[はじめに]

 今の世相は余りに慌ただしく、とかく目前の利益や新しさを追うばかりで、
文化の先達が残された、素晴らしい心の遺産を見失っていはしないでしょうか。
中でも、日本舞踊はその華と申せます。
私たちの先達が、世の移り変わりの苦難に堪え、厳しい修業と創意工夫を積み重ねて守ってきたのです。
私たちも先達に負けぬよう、日本舞踊の技と心をしっかり身につけ、次代の人たちへ伝えていきましょう。
 私たちは、先達が残された素晴らしい心の遺産を、受け継いで参りましょう。
今、縁合って日本舞踊と巡り合った皆様と、ともに修業を積み、豊かな人生を過ごしたいと存じます。

 昭和六十二年吉日                         隠居

[概説日本舞踊史]

 温古知新の言葉通り、日本舞踊の歴史を紐解くことも、日本舞踊を学ぶ上で一端の助けにもなると思い、
簡略ながらその軌跡を述べてみましょう。
 いま日本舞踊と呼ばれているのは、歌舞伎芝居に育った歌舞伎舞踊・花柳界(かりゅうかい・料亭・お茶屋・遊廓)に生まれた
花柳舞踊(かりゅうぶよう)・社寺へ奉納のために発達した祭礼舞踊(さいれいぶよう)が
混じり合って受け継がれ発展してきたものなのです。
また、日本舞踊は、三つの要素(舞・踊り・科(しぐさ))から成り立っています。
この三つの要素(舞・踊り・科(しぐさ))にはそれぞれ独自の歴史があります。
その歴史を辿ってみましょう。

[舞]
舞は、本来静かに袖を持って歩き回るという意味を持ち、古代から神聖なものとして、大切に扱われてきました。
今日でも「巫子舞(みこまい)」として残っているように、祭政一致の原始社会では、欠かすことの出来ない神との交歓の儀式として、
「舞」が大切にされてきたのです。
 豊作祈願の予祝祭り、田植え・刈り入れ、それぞれに田舞(たまい)・久米舞(くめまい)・倭舞(やまとまい)などと呼ばれる
古代舞(こだいまい)があり、古代人の生活と神事としての舞が、密接なつながりを持っていたことがうかがえます。

平安時代には中国から「舞楽(ぶがく)」(当時の中国では、宴会の席に余興として歌われ舞われていたもの)が輸入され、
その影響を受けた古代舞は、「延年の舞(えんねんのまい)」・遊君(文学・芸道に長じた、あそび女)の「白拍子舞(しらびょうしまい)」・
武将が好んで舞った「幸若舞(こうわかまい)」・「曲舞(くせまい)」などを生みだし、猿楽・能楽へと発展させていくのです。
しかし、舞としての独自の発達は、近代の「地唄舞(じうたまい)」をのぞいて、中世の能楽によって終わったと考えられます。

[踊]
 踊りは躍動に通じる言葉です。
字義には桶の上で騒ぐ、足に羽があるように飛び上がるという意味があります。
 有名な「天鈿女命(あまのうずめのみこと)」が天の岩戸の前で踊ったというのも、このことです。
八百万の神々が囃し騒いだころより、「踊り」は舞と違って庶民のものでした。
「田遊び(たあそび)」とか、「東遊び(あずまあそび)」とか、遊びと呼ばれて、遥か古代から親しまれてきました。
ただ庶民のものであったために、歴史の表舞台にはなかなか現れてきませんでした。
 しかし、「舞」の発達が止まる四百年前頃、「踊り」は華やかに歴史の表舞台に登場してきます。
室町幕府によって栄えた京の町衆は、「風流(ふりゅう)」という踊り(女は男装し男は女装するという、
常と異なる風(ふう)の狂いの様というもの)を、盛んに催すようになります。
踊りは人々を集わせ、熱狂させるものでした。
 盆踊りや民俗踊りにみられるように、神仏に奉納される「舞」と違って、人々が楽しむために踊ったのです。

