアンの戦い――連合軍はベルギーを救うため、そしてかくも多くの失敗によってもたらされた困難な状況から脱するためには、決定的な一撃を与える必要があると感じた。彼らはオーストリア皇帝と総指揮官コーブルク公を加えてトゥールネーで会談を開いた。そこでは敵を壊滅されることを強調した新たな戦役計画が描かれた。それは北方軍[フランス軍]を取り除くか、あるいは破壊させることを目的としていた。もしマック[連合軍参謀長]による多くの縦隊を使う方法の代わりにより賢明な連携策が採られていたならば、北方軍の立場は実際に極めて危ういものになっただろう。12万人の連合軍はリールでフランス国境を簡単に越え、海を背後に戦いを強いられる5万人の共和国軍は些細な失敗が彼らの壊滅をもたらす立場に置かれてしまったに違いない。こうした結末にたどりつくために、連合軍は強力な集団でもってボンデュー、ムーヴォー、ルーベへと行動すれば十分だった。しかし彼らは単純な計画を選ぶ代わりに、フランス軍はメーニンとクルトレーの間にあるムールセルの幕営地で敵を待たざるを得ないだろうと想定して、[5月]17日にフランス軍をトゥールコアンで攻撃できるよう、彼らの部隊を6つの縦隊に分けてトゥールコアンへと集まるように進撃させる策を選んだ[訳注:Hilaire Bellocの"Tourcoing"によるとこの作戦を立案したのはマックではなくイギリスのヨーク公ということになる]

 クレアファイト率いる第1縦隊はティールから出発し、リー河をウェルウィックで渡り17日にリンセールに行くことになっていた。実際に彼らがそこにたどり着いたのはやっと18日になってからだった。ブッシュ将軍率いる第2縦隊は17日にムスクロンを攻撃する。オットーの第3縦隊は17日にワートルローを経由してトゥールコアンを占領する。ヨーク公率いる第4縦隊はテンプルーヴを経由してルーベ、ムーヴォー、クロワへ移動する。キンスキー将軍が指揮する第5縦隊はトゥールネーを出発し、ポン=タ=トルッサンとボヴィヌでマルク河を渡った後でカール大公率いる第6縦隊と歩調を合わせ、ボノー師団をリールへ押し返したうえでトゥールコアンの軍と合流することになっていた。

 [フランス軍の]スーアン師団とモロー師団の右翼はエールベックに、左翼はクルトレーにいた。ボノーはサンギャンに、ティエリー旅団はムスクロンに、コンペールはトゥールコアンに、ノエルはラノワに布陣していた。リールの師団は主力軍とリールの間を多くの分遣隊で守っていた。ポン=タ=マルクとドゥーエの間はオステン将軍がカバーした。最後に、ダンケルクとメナンの間の連絡線はミショー師団のドザンファン旅団が保持した。

