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長い間 第二章


 ラナは生まれつき体が弱い。
 それは、生まれが大変な難産の末だったためとオイフェには聞かされている。
 リューベック城からイザークまでの長い道のりは身重のエーディンには大変な負担であったに違いない。まして、臨月前の不安定な時期に同胞や夫の非業の死を伝え聞いたとなれば……早産もやむを得ぬところだろう。
 8ヶ月に満たぬままこの世に生まれ出たラナは、五体の満足と引き換えに健康を失った。常に病気がちで、よく熱を出しては母エーディンの手を煩わせていたことを思い出す。それでも、ラナは一度も笑みを絶やしたことがない。
 いつも心配だった。自分たちが野山を転げまわって遊んでいる時に一人苦しんでいるのではないか。野山にひっそりと咲く野菊のように、いつか自分の預かり知らぬ間にその命を散らせてしまいはしないかと不安で、帰宅すると何を差し置いてもまず彼女の部屋に駆け込んだ。
 ベッドの上で微笑むラナを見つけてほっとして。それから、彼女にせがまれるままに一日の出来事を語って聞かせるのが日課だった。
 いつも微笑んでいたラナ。心の中ではどれほど外を恋しく思っていたことだろう。自分たちに見えないところで、どれほど枕をぬらしていたのだろう。
 昔の記憶を探るうちにテントには早々に到着していたらしい。止まってしまった足を不審に思ってか、ラナが顔を覗き込んできた。
「……スカサハ、どうしたの?」
「……いや、なんでもない」
 小さく笑みを返して、テントに足を踏み入れた。
 奥にしつらえられた簡易なベッドに彼女を導き、そっとその身を横たえる。
「疲れたか?」
 尋ねて、額にかかる黄金の髪をそっと指で掻き分けてやる。指に触れる体温は少し熱い。
「うん、ちょっと……でも大丈夫よ。明日には治ってるから」
「少し熱が出てるな。熱さましを飲んだほうが……」
「平気よ、いつものことだもの」
 さらりと言われたことに、眉を寄せる。ラナは余計なことを言った、という顔をして首をすくめた。
「……スカサハ、あの……」
「やっぱり飲んでおいたほうがいいよ。薬草はどこだ?」
「……机の上の袋の中よ。ごめんなさい」
 言われた通りに袋の中から熱さましの薬草を発見したスカサハは、水筒とともにそれをラナに渡してやった。
「何で謝るんだよ?」
「だって、私……いつもみんなに迷惑ばっかりかけて……」
「なんだ、そんなことか。気にするなよ、誰も迷惑だなんて思ってないから」
「でも……」
「ストップ、おしゃべりはここまでだ。それ飲んだらちゃんと休むんだぞ」
 片目をつぶって見せると、ラナは小さくうなずいた。
「うん。……あのね、スカサハ。私……」
「……なんだ?」
「……ううん、なんでもない。おやすみなさい」
「?……ああ、お休み」
 上掛けをかけなおしてやって、また額にそっと触れる。本音はおやすみのキスでもしてやりたいところだが、性格上それができるはずもない(当人は知らぬことだが、彼のこんな不器用さは彼の母アイラにそっくりだった)。
 テントを出て、スカサハはため息をついた。
 幼なじみでいいと思っていた。ただ側にいて、彼女を守れればそれでかまわないと。そう思っていたはずなのに。時折息苦しくなる。それは主に、彼女の視線の先を追ったときで……
「―――スカサハ?どうしたんだい、こんなところで」
 不意に声をかけられて、スカサハはびくん、と姿勢を正した。
「……セリス様こそ、どうなさったんです?」
 一つ年上の幼なじみ。今は主君となったその人は、青いマントに身を包んで昔と変わらぬ笑顔を向けてきた。
「私かい?私はちょっと夜風にあたりに来ただけだよ。でも、人の質問に質問で返すのは感心できないな」
 なかなか辛辣だが、これは彼が相手に気を許している証拠でもある。長い付き合いからそれを知っているスカサハは、苦笑して答えた。
「それは失礼しました。でも司令官自らこんな時間にふらふらしているのもどうかと思いますよ?今ごろオイフェさんが血眼になって探しているんじゃないですか?」
「それなら大丈夫、オイフェは明日のガネーシャ攻略作戦の立案で疲れて眠ってるからね。それで、質問の答えは?」
 つまりどうあっても答えろということか。内心ため息をつく。