その踊りもわずか百年の間に「風流踊(ふりゅう)」から「カブキ踊り」へと発展してゆくのです。
つまり自ら踊って楽しむ踊りから、見て愉しむ踊りへと変わっていったのです。
 「カブキ踊り」は「歌舞伎舞踊」とは違い、「傾き踊り」と書き、常と異なる格好で常識外れに躍狂っているものでした。
 当時の代表的な舞踊家に歌舞伎の祖といわれる「阿国(おくに)」がいたと言われています。
 今日見られるような「歌舞伎舞踊」の登場までには、女歌舞妓(おんなかぶき)の禁止、若衆歌舞妓(わかしゅかぶき)の禁止、
野郎歌舞伎(やろうかぶき)の始まりという事件を待たなければなりません。
 妓の字でも分かるように、野郎歌舞伎以前は公然たる色欲の対象として『歌舞妓・傾き』が在ったのです。

 幕府は、本来歌舞妓のもつ二悪所(あくしょ)要素[遊廓・芝居]を切り離し、必要悪として庶民の娯楽のために、
『吉原』と『野郎歌舞伎』を残したのです。
 野郎歌舞伎はリアル色恋を捨て、物真似狂言尽(ものまね、きょうげんつくし)を専らとすることで幕府より許可を得ました。
これによって初めて「舞・踊り・物真似(科(しぐさ))」が一体となって、『所作事(しょさごと)』、
つまり日本舞踊の誕生する元ができたのです。

[科]
三要素の最後、科(しぐさ)は物真似のことです。
舞楽(雅楽)以前に輸入された伎楽(ぎがく)・散楽(さんがく)という中国(呉)芸能の中に笑いを催す物真似がありました。
 その技芸が田楽(でんがく)へそして猿楽(さるがく)(後の能楽)へ受け継がれ、狂言となり、野郎歌舞伎の物真似狂言尽となっていくのです。

 元禄期(1690年頃)に登場した歌舞伎舞踊は、女方が専門に踊るもので、「怨霊事(おんりょうごと)」を中心としていました。
それはまた、「嫉妬事(しっとごと)」とも結び付き、お芝居(狂言)の中で生霊死霊となって出現し、唄や浄瑠璃にのって恨みを踊り、
早替わりや宙返りなど「ケレン」(軽技)を見せるものでした。
 このような内容のものは後の「浅間物」「道成寺物」に受け継がれ、今日でも「鷺娘」「汐汲」などにその名残を見ることが出来ます。

 享保(1716年頃)から宝暦(1751年頃)にかけて、女方の踊りは円熟し、名高い「京鹿子娘道成寺」などが生み出されます。
しかし、一方では女方が踊ることに行き詰まりを生じ、立方(主人公)が踊る工夫を始めます。

 これが宝暦以降天明(1781年頃)にかけて盛んとなった舞踊劇につながります。
従来の狂言の中の一場面という軽いものではなく、踊りそのものに劇的内容が盛込まれており、
「関の扉」「戻り駕」「鞍馬獅子」など傑作が残されています。

しかし舞踊劇もまた衰へ、文化(1804年頃)文政(1818年頃)から幕末(1865年頃)にかけて「変化物」とよばれる
小品舞踊を組み合わせた変化舞踊が、盛んになります。
 一人の踊り手が七変化や十二変化といった、二十分前後の小舞踊を七つも十二も早替わりしつつ踊るもので、
記録によれば凡そ二時間半にも及ぶものがあります。
 市井風俗を踊りによって表現した変化舞踊は、明るい溌剌とした律動的な舞踊でした。
今日単独で上演される「越後獅子」「藤娘」などは、変化舞踊の七変化の中の一曲です。

 明治大正時代は、歌舞伎舞踊の混乱期でした。
舞踊の高尚化と称して、能楽を模倣した「松羽目物」といわれる作品群が誕生しました。
「勧進帳」「棒しばり」「釣り女」「船弁慶」等多数の名曲が今に伝わっています。

 一方明治に入って、欧米からバレエなど異質の舞踊文化が流入し、日本舞踊界に大きな衝撃を与えました。
その結果『坪内博士』をはじめとする学識者が中心となって舞踊本来の自由な姿にもどすため「新舞踊運動」が起こされました。
 この運動に共鳴し当時の代表的舞踊家「初代藤蔭静枝・二世市川猿之助・七世尾上栄三郎・五世中村福助・二世花柳壽輔
五条珠美・初代花柳寿美・初代西崎緑・水木歌紅・林きむ子・藤間春江」によって実践試行されました。
 これより日本舞踊は、詩や哲学的な思想や芸術的な思想をそのまま題材とし、伝統的な衣装や身振りに囚われない、
現代創作舞踊を含むようになったのです。


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