 同時にトゥールコアンに到着するはずだった連合軍の各縦隊の行軍には実際は連携が見られず、多くの予想外の事態によってこの望みは妨げられた。――トゥールネー近辺における連合軍の異常な動きはフランス軍の将軍たちの関心を呼び、彼らは当然ながら自分たちの部隊配置に不安を覚えるようになった。ピシュグリュ[北方軍指揮官]はサンブル河付近にある右翼を訪問していたために不在だった。スーアンとモローは協力してリールとの連絡線を維持するためにトゥールコアンへ接近する作戦計画を実施した。この作戦は彼らを救い、連合軍に敗北をもたらした。――既に述べた通り、クレアファイトはウェルウィックの橋を勇敢に守ったいくつかのフランス軍大隊のために足止めされ、行軍が24時間遅れた。彼は河を渡るために架橋しなければならなかった。ブッシュ将軍は彼の縦隊でもって17日にムスクロンを攻撃しどうにかこの村を奪った。しかし、主力を背後の丘に置いていたティエリー将軍はハノーヴァー部隊[第1縦隊]を突然攻撃し、彼らをエスピエールに近いトゥールネーとクルトレーを結ぶ道路の背後まで後退させた。同日、第3縦隊は前面にいたコンペール旅団を追い払ってトゥールコアンへ前進した。コンペール旅団はティエリーのいるムスクロン方面へと後退した。第3縦隊の前衛部隊がトゥールコアンを占領しかけたころ、ブッシュ縦隊から逃げてきた兵が何が起きたかをオットーに知らせた。オットーは敵に対してまとまるよう部隊を集結させる代わりに、何度も多くの連合軍が犯してきた過ちを繰り返し、その縦隊をレールからトゥールコアンにかけて2500トワーズ[約4・9キロメートル]以上の広い範囲に分散させた。同じく予定の線に17日に到着したヨーク公も、彼の兵をラノワ、クロワ、ルーベ、ムーヴォーに撒き散らすという同じ過ちを犯した。第5縦隊はポン=タ=トルッサン、ボヴィヌ、ルーヴィルの3ヶ所に向けて同時に進撃した。ポン=タ=トルッサンに対する敵の攻撃は全て無駄に終わった。ボヴィヌも同じく防衛に成功し、ボノーはさらに攻撃に転じさえした。オーストリア軍にとって幸運なことに、命令どおりにヨーク公に加わるのではなく間違いでキンスキー縦隊に後続していたアースカイン将軍がその場に到着し、共和国軍の攻撃を食い止めた。最後にフランス軍の最左翼[右翼?]に向けて辛い行軍を行っていたカール大公の部隊は、8時間遅れて戦場に到着し、数の優位を生かしてオステン旅団を追い払った。オステンはルザンヌに後退しボノーの右隣を占めた。ボノーは夕方にマルク河の背後に占めていた陣地を去ってリールに接近し、フレール村で幕営した。コーブルクと皇帝はこのささやかな成功を翌日の全般的な勝利につながるものと見なした。

 クレアファイトのリー河への前進を知らされたモローとスーアンは、数で勝る軍で彼を攻撃してこれを追い払うことを決めた。モロー師団の一部とヴァンダンム旅団はダディゼールへ前進。スーアン師団はクルトレーに1個の守備隊だけを残してリー河を渡ることになった。しかし、2人はすぐにより深刻な攻撃がトゥールネー方面から迫っていることを知り、それを妨げるための準備をした。モローが8000人を率いてクレアファイトをリンセールに食い止めている間に、トゥールコアンの背後に位置する軍の残りを率いるスーアンとボノー師団が、翌18日に敵を攻撃する。こうして共和国軍の主力は3マイル以上の距離に広がっている連合軍の中央を包み込むように機動する。また、カール大公の部隊を留めるために小さな分遣隊を送ることになっていた。

 朝3時、スーアンは4万5000人を率いて前進し、右翼はトゥールコアンへ、左翼はワートルローへ向かった。強い圧力をかけられたオットーの前衛部隊はトゥールコアンから追い払われたが、主力もワートルローでデンデルスとティエリーの攻撃を受けていたためにこれに合流することができず、レールの背後へと後退した。

 大公とキンスキー将軍に対処するためいくつかの大隊を残したボノーが、この間に1万6000人をもってヨーク公の兵を攻撃した。奇襲を受けながらもイギリス兵は当初は勇敢に自らを守った。しかし、すぐに全軍が逃げ出すことになった。公は当初ワートルローへ向かったが、そこには後衛として残されたヘッセン近衛兵100人しか見当たらなかった。彼を救ったのは乗馬の優れた速力だけだった。残された軍はヌシェンへと後退し、そこからトゥールネーへ下がっていった。

 この敗走の間、説明できないことだが大公とキンスキー率いる左翼の2個縦隊は何の行動も採らなかった。彼らは午後4時になって隊列を組み、中央部隊の生き残りを集めるためにマルケンへ移動した。

 リンセールにとどまるのは冒険的に過ぎると信じたクレアファイトは、午前中にロンクにおいてモローとの間で行われた激しい戦いの成果である7門の大砲と300人の捕虜を連れて夜の到来とともに後退し、当初いたティールへと戻った。この成果は、連合軍の中央が蒙った損害の補償としては惨めなものだった。――連合軍はこの戦いでおよそ3000人と大砲60門を失った。