「……俺は、ラナをテントに送り届けた帰りです。少し具合がよくないようだったので」
 案の定、今宵の空を思わせる双眸に心配そうな色が宿る。
「ラナが?それで、容態は?」
「熱が少し……薬草を飲ませて休ませたので、明日には動けると思います」
「そうか……やっぱり負担をかけすぎなのかな。少し作戦を考え直したほうがいいかもしれないな」
 解放軍で今治癒の術を使えるのはラナ一人だ。負傷者が増えるということは、それだけ彼女の負担が増大することに他ならない。ティルナノグでともに育ってきた者は彼女の体の弱さを知っているだけに、内心気が気ではないところである。
 それは、セリスとて例外ではない。作戦の変更を検討し始めた彼に気づいたスカサハは慌てて口をはさんだ。
「戦いで負傷者が出るのは当たり前です。これは作戦の問題じゃありません。それに、ラナだって悪いんです。自分の体力も考えないで杖を使うから……薬草で十分治る怪我だってあるのに、何もかも自分でやろうとするから……」
 きょとん、と見返されて、スカサハは続けようとした言葉を飲み込んだ。今のはあまりにも配慮に欠ける言い方になってはいなかったか。
 だが一方でこれは事実だ。何もかも一人で引き受けずとも他にやり方があるだろうに、今のラナは何かにかたくなになっている。それが目の前の主君の役に立ちたい一心からくるのだろうことは容易に想像がついて、スカサハは苦い思いを噛みしめた。
 言葉をなくしたスカサハを見つめていた夜空の色の瞳はやがて柔らかい笑みを宿した。
「……気を使ってくれてありがとう、スカサハ。でも、私が未熟なのは事実だからね……あまりラナを責めないであげてくれよ」
「別に、責めてるわけじゃ……」
「ガネーシャ城の向こうには村がある。そこで薬草を補給しよう。ラナの負担を減らすことも考えてあげないとね。そういうわけだから、スカサハも早くテントに戻ったほうがいいよ」
「……はい、わかりました」
 分をわきまえる、という言葉はこんな時に使うのだろうか。頭を下げながら、スカサハはぼんやりと考えた。
 自分はセリスに意見できる立場ではない。作戦はオイフェが考えるし、人事などさらに管轄外だ。結局自分にできるのは前線で剣を振り回すことだけというわけだ。なんと無力なことか。
(これじゃあ……かなうわけない、よな)
 自嘲気味に、セリスの背を見送る。
 誰よりも―――ひょっとすると兄のレスターよりも、いつも近くにいたから。だから、視線の先に誰がいるのかにも気づいてしまった。それでもいいと、割り切ったはずだった。だって、自分には彼女の隣に立つ資格などないのだから。
 脳裏に甦る苦い思い出に唇をかむ。
 もう10年になる。自分が8歳、ラナは6歳だった。
 その頃初めてオイフェに馬の乗り方を教えてもらった。ラナは今よりももっと体が弱くて、外に出ることもできない状態だった。そんな彼女が、珍しくわがままを言ったのだ。
「私も馬に乗りたい」と。
 小さな願いを何とかかなえてやりたくて、こっそり連れ出した。馬の後ろに乗せて、山に向かった。山の頂に一面に群生する山百合の花畑を見せてやりたくて。
 ラナは無邪気に喜んだ。自分も有頂天だった。その帰り道、一瞬手綱を取り損ねたのが命取りだった。
 何かに驚いたのか。高い嘶きとともに後ろ足を跳ね上げた馬の背から、自分たちはいとも簡単に放り出されてしまった。耳に残る悲鳴。
 非力な自分では足の骨を折ってしまったラナを運んでやることもできなくて。そのうちに日も暮れて、痛みと心細さに泣き出した彼女をなだめるのがやっとだった。
 自分たちを見つけてくれたのはセリスだった。そのセリスはラナをなだめていとも簡単に馬上に抱き上げた。たった一つの年齢の差をこれほど悔しく思ったことは後にも先にもこれきりだ。
 そのときの怪我が元で、ラナは今でも足を少し引きずっている。身体の方は少し丈夫になったが、それもここ数年のことだ。そんな彼女が戦場についていくと言い出したときは心臓が止まるかと思うほど驚いた。
 いつもベッドの上で微笑んでいた白い小さな少女。その微笑をただ一人の相手に向ける日は、もうすぐそこまできているのかもしれない。
 その時自分はどうするのか。とても想像がつかない。
 清冽な光を注ぎつづける月を見上げて、スカサハはじっと目を閉じた。