 この勝利によって得られた最大の利点は――ピシュグリュはそれを十分に利用できなかったのだが――軍の士気に対する影響と我々の若い兵たちを奮い立たせた信頼感の醸成とにあった。


Encyclopedia Britannica, 11th ed. "French Revolutionary Wars"

 5月第2週、北方軍の左翼――中央はランドレシーに、右翼はアルデンヌ軍と一緒になってシャルルロワへと向かっていた――は、トゥールネー付近にいた連合軍右翼の主力軍とティールの別働隊という二つの敵によってメナン―クルトレー―リール地域で挟まれる格好になっていた。常識的に考えれば連合軍にとっては集中的な攻撃が、フランス軍にとっては一連の素早い放射的な打撃が望ましかった。連合軍首脳部では当初は常識がまさったため、皇帝の最初の命令はティールの部隊によるイープルへの襲撃を行うというものだった。彼の助言者たちはこれによってフランス軍が立ち去ることを期待していた。しかし、ヨーク公は極めて異なる計画を作り、これにティールの部隊を指揮するクレアファイト大将[Feldzeugmeister]が協力を約束した。彼らの案はその2個部隊でリー河に展開するフランス軍を包囲するというもので、15日に皇帝は同じ目的を達成するためにより大きな兵力を使用することを決断した。

 同日、中央(ランドレシー)グループから来たキンスキー大将[Feldzeugmeister]麾下の6000人と一緒にコーブルク自身がトゥールネーに入って総指揮を執ることになった。同時にカール大公率いるもう一つの増援もオルシーへと行軍していた。全面攻撃の命令がすぐに下された。クレアファイトの部隊は16日にルスレールとメナンの間へ進み、翌日にはウェルウィックでリー河を突破し主力軍と接触することになっていた。主力軍は4つ[5つの間違いか?]の縦隊に分かれて前進する。ヨーク公率いる最初の3つは17日の夜明けと伴に移動を始め、それぞれドッティニー、レール、ラノワを通ってムスクロン―トゥールコアン―ムーヴォーの線へ進出する。キンスキーの第4縦隊とカール大公の第5縦隊はマルク河上流域のフランス軍部隊を破ったうえで、リールを左翼におき、コルドンシステムを使ってトゥールネーから(打ち破ったばかりの敵やリールの守備隊によって)遮断されないようにしながら、素早くウェルウィックへ前進し、右翼でヨーク公と接触すると同時に左翼でクレアファイトと手を結ぶ。そうしてスーアンとモローの孤立した師団を囲む包囲網を完成させることになっていた。全部隊に対し、スピードが重要だと申し渡された。縦隊の先頭には敵の散兵を追い払うための志願者で編成された部隊が進み、さらに道路上の障害物を排除するため工兵も先導した。そして主力部隊の先頭には歩兵に随行された砲兵が進んだ。この手法は1904年に日本軍がロシア軍の頑強な陣地を攻撃するために立てた作戦と同じだ。防御側の哨戒部隊と散兵による抵抗はすぐに圧倒されることになり、さらに敵の密集した部隊を攻撃する際には可能な限り早いタイミングで激しい砲撃を始められる。しかし、1904年のロシア軍はこれに対して踏み止まって抵抗することができたし、1794年の革命軍もおそらく同じことができるはずだった。マックのよく練られ、注意深くバランスがとられた組み合わせは失敗に終わった。それがマックは無能であるとの伝説を作り上げる一因になったことは疑いないが、この伝説は古い軍事学説の代表者であるコーブルクや新たな学説の基礎を作ったシャルンホルストの意見を見ても支持されるものではない。

 ピシュグリュの一時的不在に伴って指揮をとったスーアンは、彼自身の計画を立てた。彼の部隊の多くがヨークとクレアファイトの間にいるのを受け、前者に対して陽動部隊を押し付けたうえで部隊の大半を率いてルスレール付近のクレアファイトに襲い掛かるというものだった。時間と場所、戦力、耐久性についての適切な計算に基づいたこの計画は、最新の戦略の重要な原則について痕跡以上のものを含んでいるだけに詳細な検討に値するが、しかしこの場合は計画の実行前や実行中において敵の独立した意思が計画をだいなしにしてしまうため、ナポレオンも保証するだろうが敵の動向に関係なく実行する力の有無という最も重要な点において問題があった。右翼方面における新たな連合軍兵力(キンスキー)の登場は、すぐにこの全般的な計画に変更を強いることになった。ポン=タ=マルクとラノワ付近へ敵が到着したことからコーブルクの意図を見抜いた彼は、ボノー(リールの部隊、2万7000人)に対して敵の最左翼の縦隊に対処できるだけの兵をマルク河上流域に残し、残る全員でトゥールコアンに向かって移動する敵縦隊の左側面を攻撃するよう命じた。彼の弱体な中央部隊(トゥールコアン、ムスクロン、ルーベの1万2000人)は敵の正面にあって防勢をとる。クルトレー周辺にいる主力部隊(モロー麾下の5万人)に対してはまだ具体的な役目は与えられていなかった。ヴァンダンム旅団はメナンからウェルウィックとさらにその遠方までリー河に沿って展開し、クレアファイトの渡河を可能な限り妨げることになっていた。

 この第2の計画も最初のものと同様、敵の意図をコントロールできないために失敗することになっていた。あらゆる戦線でコーブルクの前進によってフランス軍は再配置する間もなく戦いを強いられた。しかしフランス軍は思いがけない状況に素早く彼ら自身を適応させられるだけの柔軟性を持っていた。また、コーブルクの側にも予想外の事態がかなり生じていた。クレアファイトがメナン上流でリー河にたどり着いた時、彼はウェルウィックが敵に確保されていることを知った。これは全くの偶然だった。そこにいた大隊はメナンへ向かう途中だったし、まだ新しい命令を受け取っていなかったヴァンダンムもそこから離れた場所にいた。しかしこの大隊は勇敢に戦い、クレアファイトは架橋部隊を送り出した。かれらがたどり着く前にヴァンダンムの先導部隊がかろうじて対岸へと到着した。このため、最初のオーストリア軍大隊がリー河を渡ったのはようやく18日の午前1時になってからだった。

 連合軍主力が展開する戦線においても「壊滅計画」は大公の(第5あるいは左翼)縦隊の遅々とした動きによって最初から損なわれた。コーブルクはメナン―クルトレー部隊に対する包囲を実行する前に彼がボノーを倒す必要がある(分遣隊によって敵を『拘束する』案だが、主要な機動はまだ始まっていなかった)と考えており、全計画は彼の素早い働きにかかっていた。連合軍の指揮官は大公が遅れていることに気づき、実際に他の全縦隊に対してボノーに向かうよう南方に進路を変更することを命じたのだが、各縦隊は既に当初計画に従って動いていたため新たな策を実行するのは不可能だった。

 フォン=デム=ブッシュ麾下の最右翼の縦隊(ハノーヴァー軍)はフランス軍前哨線の精力的だが散発的な抵抗を圧倒してムスクロンへ移動した。その左翼にいるオットー中将[Feldmarschall-Leutnant]は左側面にあったリ(ラノワ近く)のフランス軍を追い払いながらレールとワートルローを経由して移動し、トゥールコアンに入った。しかし、この間にフランス軍旅団がフォン=デム=ブッシュをムスクロンから追い出したため、オットーは後方を守るためにレールとワートルローに兵を置いておかねばならず、トゥールコアンを確保する兵力がかなり弱体化することになった。ヨーク公率いる第3縦隊はテンプルーヴからラノワへ前進し、同時にフランス軍をウィレムから追い出して左側面の安全を確保した。アバクロンビー卿麾下のイギリス近衛部隊があまりに勢いよくラノワを強襲したため、村を回りこんでフランス軍の退路を断つはずだった騎兵部隊は配置につく時間すらなかった。ラノワの背後に至るとフランス軍は依然混乱していたが、その抵抗は有利な地形もあってより頑強になった。公はウィレムのオーストリア軍を呼び寄せ、小さな峡谷を通ってルーベにいるフランス軍の右翼を迂回させた。しかし実際には、迂回運動が効果を発揮する前に再び近衛部隊が敵を追い払ってしまった。続いてムーヴォーにある三番目のフランス軍陣地が視界に入ってきた。強力なこの陣地を見て公は彼の疲れた兵を休めるべく前進を止めた。しかし、皇帝自身が前進再開を命じたため、ムーヴォーはまたもアバクロンビーによって奪取された。いまや夜になっており、目的地に到達した公は反撃からそれを守るべく準備した。

 その間、キンスキーの第4縦隊はポン=タ=トルッサン対岸のリンへ向かい、主力をもってブヴィヌ(ボヴィヌ)近くでマルク河を強行渡河した。しかしボノーは極めてゆっくりと後退したため、午後4時になってもキンスキーは渡河点から数百歩しか前進できなかった。16日の時点で予定より遅れていた第5縦隊は17日の夜明けまでオルシーに到着できず、そこで休息と食事のために止まらなければならなかった。そして、戦闘隊形を組んだ大公はポン=タ=マルクへと移動した。しかし彼は、行動を終える前に河の対岸に兵を配置させることまでしかできなかった。

 かくして初日の作戦は終わった。「壊滅作戦」は既に深刻な障害に直面していた。大公とキンスキーは彼らの任務の第二段階に取り掛かる準備ができているどころか、第一段階すらほとんど完遂していない状態で、クレアファイトについても同じことが言えた。フォン=デム=ブッシュに至っては決定的な失敗を犯していた。僅かに中央のヨーク公とオットーのみが役目を果たした結果、彼らはトゥールコアンとムーヴォーで敵の主力の真ん中に孤立する格好になっており、他の縦隊からの支援は期待できずクレアファイトと合流する機会もなさそうだった。コーブルクの全軍は、損失を差し引かない場合18マイルの戦線に5万3000人以下しかいない計算になり、敵の8万人のうち戦闘に参加したのはまだ半分のみにとどまっていた。マックは午前1時に大公の下に幕僚を送り、すぐにラノワへ来援するよう懇請したが、若き皇族はすでに眠っており、彼の従者は彼を起こすことを拒否した。

 もちろん、こうした事情は将軍たちが非公式な会談を開いていたスーアンの司令部にわかるはずもなかった。ボノーの部隊をヨーク公の側面に急派する計画は始まってすらいないうえに、前哨線は主力部隊からの増援を受けていたものの、あらゆる場所で後退していた。さらに配下の指揮官たちは全員(ボノーを除く)が落胆するような報告を寄せていた。「会議を開いても戦うという結論は出てこない」という古い格言は百のうち九十九の場合に当てはまるだろう。しかし、この会談ではあらゆる手立てを尽くして戦うことが決まった。その策は実際的で、コーブルクの最初の脅威が迫っているところについて彼の乱暴な前進を抑えるというものだった。ヴァンダンムはクレアファイトを食い止め、リールの守備隊と僅かな周辺部隊が大公とキンスキーを押さえ込む。そして中央ではモローとボノーが4万人の兵を率いて、夜明けから全力でトゥールコアン―ムーヴォー地域を正面と側面から攻撃することになった。

 最初の弾丸は、クレアファイトの歩兵が夜の間に渡河を行ったリー河沿いで撃たれた。河を守ることになっていたヴァンダンムは、夕方の間に彼の兵(長距離の行軍で疲労していた)をすぐ前進させるのではなくメナン周辺に集めていた。そのため17日には彼の部隊のうち僅か1個大隊のみがウェルウィックの防衛戦に参加し、残りはクレアファイトが後に前進するルートの側面に集結することになった。ヴァンダンムは彼の利点を十分に生かした。彼はおそらく1万2000人の兵で、クレアファイト縦隊がリンセールに向けて移動している時にその先頭と中央部2万1000人を攻撃した。クレアファイトはすぐに前進を止め、敵に向きを変えてこれをロンクとメナンまで押し返した。戦闘を継続し、部隊を回復させながらさらに戦うことで、ヴァンダンムの各部隊は時間を潰しながらクレアファイトを次第に誤った方向へ深く誘い込み、他の場所における戦闘に影響を及ぼせないようにした。

 前日の戦闘で衝撃を受けたドッティニーのフォン=デム=ブッシュ縦隊は何もせず、スヘルト河へと退却してしまった。他の側面では、キンスキーとカール大公がラノワへ前進するよう繰り返し命じられながら実際には行動を起こさず、キンスキーは大公を待ち、大公は時間と兵力を使って念入りに彼の左翼を後方全てを守るようなコルドンを作っていた。双方とも「兵が疲労していた」と主張したが、そこにはより強力な動機があった。ベルギーが平和の代償としてフランスに引き渡されそうだとの見通しがあったため、将軍たちは失われた大義のために兵を損なうことを嫌ったのだ。残りはオットーとヨーク公が率いる中央の2個縦隊である。公に対する皇帝の命令は、前進してリンセールでクレアファイトとの連絡を確立せよというものだった。クルトレーにいるフランス軍を遮断したうえで、彼はそれを打ち砕くための全面攻勢に踏み切るつもりだった。それには連合軍の全縦隊が参加することになっており、クレアファイトとヨーク、オットーが正面を、フォン=デム=ブッシュが右翼を担い、大公とキンスキーが支援に回ることになっていた。この空想的な案は18日夜明けには崩れ去った。マクドナルド旅団は最初の攻撃でトゥールコアンを奪い取った。オットーの大砲と歩兵の一斉射撃によりそれ以上の前進は止められた。マルブランク旅団はムーヴォーにあるヨーク公の防御陣地の周辺に群がり、リール方面からやって来たボノーの大軍はマルク河を渡りルーベとラノワにあるイギリス軍陣地の側面を包むように動いた。公は彼の予備をオットー支援に使ったため、午前8時にはルーベ、ラノワ、ムーヴォーの各陣地は相互に孤立してしまった。しかし連合軍は見事に戦い、共和国軍は混乱状態となり極度の興奮状態から熱狂とパニックの間の極点に達しようとしていた。そしてこの瞬間、クレアファイトはほぼ成功を収めつつあり、ヴァンダンムは戦いながらほとんどマルブランク旅団と背中を接するところまで後退していた。オットーは大きな損害を蒙りながらも、マクドナルドの左翼縦隊がワートルローを襲撃する前に、またはるか遠方のスヘルト河方面にいたデンデルス旅団が彼の後方に到着するより前に、次第にレールへ退却することができた。オーストリア軍の抵抗はイギリス軍に一息入れる時間を与えた。彼らはボノーに何度も攻撃を受けながらその陣地を11時半頃まで持ちこたえ、それから混乱することなくオットーと合流するためレールへ退却した。

 酷く痛めつけられた2個縦隊の退却とリンセールとロンクの間におけるクレアファイトの攻撃中断で、トゥールコアンの戦いは終わった。それは若いフランス軍の将軍たちが誇るに足る勝利だった。主攻撃は精力的に実施されたし、決定的な場所において2対1の数的優位を確保したことはスーアンの指揮能力とヴァンダンムの勇気をすぐに証明するものである。連合軍については、戦いに参加した者たちは将軍も兵も全て栄光に包まれたが、コーブルク軍の3分の2が無為に過ごしたことは古い戦略システムの破産宣告に等しかった。連合軍はこの日、およそ4000人の死傷者と1500人の捕虜、60門の大砲を失って負けた。フランス軍の損失はおそらくより多かったと思われるが、正確には分からない。ヨーク公は敗れ、スーアンはすぐに彼の注意をクレアファイトに向け、彼が集められる全部兵力をそちらに差し向けた。しかし、オーストリア軍の指揮官はさしたる妨害を受けることなく河を渡って後退した。19日に彼はクルトレー北方9から10マイルのルスレールとインゲルミンステルにおり、コーブルクの部隊はトゥールネーの西方及び北西方約3マイルの場所にある強力な陣地に集結していた。ハノーヴァー軍は右翼前方のエスピエールに残っていた。



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